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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ひき逃げ』、成瀬巳喜男監督晩年の「イヤミス」

2025年03月20日 22時23分17秒 |  〃  (旧作日本映画)

 国立映画アーカイブの小ホールで、『横浜と映画』という小特集をやっている。その中に成瀬巳喜男監督の『ひき逃げ』(1966)が入っていた。いかにも横浜っぽい映画の中にあって、へえ、これも横浜の映画なのかと思った。見てないので、せっかくだから安い所で見ておくかと思った。結構今でも上映される機会が多いが、見てなかったのは設定が嫌いなのである。

(映画は白黒)

 夫を亡くした高峰秀子は一人で子どもを育てている。しかし、ある日その子がひき逃げ交通事故で死んでしまう。事故を起こしたのは自動車会社の重役夫人だが、夫の命令で無事故を続けていた運転手が身代わりで出頭する。高峰秀子は実は奥さんが運転していたという話を聞き込んで、警察に訴えるが相手にされない。そこで自ら名を変えて家政婦派遣所に登録して、その重役の家庭に潜り込む。自分は子を失ったのに、なんで加害者の子は無事なのか。子どもに復讐しようかとすら思うが、案外子どもに懐かれてしまう。夫人は実は不倫中の相手と乗っていたので真実を言えないのである。ね、イヤな話でしょう。で、どうなるか?

(高峰秀子と弟役の黒沢年男)

 成瀬巳喜男(1905~1969)は戦前から活躍してきた名匠だが、作品数が多くて見てないのが結構ある。(そもそも戦前の無声映画には失われた映画も多い。)『浮雲』『稲妻』『めし』『晩菊』など林芙美子原作の傑作で知られるが、晩年の『女の中にいる他人』『ひき逃げ』(以上1966年)、『乱れ雲』(1967)はどれも困ってしまう設定。前2作はいわゆる「イヤミス」だし、遺作の『乱れ雲』は交通事故の加害者(加山雄三)が被害者の妻(司葉子)に惹かれてしまうというドロドロのメロドラマ。まあ、きめ細かい演出手腕や撮影、照明、音楽などの技術面は非常に見ごたえがある。でも、何だこれという設定に困惑するのである。

(夫人=司葉子と愛人=中山仁)

 僕はこの映画を非常に優れた映画で、ぜひ見て欲しいという趣旨で書くのではない。今度シネマヴェーラ渋谷の成瀬巳喜男特集でも上映があるが、半世紀以上経つと自国の映画であってもこんなに「変」なのかという発見が興味深いのである。先に書いたイラン映画『聖なるイチジクの種』を見ると、イランのイスラム体制というものが実に不可解なことに改めて驚く。『ひき逃げ』で判明する60年代日本も、いわば「映画社会学」的な意味で発見が多かったのである。

 「横浜」映画という意味では、これは黒澤明監督『天国と地獄』と同じである。つまり高台に住み自動車を保有する富裕層とゴチャゴチャした川沿いに住む貧困層が対比される。ただ黒澤作品ほど、横浜の階級差は強調されない。確かに横浜でロケされているが、「交通戦争」に巻き込まれた庶民という60年代日本の普遍的な問題を扱っている。僕も今回の上映があるまで、横浜の映画だとは知らなかった。その上で、「運転者は誰か」「加害者と被害者」というミステリー的な設定で物語を作っている。

 以下具体的な展開を書くけれど、大昔の映画だからいいだろう。高峰秀子の母親は錯乱気味なので、会社弁護士がヤクザの弟(黒沢年男=現在の表記は年雄)と交渉して、示談金120万円で手を打つ。弁護士はこれで罰金で済むかもしれないという。まさか幼い子どものひき逃げ死亡事故で、罰金刑なんてありうるのか? と思うと、裁判シーンになって、何と罰金3万円に執行猶予まで付くのである。罰金刑に執行猶予はありうるのか? 僕は聞いたことがないので調べてみたが、制度上はあるようだが年に2,3件あるかないかだと書いてあった。特に子どものひき逃げは今なら実刑が確実だろう。当時はそんなものだったのか?

 妻の柿沼絹子(司葉子)は愛人がニューヨークに転勤になるので動揺していた。愛人小笠原(中山仁)はもうこれで終わりにしたいと言ってくる。一方、その頃高峰秀子(役名は伴内国子)は家政婦として潜り込もうと考えるが、いくら何でも「本人確認書類」(戸籍謄本など)は要らないの? こんな例は珍しいだろうが、「手癖が悪い」人だっているはずだ。本人確認書類と身元保証人ぐらいは必要なんじゃないか。あの頃はテキトーに名乗っても通用したんだろうか。

 さて、何とか潜入に成功し信用も勝ち取るが、その間にガスストーブの事故を装って夫人を殺そうとしたりする。それは別の家政婦に見つかって失敗するが、ある日一家の主人(小沢栄太郎)が会社の急用で夜に出社した日、もう一回忍び込む。そうしたら、すでに夫人と男の子は死んでるじゃないか! そして、それは殺人とみなされて、高峰秀子は逮捕されてしまう。新聞は大々的に書き立て、警察はひたすら自白を迫る。無実を主張する高峰秀子も、ついに錯乱して「私がやったことにすればいいんでしょう」と警察に屈服してしまい、自分でも犯人だと思い込んでしまう。しかし、何と「遺書」を夫が隠していたことが最後に判明する…。

 この警察の「自白偏重」も凄いものである。この映画が作られた1966年というのは、まさに袴田事件が発生した年だった。運転手が身代わりになった後で、高峰秀子は女が運転していたという近所の証言を聞いて、警察に再捜査を要望する。しかし、警察は「自首して出た者がいる」一辺倒で、「自白」こそ「証拠の王」なのである。少しきちんと証拠調べをしていれば、運転手が犯人だというのは疑わしいことが判るはずだ。例えば当日の運転距離を調べれば、どこへ行ったか詳しい説明が必要になる。もちろん今のようにどこにでも監視カメラがあるという時代ではないけれど、運転手の説明が不自然だと思うんじゃないか。

 この映画では警察捜査のひどさは問題視されない。そんなものだと皆が思っていたんだろう。今なら、仮に真犯人だとしても、こんな暴言、決めつけは許されないという強権的取り調べが行われている。さて、もう一つ夫の「犯人隠避」が問われないのも不思議。今ならひき逃げと同じぐらい大問題になって、社会的制裁を受けるだろう。子どもを道連れにしてしまうことも含めて、トンデモ展開にあ然。これは高峰秀子の夫である松山善三のオリジナルシナリオだが、今になると不思議なことばかり。

(交通事故年齢別被害者の推移)

 もう一つ凄いのは、子どもも信号がない交通ひんぱんな道路を渡っていることである。何で信号がないのか。とにかく凄い車の量なのである。当時だって、道路を渡ろうとする人がいる場合、一時停車するもんだと思うが。交通事故の年齢別被害者の推移が判るグラフを見ると、1960年代前半まで子どもの被害者が一番多かった。子ども数自体が今よりはるかに多かったし、車の方も飛ばしていた。当時は「交通戦争」と呼んでいた。信号も歩道もないんだから、ヒドイものである。すべてルールなき(整備されざる)時代だったのである。後に美化される高度成長期だが、実情はこんなにひどかったことを思い出した方がよい。

 この映画はこの年のベストテン13位になっている。10位が同じ成瀬監督の『女の中にいる他人』。これもイヤな話なんだけど、何でこんな「イヤミス」がこの時代に作られたのか。それを言えば、この年のベスト1は『白い巨塔』だったが、ミステリーじゃないけど、ドロドロの権力ドラマでイヤな話。そもそもこの時期は「イヤミスの帝王」松本清張が作品を量産していて、続々と映画化されていた時期である。高度成長の中で格差が拡大し、新時代に適応する人と取り残される人々の葛藤というテーマが共感を呼んだのだろう。清張作品もおおよそは恵まれないものの恨み辛みが事件の裏にある。イヤミス耐性がある人はチャレンジを。


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