尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「恋恋風塵」と初期傑作群ーホウ・シャオシェンの映画②

2021年05月20日 23時18分53秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ホウ・シャオシェンの映画を振り返る2回目。1983年の「風櫃の少年」から続々と世界を驚かせる傑作を作り始めた。そして「悲情城市」(1989)がヴェネツィア映画祭で中華圏の映画として初の金獅子賞を受賞して、世界的な映画監督として確固たる位置を占めることになった。

 その間の作品を列挙すると、以下のようになる。
1983 風櫃(フンクイ)の少年 日本公開1990年7月4日 ナント三大陸映画祭グランプリ
1984 冬冬(トントン)の夏休み 日本公開1990年8月25日 ナント三大陸グランプリ キネ旬4位
1985 童年往事 時の流れ 日本公開1988年12月24日 ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞 キネ旬10位
1987 恋恋風塵 日本公開1989年11月11日 ナント三大陸映画祭撮影賞、音楽賞 キネ旬8位
1988 ナイルの娘 日本公開1990年8月18日 トリノ映画祭審査員特別賞
1989 悲情城市 日本公開1990年4月21日 ヴェネツィア映画祭金獅子賞 キネ旬1位

 日本公開日時を書いたが、「童年往事」「恋恋風塵」が先に公開され、ベストテンにも入っていた。しかし、「悲情城市」の公開、ヒットによって残っていた他の作品も続々と公開されたことが判る。その前にぴあフィルムフェスティバルで上映され、台湾映画がすごいことになっているという話が伝わっていた。ちなみに東京の上映は「童年往事」はシネヴィヴァン六本木、「悲情城市」「冬冬の夏休み」「恋恋風塵」はシャンテシネだった(と思う。)
(「恋恋風塵」の主人公)
 今回は内容的に違う「ナイルの娘」は除き、他の「自伝的4部作」と呼ばれる作品の中でも「恋恋風塵」を中心に書きたい。「風櫃の少年」「童年往事」は今回は見直さなかったし、「冬冬の夏休み」はかつて「ホウ・シャオシェン監督「冬冬の夏休み」」(2016.8.27)を書いた。「冬冬の夏休み」は本当に素晴らしい映画だと思う。温かさ懐かしさ爽やかさに満ちているが、同時に厳しさ暗さ深さをも秘めている。最高の少年映画、夏休み映画だ。

 「恋恋風塵」(れんれんふうじん)はその前に公開された「童年往事」とともに、最初に見た時にはよく判らなかった。2作ともベストテンに入って、それほど高い評価を受けるのかと驚いた。次に見た「悲情城市」は、誰にも有無を言わせぬ映画史的大傑作なので、それを見て初めてホウ・シャオシェンが判った気がした。僕はよく「80年代は見逃しが多い」と書くのだが、これらの映画は全部見ている。もともとアジアに関心があり、歴史的、社会的な関心を就職後も持ち続けていた。だから中国映画の新世代にも注目していたし、台湾映画の新動向も落とせない。

 この前見た「HHH」の中で、ホウ・シャオシェンは「風櫃の少年」について「脚本は出来ていたが撮り方が判らなかった」と語っている。従来のエンタメ映画の手法ではなく、アメリカで映画を勉強してきた新世代にも刺激を受け「新しい映画」を作りたかったのである。製作会社は中央電影で、国民党系の大手会社である。しかし、この時代には、そんなことが可能だったのだ。「台湾ニューシネマ」はフランスのヌーヴェルヴァーグではなく、日本の「松竹ヌーベルバーグ」のように会社映画として製作されたのである。だからこそ、スター俳優の出ず、私的な思い出を込めた映画が作れたという逆説的な「奇跡」が起きたのである。
(靴を買う二人)
 「風櫃の少年」は「鳥瞰的」なロングショットが多く、澎湖諸島を舞台に神話的とも言える映像が続く。ケンカに明け暮れするだけみたいな内容だし、俳優もなじみがない。だから一回見ただけでは、よく判らない。それは「童年往事」や「恋恋風塵」も同様だった。最初は映画内の設定を知らないから、主人公を通して物語を探すのが普通だろう。しかし、ホウ・シャオシェンの映画は安易な「物語」を拒否し、静かに声低く、人々の心をすくい取る。それは小津だって同じと言えばそうだし、実際ホウ・シャオシェンは後に小津へのオマージュ映画「珈琲時光」を撮ることになる。

 「恋恋風塵」は今回見直して、ほぼ完全な映画だと思った。物語の進行を判っているから、純粋に映像に浸れる。舞台になったのは九份である。かつて金鉱山があった北部の町で、後に「悲情城市」の舞台にもなった。「千と千尋の神隠し」のモデルとも言われる。しかし、その時点で駅が建て替えられていたので、実際にはさらに奥地の「十分」という駅でロケされたという。冒頭の鉄道通学シーンから、駅を出て家に帰る幼なじみの少年少女を見るだけで、もう心がいっぱいになってくる。僕は前に見ているから、二人の運命を既に知っているのだ。今回の映画祭向けに作られた川本三郎×宮崎祐治侯孝賢 台湾映画地図」の裏表紙の地図を載せておく。
(台湾映画地図 クリックして拡大を)
 貧しい人々は子どもをまだ高校に送れない。60年代初め頃、日本でも「キューポラのある町」などが作られていた時代だ。男はワン、女はホン、兄と妹のように育った幼なじみは台北で再会する。ワンは先に台北に出て、印刷会社、後に運送会社で働きながら夜間高校に通う。やがてホンも中学を卒業し台北でお針子になる。映画館の看板書きをしている友だちなど、彼らは職場や下宿を転々としながら貧しい青春を謳歌する。こういう映画は世界中で作られた。増村保造遊び」、恩地日出夫めぐりあい」、イエジー・スコリモフスキー早春」など、若くて貧しい労働青年の切ないめぐりあいが多くの映画で描かれた。
(ラスト、祖父と語る主人公)
 貧しさに翻弄されながらも幼い愛を引き裂いたのは、兵役だった。今は志願制になったと言うが、当時は徴兵制だった。現代の日本やアメリカで作られる恋愛青春映画の多くは「難病もの」である。しかし、昔の映画や小説では、戦争や貧困、身分格差など恋人たちを引き裂くものには事欠かなかった。兵役に取られたワンは毎日ホンに手紙を書く。皆にからかわれていたのが、いつの間にか手紙が来なくなって…。あまりにも皮肉な結末に言葉もない。これは監督ではなく、脚本の呉念眞(ウー・ニエンジェン)の体験らしい。
(台湾のポスター)
 今見ると、台北の街を若い二人が歩くロケなどが、たまらなく懐かしい。また故郷の家族の姿も懐かしい感じがする。懐かしさを狙っているのではなく、丁寧に作られた生活の映像が時間とともに古酒の味わいを出している。兵役のない日本だけど、受験勉強や就活、長時間労働などはある種の「徴兵」みたいなものだ。ほんのちょっとした運命で別れてしまったなんて、世界のどこでも日々起こっているに違いない。小さな声で運命を語るから、最初に見た時は「何、これで終わり?」と思ってしまったが、この終わり方が良いと今では思う。素晴らしい傑作だ。
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