goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アンソニー・ホロヴィッツ「その裁きは死」

2020年09月14日 22時40分48秒 | 〃 (ミステリー)
 内外に書くべきことが多い中、一昨日からアンソニー・ホロヴィッツ(Anthony Horowitz)の新作「その裁きは死」(The Sentence Is Death、2018)をひたすら読みふけっていた。前作「メインテーマは殺人」に続く「探偵ホーソーン」シリーズの2作目である。1作目は大傑作だったし、さらに2018年に翻訳された「カササギ殺人事件」も超絶的な傑作ミステリーで、ミステリーベストテンでは2年連続でトップになっている。ホロヴィッツの新作なら読まずにはいられない。

 このシリーズはアンソニー・ホロヴィッツ、つまりは著者本人がワトソン役を務めて、実際の私生活も出てくるというのが新趣向である。今回もテレビ番組のロケをしている(つまり、交通は一時的に遮断している)ところに、なぜか元刑事のホーソーンがタクシーで出現する。ホーソーンは故あって警察を退職した身だが、難事件の場合のみ警察から頼まれて捜査に参加する。その捜査の様子を見聞きして、ホロヴィッツが本を書くという契約(印税は半々で分ける)である。

 だから一種ノンフィクション的に進行するのだが、ホロヴィッツはそれなりにホーソーンに競争心を燃やし、できれば自分で犯人を突き止めたいと思う。一方、警察は警察で捜査を行っていて、ホーソーンの介入を喜ばない。そんな設定で、「ホロヴィッツ」なる書き手の目を通してだが、事件の手がかりは全て示されているのである。そして、ある者(ホロヴィッツや警察や読者など)は往々にして間違うわけだが、ホーソーンは真相を見通している。そして真相が明かされれば、確かにこれほどフェアに書かれた本格的な犯人当て小説は近年珍しいと思う。

 今回は有力な離婚専門弁護士が殺害されたという事件である。殺害方法はワインのボトルで殴られた後で、割れた瓶で刺されたという珍しい方法だった。さらに現場には「182」というペンキで描かれた数字があった。今どき「ダイイング・メッセージ」かと思うと、これは犯人によるものらしい。そんな現場なのでホーソーンが呼ばれたのである。被害者は同性婚をしていたが、相手は留守だった。ちなみに何故かホーソーンは同性愛を嫌っている。

 最近担当した事件では、夫側の弁護士だったので、妻側には憎まれていたようだ。その妻というのが、日本人のフェミニスト作家、アキラ・アンノなのである。そしてアンノは最近レストランでたまたまその弁護士に会って、ワインをぶっかけてボトルで殴りたいと言っていたとか。このアキラ・アンノは「俳句」(3行英語詩)も書いていて、何とその「182」は「君が息 耳にぞ告ぐる 裁きは死」というものだった。「アキラ」が女性だという設定は日本人には「?」だが、芭蕉の名が出てくるなど、俳句が重要な役割を持つミステリーである。

 夫側も妻側もなかなかユニークというか強烈な人物で、怪しげではある。ところが、もちろんそれでは終わらず、被害者には過去の因縁もあることが判ってくる。被害者は大学時代の友人たち2人と「ケイビング」(鍾乳洞探検)を趣味にしていたが、数年前に一人が亡くなる事故が起こったのだ。そして、この弁護士が殺される前日に、残ったもう一人のメンバーがロンドンの駅で列車に轢かれて死んでいたことが判る。これも殺人だったのか、それとも自殺か単なる事故か。ホーソーンとホロヴィッツは、その友人宅や鍾乳洞をヨークシャーまで訪ねてみる。

 このヨークシャー(イングランド東北部)の風景描写も美しい。登場人物がミステリーの通例により、ウソをついたり謎を秘めているので、どうも殺伐とする。しかも、警察の担当がえげつなく、さらにホーソーンの抱える謎が深すぎる。事件以外の問題に気を取られてしまうと真相を見失うことになる。事件の性格は前作の方がスケールが大きく、真相の驚きも深かった。今回はアキラ・アンノなる日本人女性作家の描き方がやり過ぎで、全体に共感がしにくい。真相の驚きも前作ほどではないが、それでもフェアな描写に解明の鍵が隠されていたことに感嘆した。
(アンソニー・ホロヴィッツ)
 アンソニー・ホロヴィッツ(1955~)は少年向けスパイ小説などで有名になり、テレビの「名探偵ポワロ」の全脚本を手掛けた。またシャーロック・ホームズや007の公認続編を書くなど、長いキャリアを持っている。しかし本格ミステリー作家として評価されたのは最近のことで、今までの鬱憤(子ども向けとかテレビ作家とかで低く見られがち)を晴らすような描写が随所にある。ただ、それらも意図的なミスリードをねらっているものなので、うっかりテレビ界の内幕やホーソーン個人に興味を持ちすぎると本筋を見失う。やはり巧みな小説にうなるしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深緑野分「戦場のコックたち」を読む

2020年01月30日 22時46分21秒 | 〃 (ミステリー)
 2015年に刊行されて直木賞、本屋大賞の候補にもなった深緑野分戦場のコックたち」(創元推理文庫)を読んだ。2019年8月に文庫化され、単行本が評判になったから買ってみたものの、500ページを越える長さにビックリして放っておいた。創元推理文庫に入っているように、この本は「ミステリー」とされている。2015年の「このミステリーがすごい!」第3位を初め、ミステリーベストテンに選ばれている。

 この本は普通の意味のミステリーとはとても違っている。「戦場における日常の謎」を描くという、今まで誰も書いてない小説である。「日常の謎」ミステリーは、北村薫以後多くの作家により書かれてきた。殺人事件が起こって犯人を捜すという昔風の「探偵小説」と違って、毎日の暮らしの中で起きる「小さな疑問」、それらを心理的な謎も含めて解き明かすというタイプの小説である。

 しかし戦場、特にこの小説で舞台になっている第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、ノルマンディー上陸作戦以後の米軍とナチスドイツとの戦いにおいては、毎日毎日兵士がどんどん死んでいる。飛んでくる銃弾に当たるかどうかは偶然で決まる。それはもちろん「殺人」だが、「犯人」は「敵兵の誰か」であって、追求のしようがない。そんな死がありふれた世界で、「日常の謎」、具体的には「何故かパラシュートを集めている兵士がいるが理由はなんだろう」とか「倉庫から粉末卵600箱が盗まれた事件の犯人と理由は何か」とか、小さな謎が一体どういう意味があるのだろうか。

 著者は初めて読む作家だが、「ふかみどり・のわき」と読む。1983年生まれの日本人女性作家。2010年短編集「オーブランの少女」(創元推理文庫)でデビュー。2019年の「ベルリンは晴れているか」も高く評価され直木賞候補になった。読んでないけど、それも第二次大戦下のヨーロッパが舞台だ。なんで今どきの若い日本人、それも女性が、遠くヨーロッパで起きた戦場の小説を書くんだろうか。もちろん小説は誰がどんな話を書いてもいいけど、読んでみると戦闘経過だけでなく、装備品や糧食なども詳しく調査して違和感なく書かれている。というか、普通に読むときは詳しすぎるだろう。
(深緑野分氏)
 プロローグ、エピローグに挟まれた全5章で構成されている。一つ一つの章は100ページぐらいあって、とにかく細かい。「コックたち」と題名にあるが、確かに戦場で食事を作るけれど、普段はともに銃を持って戦う兵隊である。語り手は南部出身の新兵ティム(ティモシー)で、一番若いから「キッド」と呼ばれている。身分的には「特技兵」というのになって、少し待遇もいいらしい。しかし一般の兵士からは下に見られている。まずはノルマンディーにパラシュートで落下するところから始まるが、あまりに詳しいので困惑してしまう。長くて長くて、ちょっと読み始めたのを後悔するぐらい。

 しかし次第にティムの仲間たちに親しみを覚えてくる。10代で経験も薄いティムがだんだん兵士としても人間としても視野を広げてゆく。特に年長のエドが「ホームズ役」となって謎を解き明かすが、その生い立ちも判ってくるとグンと世界が深みを増して見えてくる。そして、第4章、第5章と驚くような展開があり、ミステリーというより「成長小説」の側面が強くなる。ドイツ軍との死闘はやがて連合軍優位で推移し、ティムも驚くような行動を見せるようになる。

 そして最後の最後になって、読者はやっと著者の企みに気づくことになる。戦争は終わり、生き残ったものは故郷に帰る。感動的なエピローグを読んで、小説というよりも、この戦争に関わった兵士たちの人生を考えることになる。1989年、ベルリンの壁崩壊後のベルリンのマクドナルドで、もう若くはないティムたち4人が再会する。そしてそのとき、ティムたちが戦場で取った行動の意味が初めて判るのである。ティムの人生そのものも含め、この小説に張りめぐらされた伏線がようやく深い感動の中で理解できるのだ。ミステリーだから細かな筋は明かせない。ただ読もうと思った人は途中でめげずにラストまで頑張って欲しい。かつてない深い感動が待っている。

 今でも第二次世界大戦を振り返る意味がどこにあるのか。なんで戦争を知らない若い日本人がアメリカ人兵士の世界を描くのか。それも何故コックたちなのか。それはラスト近くのユダヤ人収容所解放のシーンを読んで、僕には完全に納得できた。それぐらい衝撃的で深く考えさせられる。だからこそラストで判るティムの戦後の生き方に深い感動を覚えた。まあそこまでたどり着くのが大変過ぎたけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女子高生マジシャン酉乃初ー相沢沙呼を読む②

2020年01月17日 23時07分57秒 | 〃 (ミステリー)
 相沢沙呼の「午前零時のサンドリヨン」(2009)、「ロートケプシェン、こっちにおいで」(2011)は、「酉乃初シリーズ」と呼ばれる。「とりの・はつ」という名前の女子高生が「探偵役」になる「日常の謎」ミステリーである。表紙を見ても、ライトノベル的な作品かなと思うと、鮎川哲也賞を受賞した立派なミステリーだ。しかし、それ以上に「青春小説」としての充実感がある。多くの若い人々に勇気について考えさせる小説だと思うから、ここで紹介しておきたい。(どちらも創元推理文庫所収。)
 
 とある(埼玉県らしい)私立高校に通う語り手の「須川くん」は、クラスの中でいつも一人でいる美少女、酉乃初に一目惚れしてしまう。ある日、姉のお供で話題になってるバーに付いていくと、そこでマジックを披露している酉乃初に出会ったのである。学校には秘密にしてアルバイトしているらしい。高校生としては超絶的と言ってもいい技術を持つマジシャンだ。しかし学校ではいつも一人でいるのは何故だろう。お昼もどこにいるのか不明で、あちこち探してしまったが…。少しずつ近づく二人に様々な「学園の謎」が降りかかる。シチュエーションも展開もお約束ではある。

 大体「サンドリヨン」とか「ロートケプシェン」って何だよと思うと、実は誰でも知ってる言葉である。ここでは書かないけれど、それが内容とマッチしている。人間関係に臆病で、傷つくことに恐れて自分を偽る青春のまっただ中の高校生。そこには「いじめ」「自殺」「進路」など若き日の悩みが尽きない。複雑に絡み合う人間関係の蜘蛛の巣の中で、不思議な幽霊騒動などを解決できるんだろうか。「ポチ」と呼ばれる須川くんが、ヘタレながら誠実に頑張って酉乃初が鮮やかな推理力を発揮する。

 そんな展開が共通する短編で構成された短編集である。「サンドリヨン」は入学早々からクリスマスまで。謎の解決とともに、二人の仲が進展するのかどうかという興味もある。高校生小説では運動部が多いが、ここでは主役の二人は部活に入ってなくて、周りは演劇部文芸部なんだけど、それが謎に関わっている。演劇部だけど、今は映画を撮っていて、廊下で撮ってるから「アリバイ」に関わったりする。酉乃と中学で因縁があったらしい演劇部の超絶美女が「八反丸芹華」(はったんまる・せりか)ってやり過ぎみたいな名前だが、それらの脇役も楽しい。

 酉乃初は何度もマジックを披露するが、著者自身がマジックの名手だという。マジックが得意なミステリー作家といえば、泡坂妻夫が思い浮かぶが、ここでは主人公が高校生だからマジックそのものが謎に関わるわけではない。むしろ「謎は謎のままにしておく方がよいのか」といったトリックをめぐる論議が興味深い。上級生を巻き込んだ劇的な展開だったデビュー作に続き、「ロートケプシェン」だが、こちらは少し変化があって、須川くんの語りの前に「女子高生の語り」が入る。その女子高生は不登校になるが、それをめぐる謎が解明出来るかが鍵。コミカルさとビターな味が微妙に混じりあう。

 クリスマスで終わった前作から、どこまで行くのかと思うと3学期も終わらない。短い3学期だが、そこには「バレンタインデー」という一大イベントがある。須川くんは酉乃から貰えるのかな。通学する高校は校則が緩いらしく、堂々とチョコが行き交うらしんだが。と思うと意外な展開のあげく、男の子が貰ったチョコが机に積まれてしまうという「事件」が起きる。僕はこの謎の解決編のミステリーとしての切れ味が一番素晴らしいと思う。ちょうどこれからの季節にふさわしい青春ミステリーだが、一作目から読まないと人間関係が判りにくいだろう。「いじめ」や「不登校」をめぐって考えさせられる小説でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「medium 霊媒探偵城塚翡翠」ー相沢沙呼を読む①

2020年01月16日 22時30分53秒 | 〃 (ミステリー)
 2020年版「このミステリーがすごい」の日本編ベストワンは、相沢沙呼という作家の「medium 霊媒探偵城塚翡翠」(講談社)という本だった。誰、それ? そもそも何と読むのかというと「あいざわ・さこ」という1983年生まれの男性作家。作品名は「メディウム・れいばいたんてい・じょうづかひすい」である。そもそも「霊媒探偵」って何だよ。それは「ミステリーの自己否定」じゃないのか。どんな本なんだろうか。今まで一つも読んでない作家だけど、文庫化を待ちきれず読みたくなってしまった。

 相沢沙呼は今まで「ライトノベル」系の作品が多い。「酉乃初シリーズ」「マツリカシリーズ」「小説の神様シリーズ」なんかがあって、「小説の神様」は今度実写映画化され、5月に公開予定。「酉乃初シリーズ」は創元推理文庫に入っているので、こっちも読んでしまった。酉乃シリーズの「午前零時のサンドリヨン」(2009)が第19回鮎川哲也賞を受賞してデビューした。ほぼ10年のキャリアがあるが、今までは「日常の謎」系のミステリーで、今回の霊媒探偵で初めて殺人事件を扱ったということだ。

 ミステリー(推理小説)の元祖であるシャーロック・ホームズは、ほんの小さな事実を取り逃さずに観察し、思いも掛けぬ真相を暴き出す。それは究極的な「論理的思考力」であり、あまりにも偶然性を排除しすぎていると思うときもあるが、まさに産業革命下のイギリス都市社会の成立が背景になっている。誰かが殺されて、一体犯人は誰なのか。その謎に「頭脳」を以て立ち向かう名探偵たち。

 ところで、死者の霊魂にアクセスできる霊媒が(小説内で)存在したらどうだろうか。死者の霊が犯人を示してしまえば、それで終わりだ。まあ、近代的裁判システムでは有罪証明には使えないという問題はある。しかしミステリーのサブジャンルとして「倒叙」という形式がある。「刑事コロンボ」シリーズなどがそれだが、犯人は判っているが決め手がない。いかにアリバイなどを崩していくかを描くタイプだ。この小説もそのような感じで展開するのだろうか。

 単行本の表紙イラストは遠田志帆(えんだ・しほ)という人の担当。ウィキペディアを見ると、「屍人荘の殺人」や角川文庫の綾辻行人作品をやってる。「いかにも」的な美少女が描かれていて、アメリカ帰りの絶世の美女。20歳のクウォーター(4分の1外国系)で何か心に深く傷を負いながら、親の残した遺産で高級マンションに住んで無料で「霊媒」を務めることもある。その名も「城塚翡翠」って、何だ何だ、やり過ぎだろ。これは少女向けの「ライトノベル」というか、少女マンガのノベライズなんだろうか。

 語り手は推理作家の香月史朗(こうげつ・しろう)という人物で、過去に難事件を解決した過去があって今も時々警察から協力を頼まれることがある。そんな香月が大学の後輩に頼まれて、霊媒城塚翡翠に会うことになる。そして巻き込まれた殺人事件。続いて二人で訪れたミステリーの大家の別荘で起きた事件。それらの事件解決に翡翠がどのように関わったか。そして続く女子高生連続殺人事件。その合間に謎の「連続死体遺棄事件」の犯人による語りが差し込まれる。連続殺人犯は翡翠を狙うのか。翡翠は近づく死の予感を感じてゆくのだが…。

 そして最終章、最後に驚く真相とは…? 読んだ人にしか語れない展開だ。とにかく驚くべき真相が待っているのは保証できる。なるほどなあ、テキトーに読んでたら全然見抜けなかった。絶対に損はない本だ。ライトノベル的、美少女霊媒探偵モノと侮っていると足をすくわれる。「medium」とは、中間、中庸、媒介、媒体、中間などの意味だが、霊媒は「Spirit medium」だということだ。メディアムとふりがながされているが、ミディアムと発音することが多く、服のサイズのMでもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若竹七海の「葉村晶シリーズ」

