聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

オカルト的な説を含め近代以後の偽史に基づくトンデモ聖徳太子論を学術的に分析:オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子』

2024年05月10日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 このブログでは、聖徳太子に関する諸分野の最新の研究成果を紹介するとともに、大山誠一の聖徳太子虚構説を詳細にわたって批判したうえ、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺と論じた梅原猛(こちら)、ノストラダムスの大予言シリーズで人気になって聖徳太子をその類の予言者とした五島勉(こちら)、日本をキリスト教国家にしようとした蘇我氏が邪魔な聖徳太子を暗殺したと妄想した田中英道の本(こちら)なども取り上げ、論評してきました。その類の「あぶない」聖徳太子論を取り上げて分析した面白い本が刊行されました。

オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子―近現代日本の偽史とオカルト文化』
(筑摩書店、ちくま新書1794、2024年5月)

です(クラウタウさん、有り難うございます)。

 クラウタウさんのこうした研究については、以前、このブログで論文を紹介したことがあります(こちら)。今回の本はその拡張版ですね。その時も今回も、論文や研究書紹介のコーナーでなく、【珍説奇説】コーナーでとりあげていますが、これは、そうした話題に関心を持つ人の目につきやすいようにと思っての配置です。面白い話題満載なので楽しんで読めるものの、中身はきわめて学術的な研究書です。

 現在は東北大学准教授であるクラウタウさんとは、彼がまだ龍谷大学アジア仏教文化センターの研究員をしていた頃から、近代仏教研究仲間として親しくしており、私は現在は彼が代表を務めている科研費研究「憲法作者としての聖徳太子」の共同研究者にもなっています。「あとがき」でも触れられているように、本書はこのブログについても数カ所で言及してくれています。

 内容は以下の通り。

 【目次】
 まえがき
 序   隠されたものへの視点―偽史から聖徳太子を考える

 第一章 一神教に染まる聖徳太子  
  第一節 学術界における聖徳太子とキリスト教の「事始め」
  第二節 秦氏はユダヤ教徒だった―佐伯好郎の業績によせて
  第三節 フィクションへの展開―中里介山の聖徳太子観

 第二章 乱立するマイ太子像
  第一節 池田栄とキリスト教の日本伝来
  第二節 聖徳太子と戦後日本のキリスト教
  第三節 司馬遼太郎と景教

 第三章 ユダヤ人論と怨霊説
  第一節 手島郁郎と一神教的古神道
  第二節 梅原猛と怨霊説の登場
  第三節 怨霊meets景教―梅原猛『塔』について

 第四章 オカルト太子の行方
  第一節 漫画の中のオカルト太子―山岸凉子『日出処の天子』
  第二節 予言者としての聖徳太子の再発見

 結   隠された聖徳太子の開示
 あとがき

以上です。

 「まえがき」では、現在の聖徳太子研究の状況に簡単に触れた後、太子関係の本には、隠された「秘密」を明らかにしたと称する本が多く、「隠された『真実』」が分かれば、太子の意味も、また日本の歴史全体も明らかになるとしている、と述べます。そう主張する者たちは、自分は資料調査や分析を通じ、アカデミックな研究者にはない鋭い洞察力で秘密を解いたと称するのです。

 そうした書物が1990年代の終わりから増えていくのは、古代史学者である大山誠一の聖徳太子虚構説と無縁ではなく、従来の聖徳太子観を大胆に否定した大山の主張は、陰謀説を掲げる多くの「トンデモ本」にインスピレーションを与えたとクラウタウさんは説きます。

 なお、『隠された聖徳太子』という題名は、立命館大学の哲学の教授職を辞し、筆で喰わねばならなくなったため、恐るべき「秘密」を解明したと称する非学問的でセンセーショナルな聖徳太子論を書いてベストセラーとなり、以後のトンデモ本に影響を与えた梅原猛の『隠された十字架』を踏まえたものでしょう。東北大学の美術史の教授であって現在は名誉教授の田中英道も同類ですが、クラウタウさんは大学教員などの肩書きや地位が一般社会に与える力にも注意します。

 クラウタウさんは、聖徳太子は古代以来、日本人の心を動かしたからこそ、様々な偉業をおこなったとされたのであり、太子に関わる「偽史」を含めた「異説」はそれぞれの時代の人々の願望を反映したものであるため、「異説」に秘められた意図を検討することによって、聖徳太子のもう一つの「歴史」を描きたいと述べます。

 「偽史から聖徳太子を考える」というサブタイトルがついてる「序」では、クラウタウさんは「偽史」について最近の研究状況から説明します。中国においては、正統とされる王朝が作成した史書が「正史」であり、そうでない王朝や政権が作成した史書は「偽史」と呼ばれていました。

 日本でも、明治以後になって「発見された」という形で出現した『上記(うえつふみ)』『竹内文書』『九鬼文献』などの偽書が、第二次大戦中の超国家主義的な状況の中で「偽史」として切りすてられました。ところが、それらの文献は一九七〇年代のオカルトブームの中で関心を集めるようになり、「古史古伝」とか「超古代史」と呼ばれて消費されるようになったのです。

 今日言う「偽史」は、これらの偽書を含むだけでなく、そうした偽書を真実と見て語られる言説も含みます。さらに、東大出身でプラトンやバイロンなど西洋の哲学・文学の翻訳で評価されたものの、明治の終わり頃から『古事記』『日本書紀』の記述に基づいて世界の古代文明はすべて日本が起源だと主張した木村鷹太郎(1870-1931)のように、権威ある文献に基づきつつトンデモ説を述べる書物なども含むようになっているのです。

 そうした偽史に関する最近の研究成果をまとめた小澤実の『近代日本の偽史言説』では、「チンギスハンは源義経だ」「イエス・キリストは日本で死んだ」「東北に古代王朝が存在していた」「フリーメイソンの陰謀で世界は支配されている」「ユダヤ人が世界転覆を狙っている」といった幅の広い言説が偽史の例としてあげられています。

 クラウタウさんは、さらに、学界で評価されている(ないし、世間でそうみなされている)学者の研究が偽史を生む背景となる場合もあることに注意します。つまり、まともな学者が学界で承認されない珍説を唱えるようになることもあるうえ、学問的であるものの意外な主張をした研究が世間に刺激を与え、それを材料にしてトンデモ説が生まれることもあるのであって、学問と偽史の境目ははっきりしない場合があるとするのです。

 クラウタウさんは、そうした例として、古田武彦をあげます。古田は、親鸞に関する詳細な文献研究などで評価されていたものの、1971年の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)によって多くの反論を招きながらマスコミに注目されるようになりました。

 後には、古代津軽王朝の存在を説く『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』を、自説に有利な真書とみなし、その研究成果を踏まえて昭和薬科大学の教員という立場で1990年に『真実の東北王朝』を刊行し、話題になりました。『東日流外三郡誌』については、戦後の古代史ブームやオカルトのブームの影響も受けて生まれた偽書であることが論証されているにもかかわらず、今でも真書だとして信奉する者たちが残って活動しています。

 これは『先代旧事本紀大成経』の「五憲法」などの場合と同じですね。偽の古史は、従来の史書や通説に満足できず、歴史の真実は実はそうではなかったと思いたい人々の要望を充たすように作られますので、熱烈に支持する人たちが出るのは当然なのであって、そうした人たちには偽書の明らかな問題点が目に入らないか、目についても何かしらの理由をつけて弁護するのです。

 クラウタウさんはまた、1972年に聖徳太子に関する新説である『隠された十字架』(新潮社)から刊行し、古代史学界からは妄説として批判されながら毎日出版文化賞や大佛次郎賞を得て、国際日本文化研究センターの初代所長にまでなった梅原猛をとりあげます。

 クラウタウさんは、古田と梅原の両人は違う面もあるものの、共通点によって歴史と偽史の間のグレーゾーンが形成されていることに注意します。そして、学界の通説に対する対抗意識を持ちながら、学問の権威自体は否定せず、それを戦略的に利用して偽史を生みだしていった例として、大山の太子虚構説に注目します。東大史学科の出身であって古代史の専門家として承認されていた大山の説を利用し、虚構説からさらに飛躍した想像の世界を構築してゆく著作が次々に生まれたのです。

 本文の第一章は、オカルト雑誌として知られる『ムー』の2014年の「聖徳太子と失われたイスラエル10支族の謎」という特集の話で始まります。その記事を書いた久保有政(1955-)は、プロテスタントの牧師であって、古代日本にイスラエル人がやってきたと主張していました。

 久保は、大山誠一が従来の聖徳太子観は間違っていたことを明らかにしたことに力を得て、太子は実際は神道、それも八百万の神を崇拝する神道でなく、唯一の神を奉じるキリスト教的な神道を土台として活動したと論じた由。これなどは、自らの信仰に基づき、学界の新説を自分の宗教的信念に引きつけ、大真面目で強引な解釈をした典型的な例ですね。

 太子とキリスト教の関係については、明治になって最初の近代的な古代史家、久米邦武(1839-1931)が、唐代の長安にはキリスト教のネストリウス派である景教が来ていたことに注意し、太子の厩戸誕生伝説は『新訳聖書』の焼き直しと見たことが有名です。

 その背景には、東西の宗教に共通基盤を見いだそうとする久米の摸索があったことが指摘されており、そのことはこのブログでも紹介しました。クラウタウさんはさらに、この久米説に対して初期の仏教史家であった境野黄洋(1871-1933)が反論し、逆に仏教の説話がユダヤ人にまで伝わっていった例が多いと論じたことに注意します。

 境野は、釈尊のジャータカ(前世譚)が西に行ってキリストの馬槽の話になり、東に伝わって太子の厩戸誕生の話になった可能性を指摘したのです。クラウタウさんは、境野は学問だけでなく仏教改革運動もしていたため、敵対するキリスト教の影響という説は受け入れられなかったものと推測します。

 このように、クラウタウさんのこの本は、聖徳太子に関する様々な意外な説を紹介するだけでなく、そうした説が生まれた背景、世間に受け入れられた事情、反論がなされた背景などについて考察を試みるのです。

 さて、キリスト教徒であって西洋古典学に通じ、景教の歴史の研究者として知られた佐伯好郎(1871-1965)は、日本の地名とユダヤの言葉との類似から見た証拠とされるものをあげ、1908年に帰化人であった秦氏はユダヤ人だったと論じました。

 その頃、イギリスから来た仏教研究者であったゴルドン夫人は、真言宗の大日如来解釈はヘブライ系の神の概念に近く、これは空海が長安で景教に接して学んだためだとしていました。ゴルドン夫人は、高野山に西安(長安)で発見された「大唐景教流行碑」のレプリカまで建立した人物です。このように、宗教に関わる意外な説、神秘的な説は、東洋・西洋の相互影響の中で生まれ、増幅していくことも多いのです。

 この調子で紹介していくと、5回くらいの連載になってしまうため、以後は簡単にまとめます。まず、第二章では、元京都帝国大学法学部教授でイギリス政治史の研究者だった池田栄(1901-1991)をとりあげます。

 池田は、戦時中は「聖徳太子教導国家と大東亜建設」といった調子の論文を書いていました。1949年に、この年は日本最初のキリスト教宣布者であるザビエルの来日から400年になる年として各地でイベントが行われると、池田はこれに反発しました。

 池田は、佐伯説に基づいて秦氏は景教信者だったのであってその大酒神社はダビデの礼拝堂だったと推測し、ザビエル以前にキリスト教が伝わっていたと大阪の新聞上で述べたのです。この主張は米国の各地の新聞で紹介されたそうです。欧米のキリスト教徒などは、こうした情報を喜ぶのですね。

 日本聖公会の聖職者だった池田は、現在も生きる「景教」としてアッシリアの東方教会の総主教に書簡を送り、「景教復興」事業まで始めた由。しかも、この景教復興後援会には、秦氏の氏寺である広隆寺の住職も理事として加わったというのですから驚かされます。

 なお、この池田に出逢い、池田をモデルにした小説を書いたのは、池田の主張が掲載された「大阪時事新報」と経営者が同じで建物も同じだった「産経新聞」文化部に勤めていた記者でした。その記者は、歴史小説家に転じたのちも、秦氏と異教の関係について書き続けたのですが、その作家の筆名は「司馬遼太郎」でした。クラウタウさんのこの本は、こうした意外な事柄がたくさん記されています、

 第三章では、1970年に神戸出身のユダヤ人と自称するイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』(山本書店)がベストセラーになってユダヤ人に対する関心が高まった翌年、内村鑑三の弟子で無教会主義のキリスト教者であった手島郁郎(1910-1973)が、佐伯の研究を踏まえて『太秦ウズマサの神―八幡信信仰とキリスト景教について』(東京キリスト教塾)を刊行したことについて検討します。

 手島は、秦氏が奉じた八幡神は、モーセに啓示された神の名である「ヤハウェ」だと論じたのです。この主張は、彼のキリスト教改革運動と結びついていたうえ、この主張では、日本の古神道は日本的一神教であったヤハタ信仰と基本的に一致すると説いた由。

 こうした主張が乱立した1970年代初頭に出版されたのが、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮撫するための寺だと論じた梅原猛の『隠された十字架』でした。クラウタウさんは、上述のキリスト教説などの影響も受けていた梅原は、日本の古代史学界の研究成果を詳細に紹介せず、この分野の研究は著しく停滞しているため、自分が独自の視点によって新説を打ち出したというイメージを読者に植え付けたと指摘します。

 そして、梅原説は従来の学説とは見方の違う新説などといったレベルのものではなく、まったくの事実誤認に基づく空想が多いことが古代史学者の反論によって示されたにもかかわらず、梅原はそうし批判は梅原説に対する本質的な反論になっていないと主張し続けたことも紹介されています。

 第四章では、1970年代以後のオカルトブームという背景のもとで、梅原の影響を受けて聖徳太子を超能力者、それもボーイズラブとして描いた山岸涼子の漫画、『日出処の天子』と、ノストラダムスの予言を日本に紹介してベストセラーとなった五島勉が、中世には預言者とされていた聖徳太子を現代の預言者として描いた状況などを説明しています。

 五島については、世界の終わりが来るという予言やその救済者などに関する記述が、複数の新興宗教に影響を与えたことを指摘します。そして、オウム真理教に直接の影響を与えたかどうかは不明であるとしつつ、麻原彰晃が逮捕の少し前に、聖徳太子が侍者を引き連れて現れて「日本をお願いします」と自分に頼んだ、と著書で述べていると指摘します。

 サリン事件の後、五島は責任を感じたようで、聖書系の終末思想が世界中で何百というカルトを生みだしたと述べ、そうした「破滅=救済=選民」の予言を超える「日本独自の指針や予言」が必要だと述べるようになったと、クラウタウさんは説きます。

 そして、「結」の「隠された聖徳太子の開示」は、コロナが流行した際、オカルト系のサイトに、聖徳太子がこれを予言していたという記事が載ったという話題で始まります。むろん、五島の影響ですが、「太子に仮託された予言書の権威を借りつつ、『未来』を語ろうとする姿勢は、令和の今日まで続いている」のです。

 ユダヤ=キリスト教影響説は、新しい教科書をつくる会の二代目会長であった東北大学の美術史の教授で、現在は名誉教授の田中英道に受け継がれています(梅原にしても田中にしても、「大発見」をしたと称するのは、大山誠一を除いては古代史の専門訓練を受けていない学者ですね)。

 田中は、最近は秦氏はフリーメーソンであって仁徳天皇陵古墳を造営したとも説いているうえ、聖徳太子は日本のキリスト教化をはかっていたユダヤ系の蘇我氏の計画に反対した結果、殺されたとしています。まさに邪悪なユダヤ人の陰謀という図式です。

 クラウタウさんは、ユダヤ系の人間が日本の「変革」をはかっていたといった言葉使いは、日本の国体の「変革」を試みたとみなされる者たちへの厳しい処罰を定めた1925年の治安維持法と表現が似ていることに注目します。発想が似ているため、表現も似てくるのでしょう。

 そうした非学問的で危険な本がかなり売れているのが現状です。つまり、学者の肩書きが利用され、出版社がそれに加担しているのです。クラウタウさんは、こうした状況の背後に、「娯楽としてのオカルトを求めるような文化が一九七〇年代にあった」ことを指摘します。

 だからこそ、梅原の本が売れ、またそれに刺激されたオカルト的な説が次々に生まれたのです。しかも、学問成果とそうしたオカルト言説の境目は曖昧であり、時に交差することにクラウタウさんは注意するのです。

 私は、三経義疏や古代の聖徳太子観、近代の国家主義的な太子観などを中心にして研究してきたため、精力的な文献調査をすることで知られるクラウタウさんのこの本については、知らないことがたくさんありました。偽史が生まれる背景やその危険さについて考えるうえでも有益ですので、一読をお勧めします。

 なお、「あとがき」では、地味な分野である近代仏教学の研究者であったクラウタウさんを、オカルト研究に導いた先学であって、惜しくも先年亡くなった吉永進一さんの思い出と感謝が述べられています。

 宗教学から東西の神秘思想研究に進んだ吉永さんは、とんでもなく博学であったうえ、気取らず、親しみやすい性格であって、仲間を集めて企画を実施するのも得意でした。

 2019年に、既に病身となっていた吉永さんを駒澤大学に招き、クラウタウさんと心理学の谷口泰富先生にもご参加いただいて、儒教やオランダ医学も学んで東大初の仏教講義を行い、駒大の前身である曹洞宗大学林の総監を務めた原坦山と、西洋の神秘主義にも通じていた禅研究者で駒大初代学長、忽滑谷快天に関するシンポジウムを開催したことを思い出します(吉永さん・クラウタウさんの写真を含む記事は、こちら)。

【付記:2024年5月29日】
この本については、詳しいインタビューが28日に公開されました(こちら)。


【珍説奇説】形式・内容とも論文になっていない善徳=入鹿=聖徳太子説:関裕二「蘇我入鹿の研究」

2023年05月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 聖徳太子関連の最近の論文をCiNiiで検索していたら、ヒットしたのが、

関 裕二「蘇我入鹿の研究」
(『武蔵野短期大学研究紀要』第36号、2022年)

 関裕二と言えば、四天王寺で講演した「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」(こちら)でも、聖徳太子に関する珍説を書いた戦後のトンデモ歴史ライターの系譜の中で紹介した一人です。そうしたライターが、なぜ大学の研究紀要に書くのか。

 調べてみたら、関氏は、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローとなっていました。誰が呼んだんでしょう。武蔵野学院大学に古代史で活躍している教員がいるかどうか知りませんが、少なくともこの研究所にはそうした研究者はいませんので、注目されるために歴史方面の有名人を呼んでみたということでしょうか。質を考えてほしいですが。

 いずれにしても、大学の紀要に書くとなれば、学術論文の形式・内容でないといけないはずです。しかし、上記論文をコピーして読んでみたら、最初のところでこけました。

 横書き論文なのですが、「蘇我入鹿の研究」という題名の下に、英文タイトルが掲げられており、「A Study of Soganoiruka」となっています。Soga no Iruka でしょ? 

