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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「赤ひげ」、素晴らしき助演女優たちー黒澤明を見る②

2022年04月23日 23時02分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「隠し砦の三悪人」と一緒に「赤ひげ」も書くつもりだったけど、ちょっと疲れてしまった。こうやって書いてると、事前の予定と違って4回も黒澤明を書くことになってしまうが、まあいいか。「赤ひげ」(1965)は30本になる全黒澤作品のうちで、23作目の作品になる。ここまで順調に作り続けていた黒澤明だが、次は1970年の「どですかでん」、その次はソ連で作った「デルス・ウザーラ」(1975)、さらに「影武者」(1985)、「」(1990)と5年ごとにしか作れない時代になる。

 「赤ひげ」は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を原作にしたヒューマン・ドラマで、1965年に大ヒットした。ヴェネツィア映画祭男優賞(三船敏郎)を獲得し、キネマ旬報ベストワンになった。(ちなみにベストテン2位は市川崑監督の「東京オリンピック」だった。)上映時間が185分もある大作で、これは「七人の侍」の207分に次ぐ長さである。(「影武者」も180分あって、3時間になるのはこの3作。)昔見ているけれど、それ以来だから何十年ぶりにある。時々黒澤特集でやっているけれど、長いから時間が取れなかった。それと僕はこの映画が好きじゃなかったので、あまり見直したいと思わなかった。
(三船敏郎演じる「赤ひげ」先生)
 僕が昔見て好きになれなかったのは、三船敏郎演じる「赤ひげ」があまりにも偉そうで、高圧的に加山雄三に接する威圧感が半端なく、見ている自分まで「」を感じて嫌だったのである。翌1966年のベストワン作品、山本薩夫監督「白い巨塔」も嫌いだった。病院内で医師たちのドロドロした思惑がぶつかり合い、この映画イヤだなあ、何が面白いのと若い時分には思ったのである。しかし、「白い巨塔」を10年ぐらい前に見直したら、やっぱりこれは面白いし優れた映画だなと思った。同じように、「赤ひげ」も今見れば面白いし感動的な映画だった。でも、やはり好きじゃないなと思う。

 三船敏郎は1920年生まれだから(1997年死去)、公開時点で45歳である。えっ、そんな若かったのか。今じゃ40代半ばにこれほど重厚感を与える俳優はいないだろう。見ている自分の方も年を取ってしまい、とっくに赤ひげ先生より年上になっている。ああいう高圧的な先生にも人生で出会ったこともあるが、何とか付き合い方も判ってきた。そして「偉そう」には違いないが、「実際に偉いんだから仕方ない」とも思えるようになった。「偉そう感」には有難みがあって、貧しい病人なら赤ひげが大丈夫と言うだけで安心できるだろう。上に立つ人、例えば教師には時には偉そうにしてみせる演技が必要だというぐらいの知恵も付いた。

 しかし、偉大な師匠と成長する弟子という基本的な物語の構造は、やはり僕は好きではない。加山雄三演じる若き医師、保本登は長崎に遊学して帰ってみたら、御殿医の娘だった婚約者は他の男に嫁いでいた。気がふさいでやる気もないのを見て、小石川養生所を訪ねて見ろと言われる。来てみたら、責任者の新出去定(赤ひげ)からここで働くことように申し渡され、全く不服である。お目見え医になれるつもりで江戸に戻ったら、貧民の相手とは話が違いすぎる。という始まりだが、展開は見なくても予想できる。それにこの決め方はやはり良くない。「自己決定権」を全く無視している。保本だって、すぐに将軍や大名を見る前に「初任者研修」がいるんだと説明されれば納得出来ただろう。
(加山雄三と二木てるみ)
 しかし、保本をめぐる何人もの助演女優陣が素晴らしいのである。まず「狂女」の香川京子がすごくて、そのお付き女中の団令子もなかなか良い。松竹から桑野みゆきが悲しい運命の女を演じ、娼家の主人杉村春子はいつものように強烈。極めつけがそこで病気になったところを赤ひげと保本に助けられた「おとよ」(二木てるみ)である。この悲しい運命の少女を凄い目をして演じている。子役として「警察日記」などで活躍し、16歳で出演した「赤ひげ」でブルーリボン賞助演女優賞を獲得した。1949年生まれで、テレビで活躍していたのも知らない世代が多くなっただろう。もう70歳を越えているが、永遠に「赤ひげ」で語られるだろう。
(内藤洋子の「まさえ」)
 婚約者の裏切りにあって、女性を信じられなくなった保本だが、次第次第に多くの不幸な人々と魂の接触をしていくうちに、心も開かれてくる。そして何度も訪れて協力してくれる、かつての婚約者の妹である「まさえ」との縁談を受け入れることになった。その内祝言の席で、保本は自分と一緒になると、貧しい生涯を送ることになるがそれでも良いかと問う。もはや御殿医ではなく、小石川で働き続ける気持ちになっている。そのまさえを清楚に演じているのが内藤洋子。1970年に二十歳で結婚して芸能界を引退したので、今では知らない人も多いだろう。喜多嶋舞の母である。テレビの「氷点」の陽子で人気を得た他、60年代後半の東宝青春映画を支えた女優の一人だった。この前恩地日出夫監督「あこがれ」を再見したが、とても良かった。
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「隠し砦の三悪人」、三船敏郎のアクションの凄さー黒澤明を見る①

2022年04月22日 22時55分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸坐が2ヶ月半の休館を経て、先週からリニューアルオープンした。4Kレーザー上映可能な設備を名画座として初めて導入したという。よく「4Kデジタル修復版 当館は2K上映になります」なんて、ロードショー館でも書いてある。それを考えると、新文芸坐はすごい。前の文芸坐(地下にあった文芸地下)から合わせて数えれば、多分一番行ってる映画館だろう。そしてオープン記念に「4Kで蘇る黒澤明」というと特集上映をやっている。全部じゃないけど、少し見に行ってみよう。
(黒澤明監督)
 黒澤明(1910~1998)はもちろん全部の映画を見ている。何本かは2回、3回と見ているのだが、それはずいぶん昔のことだ。デジタル修復版を見てるのは、大映で作った「羅生門」ぐらいである。主に黒澤作品を製作した東宝は、なかなかデジタル版を作らなかった。最近TOHOシネマズの「午前10時の映画祭」の上映作品に黒澤映画が入るようになったが、まだ見てなかった。

 僕の若い頃は黒澤明は日本で一番有名で優れた映画監督だと思われていた。今は小津安二郎の方が上という評価ではないかと思う。黒澤明は何しろ「羅生門」で初めてヴェネツィア映画祭グランプリを獲得して、世界に日本映画を知らしめた。「荒野の七人」や「荒野の用心棒」など外国でリメイクされることもあった。そんな日本映画は当時は他になかった。一方の小津は70年代になるまで外国には紹介されず、外国人には理解されない(だろう)日本ローカルの巨匠という扱いだったのである。

 黒澤明は時代劇も多く、戦時中のデビュー作「姿三四郎」以来、アクション映画が多かった。だから外国でも理解されやすかったという面はあるだろう。しかし、今になっては代表作の多くが「モノクロ映画の時代劇」というのは、若い人にはつらいかもしれない。今では特撮を駆使した大々的なアクション映画がいっぱいあって、昔っぽい感じがしてしまう。僕もしばらく見てない映画が多いが、今4Kで見直すとどんな感想を持つだろうか。実は僕は黒澤明は確かに凄いとは思うけれど、あまり好きな映画監督ではない。その理由はおいおい書いていくけど、まずは1958年の「隠し砦の三悪人」から。

 「隠し砦の三悪人」は初めてシネマスコープで製作された大作時代劇で、そのワイドスクリーンの使い方の素晴らしさは見事だ。ベルリン映画祭監督賞、国際映画批評家連盟賞を獲得し、キネマ旬報ベストテンで2位になった。メッセージ性、社会性を訴える映画ではなく、純然たる娯楽大作。その意味で「用心棒」「椿三十郎」に続く映画だけど、僕はこの映画が一番面白いと昔見た時に思ったものだ。ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」に大きな影響を与えたことでも非常に有名だ。

 見るのは多分3回目だが、2回目に見た時は疲れていて集中できなかった。記憶にあったほど、面白くないように感じたのである。今回見ても、冒頭部分、敗残の農民千秋実藤原鎌足が戦地を彷徨うシーンが長すぎると思った。話を知っていれば、早く姫を連れて「敵中突破」してくれと思う。もう正体を知っているので、先が見たいと思う。「三悪人」という題名もどうかと思う。全然悪人じゃないので。それより当時の時代劇にありがちなことだが、戦国時代としてどうなのよという突っ込みどころが多い。結局、この映画はあえて敵国に紛れ込んで、味方のいる隣国に逃げ込もうというアイディアに尽きるのである。

 そこで敵中に入ると、凄いシーンがいっぱいある。特に有名なのが、三船敏郎が馬に乗ったまま敵を切り伏せる場面。一気に撮影したアクションの素晴らしさに驚く。また敵側の知人、藤田進と槍で一騎打ちする場面の壮絶なアクションもうならされる。「山名の火祭り」のシーンも素晴らしい。三船敏郎と姫が「秋月」で、敵が「山名」である。秋月は敗れるが、重臣と姫が隠し砦に潜んでいる。軍資金は金を薪の中に仕込んである。いかに敵の領地を突破していくか。この素晴らしいアイディアの脚本は、菊島隆三小国英雄橋本忍黒澤明がクレジットされている。

 娯楽アクション大作だから、特に気にせず見てしまうが、戦国時代史としてみるならば、納得できない点も多い。一番問題なのは、秋月には一人娘しかいなくて、先代が男のように育てたというところ。姫は新人の上原美佐が演じたが、まあそんなに上手くなくても良い役だから、セリフなどは良いとする。しかし、上原美佐本人は1937年生まれで、すでに20歳を超えている。戦国時代とすれば、もう政略結婚の婚期を逃しつつある。味方の陣営もあるんだから、そこから養子を取って早く結婚させて若君をもうけて貰わないと跡継ぎがなくなるではないか。まあ妙齢の姫君を連れて逃げるというのが、面白いということだろう。

 金塊に「秋月」の三日月マークがついているのも変だけど、こんなに資金があるなら何故もっと鉄砲などを整備しなかったのかも謎。今頃持って逃げているが、不思議である。その他、筋書きではいろいろ不思議があるが、それもこれも細かいことを言わなければ、話を面白くするために作られているわけである。戦国時代を舞台にした黒澤映画は「七人の侍」「蜘蛛巣城」や「影武者」「」がある。いずれも戦国時代は「舞台」として選ばれただけで、あまり歴史的に合っているかは気にしないのがいい。

 今になると、その壮大なアクションによって記憶される伝説的映画ということになる。4K修復版は、もしかしたら公開当時より綺麗なんじゃないかと思うようなクリアーな画面だった。
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映画「青幻記」と高橋アキトークショー

2022年04月03日 22時51分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽家Ⅰ 武満徹」特集で、成島東一郎監督の「青幻記 遠い日の母は美しく」(1973)の上映とピアニスト高橋アキさんのトークショーがあった。僕はこの映画が公開時から大好きで、最近上映機会がほとんどないけど、是非もう一回見たいと思ってきた。また高橋アキさんも昔からファンなので楽しみ。どこにあったフィルムか判らないけど、ものすごく美しい状態で完全に映像世界に魅了された。今も心の奥深くに届く「母恋い」映画の名作だ。

 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島(おきのえらぶじま)が舞台になっている。そこで生まれた作家一色次郎(1916~1988)の太宰治賞受賞作「青幻記」(1967)の映画化。冒頭に船で島に着いたところから、海の青さが素晴らしい。映像美がハンパないのは、名カメラマン成島東一郎が自ら製作、脚本、監督、撮影を担当しているから当然だ。原作に惚れ込んだ成島が、公開の当てもなく製作プロを作って自主製作した映画なのである。1973年に公開されて、キネ旬ベストテン3位となった。
(沖永良部島の地図)
 成島東一郎は松竹で60年代の名作を多く撮影した人で、吉田喜重監督「秋津温泉」、中村登監督「古都」「夜の片鱗」「紀ノ川」などを撮った。その後、ATGで篠田正浩「心中天網島」、大島渚「儀式」とベストワン映画を撮影して高く評価された。その成島東一郎の生涯ただ一本の監督作品が「青幻記」で、それだけに渾身の思いの詰まった名作になっている。この映画の後では大島渚監督「戦場のメリークリスマス」の撮影監督をしている。
(冒頭の島への帰郷場面)
 大山稔田村高廣)は36年ぶりに鹿児島市に戻ってきた。幼い頃に住んでいたが、その後苦労を重ねて生きてきた。その日は思い出の土地をめぐり、次に母の生まれ故郷、沖永良部島に向かう。その間に昔の場面が交互に挟み込まれるが、母さわ賀来敦子)は苦難の人生を送った人だった。美貌を見そめられ島から鹿児島に嫁いだが、子を産んだ後で夫が病死して実家に戻された。しかし、その時子どもの稔は跡取りとして祖父(伊藤雄之助)の下に残され、妾のたか(山岡久乃)に疎まれている。さわは何とかもう一回子どものそばで暮らしたいと意に染まぬ再婚をして町に戻って来た。

 この物語は昭和の初め頃を舞台にしているが、当時は結核などで早くなくなる人が多かった。家制度があって、親権を争うまでもなく、子どもは家長のもとで暮らすものだった。だから、この映画のように母と子が別れ別れになることも多く、当時の大衆文化には「母もの」と呼ばれるジャンルがあったぐらいである。悲しく別れた親子が巡り会うが、子(あるいは母)は身分違いとなっていて、素直に感情を表わすことも許されない。親子は心で泣きながら別れていくが、その時母はもう二度と生きては会えぬ重い病にかかっていた…。と言ったような話が戦後10年近くまで量産されてきた。
(満月の夜に舞う母)
 母は二度目の夫に捨てられ島に戻るが、その時すでに病にかかっていた。最後の別れに港に連れてこられた稔は、そのまま母と共に島に付いて行ってしまった。船の中でも一人隔離されている母と逢うこともままならない。やっと帰った島でも遠い実家まで、助けられながら何とか親子でたどり着く。そこでは祖母(原泉)が一人で住んでいた。大人になって島に戻った稔は当時を知る鶴禎(かくてい=藤原鎌足)に出会って、母の思い出を聞く。島に戻ってから、満月の夜に舞う母の何と美しかったことか。それは少年の稔も良く覚えているのだった。このシーン(上記画像)は本当に美しく、夢幻的世界を奇跡的に描き出している。
(漁に行く母と子)
 そしてある日、母と魚取りに行って悲劇が起きる。しかし、死をまだ理解出来ない稔は泣くこともなく、人はそれを気丈と呼ぶが、実は二度と母に会えないことも判っていなかったのである。その後、祖父も死に稔は苦労を重ねて育ったらしいが、そこは描かれない。ともかく戦争が終わって何年も経ち、ようやく母の墓に戻って来ることが叶ったのである。早く両親に死に別れた稔の「母恋い」の慟哭に見るものの心も揺さぶられる。戦争と貧困の時代には多かった悲劇だが、あまりにも美しい海と空を背景にして幻想的に描かれる。沖縄や奄美を舞台にした映画は多いが、中でもこの映画は美しく感動的だ。
(高橋アキトーク。聞き手=高橋俊夫) 
 映画音楽の武満徹は一般的には「現代音楽家」と思われているだろう。ものすごく多数の映画音楽を手掛けているが、そこでも随分実験している。昨年勅使河原宏監督特集で「おとし穴」を上映した時に、高橋アキさんの兄、作曲家の高橋悠治のトークがあったが、そっちはかなり実験的、前衛的音楽である。一方で武満には稀代のメロディメーカーという側面もあって、幾つもの映画で美しいテーマソングを作っている。「青幻記」でも美しい抒情的なメロディが印象的で、毎日映画コンクール音楽賞を受けた。

 高橋アキさんも「青幻記」を再見したかったと言っていた。若い頃からの武満との関わり、映画音楽の研究もしていた音楽研究者の夫秋山邦晴さんのことなど、いろいろな話が出て来た。僕は秋山さんが主宰したエリック・サティの連続演奏会に何回か行っている。そこで弾く高橋アキさんのサティが大好きで、今もCDをよく聞いている。サティのCDを何枚か持っているが、一番しっくりくる。僕は特に音楽に詳しいわけでもなく、出て来た人名もよく判らないものもあったが、とても充実したトークショーだった。

 原作者の一色次郎は今ではほとんど忘れられているが、戦前から作家活動をしていて、戦後に2回直木賞候補になった。「青幻記」で太宰賞を受けたときは、すでに50歳を越えていた。父親が冤罪で獄死していて、そのことを訴える本もある。死刑廃止運動にも関わっていた。また映画で母を熱演した賀来敦子(かく・あつこ)は大島渚監督「儀式」のヒロインで、従兄弟同士の中村敦夫と河原崎健三に運命的に関わる律子役が印象的だった。重要な役で出た映画はこの2本しかなく、どのような事情か知らないけれど、「青幻記」一本で永遠に美しき面影が残された。
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映画「細雪」、3本の映画を比べて見る

2022年03月31日 23時00分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 谷崎潤一郎原作「細雪」は今までに3回映画化されている。以下の3つの作品である。
1950年 新東宝 阿部豊監督 145分 キネマ旬報ベストテン第9位
1959年 大映 島耕二監督 105分 
1983年 東宝 市川崑監督 140分 キネマ旬報ベストテン第2位 アジア太平洋映画祭作品賞、監督賞

 この3本を神保町シアターで見たので、それも一週間以上前のことになるけど、何とか3月中にまとめ。もう上映もしてないし、誰にも無関係ながら自分の備忘という意味である。3本全部前に見ていて、随分しばらくぶりに見直したことになる。今までは原作を読んでなかったので、今度原作を読んでみたところ、なるほどなあと思うことが多かった。長大な原作をたった2時間ほどの映画にまとめなければならない。映画製作にはお金も時間も掛かるから、ある程度は女優中心に「商業映画」として成立させなくてはならない。そこでどこをどう切り取り、どう入れ替えるか。シナリオの勉強になる。

 では、どのように女優中心になっているか。蒔岡家の四人姉妹を上からキャストを紹介すると、以下の通り。
花井蘭子・轟由起子・山根寿子・高峰秀子
轟由起子・京マチ子・山本富士子・叶順子
岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子

 第一作のキャストは今ではもう判らないかもしれない。当時としても山根寿子より、4女の高峰秀子の方が大スターである。一方、②③の山本富士子吉永小百合は、誰もが認める大女優。だから①は「こいさん」(妙子)が中心になり、②③は三女雪子が中心になる感じがする。原作は雪子の方が重要だと思うが、最初の映画化で四女妙子の奔放な恋愛が強調されたのは、時代の影響が大きいと思う。高峰秀子だからという以上に、敗戦と占領という時代相が反映されていると考えられる。
(1950年の「細雪」、左から高峰・山根・轟・花井)
 簡単に各作品に触れていきたい。①は原作完結後すぐの映画化で、これだけがモノクロ映画になっている。それだけに今見ると、ロケなどにまだ敗戦直後の貧しさが見える。しかし、驚くべきことに原作のクライマックスとも言える「阪神間大水害」が描かれるのは①だけなのである。映画では特撮を駆使しているが、今となってはちょっとしんどい。それでも「完全映画化」に一番近いのは①なのである。ただ和服や花見シーンがカラーじゃないのは、やはり寂しい。雪子の山根寿子は戦前から活躍した女優で、50年代末日活の石坂洋次郎作品によく出ていた。電話にも出られずモジモジして縁談を断られる感じは一番出ているかな。
(阿部豊監督)
 ①の監督阿部豊(1895~1977)は無声映画時代から長く活躍した監督で、1926年の「足にさはつた女」がキネマ旬報の日本映画ベストテンの最初の1位になった。その前にハリウッドに行って俳優として活躍し、映画技術を学んで日本に戻った。最初の頃は「ジャック」名で活動していて昔の文献には「ジアツキ阿部」なんて出ている。戦時中には「燃える大空」「あの旗を撃て」などの戦争映画を作った。ものすごく作品数が多いが、戦後は東宝、新東宝、日活で娯楽映画を量産している。「細雪」は戦後唯一のベストテン入選。特に悪くもないのだが、まあ全体的に評価すれば9位は妥当なところか。
(1959年の「細雪」)
 1959年の②は大映製作で、驚くべきことに原作を製作当時の1959年に変えている。その結果、当時の町並みなどをロケ撮影することが出来るので、貴重ではある。冒頭では啓ぼんがこいさんを車で送ってくるし、次女の幸子は自らカレーライスを作ると腕を振るっている。次女京マチ子と三女山本富士子は、大映を支えた看板女優で、「夜の蝶」ではバーのマダムの壮絶な争いを演じた。当然「細雪」でも山本富士子の縁談が話の中心になる。しかし、山本富士子が結婚出来ないなんておかしいので、かつてまとまった縁談があったのだが、デートするその日に交通事故死した過去がトラウマかになって、30を過ぎたとされる。そんなバカなという感じだが、山本富士子との縁談を断る男がいるはずがないので、そんな設定を作ったのである。
(島耕二監督)
 島耕二監督(1901~1986)は戦前の日活映画を支えた俳優だったが、39年から監督に転身した。「風の又三郎」(1940)、「次郎物語」(1941)が高く評価された。映画史的に残るのもこの2本。戦後は「幻の馬」(1955)が一番かと思うが、「銀座カンカン娘」「有楽町で逢いましょう」「情熱の詩人啄木」など多くの作品がある。「細雪」は可もなし不可もなしか。
(1983年の「細雪」)
 1983年の③は明らかに一番優れている。映画的には脚本と撮影、照明などの技術が洗練の極みに達していて、四人姉妹に配する長女の夫が伊丹十三、次女の夫が石坂浩二と安定感がある。ただし、原作を読んでいると、実に驚くべき改変をしていてビックリ。②は時代そのものを変えたから他は気にならないが、③は本家の東京移転を最後に持って行っている。だから途中までの映画化かというと、三女雪子の縁談は最後まで描いているのである。原作では本家と一緒に雪子も上京するのに対し、③では縁談が決まった雪子は本家を見送る側である。しかも、そのお相手の華族の次男(原作は庶子なのだが、映画はただ次男とする)が、元阪神タイガースの江本なので唖然とする。そして驚くべきことに、次女幸子の夫(石坂浩二)が雪子(吉永小百合)に思いを寄せているという設定である。いや、これは面白いけど無茶でしょう。

 そもそも冒頭の豪華な花見シーンだが、原作では本家は加わらない。しかし、映画では長女岸惠子も参加して四人姉妹の豪華絢爛たる花見シーンになる。何だか映画に影響されてしまっていたが、原作を読んだら全然違うので驚き。さらに凄いのは、「こいさん」(四女妙子)が啓ぼんを振ってカメラマンの板倉に思いを寄せるきっかけの「大水害」がない。特撮がないのではなく、セリフにもないのである。これも時代を正確に再現する意味では無茶だろう。自立して生きている板倉の方が、母親頼りの啓ぼんより立派というのは、現代人の感覚だ。階級的にこれほど格差がある相手に好意を寄せるには、生命の危機を助けて貰ったという設定は不可欠のはずである。しかし、こう変えたことで現代映画になったことは間違いない。脚色の手腕である。

 ちなみに啓ぼんと板倉のキャストを比べると。
①啓ぼん=田中春男、板倉=田崎潤 ②啓ぼん=川崎敬三、板倉=根上淳 ③啓ぼん=桂小米朝(現米團治)、板倉=岸部一徳 原作のイメージには①が合っている。
(市川崑監督)
 市川崑(1915~2008)は、さすが巨匠の風格である。長生きしたので、訃報では「犬神家の一族」「細雪」などが代表作などと書かれてしまった。真の代表作は50年代から60年代初期の大映で作った「野火」「おとうと」「破戒」などだろう。50年代初期に東宝で作ったコメディ、1961年の「黒い十人の女」などブラックユーモアも再評価されつつある。角川で横溝作品を映画化して大ヒットしたというのは、おまけというべきだろう。
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「真田風雲録」と渡辺美佐子トークショー

2022年02月20日 21時01分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 18日は新宿末廣亭で落語を聞いて終了が20時38分頃。そこから急いで帰ったのは、カーリング女子準決勝を見るためである。終わったのは12時近く、それから風呂に入って、未だにダラダラ読んでる「ドン・キホーテ続編」を少し読んで(活字を少しでも読まないと寝られない)、寝たのは1時近かった。だから、19日は疲れていたわけだが、それでも土曜にしては早く食べて(土曜は自分でスパゲッティを作る)、早出してシネマヴェーラ渋谷に向かった。この日渡辺美佐子のトークがあるのである。2月5日にもあったが、その日は夕方だったので敬遠した。(7日夜が「ラ・マンチャの男」だから体力温存。)今度も疲れていて、5種目目に挑む高木美帆みたいな気持ちだったが、頑張ったらやはり金メダル級のトークを聞けたから大満足。
(井上淳一監督と渡辺美佐子)
 この日は「真田風雲録」の上映があって、その後に井上淳一監督の司会でトークが始まった。井上淳一は2019年に「誰がために憲法はある」で渡辺美佐子と仕事をした監督である。(上記画像はシネマヴェーラのツイッターから))トークの中で紹介されたが、20日発売のキネマ旬報3月上旬号(表紙が「ウエスト・サイド・ストーリー」になっている)で、渡辺美佐子の長いインタビューが掲載されている。それを聞いて、帰りに早速東急百貨店本店の7階にある本屋に買いに行った。そのインタビューも貴重な話が満載である。(聞き手は濱田研吾氏。)なお、加藤泰監督の「真田風雲録」(1963)に関しては、2016年に「映画「真田風雲録」と加藤泰監督の映画」を書いた。原作の福田善之の戯曲と林光のテーマソングに深い思い出がある映画だ。

 渡辺美佐子といっても主演スターじゃないから、判らない人もいるだろう。活動の主体は舞台だったが、昔の新劇俳優の常として全盛期の映画に出ないと公演が続けられない。俳優座養成所第3期生で、卒業後に小沢昭一らの劇団新人会に入団した。今回シネマヴェーラ渋谷の特集「役を生きる 女優・渡辺美佐子」で21本の映画が上映されている。そのうち18本が日活作品になっているが、小沢昭一とともに日活と一年間5本の契約を結んだからだ。(「真田風雲録」を含めて3本は東映作品。)主演は一本もないが、見れば忘れられない重要な脇役が多い。(特に今村昌平監督「果しなき欲望」ではブルーリボン賞助演女優賞を受けた。)
(シネマヴェーラ渋谷のチラシ)
 舞台では井上ひさしの一人芝居「化粧」で知られるが、もう一つ朗読劇「この子たちの夏」など戦争を語り伝える活動を続けたことも忘れられない。今回のトークでも反戦平和の思いを語っていたが、その原点は養成所時代に出た今井正監督「ひめゆりの塔」にあった。養成所にスカウトに来た今井監督が数人を選んで出演することになった。しかし、ラッシュフィルムの試写を見たら何か違うと感じて泣いてしまった。今井監督は「何が違うかよく考えてみなさい。一週間後に撮り直すから。」と言ったという。そこで振り返ってみたら、自分はポチャッとしているけど、当時のひめゆり学徒がそんな姿のはずがない。そこで一週間絶食して、あるいは醤油を薄めて飲んだりもしてみて一週間後に撮り直した。自分じゃ何も変わってないと思ったが、監督には「眼がギラギラしていた」と言われた。女優は体が資本なんだと思い知ったという。

 渡辺美佐子は1932年生まれで、もう89歳である。それなのに何と元気で生き生きと昔のことを語るのだろう。もう驚くしかない。僕がちょっと驚いたのは、俳優座養成所では演技指導が僅かしかなかったということである。一週間に2時間だけ。後は座学でシェークスピアなどを学ぶ。「教養主義」みたいなものが生きていた時代なんだろう。ところが映画に出るときは劇団出身ということで、監督は演技指導などほとんどしてくれない。午前中に女学生、午後に芸者みたいに掛け持ちで映画撮影に臨んでいた時代である。困った渡辺美佐子は衣装係や小道具係に相談に行ったんだそうだ。普段着たことがない着物の着方、お猪口の上手な持ち方など熱心に指導して貰って演技を覚えたという。だから「映画育ち」なんだという。

 当日上演の「真田風雲録」は、舞台版から「お霧霧隠才蔵)」の役が渡辺美佐子の当たり役だった。評判を呼んであちこちで上演されたが、京都公演に中村錦之助有馬稲子夫妻が見に来た。その辺りから、東映で映画化の話が出て来たわけだが、結構すったもんだあったようだ。(ウィキペディアの「真田風雲録」に出ている。)錦之助が出ることで、猿飛佐助が主演のスター映画になった。それは仕方ないと思うが、もともとこの原作戯曲は「60年安保闘争の総括」である。何よりも「統一と団結」を最優先にする大坂城「実権派」を「既成左翼」とみなすわけである。突撃する真田隊を批判する人々は「統一を乱すものは敵を利する。敵を利するものは、すでに敵である」と言う。こういう物言いは当時の左翼活動家の常套句だった。
(映画「真田風雲録」)
 ところで渡辺美佐子の衣装は網タイツ姿になっている。これは舞台版演出を担当した千田是也のアイディアだそうで、そこから「くノ一」(女忍者)の衣装と言えば網タイツになったんだという。知られざる秘話だろう。撮影では馬が荒れて大変だったという。そもそも乱戦という設定だから、馬も驚いてしまうのだという。ホントは落馬しないはずが、馬が鳴り物に驚いてしまって渡辺美佐子も落馬してしまった。監督はカメラマンを呼んで、ここ撮ってと指示して、終了してから病院へ運べとなったという。網タイツが皮膚に食い込んでしばらく痕が残ったそうである。

 草創期のテレビの話も興味深かった。石井ふく子、橋田壽賀子らと視聴率を気にせずドラマを作ってた時代を生き生きと語った。この時代のテレビ放送はビデオが残っていない。渡辺美佐子はTBSのプロデューサーだった大山勝美と結婚したので、テレビ界の知られざる話ももっとあるに違いない。司会の井上淳一監督の「誰がために憲法はある」という映画で、渡辺美佐子は「憲法くん」という役を演じた。そして「地人会」「夏の会」を通して「この子たちの夏」朗読を続けた。さすがに2019年で終わりになったが、若い人に替わって続けられている。この日3回目の接種を受けてきたといいながら、元気で昔の思い出を語り続ける。そんな渡辺美佐子のトークを聞けたのは、大きな宝物だなあと思って聞いていた。
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映画「勝負は夜つけろ」と作家生島治郎

2021年11月28日 22時21分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで「夜の映画」特集というのをやっている。題名に「夜」が入っている映画を集めているだけだが、そう言えば「ローマで夜だった」も「夜の映画」である。夜つながりで「勝負は夜つけろ」(1964)を見た感想を書いておきたい。これは原作が生島治郎の作家デビュー作「傷痕の街」だというので見に行くことにした。最近創元推理文庫で「日本ハードボイルド全集」の刊行が始まり、その第一回配本が生島治郎だったので読んでみた。どう映画化されているのか、関心があった。

 原作は横浜港が舞台のはずだから、港が出て来る冒頭を見て横浜かと思ってしまう。しかし、主人公田宮二郎が乗っている車は「」ナンバーになっている。調べてみると、兵庫県のナンバーは今は「神戸」と姫路」だが、昭和30年代には「兵」だったという話。この映画は大映京都作品なので、神戸港で撮影したものか。神戸を舞台にした映画だと、六甲山を印象的に映し出すことが多いが、この映画ではあえて背景に写らないようにしている感じだ。地名は映画内で特定されていない。

 田宮二郎はシップチャンドラー(ship chandler、船舶納入業者)の会社を経営している。チャンドラーなんて、いかにもハードボイルドみたいな名前だけど、元々は英語で「雑貨屋」である。外国航路の船に食品などをまとめて納入する仕事である。もちろん、船の担当者が自分で買いに行っても良いわけだが、どこにどんな店があるのかも知らないし、小売店で買うと高くなる。様々な食材を細かく買い付けるのも大変だから、頼めば何でもまとめて仕入れてくれる業者が港にはいるのである。免税業者の免許を持っていて、外国船には無税になる。僕はまあ先ほどの本を読んでいたから事前に知っていた。