2020年01月06日 22時39分29秒 | 〃 (ミステリー)
 若竹七海の「世界で一番不運な女探偵」、葉村晶シリーズは時々出るたびに楽しんで読んできた。12月に文春文庫新刊「不穏な眠り」を読んだけど、本屋で見たら葉村シリーズも入ってる短編集「暗い越流」(光文社文庫)があった。表題作は日本推理作家協会賞(短編部門)受賞作である。本屋にズラッと並んでたから、何か理由があるのかと思ったら帯に出てた。1月24日から金曜夜にNHKドラマで放送されるという。主演はシシド・カフカで、若くて魅力的過ぎるかなと思うけど…。

 「葉村」って何かありそうな名前だけど、一発で変換できなかったからないのかもしれない。若竹七海は1991年の「ぼくのミステリな日常」でデビュー以来、様々なジャンルのミステリーを書いてきた。「プレゼント」「依頼人は死んだ」「悪いうさぎ」は、それぞれ1996、2000、2001年の作品だから、初期の葉村晶はまだ若かった。ちゃんと(?)探偵事務所に勤めてたし。僕が読んでたのは「依頼人は死んだ」だけだったから、ほとんど印象はなかった。その後ずっと長く書かれなくて、2014年に突然「さよならの手口」(2016)で戻ってきたときには、ずいぶん年齢を重ねていたが相変わらず独身で「不運」だった。

 今回読んだ「暗い越流」の中に「道楽者の金庫」には「昭和の頃はどこの家にも武者小路実篤の印刷色紙とこけしがあったような気がする」とある。作者は1963年生まれだから、かろうじて「昭和最末期」の香りを知ってるのである。この短編は「こけし」コレクターが関係するミステリーなので、そういう叙述が出てくる。武者小路とこけしという取り合わせに膝を打って納得する世代がある。ぼくはまさにそれである。葉村晶は「国籍日本、性別女」だが、いろいろあって女がレアな探偵業を続けている。

 今、文庫本には社を越えて「葉村晶シリーズガイド」が入っている。そこに「女探偵が歩く街」という作者によるエッセイが入っている。ミステリーファンには見逃せない文章で、欧米の主な女性探偵が紹介されている。日本では殺人事件も少ないし、戸籍制度などもあって、人捜しだけなら圧倒的に警察が有利だ。私立探偵を依頼する人などほとんどいないし、ましてや女性で探偵をする人もそんなにいないだろう。まあDVやいじめ事件の調査などには女性の方が有利な場合もあるかと思うが、現実に調査を依頼する人がどれだけいるだろう。

 そういう社会の中で、一人暮らしの女性がどれだけ活躍できるのか。そのためにどういう工夫を作者がしているのか。そこも読みどころだ。葉村晶はどんどん私生活でも「不運」が積み重なって、調布のアパートで共同生活をするも取り壊され、探偵事務所もなくなる。仕方なく吉祥寺のミステリー専門書店でアルバイトして、時々知り合いから依頼される事件調査をしている。住む場所もなくなって、書店に二階に居候するようになり、冗談半分に「白熊探偵社」という看板を掲げるに至っている。

 そのため、ミステリー書店向けの仕事、例えば物故者の遺産整理で本を任せられたりするようになった。そこから事件に発展するケースもある。事件じゃなくても、ミステリー関係のうんちくを自然に入れられるようになった。そして東京西部、吉祥寺を中心にした土地をめぐりながら、人間の心に潜む悪に向き合って行く。短編が多いが、近年書かれた「錆びた滑車」の展開とアイディアにはうならされた。最高傑作だと思う。新刊の「不穏な眠り」は多少出来不出来があると思うが、読んでて楽しいのはいつもと同じ。特に「鉄道ミステリフェア」を企画した中で起きる事件を描く「逃げ出した時刻表」が面白かった。

 人間には裏があるということがよく判るような作品ばかり。でも読んでいて嫌にならないのは、葉村晶が不運を一手に引き受けてくれることもあるが、キビキビした文章による読みやすさも大きい。探偵と共にどんどん事件をくぐり抜けていくことになり、息を継ぐ暇もない。まずはテレビで評判になる前に一冊読んでみてはいかがか。今一番安定していて面白いシリーズだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大傑作「メインテーマは殺人」

2020年01月05日 21時04分22秒 | 〃 (ミステリー)
 アンソニー・ホロヴィッツの「メインテーマは殺人」(2017、山田蘭訳、創元推理文庫)は2019年の「このミステリーがすごい」の1位を獲得した傑作ミステリーだ。2018年に刊行された「カササギ殺人事件」も評判になり、僕も「大傑作『カササギ殺人事件』」を書いた。今回の作品もまた、ものすごくよく出来ていて大満足。しかも、前作と同じぐらい手が込んでいて、実に読み応えがある。

 冒頭でダイアナ・クーパーという老女が葬儀社を訪ねる。自分の葬儀の手配を生前にやっておくためだ。そして、その葬儀社を訪ねた同じ日にダイアナは殺されてしまったのである。まあ、そういう偶然もないとは言えないだろうが、いかにも不自然ではある。自ら殺されると知っていたのだろうか。という風に話が始まるが、すぐに「この書き方は不十分だ」と批判されてしまう。批判するのは警察の顧問をしているホーソーンという男。「わたし」の描写はおかしいと言うのである。

 「わたし」というのは、テレビの脚本や子ども向けのミステリーを書いている「アンソニー・ホロヴィッツ」という人物、つまり自分である。自分の小説に自分が出てきてしまうのだ。ホーソーンは事情あって警察を辞めた後も、顧問として時々難事件の捜査に関わることがある。普段はテレビの警察ドラマのアドバイザーをしている。その関係でホロヴィッツを知っていて、自分が捜査する小説を書いてくれ、利益は半々でどうかと言ってくるのである。なんでそんな本を書かなくちゃいけないのかと思うが、いろいろあって「わたし」はホーソーンについて回ることになってしまう。

 iPhoneで録音しながら捜査過程をまとめていくのが、この小説という体裁である。だから、基本的にホーソーンという付き合いづらい「ホームズ」の捜査を、「わたし」が「ワトソン」となって書き留めたわけである。その描写は実にフェアで、多分一読して犯人当てに成功する人は誰もいないだろう。言われてみれば「伏線」は十分に張りめぐらされてあり、その回収ぶりは見事の一言につきる。いろんな情報が入り組んでいて、違う方向に推理が向かってしまうから、見落としてしまうのである。

 それと「わたし」をめぐるノイズの描写があって、それが楽しいから目くらましになる。「わたし」は脚本家であって、今まさにハリウッドからも依頼が来ている。スピルバーグが「タンタンの冒険」の続編のシナリオを依頼してきて、スティーヴン・スピルバーグピーター・ジャクソンがロンドンに来るのである。その脚本会議があるから聞き込みには付き合えないというのに、その場にホーソーンがやってきてぶち壊し。実際にそういう話があったかどうかは知らないが、何しろ超有名な映画監督が実名で出てくるんだから、笑っちゃうしかない。

 ダイアナ・クーパーというのは、いまや日の出の勢いのイケメンスター、ダミアン・クーパーの母親だった。ダミアンはロイヤル・シェークスピア・シアターで活躍した後、ハリウッドに進出して活躍し、カリフォルニアに豪邸を構えられるぐらい成功している。しかし、ダイアナとダミアンの過去には、思い出したくない過去の「事故」があったのである。10年前に海辺の町でダイアナが起こした交通事故で、双子の子どものうち一人が即死、もう一人は障害が残ってしまった。その「事故」がダイアナ・クーパー殺害に関係しているんだろうか。警察は泥棒の仕業と見ているようだが、ホーソーンは一人独自の聞き込みを続ける。そしてダミアンも帰国して、いよいよ葬儀の日を迎える…。後は書けない。

 基本は「ホームズもの」の構図だが、いろんな現代ミステリーの趣向が入っている。「犯人当て」の真相と同じぐらい、「犯人じゃない当て」が素晴らしい出来映えだ。それに真相と直接関わらないような細部の謎が、ラストで一気に解明されるのも見事。自分の小説に「わたし」が出てきてしまうという「現代前衛小説」風の作りも効果的で、すっかり欺されてしまった。イギリスの演劇界、あるいはテレビや映画、また小説家の内情が折々に語られていることも魅力。そんな細部の楽しみに心奪われてゆったりと読んでいると、真相に迫る鍵が随所にあったのに気づけなくなる。だが、これは作者の勝ちというべきだろう。アンソニー・ホロヴィッツ、やっぱりすごいな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥田英朗「罪の轍」、1963年の東京ミステリー

2019年12月29日 22時43分39秒 | 〃 (ミステリー)
 トニ・モリスンをやっと読み終わって、ようやく年末のミステリーに取りかかった。ミステリ-の記事もヒットしないんだけど、自分が好きで書いてる。奥田英朗の「罪の轍(わだち)」は、多くの年末ミステリーで上位になっている。まさに「オリンピック直前」の東京の変貌を背景に、格差や虐待などを織り込み、多面的に犯罪と警察を描き出した巨編だ。587ページもあるが、長さを感じずにひたすら読みふける。北海道の礼文島東京の下町(南千住、浅草、上野など)を結ぶ構想力が素晴らしい。

