尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「あいつと私」という映画-芦川いづみの映画を見る⑤

2015年09月27日 00時28分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
あいつと私」(1961)は2回見ている。今回はいいかなとも思ったが、せっかくだから時間を見つけて見直したら詳しく書きたくなった。「あいつと私」は石坂洋次郎(1900~1986)の原作である。石坂作品は、「若い人」「青い山脈」「陽のあたる坂道」など何度も映画化されてきた。若い世代の恋愛や性を真正面から取り上げ、それまで日本では隠されがちだったテーマを明るく陽性に描いて、非常に人気があった。大量に文庫に入っていたが、いつの間にか一冊もない。戦後の作品は「戦後民主主義」の啓蒙的な傾向が強く、時代が作家を追い越してしまったのだろう。

 「あいつと私」は、有名な美容家を母に持つ裕福な若者、黒川三郎石原裕次郎)の生活を描いている。忙しい母(轟夕起子)は子どもにはお金を与えて育ててきた。思春期になると「性欲処理係」の女性まで与えた。この母は家に愛人を連れ込むなど、普通の感覚では「異常な家庭」である。(時々、夫(宮口精二)がヒステリーを起こして家出を試みるのが笑える。ごひいきの宮口精二が情けない役柄を楽しんで演じている。)そんな家庭だが、息子の裕次郎は「なぜか母が嫌いになれない」。この点が映画のポイントで、観客がここを納得できないと映画に入り込めない。確かにエネルギッシュな轟夕起子の姿は、素晴らしいコメディエンヌぶりを発揮して、戦前からの女優としての確かな力量を満喫できる。
 
 この美容家の生き方は俗人には理解しがたいレベルだが、それなのに魅力的なのはなぜか。今は細かく書かないが、学園ドラマの定番のようにして、黒川を取り巻く学友グループが出来、さまざまなエピソードを経て、同級生の浅田けい子芦川いづみ)と親しくなっていく。浅田家は田園調布にある上層の中産階級である。夫が働き、妻が主婦をしている。(ちなみに下の妹は吉永小百合、その下はまだ小さな酒井和歌子が出ている。)よりによってクラスメートが1960年6月15日(東大生樺美智子が国会デモで死んだ日)に結婚式を行い(東京会館)、その流れで裕次郎と小沢昭一と芦川いづみがデモに行く。(その女子大生にほのかな思いを寄せていた小沢昭一は、酔っ払いながら「おれだって、今回の政府のやり方には怒っているんだ。アンポ、反対!」と叫ぶ。)

 芦川は家に電話して、母に「今日はデモに行く」と宣告し、ダメですと絶叫する母親を振り切る。もっともデモ隊には入らない。その後でもう一回電話して、「お母さんが私にいつもくっ付いていて重いの。もっと私から離れて」と叫ぶ。母は「あなたは難産で…」などと昔話を始めるが、娘は「初めてのお産で産道が小さかっただけよ」と恩着せがましい母の言葉に反発する。一家はその日テレビでデモの様子を見続ける。吉永小百合の妹は姉を応援している。(「60年安保」の翌年に作られたこの映画では、安保反対デモが観客にとって共感の対象であるということが、自明の前提になっている。)

 黒川家と浅田家の母親のあり方は正反対と言ってよい。もちろん、けい子の母は娘を心配してデモを止めている。それはケガや政治的な心配というよりも、デモでは「何かまがまがしいこと」が起こり、娘に「傷がつく」ことを怖れるという感じだ。それが娘には「重い」。貧困や差別などと無縁な中産階級の家庭でも、何か精神的な渇きを覚えるような時代になったのである。それまでの石坂作品のように、「家族みなで話し合う」などといった方法では、もうこの焦燥感は解消できない。家庭に囲い込まれた「主婦」という生き方を象徴する母像と反対に、黒川家の母は「自立した女性」である。「(性的に)過激な」家風ではあるものの、息子が母を嫌いにならず、けい子が魅力を感じ、観客も納得してしまうのは、この「自立した女性」の魅力ゆえだろう。「あいつと私」は、性や家族をテーマとする以上に、「女の自立」をテーマにしている

