岩槻(いわつき)を散歩した。2005年に合併して、埼玉県さいたま市岩槻区になっている。しかし、江戸時代を通して岩槻藩があり、今も城下町の面影が色濃い町だった。また昔から「人形作り」で知られ、全国的に「人形のまち」として知られている。町のあちこちに、今も多数の人形製作会社があって看板を上げている。2020年2月には「岩槻人形博物館」が開館したのだが、すぐにコロナで休館になってしまった。その時以来、2年半ぶりにようやく散歩に出掛けられた。
鉄道利用の場合、東武鉄道野田線(アーバンパークライン)しかない。大宮と春日部の間である。春日部から快速で5分ほどで着いたので驚いた。史跡があるのは東口の方である。改札を出た真ん前に観光案内所があって、ガイドマップが置いてある。まずこれを確保するべき。最初にどこへ行こうかなと思って、駅から東方向の城跡公園は遠いので、そっちに行った後では南の郷土資料館へ行く気が失せそうに感じた。そこで郷土資料館の方へ行く時に、ちょっと裏道を歩いていたら大きなお寺が見えた。芳林寺というが、何と戦国時代の太田氏ゆかりの寺で太田道灌の銅像があるじゃないか。案内やガイドに全然出てないんですけど。
(太田道灌像)
(芳林寺)
何でも戦国時代創建の寺で、太田道灌の孫に当たる太田資高が母の供養のため、名前を芳林寺と改め現在地に移転したという。そのゆかりで太田家の墓所がある。また岩槻藩初代の高力(こうりき)家2代目高力正長の墓所もある。関ヶ原以前に死去した人である。なお最初の埼玉県庁が一時ここに置かれたという碑もあった。ウェブ情報では確認出来ないのだが、とにかく碑はあった。太田道灌の銅像はあちこちにあるようだが、駅に近いし、ここも知られて良いところだ。
(太田家墓所)
(高力墓所)
(最初の県庁碑)
(芳林寺由来)
芳林寺から少し歩いて大きな通り(市宿通り、日光御成道)に出て、少し南へ歩くと「岩槻郷土資料館」がある。ここは1930年建造の岩槻警察署で、国の登録文化財。無料施設だから入ってもいいし、まあ外観だけ写真を撮れば良いとも言えるかな。この通りには、所々古そうなお店がある。道は現代的で車が引っ切りなしなので、宿場町というほどの風情はないけれど。(岩槻は中山道と日光街道を結ぶ日光御成道の宿場で、将軍一行が宿泊する宿場だった。)
(郷土資料館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/97/f40b65bafdb30d987d9e6f519a8a8cf7_s.jpg)
市宿通りを北へ向かい、駅前から直進してきた大通りを渡る。少し裏へ入って裏小路へ入ると、大分昔の城下町っぽくなる。道の名も広小路、江戸小路、天神小路など「小路」という名前になっている。そんな中に「岩槻藩遷喬(せんきょう)館」がある。岩槻藩に使えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が1799年に開いた私塾だが、後に藩校となった。藩校になったのは文化2年から8年の間(1805~11年)頃だという。明治以後住宅になって、一部改築されたらしいが、建物の基本は残っていた。1956年に岩槻市に寄贈され、修復が行われて公開された。中へ上がれて、修復の様子が写真展示されている。無料。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/45/b9/bc7bb462dd99df9895f1cd253616cc25_s.jpg)
儒者児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」と言われたという「時の鐘」が次の目標。人形博物館は帰りに寄ることにして、遷喬館から裏小路を歩いて行く。1671年に最初に置かれて、その後1720年に改鋳された。鐘はそれがずっと使われているようで、今も朝と正午に鳴らしているという。鐘楼は江戸時代後期(天保年間)に焼失し、その後再建された。中は見られない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/57/b8/8e4913fbf0b34a9dad5ae4938e31494d_s.jpg)
そこから歩いて行くと実はもう昔の城の中で、今は案内板しか残っていない。下の1枚目は大手門跡とある。網の向こうは何だろうと思うと、大回りしたあげく霊友会の敷地だった。近くの信号を右折すると「岩槻城跡公園」、左折すると「久伊豆神社」。「クイズ神社」と読んで人気があるが今回はパス。城にはもともと石垣や天守閣はなく、関東には多い土塁の城。
(大手門跡)
(堀跡)![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/73/ec/b710a030321a6603d611834e2019ed99_s.jpg)
今も残っているのは、黒門(下1枚目)と裏門(下2枚目)。その間に「人形塚」が立っている。岩槻城は江戸近くだから、比較的小さい譜代大名の居城だった。転封が多く、歴代で9家もある。中では3代阿部家が11万5千石だった時が最高。1756年に大岡忠光が城主となってからは、幕末まで大岡家が治めた。大岡忠光は9代将軍家重に仕えて、言語不明瞭だった家重の言葉をただ一人聞き取れたという人物である。その「功績」で旗本から大名に出世したわけである。しかし、幕末まで安定して支配出来たんだから、まあ悪くはなかったんだろう。公園はかなり広いが、今は市民の憩いの場となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/4f/08be7a3fb5e23bd98712828df086852b_s.jpg)
一番奥に池があり、途中で何回も曲がっている赤い橋が架かっていた。そこから少し行くと、東武鉄道の昔の特急(ロマンスカーと呼んでいた)「きぬ」が保存されていた。休日は中を見られると書いてあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2f/e7/6238e52fc1f0b5d0371412dcf84fa2a1_s.jpg)
そこから戻って、人形博物館へ。人形に特に関心があるわけではないから、作り方の展示などを通り過ぎるように見てオシマイ。疲れてきたから、修学旅行の生徒みたいである。岩槻はひな人形、五月人形などを今も作っている会社がいっぱいあった。いちいち写真は撮らなかったけど、その風情が面白いなと思う。でも個人で買うという感じの店ではない。
(人形博物館)
それから駅へ戻る途中で、駅近くの大工町通りに入り、愛宕神社を見る。神社が目的ではなく、そこがお城の土塁の上にあるんだという。その様子が残されているのが珍しいんだそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/36/70/658101260f801bad777c0b6268ebbd66_s.jpg)
その他、町のあちこちに登録文化財があるんだけど、まあ全部載せてもという感じ。藩校の近くに「鈴木酒造」というのがあって、資料館があると出ていた。帰りに寄ろうかと思ったが、行きそびれた。他にも人形を見せるところもあるし、本当は春に来た方がいいのではないかと思う。案外コンパクトにまとまっていて、半日ほどの歴史散歩には向いた町だった。
鉄道利用の場合、東武鉄道野田線(アーバンパークライン)しかない。大宮と春日部の間である。春日部から快速で5分ほどで着いたので驚いた。史跡があるのは東口の方である。改札を出た真ん前に観光案内所があって、ガイドマップが置いてある。まずこれを確保するべき。最初にどこへ行こうかなと思って、駅から東方向の城跡公園は遠いので、そっちに行った後では南の郷土資料館へ行く気が失せそうに感じた。そこで郷土資料館の方へ行く時に、ちょっと裏道を歩いていたら大きなお寺が見えた。芳林寺というが、何と戦国時代の太田氏ゆかりの寺で太田道灌の銅像があるじゃないか。案内やガイドに全然出てないんですけど。
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何でも戦国時代創建の寺で、太田道灌の孫に当たる太田資高が母の供養のため、名前を芳林寺と改め現在地に移転したという。そのゆかりで太田家の墓所がある。また岩槻藩初代の高力(こうりき)家2代目高力正長の墓所もある。関ヶ原以前に死去した人である。なお最初の埼玉県庁が一時ここに置かれたという碑もあった。ウェブ情報では確認出来ないのだが、とにかく碑はあった。太田道灌の銅像はあちこちにあるようだが、駅に近いし、ここも知られて良いところだ。
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芳林寺から少し歩いて大きな通り(市宿通り、日光御成道)に出て、少し南へ歩くと「岩槻郷土資料館」がある。ここは1930年建造の岩槻警察署で、国の登録文化財。無料施設だから入ってもいいし、まあ外観だけ写真を撮れば良いとも言えるかな。この通りには、所々古そうなお店がある。道は現代的で車が引っ切りなしなので、宿場町というほどの風情はないけれど。(岩槻は中山道と日光街道を結ぶ日光御成道の宿場で、将軍一行が宿泊する宿場だった。)