 東京五輪直前というのは、もちろん前回の五輪。1963年の東京はあちこちで建設工事が行われ、日々変化している。国立競技場は完成しプレ五輪が実施されている。新幹線や代々木体育館の工事はまさに進行中。警視庁でも、昔ながらの警官が多い中、大学出の警官が捜査一課に配属されるようになった時代だ。落合昌夫はそんな期待に応えるべく張り切っている。明治大学剣道部出身だということが捜査に生きてくる場面はとても印象的である。

 一方、その前に冒頭では礼文島が出てくる。ニシンが突然不漁となり、かろうじて昆布で持っている。昆布漁師の見習いをしている二十歳の宇野寬治は、周りから「莫迦」(バカ)と呼ばれて下に見られている。記憶が長く持たず、何事も続かない。集団就職で札幌に勤めたものの不祥事を起こしクビになる。礼文に戻っても、母も冷たい。再び空き巣を繰り返し、やがて東京に出たいと思っている。そんな宇野寬治がどうやって島を出て、東京へ行けるのか。

 ある日、荒川区の南千住時計商が殺される事件が起きる。事件を捜査するが、真夏の昼間で証言が得にくい。子どもなら何か見ているんじゃないかと話を聞くと、林野庁の腕章をした男という証言が相次ぐ。それが北海道から抜け出た宇野寬治らしいということになり、落合たちは礼文島まで捜査に出張する。もちろん飛行機は予算上使えない。列車で青森へ、青函連絡船に乗って札幌へ。そこから稚内を目指す大変な旅行である。電話やテレビがようやく一般家庭に普及してきた時代だ。そんな世相が事細かに描かれ、時代の空気を濃密に再現している。

 もう一人、山谷で簡易旅館を営む家の長女、町井ミキ子を通して、山谷の状況が出てくる。町井一家は朝鮮人だったが、ヤクザの父が警察で死亡し、以後母は大の警察嫌いとなっている。その後、日本に帰化して旅館業を続けているが、弟はヤクザの下っ端になってしまった。ミキ子は商業高校を出て、一般会社に就職をしたかったが、家庭環境からかどこも採用してくれなかった。今は家の手伝いをしながら税理士を目指して勉強している。山谷のヤクザや左翼活動家などの関わりが、この小説に単なる警察小説を越えた社会的視野を与えている。

 時計商殺しの捜査が続く中、浅草の豆腐店の子どもの誘拐事件が発生する。落合たちは誘拐事件の捜査に回され、被害者宅に詰めたりする。まだ「逆探知」も出来なかった時代である。ところが、この事件でも宇野寬治が子どもたちと遊んでいたという証言が出てくる。宇野が犯人なのか。それにしても、宇野寬治はどこにいる? ミキ子は珠算教室で被害児童の姉を教えていた。一方でミキ子の弟は宇野と知り合い、仕事を見つけてやったりしたようだ。弟も事件に絡んでいるのだろうか。

 事件についてはこれ以上書かないが、途中から宇野寬治の特異な生い立ちが重要な意味を持ってくる。継父から虐待されていたのだが、最近のケースでもそのような例があった。そして彼は空き巣を繰り返しても、罪の意識を全然持たず、記憶も時々飛んでしまうようになった。このような犯人像は60年代的ではなく、むしろ21世紀的だ。果たして60年代初期の警察は、彼にうまく対処できるのだろうか。

 後半に出てくる「吉夫ちゃん誘拐事件」は、当時を知っている人ならすぐ判るように「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」をモデルにしている。1963年3月31日に、東京都台東区入谷の4歳児が誘拐された。日本初の「報道協定」が結ばれた事件である。身代金を持ち逃げされながら子どもの行方が判らず、警察が大きく批判された。犯人からの電話録音を公開し、警視総監がテレビで犯人に呼びかけるなど、実際の事件と小説は基本的に展開が共通する。この事件の経過は簡単に調べられるから、ここでは書かない。電話が逆探知できるようになったのも、この事件以後。非常に大きな影響をその後に与えた事件で、当時小学校低学年だった自分はよく覚えている。

 僕はかつて訪れた礼文島がすごく気に入って、数年後にもう一回旅行した。風景の美しさは変わらないだろう。東京の南千住に話が飛ぶと、こっちは毎週何度も通り過ぎている。北千住にあったお化け煙突もチラッと出てくる。山谷や浅草の内情はさすがによく判らないけど、東京東部の事件なので何となく土地勘がある。ミキ子が出た商業高校はどこかな、台東商業の可能性が一番高いかななんて考えながら、ずっと読みふけった。前回五輪の頃は、東京はまだこのレベルだったのか実感出来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横山秀夫「ノースライト」、新境地のミステリー

2019年06月24日 22時29分37秒 | 〃 (ミステリー)
 横山秀夫の長編「ノースライト」(新潮社)を読んだ。2019年2月刊行。前作「64」(2012)以来の長編である。書評も好評だったから、これは文庫や図書館を待たずに買ってしまおうと思った。今までのミステリー作品は概ねどこかの警察署を舞台にしていた。著者は作家になる前に群馬県で新聞記者をしていたので、その経験を基にした作品も多い。でも今回は建築士を主人公にしている。作中でもブルーノ・タウトに関する叙述が多い。家族の機微を描く点で今までの作品と共通点もあるけれど、描かれた作品世界は今まで読んだことがない新境地だ。じっくり読み応えがある。

 帯を見ると、『クライマーズ・ハイ』の感動、『第三の時効』の推理、『半落ち』の人間ドラマ、全てがこの一冊にある!という北上次郎氏の評が載っている。なるほど、うまいことを言うもんだ。それを見ても判ると思うが、大長編だった前作『64』のような骨太な警察小説とは違っている。バブル経済の崩壊後に、それまでの事務所をやめ離婚した建築士、青瀬稔。今は大学時代の友人に誘われ、所沢の建築事務所で働いている。最近軽井沢に「あなたが住みたいと思う家を作ってくれ」と依頼され、会心の住宅を建てた。それは「平成すまい二〇〇選」に選ばれるほど大きな評価を得た。

 ところがその住宅に不審が生じる。評判を聞いて見に行った人が、どうも住んでないような気がするというのである。依頼主の吉野陶太に連絡してもつながらない。元の住所を訪ねても、そこはもう引き払ってる。一体吉野一家はどこに消えたのか? 依頼主の名から「Y邸」と呼ばれる家を見に行った青瀬は、確かに無人であることを確認した。その家には「ブルーノ・タウト」を思わせる椅子が置かれていたのみ。浅間山に向かって、北向きに作って「北光」(ノースライト)を取り入れるという趣向がY邸の最大の特徴だった。それが題名の理由だけど、僕には家のイメージがよく湧かない。

 この小説にはおよそ4つのストーリーがある。吉野一家の謎、日本滞在中のブルーノ・タウトの追跡、青瀬の家族史、事務所が総力を挙げる画家「藤宮春子」の記念館建設の4つである。これらが渾然一体となって進行する。藤宮春子は生前は全く知られず、パリで客死した後に大量の絵が発見された。その記念館建設話が持ち上がり、弱小の事務所が名乗りを上げ、政治に巻き込まれる。ブルーノ・タウトはドイツの建築家で、ナチスに追われるように日本に渡り数年滞在した。桂離宮を賞賛し日光東照宮を非難し、日本の美を再発見した。タウトの建築論議は作中の謎にどう絡んでくるのか。

 「ノースライト」は会話が多く読みやすくい。読み始めると止められないけど、今までの警察小説のような犯罪をめぐる物語ではない。「クライマーズ・ハイ」が新聞社をめぐる人間ドラマだったように、「ノースライト」は建築家の世界をめぐる人間ドラマである。警察でも新聞社でもないのが、横山秀夫としては新しい。しかし建築の世界は奥が深い。三次元空間の世界を文字で再現するのが難しい。僕には今ひとつイメージがつかめない場面が多かった。マンションの平面図を見るのが趣味という人も世の中にはいるらしいけど、僕は全くダメ。Y邸を現実に再現するのは難しいから、この「ノースライト」の実写映画化は難しい。でも見てみたいから誰かアニメ化してくれないかな。

 「一家はどこに消えた」問題は意外な感じで解決するが、青瀬の人生を揺さぶる。その分、青瀬の家族関係などの比重が大きくなる。また途中から大問題となる「藤宮春子」の設定がうまい。ラストの熱い盛り上がりは読み応えがあるが、どうも既視感がある。こうなるだろうなという方向になってくる。人情話みたいでちょっと残念。群馬県は出てこないのかと思うと、タウトが住んでいた高崎の少林山達磨寺の洗心亭桐生市のノコギリ屋根建築など、行ってみたくなる。またバブル崩壊の影響がその後も長く続く様子なども心に残る。建築家の世界をいう予想外の進路を取った横山秀夫は次に何を書くのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮部みゆき「希望荘」、3・11前後の日々