 生島治郎は横浜に住んでいて、学生時代は実際に港でアルバイトしていた。その経験を生かした作品でデビューしたわけである。主人公久須見(田宮二郎)は会社を大きくするために、カネが欲しい。貸してくれるところがなくて困っていると、社員の稲垣川津祐介)があるバーの女性オーナーを紹介してくれる。それが斐那子久保菜穂子)で、彼女を通して高利貸しの井関小沢栄太郎)を紹介される。実は久須見と井関は因縁のある関係だったが、やむを得ず斐那子に回す200万を足して、700万を借りることになった。ところが翌朝、稲垣の妻が誘拐されたと会社に電話がある。
(久須見役の田宮二郎)
 借りたばかりの金を稲垣に一時貸して、稲垣と経理の阿南が車で指定された場所に出掛ける。そのまま行方が判らなくなり、久須見が追跡していくと、顔を硫酸で焼かれた二つの死体を発見する。一人の死体は妻が稲垣だと言うが、もう一人は阿南の妻が違うという。数日後、井関の部下の吉田だと判り、阿南が二人を殺してカネを持ち逃げしたと疑われる。一方、その間に斐那子は久須見と親しくなって行く。実は斐那子は井関の娘だったが再婚した母の連れ子で、井関に今まで虐待されてきて恨みがあったのである。そんな時、稲垣の妻から電話が掛かってきたが、家を訪ねると妻の死体がある。一体真相はどこにあるのか。

 監督の井上昭(1928~)は大映で多くの仕事したが、むしろ70年代、80年代にテレビの時代劇を担った監督だったらしい。映画では「眠狂四郎」や「座頭市」「陸軍中野学校」などの主要シリーズも少し手掛けているが、あまり代表的な作品はない。中では「勝負は夜つけろ」がお気に入りだとウィキペディアに出ている。港のロケを生かして、構図にも凝ったモノクロの映像が魅力的。

 主人公の田宮二郎は足をケガして義足という設定で、いつも片足を引いている役を印象的に演じている。田宮二郎(1935~1978)は映画「白い巨塔」の財前役で知られ、クイズ「タイムショック」の司会者として有名だった。だからこそ散弾銃による自殺というニュースには多くの人が衝撃を受けた。60年代大映映画の「悪名」「黒」「犬」などのシリーズは今見ても非常に面白く、そのアクの強い役柄や風貌とともに忘れがたい俳優だ。市川雷蔵、勝新太郎に並ぶ大映のスターだった。
(生島治郎)
 生島治郎(1933~2003)は、僕の世代だとどうしても「片翼だけの天使」(1984、映画化は1986年)を思い出してしまう。映画では秋野暢子が主演賞を取ったけれど、何だか心配な感じがした。やはり実生活では離婚に終わったようである。先ほどの「ハードボイルド全集」には長編「死者だけが血を流す」(1965)とシップチャンドラー久須見が出て来る「寂しがりやのキング」などの短編が収録されている。「勝負は夜つけろ」(原作「傷痕の街」)にしてもそうなんだけど、「謎」という意味ではちょっと弱い。この手のノワールには本でも映画でもずいぶん接しているので、今さら驚きもなく展開が予想出来てしまうものが多い。
(日本ハードボイルド全集Ⅰ)
 ところでその本の解説で、生島治郎の回顧録的な作品「浪漫疾風録」(1993)が2020年に中公文庫で再刊されていることを知った。刊行時には気付かなかったのだが、この本がめっぽう面白い。もっとも主人公を越路玄一郎と名を変えているのに、自分以外は実名というスタイルはちょっとどうなんだろうかと思うけれど。特に最初の妻、後にミステリー作家となる小泉喜美子に対しては、どうもひどいなあと思う記述が多い。半世紀前は「夫婦」に関する感覚が大きく違ったということだろう。
(「浪漫疾風録」)
 しかし、確かに内容的には「浪漫疾風録」という感じなのである。生島治郎は早稲田を出たものの就職難の時代で、デザイン事務所に職を得たが転職を考えていた。そこに早川書房の募集の話が来て飛びつくのだが、これが恐ろしく古びた商店みたいな会社だった。推理小説や演劇の雑誌を出すオシャレな会社というイメージとは全く異なっていた。そこで先輩の詩人田村隆一の仕事(しなさ)ぶりに驚き、全然素人なのに「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集をやらされる。編集長が急に辞めて、何とか後任に都筑道夫がやってくる。しかし、あまりの薄給に勤務中に他社の仕事をしている始末。(ライバル誌「宝石」に書いた連載小説が、ハードボイルド全集都築の巻にある。)もうムチャクチャである。

 そして作家として売れていた都築も退社し、26歳で生島が編集長になる。大家江戸川乱歩や、同世代の結城昌治、三好徹らの記述も興味深い。やがて生島治郎も作家になることを目指して退社した。最初に書いたのが「傷痕の街」で、1967年の「追いつめる」で直木賞を得た。ミステリーがほとんど直木賞を得られない時代で、ハードボイルド系の作品が受賞した意味は大きい。ハードボイルド、冒険小説風の作品を数多く書いたが、今ではほとんど入手できない。そんな中で復刊された「浪漫疾風録」は貴重だ。60年代の出版社を描く自伝的作品には、中央公論社の村松友視夢の始末書」、平凡社の嵐山光三郎口笛の歌が聴こえる」などもあるが、いずれも面白い。今では考えられない自由な時代だったなあと思う。
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映画「100万人の娘たち」、新婚旅行ブームの宮崎

2021年11月21日 22時40分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブの五所平之助監督特集で「100万人の娘たち」(1963)を見た。宮崎交通の全面的協力を得て、新婚旅行ブームに沸く宮崎県を舞台にしている。前半はロケ中心にバスガイドの世界を描くが、次第にセットで撮影された松竹ホームドラマになっていって、何だこれ的な終わり方になる。映画的には特に高く評価されたわけではなく、ウィキペディアを見ても五所監督の作品に載っていないぐらいだ。僕も映像社会史というか、考現学的な関心から見てみたいと思った映画。

 映画アーカイブのチラシに「宮崎における観光業の発展に感銘を受けた松竹の大谷竹次郎会長の発案により始まった企画」と書かれている。五所監督と脚本家の久板栄二郎が各地を回ってシナリオを書いたという。冒頭でバスガイドの岩下志麻堀切峠を案内している。一ノ瀬悠子という名だと後に判るが、彼女は時計を見て時間を気にしている。そこから宮崎空港に画面が移ると、何か大歓迎の準備が進んでいる。それは何と「全国バスガイドコンクール」で宮崎交通の代表が優勝したというのである。それが悠子の姉の一ノ瀬幸子小畠絹子)だったのである。ホントにそんなコンクールがあったのだろうか。検索してみたら画像が出て来たから、確かにあったようだが詳細な情報は得られなかった。
(映画のバスガイドたち)
 ところが飛行機から降りてくる時に、有村日奈子牧紀子)が先に下りてきて、迎えのガイドたちが怒っている。後の歓迎会の場面で事情が判るが、本当は有村が代表で幸子が補欠だった。しかし、本番前にのどを痛めた有村が欠場し、代わりに出た幸子が優勝したのだった。彼女たちを指導したのが、ホテルから出向していた小宮信吉吉田輝雄)だった。東京の大学を出た小宮のことを幸子と有村はともに慕っている。有村は歓迎会の夜に小宮に東京土産を渡そうとして拒まれる。牧紀子は五所監督「白い牙」で主演しているし、小津監督の遺作「秋刀魚の味」にも出ている。しかし、当時の松竹映画では二番手、三番手みたいな役が多い。
(左=岩下志麻、右=牧紀子)
 小宮が勤務しているのは、明らかに宮崎観光ホテルがモデルだろう。1965年の連独テレビ小説「たまゆら」の原作を川端康成が書いたホテルである。もう全国的には忘れられているだろうが、宮崎観光ホテルなどが掘り当てた温泉は「たまゆら温泉」と称している。ホテルから出向してバスガイドを指導するというのは、実際にあるのかどうか判らないけれど、小宮はガイドたちの憧れの的である。ホテルに勤める津川雅彦が「不良」ホテルマンを演じている。岩下志麻は翌日午前に、青島の「鬼の洗濯板」で写真を撮っていた小宮を捜し当てて、姉と有村のどちらが好きなのかと問い詰める。
(青島の岩下志麻と吉田輝雄)
 小宮は結局幸子と結ばれ、有村は会社を辞めてしまう。ところが妹の悠子も小宮に好意を持っていて、姉の結婚後は何か荒れてしまう。ダンスホール(ディスコ)に行って、津川雅彦に酒を飲まされ、ちょっと付き合うような関係になる。それを心配した小宮が出て来て、争いになる。そんな時に幸子が病に倒れ…。義兄をめぐる姉妹の心理戦のようになってしまう後半は、どうもドロドロした感じで、内容も宮崎をはなれてしまう。そんな時、悠子は会社から選ばれて国際観光ゼミナールに派遣される。東京各地を見学して、思わぬところで工場で働く有村にも再会する。宮崎では感じなかったが、東京では多くの働く女性の仲間がいると実感する。このゼミナールは東京五輪を直前にして、国際的に日本を紹介する観光ガイドを育成するというものらしい。

 「フェニックス・ハネムーン」という曲がある。永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスが歌った「にほんのうた」シリーズの一曲である。今でも歌われるのは、京都を舞台にした「女ひとり」や草津温泉の「いい湯だな」ぐらいだと思うが、当時それらに並んでヒットしたのが宮崎を舞台にした「フェニックス・ハネムーン」だった。「君は 今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックスの 木陰 宮崎の二人」という甘い歌詞で始まる。フェニックスが自然に生えているわけがない。これは宮崎交通の創業者、岩切章太郎(1893~1985)が営々として進めてきた観光促進策の一つである。宮崎から南へ、青島や堀切峠を望む道にズラッと植えて南国ムードを醸し出したのである。
(60年代の新婚旅行ブームの写真)
 そのような宮崎側の準備あってのことではあるが、当時宮崎が新婚旅行のメッカと言われたのにはきっかけがあった。1960年に結婚した昭和天皇の5女、島津貴子夫妻が新婚旅行で訪れたのである。夫の島津久永は島津一族ではあるが、宮崎の砂土原藩主系統の次男だった。だから里帰り的な意味合いもあった。また1962年には当時の皇太子夫妻(現上皇、上皇后)が宮崎を訪れたことも大きかった。これら皇族の宮崎旅行が大きく報道され、宮崎ブームのきっかけを作ったのである。当時はまだ海外旅行が自由に出来ない時代で、また沖縄県の本土復帰(1972年)も実現していなかった。だからこそ宮崎が「南国リゾート」感を出せたのである。

