尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

角川新書「後期日中戦争」を読むー労作だが疑問もあり

2021年05月03日 23時28分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 角川新書から4月に出たばかりの広中一成後期日中戦争」をさっそく読んでみた。「太平洋戦争下の中国戦線」と副題が付いている。著者を知らないが、1978年生まれの「気鋭の中国史研究者」(帯にそう書いてある)である。愛知県生まれで、愛知大学大学院を出て、愛知大学非常勤講師となっている。全部愛知県で、本書も愛知県の名古屋第三師団を追っている。第三師団はずっと中国戦線にいたのだそうだ。そこに新味がある労作だが、本書には疑問もある。

 「後期日中戦争」というのは著者の造語で、1941年12月の英米との開戦以後の中国戦線を指している。当時の日本政府は「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定し、日中戦争はアジア太平洋戦争全体の一戦線とされた。英米首脳(チャーチルとルーズヴェルト)は何度も会談して、ヨーロッパ戦線でドイツに勝利することを優先させた。中国では国民党も共産党も、武力では日本軍に及ばないため「持久戦」を基本方針とした。そのこともあって、対米戦争で追い詰められていく中で、中国戦線がどうなっていたのかの究明は遅れていた。

 しかし、その中で米英との関わりでいくつかの作戦が企図され、そこでは日本軍は苦戦し(時には敗北し)、国際法に違反する細菌兵器化学兵器毒ガス)を使用した。それは「敵」だけでなく「味方」にも被害を与えた恐るべき兵器だった。香港攻略の援護として始められた「第二次長沙作戦」では中国軍の「天炉戦法」にはまり、「反転」という名の敗走を余儀なくされた。その時の最高責任者は阿南惟幾(あなみ・これちか)だった。敗戦時の陸相として有名だが、本質は精神至上主義だった。中央の有力者だった阿南のことは誰も批判できず、その後も出世してゆくのである。
(阿南惟幾)
 さらに「細菌戦の戦場」だった「浙贛(せっかん)作戦」、「暴虐の戦場」だった「江南殲滅作戦と廠窖(しょうこう)事件」、「毒ガス戦の前線ー常徳殲滅作戦」、「補給なき泥沼の戦いー一号作戦(大陸打通作戦)」が取り上げられる。これらは未だ知られること少なく、特に3万人が虐殺されたと言われているという廠窖(しょうこう)事件は僕も詳しく知らなかった。これらを作戦に参加した愛知出身兵士の回想、時にはインタビューを交えて叙述する。

 それらの作戦や残虐行為を詳しく書くのは止めておく。ここまでは貴重な労作と評価出来るし、新書だから手に取りやすい。広く日本の戦争を知るために役立つが、ただ疑問がある。それは笠原十九司日中戦争全史」上下(2017,高文研)が参考文献にも挙ってないことだ。中で引用文献として名前が書かれているから、参考文献に載せないのはおかしいだろう。この本は出たときに読んで、2回にわたって記事を書いている。「日中戦争と海軍の責任-「日中戦争全史」を読む①」「日中戦争の本質-「日中戦争全史」を読む②」である。

 広中氏は「はじめに」で「15年戦争史観」を批判し、黒羽清隆氏や古屋哲夫氏のずいぶん昔の本を批判している。それらは現代史に関心が深い人なら周知の本で、確かに日中戦争研究と銘打ちながら日米開戦前で終わっているような面はあった。しかし、それに対して笠原氏の大著は「全史」とうたうだけあって、きちんと1942年以後の大陸戦線にも触れられている。下巻の3割近くがその期間の叙述に当てられている。「21ヶ条要求」から説き起こされる大著だから、全体に占める分量は少ないが、この本の評価を書かずに前の研究を批判するのはおかしいだろう。
 
 笠原著を読めば、浙贛(せっかん)作戦や大陸打通作戦の意味合いは理解出来る。さらに華北の状況、治安戦としての「三光作戦」、雲南戦線、「満州国」の状態、共産党系の八路軍・新四軍の状況など、広中著に書かれていない大状況も大体理解出来る。新書だから全部を書くわけにはいかない。名古屋をベースに研究する広中氏が地元の部隊に特化して叙述するのは、新味があるし役だつ。しかし、読者には笠原著を続けて読むように勧めるべきだ。
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