ホウ・シャオシェンの映画3回目。残りをまとめて書いてホウ・シャオシェン映画を考えたい。1987年の「恋恋風塵」と「ナイルの娘」は同じ年だけどスタイルに大きな違いがある。それが何によるのか僕は知らなかったが、今回のパンフを読んで判った。半官半民的な中央電影で好きな映画を作れていた時代が、トップの交代によって終わってしまったのだ。ホウ・シャオシェンは「恋恋風塵」、エドワード・ヤンは「恐怖分子」(1986)を最後に会社と袂を分かった。
それ以後は資金集めのために、話題作り的なキャスティングもするようになった。その最初がレコード会社が出資してアイドル歌手ヤン・リンが出演した「ナイルの娘」だったのである。我々はそんなことは知らずに見て、ジャンルが全く違うことに驚いた。この映画は台北に住む一家が暗黒社会と関わって破滅していくフィルム・ノワール的な作品である。「ナイルの娘」とは、主人公がいつも読んでる漫画の名前。実はそれは「王家の紋章」の台湾海賊版だという。主人公はケンタッキーフライドチキンでバイトしながら夜間高校に通っているが、兄の関わるケンカや博奕で運命が狂う。成功した映画とは言えないが、80年代の発展した台北の闇に向かい合う。
(「ナイルの娘」のヤン・リン)
その後ホウ・シャオシェンは、「悲情城市」(1889)、「戯夢人生」(1993)、「好男好女」(1995)と台湾現代史を題材にした映画を作る。それらは成功しているが、現代台湾を舞台にした「憂鬱な楽園」(1996)や「ミレニアム・マンボ」(2001)などは失敗作だろう。その間に上海で作った「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)や日本で作った「珈琲時光」(2003)もまあそれなり。ここらで僕は見るのをやめてしまった。フィルモグラフィを見ると、「百年恋歌」(2003)とフランスで作った「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」(2007)を見逃している。後者はアルベール・ラモリス「赤い風船」へのオマージュでジュリエット・ビノシュが主演している。
(「憂鬱な楽園」)
「憂鬱な楽園」はガオ・ジェ(高捷)、リン・チャン(林強)、伊能静のコンビで、現代台湾を舞台にしたフィルム・ノワール。主演コンビは前作「好男好女」から続いている。阿里山へ向かう道路を行く2台のバイクを長回しにしたシーンで有名になった。パンフにはラストとあるが、実は途中のシーンだった。ラストは自動車の長いドライブである。ホウ・シャオシェンのスタイルは変幻極まりないが、いつも独自の世界を形成している。しかし、これも成功はしていないだろう。スタイルが独自すぎて、物語を壊すまで長回しにしてしまうところは、相米慎二やテオ・アンゲロプロスに似ている。
台湾ニューシネマを代表したのは、同じ1947年生まれのホウ・シャオシェンとエドワード・ヤン(楊徳昌)だった。二人は当初は盟友関係にあり、「冬冬の夏休み」には娘婿役でエドワード・ヤンが出演した。またエドワード・ヤンの2作目の長編「台北ストーリー」ではホウ・シャオシェンが製作、脚本、出演している。エドワード・ヤンは台北を中心に現代人の孤独を鋭く描く。ホウ・シャオシェンが現代を舞台にするとき、あえて独自のスタイルを追求するのはエドワード・ヤンを意識していると思う。成功していなくても、スタイルへのこだわりがホウ・シャオシェン映画なのである。オリヴィエ・アサイヤスによれば、二人の関係は20世紀末には少し微妙になっていた。そして21世紀になると長く闘病生活を送ったエドワード・ヤンは、2007年に59歳で亡くなった。
(「フラワーズ・オブ・シャンハイ」)