 日本人が海外へ観光で自由に行けるようになったのは1964年からである。それ以前は許可が必要で、事実上自由な観光は難しかった。さらに1966年からは「年に一回まで」という制限も撤廃された。それでも一回の旅行に持ち出し金額500ドル以内という制限は残っていた。だから、海外旅行は普通の人が自由に行けるというものではなかった。しかし、50年代前半は東京からなら新婚旅行に熱海や箱根、遠出しても京都や奈良という時代だったのだから、飛行機を使って宮崎まで行くというのは、日本人が豊かになったということを意味しているのである。

 60年代の観光ブームは多くの映画に出ている。獅子文六原作「箱根山」の映画化(川島雄三監督、1962年)では、箱根開発をめぐる東急と西武の争いが描かれている。また瀬川昌治の列車シリーズや旅行シリーズでは60年代後半から70年代の日本各地の様子が映像に記録されている。「100万人の娘たち」も映画としての完成度以上に、観光社会学的な面白さを伝えている。僕も日本のあちこちに行ってるので、宮崎観光ホテルや青島など日南海岸は思い出の土地である。60年代の様子が出て来るかと期待したのだが、思ったよりも出て来なかったのは残念。瀬川監督のような観光エンタメ映画を作る意思が五所監督になかったのだろう。
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映画「蟻の街のマリア」と北原怜子

2021年11月04日 23時12分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 古い映画のことは書かないつもりだったが、ちょっと題材を紹介したくなって「蟻の街のマリア」について書いておこうと思う。五所平之助監督の1958年松竹映画で、国立映画アーカイブの五所監督特集で見た。この映画のことは長いこと見たいと思っていたが、ほとんど上映機会がなかった。当時有名だった実話の映画化で、東京のスラム街「蟻の街」に住み着いて子どもたちとともに暮らしたクリスチャン女性北原怜子(さとこ)の物語である。

 若くして亡くなった北原怜子は、昔の子ども雑誌の定番エピソードだった。「小学○年生」といった雑誌を多くの家庭で購読していた時代、「蟻の街のマリア」の美談はよく取り上げられていた。そしてそういう記事には決まって「映画にもなった」と書いてあったけれど、名画座などでこの映画の上映はまずなかった。近年になって地元で語り継ぐ機運が出て来て、新聞記事で紹介されたりした。そういう時に映画の上映会が企画されたようだが、映画としてはほとんど忘れられてきたと思う。

 明治の東京で「三大貧民窟」と言われたのは、下谷万年町、芝新網町、四谷鮫ケ橋だった。横山源之助日本の下層社会」(岩波文庫)に詳しいが、今では地名も変わって面影はどこにもない。戦後には「蟻の街」というスラムがあったわけだが、それがどこだか今では判らない。高度成長時代を過ぎた日本では町ごと貧民が集住することはなくなった。どこの町にも古びたアパートが残っているけれど、駅前に行けばそれなりに栄えているのが今の日本である。だからかつて東京にもあったスラム街の記憶は全く残されていない。

 この映画の舞台となった「蟻の街」は隅田川に掛かる言問橋の台東区側にあった。冒頭は隅田川のロケだが、遠くに浅草松屋ビルが見える。その間に大きな建物がないので、間近に見えるのが新鮮。そこから「蟻の街」の住民紹介になる。ここは「バタヤ」と呼ばれていた。廃品回収業者、まあ俗に言う「屑屋」である。自分たちは貧しいが、働いて自活しているという意識を持っている。ある雨の日、そこへ見知らぬ若い女性が訪ねてきて、子どもたちのお世話をしたいと言う。もちろん「蟻の街」はセットで作られたものである。

 ここには「会長」がいて、会長じゃないと判らないと言われる。初めはお嬢さんが来るところではない、偽善だ、宗教の押し売りではないかなどという受け取り方が多い。しかし、一生懸命に子どもたちの相手をしているうちに、学校でもいじめられて勉強も出来ない子どもたちが懐いていく。実際に北原怜子が蟻の街を訪れたのは1950年だったという。それにはゼノ修道士の存在が大きかった。ゼノは有名なコルベ神父(アウシュヴィッツで身代わりになったことで知られるポーランドの神父。聖人となっている)などとともに日本に布教に来たポーランド人で、長崎で被爆していた。この頃は蟻の街にカトリック教会を建てようとしていたのである。
(実際の北原怜子と子どもたち)
 一緒に勉強し、一緒に歌を歌いながら、やがて北原怜子は気付いた。作文や歌に出て来る海や山を言葉では知っているが、子どもたちは実際には見たことがないのである。じゃあバス旅行に行こうと言いだして、そのお金を自分たちで稼ごうとする。自ら町に出て廃品回収に汗を流し、父の紹介でお金になる空き缶を大量に貰えた。そして念願の箱根旅行で、子どもたちは芦ノ湖や大涌谷、小田原の海を見て感激する。見る前から判る展開ではあるけれど、やはり心が洗われるような感動的なシーンだ。

 その後、奉仕活動の無理が積み重なった北原怜子は、肺結核に倒れ療養せざるを得なくなる。その頃東京都は蟻の街の住民に移住を強く迫っていた。もともと都有地の不法占拠だというのである。他のスラムも撤去しているという。警察が来て測量したりもする。街に住み着いて「先生」と呼ばれている医者が、住民代表で都と交渉するがなかなか打開策がない。療養から戻って蟻の街に住み込んでいた北原は、子どもたちの作文集を託し、これを都の人にも読んで欲しいという。そして都が譲歩したことを聞いて、北原怜子は亡くなる。

 映画では23歳で亡くなったと言うが、実際には1929年に生まれ、1958年に亡くなった北原怜子は29歳だった。映画で演じたのは千之赫子(ちの・かくこ、1934~1985)で宝塚退団後の映画デビュー作である。今では知らない人が多いと思うが、60年前後の松竹映画に出ている。僕も知らなかったのが、東映の時代劇俳優として人気があった東千代之介と見合い結婚したとウィキペディアに出ていた。金八先生などにも出ていたが、ぜんそくが悪化して51歳で亡くなった。僕がすぐ思い出すのは、大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」である。鳩を売る少年の担任教師を演じ、強い印象を残している。
(「愛と希望の町」の千之赫子)
 五所平之助監督は戦前から松竹を代表する監督の一人で、最初のトーキー(発声映画)「マダムと女房」や「伊豆の踊子」の一番最初の映画化(田中絹代主演)などで知られた。戦後に作られた「煙突の見える場所」が代表作。その他「大阪の宿」など佳作がたくさんある。「蟻の街のマリア」は映画としては特に傑出した映画とは言えない。どうしても「美談」の映像化という枠を越えられないのはやむを得ない。しかし戦後東京史の忘れられたエピソードとして、「戦後」という時代を知る大切な映画だと思う。

 タイで活躍し「スラムの天使」と呼ばれたプラティーム・ウンソンタムさんが来日した時に講演を聞きに行ったことがある。マザー・テレサと一緒だったが、僕はプラティームさんの方をより聞きたかったのである。クリスチャンではないけれど、こういう自己奉仕と子どもたちの映画は何だか心の琴線に触れるところがあるなあと思った。11月13日(土)18時からもう一回上映がある。(国立映画アーカイブ。当日券はなく、すべてチケットぴあでの前売指定席のみ。)
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木下恵介監督の「この天の虹」、50年代の八幡製鉄所

2021年07月03日 23時27分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで木下恵介監督の「この天の虹」(1958)という映画を見た。もう上映は終わっているのだが、記録しておきたい。木下作品の中でも上映機会が少なく、今回初めて見た。傑作を発見したわけではなく、むしろ時の経過に伴って「トンデモ映画」化していると思う。日本が本格的に高度成長する直前をタイムカプセルに詰めたような映画だった。1901年に作られた官営八幡製鉄所を受け継ぐ1958年の八幡製鉄所のすべてを描くような映画で、「映像考現学」的な価値がある。
(この天の虹)
 「この天の虹」という題名はなんだろうと思うと、製鉄所から出る七色の煙を虹とみなすということだった。カラー映画で本当に色の付いた煙が出ている。しかし、これはまずいでしょ、公害でしょ、色が付いてる煙なんておかしいと思ったが、当時の労働者はその虹を誇りに思っているというトーンで映画が進行する。冒頭から5分程度はドラマに入らず、工場見学である。溶鉱炉の作業がきちんと紹介されていく。これは記録的価値が高いと思うが、劇映画としてはどうなんだろうか。ところどころで、登場人物が山に登って八幡全景を見下ろすが、その煤煙の様子を今では肯定的に見ることが難しい。
(映画の中に出て来る八幡全景)
 映画の本筋に入る前に解説しておくと、八幡(やはた)は映画製作当時は一つの市だった。1963年2月10日に小倉門司戸畑若松と対等合併して北九州市となった。県庁所在地以外で初の政令指定都市だった。今は八幡東区、八幡西区に分かれている。官営八幡製鉄所は1934年に民営化されて「日本製鐵」となった。戦後の1950年に八幡製鉄富士製鉄分割されたが、1970年に合併が認められ「新日本製鐵」となった。2012年に住友金属と合併し「新日鐵住金」、2019年4月1日に名称変更して再び「日本製鉄」と改名した。120年の歴史の中で20年しかなかった「八幡製鉄」時代の工場や労働者の生活が映画に残されている。

 笠智衆田中絹代が演じる影山という夫婦のアパート(社宅)に、相良修高橋貞二)とその母(浦辺粂子)が仲人を頼みに来る。今では仲人を頼むとしても、結婚が決まった後のことだろう。しかし、この映画ではまず結婚の申し込みを仲人に頼むのである。相手は帯田千恵久我美子)である。影山、相良、帯田の父(織田政雄)と兄(大木実)は皆現場の工員だけど、千恵は秘書課に務める事務員である。千恵の母親は(夫と息子も同じなのに)工員風情に嫁にやれるかといって断る。断られるのは相良も覚悟の上なのだが、思いが募って申し込みだけはしたいと思ったのである。彼は職員旅行で京都・奈良を訪ねた時に千恵を見初めたのである。

 千恵は大学出の有望な若手職員町村田村高廣)と一緒にダンスホールへ行って踊ったりしている。千恵は結婚したいらしいが、町村にはまだそんな気がしないらしい。興味深いのは独身寮があるのに、町村は下宿していること。下宿先の奥さん(小林トシ子)は町村を好きになってアタックしている。一方、影山家にも下宿人がいて、須田川津裕介)は相良を先輩として慕っていて、千恵が結婚を断った話を聞いてしまい怒ってしまう。そんな時に影山家の一人息子(小坂一也)が仕事を辞めて帰ってきてしまう。彼は身体的条件で八幡製鉄を受けられず、須田たち工員になれた人はうらやましいと言う。しかし、須田は毎日同じような仕事が続く仕事に飽きている。そんな中で相良先輩の恋が実ることだけが希望だったのである。
(職員食堂の千恵)
 ここで判ることは、製鉄所には「職員」「工員」「工員以下」という紛れもない「身分差別」があったのである。それは当たり前すぎて誰も相対化出来ないぐらい身に染みついている。工員たちは「恵まれた社宅アパート」に住んでいる。それは今見ると驚くほど狭くて、とても恵まれていると思えないが、当時としては「社員の特権」だったのだ。しかし、当然「定年退職」の後には出なくてはならない。だから下宿人を置いたりしているんだろう。職員と工員の「文化格差」を象徴するのは、カレーライスの食べ方だ。相良は須田と出掛けた時にカレーライスにソース(つまり食堂に置いてあるウスターソースを)ジャブジャブ掛ける。須田はそういう食べ方は田舎者の食べ方だと千恵が言っていたと注意する。いやあ、昔はソースを掛けて食べる人がいたのか。