2019年06月22日 22時11分38秒 | 〃 (ミステリー)
 宮部みゆき(1960~)の「杉村三郎シリーズ」第4作「希望荘」。2016年6月に刊行されて、2018年11月に文春文庫に収録された。このシリーズは数多い宮部作品の中でも一番好きなんだけど、文庫を半年も放っておいた。面白いのは判っているけど、ミステリーに気が向かない時もある。読み始めて、圧倒的な「読みやすさ」(リーダビリティ)に改めて感銘を受けた。とにかく面白くて判りやすくて、奥が深い。世代的にも出身地的にも、感覚に合うんだろうけれど。(宮部みゆきは東京都江東区出身で、深川四中、墨田川高校を卒業している。東京東部が舞台の小説も多い。))

 「杉村三郎シリーズ」は今までに5冊書かれている。「誰かSomebody」(2003)、「名もなき毒」(2006)、「ペテロの葬列」(2013)、「希望荘」(2016)、「昨日がなければ明日もない」(2018)である。杉村は児童書の編集者だったが、映画館で痴漢から救った女性と付き合うようになる。それがたまたま財閥の今多コンツェルンの庶出の娘だった。その病弱な女性を愛し、周りには「逆玉」と揶揄されながらも結婚を決意する。義父の条件は、出版社をやめてコンツェルンの社内雑誌の編集を担当するというものだった。こうして社内外の様々な問題にぶつかる中で、謎と向き合ってきたわけである。

 僕は第2作「名もなき毒」に非常に感心し、このように現代を描き続けてゆくのかと思った。そうしたら「ペテロの葬列」では、単なる犯罪の観察者に止まらず、バスジャックの被害者となった。そして様々あって、コンツェルンを退社し妻とも離婚するに至る。いやあ、そんなことがあるのかと、僕も他人事ながら(というか、架空人物だから他人ですらないけど)、杉村の今後を心配していた。

 「希望荘」を読むと、杉村は一人になって、一時は故郷の山梨県に帰った。産直グループで働くうちに、東京の大手探偵社の所長と知り合い、結局東京に戻って「杉村探偵事務所」を開いた。場所は東京都北区の北部である。もっとも仕事の大半は、その大手の「オフィス蛎殻」の下請けである。嬉しいことに昔会社の近くにあった喫茶店「睡蓮」のマスターも近くで「侘助」という店を始めた。(ホットサンドが名物。)事務所は古い家で、情味あふれる地元の土地持ちが大家。そういう新しいつながりも出来る。

 そういう地元つながりで最初の依頼が来る。「死んで引き払ったはずの店子を上野で見た」という「事件」とも言えないような調査依頼。そこから思いがけなく見えてくる現代人の孤独が「聖域」で描かれる。続く「希望荘」では、最近介護施設で死んだ父が死ぬ前に昔殺人事件に関わったかのような「告白」(とまでも言えないような思い出話)をした。その真相を確かめて欲しいという依頼である。この作品は、非常に奥が深い。1975年の事件を今追うと、もう東京も全然変わっている。人間の心のひだを心静かに見つめる著者の手さばきに感銘する。「死んだ老人の孫」という新キャラクターも趣深い。

 第3作の「砂男」は山梨に帰っていた時期の物語で、杉村の実家の様子が初めてよく判る。産直グループで働いていて、人気のそば・ほうとうの店に届けたら留守だった。家まで行くと、なんと仲よさそうに見えた夫が行方不明だという。妻の昔の友人と不倫して家出したかもという話なんだけど…。この話を追うごとに裏には裏があり、思わぬ真相に見えてくる人間の闇に驚き。そして最後の「二重身ドッペルゲンガー」では、2011年3月11日のまさにその日が描かれる。杉村シリーズの前作「ペテロの葬列」は2010年から地方紙に連載されたから、当然「3・11」前を描く。「希望荘」は時間的には「東日本大震災」をはさんだ時期になっている。震災当日の記述も出てくる。

 震災で行方不明になったらしい雑貨店の店主。その行方を捜すといっても…と思っていたら、ここでも思わぬ展開が。大津波の映像、原発事故への心配など、当時の東京で普通に生きている人々をリアルに描いている。誰もが思い出すだろう、あの時期を後世に残す「震災後文学」でもある。そしてこの作品でも「人間を見る目」に恐れ入る。初期作品は暖かな後味が印象的だったが、宮部作品も次第にビターになってきた。人間には他人にのぞき込めない深い闇もあるということだろうか。それとも日本社会の変容が反映されているのか。

 松本清張作品は、書かれていた当時はただの娯楽読み物のように扱われていた。しかし、今では「松本清張作品に見る昭和30年代の日本社会」なんてテーマは、日本文学だけじゃなく歴史学や社会学の卒業論文として全然おかしくない。そして、100年後の人々が20世紀から21世紀の日本社会を知ろうと思ったら、宮部みゆきの「火車」「理由」「模倣犯」などを読むだろう。論文もいっぱい書かれるだろうと思う。そんな中でも一番中心的に論じられるのは、杉村三郎シリーズだと思う。特に「3・11」を扱うこの「希望荘」は重要だ。普段ミステリーを読まない人も是非読んでみて欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折木奉太郎の「誕生」ー米澤穂信「いまさら翼といわれても」

2019年06月20日 22時59分56秒 | 〃 (ミステリー)
 「ボヴァリー夫人」に満腹しすぎて、フランス文学はちょっと横に置いといて、ミステリーを読みふけっている。つい買っちゃうから、時々まとめて読まないと。「ルピナス探偵団」は青春ユーモアミステリー色が強かった。そういう小説はつい読んじゃうんだけど、1973年に江戸川乱歩賞を受賞した小峰元(こみね・はじめ、1921~1994)の「アルキメデスは手を汚さない」がきっかけかもしれない。小峰は毎日新聞記者だったが、作家専門となって続々と古代ギリシャの偉人を題名に付けた青春ミステリーを書いた。当時ちょうど高校生だった僕は魅力にはまって、ほとんど読んだと思う。もっとも「アルキメデス…」は展開が予測通りだった。謎解きじゃなくて、青春小説の魅力だったのである。

 その後もいくつも書かれているが、今一番読まれているのは米澤穂信古典部シリーズだろう。2006年に角川のジュニア向け文庫で「氷菓」が刊行されてから、2016年の「いまさら翼といわれても」まで全6冊が刊行されている。全部読んでるけど、もう一つの高校生もの「小市民シリーズ」の方が謎解きとしては面白いと思う。米澤穂信は新進ミステリー作家として評価され、2回直木賞候補にもなった。でも初期から続く古典部シリーズは、登場人物のその後を知りたいからずっと読み続けている。最新刊の「いまさら翼といわれても」が早くも文庫化されたので、さっそく読むことにした。

 このシリーズは「氷菓」のタイトルでテレビアニメ化され、実写映画化もされた。だから若い人にも知名度があり、今回の帯には累計245万部と出ている。でも知らない人は全然知らないだろうし、まあ絶対読むべしとまでは言わない。僕にとっては趣味の問題である。だから今までは一度も書いてないけど、今回は主人公「折木奉太郎」について考えたいと思って書くことにした。(「おりき」と読むのかと思ったら、ウィキペディアには「おれき」と出ている。)「神山高校」に在学中で、何をしてるんだか判らない「古典部」にゆえあって所属している。そのあたりは最初から読めば判るから、ここでは触れない。

 折木奉太郎は「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」という高校生らしからぬ「省エネ主義」をモットーにしている。それならミステリーにならないはずだが、ヒロイン役の名家の令嬢、「千反田える」(ちたんだ・える)と関わる中で「日常の謎」を解決してしまう。さすがに高校生が殺人事件に出会ったりしないけど、学校には謎がいっぱいある。(僕も教員生活の中で解決できなかった謎がいくつか思い浮かぶ。)同じ中学の友人「福部里志」、里志を追ってきた「井原摩耶花」の4人が古典部員。4人を中心に学校内外の様々な問題が持ち込まれる。

 今回読んだ中では「鏡には映らない」で、中学から続く問題が「解決」される。奉太郎は「卒業制作」にも「省エネ」を実行して、学年全員の怒りを買った。しかし、その「省エネ」と見えたものは、実は理由があったのではないか。そのように思って、井原が謎を追う。そのエピソードを見ても、折木奉太郎は単なる「省エネ」人間ではない。「あっしには関わりのないことでござんす」と言いつつ、つい関わってしまう昔の時代劇「木枯らし紋次郎」の現代版みたいな人間である。どうして、そんな「やらなくてもいいことならやらない」を信奉するに至ったのか。その理由が「長い休日」という短編で明かされる。