 もっとも、けい子の母の心配はあながち過保護とも言いきれない。デモの後に、結婚式を欠席してデモに行っていた同級生(吉行和子)の部屋を訪ねると、同級生と同居している友人の悲劇を目撃する。彼女は途中ではぐれた後、男の「同志」二人に「連れ込み宿」でレイプされたのである。安保反対運動に加わる「政治的」学生でも、男にはそういう「獣的」な側面があるとされる。(左翼学生運動の中で、男女差別や家父長制意識、暴力的な性関係などが横行していたことは多くの証言がある。「革命のために」女性革命家は男性リーダーに「奉仕」するものだという意識さえなかったとは言えない。)

 そのことはもう一つのシーンでも描かれている。同級生の結婚やデモなどで親しくなって、仲間で夏の大ドライブ旅行を敢行する。黒川=裕次郎は車を持っているから、そんなことができる。裕次郎、芦川いづみの他、小沢昭一、伊藤孝雄、中原早苗、高田敏子という豪華メンバーである。東北ドライブの途中、山の中で道路工事の若い工事人夫多数にからまれる事件が起きる。山奥で女子大生を見て興奮し、学生という「身分」に対する反発が噴き出したのだ。

 最後に軽井沢の黒川家の別荘に着くと、母と愛人が差し入れにきて、そこに裕次郎をよく知っていると豪語する渡辺美佐子もいる。この女性が何故か気になり(気になるのは、この時点でけい子が三郎に好意を持ち始めているという意味だ)、けい子は三郎を問い詰める。その結果、渡辺美佐子は「母が与えた性的な玩具」だったという衝撃的な黒川家の秘密が明かされる。別荘を飛び出したけい子は、追ってきた三郎に抱きとめられ、台風の雨の中でキスする。これはこの映画の一つのクライマックスだが、裕次郎と芦川いづみという主演者のイメージもあいまって、非常に清潔なラブシーンになっている。

 まあ大学生という設定ではあっても、裕次郎(1934~1987)も芦川いづみ(1935~)も25歳を超えているんだから、ちょっとのことでおたおたせずに、実際の学生よりも大人びているのも当然である。(もっとも1929年生まれの小沢昭一はいくら何でも大学生はきつい。)こうしたエピソードを経ても、二人の関係が切れずに続くのは、黒川の母がけい子を気に入っていることが大きいと思う。けい子は派手ではないが、落ち着いたファッションで、感情におぼれず自分で考えるタイプである。(芦川いづみが演じるのにピッタリだが、そのイメージで服装を決めているんだから、当然でもある。)

 黒川の母の誕生パーティに、けい子も招待される。そこで、三郎の出生の秘密やデモの時にレイプされた学生(金森)のその後を知る。大学をやめた金森を三郎が母に紹介し、今は美容師を目指して頑張っている。そのことをけい子は全く知らされずにいて、たまたま金森が帳簿を持ってきて初めて知る。何で知らせてくれなかったと問い詰め、「あなたのすることは全部先に知っておきたいの」と言ってしまって、これが「愛の言葉」だと相互に理解し合う。

 「あいつと私」という映画は、最初に見た時から好きで、好感を持った。60年代初めの映画では、中村登監督「古都」(岩下志麻主演)や吉田喜重監督「秋津温泉」(岡田茉莉子主演)なども好きで何度も見ているけど、女優が清楚で清潔に描かれているのが好きな理由かもしれない。この「あいつと私」は、特別な家庭に育った裕次郎演じる青年を中心に、「女性の生き方」を考察した映画である。まさに、けい子から見た「あいつ」(黒川三郎)の物語である。60年代初頭の風俗や風景も興味深い。

 監督の中平康も巧みに物語を進めている。娯楽映画としての確かな手腕を楽しむことができる。石坂洋次郎原作映画はこの語も続々と作られた。「あいつと私」も1976年に、三浦友和、壇ふみでリメイクされた。「青い山脈」も60年以後に3回も映画化された。しかし、もはや青春スターの定番という位置づけでしかなく、ほとんど話題にもならなかった。時代と合わなくなってしまったのだ。 
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