 有望社員である町村には部長が姪と会ってみないかと勧めてくる。実質上の見合いは毎年会社が夏に開く「水上カーニバル」。会社の福利厚生事業で行われるフェスティバルらしい。そこで姪(高千穂ひづる)と会ってみるが、ピンと来ないで抜け出してしまう。翌日姪と一緒に河内ダムにドライブする。これは八幡製鉄所の工業用水を確保するためのダム湖なんだという。そこにレクリエーションセンターという建物がある。ここはアントニン・レーモンド(帝国ホテル建設時にライトに付いてきて、日本で日光のイタリア大使館別荘や東京女子大本館など多くの建物を設計した人)が設計したと解説される。この建物は今は西南女子大というところが所有するが「廃墟」化しているらしい。そこで姪も見合いと思わず来たと告げる。
(レーモンド設計のレクリエーションセンター)
 町村はブラジル行きがほぼ決まっているが、それを千恵には告げていない。しかし、町村は今になって千恵が結婚相手にふさわしいと思う。一方、相良の申し込みを何故断ったのかと須田が乗り込んできて、千恵を責め立てる。まあ、その後も多少のすったもんだが続くのだが、もういいだろう。「結婚相手をどう決めるのか」という小津安二郎的テーマが語られるんだけど、小津の映画では初めから同じ階層どうしの結びつきが前提になっている。しかし「この天の虹」では八幡製鉄所をめぐる重層的な階級関係が語られている。しかし、いくら何でも「仲人を立てて打診をする」なんて当時としてもおかしくはないか。上司のお膳立てじゃなくて、自分が好きになったんだから。そこが「50年代」であって、すでに「太陽族映画」はあったけれど実情はそんなものだったのか。

 この映画では溶鉱炉や社宅以外に社員用病院、社員用スーパーマーケット、社員食堂などが紹介される。時々公園に行って町の全景を見せる。劇映画としてはマイナスだろうが、記録的価値を高めている。当時の結婚や仕事に関する考え方も今では興味深い。ブラジルに行くというのは、ベロオリゾンテに合弁で作られたウジミナス製鉄のことで、今もブラジル2位の製鉄会社となっている。木下恵介はものすごい多作で作風も多彩だから、まだ見てない映画が何本かある。「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」などで知られるが、感涙映画ではないシビアな映画にも傑作が多い。なお、主演の一人相良を演じた高橋貞二は戦後の松竹で佐田啓二、鶴田浩二と並ぶ「松竹三羽烏」と言われ、50年代の松竹映画では活躍していた。1959年11月に飲酒運転でベンツを横浜市電に衝突させて亡くなった。今では古い映画を見る人しか知らないだろうが、惜しい人だった。
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「魔女の宅急便」、素晴らしき「飛ぶ教室」ー宮崎駿を見る④

2021年04月29日 23時09分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「1980年代日本映画ー試行と新生」という特集をやっていた。今度の緊急事態宣言で突然終わってしまったが、ちょうど最後の24日に「魔女の宅急便」(1989)の上映があって、31年ぶりに見直した。映画アーカイブはコロナ禍により当日券販売がなくなった。チケットぴあで前売券を買うのが面倒だけど、見直したかったから買っておいたのである。
(「魔女の宅急便」)
 宮崎駿監督のアニメは、2020年の緊急事態宣言明けにスタジオジブリ4本がリバイバルされたときに宮崎駿作品を3本見て感想を書いた。それは以下の記事である。
「風の谷のナウシカ」の予言性(2020.7.4)
「もののけ姫」の反人間主義(2020.7.5)
「千と千尋の神隠し」のアニミズム(2020.7.6)

 僕はテレビやDVDで見直す気はないので、他に見直した宮崎アニメは「天空の城ラピュタ」だけ。数年前に映画アーカイブ(当時は近代美術館フィルムセンター)の追悼特集で上映された時がある。だから「となりのトトロ」も「紅の豚」も公開当時に見たまま。ジブリ作品は名画座に下りてこないし、「午前10時の映画祭」などでもやらない。日本テレビが製作に参加しているからテレビでは時々ジブリ作品をやっている。でも若い世代にも大画面でジブリを見る体験を与えて欲しいと思う。なんで高畑勲監督追悼上映をやってくれないのだろうか。

 「魔女の宅急便」は今見ても本当に素晴らしい作品だった。何より躍動する画面に気持ちが乗り移る。映画全体に爽やかな風が吹きすぎてゆくような気がして、心が晴れ晴れする。こういう映画をすべての若い世代に見て欲しいと思った。プロットやテーマも素晴らしいが、何よりも画面がきめ細かくて主人公のキキの髪の毛が常に揺れている。この丁寧な作りに感動してしまう。

 ウィキペディアで宮崎駿作品を調べると、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」まで「上映データ」という欄があって、作画枚数が記載されている。そこで各作品の1分間あたりの作画数を比較してみたい。
・「風の谷のナウシカ」(1984) 116分 5万6078枚 1分あたり483.4枚
・「天空の城ラピュタ」(1986) 124分 6万9262枚 1分あたり558.6枚
・「となりのトトロ」(1988) 86分 4万8743枚 1分あたり566.8枚
・「魔女の宅急便」(1989) 103分 6万7317枚 1分あたり653.6枚
・「紅の豚」(1992) 93分 5万8443枚 1分あたり628.4枚
・「もののけ姫」(1997) 133分 14万4043枚 1分あたり1083.0枚

 「もののけ姫」がいかに突出したていたか判るが、それ以前では「魔女の宅急便」が1分あたりの画数が一番多い。自らの身体で空を飛べてしまうという設定の「魔女」だから、作画数も多くしなければ不自然な動きになる。そこで「ナウシカ「ラピュタ」「トトロ」を越える画数になったんだろうし、作品の信用が増してきて予算的にも可能になったのだろう。(以上の6作品は、いずれもキネマ旬報ベストテンに入選していて、アニメ作品として稀有の高評価だった。)この作画数の多さは画面を見ていれば一目瞭然で、映画の躍動感に惚れ惚れする。
(トンボを助けに行くキキ)
 細かいプロットはほとんど忘れていて、やはり30年は長いと思った。簡単に調べられるのでここでは細かく書かないが、「13歳で自立しなければならない」という「魔女」の家に生まれたキキの思春期の揺らぎを描いている。「飛べる」のは「血筋」(遺伝)の問題で、キキは幼い頃から練習して飛べるようになった。この幼い時代の「全能感」が自立の過程で一度失われる。「飛べなくなる」し、いつも一緒で言葉が通じた黒猫ジジの言葉も判らなくなる。

 しかし、飛行船の遭難事故で友だちのトンボが危機にあることを知って、自分が助けに行くのだと街角の清掃人が持つデッキブラシを借りて飛ぼうとする。そこで「飛ぶ能力」を取り戻すのである。これは幼い日々の「魔法」が解けて自信喪失した経験を持つすべての人に届く設定だ。あるとき「あなたが必要だ」という時が来て、「今でしょ」と後押ししてくれる。そこで揺れ動きながらも、何とか自分の力を取り戻していくわけである。これはなんて素晴らしい「飛ぶ教室」だろう。

 「飛ぶ」という言葉は、「勇気を持って生きていく」とでもいった感じで使っている。昔から「清水の舞台から飛び降りる」とか「見る前に飛べ」という言葉があった。昔エリカ・ジョング「飛ぶのが怖い」という小説がベストセラーになったことがある。それは青春期の多く人に起こることだろう。「飛ぶ教室」はドイツの作家ケストナーの児童文学で、その劇中劇の題名だが、ここではもっと広い意味で使いたい。多くの青春ドラマは思春期の危機を乗り越えて「飛ぶ」までの波瀾万丈を描く。ただし多くの場合、「飛ぶ」は比喩だけどキキは魔女だから本当に飛べる。
(キキが住むコリコの町並み)
 もう一つ魅せられてしまうのは、キキが住むコリコの町の魅力。先頃なくなった安野光雅の「旅の絵本」シリーズでもヨーロッパの町並みは美しく描かれて僕らを魅了した。そんなヨーロッパの美しさはどこから来るのか。広告や電柱がなく、屋根の色が美しい。モデルはあるのかというと、そういうサイトがたくさんあってモデルの街へ行ってきたという写真は多い。特にスウェーデンのストックホルムゴットランド島が挙げられることが多い。またエストニアなども挙げられる。ここではバルト海最大の島ゴットランド島の写真を載せておく。最大都市ヴィスビューは世界遺産に指定されている。タルコフスキーの「サクリファイス」の舞台でもある。
(ゴットランド島)
 原作者の角野栄子国際アンデルセン賞を受賞し、出身の江戸川区に記念館が作られることになっている。原作は読んでないのだが、今度読んでみたいと思った。この映画は今後も生命を失わないと思う。是非再び一般上映されることを期待したい。
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大林宣彦監督「青春デンデケデケデケ」

2020年07月27日 22時37分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 大林宣彦監督の追悼上映の続き。「青春デンデケデケデケ」(1992)と「時をかける少女」(1983)だが、後者は見なかった。2017年に国立フィルムセンターで「再タイミング版」を見てるので、今回はまあいいかと思ったのである。筒井康隆原作を尾道で映画化したもので、同時代的にはすごく面白かった。しかし、趣向は覚えているので再見したら案外面白くなかった。原田知世の記憶が改変されてしまって、尾美としのりが可哀想。「ラベンダーの香り」も今じゃ珍しくもないが、あの頃はほとんど誰も知らなかったのである。

 「青春デンデケデケデケ」は、公開当時に2回見てるので3度目になる。非常によく出来た青春映画で、いい映画を見たなという気持ちを見る者に残す。芦原すなお直木賞受賞作の「完全映画化」で、物語にある適度なセンチメンタリズムやユーモアはほとんど原作由来である。尾道シリーズなど冒頭に「A movie」と表示されるが、この映画にはない。原作があって、石森史郎(ふみお、「旅の重さ」などの脚本家)のシナリオがあって、原作の舞台となった香川県観音寺市でロケをした。プロの技量を十分に楽しめる幸福な映画だ。