「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)は張愛玲原作の上海の妓楼を舞台にした映画で、今回デジタル版が上映された。夜を映しだすカラー映像は美しいが、男と娼妓たちの駆け引きのみでは苦しい。松竹が出資して、羽田美智子が出ている。主演はトニー・レオンで、彼は香港の映画人だから上海語は苦手である。そこで広東商人という設定にしてして、羽田美智子は吹き替え。暗い室内を長回しで撮る映像は興味深いが、だから何だという感じ。しかし、ホウ・シャオシェンが本格的に大陸で映画を作った意味は大きい。
(「黒衣の刺客」)
今のところ最後の「黒衣の刺客」(2015)はカンヌ映画祭監督賞、台湾の金馬奨で初の作品賞など高く評価された。キャストもスー・チー、チャン・チェンに妻夫木聡、忽那汐里と国際的。しかし、内容は唐代を舞台にした武侠映画なのには驚いた。確かに武侠映画として面白かったが、アン・リー監督の「グリーン・デスティニー」やキン・フー映画と何が違うのか、僕にはよく判らなかった。このようにスタイルをどんどん変えていくのがホウ・シャオシェンの映画である。
自伝的映画を撮って評価され、続く「悲情城市」で台湾現代史でタブー視されていた「2・28事件」(1947年に起こった国民党による本省人の大弾圧事件)を戒厳令解除後2年で映画化した。日本を含め、世界中の多くの人はこの映画で初めて台湾民衆の声を聞いただろう。その大成功でホウ・シャオシェンは台湾映画を代表する存在になった。しかし、彼は単に台湾民衆の代弁者ではなかった。文化的には明らかに中華圏にアイデンティティがある。同時に「国際的映画人」として日本でもフランスでも映画を作る。有名になって、映画のスケールが大きくなり、マーケットを考えて大陸や日本でも映画を作る。それは成功よりも失敗が多かったと思うけれど。
結局一番心を打つのは、自らの世代の青春を描くことだった。恐らく家庭では広東語、学校では北京語、友人との世界では台湾語といった使い分けの中で育っただろう。両親を早く亡くし、大陸に帰ろうとする祖母(「童年往事」に出て来る)を抱えて、困窮を生きていた。そんな自分の青春を描くときに一番精彩を放った。そういう監督は世界で珍しくはない。フランソワ・トリュフォーやベルナルド・ベルトルッチなども同様だろう。巨匠となっていろいろ作ったが、最初の頃が一番輝いている。ホウ・シャオシェンの初期作品を通して、僕らは台湾現代史に触れ、人々の暮らしを知ることになった。中国や韓国の映画が世界に知られる前のことだった。
それ以後は資金集めのために、話題作り的なキャスティングもするようになった。その最初がレコード会社が出資してアイドル歌手ヤン・リンが出演した「ナイルの娘」だったのである。我々はそんなことは知らずに見て、ジャンルが全く違うことに驚いた。この映画は台北に住む一家が暗黒社会と関わって破滅していくフィルム・ノワール的な作品である。「ナイルの娘」とは、主人公がいつも読んでる漫画の名前。実はそれは「王家の紋章」の台湾海賊版だという。主人公はケンタッキーフライドチキンでバイトしながら夜間高校に通っているが、兄の関わるケンカや博奕で運命が狂う。成功した映画とは言えないが、80年代の発展した台北の闇に向かい合う。
(「ナイルの娘」のヤン・リン)
その後ホウ・シャオシェンは、「悲情城市」(1889)、「戯夢人生」(1993)、「好男好女」(1995)と台湾現代史を題材にした映画を作る。それらは成功しているが、現代台湾を舞台にした「憂鬱な楽園」(1996)や「ミレニアム・マンボ」(2001)などは失敗作だろう。その間に上海で作った「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)や日本で作った「珈琲時光」(2003)もまあそれなり。ここらで僕は見るのをやめてしまった。フィルモグラフィを見ると、「百年恋歌」(2003)とフランスで作った「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」(2007)を見逃している。後者はアルベール・ラモリス「赤い風船」へのオマージュでジュリエット・ビノシュが主演している。
(「憂鬱な楽園」)
「憂鬱な楽園」はガオ・ジェ(高捷)、リン・チャン(林強)、伊能静のコンビで、現代台湾を舞台にしたフィルム・ノワール。主演コンビは前作「好男好女」から続いている。阿里山へ向かう道路を行く2台のバイクを長回しにしたシーンで有名になった。パンフにはラストとあるが、実は途中のシーンだった。ラストは自動車の長いドライブである。ホウ・シャオシェンのスタイルは変幻極まりないが、いつも独自の世界を形成している。しかし、これも成功はしていないだろう。スタイルが独自すぎて、物語を壊すまで長回しにしてしまうところは、相米慎二やテオ・アンゲロプロスに似ている。
台湾ニューシネマを代表したのは、同じ1947年生まれのホウ・シャオシェンとエドワード・ヤン(楊徳昌)だった。二人は当初は盟友関係にあり、「冬冬の夏休み」には娘婿役でエドワード・ヤンが出演した。またエドワード・ヤンの2作目の長編「台北ストーリー」ではホウ・シャオシェンが製作、脚本、出演している。エドワード・ヤンは台北を中心に現代人の孤独を鋭く描く。ホウ・シャオシェンが現代を舞台にするとき、あえて独自のスタイルを追求するのはエドワード・ヤンを意識していると思う。成功していなくても、スタイルへのこだわりがホウ・シャオシェン映画なのである。オリヴィエ・アサイヤスによれば、二人の関係は20世紀末には少し微妙になっていた。そして21世紀になると長く闘病生活を送ったエドワード・ヤンは、2007年に59歳で亡くなった。
(「フラワーズ・オブ・シャンハイ」)
「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)は張愛玲原作の上海の妓楼を舞台にした映画で、今回デジタル版が上映された。夜を映しだすカラー映像は美しいが、男と娼妓たちの駆け引きのみでは苦しい。松竹が出資して、羽田美智子が出ている。主演はトニー・レオンで、彼は香港の映画人だから上海語は苦手である。そこで広東商人という設定にしてして、羽田美智子は吹き替え。暗い室内を長回しで撮る映像は興味深いが、だから何だという感じ。しかし、ホウ・シャオシェンが本格的に大陸で映画を作った意味は大きい。
(「黒衣の刺客」)
今のところ最後の「黒衣の刺客」(2015)はカンヌ映画祭監督賞、台湾の金馬奨で初の作品賞など高く評価された。キャストもスー・チー、チャン・チェンに妻夫木聡、忽那汐里と国際的。しかし、内容は唐代を舞台にした武侠映画なのには驚いた。確かに武侠映画として面白かったが、アン・リー監督の「グリーン・デスティニー」やキン・フー映画と何が違うのか、僕にはよく判らなかった。このようにスタイルをどんどん変えていくのがホウ・シャオシェンの映画である。
自伝的映画を撮って評価され、続く「悲情城市」で台湾現代史でタブー視されていた「2・28事件」(1947年に起こった国民党による本省人の大弾圧事件)を戒厳令解除後2年で映画化した。日本を含め、世界中の多くの人はこの映画で初めて台湾民衆の声を聞いただろう。その大成功でホウ・シャオシェンは台湾映画を代表する存在になった。しかし、彼は単に台湾民衆の代弁者ではなかった。文化的には明らかに中華圏にアイデンティティがある。同時に「国際的映画人」として日本でもフランスでも映画を作る。有名になって、映画のスケールが大きくなり、マーケットを考えて大陸や日本でも映画を作る。それは成功よりも失敗が多かったと思うけれど。
結局一番心を打つのは、自らの世代の青春を描くことだった。恐らく家庭では広東語、学校では北京語、友人との世界では台湾語といった使い分けの中で育っただろう。両親を早く亡くし、大陸に帰ろうとする祖母(「童年往事」に出て来る)を抱えて、困窮を生きていた。そんな自分の青春を描くときに一番精彩を放った。そういう監督は世界で珍しくはない。フランソワ・トリュフォーやベルナルド・ベルトルッチなども同様だろう。巨匠となっていろいろ作ったが、最初の頃が一番輝いている。ホウ・シャオシェンの初期作品を通して、僕らは台湾現代史に触れ、人々の暮らしを知ることになった。中国や韓国の映画が世界に知られる前のことだった。