黒田官兵衛の足跡n豊前国→豊後国 2 行軍跡・石垣原まで

2013-02-05 07:49:25 | Weblog

黒田官兵衛が九州中の西軍の城を席捲せんと中津を出立してからの行軍跡を鳥瞰しました。

中津城→中津如水原→宇佐時枝城→宇佐高森城→豊後高田城→あかね峠→先遣隊(→石垣原)・本隊(→国東富来城・安芸城)→杵築城→石垣原⇒本隊(→安芸城・富来城→中津を素道りして小倉城へ)・(別働隊→豊後森角牟礼城、日田日隈城)→中津(→本隊と小倉城攻めへ。)

こうして鳥瞰するとその足跡がよくわかります。仏の里で有名な国東半島の山の中を上り赤根峠に着陣していた時に杵築城(細川忠興の飛び地)より大友義統(宗麟の息子)に攻められている報を受け杵築城に向かった。黒田軍が援軍に来ることを知った大友軍は別府の立石山の本陣に退き黒田軍と対峙することになった。

1600年9月15日奇しくも関が原の合戦当日、九州の関が原と呼ばれる石垣原の合戦は大友義統(宗麟の息子)の降伏を持って400百年続いた豊後の名家大友家は滅びた。

その後、黒田軍の本隊(如水)は再び国東に戻り安芸城、富来城を降伏させ中津へ向かうもそのまま城に寄らず小倉城攻めへと向かう。また、別動隊は石垣原から豊後森の角牟礼城、日田の日隈城を開城させ中津へと向かい小倉城攻めへ合流した。

中津城へ寄らなかったのは戦の途中に里心が付き戦意が鈍るからである。軍師官兵衛(如水)の軍師たるゆえんなりと言えよう。

              

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