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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

石井妙子「おそめ」と「夜の蝶」をめぐる物語

2016年08月05日 23時51分47秒 | 〃 (さまざまな本)
 とても興味深い本を読んだ。映画の話であり、昭和史の裏の物語でもある。石井妙子「おそめ」(新潮文庫)は、2006年に単行本(洋泉社)が出て、2009年に文庫になった。今まで全く気付かなかった。出た時には関心領域になかったのかもしれない。最近、本屋で文庫の棚を見ていたら急に見つけたのだが、ある女性の壮絶な生涯の物語である。一方、映画全盛期の裏の物語でもある。著者の石井妙子(1969~)は知らなかった。映画に詳しい人だなと思うと、最近「満映とわたし」(岸富美子共著、2015)、「原節子の真実」(2016)を著して評判になった人だった。

 この本は上羽秀(うえば・ひで、1923~2012)の生涯をたどる本である。多くの人はその名前を知らないだろう。戦後の京都で有名なバー「おそめ」を開き、文壇はじめ著名人のファンを集めた。そこから東京進出の話が出てきて、1955年に銀座にも「おそめ」を開く。新幹線などない時代、まだ多くの人が使わない飛行機に乗って関西と東京を往復して「空飛ぶマダム」と言われた。何しろ松本清張の「点と線」が1958年に刊行された時代なのである。
(上羽秀)
 この東京進出は大きな話題となるが、一方で客を取られる従来からの店には反発も大きかった。特に銀座一と言われていた「エスポワール」のマダム、川辺るみ子との確執は週刊誌で大きく扱われた。両店の客でもあった作家川口松太郎は、この二人をモデルにした「夜の蝶」という小説を発表し、1957年には映画化された。川口は第一回の直木賞受賞作家だが、戦後になって映画会社大映の重役にもなっていた。当然、大映で映画化され、「おそめ」にあたる役は山本富士子、対抗役は京マチ子である。「夜の蝶」という言葉は昔から知っていたが、一種の慣用語句だと思っていた。今もよく使われているが、この小説、映画から始まった言葉だったのである。
(映画「夜の蝶」)
 上羽秀という人物がどうして現れたか。秀の母親は大家に見初められ、婚約者がいたのに、それを断って嫁入り。しかし、故あって辛い目にあい続け、二人の女児と逃げた。長女が秀だが、幼いころから周囲にチヤホヤされる。見た目だけでなく、立ち居振る舞いに魅力があったのである。家を出た秀は、芸者を目指す。母は東京へやって新橋芸者で仕込ませた。一方、妹は養女に出され、長いこと母姉とも会えない。家族そろって過酷な人生である。秀は新橋ではなく、京都に戻って芸妓になった。その時の源氏名が「おそめ」である。やがて旦那がつき身請けされたが、その相手は芸能興行史に関わる大物である。そして戦争になるが、京都は戦災を逃れた。

 戦後になって、秀はある男と出会う。ダンスホールで出会った定職もないその男は、いかがわしい匂いも漂わせる男だった。母は全く認めなかったが、旦那持ちでありながら、秀はその男の子を身ごもる。その男の名は俊藤博(しゅんどう・ひろし)といった。多くの人には俊藤浩滋(しゅんどう・こうじ、1916~2001)として知られている。東映のプロデュ―サーとして、任侠映画から実録映画の多くの作品を手掛けた大プロデューサーである。60年代半ばから70年代にかけて、営々と作られ続けた「東映ヤクザ映画」のほとんどにクレジットされている。「明治侠客伝 三代目襲名」、「博奕打ち 総長賭博」、「仁義なき戦い」、「日本の首領」シリーズ等々。

 今まで何となく、70を過ぎてから結婚した俊藤と秀を誤解していた。東映の映画人が「おそめ」に通って「愛人関係」となり、それが続いて、晩年に結婚したように思い込んでいた。俊藤浩滋と言えば、「大女優の父」のイメージが強かったからでもある。70年代に評価された東映映画を見れば、大体最初に俊藤の名が出てくるから、早くから名前は覚えてしまった。その人物の娘が東映任侠映画の華、あの大人気美女スターの藤純子(富司純子)だった。だから俊藤は寺島しのぶと尾上菊之助の祖父にあたる。藤純子の父は、実は妻子を捨て「おそめ」と結ばれているという話は一種のタブーだったのだろう。
(上羽秀と俊藤浩滋)
 俊藤の子どもたちを(別の女が産んだ子だけど)経済的に支えたのが、秀だったとこの本に出ている。仕事もない男、やがて妻と子が別にあるとわかる男、その生活を支えるために秀は店を開いた。それが一種の「文壇酒場」として大成功し、どんどん大きくなった。そして東京に出て来て、当時の政財界人、文化人のほとんどが訪れる社交場となっていったのである。そういう場が必要な時代だった。

