
黒田八虎の内で最も有名な武将は母里太兵衛友信であろう。「弘治2年播州妻鹿(めが)生。幼名萬助、後に太兵衛と号し、筑前福岡に来て但馬と改む。幼より黒田家に仕え常に如水、長政の先手となり其の武功擧てかぞえがたし。其人となり剛強にして、力量たくましく、たけたかく、鬚多くして、勇猛人にすぐれ、秀吉公御所望有りけれど辞す」と黒田家臣伝(黒田藩歴史書)にある。秀吉が家来になれと言ってきたが断ったのだ。太兵衛は秀吉の志津ヶ嶽の合戦、信長の中国攻め、秀吉の中国四国攻め、九州征討に武勲を挙げ、また特筆すべきは朝鮮征伐時の大活躍であろう。朝鮮の兵は豪猛な太兵衛の姿を見たら震え上がったという。関が原の合戦の直前、栗山利安と共に石田三成の人質要請の囲みを破り如水、長政の内室を大坂の黒田屋敷から助け出し無事に中津まで送り届けた。如水の九州攻めの折りは豊後大友氏を石垣原で撃破し如水の片腕として大いに手柄を立てた。黒田家が筑前福岡へ転封後は高取城代として1萬8千石を賜る。慶長11年江戸城石垣修造の司として派遣されるもその出来栄えがあまりにも見事であったので将軍徳川秀忠より御腰物を賜る。その折、感状に母里但馬友信が毛利但馬友信となっていたので将軍家からの書状ゆえそのまま毛利但馬(太兵衛)友信と号した。一生のうち一度も敵に後を見せず然れども一所も疵を蒙らず。元和元年6月6日嘉摩郡小隈にて没、行年60歳、墓は麟翁寺。母里太兵衛の名が一躍有名になったのは黒田藩が中津城主のときの文禄5年(1596年)伏見城内の福島正則公の屋敷に黒田藩主の名代で挨拶に行った折、無理に勧められた大杯の酒を飲み干し福島家家宝の名槍「日本号(正親町天皇から足利将軍、織田信長を経て豊臣秀吉へ、秀吉がが武功を立てた福島正則に与えた福島家家宝)現在は国宝として福岡市立博物館蔵」を褒美としてもらって帰った故事から民謡黒田節が生まれ、日本国中に愛唱され広まったことであろう。中津藩の時33の首級を挙げ中津城西御門付近ににその首供養塚を立てたが生涯では藩内随一の76首級を挙げた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます