大友家は宗麟の時代に最も栄えたが日向耳川の合戦で島津軍に大敗し秀吉に援軍を頼む。秀吉軍は大軍を持って島津を破り九州を平定、その功で如水は豊前6郡の大名となる。宗麟から家督を譲られた義統(よしむね)は文禄の役の時、朝鮮で苦戦中の小西軍の救援に行かず秀吉の逆鱗にふれ豊後の領地を没収され、身柄は毛利輝元、のち常陸の國(茨城県)へと預けられた。秀吉死去後恩赦で江戸の家康に預けられていた長男吉乗と暮らし、その後京都で妻子と平穏に暮らしていた。関ヶ原の前、家康と三成の戦争が避けられなくなった。義統は秀吉に恨みを持っていたので如水の誘いで家康につくことに決めていたが、京都伏見で船便を待っていた時、秀頼の名で毛利輝元に西軍につけば領地は復旧するので一族郎党を集め東軍の黒田如水を討つように申し渡された。その時成り行き任せに受諾したので妻子を人質に取られ、挙兵用に兵器や軍資金を貰って豊後へ下向した。その後の義統の運命はご存知のように石垣原の合戦で如水に破れ妹婿の母里太兵衛に降伏を申し出、中津、大坂、常陸、横手(秋田)へと流され、寂しく48歳の生涯を終えた。たら、ればの話になるがあの時輝元に会ってなかったら、また如水の助言どうり東軍についていれば、大友家はお家再興になったであろう。如水は同じクリスチャン大名の大友家のことを心配していた。宗麟の妹婿は黒田の重臣母里太兵衛、大友義統は中津で洗礼し、如水とも親しい間柄であった。運命のなせる業とはいえ、大友家の末路の一抹の寂しさはやるせなく涙を誘うのは私一人ではあるまい。(写真は大友宗麟像)
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