 主人公(語り手)である「ちっくん」こと藤原竹良林泰文)が高校時代にロックバンドを作った思い出を振り返った物語である。ロックバンドじゃなくても、高校時代に何かに打ち込んだ経験を描くという意味で「部活映画」的な構造を持っている。というか、「軽音楽部」として正式に学校で活動できるようになって、高校3年の文化祭(燧灘祭=すいたんさい)がハイライトになる。「王道文化祭映画」の最高峰レベル。(ヘタレ文化祭映画の最高峰は「リンダ リンダ リンダ」。)
(練習シーン)
 今回一番驚いたのは、ちっくんと一緒に最初にバンドを作ることになる白井清一浅野忠信だったこと。全然知らなかった。浅野忠信の名前は、多分「幻の光」(是枝裕和、1995)や「PiCNiC」(岩井俊二、1996)あたりで認知したと思う。今調べると、それ以前に僕の見ていた映画に結構出ているじゃないか。しかし、この物語で白井清一よりも重要なのは合田富士男大森義之)の存在だ。お寺の息子で、時には父に代わって法事を務める。

 世慣れていて、エロ本をちっくんに貸したり、檀家を通していろんな話を知っている。エレキギターを買うために夏にバイトするが、その工場も合田が見つけてくる。その手腕は周囲でも認められていて、男だけでなく女生徒も恋愛相談を持ちかけている。物語の中のユーモラスなエピソードには大体彼が絡んでいる。スクーターに乗って、丸刈りの合田が法事に出掛けるシーンなど、通りすがりの誰彼に話しかけながら、ちっくんと話し続ける場面がとてもいい。お寺を練習に使う目算もあって、合田の参加がキーになる。夏休みの思い出にと同級生の女の子が海に行こうと誘うシーンも、裏に合田の企みがあった。
(自宅近くの海でデート)
 ドラムに岡下巧を吹奏楽部から引き抜いて、バンドが出来る。白井のエピソードとして「八百屋お七みたいな」引地めぐみ、岡下のエピソードとして、石川恵美子の好きな三田明美しい十代」を演奏するシーンなど、それぞれのメンバーを生かしながらの語り口がうまい。みんな原作にあるわけだが、実際の映像や音楽が加わると説得力が増す。これが映画にするという意味だろう。祖谷渓(いやだに)の小歩危(こぼけ)に合宿に行くシーンも、映画を見たときは行ってなかった場所だが、今見ると行ったなあと懐かしく思い出す。「かずら橋」はほんとうに怖かった。
(合宿シーン)
 大林監督の初期作品のような特撮を駆使した映画ではないが、編集で見せる映画でもある。カメラはパンや移動で激しく動き、それを自由自在に編集している。音楽の使い方もうまく、見る者を青春の懐旧に浸らせる。一体何カットあるのかと思うぐらい、上手に編集している手腕も見どころだ。原作の舞台でもある観音寺第一高校でロケできたのも大きいだろう。故郷の人々が映画製作に協力していることも、暖かなムードを醸し出している理由だと思う。そして、最後の感傷がまた多くの人に自分の青春を思い出させる。ところで、僕の世代には古いイメージのベンチャーズだが、ちょっと前の世代にはこれほど大きな衝撃だったのである。
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大林宣彦監督「HOUSE」「ねらわれた学園」

2020年07月26日 22時42分08秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸坐で大林宣彦監督の追悼上映を断続的にやっている。先月は「さびしんぼう」「野ゆき山ゆき海べゆき」を書いたが、今月は「HOUSE」「ねらわれた学園」と「時をかける少女」「青春デンデケデケデケ」の2本立てを2日ずつ上映である。まずは最初の2本だが、どちらも公開直後に見て以来だ。「公開直後」と言っても、若い頃はほとんど名画座で見ていたから、多分どこかの名画座で見たんだと思う。1977年の「HOUSE」は大林監督の商業長編映画のデビュー作だが、見た時にすごく面白いと思った。その年の自分のベストワン映画だった。
(HOUSE」)
 1977年7月30日公開だったから、ほぼ43年ぶりに再見したことになるが、確かに今も面白かった。「特撮」を駆使して、ひたすら楽しい映像を作っている。こういう「遊び感覚」だけで作られた映画は初めて見た気がしたんだと思う。日本でもパロディやブラックユーモア、オシャレ感覚の映画はそれまでにもあった。しかし、パロディやブラックユーモアは、事前の知識があってこそ楽しめるところがある。「HOUSE」は若い観客が見て、ただ楽しめる映画に作られているのである。
(「HOUSE」)
 もっとも「HOUSE」が1位というのは、今から客観的に振り返れば過大評価だろう。77年は「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督)の年で、第1回日本アカデミー賞はじめ、キネ旬、毎日映コンなど映画賞を独占していた。僕はこの映画があまり好きではなかったが、3位の「はなれ瞽女おりん」(篠田正浩監督)や2位の「竹山ひとり旅」(新藤兼人監督)の方が上だと思う。近年になって見直したが感銘深い映画だった。「HOUSE」は21位で、11位以下には「黒木太郎の愛と冒険」(森崎東)や「北陸代理戦争」(深作欣二)などが入っている。

 「HOUSE」に関する情報はネット上に多い。「カルト的映画」なんだろう。ポップ感覚あふれるホラー映画で、77年じゃ少し早過ぎたんだと思う。当時18歳の池上季実子が主演だが、美少女ぶりに圧倒される。しかもなんとヌードシーンがある。実に自然で美しい描写で、僕は忘れていたのでちょっと驚いた。大林監督は少女を使っても、ヌードを見せるときがある。今の方が難しいかもしれないが、すごく美しいシーンだと思った。

 池上演じる「オシャレ」他7人の少女が田舎のお屋敷で悲劇に見舞われる。まあ「ホラー」というか、笑っちゃう展開だから、一緒になって楽しむ映画だと思う。他の6人は大場久美子松原愛神保美喜などだが、残りの3人は女優としては残らなかった。少女趣味的な「ガーリー・ムーヴィー」は後に多くの女性監督によって作られるが、「HOUSE」は12歳だった監督の娘、大林千茱萸(ちぐみ)のアイディアを生かした「ガーリー」な感覚が楽しい。同時に大林監督のオトナとしての売れ筋感覚も発揮されている。ずいぶん遊び的描写があるのに、88分と短いのも良い。
(「ねらわれた学園」)
 1981年の「ねらわれた学園」は薬師丸ひろ子主演のアイドル映画として作られた。眉村卓のジュニア向けSFの原作を角川映画が映画化した。大林監督の長編5作目で、テーマ曲となった松任谷由実守ってあげたい」が流れてくると、時間が戻って若い頃がよみがえる気がする。もっとも映画としてはたいしたことがないが、まあ若い時なら楽しく見られる。SFだし、ほぼ全編特撮で楽しく作られている。薬師丸ひろ子は健闘しているが、「時をかける少女」の原田知世と同じく、若すぎて池上季実子ほどの魅力を感じられなかったのが残念。
(「ねらわれた学園」=第一学園)
 話は超能力で学園支配をねらう「金星人」たちに対し、同じく超能力者である薬師丸ひろ子が立ち向かう。ただそれだけの物語で、その学園が何故ねらわれるのか、全く判らない。「HOUSE」はオリジナル脚本だから、7人の美少女たちがどういう順番でどうなるかは判らない。でも「ねらわれた学園」は話が単純すぎて、昔見た時も映像しか楽しめなかった。でも映像は楽しいのである。東京で撮影されているが、ロケハンの重要性も感じさせる。舞台の「第一学園」は、都庁が建つ前の空き地に特撮で合成したという。

 校長を原作者の眉村卓がやっている。担任の先生は岡田裕介で、今は東映会長である。当時の東映社長岡田茂の息子で、東宝の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主役に(親と無関係に)スカウトされた。70年代当初は青春映画によく出ていた。悪の手先になるクラスメイト有川は手塚真で、手塚治虫の息子だが映像クリエイターとして活動している。稲垣吾郎、二階堂ふみ主演で、手塚治虫の「ばるぼら」の映画化作品が公開を控えている。大林作品は特別出演や友情出演がいっぱいで、探すのも楽しい。名前を忘れている人が多く、後で検索することになる。「HOUSE」では池上季実子の父を作家の笹沢佐保がやっていた。
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「千と千尋の神隠し」のアニミズムー宮崎駿を見る③

2020年07月06日 17時07分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」は、2001年7月20日に公開され爆発的に大ヒットした。日本映画史上最高の興収額308億円を記録している。(2位の「君の名は。」は250億円。)興収ベストテンで宮崎作品が半数の5作品を占めている。観客動員数でも、2352万人で歴代1位である。(2位は「アナと雪の女王」。)作品的な評価も高く、ベルリン映画祭グランプリアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞するなど、世界的に評価が高かった。

 それも納得の素晴らしい出来映えで、「千と千尋の神隠し」は宮崎駿監督の最高傑作だろう。アニメーション技術が非常に高く、経費も時間も掛けられるようになったスタジオジブリの最高の達成である。もともと子どもを意識した企画だったこともあり、適度なセンチメンタリズムが見る者の心に響く。「トンネルの向こう」あるいは「橋の向こう」に「異界」があるという、ファンタジー映画の定番設定だが、誰の夢にも出てくるような懐かしさに満ちている。

 「異界」に迷い込んだ親子のうち、両親はなんと豚に変えられてしまい、少女がその呪いを解くために闘うのである。ファンタジー的にはよくある成り行きだけど、傑作なのは迷い込んだ先の「油屋」という湯屋だ。ここは「八百万の神様」が疲れを癒やしにくるところなのである。訳が判らない設定だけど、日本の夏の高温多湿を知っていれば、神様だってお風呂に入りたいよねえと納得してしまう。そして少女「荻野千尋」は魔女の「湯婆婆」(ゆばーば)に名前を奪われて「」という名になって支配されてしまう。

 千は何故か助けてくれる「ハク」の協力で、湯屋で働くようになる。そして不思議な成り行きで、ハクが奪ってきたハンコ(魔女の契約印)を湯婆婆の双子の姉である銭婆(ぜにーば)に返しに行く。水の中の鉄道を行く場面は最高にロマンティックで情感にあふれていると思う。そして戻ってきて、「ハク」の本当の名前を突然思い出す。謎の少年にして、蛇の化身である「ハク」は、千尋が幼いときに落ちたことがあるコハク川の神様、「 饒速水小白主」(にぎはやみこはくぬし)だったのである。何だか全然判らないけど、感覚的に通じるものがある。

 それはアニミズム的な感覚だろう。すべてのものに神が宿るという自然崇拝的な世界観である。「八百万の神」という発想は、そもそも多神教の文化だ。「もののけ姫」にも、そのような自然崇拝的な感性が見られたが、「千と千尋の神隠し」は子ども向けという枠を超えてアニミズム讃歌を繰り広げている。一神教文化の国でも受け入れられたのを見ると、世界の人々の心の奥には自然崇拝的な心性が残されているんだろう。