 そして、「キーワード」として、

 ①大化改新
 ②『日本書紀』
 ③『先代旧事本紀』
 …
 ⑪藤原不比等

と縦にずらっと並べたうえで本文が始まってます。横書き論文の場合、キーワードは、論文の末尾に、

 【キーワード】
 大化改新、『日本書紀』、『先代旧事本紀』、藤原不比等

などといった形で4つから5つほど付けるのが普通であって、冒頭に置く場合もありますが、論文冒頭で内容の簡単な目次を記しておくならともかく、①②③を付けてキーワードを11個も縦に並べるなどという形は、学術論文では見たことがありません。SNSのハッシュタグと間違えているのか。

 肝心の本文では、大化の改新がどのように研究されてきたかを最初に紹介しているのですが、

津田左右吉は……国家に移っただけにすぎないこと(1)、これは政治上の制度の改新であって、社会組織の変革ではないと主張した(2)。

と述べて注番号を付けていました。そこで、論文末尾の注を見てみると、

 1、津田左右吉『津田左右吉全集 第三巻』岩波書店、1964 162頁
 2、同書 260頁

となっています。何ですか、これは? こんな書き方では、いつ刊行されたどの雑誌にどのような題名で発表したのか分かりませんし、1と2が同じ論文なのか別の論文なのかも分かりません。

 研究史を厳密に紹介するなら、その論文の題名、初出の雑誌の名、号数、刊行年月などを示し、後に他の本や全集・著作集などに掲載されたなら、それについても付記しておく、といった形にする必要があります。後年の編集である全集の刊行年を示すだけでは、諸研究者が発表した説の前後が分かりませんので。

 関氏は、他の研究者についてもこうした注の付け方をしてますが、もっとひどい例があります。関氏は、『先代旧事本紀』は物部氏に残っていた古い伝承に基づいて編纂されたとする鎌田純一氏の説を紹介した際、そこを注33としているのですが、論文末尾の注33を見たら、

 33、鎌田純一『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』安本美典編 批評社 2007 111~112頁

となってました。この書き方だと、鎌田氏の本のように見えますが、実際は、安本美典氏が編集した本に掲載された論文なのですから、

33. 鎌田純一「『先代旧事本紀』の成立について」(安本美典編『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』、批評社、2007年)111~112頁。

などといった形で表記する必要があります。

 大学1年生がこんなレポートの書き方をしたら、先生に怒られるでしょう。古代について何十年もあれこれ書いていながら、漢文が読めず、引用の仕方も含め、学術論文の形で書けない点は、トンデモ説仲間である古田史学の会の会長・事務局長・編集長などと同じですね(こちらや、こちらなど)。

 論文の中身は、以前出していた『聖徳太子は蘇我入鹿である』その他のトンデモ本を論文の形式にしたもののようです。ただ、思いつき先行で大げさに書く日頃の古代史本ではなく、大学の紀要ということで論文らしくしようとしているものの、論文は書き慣れていないため、文章のつながりが悪いうえ、「~わけである。~わけである」が続くなど、粗雑な文章となっています。

 このように書くと、論文ではない歴史小説は認めていないようですが、私が尊敬しているのは幸田露伴であって、その最高傑作は歴史小説『連環記』だと信じています。歴史学者が遠く及ばない博学に基づき、西鶴以来の近世文学の到達点と呼びたいような素晴らしい軽妙な文体で物語が進んでいきます。破天荒な坂口安吾の歴史物も、すぐれた着想と安吾らしいくだけた文体が楽しめるので大好きです。小説は史実通りでなくてかまいません。

 それに反し、関口氏は、歴史小説家と呼べるほどの文体を持っておらず、また研究者を感心させるような知識見識に基づく歴史小説を書くことができず、まして学術的な論文はまったく無理、ということなのです。だからこそ、歴史の知識も文学の素養もない素人たちにうけるのかも。

 形式がこれだけひどいと読む必要はないのですが、内容の問題点も指摘しておきましょう。まず、関氏は、蘇我馬子が物部守屋の妹と結婚したことは、物部氏と蘇我氏が和解したことを示すのであり、『日本書紀』が蘇我氏と物部氏が対立したように描くのは事実と異なるとします。

 そして、『日本書紀』作成者である藤原不比等は、祖先である中臣鎌足が中大兄を見いだして蘇我本宗家を滅ぼしたことにしたいのだが、そのために蘇我氏の悪業を強調せねばならず、立派な人物であった蘇我入鹿を大悪人とし、その業績を厩戸皇子という聖人に仮託したのだとします。そして、入鹿は馬子の孫ではなく、子であって、法興寺を建てる主役であった善徳だとします。

 その証拠として、『先代旧事本紀』の序がこの書は厩戸皇子と蘇我馬子の撰集であるとしているのは、『日本書紀』が描く蘇我氏と物部氏の対立の図式は正確でないことを訴えたかったためだろうと推測します。しかし、学界では、この序は内容がでたらめであって、後になって付け加えられたことは早くから通説になっており、上記の鎌田氏の論文自体、「(五)序文添加の時期」という節を設けて検討し、平安末期から鎌倉中期の作としています。関氏は、自説に不利な点は無視するのです。

 また関氏は、『元興寺伽藍縁起』が、最初は推古天皇と廐戸皇子を中心に描いていながら、末尾で「高句麗の慧慈法師らとともに、蘇我馬子の長子の善徳を責任者にして、元興寺を建てさせた」と述べているのは、「本当は、善徳が主役だった」ことを示すとします。

 しかし、『伽藍縁起』は、推古天皇が用明天皇の遺志を継ぎ、用明の子である厩戸皇子と蘇我大臣に命じ、百済の慧聡・高句麗の恵慈法師、そして蘇我馬子大臣の長子である善德を「領」として元興寺をお建てになった、と述べているだけです。

 『日本書紀』では、馬子の長子である善徳を法興寺の「寺司」とした、と述べています。つまり、建立した主体ではなく、寺の建築や維持の実務責任者ですので、その点は『伽藍縁起』の記述と矛盾しません。

 また関氏は、『伽藍縁起』について、学界では推古天皇と解釈されている「大々王」が厩戸皇子とされる「聡耳皇子」に「我が子」と呼びかけているが、「大々王」は推古ではなく、『先代旧事本紀』に見える蘇我馬子の妻である「物部鎌姫大刀自連公」だとします。しかし、皇族でない女性を「大王」「大々王」「王」などと呼ぶ習慣は日本にはありません。

 『日本書紀』では馬子の子は豊浦大臣と呼ばれた蝦夷、その蝦夷の子が入鹿とされていますが、『先代旧事本紀』では、「物部鎌姫連公」は「宗我嶋大臣(馬子)」の妻となって、豊浦大臣を生み、その名は入鹿連公、としています。

 普通に考えれば、豊浦大臣は蝦夷、その子が入鹿とすべきところ、書写する際、途中の部分が抜けたとなりますが、関氏は、これそそのまま受け取り、豊浦大臣が入鹿であるため入鹿は馬子の長男だとし、したがって馬子の長子とされる善徳と同一人物だとするのです。

 しかし、「天寿国繍帳銘」では、孫娘である橘大郎女が「我大皇」「我大王」、つまり聖徳太子と死別した悲しみを訴え、往生した様子を図で見たいとお願いすると、推古天皇は「我が子」が申すことはもっともだと同情して繍帳を作らせています。可愛い孫娘を「我が子」と呼んでいるのです。そのうえ、厩戸皇子は、推古天皇の甥であり、かつ推古の娘である菟道貝鮹皇女を娶っており、義理の子ということになります。

 また、入鹿が馬子の長子だとすると、蝦夷はどうなるのでしょう。『日本書紀』では、蘇我本宗家の絶頂時代に、蝦夷が自分と息子の入鹿のために巨大な墓を二つ並べた形で生前に作り始めたが、蝦夷と入鹿が殺された後、その巨大な並び墓が取り壊され、後に小さめの墓を二つ作ることを許したとしており、実際に、二つの巨大な墓の跡と、少し離れた場所に作られた小ぶりな二つの墓が発見されていますが(こちら)。

 関氏は、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』について、「『日本書紀』のトリックを暴くために、隠語を駆使して告発の書を用意したのではないか」と述べるのですが、これはトンデモ本に多い「〜の暗号」のパターンですね。

 しかし、物部氏に関する最新の研究書、篠川賢『物部氏ー古代氏族の起源と盛衰』(吉川弘文館、2022年)では、物部氏は守屋が殺された後もかなりの勢力を保っており、特に物部連から石上朝臣と改姓していた石上麻呂は、持統・文武・元明・元正朝にかけて活躍し、晩年は14年間にわたって太政官の首座にあったことに注意しています。

 しかも、麻呂は舎人親王を総裁とした『日本書紀』編者の一人であって、『日本書紀』の記事は物部氏を顕彰しようとする方向で書き換えられた(あるいは加えられた)と考えられる箇所が多く、これは麻呂の存在によるところが多いとしています。

 『日本書紀』が当時の権力者である藤原不比等などに都合良く書かれている部分があるのは当然であって、このことは前から指摘されていますが、だからといって、多くの有力氏族が提出した資料に基づいて編集され、完成したらすぐ公開での講義がなされた『日本書紀』を、あまりにも藤原氏だけに都合良く書き換えるのは不可能だというのが、最近の学界の定説です。

 関説は、要するに不比等が独断で強引に書き換えたとする陰謀説であって、不比等が中心となって聖人の<聖徳太子>を捏造したとする大山誠一氏の「いなかった」説と共通する面がありますね。

 大学の紀要に載った論文ですので、「論文・研究所紹介」のコーナーで扱うべきですが、これまで見てきたように、形式・内容とも論文のレベルに達していないため、「珍説奇説」コーナーに置くことにした次第です。


【珍説奇説】日本礼賛と反ユダヤ主義に基づくトンデモ妄想の羅列:田中英道『聖徳太子は暗殺された』

2023年02月25日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 東北大学教授として西洋美術を研究しておりながら、次第に日本礼賛の立場を打ち出すようになり、一時期は「新しい歴史教科書をつくる会」の会長もつとめ、会が分裂するとその仲間から離れて「日本国史学会」なる会を組織し、代表理事となった田中英道氏のどうしようもない新著が刊行されました。

田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社、2023年)

です。

 田中氏は、史実無視の日本礼賛者であって、その立場から大山誠一氏の「聖徳太子はいなかった説」を批判する粗雑な本を出しています。そのため、このブログでも「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」というコーナーで、批判を連載したことがありましたが、次第に妄想がひどくなってきており、今回の新著は「珍説奇説」コーナーの方で紹介せざるをえなくなりました。

 この「珍説奇説」コーナーの名誉ある第1回では、法隆寺の五重塔は送電塔がモデルだとか、秦氏の神社の鳥居は月着陸船だなどと説いた某教授の妄想論文を紹介しました(こちら)。田中氏の今回の新著は、それよりはややましかもしれませんが、「蘇莫遮」というのは西域の言葉の音写であるのに、法隆寺の聖霊会で演じられた「蘇莫遮」は、怨霊として荒れ狂う聖徳太子を表しており、「蘇莫遮」というのは「蘇我氏の莫(な)き者」という意味だと珍解釈を述べた梅原猛(こちら)よりアブナイかもしれません。

 まず、本書の「はじめに」では、

「蘇我」とは「我、蘇り」のことでキリストの再生を意味し、厩戸皇子は馬小屋で生まれたというキリストの符合ですから、蘇我氏がキリスト中心にしようとしていたことを示しているのです。(6頁)

と述べています。そもそも、「蘇り」でなく「蘇れり」としないと「よみがえり」と訓まれてしまうでしょう。西洋美術史が専門だった田中氏の古文・漢文の基礎力の弱さがうかがえます。

 それに、キリストの誕生に関する伝承は様ざまであり、家畜小屋で生まれたというのもその一つであるうえ、それを馬小屋と解釈するようになったのは近代日本でのことであって、聖書をそう訳したのはむしろ聖徳太子の厩戸誕生伝承の影響であった可能性があるとする最近の説については、このブログで紹介しました(こちら))。

 また、久米邦武が厩戸誕生伝承をキリスト教と結びつけたのは、西欧を視察してその産業とキリスト教の盛んさに衝撃を受け、日本は野蛮国ではなく、キリスト教が早くに入っていた文明国だと主張しようとしたためであるとする論文も紹介しました(こちら)。つまり、厩戸誕生説話とキリスト教とは関係ないのです。

 田中氏によると、蘇我氏は中国に渡って来ていたキリスト教ネストリウス派だそうですが、景教と称されるネストリウス派の文書のうち、敦煌に残されていた写本には、マリアが聖霊によって妊娠したとは書いてあるものの、馬小屋は出てきません。これについて近いうちに書きましょう。

 田中氏は、蘇我馬子について、「「馬子」とは馬を引いているユダヤ人のことです」(6頁)と説くのですが、「有明子」といった表記もあるのはなぜなんでしょう。それに、「馬子」という名が馬に関係しているのは当然ですが、馬を引くとなぜユダヤ人ということになるのか。中国人や韓国人は馬は引かないんでしょうか。

 「馬子」という名を「馬を引く人」と解釈するのは、「馬子(まご)」という言葉からの想像でしょうが、これは近世になって使われるようになった言葉です。「~子」というのは、中国にあっては孔子・老子・孟子・朱子など先生格の人に対する尊称なのであって、古代日本でも「小野妹子」などは立派な男性ということで「子」がつけられていました。田中氏の主張には、このような時代錯誤の思いつき語源説が目立ちます。

 田中氏は、尖った山高帽のような帽子を被り、長い髪をたらして髭を伸ばした人物埴輪が日本で出土しているのは、ユダヤ人が渡ってきていた証拠とします。そして、有名な「唐本御影」で中央の人物の横の二人の少年が髪を美豆良にしていることについても、「ユダヤ人の風俗です」(173頁)と断言しています。

 しかし、長い髪をたらすのと、それを結ってぐるっと輪の形にするのでは、まったく違いますし、ユダヤ人が美豆良を結っているのは見たことがありません。それにユダヤ人の伝統的な帽子は、小型の皿形のものを頭に載せるのであって、つばのある山高帽タイプではないし。とんがり帽となると、私などは、つばはないものの、国際貿易で知られたイラン系のサカ族の帽子などを思い浮かべてしまいます。

 田中氏はこの本以前に「ユダヤ人埴輪」なるものに関する本を出しており、「ユダヤ人埴輪」に見られる帽子と髭と髪型は、ユダヤ教徒の中でも伝統通りに生活しようとする「超正統派」と呼ばれる人々の姿だと強調します。

 しかし、ある歴史学者はその本を「とにかく自国を賞賛しまくる妄想通史」と評し、男性が山高帽のような帽子をかぶり、もみあげと髭を伸ばす「超正統派」は近世に形成されたとする説もあることなどを指摘し、この本のでたらめさ加減を詳細に説いています(こちら)。

 それに、ユダヤ教の「超正統派」の人々が、どうしてネストリウス派のキリスト教に転向するんでしょう。むろん、キリスト教徒になったユダヤ人は、過去もいましたし現在もいますが、唐代の長安に来ていた景教の人々がユダヤ人であったことを示す文献は知りません。

 また、田中氏は、馬子は「聖徳太子をキリストに仕立てようとした」(8頁)のであって、早く天皇にするために崇峻天皇を暗殺したと説くのですが、だったら、なぜ太子でなく推古を天皇にしたのか。

 しかも、田中氏によれば、聖徳太子は素晴らしい伝統を誇る日本人の代表であって、「馬子による日本のキリスト教化に反発した」(9頁)たために暗殺されたそうですが、『日本書紀』や『法王帝説』によれば、馬子の娘を妃とし、馬子とともに政治をとって歴史書も編纂したと記されているのはどうしてなんでしょう? それに、聖徳太子は父方・母方とも蘇我氏の系統ですので、太子にもユダヤの血が入っていることになりませんか?