 それを読んで、まるで自分のことのようだと昔を思い出した。僕も中学時代に似たような体験があり、「参加しなくてもいい行事はもうやめよう」と思った。無理していい子ぶっても、つらいだけで楽しくない。全員参加ならやるけど、そうじゃなければやらない。そう思っていたら、「出来れば手伝って欲しい」と言われたのに帰ってしまって、教師をがっかりさせたりした。後でそう言われたんだけど、そんなことを言うなら「やってくれ」とちゃんと言えばいいじゃんと思った。教師になって見ると、そこら辺はなかなか難しい問題だなと思った。だからこそ、ここぞというクラスの問題で、「快諾」してくれる生徒の存在ほどありがたいものはないと思う。教師は頼むべき時はちゃんと頼むべきだ。

 折木奉太郎は今後どのような人生を歩むか。それは「太刀洗万智」(「さよなら妖精」「王とサーカス」「真実の10メートル手前」など)が示している。「省エネ」主義は、「一時的な自己防衛」であり、ある時点から外部へ活躍の幅が広がるだろう。そういう人間じゃないと、わざわざ「省エネ」モットーなんか作らない。外部への関心が強いからこそ、自己防衛としての「韜晦」(とうかい)が必要になるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルピナス探偵団の誘惑ー津原泰水を発見せよ①

2019年06月19日 22時47分53秒 | 〃 (ミステリー)
 津原泰水(つはら・やすみ、1964~)と言われても、読んでる人は少ないかもしれない。名前も知らないかも。知ってる人でも、ごく最近起こった「幻冬舎騒動」で初めて知ったという人も多いだろう。「幻冬舎騒動」というのは、①幻冬舎刊行の百田尚樹「日本国紀」津原泰水がツイッターで批判していたところ、同じく同社から刊行予定だった文庫本が刊行中止になったと津原がツイッターで暴露し、②それに対し、幻冬舎の見城徹社長も津原の文庫化予定作品「ヒッキー・ヒッキー・シェイク」の実売部数をツイッターで暴露したといったやりとりがあって、いろいろと騒がれたわけである。

 僕は百田尚樹氏の本は一冊も読んでないけれど、津原泰水氏の本は一冊読んでいる。それは「蘆屋家の崩壊」(1999)で、葛の葉伝説の蘆屋道満とポーの「アッシャー家の崩壊」を掛けるという、考えて見れば今まで誰も書いてないのが不思議なアイディアのホラー・ミステリー。それなりに面白かったけど、まあそんなに趣味が合わず、その後は読んでなかった。ところが最近三省堂書店本店へ行ったら、今回の問題をきっっけに「津原泰水って誰」ミニコーナーが出来ているじゃないか。僕もちょっと読みたいなと思ってたところだったので、つい何冊か買ってしまった。その発見報告記の初回である。
 
 まず読んだのは、創元推理文庫の「ルピナス探偵団の当惑」と「ルピナス探偵団の憂愁」である。「当惑」の方には「こんなにも面白いミステリがあったなんて!!」と帯にある。「憂愁」は「こんなにも泣けるミステリがあったなんて!!」である。これがホントだったのである。特に「憂愁」はいかにも憂愁に満ちている。絶対オススメの青春ミステリーだ。
 
 津原泰水はもともと「津原やすみ」で少女小説を書いていた。ルピナス探偵団も最初は「うふふ♥ルピナス探偵団」「ようこそ雪の館へ」という名前で刊行されている。21世紀になって原書房からミステリー作品として、追加作品を入れて再刊された。その文庫化だけど、こういう経緯からミステリーとして見逃されていた。でも、確かにミステリーとして面白いのと同時に青春ミステリーとしても抜群に面白い。

 そもそも「ルピナス探偵団」とは何か。それは私立ルピナス学園高等部に通う4人の生徒たちのことである。主役は吾魚彩子(あうお・さいこ)というありそうもない姓の女子高生。10歳年上の姉が吾魚不二子という現職のトンデモ警察官で、つい彩子が密室の謎を解いたことから姉によって殺人事件捜査に巻き込まれること度々。そして友人の桐江泉京野摩耶に加えて、彩子が慕っている何でも知ってる祀島龍彦(しじま・たつひこ)が加わる。実質的には龍彦が探偵役で、プラス女子高生三人組の個性が生き生きと描かれる。不二子の上官であるものの、普段はこき使われているキャリア官僚庚午宗一郎もいて、ユーモアミステリーとしての趣向がうまい。

 しかし、単なるユーモア青春ミステリーと思ってると、驚くような展開になる。高校生の周りでそんなに殺人事件が起きるなんて、リアリティに欠けるわけだが、本格ミステリー自体がリアリティを超えている。およそ現実にはありなえい「密室殺人」だが、ミステリーの中ではいくつものパターンで描かれてきた。もうほとんどの発想は出尽くしたかと思ってたけれど、「当惑」の「ようこそ雪の館へ」や「憂愁」の「初めての密室」のトリックは初物だと思う。前者なんて、今どき吹雪の日に謎の洋館にたどり着くと殺人が…という古典的設定の密室(二重の密室)なんだけど、謎解きの思考回路も練られている。お見事。

 そして数年、すでに高校、大学も卒業して探偵団の面々もなかなか会うこともない。そんななかメンバーの一人が若くして病死して久方ぶりに集まる。そこで知った死ぬ直前の謎の言葉と行動。その真意は何だったのか。続編の「憂愁」は「日常の謎ミステリー」として発展している。と思うと、ちゃんと殺人事件も出てくる。でもそこでも、登場人物の思いには「憂愁」があふれ、単なる謎解きではない。余韻が深い。ちなみに「ルピナス」は花の名前。花言葉は「想像力」「いつも幸せ」「貪欲」「あなたは私の安らぎ」である。そんな名前のミッションスクールはありそうもないけど。フランス語で(英語でも)Lupinで、アルセーヌ・ルパンと同じ。だから「ルパン三世」の不二子とも掛かってるんだろう。
 (ルピナス)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天国でまた会おう」「炎の色」-ピエール・ルメートルを読む

2019年02月23日 23時16分26秒 | 〃 (ミステリー)
 セザール賞5部門受賞というフランス映画「天国でまた会おう」がもうすぐ公開される。公開前に原作を読んでおきたい。持ってるんだから。原作はフランスでゴンクール賞を受賞したピエール・ルメートル天国でまた会おう」(ハヤカワ文庫)である。誰だっていうかもしれないが、以前に傑作ミステリー「その女アレックス」(文春文庫)について書いた人である。この小説は2014年に翻訳されて大評判になった。買ったまま読んでない文庫が多いので、この際全部読んでみよう。

 「その女アレックス」(2011)は、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの第2作だった。その後に翻訳された「悲しみのイレーヌ」(2006)、「傷だらけのカミーユ」(2012)を今回読んだ。案外読みやすかったし、内容も面白かったけれど、この展開は何だろうと思う。「その女アレックス」は独立性が高いが、他の2作は関連性が高い。「悲しみのイレーヌ」は有名ミステリーの模倣犯を追うと思って読むと、途中で予測不能の展開になる。「傷だらけのカミーユ」も冒頭からアレレと思い続けることになる。真相はなるほどと思うが、こんな発想があるだろうか。

 単発ミステリーの「死のドレスを花婿に」(2009)は「その女アレックス」以前に翻訳されていたが、誰も注目しなかった。今は文春文庫に収録されているが、確かにこれを最初に読んで評価するのは難しい。そしてある意味、ルメートルの特徴を表している気もする。日本では最近「イヤミス」という言葉があるけれど、この本は典型的なイヤミス。読んでて実に嫌な気持ちになる。ここまで許しがたい設定をどうすれば思いつけるのかという感じ。実はヴェルーヴェン警部シリーズも、かなりイヤミス。残虐で読めないという人もいるだろう。しかし「イヤミス」たる由縁は残虐描写ではない。人間に潜む嫌らしさの面をこれでもかと描く作風にある。

 そのピエール・ルメートル(1951~)が2013年に発表した「天国でまた会おう」(Au revoir là-haut、平岡敬訳、2015年)は何とゴンクール賞を取ってしまった。ゴンクール賞は日本で言えば「純文学」の賞だから、ミステリー出身作家としては異例。「天国でまた会おう」は普通に言えばミステリーじゃやないけれど、波乱万丈のストーリイで登場人物の人生行路をジェットコースター的に描く大エンターテインメントである。ゴンクール賞としては異例だろうが、本人はデュマのような小説を目指しているらしい。19世紀の大小説は確かに波乱万丈である。

 第一次世界大戦の勃発から100年を目前に発表され、その意味でも注目された。第一次大戦の末期、もう休戦も近いと言われている段階で起きたある戦闘。その戦いに関わった二人の兵士と一人の上官。アルベール・マイヤールは上官アンリ・ドルネー=プラデルの不正に気付いてしまう。危うく生き埋めになりかかるが、兵士のエドゥアール・ペリクールに助けられる。しかし、その時砲弾がさく裂し、エドゥアールは顔の下半分を失ってしまう。アルベールはエドゥアールに恩義を感じ必死に看病するが、心を閉ざしたエドゥアールは修復手術も拒否し、自分は死んだことにして欲しいと頼む。死んだことになった弟の死体を姉のマドレーヌが掘り出しにやってきたが…。 