 あまり図式的に理解する必要もないと思うけれど、「」は「荻野千尋」の漢字表記を分解されてしまうことで支配される。日本では中国から「文明」を受け入れて、名前も中国の文字を幾つか組み合わせて作るのが普通である。アニミズムの世界に「文明」がやってきて、名前を通して支配される。そのような歴史を象徴するような感じがする。主な舞台となる「油屋」は、地下にボイラー室があって各室に湯を供給している。その様子は一種のお城的だけど、今までの作品にある「都市国家」とまでは言えない。細部に至るまで「日本的な感覚」で作られた作品だと思う。

 なお、最初に両親は「つぶれたテーマパーク」かと思って廃墟の街に入り込む。かつてバブル時代にあちこちに作られたテーマパークは、20世紀末からどんどん潰れていった。実際に日本のあちこちに、潰れた観光施設や温泉旅館、リゾートホテルの廃墟が存在する。自由に入り込めるところは基本的にはないけど、外から見ると時間の流れ、諸行無常を感じるものだ。そんな場所が「異界」に通じているという感覚は多くの人に通じると思う。
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「もののけ姫」の反人間主義ー宮崎駿を見る②

2020年07月05日 21時06分30秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1997年7月12日に公開された宮崎駿監督の「もののけ姫」は当時の興行記録を塗り替える大ヒットを記録した。その後「千と千尋の神隠し」がメガヒットになったので、何となく「もののけ姫」の印象が薄くなっているが、1998年の正月になっても上映されていたのである。この映画を最初に見た時は、その衝撃的なテーマ設定映像の美しさダイナミックな展開に感動を覚えた。その年の自分のベストワン映画である。キネ旬ベストテンでは2位に選出されている。

 この映画を見直して、その難解さに驚いた。難解というか、ただ展開をドキドキしながら楽しむことは出来る。しかし、一体この登場人物は歴史上でどういう役割を担う人なんだろうかとか、動物と人間のあるべき関係宗教性と祟りの問題などを考え出すと、理解が難しいのである。多くの人は、この映画はすごいと感じながらも、筋書きを説明出来ないんじゃないだろうか。子ども向けの適度なセンチメンタリズムも見られない。妥協なく自己の世界観を貫徹している。

 1984年の「風の谷のナウシカ」がキネ旬ベストテン7位になって以来、宮崎アニメはずっとベストテンに入選してきた。「天空の城ラピュタ」(1986、8位)、「となりのトトロ」(1988、1位)、「魔女の宅急便」(1989、5位)、「紅の豚」(1992、4位)と続いている。その間、高畑勲監督の「火垂るの墓」(1988、6位)、「おもひでぽろぽろ」(1991、9位)、「平成狸合戦 ぽんぽこ」(1994、8位)もあったわけだから、当時はそんなに意識していなかったけれど、単に日本やアニメ映画というだけではない世界映画史上の奇跡の時代に立ち会っていたのである。

 1995年には近藤喜文監督の「耳をすませば」が公開されたが、宮崎駿作品は5年間作られていない。(なお近藤監督はそれまで宮崎、高畑作品で作画監督などを務めていた。1998年に亡くなったので、「耳をすませば」が唯一の監督作品である。)そして宮崎監督が満を持して発表したのが、「もののけ姫」である。最初はいつの時代か判らない。明らかに日本列島のどこかであるが、「タタリ神」となったイノシシが出てくるなど、古代かと思う。しかし主人公のアシタカが西へ旅立つと、やがて「たたら製鉄」で銃を作るムラが出てくるので、中世だったのである。

 中世の非農業民の世界を描いていて、それは当時大きな注目を集めていた中世史家・網野善彦の影響だった。また「たたら製鉄」を行うムラ(というより「城塞都市」と呼ぶべきだろう)では明らかにハンセン病者が労働力の担い手として重要な役割を果たしている。ムラを束ねるリーダーのエボシ御前と呼ばれる謎の女性は、病者に差別心を持っていない。日本では1996年の「らい予防法」廃止まで、ハンセン病患者の「隔離」が法律上続いていた。「もののけ姫」公開の一ヶ月前に、僕はFIWC関東委員会の「らい予防法廃止一周年集会」を開催していたのである。

 僕は溝口健二や黒澤明の古い名作映画を敬愛しているが、「もののけ姫」製作時点で40年以上も経っていて、「雨月物語」や「七人の侍」の中世社会像に違和感が大きくなっていた。それは自分が歴史教員だからという特殊要因が大きい。「もののけ姫」の新しい中世社会像を見て、それだけで高い評価をしたのである。またハンセン病問題を取り上げたことで(それは説明されないので、判らない人もいるだろうが)、それも僕にとって大きかった。この映画を作るに当たって、宮崎監督はハンセン病療養所多磨全生園を訪れて参考にしていた。

 宮崎作品はそれまで、どこと明示されていない場合が多いが、ヨーロッパ的景観を描くことが多かった。「となりのトトロ」は例外だが、「もののけ姫」は本格的に「日本の歴史と格闘した」という意味で特別の重みがある。この映画の「たたら製鉄の村」は実はヨーロッパ風の「城塞都市国家」であって、「カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」の系譜にある。しかし、ここでの労働の描写が「千と千尋の神隠し」の湯屋につながって行くのである。

 内容的に言えば、一応アシタカという「旅する青年」のイニシエーション(通過儀礼)である。そこにエボシという謎の女性が出てくる。では題名の「もののけ姫」とは何だろうというと、山犬に育てられたサンという娘のことである。エボシが謎の男たちと進める「シシ神殺し」(森の開発)を、アシタカとサンがいかに止められるか。それがメインテーマだが、事が終わってもサンは人間を信じることが出来ない。深いアンチヒューマニズム(反人間主義)に驚く。

 映像の力は圧倒的だが、シシ神とかタタリ神とは何なのかは全く判らない。エボシをどう評価するべきかも、もともと歴史上の人物を一面的に評価は出来ないけれど、なかなか難しい。このような「女性大名」的な存在は皆無とは言えないが、やはり空想的存在だろう。細かく検討して行くと、映画で描かれている内容の前提が崩れてしまうかもしれない。それでも、ここまで「日本的なるものと格闘した作品」は思い浮かばない。ベストテンは運だけど、この年はカンヌ映画祭パルムドールの今村昌平監督「うなぎ」とぶつかってしまった。ファンタジーではなく、実際の日本の庶民を描いた方が強かった。
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「風の谷のナウシカ」の予言性ー宮崎駿を見る①

2020年07月04日 17時43分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画館が再開しても、席を半分に絞るなどして興業も振るわない。そんな状況を見て、スタジオジブリの旧作4本を低価格で上映するという企画が始まった。そして4本全てが興行成績ベストテンに入った。中でも宮崎駿の傑作が1位から3位を独占している。公開から時間も経って大スクリーンで見てない世代も多いだろう。この機会に見直したい人にも親切な価格設定だ。 

 僕はもともと「ジブリ映画専門館」や「寅さん映画専門館」が欲しいと思っていた。今回に続き、是非他の作品も上映して欲しいと思う。また日本語字幕付英語吹替・日本語字幕版なども上映して欲しい。作品的には一番好きな「紅の豚」や「魔女の宅急便」も見直したいところだが、それより高畑勲追悼上映を何故やってくれなかったのか。夏には是非「火垂るの墓」のリバイバル上映を求めたい。「平成狸合戦 ぽんぽこ」も見直したい。

 今回宮崎駿作品の「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」を再見した。基本的に映画は映画館以外では見ないので、ずいぶん久しぶりになる。「風の谷のナウシカ」(1984)だけは、その後80年代にもう一回見ているが、30年以上も前のことになる。今では公開当時に映画館で見たという経験も貴重なのかもしれない。3本まとめて感想を書こうと思っていたが、長くなりそうなので分けることにしたい。まずは「ナウシカ」から。

 「風の谷のナウシカ」(1984)はまだジブリ作品ではない。しかし徳間書店が製作の中心なので、実質的にはジブリ作品的である。上映当時に完成度やメッセージ性が評判を呼んで、普段アニメ映画をほとんど見ない僕も見に行った。当時はまだ日本映画は会社システムで上映されていた時代だが、この映画は「洋画扱い」で、一本立てロードショー上映された。キネマ旬報ベストテン7位に入選したが、これは長編アニメーション映画として初めてである。

 スタッフのクレジットが冒頭に出てくる。声優のクレジットはラストだが、役名が出ない。これらは「80年代的」な感じ。その頃の映画は、まだそんな風だった。今みたいに映画の終わりに延々とクレジットが出るようになったのはいつからだろう。この映画は「SFアニメ映画」という「ジャンル映画」に属している。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」も同じかもしれないが、物語の作りは安易なジャンル分けが出来ないほどの独自な世界を形成している。それに比べれば、ナウシカは思想的独自性は高いが、世界の構造はジャンル的な「お約束」が認められると思う。
(オウムを如何にして止めるか)
 そのため最初に見た時は、評判ほど優れているとは思えなかった。しかし、「風の谷のナウシカ」は不思議なほどに「予言性」を秘めた映画である。1995年になって、僕は「オウム(王蟲)の暴走を如何にして止めるか」の映画だったことに気付いてビックリした。今回見たら、「マスクをしないと生きていけない世界」で「マスクが要らない世界をどう取り戻すか」という映画だったと気付いた。今後も新たな困難に直面した時に、「予言の映画」として立ち現れるのではないか。

 宮崎駿の映画に関しては、多くの人が様々に論じているので、今ここではその世界構造を新たに読み解こうなどとは思わない。ただ久しぶりに見た感想を書き留めるだけだが、今回見て「世界的なパラダイム転換」を象徴する映画だと思った。映画の最初の方で、「風の谷」に軍事大国トルメキアが侵攻してくる。70年代までだったら、「トルメキア侵攻にいかに抵抗するか」が中心テーマになるだろう。「サウンド・オブ・ミュージック」はその代表的な映画である。

 しかし「風の谷のナウシカ」では、トルメキアへの抵抗が主題にはならない。すでに世界は滅んでいて(千年前の「炎の七日間」)、「腐海」に呑み込まれつつある。その中で「自然を制圧して世界を救う」のか「自然と共生して世界を救う」のかが焦点になる。「反ファシズム」から「エコロジー」へという、我々の世界認識のパラダイム変換がここにあった。

 宮崎駿の映画は全部「飛ぶ教室」だと思っているが、ナウシカほど風を良く読んで世界を飛べる少女はいない。(「魔女の宅急便」では魔法を使えるが、ナウシカは風を読む。)まさに「風の歌を聴け」である。村上春樹の小説と宮崎駿の映画が、ほぼ同じ頃に世界中で受け入れられたのは何か共通性があるのではないか。「世界を救う少女」であるナウシカは、その後現実に現れたマララ・ユスフザイグレタ・トゥンベリの遙かなる先駆けだった。
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