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栗山備後利安は天文20年姫路生。幼名善助、後に四郎右衛門と号し、筑前入国後は備後と改、隠居後卜庵と号す。利安15歳の折、風説に黒田氏の秀でたるを聞き孝高(如水)の許に仕えたいと申し出た。生まれつき正直に心ざまけなげにして奉公にも精を尽くしたので殊の外孝高に気に入られた。領内の戦に於いて数々の高名を上げ、天正6年荒木村重に幽閉された如水の牢近く忍び込み其の安否を伺い落城の際は一番に駆けつけ半死半生の如水を助け出した。秀吉公九州征伐のときは島津勢を追散させ、仲津郡に入国後は豊前下毛の長岩城主野仲鎮兼はじめ嘉来、福島、犬丸の国士を攻め落とし後6千石を賜り下毛地区を平田城(耶馬溪町/息子で黒田騒動の折黒田家を救った大膳が生まれた)を預かり、一つ戸城(耶馬溪町)代として治めた。文禄元年朝鮮出陣の折数々の高名を挙げ四五郡を預かるも慈愛を以って民に接したので民も利安を慕った。慶長5年関が原の前、石田三成の人質要請のお触れが出たとき、母里太兵衛と共に如水・長政の内室を三成の兵に囲まれた大坂の黒田屋敷から助け出し無事に仲津まで送り届けた。如水が九州征討に豊後を攻め大友氏を石垣原で撃破、後九州一円を攻めたときも数々の手柄を立てた。黒田家が筑前に入国後も左右良(まてら)城代として1萬5千石を与えられ善政をしいた。慶長9年如水死去の際、如水は直々に利安にしかうしの冑、からかはおどしの鎧を与え長政のこと頼むと遺命した。利安は謙退の心深く主君を大切に思い高下によらず傍輩に慇懃であり道で傍輩に行き逢えば必ず下馬して禮を厚くした。寛永8年没、行年83歳。戦国時代をちょうど黒田如水と共に生き抜き戦に明け暮れたが、其の生涯は良き主君に行逢え仕えたとても幸せな生涯ではなかったかと思われる。自分の人生を託すに足る主君(上司)に巡り合え、存分に尽くした黒田藩筆頭家老栗山備後利安を羨ましく思うのはわたしひとりではあるまい。
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