尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ちはや元年」じゃダメですか-元号を考える④

2018年10月16日 22時40分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 「元号」について考える4回目。「一世一元」は「創られた伝統」だと3回目に書いた。では「一世一元」じゃない元号ならいいんだろうか? それはどういうものだろうか? 「伝統」は長く続くだけの理由があって続いてきたと考えられる。一方で「時の支配者」に不都合な制度なら存在が認められなかったとも考えられる。「伝統」だから良いわけでも悪いわけでもなく、時代によって変えてゆくべきものだろう。以下は元号はこうあるべきだろうという試案である。

西暦を主にし、元号は旧暦で使う
 元号が一世一元になったことにより、天皇制を支えるシステムになってしまった。もともと「時の支配」をめぐる制度なんだから、天皇家が分裂した南北朝時代には二つの元号が使われたりした。だから一挙に廃止するということも選択肢だと思うが、元号廃止法が国会を通過するのは大変だろう。だけど2回目に書いたように、元号を公文書で使うというのは明らかに不合理だ。
(旧暦の月の名前)
 それならば、思い切って「元号は伝統文化」と考えて「元号は旧暦で使う」としてはどうか。そうなると「2018年」と「平成30年」は同じではなくなる。2018年10月16日は、平成30年9月8日となる。世界と合わせるために、また4月から3月までの「年度」を決めるためにも、政治経済のベースは西暦で表記するしかない。一方、伝統的な行事、七夕や中秋の名月などは旧暦で行うわけである。今は7月7日が梅雨の最中だったりするが、そういうこともなくなる。

随時の改元に変える
 これは法改正を要するので難しいだろうが、本来の伝統に戻すという意味で検討するべきだろう。文字に呪力があるとは思ってないが、今でも「今年の漢字」などを毎年選んで大きな話題になる国である。大きな災害などがあった時は改元して、人心を一新することはあって良い。1995年とか2011年は、前近代なら改元が検討されただろう。元号を変えてしまうと犠牲者を忘れるようだという声も出ると思うけど、天皇代替わりよりは意味があるんじゃないだろうか。

「和風」の元号にする
 これは法改正を必要としない。なぜ「日本の伝統」だと言ってて、中国の古典に典拠を持つ言葉を元号に選び続けるのだろうか。元号が漢字2字である必要があるのだろうか?。 「和風の元号」ではダメなのか? 「和風」とか「やまと」という言葉で自国を表わすのも実は問題だと思うが、今は他に言葉がないから使うことにする。「やまと言葉」の元号もあって良いと思う。「みやび元年」とか「すこやか元年」とか。それじゃ重みを感じられない、元号っぽくないと思うかもしれないが、思い込みというものだ。判りやすくていいじゃないか。

 そこまで行かなくても、典拠は「万葉集」や「源氏物語」ではなぜダメなのだろうか。そこから漢字2字を選ぶというのでもいいんだけど、どうせだったら「百人一首」から選んではどうだろうか。例えば、僕の一押しは「ちはや元年」なんだけど、これじゃダメなんでしょうか?
コメント
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