
如水には長男長政のほかに次男熊之助がいる。如水、長政が歴史上大活躍をし名を残しているので熊之助のことが語られる事は少ない。熊之助は長政に遅れること15年後に丁度賎ヶ岳の合戦の時、山崎城で生まれた。その後、中国、四国平定、九州平定、豊前中津12万3千石の城主となり、小田原城開城と戦国の世の歴史絵巻物を描き続けた如水は文禄、慶長の役で三たび渡鮮。苦労のうちにも数々の軍功をあげる。熊之助はこのとき16歳、中津城の留守居を勤めていたが、父や兄のことを思うと我も戦に加勢せんとの思い絶ちがたく、同じ年頃の家臣と共に秘かに中津から船出する。しかし、悲運にも玄界灘で暴風にあおられ船が沈没し溺死した。母幸圓は秀吉の質として大坂の天満屋敷にいた。その知らせを受けた幸圓の嘆きはいかばかりであっただろうか。私はなぜか熊之助が不憫でならない。俊秀であったばかりに思わず父・兄の手助けをしたいと渡鮮せんとしたのだ。生きていれば相応の戦働きをし歴史にもその名を残すことは勿論、長政の片腕として筑前52万石の藩政にも尽くしていたにちがいない。(写真は福岡崇福寺の黒田家廟右より妻幸圓、如水、小さく建つのが熊之助、そして長政の墓)
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