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市宿通りを北へ向かい、駅前から直進してきた大通りを渡る。少し裏へ入って裏小路へ入ると、大分昔の城下町っぽくなる。道の名も広小路、江戸小路、天神小路など「小路」という名前になっている。そんな中に「岩槻藩遷喬(せんきょう)館」がある。岩槻藩に使えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が1799年に開いた私塾だが、後に藩校となった。藩校になったのは文化2年から8年の間(1805~11年)頃だという。明治以後住宅になって、一部改築されたらしいが、建物の基本は残っていた。1956年に岩槻市に寄贈され、修復が行われて公開された。中へ上がれて、修復の様子が写真展示されている。無料。
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儒者児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」と言われたという「時の鐘」が次の目標。人形博物館は帰りに寄ることにして、遷喬館から裏小路を歩いて行く。1671年に最初に置かれて、その後1720年に改鋳された。鐘はそれがずっと使われているようで、今も朝と正午に鳴らしているという。鐘楼は江戸時代後期(天保年間)に焼失し、その後再建された。中は見られない。
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そこから歩いて行くと実はもう昔の城の中で、今は案内板しか残っていない。下の1枚目は大手門跡とある。網の向こうは何だろうと思うと、大回りしたあげく霊友会の敷地だった。近くの信号を右折すると「岩槻城跡公園」、左折すると「久伊豆神社」。「クイズ神社」と読んで人気があるが今回はパス。城にはもともと石垣や天守閣はなく、関東には多い土塁の城。
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今も残っているのは、黒門(下1枚目)と裏門(下2枚目)。その間に「人形塚」が立っている。岩槻城は江戸近くだから、比較的小さい譜代大名の居城だった。転封が多く、歴代で9家もある。中では3代阿部家が11万5千石だった時が最高。1756年に大岡忠光が城主となってからは、幕末まで大岡家が治めた。大岡忠光は9代将軍家重に仕えて、言語不明瞭だった家重の言葉をただ一人聞き取れたという人物である。その「功績」で旗本から大名に出世したわけである。しかし、幕末まで安定して支配出来たんだから、まあ悪くはなかったんだろう。公園はかなり広いが、今は市民の憩いの場となっている。
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一番奥に池があり、途中で何回も曲がっている赤い橋が架かっていた。そこから少し行くと、東武鉄道の昔の特急(ロマンスカーと呼んでいた)「きぬ」が保存されていた。休日は中を見られると書いてあった。
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そこから戻って、人形博物館へ。人形に特に関心があるわけではないから、作り方の展示などを通り過ぎるように見てオシマイ。疲れてきたから、修学旅行の生徒みたいである。岩槻はひな人形、五月人形などを今も作っている会社がいっぱいあった。いちいち写真は撮らなかったけど、その風情が面白いなと思う。でも個人で買うという感じの店ではない。
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それから駅へ戻る途中で、駅近くの大工町通りに入り、愛宕神社を見る。神社が目的ではなく、そこがお城の土塁の上にあるんだという。その様子が残されているのが珍しいんだそうだ。
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その他、町のあちこちに登録文化財があるんだけど、まあ全部載せてもという感じ。藩校の近くに「鈴木酒造」というのがあって、資料館があると出ていた。帰りに寄ろうかと思ったが、行きそびれた。他にも人形を見せるところもあるし、本当は春に来た方がいいのではないかと思う。案外コンパクトにまとまっていて、半日ほどの歴史散歩には向いた町だった。
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