 そこから始まる人間関係と家族の思いが、戦後の1920年になって大規模な詐欺事件に発展する。あまりにも大胆、あまりにも壮大な発想の小説だが、人間の性格付けは決まっている。悪人は悪人で、善玉側もかなり突飛である。その意味で、この小説もある意味で「イヤミス」に近い。冒険小説、風俗小説とも言えるが、ジャンルミックスのエンタメ小説。すごく面白いけど、けっこう引っかかるシーンも多い。ゴンクール賞受賞小説って何か読んでるかなと調べたら、マルグリット・デュラスの「愛人」(ラマン)だけだった。

 2018年に続編「炎の色」(Couleurs de l'incendie)が発表され、年末には翻訳も刊行された。時代は1927年から1933年で、エドゥアールの姉マドレーヌが主人公になる。不幸な結婚を解消し子どもと生きていたが、大実業家の父の葬儀の日に悲劇が起きる。実業界、政界、マスコミなどの世界を縦横に語りながら、マドレーヌと子どものポールの運命のジェットコースターが物語られる。ミステリーではないけれど、ストーリイに一喜一憂するのが楽しみの小説なので、ここではとても書けない。壮絶なる復讐物語と言えるけれど、ここでも「イヤミス」的要素がある。人間観察に悪意があって、そこが面白い。両作とも非常に面白い。これは三部作で構想されているということで、次も待ち遠しい。19世紀的な大小説の復権を目指すピエール・ルメートルに注目。(「監禁面接」という長編だけまだ読んでない。)
 (ピエール・ルメートル)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大傑作「カササギ殺人事件」

2019年01月24日 22時50分32秒 | 〃 (ミステリー)
 長大な「幕末維新変革史」を読み終わってから、ようやくミステリー三昧。ごひいきのマイクル・コナリーの新作「贖罪の街」、いまや文庫に入らないと読まないジェフリー・ディーヴァー「スキン・コレクター」、続いて「ミレニアム」シリーズの4部、5部。全部上下2巻、合計8冊を読みふけった。いよいよアンソニー・ホロヴィッツカササギ殺人事件」(創元推理文庫)に取り掛かったが、この巧緻な作品の下巻の半ばでインフルエンザにより中断してしまい、ようやく読み終わった。

 年末の各種ミステリーランキングで1位を獲得し、ミステリーファン以外にも読まれている。よく練られた構成と圧倒的な独創性で、ものすごく面白い。確かに近年になく本格的な「フーダニット」(犯人探し)の大傑作だ。しかも、古風な英国田園ミステリーでありつつ、現代風メタ・ミステリ-でもある。なにより「謎を追う楽しみ」に満ちている。ジャンル小説を読む楽しみである。

 「カササギ殺人事件」って言うけど、それはこの本の中で出版予定の小説の名前である。アラン・コンウェイの「アティカス・ピュント」シリーズの第9作。ポアロにも匹敵する大人気シリーズ? そんなものは知らないのも道理。それはこの本の創作で、語り手はそのシリーズ編集者のスーザン・ライランド。新作を持って帰ってさっそく読み始めたけど、この本が運命を変えてしまった。

 劇中の「カササギ殺人事件」はいかにも昔風の英国推理小説で、なかなかよく出来ている。1955年サマセット州、広大な屋敷に住む貴族一家、謎のありそうな村人たち。屋敷の家政婦が階段から転落死しているのが見つかり、村では噂が広がってゆく。別の事件も発生し、ついにアティカス・ピュントが警察に協力することになる。アティカスはドイツ生まれのユダヤ人で、ホロコーストを一人生き延びた。戦後にイギリスに来て多くの事件解決したと言われる。

 いかにも昔風の設定で、イマドキこんな小説があるかとも思うが、いろんな人物の出し入れが上手で飽きない。怪しげな人物、秘密を抱えた人間はどこにもいる。平時には隠れているが、いったん事件が起きれば村人たちの「心の闇」があぶり出される。でもどうも犯人が判らないまま上巻は終わりに近づく…。そして下巻になると、話が全然違ってしまうのだ。最後の真相部分が見つからないまま、下巻では著者のアラン・コンウェイが死んでしまうのだ。

 下巻では「わたし」が真相を求めて、さまざまな人に会い続ける…。しかし、現実(小説内での「現実」)も小説(小説内での「小説」)も、真相にたどり着くんだろうか。と思うと、すべての伏線を完全に解決するラストが待っている。世の中は複雑で、あまりにも多くの不要な伏線(怪しいように思える行動)がある。作者の置いた「躓きの石」が実にうまくて、あちこち引きずり回される。

 アンソニー・ホロヴィッツ(1955~)はずいぶんたくさん書いてきたらしい。「女王陛下の少年スパイ!」などの若者向けシリーズで評価され、テレビのポワロシリーズなどの脚本も手掛けた。コナン・ドイル財団やイアン・フレミング財団公認の続編も書いている。つまり実に器用な人物だから、、いろいろと使われて、出版界やテレビ界を見て来たんだろう。この小説が初めての本格長編で、構想15年とある。中に「トリックの盗作」問題が出てきて、凡作が盗作により見事に化けるシーンがある。シロウトの凡作を見事に書いてしまうなど達者すぎる腕だ。
 (カササギ)
 なおカササギ(magpie、マグパイ)はカラスの一種で、ユーラシア大陸に広く分布している。朝鮮半島では昔から珍重されてきたが、日本にはあまりいない。佐賀県の県鳥だが、東京にはいないのでよく知らない。欧米では「おしゃべり好き」の意味があるという。あるいは「黒白まだら模様」とも。なかなか考えられたタイトルだ。しかし、パイ屋敷のサー・マグナス・パイなんてのは現実にはない名前なんだろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミレニアム」の志を継ぐもの-「ミレニアム」原作と映画②

2019年01月14日 22時31分46秒 | 〃 (ミステリー)
 「ミレニアム」シリーズの題名になっている「ミレニアム」とは何か? それは、主人公ミカエル・ブルムクヴィストとその友人(長年の愛人でもある)エリカ・ベルジュが創刊した、硬派の社会派雑誌の名前なのである。彼らは長年、極右政治家や移民排斥論者、悪徳財界人や児童虐待、性差別などを鋭く追及した調査報道型の季刊雑誌を作ってきた。そんな雑誌があるなんて、スウェーデンの出版事情は日本よりも素晴らしいのか。いや、もちろんそんなことはないだろう。ジャーナリストだったスティーグ・ラーソンにとって、自分の夢のような雑誌を創作の中で作ったのだろう。

 「ミレニアム」シリーズを支える価値観は、徹頭徹尾、確信的リベラルである。ミカエルは、社民党(スウェーデンの福祉社会を作った党)を支持しているわけではない。大体、選挙にも行かないくらいである。でも、あらゆる社会悪の看視者である。「ミレニアム」の世界は、完全に人権活動家の世界である。日本では、週刊新潮、週刊文春に代表される右派的週刊誌が影響力を持っている。それらの雑誌は「人権活動家」を批判するスタンスの記事が多い。スキャンダルを暴露する点では似ていても、背景にある価値観が「ミレニアム」とは全く違うのである。

 スウェーデン社会に巣食うナチやネオナチへの敵対心。東欧やロシアから連れてこられる、人身売買に対する危機感子どもや女性への暴力に対する深い嫌悪感。同性愛やアジア系移民へのヘイトクライム(憎悪犯罪)に対する闘争心。「ミレニアム」編集部に満ちている精神は、そういったものだ。そういう世界観に共感できる人は、ふだんミステリーを読まない人でも、是非「ミレニアム」シリーズは読んで欲しい。「ミレニアム」の世界に隅から隅まで浸ることは快感だ。

 そのようなシリーズを引き継ぐことは大きなプレッシャーだろう。第4部「蜘蛛の巣を払う女」を書くに際して、ダヴィド・ラーゲルクランツがいかに困難な試みを引き受けたのか、訳者あとがきにくわしい。著者はもともと伝記執筆に実績があり、サッカー選手を描いた「I AM ZLATAN ズラタン・イブラヒモヴィッチ自伝」は翻訳もある。引き受けた結果はほぼ満足できる成果を挙げていて、世界的にもベストセラーになった。ただ、どうしても「続編」をうまく仕上げることに主眼が置かれているので、各種ミステリーでは高く評価されなかった。でもよく出来ている。

