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豊前宇都宮氏の研究家では第一人者であるる則松弘明先生より「城跡歩き 古今東西」という書籍が贈られてきた。昨年11月先生に誘われて福岡県築上町主催の城跡見学会が催され宇都宮氏の居城である城井谷を訪ねた。天正15年、黒田長政は黒田如水が不在の折、老臣の止めるのも聞かず宇都宮鎮房の篭る城井谷を攻めたが九死に一生を得るほどに大敗した。後に黒田如水はその城井宇都宮鎮房の居城を包囲し向城である小河内城を築いた。宇都宮氏の篭る城井谷はやっとひと一人が通れるほどの山道で攻めるにも難儀をする要塞であった。日頃外を歩き回ることの少ない小生にとってこの山登りはかなり堪えたが同行の30名ほどの方々に迷惑をかけることなくふうふう言いながら殿にくっついて行ったのも懐かしい思い出である。則松先生は宇都宮氏と同じ城井谷の出身で幼少より宇都宮氏のことについて見聞するうちにその歴史に興味を持たれ考古学的研究をされつつ実際に城井谷に散在する城跡を調査され郷土史を紐解かれてきた方です。お話をお聞きするとその造詣の深さに学ぶところ多く小生の友人である赤壁で有名な合元寺の村上住職とも昵懇の仲だということがわかり殊更親しくさせて頂いております。今後益々の研究のご発展を祈念する次第です。皆さんの中で豊前・城井宇都宮氏についてご興味のある方、調べたい方がいらっしゃいましたら則松弘明先生にお尋ねになると良いと思います。因みにこの書籍の表表紙上半分に載っている写真は小河内城探訪のときの写真です。小生の後姿も載っているのがなんとも嬉しい限りです。
これは何らかの意図があるのか現在では憶測しかないのですが、黒田騒動の余波のことか後年に警固山頂より平地への移行。当時山頂の長圓寺は要塞施設と成っていたにも拘らず(これは歴史に少し興味を持った方より聞き及んだのですが、古地図慶長ねんかんというものだそうですが・・・)忠之公のお心代わりなのか・・・その頃が基点になっておるように思えるのです。
栄姫と保科正直夫婦の戒名を調べたくお力を貸していただくことを賜れるのなら幸甚に存じます。
戒名がわかれば親子の墓石を建立し中興開基として、お祭り申し上げたい所存で御座います。
寺号も如水公・長政公より頂いたことは申すまでもないところで御座います。
ねね姫の戒名は少林寺様に尋ねることが出来ましょうが・・・・
メールという手段を考えたのですが見つけられませんでしたことと突然の書き込みのことご寛恕賜りますよう幾重にもお願い申し上げます。