 前に大岡昇平「花影」のモデル(坂本睦子)をめぐって書いたが、「おそめ」も銀座を舞台にした「文壇裏面史」になっている。登場人物も共通性がある。白洲次郎、白洲正子、青山二郎など。一方、その時代の俊藤は、「おそめ」の裏方で下働きと言うか、裏で動かす黒幕かもしれないが、別に東映にいたわけではなく、まったく無名の「愛人の稼ぎで暮らす」身分だった。それは知らなかった。

 やがて俊藤は、酒席で知り合った東映幹部に映画のアイディアを提供し、それがどんどんヒットした。そして、突然40代になって映画会社に乗り込んで、プロデューサーになったのである。そこからしか知らないから、僕はそれまでは東映で下積みかと思っていたわけである。映画は小さなころから好きで通っていたようだが、特に東映にとって俊藤が役立つことがあった。それは後に山口組で最大の武闘派と言われる菅谷組組長の菅谷政雄と幼なじみで、親友だったのである。映画ロケもそうだけど、特に実録映画、あるいはモデルがいるヤクザ映画を作るときは、当然「その筋」への了解工作が必要である。それを俊藤を通してやれたわけである。

 秀の母は、最初から最後まで、俊藤をヤクザまがいのヒモのような男とみて嫌いぬいた。それも全くの間違いとは言えなかったわけである。やがて「おそめ」は凋落し、上羽秀が映画のモデルにもなった有名人だったことは忘れられた。一方、男の方は40代になって映画界で頭角を現し、人気女優の父として知られた。しかし、上羽秀はこの俊藤という男と、「籍」はともかく実態としては添い遂げたのである。今まで藤純子側から見ることが多かった俊藤浩滋という人物を、「おそめ」側から見ると、こういう風になるのか。そして、「おそめ」という場所に集った人々のすごさ。それがいかにして、ダメになっていくか、その過程も興味深い。ライバルだった「エスポワール」の運命も哀切である。

 最後に付け加えると、菅谷政男という人物は、のちに山口組から絶縁された。この人は、当時は知らなかったけど、田中登監督「神戸国際ギャング」のモデルだった。そして、「最後の実録映画」と言われる深作欣二監督「北陸代理戦争」に大きな関わりがある。あの映画で松方弘樹が演じた人物のモデル、川内弘襲撃殺害を命じたとされるのである。そのため絶縁という処分となった。この事件をめぐっては、伊藤彰彦「映画の奈落 完結編」(講談社+α文庫)というすごく面白い本がある。「北陸代理戦争」をめぐっては「映画「北陸代理戦争」をめぐって」を別に書いた。上羽秀と俊藤浩滋、この二人をめぐって、様々なドラマがあった。(2020.6.9一部改稿)
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-06-09 03:23:54
最近時々昔の銀座を思い出している。しかし、コロナ騒動による銀座ネオン街の情けなさと言えば本当に情けない惨状なのだろう。小生が知っている覚えているのは昭和45年辺りの時代であの当時の銀座のお姉さん達は別嬪だった。本当に美女ばかりだったね。今の銀座ネオン街のホステス姉ちゃんは顔を直した人工的美人で興醒めするばかりだがね。小生が何故こんな真夜中に起きているのかはなかなか眠れないのだよ。ロスプリモスの森聖二が歌っていた雨の銀座にたそがれの銀座なんかを聴いていると何だかなあ、今のしょうもない銀座を現してでもいるような意味深な歌謡曲だと思うね。コロナ雨に祟られた銀座に、コロナでたそがれた銀座だものなあ。ロスプリモスボーカル森聖二、今健在なら82歳、惜しい歌手だったね。南無阿弥陀仏、合掌
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