 第4部冒頭で「ミカエル・ブルムクヴィストの時代は終わった」なるコラムが評判になっているという。雑誌「ミレニアム」も危機にあるのである。世界各地と同じく、硬派の活字媒体は苦戦している。そんな中で、世界的な人工知能(AI)の権威、スウェーデンを代表する学者であるフランス・バルデルが自閉症の子どもを引き取るためにアメリカから帰国する。そのバルデル教授に迫る危険とは何か。このように「人工知能」や「世界的な監視社会」が問題になっている。NSA(アメリカ国家安全保障局)の情報をハッキングしたことから、リスベット・サランデルも関わってくる。 

 そこから解決していないリスベットの伏線が浮上する。一つはリスベットがハッカーとしてなぜ「ワスプ=wasp=スズメバチ」の名前を使うのか。これをアメリカン・コミック(マーベル・コミック)のキャラクターと関連付けて語る著者の鮮やかな手さばきは見事だ。多分ラーソンもそのように設定していたのだろう。またリスベットの双子の妹カミラが父の犯罪組織を受け継いだとしてロシアから出現する。シリーズ第2期の宿敵登場である。世界各地を描き分けながら、ラーソン三部作と同じく「女性と子どもに対する暴力」と闘い続ける。ミレニアムの志は見事に継承されている。

 第4部で印象的なのは、言葉を発せない自閉症児アウグストである。そこに潜んでいた天才が明らかになる時、世界が違って見えてくる。一方第5部「復讐の炎を吐く女」ではイスラム過激派に幽閉される女性、ファリア・カジが忘れられない。バングラディシュから移住してきたカジ一家は、ファリアの兄たちが過激な教義を抱き、犯罪が起こってファリアは刑務所に送られる。一方リスベットも第4部の出来事が形式的な罪に問われて短い刑期だが刑務所に送られた。そこで迫害されているファリアを知り、獄中で不可能なはずのファリア救出に取り掛かる。 
 
 一方またまたリスベットの過去をめぐって国家の黒い陰謀がうごめき始める。常にリスベットの味方だった元後見人の弁護士、今は自分で動くこともままならないホルゲル・パルムグレンまでが襲われてしまう。リスベットの過去にはまだ秘密があったのか。ここでリスベットの代名詞でもある「ドラゴンタトゥー」の意味が明かされる。これもなるほどという感じ。第5部では「双子の研究」をめぐる「優性思想」が大きく問われている。女性と子どもの人権を問う時、歴史の中に残る優性思想との対決は避けられない。その意味で日本でもこのミステリーは意味を持っている。 

 現代のミステリーだから、暴力もセックスもいっぱいだ。苦手な人もいるかもしれないが、現実にある暴力から目を背けてはいけない。リスベットの二卵性双生児であるカミラは第5部では解決しないから、2019年に刊行されるという第6部につながるんだろう。それはともかく、ミカエルがモテすぎるのはどうかなと思わないでもない。彼は離婚して子どもが一人いるという設定なので、誰とつきあっても問題はない。でも、ちょっとモテ過ぎだよなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウェーデンの傑作ミステリー「ミレニアム」、原作と映画①

2019年01月13日 22時19分47秒 | 〃 (ミステリー)
 スウェーデンのスティーグ・ラーソン著「ミレニアム」三部作が本国で刊行されたのは、2005年から2008年だった。日本では2008年から2009年にかけて翻訳が刊行され、大評判になった。映画もスウェーデンで作られてヒットし、ハリウッドでリメイクされた。ところで、著者のスティーグ・ラーソン(1954~2004)は本職の作家ではなく、社会派ジャーナリストだった。一人でひそかにミステリー小説を書き溜めていて、なんと刊行前に亡くなってしまったのだ。全世界で8900部を突破したという「ミレニアム」シリーズの大成功を見られなかったのである。
 (ハヤカワ文庫の「ミレニアム1上」)
 ラーソンは本来10部作まで書くつもりで、第4部は途中までパソコンに残っていたと言われる。物語としては一応三部で完結したが、回収されていない伏線が多数残されている。そこでダヴィド・ラーゲルクランツ(1962~)というジャーナリスト出身の作家が続編を書くことになった。第4部「蜘蛛の巣を払う女」が2015年に刊行され、2017年に第5部「復讐の炎を吐く女」も刊行された。続編は好評を以て迎えられ、ハリウッドで「蜘蛛の巣を払う女」が映画化された。(今公開中)
 (スティーグ・ラーソン)
 僕は久しぶりに「ミレニアム」世界に浸っている。まず続編をハヤカワ文庫で読んでいる。映画「蜘蛛の巣を払う女」も見てみたい。今までに映画化された4本はすべて見ているので。この大河小説は最初から読まないと面白くないので、前の三部作を振り返っておきたい。三部作というのは、「ドラゴン・タトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」で、すべて上下巻。最初は単行本で読んだんだけど、この6冊を合わせると合計で2698頁にもなった。

 前の映画と本を比べれば本の方が圧倒的に面白いと思う。映画も面白くないわけではないが、時間を短くするためにカットされた場面が多い。このシリーズは、ちょっとしか登場しない人物もよく書き込まれている。そういう人物が映画ではほとんどカット、ないしは改変されている。例えば、ある写真を見つけ、そこから「もう一つの写真を撮った素人カメラマン」がいると想定して、スウェーデンの北に探しに行く場面。映画ではすぐ見つかるように描かれているが、小説ではずいぶん苦労してようやく探し出す。小説での苦労の描写は単なる横道ではなく、スウェーデン社会の変化や人生の諸相を垣間見させる場面にもなっている。

 このシリーズの素晴らしいところは、ミステリーの各ジャンルの魅力が散りばめられた、ジャンル・ミックスのミステリーであること。無理に展開するのではなく、設定からくる「絶対書きたいこと」の要請で、自然に各ジャンルを越境していく。この小説的快楽。本格(謎解き)から、社会派(スウェーデン財閥の裏事情)へ。歴史ミステリーからサイコ・サスペンスへ。冒険小説から、スパイ・謀略小説へ。犯罪小説から、警察小説へ、そして法廷ミステリーへ。そして、ベースは「民間人探偵」が「歴史の闇」「国家の罠」に挑み、自らの誇りを掛けて闘うハードボイルドの心だ。

 この小説には、ミカエル・ブルムクヴィストリスベット・サランデルという二人の主人公がいる。二つの焦点を持つ「楕円の構造」こそが、「ミレニアム」の魅力である。謎の女調査員天才的ハッカーにして、誰とも打ち解けない、身長150cmの、ピアスとタトゥーに覆われた女性。複雑な生育歴があるかに描写される、謎多き女性リスベット・サランデル。この女性像こそ、今までのどの小説にも書かれていない新しい人間像である。「アンナ・カレーニナ」や「ボヴァリー夫人」のように、時代の典型の女性として、いずれ多くの人が論文を書くことだろう。
 (映画「ドラゴンタトゥーの女」のリスベット)
 リスベットとは一体何者か。その反社会的とも見える「偏屈」な非社交性は一体何によるものなのか?被虐待の生育歴からくる人間不信か? 統合失調症による精神的な病か? アスペルガー障害による発達障害か? それとも、人格障害か、性格の歪みなのか、単なる自己防衛か? この小説の基本設定が、いかにも当世風である。発達した福祉大国と思われている北欧諸国でも、人間の心の闇という難問に直面しているのである。リスベットの裏に潜む謎は、意外なほど大きかった。スウェーデン戦後史を書き換えるほどの陰謀が絡んでいたとは…。

 謎を追う探偵役がミカエル。つまり、名探偵カッレ君である。若き日にある事件を解決に導き、マスコミから名探偵カッレと命名され、今は硬派のジャーナリストである。ミカエルは、旧約聖書の大天使ミカエルから付けられたもので、ヨーロッパ各地に多い名前だ。英語でマイケル、ドイツ語はミヒャエル、フランス語はミシェル。愛称は、英語ではマイクとかミックとか…。つまり、マイケル・ジャクソンミック・ジャガーミハイル・ゴルバチョフミヒャエル・エンデは同じ名前である。ミカエルの、スウェーデンでの愛称の一つが、カッレということである。

 名探偵カッレというのは、スウェーデン国民が敬愛する児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンの有名な主人公である。物語の中で、本人がいやがるあだ名として「カッレ君」が使われているが、それこそがミカエルが「探偵」役であることを示している。アストリッド・リンドグレーンの世界、スウェーデン人なら誰でも知ってる文学的な構図が、「ミレニアム」世界の枠組みに利用されている。となれば、女主人公たるリスベットとは誰か? 言うまでもなく、「世界でいちばん力持ちの少女」ピッピちゃんである。物語の中でも、そのように言及されている。この物語は大人になって本当の悪に立ち向かって行く、カッレ君とピッピちゃんの物語なのである。

 さて題名の「ミレニアム」とは何かという問題があるが、長くなったのでそれは次回に回したい。そして「ミレニアム」三部作の問題意識が続編にどのように継承されているか。ミステリーだけど「社会的問題意識」で書かれているシリーズなので、そこが大切になってくるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする