尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「きみが死んだあとで」、「新左翼」とは何だったのか

2021年05月05日 22時19分27秒 | 映画 (新作日本映画)
 前後編合わせて200分という長い(しかし興味深くて見入ってしまう)記録映画、それが「きみが死んだあとで」だ。「きみ」というのは、山崎博昭のこと。1967年10月8日佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を図った第一次羽田闘争で死んだ京大生だ。この名前に何の思いも呼び起こされなければ、映画を見ようと思わないかもしれない。でも「あの時代」が受け継がれず、忘れられたままの現代日本で、当時の若者が突き詰めたものを振り返るのは意味がある。

 山崎博昭はその年に入学したばかりの18歳だった。その日、「三派系全学連」に所属した山崎(中核派)らは、羽田空港に通ずる弁天橋で機動隊と激突した。「死因は諸説ある」とホームページに書いてある。当時の新聞は「(学生が乗っ取った)装甲車に轢かれた」と警察発表通りに書いた。しかし、兄の見た死体の様子からも、機動隊の警棒で殴打されたのが死因だというのは明らかだと思う。彼の死は大きな衝撃を与え、60年代末に過激化してゆく時代の始まりとなった。
(山崎博昭)
 監督は代島治彦(だいしま・はるひこ、1958~)で、「三里塚に生きる」(2014)、「三里塚のイカロス」(2017)を作った人である。どちらも見逃してしまったので、今回が初めての代島監督作品である。生年を見れば判るが、監督は当時小学生だから直接は事件を知らない。僕も監督より年長だが小学生だった。ニュースを見てたから、名前には記憶があるが詳しくは知らない。この時代の数年の違いは大きく、「遅れてきた青年」には「新左翼」には「内ゲバ」のイメージがつきまとう。その事を含めて、60年代末の新左翼運動を振り返る必要がある。

 以下、全部書くのは大変なので特に感じたことをいくつか書きたい。まず前編では山崎の高校時代が証言される。大阪府立大手前高校である。大阪の事情を知らないが、大阪を代表する進学校だという。そう言えば聞いたこともあるような。高校の同学年に詩人の佐々木幹郎や作家の三田誠広がいた。また映画の後半で大きな役割を果たす山本義隆(元東大全共闘議長、予備校教師、科学史家)も7期上の同窓だった。特に佐々木は山崎と決定的な影響関係にあった。そして山崎の死の衝撃と向き合うことで詩人として出発したのである。
(山本義隆)
 ここで判るのは、高校時代の活動と友人との出会いがあって、その上に山崎の大学時代があったということだ。文化祭での実質的な「デモ」、平和の象徴のハトを作って(それは例年の伝統らしいが)火を付けて燃やして歩き回るという「事件」があった。当時を語る皆は生き生きと思い出を語っている。僕も高校時代の文化祭はよく覚えているが、その頃が一番面白いんだろうと思う。大手前高校では中核派の影響が強く、5人加盟したという。赤松英一(ひでかず)という伝説の先輩がいたのである。赤松は93年まで中核派で活動し、その後ワイン醸造会社に勤めブドウ作りに専念したという。山崎は大学で中核派に加盟したが、そのような「前史」があった。

 ここで「中核派」と書いたが、今じゃ説明がいるだろう。映画ではきちんと説明しているので、ここでは簡単に。映画内で「社研」(社会科学研究会)の「紅一点」たる向千衣子という人が、中核に誘われたが「マル学同」にも二つあると聞いているので、大学で考えてから決めると断ったと語っている。このような「賢い断り方」には勇気が必要だった。「革命的共産主義同盟」が「革マル派」と「中核派」に分裂し、下部団体の「マルクス主義学生同盟」も分裂した。両派に社青同解放派との対立も加わり、70年代にはお互いに襲撃し殺戮しあう陰惨な事件が相次いだ。

 後編になると、羽田事件の「救援」運動が語られる。水戸喜世子が羽田周辺の病院を回って入院している学生を探し回った記憶を語っている。水戸喜世子さんは核物理学者だった水戸巌さんの夫人である。原発事故以後、水戸喜世子さんの名前を聞くことが多くなった。僕は水戸巌さんと死刑廃止運動で出会って、「すごい人」だと思ってきた。最初の頃に「水戸巌さんを思い出す」という記事を書いている。水戸巌さんは反原発運動ばかりでなく、「救援連絡センター」を作るなど新左翼の救援活動を行った。その延長で死刑廃止運動を主導したのである。映画で詳しく出ているが、1986年末に二人の子と共に剱岳で遭難した。今も悲しい思い出だ。
(水戸喜世子さん)
 この映画に出て来る新左翼運動に参加した人々は皆マジメで、倫理性も高い。政府もマスコミも彼らを「暴力学生」と呼んだが、その「暴力性」ならヴェトナムにナパーム弾や枯葉剤を投下し、北爆を繰り返すアメリカの方がひどいではないか。だからこそ当初は一般市民の「同情」も大きかった。佐世保のエンタープライズ闘争(米軍の原子力空母エンタープライズの寄港阻止闘争)は特に市民の応援があったと言われる。そのような「街頭闘争」に一番果敢に出ていったのが「三派系全学連」だったのは間違いない。だから山崎らは「中核派」に加盟したのだろう。

 しかし、その新左翼党派もやはり「左翼党派」の弊害を免れなかった。党派の都合を優先し、若い学生は突撃隊員扱いされる。他党派との対立が大きくなり、相互に襲撃し合う。機動隊に対抗するため「ゲバ棒」を持っても、本式の警察には適わない。では爆弾闘争、ハイジャックと激化する党派も出てきて、「新左翼」には殺伐としたイメージが抜けなくなった。山本義隆が最後に語るように、「初心」にあった「南ヴェトナムの戦争に加害者として加担するな」という「倫理性」は世界に誇るべきものだったはずだが。

 僕は「戦争後のヴェトナム」ももっと語るべきだと思う。国内では政治犯収容所が作られ、「ボートピープル」として多くの難民が国外へ逃れた。カンボジアに侵攻し(ポル・ポト政権の挑発があったとしても)占領を長く続けた。今もなお、一党独裁体制が続き、言論の自由は存在しない。そのような状況をもたらすための「反戦運動」だったのか。そのような幻滅を多くの人が持ったはずだ。僕は「新左翼」でも「旧左翼」でもないが、ただ国家権力による弾圧を許してはいけないと思っている。だから「救援運動」なら参加出来るのである。山崎博昭は紛れもなく国家権力の犠牲者で、小林多喜二樺美智子などと同様に党派を超えて追悼しなくてはいけない。
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