 田中氏は、「憲法十七条」や三経義疏を上記の立場から強引に説明するのですが、概説の紹介に基づく強引な解釈にすぎないため、西洋美術の研究者であった田中氏は漢文が読めず、仏教や儒教をよく知らず、関連する研究書や論文も読んでないことは明らかです。馬鹿らしくてとりあげる気にもなれません。

 この本のテーマである太子暗殺論については、蘇我氏はキリスト教を広めるための手段として仏教を用いたたが、太子は仏教だけを広めようとしたため、邪魔とされて殺されたのであり、こうした邪悪な蘇我氏を除いたのが乙巳の変だとしています。戦前の蘇我氏逆臣説を「蘇我氏=ユダヤ人悪者説」に変えただけですね。

 それに、ユダヤ人である蘇我氏の陰謀に反対したのが純正日本人である聖徳太子であり、乙巳の変で危険なユダヤ人である蘇我氏を除いたのであって、天智天皇と天武天皇が日本の正しいあり方を定めたとされていますが、天武天皇の皇后であってその後に即位した持統天皇は、天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄弟)の娘の間に生まれています。

 つまり、田中説によると、持統天皇にはユダヤの血が入っていることになるのです。しかも、以後は、その持統天皇と天武天皇の間に生まれた人たちの系統が次々に天皇となってますよ。

 田中氏は、日本の純粋さを守る愛国主義者のつもりかもしれませんが、戦前ならこの本は、「皇室をユダヤ人の家系としており、不敬きわまりない」として発禁になった可能性があります。自分で書いていて、そうしたことに気づかないのか。

 田中氏は、古代に技術面で活躍した者たちを片っ端からユダヤ人とします。たとえば、武内宿禰の子とされる葛城襲津彦は応神天皇から弓月君とその民を連れてくるよう命じられ、これが秦氏の祖先とされる者たちですが、「弓月(ゆづき)=ゆず=ユダ」なのでユダヤ人だそうです。

 どうして古代の中国語・韓国語・日本語の音韻やその変化などについて調べないんでしょう。東洋史の研究では、「弓月」の語は(秦氏などが日本に渡ってきてからかなり後となる)唐代になって記録に見えるようになったものであり、中央アジアを支配した西突厥の一族であって、「弓月(きゅうげつ・がつ:中国の中古音では キュングァット)」という表記は、Kangar とか Kangali などの漢字音写ではないかとする説もありますよ。

 私は以前、授業の中で、玄奘三蔵がインドで学んだナーランダ寺を歌った歌が日本に伝えられていると述べ、「♪咲いた、咲いた、チューリップの花が。並んだ、並んだ(なーらんだ、なーらんだ)、赤白黄色……」という歌は、実はナーランダ寺がイスラムによって破壊されて僧侶が殺された悲劇を伝える暗号になっている、などと冗談を言ったりしたのですが、田中氏のユダヤ人説はこのレベルです。

 「弓月(ゆづき)」という訓みついては、神聖な樹木であって儀礼がおこなわれる「斎槻(ゆつき)」と関連するとか、遠い祖とされる融通王の名と関連するといった説もあります。これらをきちんと考慮して検討すべきでしょう。

 それに、この渡来人もユダヤ人、この豪族もユダヤ系と論じていくと、古代の日本は文化の程度が低く、新たな技術をもたらして日本を発展させたのは、朝鮮諸国からの渡来人や朝鮮経由で渡ってきた中国人や西域人などではなく、すべてユダヤ人ということになります。

 また、現代の日本人は、皇室も含めてそうしたユダヤ人たちの血を引いているということになりますので、読んでいると、田中氏のひきいる「日本国史学会」は、皇居前に巨大な「ユダヤ人感謝の碑」を建てる運動を始めるべきではないかさえと思われてきます。邪悪な者たちの活動を強調する陰謀史観というのは、実はそうした者たちの活躍ぶりを示すという性格も持っているのですね。

 田中氏は若い時は優秀な西洋美術史の研究者だったのでしょうが、西洋の学問を学んでいた秀才がこのように日本礼賛や邪悪な外国民族批判のトンデモ妄想をくりひろげるようになる先例としては、木村鷹太郎がいます。

 鋭い舌鋒のため「キムタカ」と呼ばれて恐れられた木村鷹太郎は、東大出身で西洋の哲学・文学のすぐれた研究者・紹介者でありながら、後になると、実は日本こそが世界の文明の起源であって古代には日本が世界諸地域を支配していたと説くようになっていますので、近いうちに紹介しましょう。

 それにしても、出版元の育鵬社って、日本礼賛の立場の歴史教科書を出しているところでしょ。広く認められて教科書の採択を増やしたいはずの会社が、会社の信用を落とすトホホ本ばかり出すというのは、どういうつもりなのか。

 もっとも、社会科学系の堅実な学術書を出版している左翼系の明石書店も、万世一系史観を否定しているという点を評価しているのか、会社の信用度を落とす古田史学の会のトンデモ本を出し続けており、その点は育鵬社に似てますね。

 つけ加えておきますが、私は日本文化が大好きであって、日本の文学・芸能の意義・特色に関する論文を多数書いており、日本批判ばかりやるタイプの人間ではありません。また、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)では、東アジア諸国における仏教の相互交流・相互影響という面を強調しているように、諸国・諸地域から渡来した人々の活躍という点も重視しています。ただ、あまりにも文献無視、時代背景無視のトンデモ論義を放置しておくことはできません。

【追記】
倉山田石川麻呂「の娘」という部分が抜けてましたので、補足しました。また自分の立場を末尾で少し説明しておきました。

【追記:2023年2月28日】
高い技術を持ったユダヤ人が日本に渡来していたとする田中説は、あちこちで発見されている外国人風な人物埴輪に基づくようです。こうした人物埴輪は、独特な魅力があるものの、異様なまでに写実的で精巧な秦の始皇帝の兵馬俑などに比べれば、子供の粘土細工のようにしか見えません。人物埴輪と同時期である高句麗の墓室の壁画などと比べても、かなり古代呪術的で素朴なつくりに見えるのですが。


【番外編】久留米大学の九州王朝論講座は、自ら「聞きかじりの知識」に基づく「我田引水の歴史学」と称する経済学部教授が推進

2022年06月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 久留米大学が何年も九州王朝説に関する公開講座をやっていることは、以前の記事で触れ、旧石器発見ブームにとびついて町おこしをしようとし、後で捏造とわかって撤退した地方自治体の二の舞にならないよう望む、と書いておきました(こちら)。

 その後、調べてみたら、この公開講座は、まさに久留米の町おこしと結びついていたことがわかりました。そのことを良く示しているのが、この『壬申の乱の舞台を歩くー九州王朝説』(梓書院、2013年)という本です。



 壬申の乱の舞台は九州だというトンデモ本であって、著者は、久留米大学経済学部の教授でケインズ経済学や地方創生などの研究者である大矢野栄次氏。

 衆議院議員の鳩山邦夫氏が推薦文を書いているため、鳩山氏は東京生まれで東大出身のはずだがと不思議に思ったところ、東京を選挙区としていた鳩山氏は、2005年に、母方の祖父であってブリヂストンの創業者である石橋正二郎の出身地、久留米市を中心とする福岡6区へ移っていたんですね。

 鳩山氏は、宣伝の帯の裏表紙側では、

経済学がご専門で、私の指南役でもある大矢野先生がすばらしい歴史本を書かれました。……
「天智天皇、さらには持統天皇までもが九州の菊池や久留米で活躍をした、ということは飛鳥宮や藤原京までもがこの地である。」
この説には非常に興味があり、改めて歴史の奥深さを感じました。
「これぞ歴史」ですね!!

と書いています。「これぞ真実の歴史」と断言するのではなく、「興味があり」、「歴史の奥深さを感じ」ると書いており、「こうした見方もできるところが歴史の面白さだ」という表現にしてあるのは賢いやり方です。そうではあるものの、結局は、久留米が歴史上、重要な地であったとする本を推薦し、選挙地盤である久留米の人たちアピールしているのです。

(難波宮や飛鳥宮や藤原宮については考古学の発掘研究が進んでいます。この本が出される前にそうした研究状況をわかりやすく説き、PDFも公開されていて読める一例は、こちら

 大矢野氏は、この本の「プロローグ 『古事記』と『日本書紀』」の冒頭で、

考古学者はこの二つの書を無視しているのである。国語学者は……読むのである。しかし、……無いのである。そして、歴史学者は……無視するのである。
 神道の世界においては……が全てである。
『古事記』は……命じたものである。壬申の乱(六七二)の九年後である。
(1頁)

と記しており、「である」の7連発、それもアジ演説のような調子の断定続きとなっています。これだけ見てもこの本のレベルが推察されますね。

 ただ、理系では論文は英語で書くのが普通である分野も多く、日本語で書くのは苦手という研究者もいますので、ケインズ経済学などを専門とする大矢野氏も、海外の学術誌に英語論文ばかり書いているタイプなのかと思い、論文サイトである CiNiiで検索したところ、英語論文は1985年と1986年に国内の雑誌に書いていただけでしたので、日本語で書くのは不慣れというわけではなさそうです。

 それはともかく、問題は「あとがき」です。氏は、九州新幹線が開通するにあたり、久留米駅にとまるか鳥栖駅にとまるか議論された際、長崎本線との乗り換え駅である鳥栖駅に比べて久留米駅は不利であるため、「久留米の魅力を発信し、久留米に観光客が沢山来るように久留米の観光資源を創るべきだと考えた」そうです。

 しかし、久留米には有名人もおり名所もあるものの「何か物足りない思いがあった」という氏は、菊池川流域には装飾古墳が多く、築後平野には奈良にある地名と良く似た地名が無数にあるという「聞きかじりの知識を元に、我田引水の歴史学をやろうと思いついたのである」(185頁)と告白しています。正直ですね。こういう表現は普通は謙遜の言葉ですが、読んでみたら、氏の本はまさにこの言葉通りの内容になっていました。

 ともかく、氏はそうした状況で「古事記を築後で読む」という公開講座を始めた由。何年も研究してからならともかく、いきなり講座で講義し始めるのですから、凄い度胸ですね。「そんなおり文学部の大家教授から古田武彦氏を呼んで公開講座『邪馬台国九州説』をやるから『お前も何か話せ」と言われ」たものの、古田武彦については知らず、本も読んでいなかったそうです。

 好評であって毎年やることになったこの講座は、多くの古代史ファンを集め、3年続いたところ、「隠し撮り・隠し録音」をネットで公開している人がいるのはけしからん、という理由で古田氏は登壇しなくなった由。

 古田氏の九州王朝説に接して刺激を受けた大矢野氏は、いよいよ熱心になったようです。ただ、菊池を始めとする九州の地を調べていた九州王朝説論者の講座参加者、「秀島哲夫さん」から「先生も調べてくだい」ということで資料をもらったものの、「興味深い内容だったが、とんでもない話だと思った」程度だったとか。

 ところが、「秀島哲夫さんは、ネット上で私を近畿派のスパイとして攻撃」するようになったと書いています。大矢野氏は九州王朝説ではあるが、「九州王朝の歴史を近畿王朝が盗ったというような関係ではないというのが私の考え」だからだそうです(187-188頁)。

 つまり、679年の筑後の大地震などの災害が続いて九州から近畿へ移る人々が増え、政治の中心も移らざるを得なくなった結果、近畿王朝(奈良朝)が成立し、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとしたのが『日本書紀』であるというのが私の歴史観」であって、「天武天皇と持統天皇の再建計画は尺の許すところとならず、希望は叶わなかった」が、「近畿に移った人々が、先に奈良に入っていた藤原不比等を中心として、新しい日本国(やまとのくに)を創るために平城京を始めた」由(同)。

 考古学や歴史学の研究成果を無視したトンデモ説であるうえ、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとした」などと、わけのわからないことを書いています。この「珍説奇説」コーナーの第1回目にとりあげた「法隆寺の五重塔は送電塔がモデル」と主張した某大学の某先生が思い出されます(こちら)。

 そもそも、「言挙げ」の意味が分かって書いているのかどうか。「言挙げ」については、このブログでもイグナシオ・キロスさんの「コトアゲ」と「憲法十七条」に関する論文を紹介したことがありますが(こちら)、キロスさんは先行研究をしっかり押さえたうえで論じてますよ。

 大矢野氏の主張は、古田史学の会と良い勝負のトンデモ説であって、粗雑なところも良く似ています。たとえば、「文学部の大家教授」とありますが、「久留米大学文学部 大家教授」で検索するとヒットしないため、これは、久留米大学をアピールしようとしていろいろな催しをやり、盛んに活動した法学部の大家重夫教授でしょう。大家氏の場合も、著作権法などを専門としており、古代史の専門家でなかったのは大矢野氏と同様です。

 また、「秀島哲夫さん」という名前が2度出ており、九州王朝論者であった受講者の秀島さんから「先生も調べてください」ということで資料を渡されたと書いてありますが、秀島氏がネットにあげている記事では、秀島氏が既に調査した内容を「壬申の乱は九州」と題したプリントにし、大矢野氏や他の受講者たちに渡したというのが事実であるうえ、「哲夫」とあるのは正しくは「哲雄」だそうです。秀島氏は、公開講座を推進する大矢野氏の古代史の知識は受講生以下と酷評しています(こちら)。

 なお、「尺の許すところとならず」とは、「天の許すところ」の誤植でしょうか。

 とにかく、こんな調子の記述の連続です。立場が違うので古田氏の系統の九州王朝説論者とは意見が合わないはずですが、九州王朝説の公開講座に熱を入れる大矢野氏は、地域活性化のためならどの説でも良いのか、あるいはそちらに近づいたのか、古田史学系の歴史ファンも講師として招き続けているようです。

 しかも、九州王朝説に立つ久留米地名研究会の会員が2014年8月6日に公開した「久留米大学公開講座(九州王朝論)の拡大」という記事によれば、氏は以下のような力の入れぶりであった由。

 最終日、経済学部の大矢野教授が「来年度は夏と冬の6講座に倍増さ  せ、バス・ハイクやエクスカーションを入れて行く構想を持っている」ことを明らかにしました。
 実現するかどうかは分かりませんが、もし、そうなれば、九州王朝論の立場からの研究発表30セッションが実現することになるわけで、最低でも在野の研究者20人が登壇することになるのです。
 ここまでくると、事実上の椅子取りゲームとなっていた在野の研究者の発表の場が倍増することになり、文字通り、久留米大学は九州王朝研究のメッカ、不抜の拠点となってくる可能性が出てきたのです(こちら)。

 以上です。こんなことが出来るのも、久留米大学文学部には、日本史や考古学の学科がなく、公開講座には久留米大学の教員も参加していないといけないものの、別な分野を専門としていて古代史については素人の先生たちが登場しており、また玉石混淆の「在野の研究者」たちを招いて講座を担当させているからですね。

 「九州王朝研究のメッカ」か……。九州王朝説でも騎馬民族王朝説でも良いですから、きちんと研究して学問的なレベルの論文を発表してもらいたいところです。そう言えば、自分で管理できる公式業績サイトである researchmapで大矢野氏のコーナーを見たら、九州王朝関連で書いたものは「論文」の項目には入っておらず、「MISC」、つまり、「その他、雑」の項目に入っていました(こちら)。

 ちなみに、聖徳太子論文の多くをPDFで公開している私の researchmapのサイトは、こちら。太子に関する講演録も、学術的な内容のものについては、論文の方に入れて公開しています。

 大矢野氏の本と同じ梓書院からは、橿原考古学研究所に務め、大和の遺跡・古墳の発掘に長年携わってきた関川尚功氏が邪馬台国について書いた『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年)が出ています。関川氏は、中国の青銅器の出土状況などから見て邪馬台国=大和説が成り立たないことを論じており、説得力がありました。どのような立場の説であれ、こうした実証的な研究であれば歓迎なんですけどね。

 町おこしについて、私の経験を書いておきましょう。かなり前に、中国の四川で生まれた唐代の有名な禅僧、馬祖道一(709-788)に関する国際シンポジウムがその誕生した町で開催され、欧米と日本の禅研究者たちが招かれました。

 ホテルから会場まではパトカーが先導し、次に黒塗りの高級車に県知事にあたる省長と共産党の宗教管轄のお偉方が乗り、我々研究者たちはその後の立派なリムジンバスに乗ったのですが、十字路ではパトカーがサイレンを鳴らして赤信号をぶっちぎりで突破。要所には銃をかまえた兵士だか警官だかが配置され、会場につけば赤いカーペットが敷かれており、ブラスバンドの演奏で迎えられました。ホテルに戻ってテレビをつけると、この地方のニュースでシンポジウムの様子が流されてました。

 町の人は、馬祖のことなどほとんど知らなかったのに、この年から、馬祖の誕生日が町の祝日とされたそうです。古びてこじんまりしていた馬祖ゆかりの寺は、この地方出身の欧米の華僑たちを中心として資金を集め、改装するとのことでしたので、現在は金ピカのお堂になっているのではないかと想像しています。

 この場合は、馬祖は実在人物であって、中国禅宗を確立した大立て者ですので、顕彰するのは良いのですが、聞いた話では、中国では省ごとの愛郷心・対抗心がすごいため、隣の省でもその省出身の禅僧を持ち上げ、その寺を観光と結びつける試みがなされることになったとか。

 こうした催しの中には、史実でない後代の伝承に基づくものもあります。菩提達磨ゆかりの熊耳山空相寺などは、倉庫に使っていた古い小屋と数本の石碑が残っていただけであったのを、調査した小島岱山氏が、達磨が没した直後に梁武帝が賞賛の文章を書いてそれを刻させたと記してある石碑は本物だと発表し、ニュースとなりました。

 小島氏からその話を聞いた私がこの石碑をとりあげ、論文を数本書いたことが中国を含めた諸国でこの寺と石碑が有名になる一因だったのに、寺の盛大な再建式には私は呼ばれませんでした。著名ではあるものの、この方面の専門家ではない研究者たちが呼ばれたようです。高速道路からその寺に至る道路も整備されたそうで、元になる絵も何もないまま寺が「再建」され、観光名所となっています。

 私が呼ばれなかったのは、梁の武帝が自ら書いた碑文を刻んだ石碑を建てさせたとされているものの、そうした史実はなく、碑銘は実際には唐代になって偽作されたものであって、石碑は後代に建てられたものだと書いたのがまずかったのでしょう(この石碑の画像やこの騒動については、こちら)。

 そうしたこともあったため、私は中国の大学や研究所が開催する学問的なシンポジウムや講演は引き受けていますが、寺や地方が主催して観光狙いで派手にやる催しはすべて断るようにしています。

 しかし、大学や研究所には予算が無く、仏教を排撃した文革が終わってから復興して裕福になったお寺や、政治的野心を持った財界人の居士などがシンポジウムの資金を出している場合もあります。そうした状況は行ってみないとわからないこともあるため、最近は古くから知っていてつきあいのある大学や研究所の催しにしか行かなくなり、その数も減りました。

 ともかく、久留米大は「九州王朝研究のメッカ」だそうですので、今年も九州王朝論の公開講座が開催され、大矢野氏(現在は名誉教授)やら古田史学の会の代表やら事務局長やらも講義をし、善男善女が九州の意義を強調した有り難いお話を聞くのでしょう。

 九州北部では、青銅器その他の中国の文物が大和など問題にならないほど多数出土しており、古代にあっては海外と盛んに交流していた先進地域であったことは間違いないのですから、そうした資料に基づく着実な内容の講座を望みたいところです。

【追加】
久留米大学の公開講座について何か書いていないかと思い、古田史学の会の代表氏のブログ「洛中洛外日記」をのぞいてみたら、

「第2759話 2022/06/11
古賀達也「神籠石山城 鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺」

という記事で、永寧寺について説明する際、『洛陽伽藍記』の文書を示していました。

「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

と書いているものの、これだけ短い文章のうちに10箇所以上の不適切なところがあります。そもそも、訓読では古文の形にするのが通例なのに、「沙門で(→「で」は不要)」とか「にも無い也(→に無き也)」などのように現代口語の表現が混じっているうえ、「有らざると云えり(→有らずと云う)」と記すなど、古文めかした妙ちきりんな言い方になっています。古文の基礎ができてないですね。また、「起ちて荒裔なる自り」としてますが、「起自」は「起ちて~より」ではなく、この2語で「~から(始まり)」の意であって、訓としては「荒裔より中土に来遊す」で可。「荒裔なる自(よ)り」もおかしいです。「荽」は俀国みたいだけど、正しくは「炫」。しかも、原文の「自云(みずから云う)」の「云」が抜けてるし、「閻浮所にも無い也」は「閻浮(閻浮提=この世界。特にインドを指す)に無き所なり」の間違い。それに「響出する」って何なんだ? 「風鐸、風を含み、響き、天外に出づるを見」でしょ。また、「歌を詠じて」だと、そうした歌があるようだけど、正しくは「詠歌して」であって、「詠歌」は、節を付けて唱えることです。「未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え」としてるけど、口について前に何も記してないのに、「此の口」とするのはおかしいです。これは句読が間違っているのであって、「未有此。口唱南無(未だ此[これ=こんな素晴らしい寺]有らず。口に南無と唱え)」に決まってるでしょ。ネットで見た? 原文の句読の誤りを直せていないし、そもそも漢文の構造を理解してませんね。他にも問題がありますが、もうやめます。ああ、くたびれた。よくここまで間違えられますね。学界が相手にしないのは当然です。
 古文・漢文がこれほどできないからこそ、『東日流外三郡誌』は学の無い雑知識だけの現代人が文法に合わない古文もどきで書いていることに気づかず、本物だと信じ込み、また漢文史料についても誤読して大発見と称するトンデモ解釈を自信満々提示できるわけです。それにしても、この人たちは漢文が読めないのに、自信がない場合は「注釈や現代語訳がある文献についてはそれを参照する」という作業をなぜやらないのか。『洛陽伽藍記』などは、訳や注付きの本が何種も出てるのに。
 久留米大学の伝統ある九州王朝講座に参加し、質問して論旨に関わる資料の読み間違いを片っ端から指摘させてもらおうかな……。代表氏によれば、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させ」るそうなので。それにしても、事務局長氏も編集長氏も同様でしたが、古田史学の会の幹部たちは、長年あれこれ調べて書いておりながら、ここまで漢文が読めず、訓読もできないままでいられるというのは不思議です。これも「古代のロマン」の一つでしょうか。

【再追記】九州王朝論者がこの記事だけ見た場合、石井は神話重視の皇国史観寄りの立場で九州王朝説を批判しているのではないかと思うかもしれませんので、書いておきます。前の「古田史学の会」批判の記事にも書いたように、私は『日本書紀』や『古事記』を批判的に検討した津田左右吉のひ孫弟子であり、アジア諸国のナショナリズム、特に近代アジア諸国における仏教とナショナリズムの結びつきについて批判的に検討している研究者の一人です。このブログは一歩距離を置いた客観的な研究をめざしているため、梅原猛、井沢元彦その他のトンデモ説や、史実を無視して聖徳太子を無暗に礼賛する国家主義系の人達についても批判しています。

【追記:2022年6月18日】難波宮や藤原宮に関する考古学の研究成果をリンクで示しておきました。他にも、文章を多少訂正してあります。

【追記:2022年11月3日】「古田史学の会」の主要メンバーの書くものは、漢文が読めず、論文の書き方も分からない大学1年生たちがオカルト同好会の雑誌に書くような内容ばかりであることは、このブログの「珍説奇説」コーナーで指摘しておきました(こちらや、こちらや、こちら)。


【珍説奇説】大学生が絶対にレポートの手本にしてはいけない九州王朝説信者のトンデモ聖徳太子論【訂正版】

2022年05月27日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 九州王朝説信者のうち、古田史学の会については、その代表と、会の論集の編集長だった人物のトンデモ説をとりあげました(こちらと、こちら)。

 こうした人たちには関わりたくないのですが、久留米大学が九州王朝論の公開講座を何年もやっており、古田史学の会の代表や上記の記事で少しだけ触れた事務局長も講義するようです。捏造石器にとびついて町おこしをしようとした地方自治体を思い出させるような状況ですので、代表と編集長だけでなく、事務局長の論文もいかに学問的でないかを示しておきます。

 というのは、氏は大阪府立大学の非常勤講師をしており、知らない人は大学の講師という肩書きだけで信用してしまうからです。氏は古代史研究の専門家ではなく、以前は別な方面で重要な役職をされておられたようですが、そちらについては触れません。

 今回取り上げるのは、

正木裕「盗まれた「聖徳」」
(古田史学の会編『古代に真実を求めて : 古田史学論集』第18集「特集 盗まれた「聖徳太子」伝承」、2015年3月)

です。「論集」と称しているこの出版物は、会の性格にふさわしく、題名・副題・特集名がはっきりしない形になっており、奥付はこんな形です。



国会図書館では、扱いに困ったのか、「古代に真実を求めて」を題名、「古田史学論集」を副題、「盗まれた「聖徳太子」伝承」を特集名とみなし、以下のような形で登録していますので、それに従うことにしました。



 さて、正木氏については、このブログでは第二十五集掲載の氏の「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」に触れ、その粗雑さを批判しておきましたが、内容以前の問題が多く、そもそも注をきちんとつけられない点は、他のメンバーと同じです。

 正木氏は、「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」の注22の末尾では、こう記しています(68頁)。

 また、「難波宮は九州王朝の宮城」との説は、古賀達也氏が二〇〇七年に研究会で発表し、『古田史学会会報』八五号に「前期難波宮は九州王朝の副都」(二〇〇八年四月)を投稿して以来……考古学的論点では「前期難波宮の考古学(1)(2)(3)」(古田史学会会報一〇二号・一〇三号・一〇八号・二〇一一年~二〇一二年がある。
 拙著では「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八二号。二〇〇七年一〇月)、「前期難波美也の造営準備について」(古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月)

 最後の行で書名・出版社・刊行年月が読点やスペース無しで続けて書いてあるのは見逃しミスでしょうが、『古田史学会会報』となっているところと、古田史学会会報、となっていてカギ括弧も二重カギ括弧もついていないところがあります。同じ注の中でのこの不統一さは信じられません。

 正木氏は査読がある学術誌に投稿したことがないであろうことは、こうした書き方からも分かります。これで投稿したら、査読委員はぱらっと眺め、「はい、論文以前。内容を読む必要無し。読んでも無駄」で終わりです。

 実際、CiNiiで検索すると、古田史学の会の論集以外に論文は発表していないようです。文科省は、研究者の極度に専門的な学術講義ばかりにせず、実務経験者が担当する社会の実状に即した講義を増やすよう大学に指導していますので、正木氏が非常勤講師として教えているのは古代史学などではなく、そうした実務的な内容でしょう。

 なお、正木氏は、この会の論集については、「古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月」と表記しており、『発見された倭京』が題名であるような書き方ですね。一方、古田史学の会代表の古賀達也氏は、この第18集に掲載している「「君が代」の「君」は誰か」の注(170頁)では、

 (8) 坂井衡平著『善光寺史』上(東京美術 一九六九年)
 (9) 正木裕「天武九年の「病したまふ天皇」」(『古田史学会会報』第九四号 二〇〇九年)
 (10) 岡下英男「聖徳太子の伝記の中の九州年号」(『古代に真実を求めて』第十七集所収 二〇一四年)

とあるように、「『古代に真実を求めて』第十七集所収」と記していて『古代に真実を求めて』を題名としています。自分たちの会で編集して刊行しておりながら、会員内部、それも代表と事務局長とで書名表記がばらばらです。

 しかも、古賀氏の注では、先の記事で触れた服部氏の場合と同様、不要な「所収」が付いていますが、『古田史学会会報』の方には「所収」がついておらず、不統一であるうえ、単行本に限って著者名に「~著」を付けるという妙な形になっています。

 学術論文や本の注で「所収」としている例もたまに見かけますが、どこかの雑誌に発表された論文だが、後にその著者の本や講座ものの本などに収録されており、この論文ではそちらを参照したというような場合、「初出は『〇〇大学文学部紀要』第八巻、一九六二年三月。△△編『〇〇講座』第三巻、古代史出版社、一九九六年、所収)などといった場合に用いるのが普通であって、出典に片っ端から「所収」と付けるのは標準的な引用の仕方ではありません。

 以前の記事で書いたことを、もう一度、引いておきます。

 明石書店は良書を出している社会派の出版社なのに、なぜ学問の訓練を受けていない大学1年生たちが組織した歴史同好会のトンデモ会報みたいなシリーズを出し続け、会社の信用度を落とすのか、不思議です。
 内容のひどさはどうしようもないでしょうが、せめて注の付け方くらい編集部の担当編集者が注意してやれば良いと思うのですが。担当編集者は古田史学の会に任せっぱなしできちんと見ていないのか、それともこの会に好意的であって、歴史知識も編集能力も同じようなレベルなのか。

 さて、正木氏は法隆寺金堂の釈迦三尊像銘に見える「上宮法皇」は、隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と称して使いを送った「海東の菩薩天子」たる九州王朝の「多利思北孤」だとします。そして、「菩薩天子」とは、「仏法に帰依し仏門に入った天子(皇帝)を意味」する(145頁)と説くのですが、これは僧尼が守るべき詳細な戒律(vinaya=教団規則)と、大乗仏教を奉ずる僧尼や在俗信者が受ける精神的・理想的な心構えである菩薩戒(bodhisattva-śīla)の区別がついていないことによる間違いですね。

 「仏門に入る」とは、出家・剃髮して僧尼ないしその前段階の身分になることです。菩薩戒の場合は、在家の男女なら五戒、僧尼であれば戒律を受けた後に菩薩戒を受けるのが普通であって、在家の場合、受戒しても出家する必要はありません。正木氏は仏教の常識であるこの区別が分かっていないため、「隋王朝でも、皇帝が僧籍に入り受戒している」(146頁)と述べるのですが、「僧籍に入る」のは正式に出家して認められた僧尼であって、俗人の籍であれ僧尼の籍であれ、民の籍の管理の最高責任者は皇帝であり、中国の皇帝は出家した例がありません。

 そして、隋の文帝と煬帝の仏教関連の事績を並べるのですが、次のようになっています(146頁)。

 ◆(開皇元年)高祖、普く天下に詔し、任(ほしいまま)に出家を聽す。(『隋書経籍志巻四』)
 ◆(開皇四年)……俗を離れむと欲する者有らば師に任せ度せ(『仏祖統紀』)
 ◆(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。……(『弁正論巻三』)
 ……
 ◆(開皇十一年)……楊広に「総持」の法号を授く。楊広跪(ひざまず)き受く(『中国歴史故事網』)

 出典については「『隋書経籍志巻四』」とか「『仏祖統紀』」とか「『弁正論巻三』」などとしてあり、書名の二重カギ括弧の中に「巻四」などの巻数まで入れる妙な表記をしています。普通は、『隋書』「経籍志」巻四、とか、『隋書』経籍志巻四とか、『弁正論』巻三、とかでしょう。しかも、『仏祖統紀』については、大部の書なのに巻が表示されていません。不統一ですね。

 「開皇元年」の条では、許すという意味の「聴」がここだけ「聽」となっていて旧字なのは、どこからかコピーして貼り込んだためでしょう。それに、「経籍志巻四」って、おかしいですね。その時代の書物の情報をまとめた経籍志は、『隋書』では巻三十二志第二十七に収録されています。

 そこで、右の引文について確かめてみたところ、経籍志は「経籍一、経籍二、経籍三、経籍四」と分かれていますが、問題の箇所は、仏教書その他のリストを記してある「経籍四」の部分にありました。正木氏は、何かで検索してこの部分がヒットしたため、「経籍四」を巻のことだと思い込んだうえ、『隋書経籍志巻四』というおかしな形で書いたのですね。大学生の皆さん、こういうことをやってはいけません。

 漢文の訓みはむろん間違いだらけです。たとえば、「開皇四年」条のうち、文帝が僧侶の得度は霊蔵律師にまかせると述べた部分について、氏は「師に任せ度せ」と訓読してますが、原文は「有欲離俗者任師度之」なのですから、「俗を離れんと欲する者有らば、師の之を度するに任す」です。「之」が脱けてますし、「任せ度せ」は、古文としてもおかしいと思わないのか。

 「開皇五年」条では、正木氏は「法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く」と訓んでいますが、『弁正論』を確認したところ、原文では「開皇五年爰請大徳経法師。受菩薩戒。因放獄囚。」(大正52・509a)となってました。「大徳の経法師を請じ」となっていて僧侶の名が違い、「招く」でなく「請じ」となっており、大極殿でという部分がありません。

 そこで検索したら、『仏祖統紀』巻三九に「五年詔法経法師。於大興殿授菩薩戒」(大正49・359c)とあるため、これが本来の典拠なのかと思ったら、「大極殿」でなく「大興殿」となってました。つまり、『弁正論巻三』ではありませんし、隋の都である大興城の宮のことを、正木氏は日本の常識に基づいて勝手に「大極殿」と書き換えていたのです。こんな資料はどこにもないため、これは資料改変に等しい行為です。

 さらに、「開皇十一年」に煬帝が天台智顗から菩薩戒を受けたことについては、出典として『中国歴史故事網』をあげています。実際には、同じ『仏祖統紀』の巻六に見える記事です。『中国歴史故事網』と二重カギ括弧になっており、本の引用の形ですが、文字面を見ると中国か台湾のネットのサイトのようです。

 国会図書館でも中国・台湾の大手書店でも本としては検索できず、検索してみたら、やはりネットのサイトでした(http://www.lishi54.com/)。「中国歴史故事網」という漢字づくめなので権威がありそうですが、これは中国語だからであって、実際には、聖徳太子について資料を列挙する際、『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』「れきしチャンネル」、と並べているようなものです。

 学生はレポートなどではやたらとネット記事の切り貼りをやるため、大学の授業では、「ネット記事は原則として使うな。原典にあたれ。資料として利用する場合は、注でURLを示し、必要な場合は何年何月何日閲覧と表記しておくように」などと教えると思うのですが、ネット記事であることを明記してURLを示すことをしておらず、あたかも書物から引用したような表示の仕方です。卒論でこうしたことをやると、不正とみなされて落とされます。大学の講師先生がこれですか……。

 このように、隋の皇帝に関する仏教記事を4例をあげていながら、すべて問題がありました。孫引きばかりの粗雑論文、ネット記事のコピペだらけの学生レポートなどでも、ところどころにおかしな点があってバレるという程度が普通であって、ここまで連続して間違えているのは見たことがありません。

 コピペすらきちんと出来ず、漢文も読めず、さらに勝手に書き換えて新しい典拠を作り出すことまでやっているわけですが、これほど次から次へと間違いを重ねることができるというのは、これはもう正木先生の特殊な才能ですね。隋の頃の皇帝の菩薩戒受戒については、河上麻由子さんの「隋代仏教の系譜ー菩薩戒を中心として」(『東アジアと日本』2、2005年)のような好論文があるほか、他にも論文が出ており、CiNiiで検索できるんですけどね。

 こんな調子ですから、大事な主張に関してもおかしなことを書いていることは言うまでもないでしょう。たとえば、多利思北孤は煬帝に対して「重ねて仏法を興した」と述べており、「煬帝と崇仏を「競う」からには、この時点で法号を得ていて不思議はないだろう」(147頁)と氏は説きます。

 つまり、多利思北孤は煬帝にライバル心を抱き、「私は仏教を興隆しましたが、あなたも重ねて、つまり、私の奉仏事業に重ねる形で興隆しているのですね」と使者に言わせたと見るのです。となると、多利思北孤は煬帝より仏教熱心で先に興隆に尽力していたことになります。

 隋では、文帝が北周の廃仏を改めて仏教復興に尽力しており、経巻の整備・写本については、文帝が十三万二千八十六巻、煬帝が九十万三千五百八十巻、古像の修理は文帝が百五十万八千九百四十体、煬帝が十万一千体、新像の制作は文帝が大小十万六千五百八十体、煬帝は三千八百五十体と言われています(『釈氏稽古録』巻二、大正49・811a)。むろん、寺の修理や新造も大変な数です。

 正木氏は、九州王朝の王である多利思北孤は「煬帝と同じく(あるいは「より先に」)仏教を興した海東の菩薩天子」だと自称している(66頁)と説いています。凄いですね。それほど仏教熱心だったのに、北九州には6世紀末から7世紀半ばの間の大きな寺の遺跡が一つもなく、寺の瓦を焼いた瓦窯も一つも発見されていないのは、なぜなんでしょう?
 
 九州は朝鮮半島・中国大陸に近く、先進的であって、仏教も渡来人を通じて大和より早い時期に伝わっていたと、私は考えています。しかし、6世紀末から7世紀初めの日本において、瓦葺きの壮大な寺を建立し、大きな仏像を造るというのはまさに国家事業であって、家の中に小さな金銅仏などを安置して拝むというのとは、規模がまったく違うのです。

 この点については、最近の研究である井形進『九州仏像入門ー大宰府を中心にー』(海鳥社、2019年)が九州のその時期の状況を示している通りです。

 それに、「重興仏法」は、「隋の皇帝であるあなたは、重ねて、つまり、私(多利思北孤)と並んで」ということでなく、きわめて盛んであった仏教を北周が廃仏政策によって破壊したため、隋が再び興隆したということです。隋を建国した文帝は、還暦の誕生日に全国30箇所に舍利塔を建立させた際、「朕帰依三宝、重興聖教」(『広弘明集』巻17,大正52・213b)と述べているのをはじめ、詔勅でしばしば仏教を「重興」したという趣旨の言葉を述べています。

 だからこそ、「重興仏法」の「海西菩薩天子」は煬帝ではなく、父の文帝だとしたり、文帝を相手として隋への遣使を準備したが、煬帝に代わったので、文言をそのまま煬帝相手に用いたといった説があるのであって、論文もいくつも出ているのです。

 CiNiiで「菩薩天子」とか「重興」とかで検索すれば、文帝説を説く礪波護「天寿国と重興仏法の菩薩天子と」(『大谷学報』83巻2号、2005年3月)がヒットしてPDFで読めるのに、なぜ先行研究を調べようとしないのか。正木氏のこの論文で名をあげて引用しているのは、古田史学系の人たちが書いたものだけです。それに、SATで検索すれば、唐の道宣の『続高僧伝』が文帝について「重興仏法」(大正50・667c)と述べてますね。

 このように、正木氏は漢文が読めず、用例も先行論文もきちんと調べずに、「九州王朝はすごかった」という思い込みに基づいて自説に都合良い珍解釈をし、通説をくつがえす新発見をしたと誇るわけですが、漢文訓読に関する特にひどい間違いは、『海東高僧伝』の真興王の記事をあげたところです。正木氏は、「幼年即柞」という原文を「幼年にして柞(はは)に即(つ)きたれども」(147頁)と訓んでいます。

 「柞」は木へんであることが示しているように、ナラやクヌギなどの木の総称であって「ははそ」とも言われるそうですが、正木氏は勝手に「そ」を外して「はは」とし(改変が得意ですね)、「幼年にしてははに即く」と訓んでいます。真興王は、幼い頃は母にべったりだったが後に仏教熱心になった、ということですか? 

 邪馬壹国と邪馬臺国、倭国と俀国は違うとして、1字にこだわる九州王朝説信者でありながら、最古の朝鮮光文会本でも、それを受け継いだ仏教文献の世界標準である大正大蔵経も、「即柞」でなく「即祚」としており、幼くして即位したと述べているだけであることを確かめてないんですね。正木氏は、いったい『海東高僧伝』のどんなテキストに依ったのか。私は「柞」としているテキストは知らないのですが。それとも、氏はここでもコピペミスか転写ミスをしたうえで強引な解釈をしたのか。

 氏は漢文が読めないのですから、注釈や現代語訳があるものについては、それを参照することをお勧めします。『海東高僧伝』は、私の親しい研究仲間である小峯和明さんたちの訳注本が平凡社の東洋文庫シリーズで出てますよ。むろん、「即祚」としています。

 間違いは何行かにひとつくらいのペースで出てきており、こうした調子で指摘しているといつになっても終わりませんので、最後に一つだけ。

 正木氏は、『隋書』の後代の版本の誤記を認めず、倭国の王は姓は阿毎、名は多利思北孤とし、しかも、「太子を名づけて利歌彌多弗利と為す(太子名利歌彌多弗利)」とある部分を、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」と訓んで、俀国の太子の名は「利」だとする古田武彦氏の珍解釈を受け継ぎます。

 そのため、「斑鳩厩戸勝鬘」が善光寺如来に宛てた手紙は、死を前にした「利」のお願いの手紙であって、「多利思北孤と利が聖徳太子のモデルであったことを示す」(149頁)と断言するのです。しかし、この手紙は中世の偽文献であり、この件に関する古田史学の会のメンバーたちの解釈が間違いだらけであることは、以前、指摘しました(こちら)。

 それに、日本語ではラ行と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まるのは漢語など外来語だけであることは、橋本進吉が「古代音韻の変遷」(1938年)で指摘し、通説となっています。韓国語でも古代にはラ行で始まる語はなかったようで、そのためラ行で始まる漢語はナ行の音に変えて発音するのです(「労働」は「ノドン」であって、例の北朝鮮のミサイルの名「ノドン」は、朝鮮労働党の「労働」ですね)。

 俀国の太子だという「利」さんの「利」は、和語の「り」でなく、漢字の「利」なのか。だとしても、日本の漢字音は、遣唐使の影響で長安などの北方音に基づく漢音を用いるようになる前は、古代中国の漢字音が韓国に入って多少変化した漢字音を受け継いていたのですが、九州王朝はどの国から漢字音を学んだんでしょう。「理恵」とか「里沙」などラ行で始まる短い名も使われるようになった現代日本語を使っていたのでしょうか。
 
 そもそも、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」って何ですか?第十八集末尾に付された古田氏の読み下しの注だと、「哥彌多弗」は博多の地名である上塔(カミタフ)だそうですが、『隋書』の宋代の版本に見える「利歌彌多弗利」は「和歌彌多弗利(わかみたふり)」の誤りであって、大王の子を指す言葉であることは、1951年の渡辺三男論文が指摘しており(こちら)、これが通説です。

 そのうえ、「太子名〇〇〇」というのは、漢語の語法では「太子の個人名は〇〇〇だ」ということです。「太子を〇と名づく。〇〇なり」ではありません(SATで検索してみてください)。多利思北孤が派遣した使いは、「太子の名は利です。対馬の利さんや肥後の利さんではなく、博多の上塔の利です」と説明したんですか。冗談もほどほどにしてください。
 
 久留米大学の関係者の方々、見てますか? 皆さんが公開講座の講師に招いているのは、こういうレベルの歴史ファンたちですよ。久留米大学の教員たちも九州王朝論講座に参加しているようですが、他分野を専門としていて古代史については素人の方たちのようですね。

 九州という地の歴史的意義の見直しのため、地域活性化・観光促進のためなのかもしれませんが、こうしたことをしていると、本業である専門分野もこの程度なのか、久留米大学全体もそうした大学なのかと思われてしまうでしょう。

 学説はいろいろあって良く、「重興仏法」の「菩薩天子」は隋の文帝か煬帝かというのは学問上の異説ですが、「重興」は九州王朝の多利思北孤の仏教興隆に「重ねて」ということだとするのは、漢文が読めず、研究史を知らない素人のトンデモ解釈であって学説以前のレベルです。九州王朝説が最古の旧石器発見ブームの時のように久留米大学周辺で盛り上がり、「タリシホコ饅頭」とか「上塔の利マップ」とか作って後で回収するような事態にならないよう祈るばかりです。

【追記】
早朝に公開しましたが、『隋書』経籍志の引用間違い・コピペの件など、あれこれ訂正・追加したので、「訂正版」として再公開しました。
なお、題名は「大学生が手本にしてはならない~」としてありましたが、あまりにもひどいことが明らかになったため、「絶対に手本にしてはいけない」と改めました。よくここまで間違えられるもんだ……。
【追記:2022年5月28日】
「所収」の語、大興殿、韓国語の漢字音などについて説明を少し補足し、他にも表現をいくつか改めました。
【追記:2022年5月29日】
仏法を重興した「菩薩天子」について、礪波論文を例にあげました。残っていた誤記などを訂正し、わかりにくい部分を直しました。
 なお、久留米大学の九州王朝論講座の題目には「九州王朝論と筑後の観光資源」というものがありました。公開講座担当の方々には、ゴッドハンドと称された藤村氏の捏造を告発した考古学者、竹岡俊樹氏の『考古学崩壊ー前期旧石器捏造事件の深層』(勉誠出版、2014年)の「第9章 行政・マスコミ・町おこし」を読むことをお勧めします。この章では、各地の自治体が旧石器発掘ブームを歓迎して町おこしに利用しようとし、「原人まんじゅう」などが売り出された状況を批判的に報じた朝日新聞の河合信和氏の文章、また、藤村氏の行為は「事実の捏造」だったが、そうしたブームに便乗した学者や行政の発掘担当者による大げさな発表の仕方については「解釈の捏造」と呼びたい、と記した読売新聞の矢沢高太郎氏の文章などを引き、当時の状況を明らかにしています(260頁)。藤村氏は、次々に大発見をしていったわけですが、古田史学の会の人たちも、前期難波宮は九州王朝の副都ないし複都であって四天王寺も九州王朝の寺だったなど、解釈変更だけで次々に新発見と称する成果をあげておられるようですね。
 念の為に書いておきますが、私は万世一系を説く皇国史観寄りの立場で九州王朝論者を批判しているわけではありません。学問のレベルに達していないことを問題にしているだけであって、ブログを見てくだされば分かるように、虚構説の大山誠一、法隆寺怨霊鎮魂説の梅原猛、太子ノイローゼ説の井沢元彦、史実と異なる太子礼賛ばかりの「新しい歴史教科書をつくる会」元会長や理事など、様々な系統の人々の聖徳太子論の粗雑さを批判しています。私は仏教研究者ということになっていますが、津田左右吉のひ孫弟子であって、皇国史観などには大反対であり、いかにして古代の、また近代の日本の国家主義が形成されていったかを批判的に研究している一人です。6月7日開催の近代仏教史研究会では、明治期の日蓮宗系の天皇絶対主義は、実は外国の影響を受けていたことについて発表することになっています。
【追記:2022年5月31日】
樹木の名である「ははそ」の「そ」をことわりなく外して「はは(母)」としている、ということが分かりやすくなるよう表現を改めました。古田史学会論集第十八集に収録されている正木氏の他の聖徳太子論を眺めてみたら、そちらでも似たようなことをやってますね。「ははそ」については、「ははそい(葉々添)」「はほそ(葉細)」などが語源だとされており、「母」とは関係なさそうですが。

【珍説奇説】九州王朝説論者が『勝鬘経』も『法華義疏』も読まずに「石井公成氏に問う」などと力んだトンデモ聖徳太子論

2022年05月11日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 世の中には、妙なことを聞いて飛びつき、それを知っている自分は優位な存在だと思いこんで、自分たちの目から見たら間違った常識に従っているとしか思えない世間の人々の迷妄を解いてあげようとする困った人たちがいます。

 トランプ大統領を救世主とみなし、その演説に基づいて世の中の人のためと思い、善意で反マスク運動を展開したような人たちですね。古代史研究の世界において、これと良く似ているのが、九州王朝説信者です。

 そうした困った九州王朝説信者の中でも、とりわけ強引な主張を展開しているのが、現代の偽作である『東日流外三郡誌』を真作だと強弁した晩年の古田武彦直系の古田史学の会です。その代表である古賀達也氏が、私が長く関わったSAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース)を利用したと称して時代錯誤のデタラメを書いていたため、さすがに放置できず、このブログでとりあげて誤りを指摘しておきました(こちら)。

 そうしたら、今度はその仲間が私を名指して批判したトンデモ聖徳太子論が刊行されました。学界では相手にされないため、ネットで取り上げてくれそうな人にからんでみたということでしょうか。

服部静尚「聖徳太子と仏教ー石井公成氏に問うー」
(古田史学の会編:『古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十五集 古代史の争点』、明石書店、2022年)

です。『古代に真実を求めて』というシリーズ名は、「古代に都合良く解釈できる記述を求めて」と改名した方が適切でしょう。何号からかは知りませんが、服部氏は二十五集の前までこのシリーズの編集長を務めていた由。

 読むまでもないため放置したかったのですが、知人の研究者が、「AMAZONでこの新刊書を見かけたところ、<石井氏に問う>などという題名になっている論文があるようだ。どんな主張なのか、反論しなくて良いのか」と尋ねてきたため、仕方なく購入しました。

 注文したものが届いたので、読んでみたところ、「1+1=3 である。これを<古田の絶対公理>と呼ぶ。したがって、 1+1-2 の答えは、この公理の論理的必然的帰結として 1 とせざるをえないのに、石井公成氏はこれについて何も語っていない。この公理を無視して聖徳太子について語ることはできないはずだが、氏はこの公理についてどう考えているのか? (触れないのは、皇国史観に基づく大和王朝一元論に立っているせいではないのか)」と詰問されたような気分になりました。

 困りましたね。そもそも私はナショナリズムや皇国史観などには反対であって、近代日本の国家主義、それも特に聖徳太子や仏教に関連するナショナリズムを批判的に研究するという点では、このブログや、石井公成監修、名和達宣・近藤俊太郎編『近代日本の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)での私の「総論」が示すように、私はおそらくその分野の代表的な研究者の一人だと思うのですがね。 

 ともかく、服部氏の主張を見てみましょう。氏は、良書と聞いて石井の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』を講読したとして話を始めています(買ってくださって有難うございます)。そして、読み始めたところ、「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」と書いてあるため、賛成して読み進めると疑問が出てきたので批判したい、と述べます。

 疑問の最初は、『日本書紀』の守屋合戦における厩戸皇子と馬子の戦勝祈願の部分です。拙著では、厩戸皇子が四天王に祈願し、馬子が四天王以外の神々の擁護を願ったというのは不自然なので、これは四天王やその他の護法の神々に対して大勢でなされた一つの祈願を分け、厩戸皇子の誓願と馬子の誓願に割り振って記したのではないか、と推測しました。また、「軍勢の士気を高めるため、戦勝を願う大がかりな儀礼を行うのは古今の通例です」と述べました。

 ところが服部氏は、四天王による護国を説くのは『金光明経』だけであり、『金光明経』では、『金光明経』が供養されるなら国王と人民を守り、隣国が侵攻して来たら降伏させると四天王が誓うと記されている以上、「普通の人の常識でこの経典を読めば、厩戸皇子の四天王への祈願が筋違いであることが判る」(73頁)と論じます。

 そして、『金光明経』の読経をするなどの恭敬供養をしないと「その願いは届かない」のであって、後代の日本では実際にそうした儀礼をしているとし、「三上喜孝氏の著書によって」(73頁)その後代の例をあげます。

 「著書」とあるため、そのような研究書が刊行されているのかと思って注を見たら、山形大学の雑誌に載った「古代の辺要国と四天王法」という論文でした。学問の世界では、というより、「普通の人の常識」では論文のことを「著書」とは呼びません。そもそも、注の表記の仕方が学術論文の形式になっていませんね。たとえば、
 
  (注1) 壬生台舜『金光明経』大蔵出版
 (注2) 三上喜孝「古代の辺要国と四天王法」山形大学歴史・地理・人類学論集5 二〇〇四年
 ……
 (注4) 赤沼智善訳「国訳一切経」大東出版社
 (注5) 壬生、前掲書
 ……
 (注10) 『名古屋大学文学部研究論集(史学)』一九六七年に掲載の、谷川道雄「蘇綽の六条詔書について」 
 (注11) 二葉憲香『古代仏教思想史研究』一九六二年

とあるうち、注1では出版社を示して刊行年を出さず、注11では出版社を示さずに刊行年だけ記していて不統一であるうえ、当該ページの表示もされていません。また、注2の三上論文が掲載されているのは山形大の紀要なのですから、二重カギ括弧にして『山形大学歴史・地理・人類学論集』5、などと記すのが普通です。実際、注10では、大学の雑誌名を二重カギ括弧で表記しており、不統一であるうえ、「~に掲載の、」などという珍妙な書き方をしています。学術誌に掲載された論文を注で示す場合は、出典だけ示すのが普通であって、「~に掲載」などとは書きません。

 おまけに、本文の『金光明経』四天王品という部分につけられた注4の「国訳一切経」はシリーズ名ですので、個別の書名として出すなら、二重カギ括弧にして『国訳一切経・経集部5』などの形にする必要があります。それに、赤沼の訓読文を引用するならともかく、経典の品(章)の名を示すのに訓読本の題名だけ、それもシリーズ名だけ注で示すというのは珍妙なやり方です。グローバルスタンダードとなっている大正大蔵経の巻・頁・段で示すのが常識です。

 学術論文というよりは、大学1年生が初めて書いて提出し、先生に形式の不備を叱られるレポートみたいな書き方ですね。『古代に真実を求めて』シリーズに掲載されている論文もどきたちは、こうした素人くさい書き方が目立ちます。

 しかし、服部氏は、編集長としてこうした点をチェックし、訂正する立場だったんじゃないんですか? 九州王朝説に基づく説を長年にわたって書き散らしておりながら、いまだにこんな調子であって、学術論文の形式で書けない以上、肝心の内容も学問的でないことは言うまでもないでしょう。

 服部氏は、上記の「三上喜孝氏の著書によって」、『金光明経』を読誦して祈願する四天王法が行われたのは後代になってのことであり、また『三国遺事』によれば、新羅でも四天王信仰に基づく戦勝祈願がなされたのは7世紀後半であって、しかもそれは「近頃」学んできた「秘法」とされているため、「いわゆる四天王法は七世紀後半より広まったと考えられるのだ」と述べ、物部合戦の頃は四天王法は「未だ「古今の通例」ではなかった」(75頁)と論じています。

 私の言葉である「古今の通例」を使って批判していますが、私は「軍勢の士気を高めるため、戦勝を祈る大がかりな儀礼を行うのは古今の通例です」と述べたのであって、四天王への戦勝祈願が「古今の通例」だなどとは書いていません。

 『金光明経』がインドで4世紀頃に成立し、5世紀の初めに漢訳されるはるか前の紀元前から、中国では戦闘の前に動物を焼いて祖先の霊に捧げるなどして戦勝を祈る儀礼をやっていました。「古今の通例」というのは、戦闘にあたっては、何かしら士気をを鼓舞するような戦勝儀礼をおこなうのが普通だということです。

 さらに重要なのは、『三国遺事』は、新羅の明朗法師が龍宮に入り秘法を学んできたとしていることです。「文豆婁秘密之法」(大正49・972b)とあるため、文豆婁(mudrā=印)を結んでダラニを唱えるなど密教による祈祷を行ったことが知られます。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』は「印」を説いていません。四天王に守ってもらうためには、四天王が喜ぶことをし、四天王を元気づける必要がありますが、『金光明経』によれば、この経典を供養して焼香すると香煙が天まで届いて四天王を初めとする神々の活力が増すと記されています。

 焼香については、漢訳では「諸の人王、手に香爐を擎(と)りて」この経を供養する(T16・342c)となっており、梵文テキストでは dhūpa-kaṭacchu(香を入れたスプーン・柄杓)を hasta-parigṛhīta(手につかんで)、となっています。

 つまり、柄香炉を手にして焼香供養するのです。上記の『金光明経』の例については、石井「六朝における道教・仏教の焼香儀礼」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』29号、1996年5月。こちら)で検討しておきました。

 インド・西域では、香炉を手にして祈る場合は、あぐらをかいて片方の膝を立てた形でおこなうことが多いようですが、聖徳太子孝養像と呼ばれるお馴染みの姿は、立って柄香炉を手にする形ですね。

 孝養像は父である用明天皇の病気平癒を祈る姿とされ、中世には大量に作成されていますが、私は物部合戦の際の祈願の姿が元であって、それが孝養像に変わっていったと考えています。なお、法隆寺には古い柄香炉がいくつも残されており、そのうちの一つは、由来は不明であるものの、朝鮮三国時代ないし飛鳥時代の古い作とされ、国宝となっています。

 それはともかく、5世紀初めの曇無讖訳『金光明経』では、印を結びダラニを唱えて云々といった密教的な祈願法は説かれていません。印とダラニを並べて記しているのは、隋代に陀羅尼最浄地品その他の品が加えられた『合部金光明経』(597年)と大幅に増広された唐代の義浄訳の『金光明最勝王経』(703年)です。

 また、652年に長安にやって来た中インドの阿地瞿多が翌年訳した『陀羅尼集経』では、「四天王法印呪」(T19・878c)を初めとして、四天王関連の様々な印とダラニと祈願法が説かれています。

 つまり、四天王への祈願は、『金光明経』が流行すればなされうるのです(隋の前の王朝である陳では、『金光明経』に基づく悔過も盛んになされており、文帝が『金光明経』に基づく懺文を書いています)。ただ、インドで密教が盛んになるにつれて、『金光明経』自体も密教色を増して増広されていったうえ、唐代に密教の四天王儀礼を説いた密教経典が翻訳されると、そうした儀礼が最近の「秘法」としておこなわれるようになり、明朗はそれを学んで来た、ということです。

 ただ、 戦争中の祈願となれば、何日もかけて講経などをしている時間はありません。やれるのは、焼香して「戦いに勝ったら、~します」と誓願することくらいでしょう。実際、『日本書紀』では、厩戸皇子は「戦いに勝ったら、護世四王のために寺塔を建てます」と誓い、勝ったので四天王寺を建てたと記してあります。

 これは法隆寺ではなく、宣伝上手の四天王寺側の資料に基づいたため、こうした四天王寺起源説話になっているのですが、四天王のために四天王寺という名の寺を建てておきながら、四天王が護国を約束している『金光明経』の講経をしないなどということはありえないでしょう。
 
 この誓願と造寺というパターンは、日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』上巻「亀の命を贖ひて放生し現報を得て亀に助けらえし縁」にも見えています。百済を救うために派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰れたら神々のために寺を建てますと誓って出かけたところ、百済の禅師弘済をともなって帰国することができ、寺を完成させて盛大な供養をすることができた、という話であって、明朗の祈願の少し前の時期です。

 この説話では、百済の弘済法師も瀬戸内海で海賊に襲われたものの、脅されて海に飛び込む直前に誓願した結果、生き延びることができています。誓願しているだけであって、印を結んでダラニを唱えるなどはしていません。弘済は後に多くの寺を建てたと記されており、これはその時の誓願を実行するためでしょう。

 古代のアジア諸国にあっては、誓願は最新の威力あるハイテクだったのであって、尊重されていたことは、この弘済の話を検討した「誓願の威力か亀の恩返しか」という講演録で述べておきました(こちら)。

 それだけでなく、私は誓願に関する論文をいくつも書いており、「上代日本仏教における誓願について-造寺造像伝承再考-」という、そのものズバリの題名の論文もかなり昔に書いています(こちら)。私の論文に限らず、誓願の研究は盛んになっており、そうした諸論文は CiiNiiや researchmapで検索できますし、PDFで読めるものも増えているんですが。

 四天王に「戦いに勝たせてくれたら寺を建てます」と誓願した厩戸皇子の願は筋違いだとした服部氏は、このエピソードを作った人について、「想像するに仏教関係者ではなさそうだ」(75頁)と述べています。仏教のことを良く知らない人が書いたため、そうした「筋違い」な話になったと氏は推測したのでしょう。しかし、実際には、仏教を知らないのは服部氏の方でした。

 次に、隋と仏教交流をしたのは九州王朝の男性の王である「多利思北孤」だとする立場の服部氏は、女性の推古天皇が仏教興隆に努めたとする伝承を疑います。

 鳩摩羅什訳『法華経』の提婆達多品では、仏弟子が女性の能力を疑って女性の身は汚れていて法の器でないとか、仏や世界の王にはなれないといった障害があるなどと述べているうえ、龍王の娘である龍女がそうした疑いを打破するため、男性に変わって仏になったとされており、男でないと仏になれないとするなど、女性差別の記述が見られるからだというのです。

 そして、吉蔵、智顗、基など隋唐の諸宗の僧たちの龍女解釈を紹介するのですが、吉蔵『法華義疏』については、白景皓氏の論文「法華経提婆達多品『変成男子』の菩薩観」(ネットで公開されています。こちら)によるとして、「男また男にしてまた女なり。則ち龍女がこれなり」という文を引き、「龍女は男女両性をそなえるので男子に変わり得ると解する」(77頁)と述べています。

 しかし、白氏の論文が示している訓読文は「亦た男にして、亦た女なり。則ち龍女、是れなり」であって「亦男亦女。則龍女是也」(T34・592b)とある原文通りの訓読となっており、「男また男にして」などとはなっていません。「亦た男、亦た女にして」と「男また男にして」では構文が違ってしまいますし、忠実な引用でないため落第です。

 吉蔵は三論宗であって空・無自性を説く立場ですので、「男」も「女」も固定的な実体はないとし、龍女がその良い例だとしているだけです。龍女が「男女両性をそなえる」などとは言ってません。

 漢訳経典では男女の両性器を備える人については「二根人」とか「二根者」その他の表現をしていますが、提婆達多品の漢訳では、龍女は「忽然の間に変じて男子と成る(あっという間に男性になった)」としているため、完全に女性として扱っています。

 それどころか、漢訳ではぼかして訳していますが、梵語原文では「女性の性器が消えて男性の性器が出現し」と書かれています。この場面を描くためもあって、龍女はまだ幼い少女という設定にしてあるのです。

 服部氏は、吉蔵などは「女性は仏になれない」という問題を逃げるようになったと述べ、続く「鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』に見える変成男子論」と題する節では、『維摩経』にも「釈迦の男女観がみえる」(78頁)と述べるのですが、大乗経典は釈尊が没して数百年後に作成されたものですので、最初期の仏典について言うならともかく、大乗経典について「釈尊の男女観がみえる」といった書き方をするのは適切ではありません。

 なお、氏は『維摩経』については、女性の能力を疑う仏弟子の舎利弗を、天女が神通力で女性の身とし、自らを男性の身に変えたうえで、男女は固定的なものでないため、仏は「一切のものは男に非ず、女に非ず」と説いた、という部分を紹介していました。これは、実は漢訳の日本語訳であって、梵語原文では、na strī na puruṣaḥ (女でもなく男でもない)となっています。漢訳は、男女平等であることを示そうとしておりながら、つい漢語の「男女」という言葉に引かれて「非男非女」と訳してしまったのです。

 そうした点では男性優先の立場が残っているとはいえ、男尊女卑の中国において、天女が「男に非ず、女に非ず」として男女の区別を真っ向から否定したのは大胆な言明でした。しかも、これは権威ある経典の言葉です。この点は、龍女成仏の場合も同様です。
 
 しかし、服部氏は、『法華経』では「変成男子」が説かれ、男にならないと仏になれないなどという女性蔑視がなされていた以上、「女性である推古天皇のもとでの、この時期の仏教受容はあり得ないと私は考える」(79頁)と述べるのです。

 「考える」のは勝手ですが、「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」という私の主張に賛成したことはどうなったんでしょう。提婆達多品の記述は、今日の目からすると女性差別の面を含んでおり議論になっているものの、日本では提婆達多品は法華八講の中心として重視され、平安文学を見ればわかるように、女性救済を説くものとして女性たちの信仰のよりどころとなってきました。

 というか、そもそも『法華経』には提婆達多品は含まれていなかったんですけどね。提婆達多品そのものは成立が古く、インドでは単行経典として流布しており、後に梵文『法華経』の見宝塔品の後半に付加されるに至っていますが(付加されているだけで、品としては独立していません)、羅什訳『法華経』には入っていません。羅什訳に加えられたのは、隋の少し前頃と推測されています。

 ですから、『法華経』の古いテキストに依っている梁の光宅寺法雲の『法華義記』には、提婆達多品はありませんし、その『法華義記』を「本義(種本)」としている上宮王(厩戸皇子)の『法華義疏』でも提婆達多品はとりあげていません。

 『法華義疏』は、提婆達多品を含む新しいテキストに基づく隋唐の『法華経』注釈を参照しておらず、見ていないようです。三経義疏は、古いテキストに基づき、古い学風の注釈をしているのです。

 となれば、推古天皇が提婆達多品について聞き、「女性差別だ」と考えることはなかったでしょう。このことが示すように、九州王朝説論者の主張は、そもそも前提が大間違いであって議論が成り立たない場合がほとんどなのです。

 そのうえ、服部氏は、『日本書紀』では推古天皇が厩戸皇子に『勝鬘経』を講経させたと記されており、上宮王(厩戸皇子)作とされる『勝鬘経義疏』が伝えられていることを忘れてますね。その『勝鬘経』では、勝鬘夫人が大乗仏教の教理を述べ、如来から賞賛されています。

 しかも、『勝鬘経』では、如来は勝鬘夫人に対して、汝は如来の真実の功徳を賛歎した功徳により、無限の長さにわたって「天人の中に自在王と為らん(天人之中為自在王)」(T12・217b)と保証しているんですよ。

 『勝鬘経』では、その後の部分で勝鬘夫人が10の誓いをなすのですが、この点について『勝鬘経義疏』は、世間の人は女性は志が弱いから重要な仕事は無理だと疑うため、「誓(願)を立てて疑いを断」ずるのだと説明しています。女性弁護です。しかも誓願重視です。

 推古天皇は、欽明天皇の皇女であって敏達天皇の后となり、大乗仏教を広めていますので、国王夫妻の王女であって隣国の国王の妃となり、大乗仏教を説いた勝鬘夫人と同じ立場ですね。そのような『勝鬘経』を講経させた推古天皇が(実際には、厩戸皇子が講経を申し出て、それを推古が許可したという形でしょう)、倭国最初の女性の天皇(大王)となっているわけです。

 なお、男尊女卑の儒教が常識となっていた中国において、女性の身で皇帝となって新たに王朝を打ち立てた唯一の存在は、則天武后です。武后は、武后は弥勒の化身だとする経典注釈を流布させて即位し、それまで道教→仏教という順序であった宮中での僧侶の並ぶ順序を、仏教→道教の順に変えさせました。つまり、推古天皇も則天武后も、その即位は仏教によって保証されているのです。

 仏教経典については、今日の目から見て女性差別的だと考えられる面があることは事実ですが、古代にあっては仏教が女性の地位を向上させる役割を果たしたこと(また、劣っている女性でも救われるという形で女性差別を助長したこと)は、疑いありません。「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」というのは、こういうことです。

 なお、隋から初唐にかけて活躍した中国三論宗の吉蔵の『勝鬘経』注釈では、女性を低く見ているのに対し、上宮王の『勝鬘経義疏』では、勝鬘夫人がいかに優れた女性であるかを強調し、また「母」という点を強調しています。

 吉蔵の注釈は、『勝鬘経』のうち、国王夫妻が我が子の勝鬘夫人を誉めている箇所について、「子供を判断する点では父にかなうものはない」という諺を示して父だけを問題にし、また勝鬘夫人に対する「父の慈愛の重き」ことを説くに止まっています。

 一方、上宮王の『勝鬘経義疏』では、「父にかなうものはない」という諺をわざわざ改めて「父母にかなうものはない」と記しており、「母」という点を強調しているのです。推古天皇は厩戸皇子の叔母であって、義理の「母」ですね。

 こうした点、また『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」は共通する部分が多く、同じ人が書いているとしか考えられないことは、昨年の講演録で明らかにしてネット公開し、このブログでも紹介しました(こちら)。

 その「憲法十七条」については、服部氏は、隋の皇帝を「海西菩薩天子」と呼んで使節を送った九州王朝の王である多利思北孤が作ったという九州王朝説論者の主張を繰り返していますが、それほど仏教熱心な国王がいたなら、立派な寺を建てたでしょう。しかし、遣隋使が送られた前後の時期について言えば、九州では大寺院の遺跡も瓦を焼いた瓦窯もまったく発見されていません。

 一方、飛鳥では、百済の王立寺院として完成した王興寺を造った百済の工人たちが6世紀末に馬子の要請で派遣され、王興寺の瓦にそっくりな瓦を飛鳥の地で焼いて飛鳥寺の屋根に葺いています。寺の近くで瓦を焼いた瓦窯が発見されているのです(こちら)。

 その瓦を造った瓦笵で造られた瓦が、馬子の姪である推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺で用いられ、その改良型の瓦笵で造られた瓦が馬子の娘婿かつ推古の娘婿である厩戸皇子の斑鳩寺(若草伽藍)に葺かれ、その瓦笵がすり減ったものが山背の楠葉瓦窯に持ち込まれ、創建時の四天王寺の瓦が作成されていることが、考古学の研究成果で明らかになっています(こちら)。

 「法王」と称したという仏教熱心な九州王朝の多利思北孤さんは、隋と交流する前は、どこから仏教を導入したんですか? 中国南朝の陳ですか? 古代朝鮮のどこかの国ですか? この数十年で、北九州の都市開発・宅地開発が大幅に進んだにもかかわらず、陳の寺の瓦に似た瓦、その陳が影響を与えた百済の瓦、またその時期の高句麗の瓦に似た瓦が北九州で大量に発掘されたという報告はなされていません。

 このため、苦しくなった九州王朝説論者たちは、現在の法隆寺は大宰府にあった九州王朝の寺を移築したものだと説いたりしており、中でも古田史学の会のメンバーは、難波の天王寺(四天王寺)は実は難波を副都だか複都だかとした九州王朝が造営した寺だなどと妄想するのです。

 しかし、法隆寺西院伽藍の前身である若草伽藍は、現在の法隆寺と同じ規模の寺でした。現在の法隆寺の金堂の礎石は、焼けた若草伽藍の金堂の礎石を利用していることが判明しています。

 となると、若草伽藍も九州王朝の寺を移築したんでしょうかね。そういうことになるなら、壮大な飛鳥寺も豊浦寺もすべて九州王朝の寺を移築したのであって、九州では瓦の破片一つ残らないようにしたんでしょうね。それとも、若草伽藍も飛鳥寺も豊浦寺も、実は難波や大和を支配した九州王朝の寺だったんでしょうか。服部氏の主張はこんなレベルのものばかりです。

 氏は末尾で、六世紀末から七世紀初めにかけて仏教交流に努めた天皇は推古女帝ではなく、『隋書』俀国伝に見える男王である阿毎多利思北孤であって、隋の楊堅・煬帝の菩薩皇帝の思想、国家仏教と言える政策を学び、十七条憲法制定などをおこなったとし、『日本書紀』の厩戸皇子の記述は阿毎多利思北孤の事績であり、「筋違い」である厩戸皇子の祈願は七世紀後半以降に九州王朝の天王寺を隠すために創作されたと述べます。

 そして、「石井氏にお教え願いたい」として、聖徳太子伝承に用いられている九州年号をどのように考えるか、「推古天皇と同時期に『隋書』俀国伝に現われる阿毎多利思北孤(男王)の存在をどのようにお考えなのか」と記し、「この二点に蓋をされて、聖徳太子を語ることは可能なのでしょうか」(84頁)と問いかけて終わっています。

 もちろん可能です。というより、そんなデタラメに基づいて学問的に「聖徳太子を語る」ことは不可能だと言うべきでしょう。九州年号と言われるものは、古くて信頼できる金石文に見えず、平安から中世にかけて、自分たちの一族や寺にとって都合の良い記述をした文献や有名な人物に仮託した偽作文献が盛んに作られた際に用いられ、広まったものです。歴史的な存在としての厩戸皇子とは関係ないことは常識であり、学界では相手にしていません。

 また、氏は「推古天皇と同時期に『隋書』俀国伝に現れる」と書いていますが、『隋書』に「俀国」とあるのは、何百年も後の宋代になって作られた版本でのことです。『隋書』のその版本自身、東夷伝では「俀国」としつつも帝紀の部分では「倭国」としていることが示すように、「俀」は「倭」の異体字として通用していました。

 また、『隋書』に限らず、古代の日本に言及する古い史書の写本・版本では、同じ内容の記事が「倭国」とされたり「俀国」とされたりしているうえ、『隋書』の版本が作成される以前の写本・版本について言えば、「倭国」の例が圧倒的であることは、これまで指摘されてきた通りです。

 古田武彦氏は日本の学者を罵倒し、文献については中国の学者の判断を尊重すべきだと述べていたと思いますが、中国の史書のテキストで現在最も学術的とされ、諸国の研究者も信頼して利用しているのは、中国を代表する出版社である北京の中華書局が出している「点校本二十四史修訂本」シリーズであって、その『隋書』第六冊(2020年)の東夷伝では「倭國」と表記しています。

 版本によって「偶」が「遇」となっていたり、「阿」が「何」になっているように字が異なる場合は校異を示しており、「多利思北孤」については『北史』『通典』『大平御覧』その他によって「多利思比孤」と改めると注記しているのに、「俀国」の部分は単なる異体字と見て標準的な「倭」で表記しており、当然のこととして注もつけていないのです。これが近年の中国の学者たちの判断です。

 南北朝期は異体字が多すぎたため、唐では役人が学ぶ儒教のテキストなどを新たに確立した楷書で石に刻み、標準的なテキストと標準的な字体を定めたのです。ちなみに、南朝の古くさい注釈に基づいて書かれ、おそらく読みにくかったであろう草稿を作者とは別の能筆の人が急いで筆写したと思われる上宮王の『法華義疏』(こちら)も、実際には異体字(こちら)と誤字・誤写だらけです。



 しかも、奈良朝の初め頃に別人によって冒頭に付された題名・著者名の表記の部分では、国名の「大倭」を「大委」と記しており、「委」を「わ」と発音していた時期の古い表記を用いています。また、原本には無かったが加えた方が良いと後で思って注のつもりで入れたのか、あるいは、原本でもそうなっていたという情報に基づいてそのままの形で記したのか、「國」でなく「国」の字を横に小さく書き添えてあります。

 大事な書名・撰者名を書いた数行の紙を貼り付けるのですから、「国」という字をうっかり書き落して訂正したとは考えられません。となると、「存在したのは邪馬臺国でなく邪馬壹国だった」や「倭国と俀国の表記は使い分けられているので別の国だ」という九州王朝説の図式に従って、「倭国はなかったのであって、存在したのは委国だった!」とか「いや、委国と倭国は別の国なのだ!」ということになるんですか?

 この「大委国」という表記が奈良朝になると不自然と思われるようになり、正倉院の写経記録では「委」と書いたうえで、後から左側ににんべんを書き加えたりしているのです(こちら)。

 そのため、後に書写された『法華義疏』や『勝鬘経義疏』では「大倭国」という表記が普通になります。772年に誡明・徳清などが唐に持っていった『勝鬘経義疏』に対して、中国の天台僧である明空が注釈として『勝鬘経疏義私鈔』を書き、それが平安時代に日本にもたらされますが、その注釈でも「大倭国」となっています。

 写本とか版本というのは、そういうものなのです。「発音が同じなら、画数が少ない字の方が書くのは楽だよね」といった調子の例は、敦煌写本とか見ているといくらでも出てきます。異体字だか誤記だか分からない字もたくさんあります。

 「上宮王」の「宮」にしても、『法華義疏』では、うかんむりの下は「呂」でなく、口を二つ重ねた古字の「宫」の形ですが、「上宮王はいなかった。いたのは上宫王だ!」ですか? 「上宮王と上宫王は別の人物だ!」ですか? 法隆寺が宝治年間(1247-1249)に『法華義疏』に似た字体で彫った版木で刊行した『勝鬘経義疏』でも、「宮」の字はすべて「宫」になってますけど。

 「阿毎多利思北孤」について、「阿毎」を姓、「多利思北孤」を名と見るのは中国の誤解であり(現在でも天皇には姓はありません)、「多利思北孤」は上記の修訂本の『隋書』が記しているように、「多利思比孤」の誤記です。

 冠位十二階では、「徳」の下に「仁、礼、信、義、智」と並べていますが、『隋書』では野蛮な東夷が五常の順序を誤ったものと見たようで、「仁義礼智信」という通常の五常の順序に直して記しています。中国は周囲の諸国については野蛮国とみなしていますので、史書が外国について記述する際、中国の常識に合わせた表現にするのはよくあることです。

 裴世清来訪の道筋は『日本書紀』に詳細に描かれており、地理的に見て他国の使者の来訪記事と矛盾しませんので、飛鳥来訪と見てよいものです(こちら)。

 「阿毎多利思比孤」については、個人名でなく、倭国の王を指す言葉とする説が妥当と思います。裴世清が対話し、「倭王」と記した相手は、厩戸皇子であった可能性があると考えていますが、これについては、いずれ論じます。ともかく、服部氏の主張は上記のような誤解と空想ばかりです。

 なお、同誌に載っていた古田史学の会の事務局長だという正木裕氏の「二人の聖徳太子「多利思北孤と和歌彌多弗利」」という文章も、漢文資料が読めておらず、仏教の知識もないため、間違いだらけであってひどいものでした。釈迦三尊像銘に見える「干食王后」と「鬼前太后」に関するトンデモ説明がその好例です。

 SATを利用して検索したようですが、地獄の描写で有名な『正法念処経』に「熱鉄野干食其身中」とか「諸餓鬼前身」とあるため、「干食」と「鬼前」は、天然痘で苦しんで死んだのであろう「太后・王后の陥った地獄の苦しみをを示す諡号(あるいは法号)だった可能性が高い」(65頁)などと書いています。

 上宮法皇や妃の遺族たちは、地獄の亡者について「極熱の鉄製の野干(śṛgāla=ジャッカル)が体を食う」と記している文に基づいて、上宮法皇の最愛の妃に「干食」という諡号/法号をつけ、「もろもろの餓鬼(preta)たちは、前世の時、嘘でだまし、良い人を殴り、殺したりしたので、餓鬼の世界に落ちた」(地獄に落ちるのではなく、餓鬼の世界に生まれる、です。地獄と餓鬼は別の世界です)と述べた部分のうち、「餓鬼の前身」という箇所に基づいて、太后、つまり太子の母后に「鬼前」という諡号/法号を贈ったんですね。このネーミングは凄い! それに、「餓鬼の前身」なら伝染病で苦しんでおらず、元気で悪いことをしている状態ですが。

 釈迦三尊銘では、釈迦像建立を誓願した親族や臣下たちは、「出生入死、随奉三主、紹隆三宝」と述べており、「何度生まれ変わっても、三主、つまり、太子と母后と王后にお仕えして仏教興隆に励むと誓っています。そうした母后や王后に上記のような諡号/法号を贈ったんですか。「天寿国繍帳」では、母后とおぼしき女性は、寿命の長い天に生まれ、宮殿風な建物の中におり、侍女と僧たちに囲まれている姿で描かれているんですけどね。

 正木氏は、自分でも不自然と思ったのか、

そうであれば「悪諡」といえるが、卒時の状況をそのまま反映しており、逆にその地獄からの釈迦如来による救済を願って付けられたものとなろう。釈迦三尊像の脇侍が「薬王菩薩・薬上菩薩」であるのは、願いの通り釈迦如来になった上宮法皇に救済された太后・王后の姿と考えられよう。(65頁)


などと苦しい弁明をしています。

 しかし、伝染病で亡くなったのは太后と王后だけでなく、王后とともに病床につき、1日遅れで亡くなった上宮法皇も同様でしょう。となると、上宮法皇も地獄の亡者のように苦しんで亡くなったのかと考えてしまいますが、上宮法皇にはそうした諡号/法号は与えられないんですか?

 あと、氏は「法皇」という呼称をローマ法王のような存在と誤解しているため、妙なことを書いてますね。「法主」は、中国では講経の巧みな学僧が任じられる役職であって、『日本書紀』が厩戸皇子の異称として記している「法主王(のりのぬしのおおきみ/のりのぬしのみこ)」はそれを承けており、講経の巧みな「おおきみ/みこ」ということです。

 その「法主王」と並んで記されている「法大王」の訓は「のりのおおきみ」ですが、「法王」も「法皇」も当時の倭国では漢字の発音は同じであり、訓はどちらも「法大王」と同じで「のりのおおきみ」でしょう。意味は、「法主王」と同じですね。「法王」という表現には、釈尊のイメージを重ねている可能性はありますが(こちら)。

 また、正木氏は「願いの通り釈迦如来になった」と書いてますが、願ってもなれません。釈迦如来は一人だけであって、すでに涅槃に入ってしまっています。なるとすれば、上宮法皇と同様に太子であって(厩戸皇子が生まれた時は父の用明はまだ天皇ではないですが)、出家して悟った「釈迦如来のような仏」でしょう。

 正木氏は、どうしてこのような常識はずれなことばかり書くのか。それに、釈迦像の脇侍を薬王菩薩・薬上菩薩とするのは、後代になって生まれた法隆寺の寺伝であって、そのような造像例はアジア諸国には見られないことは良く知られています。

 さらに、この第二十五集では、古田史学の会の重鎮会員だという谷本茂氏が「小野妹子と冠位十二階の謎」と題するコラムであれこれ推測を並べたて、末尾で「やや妄想的になってきましたので、これくらいにしておきます」(71頁)と自ら述べていました。「やや妄想的」ではありません。まさに素人の「妄想」そのものです。

 谷本氏は、『隋書』に見える耽牟羅国は済州島ではなく、ルソンだと主張した人じゃなかったですか。氏も、学術誌に載った論文について注で記す際、服部氏と同様、「~に所収」などとおかしなことを書いており、注の書き方が分かってないですね。
 
 古田史学の会は、代表と事務局長と編集長と重鎮が上記のような珍説を、大学1年生のレポートのような不備な形で書き、学界の説を批判した気になる「学問ごっこ」を楽しんでいるのです。しかも、そうした実状を知らない一般市民が、この人たちが主催する研究会などに参加し、皇国史観に基づく大和王朝一元史観に毒された学界の通説を打破した新説、民主的で合理的な多元史観による最新研究成果と称するトンデモ説を聞かされているわけです。

 明石書店は良書を出している社会派の出版社なのに、なぜ学問の訓練を受けていない大学1年生たちが組織した歴史同好会のトンデモ会報みたいなシリーズを出し続け、会社の信用度を落とすのか、不思議です。

 内容のひどさはどうしようもないでしょうが、せめて注の付け方くらい編集部の担当編集者が注意してやれば良いと思うのですが。担当編集者は古田史学の会に任せっぱなしできちんと見ていないのか、それともこの会に好意的であって、歴史知識も編集能力も同じようなレベルなのか。

【追記】
「トンデモ主張」となっていた題名の末尾を「トンデモ聖徳太子論」と変えました。『隋書』の「俀国」という表記については、榎本淳一氏の論文が詳細に説明しており、このブログでもその論文を紹介してあります(こちら)。「阿毎多利思比孤」については、個人の名ではなく、倭国の王を指す言葉という点を追加しました。『隋書』に関する記述の一部を削除しました。
【追記:2022年5月12日】
『太平御覧』の書名が誤変換になっていた箇所などを訂正し、また「男女両性をそなえる」を「男女の性器をそなえる」と改めるなど、曖昧な表現になっている箇所をいくつか訂正しました。なお、服部氏は、多利思北孤は隋の楊堅(文帝)・煬帝の菩薩皇帝の思想・政策を学んで「憲法十七条」制定などをおこなったとしていますが、三経義疏が古い梁代の注釈に基づいているのと同様、「憲法十七条」も南斉や梁など隋以前の南朝の仏教に基づいていることは昨年刊行された講演録で述べ、このブログでも報告しておきました(こちら)。上で触れた「阿毎多利思比孤」の解釈については、近藤志帆氏の論文(こちら)の主張が妥当なところでしょうから、次回の記事で紹介します。
【追記:2022年5月14日】
「餓鬼の前身」だと伝染病で苦しんでいないことになるという部分を追加しました。正木氏は大阪府立大学の非常勤講師の由。学生たちにこうしたことを教えていないよう祈るばかりです。正木氏と同様、服部氏も漢文が読めないことは、訓読や現代語訳がないか氏が調査不足で関連論文を見ていない漢文資料について説明する際、まともな訓読文が示せないため、訓読風な箇所と現代語による意訳(妄想訳)をまぜた文章を示してごまかしていることが示す通りです。たとえば、この第二十五集に氏がもう一本載せている「中宮天皇ー薬師寺は九州王朝の寺ー」で薬師寺東塔擦銘の訳文と称している文(201頁)は、誓願を「請願」と書くことに始まり、間違いだらけの悲惨な内容になっています。東塔擦銘については論文は多数あり、現在の研究水準から見ると完璧ではないですが、ほぼ正しい訓読を示した論文もいくつか出ていますが(たとえば、ネット上で見られる一例は、こちら)。古田史学の会のメンバーについては、漢文入門の本と古文入門の本、そして仏教に関する入門書を読むようお勧めします。
 なお、久留米大学では地元の観光促進とからめ、古賀氏や正木氏など古田史学会の会員を招き、九州王朝講座をやったりしているようですが、捏造石器にとびついて観光事業をやろうとした地方自治体のことを思い出してしまいます。そういえば、きちんとした古文が書けない現代人が偽作した『東日流外三郡誌』も、自治体の観光促進の動きと結びついていたっけ。私は、聖徳太子没後になって造営された寺を太子建立として宣伝しようとした某自治体の観光キャンペーンがらみの講演依頼を断りました。

【追記:2022年10月10日】
久留米大学の九州王朝講座は、まさに街おこしのために非学問的な形で始まったことを記事にしておきました(こちら)。


近代仏教研究者がオカルト的聖徳太子論を批判的に検討:オリオン・クラウタウ「ノストラダムスから聖徳太子へ」

2022年05月01日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 昨年7月、このブログの「珍説奇説」コーナーに、「太子の未来記とユダヤ伝説その他を結びつけたトンデモ予言本:五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』」という記事をアップしました。

 1999年に人類が滅亡するというノストラダムスの恐ろしい予言をとりあげ、ベストセラー作家になった五島勉のオカルト風な聖徳太子本について紹介したものです(こちら)。

 そうしたら、この聖徳太子本について検討した興味深い論稿が、このほど刊行されました。

オリオン・クラウタウ「ノストラダムスから聖徳太子へー五島勉による終末論の行方ー」
(『中央公論』2022年5月号[1662号]、2022年4月)

であって、この号は、「プーチンの暴走」と「オカルト・ニッポン」を特集しており、クラウタウ論考は、むろん後者におさめられています。ネット上で、これを紹介している記事は、こちら

 著書の『近代日本としての仏教史学 』(法藏館、2012年)によって高く評価され、最近は近代における聖徳太子の研究に力を入れている東北大学准教授のクラウタウさんは、私の研究仲間です。彼が先日主催し、私もコメンテーターとして参加した「近代の聖徳太子」シンポジウムについては、このブログで紹介しました(こちら)。

 ですから、クラウタウさんのこの論考は「論文・研究書」コーナーで紹介すべきですが、題材が題材だけに、前の私の記事と並ぶようにするためもあって、「聖徳太子をめぐる珍説奇説」コーナーで紹介することにしました。

 さて、クラウタウさんは、ノストラダムス(1503~1566)が『予言集』で、「海上都市の大きな悪疫」について語っているため、新型コロナウィルスが広まるとすぐに、多数の河川が揚子江に流れこむ都市、すなわち武漢と新型コロナウィルスのことだと論じる人たちがネットに現れたことから話を始めます。

 日本では、聖徳太子が予言していたとする言説も見られました。オカルト関連のニュースを流しているサイトでは、オカルト作家、白神じゅりこ氏の「聖徳太子2020年の予言は「新型コロナウィルス」だった!」という記事を掲載した由。

 その白神氏が参照しているのが、例の五島勉の聖徳太子本、『聖徳太子「未来記」の秘予言ー1996年世界の大乱、2000年の超変革、2017年日本はー』(1991年)なのです。

 クラウタウさんは、まずその五島の経歴を紹介します。函館市のキリスト教徒の家庭に生まれた後藤は、東北大学法学部卒業後、文筆の道に進み、宗教関係の本を出すようになります。そして、1973年に、「1999の年、7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」というノストラダムスの予言をスモッグによる人類滅亡と解釈し、『ノストラダムスの大予言ー迫り来くる1999年7月の月、人類滅亡の日』を刊行しました。

 当時は公害問題が深刻となっていたこともあってか、本書は250万部を越える空前の大ベストセラーとなったため、五島は次々に続篇を出しますが、次第に日本から救世主が現れると説くようになります。それを読み、「我こそ救世主だ」と考える人も出てきており、それが阿含宗の桐山靖雄やオウム真理教の麻原彰晃などの教祖だったと、クラウタウさんは指摘します。五島の終末論は、不安だった日本社会に大きな影響を与えたのです。
 
 人類滅亡を救う救世主は日本から現れると説くに至った五島が着目したのが、聖徳太子でした。平安期から南北朝期にかけて聖徳太子信仰が高まると、太子の伝記、あるいは太子作とされる怪しい記述が盛り込まれた書物が次々に書かれ、太子の予言と称されるものが続々と登場します。

 これが太子の「未来記」と呼ばれるものであって、小峯和明さんなどによって研究が積み重ねられていますが、五島はこの「未来記」に着目してその図式を拡張し、救世主が日本から現れると説くに至ったのです。

 五島は、現在の世界を支配しているのはユダヤ・キリスト教・白人文明であるとし、その「思い上がった未来プログラムを打ちくだく」ものを東洋に、実際には日本に求めるようになったのですね。その結果、『聖徳太子「未来記」の秘密予言』は、『ノストラダムスの大予言』には及ばないものの、91年のノンフィクション部門のベストセラーとなりました。

 実際には、「未来記」は予言している事柄が実現した後に、それを聖徳太子が予言していたという形で記していることが多いのですが、五島はそうした研究は無視します。また、五島は予言が載っている『先代旧事本紀』などを原典だとしつつも、実際にはジャーナリスト出身の白石重の『聖徳太子』から孫引きしていたうえ、五島が太子の「未来記」の内容とするものの中には、五島が創作した話が含まれている由。こうした本は、怪しいのですよ。

 クラウタウさんは、五島は「結局のところ、一種の新しい予言を創作し、それを聖徳太子のものとして語ることで、予言者としての太子の地位を高めようとしたことになる」と説いています。

 そして、太子についてストーリー小説風に語るという点では、梅原猛『隠された十字架』が五島に大きな影響を与えたと説きます。梅原説のひどさは、この「珍説奇説」コーナーで3回にわたって解説しましたが、ここでも梅原だったのか……。弊害が大きいですね。

 私は今度の土曜には、その梅原が初代の所長を務めた京都の国際日本文化研究所で、「anitya、無常、つねなし」と題してインド・中国・日本の無常観比較の講演をする予定になっています。駒大在職中に1年間、在外研究で行かせてもらった京都大学人文科学研究所の場合も、所長を務めた福永光司先生の「憲法十七条」道教影響説と、世界的に有名だった敦煌班を率いた藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説を批判する論文を書いてますので(こちらと、こちら)、どうも私は聖徳太子関連で批判している大先生の所属先と縁があるようです。

 さて、クラウタウさんは、五島がノストラダムスから聖徳太子へ乗り換えたのは、彼の「一種の西洋嫌悪」が強まり、「日本独自」の予言体系の探求につながった結果だと説いてこの論考をしめくくっています。

 そう言えば、このブログの「太子礼讃派による虚構説批判の問題点」コーナーで、聖徳太子虚構説に反発するあまり、史実を無視して太子を礼賛する国家主義的な人々を紹介・批判する際にとりあげた田中英道氏も、五島と同じような道筋を歩んでいますね。氏は西洋美術史家であったのに、太子やその関連の日本美術を絶讃する本を書くようになったうえ、最近では古代の四大文明よりも日本文明の方が先であってすぐれていたなどというトンデモ本を多数出していますし。

 田中氏が会長をつとめたことのある「新しい教科書をつくる会」のメンバーは、他にも西洋の研究者から日本讃美に転じた人が多いようですが、こうした傾向の先蹤は、西洋哲学や文学の研究から日本中心のトンデモ古代史ライターに転じたキムタカこと木村鷹太郎なので、そのうち取り上げましょう。

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(3)

2022年02月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 井沢氏の聖徳太子論は、シリーズ第1巻となる『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の主張に基づいていますので、ここでそちらを見ておきます。

 「第一章 古代日本列島人編ー日本はどうして「倭」と呼ばれたのか」では、古代の日本人は集落を「わ」と呼んでおり、濠をめぐらしていたので、これを表記する際、「輪状」のものとか「めぐらす」という意味の「環」や「輪」の字をあてたとします。そして、「わ」には「人間のつながり、親交」という意味もあるとし、我々の先祖は、こちらの面を示すため、音も意味も最も近い漢字として「和」を選んだのだと説きます。

 「和」を「わ」と発音するのは、漢字音ではなく大和言葉の「わ」を当てたのだというのは、国語学では聞いたことがなく、国語辞典や古語辞典などにも載っていない珍説です。そのような大和言葉の「わ」があるなら、『万葉集』などにそうした用例がありそうなものですが、まったく出てきません。

 また、「憲法十七条」の第一条の「和」が実質的には大和言葉の「わ」であるなら、第一条冒頭の「以和為貴」を訓読する際は、現在は中国古典に基づく表現だということで「わをもって~」と「和」の漢字音で訓んでいるのと違い、大和言葉の「わ」ということで「わをもって~」訓んだことでしょう。

 しかし、『日本書紀』の講書では、できるだけ和語で訓読しようとしていたことが指摘されており、「憲法十七条」についても様々な古訓が残っていますが、その中にはそうした例は見えません。

 斯道文庫編『諸本対照 十七條憲法訓読並校異』(汲古書院、1975年)では、21ものテキストを示しているものの、第一条「以和為貴」の「和」については、「ヤハラケル」「ヤハラカナル」「ヤハラキ」「アマナヒ」「ニコヤカナル」などと訓んでおり、苦労がうかがわれます。つまり、「和」を「わ」と訓んでいるものは皆無なのです。

 「和」を漢字音のまま訓んでいるのは、朱子学の立場で解釈している玄恵注だけであって、ここでは発音を「クワ(=クァ)」と表記しています。つまり、南北朝頃ですので、「和」を古い呉音の「ワ」でなく漢音の「カ」で発音しているのであって、「ワ」よりは喉奧で発音する現代中国語の「和( hé)」に近い音を示しているのです。

 中国における「和」の発音の変化については、台湾の中央研究院の「漢字古今字資料庫」で検索すると、いろいろな時代や諸地方の発音が表示されます。「字形」のボックスところに「和」とか「倭」などを入力し、「確定送出」をクリックして、ページ下部の「上古音・中古音・官話~」などの項目を選んでクリックしてみてください(こちら。別な字を調べる場合、前の字の「字號」は消します)。

 「和」という漢語に発音と意味が似た「わ」という大和言葉があったとする井沢説は成り立ちません。要するに、「人という字は、人が人が支えている形です。人と人が支え合っているから人なんです」などと説明するのと同じであって、もっともらしいものの、歴史的には正しくない民間語源解釈の類なのですね。

 井沢氏は、日本の根本原理は「わ」であったことの証言者が聖徳太子だとし、「憲法十七条」が説く「和」は儒教でも仏教でもなく、この人間の親交を意味する「わ」だと述べ、自分の新発見としています。

 しかし、「憲法十七条」の説く「和」が儒教の「和」と異なっていることについては、『逆説の日本史』よりかなり前の1984年に指摘した中国学の論文があり、このブログでも紹介しました(こちら)。また、儒教の「和」や仏教の「和」とは異なると説くのは良いですが、影響を受けていることに触れていないのは、儒教や仏教を知らないためにほかなりません(こちら)。

 ここで、『逆説の古代史2』に戻ります。井沢氏は、こうした「わ」は仏教ではなく、「日本教」とも言うべき「日本人の伝統的な考え方」であったとします。そして、そのことを明示した厩戸皇子が「聖徳太子」として尊重されるようになるには、「日本古来の伝統的宗教感情があった」とし、それを「御霊信仰と一応言っておく」と述べ、いよいよ怨霊説に入っていきます。

 井沢氏はその際、御霊信仰は仏教には元々無かったものであって、現在の日本仏教が先祖供養や怨霊鎮魂をやっているのは、仏教が日本に入ってきて「日本教」の影響で変質したものだと論じています。

 しかし、インド仏教でも餓鬼(プレータ)の救済などの形で先祖供養はなされていましたし、「孝」を尊ぶ中国では、亡き父母や先祖の供養は仏教の重要な任務でした。死んだ親の位牌を祀ったり七回忌をやったりするのは、いずれも儒教の影響を受けた中国仏教の風習です。

 それに、鬼神を鎮伏するのは、ヒンドゥー教の影響が強い密教の得意とするところであって、日本で「怨霊」という言葉が登場するのは、雑密(ぞうみつ)と呼ばれる類の呪術的密教が盛んであって、空海による純密(最近は雑密・純密の語は使わなくなっていますが)が導入される直前の9世紀初めですね。

 神道の「祓え」は『薬師経』などの影響を受けていることが示すように、日本古来の風習と考えられているものの中には、仏教の影響を受けているものがかなりあるのです。むろん、逆に外国由来のように見えて、実際にはまったく日本風なものに変質してしまっているものも多いのですが。

 井沢氏は第1巻の「第二章 大国主命編 「わ」の精神で解く出雲神話の“真実”」では、アマテラスとオオクニヌシが「話し合い」をしているところに日本の古くからの伝統、つまり、「「わ」の精神」の発生原因を見ていますが(134頁)、『日本書紀』のアマテラスの描写には『金光明経』その他の仏教の影響があることは、家永三郎が早くに指摘していました。

 また、『日本書紀』でもアマテラスは成立の新しい部分に出てくることが近年の研究で明らかになっています。ですから、6世紀から7世紀前半頃の神話はどうであったかはともかく、720年に奏上された『日本書紀』に見えている形のアマテラス神話について言えば、聖徳太子より後になって作られたことになります。

 アマテラスの「話し合い」の姿勢を、仏教や儒教が入る前の古代日本人の素朴なあり方を示すものとし、それが「憲法十七条」の「和」を生んだ背景だとすることはできません。

 また、「憲法十七条」は話し合いによる意見の一致を強調していましたが、日本が制度の手本とした古代韓国の諸国でも貴族の合議がなされていました。新羅の貴族会議は全員一致が原則となっており、その会議は「和白」と呼ばれていたことは、学界ではかなり前から知られています。このこともブログで紹介してあります(こちら)。
 
 さて、井沢氏によれば、聖徳太子は一族を皆殺しにされ(これが事実でないことは、先の記事で指摘しました)、また自殺している変死者であるために怨霊とされたと説くのですが、怨霊となったとする史料はまったくありません。梅原猛氏が、伎楽を見て「直観」でそう誤解しただけです(こちら)。

 井沢氏はさらに、島流しにされるなど不運な死に方をした天皇には「徳」の字を持つ諡号が多いという古くからの話を聖徳太子にあてはめ、こうした立派な名がつけられたのは怨霊となった太子を鎮魂するためだと力説します。

 実際には、流されるなどして不遇な死に方をしても「徳」の字がついていない天皇たちもいるのですが、井沢氏は、土御門上皇などは「雅びでおっとりした」性格だったのでそうならなかったのだ、などという珍説明をしています。

 また、「第二章 天智天皇編」では、第一章部分の連載を読んだ読者から、神武天皇から称徳天皇までの諡号は淡海三船が一度につけたものであり、懿徳天皇や仁徳天皇に「徳」の字をつけるのはおかしいという反論を受けたとして、これに反論しています。第一章にあたる部分を連載していた頃は、『日本書紀』の天皇の漢風諡号は、数人の天皇を除いては三船がまとめて撰進したことを知らなかったようですね。

 困った井沢氏は、「そもそも、漢風諡号が三船によって選ばれたことなど、あり得ないと考えている」と切り捨て、三船撰進説は同時代の『続日本紀』には記されておらず、少し後の『釈日本紀』に見えるため、「学者の中にも断定は出来ないという人は多い」(233頁)と述べます。

 そして、天智天皇の「天智」というのは中国最悪の帝王である紂王が所持していた宝玉の名であって悪い名であるため、子孫である三船がそんな諡号をつけるはずがない、と力説しています。これは苦しい弁明ですね。

 実際には、中山千尋「天皇の諡号と皇統意識ー漢風諡号の成立をめぐってー」(『日本歴史』622号、2000年3月)などが示すように、漢風諡号の撰進時期や採用時期については異説があるものの、三船がつけたというのはほぼ通説になっています。「断定は出来ないという人は多い」というのは正しくありません。

 多いというなら、代表的な数人の名を出せば良いだけのことですが、そうしていませんし、歴史学者を批判していながら、こういう時だけ歴史学者の説を頼りにするのはいかがなものか(ちなみに、私は歴史学者ではありません。専門は「ちちの仏教学」?と称してます。こちら

 そのうえ、奈良時代半ばすぎに活躍した三船は、天智天皇の遠い子孫にすぎないのに対して、720年に『日本書紀』が奏上された時の天皇は、元正天皇であって天智天皇の孫です。天智天皇と天武天皇の関係は微妙であり、天智紀・天武紀はそれを反映していて史実でない記述も見られるものの、天智天皇の孫である天皇に奏上される『日本書紀』が、祖父の天智天皇を紂王のような悪逆な帝王扱いして書くはずはありません。実際、そうした記述はないのです。三船は、その『日本書紀』を読んで歴代天皇の漢風諡号をつけたのですが。

 次は、「聖徳太子」という名です。井沢氏は、「聖」というのは、「本来、怨霊となるべき人が、善なる神に転化した状態を表現した文字だ」(165頁)と説くのですが、前の記事で指摘したように、聖帝の代表である仁徳天皇などはあてはまりません。

 この名が文献に見える初出は、751年の紀年を持つ漢詩集、『懐風藻』の序であり、『懐風藻』は三船の編集と見て良いとするのが現在の学界の説です。

 私はさらに、三船は、「太子は天台宗の開祖の天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりだ」とする説を主張した天台宗系の鑑真門下と親しくしており、『経国集』に見える三船の漢詩でも、その立場に立って厩戸皇子のことを「聖徳太子」と称していることを指摘しました(こちら)。仁徳天皇などの諡号を定めた三船が、厩戸皇子を礼賛して「聖徳太子」と呼んでいるのです。

 以上、述べてきたように、井沢氏の聖徳太子論は、最初から最後までこうした調子のものでした。研究者の最新の研究成果をきちんと踏まえたうえで、ところどころで自分の独自な解釈や推測を示すという形でなく、不勉強なまま梅原猛氏や豊田有恒氏などの想像説にとびつき、誤った前提の上に立ったうえで想像を重ねていっているだけです。新刊の『聖徳太子のひみつ』は、こうした旧作を切り貼りするばかりで、近年の研究成果を調べようともしておらず、旧作では触れていた参考文献の名などを省いてつくりあげた粗雑本です(こちら)。

 この3回の連載で触れなかった間違いもありますし、『逆説の日本史2』では、私が中国・韓国・日本の華厳思想を扱った博士論文で取り上げた聖武天皇の大仏建立についても不適切な記述が目立ちますが、この聖徳太子ブログで論じるのはやめておきます。

【追記:2022年2月21日】
 歴史学者を批判する井沢氏が、研究者より作家の推測を重視していることは確かなので、怨霊説についても梅原猛以外にヒントになった作家はいないかと探したところ、小松左京らしいことに気づきました。短編小説集『怨霊の国』(角川書店、1972年)に収録され書名とされた「怨霊の国」の末尾では、「いずれにせよ、われわれのものの見方はかたよりすぎ、不完全なのだ。とりわけ「歴史」に対してそうだ。精霊や、妖精、怨霊や、悪縁や、ーーかつてまじめに論じられ、現代では一笑に付せられているこういったものの存在を、ある、あるいは、あったと仮定して世界を見なおすと、今まで見えなかった部分が見えてくる、という事がたくさんあるのではないか?」(112頁)と述べています。井沢氏の基本姿勢は、これであるように思われます。
 『逆説の日本史1』の「序論」で、呪術的側面を無視するのが日本の歴史学者の三大欠陥中の最大の問題だと論じた部分では、山本七平が『比較文化論の試み』で、何かがいると感じることを「臨在感」と呼んでいることを紹介していますが、小松左京の名は出てきません。

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2)

2022年02月18日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 粗雑な『聖徳太子のひみつ』同様(こちら)、ツッコミどころ満載です。

 まず、井沢氏は、聖徳太子は「日本仏教の祖」とされるが、大事なのは「和の思想」であって、仏教でも儒教でもキリスト教でもない日本の伝統である「和の思想」を「発見」したのは、聖徳太子だと述べ、その太子がなぜ「聖徳」と呼ばれたのかという疑問から話を始めます(8頁)。

 しかし、「憲法十七条」における「和」を聖徳太子の思想の中心として重視するようになったのは、昭和初期のナショナリズムの高まりの中においてのことでした。ヘーゲル研究で知られる国家主義的なドイツ哲学者、紀平正美などが持ち上げ、紀平が属する国民精神文化研究所で編纂した『国体の本義』(文部省教学局、1937年)において、「和」を建国以来の日本の特質と強調した結果、広まったものです(こちら)。

 井沢氏がしばしば用いる「和の精神」という語も、この『国体の本義』に見えています。「日本精神」という言葉が盛んに使われたのも、この時期ですね。「精神」というのは古くからある漢語ですが、現在のような意味で用いられるようになったのは、明治期にspirit、Geist などの訳語として用いられてからです。

 さらに「日本精神」が強調されてそれが「和の精神」だとされたのは、19世紀後半からドイツで「ドイツ精神」が盛んに論じられるようになり、第一次大戦で敗れて莫大な賠償金を課されて苦しめられた結果、ナチスが生まれるほどナショナリズムが高まり、世界に冠たる「ドイツ精神」が強調されるようになった影響です。

 ですから、日本の古来からの特質として「和の精神」を説く人は、実際には紀平など経由で、西洋の影響をもちこんでいるのです。実際、教科書の聖徳太子記述に「和」が初めて登場したのは戦時中のことであり、国民が「和」して一体となって戦争を勝ち抜くためでした。

 つまり、「憲法十七条」が日本独自の「和の思想」を説いていると見るのは、井沢氏とは立場が違うものの、昭和初期から十年代あたりにかけて広まり、戦後になって「平和主義」「民主主義」の方向で解釈しなおされ、その影響が続いている俗説なのです。通説に反対するはずの井沢氏は、おそらく知らないでのことでしょうが、その古い図式に乗った議論を繰り返しており、紀平と同様に、史実を無視した主張をしているのです。

 なお、「憲法十七条」の「和」が中国の典拠と仏教の思想を倭国の状況に合わせて用いたものであることは、このブログで紹介しました(たとえば、こちら)。

 さて、井沢氏は、聖徳太子が天皇になれなかったことを謎としつつ、それは推古天皇が長生きしすぎたためであることを認めたうえで、「太子は天皇になる機会が、少なくとも一度はあった」(13頁)と述べます。つまり、崇峻天皇が殺された後がその機会であって、19歳の優秀な太子がいるのに推古天皇が即位したとするのです。

 しかし、当時、天皇になったのは30代後半以上の皇族ばかりであることは早くから知られていました。若かった太子が天皇になっていないのは当然であって不思議ではないのです。

 井沢氏はここで、豊田有恒氏の『聖徳太子の悲劇』の名をあげて、その説を長々と引用します。つまり、太子の妻はその外国語の家庭教師だった東漢直駒と不倫関係になっており、それが発覚して妻の父である馬子に駒が殺された後に自殺し、太子の母は夫の用明天皇が亡くなって未亡人となった後、太子の異母兄、つまり母からすれば義理の息子と「できてしまった」うえ、死んだ妻の父である馬子に相談に行ったところ、馬子は太子の美しい叔母(後の推古天皇)と男女の関係になっていた、というすさまじい推測の連続です。

 駒が太子の妻の外国語の家庭教師だったことを初め、想像ばかりで記録にないことの連続であって、週刊誌が推測で書きまくる芸能人愛欲相関図の古代版のようなものですね。太子の母が義理の息子(かつ甥)と結婚したことは事実ですが、身分の釣り合い、天皇(治天下大王)となるには前の天皇かその前の天皇などの皇女と結婚しておくことが条件だったらしいこと、財産の分割を防ぐ、その他の理由もあって、当時の皇族における近親結婚の多さは驚くべきものがありました(こちら)。

 ところが、井沢氏は、上記の推測について「これは決して誇張でない」として、以下、こうした複雑な状況のために太子はノイローゼとなり、伊予の温泉で長らく湯治して回復してから政治の世界に関わったとする豊田説に基づいて、聖徳太子論を展開していくのです。

 そして、豊田説を略抄しつつ『風土記』佚文である伊予温湯碑について、「おそらくその病が全快したので、太子は感謝の意を込めて、温泉を讃える碑文を書いたのだろう」(47頁)と推測しています。しかし、この碑文では、「我が法王大王」が慧聡法師・葛城臣と夷与(伊予)の村にやって来て、温泉の霊験に感心して碑文を作ったとし、その碑文が掲載されています。

 「碑」というのは文学のジャンルの一つであって、韻に注意して美文で書かれる碑文に状況説明となる「序」が付されます。「序」と「碑」は同じ人が書くものですので、「序」の部分で「我が法王大王」が温泉に来たと述べている以上、「碑文」は太子の筆ではないことになります。

 また、碑文は、間欠泉とおぼしきこの温泉をたたえ、『維摩経』では「法王」である釈尊が、供養された500の傘蓋(日傘)を神通力で天を覆う巨大な一つの傘蓋に変えたように、この温泉の地で椿の巨木の枝葉が天を覆ってトンネルをつくっているのは、「法王」のような太子の威徳によるものだとして讃えているだけです(こちらと、こちら)。

 碑文では、噴泉が開き閉じる間欠泉らしき様子を描き、平等に人々に恩恵を与え、病気を治す働きがあるとして温泉を上から目線で称賛しているだけであって、自分の病気を治してくれたことに対する感謝の言葉など全く出てきません。なお、豊田氏も井沢氏も、同道した僧侶を高句麗の慧慈としてあれこれ論じますが、訂正される前の原文は「恵忩法師」ですので、百済の慧聡と見るべきでしょう。

 井沢氏は、太子がノイローゼを治して政界に復帰したのは、推古天皇の子である竹田皇子が亡くなり、「推古女帝には他に子はいない」ため、かつては竹田皇子のライバルだったが、今となっては最も身内である甥の太子を用いたためとします。

 『聖徳太子のひみつ』は、旧作のこうした部分をそのまま切り貼りしているのですが、前の記事で書いたように、太子と自分の娘を結婚させた推古天皇には、竹田皇子の弟となる尾張王という息子がおり、後のその尾張王の娘を太子と結婚させています。

 ここで不自然なのは、井沢氏が、「憲法十七条」は「和を以て貴しとなす」と言っているものの当時の太子は新羅攻撃を企てる「武断主義というべき立場」であって、太子の事績には「分裂的傾向」がある(52頁)としていることです。

 「憲法十七条」の「和」を平和主義と見なすのは戦後の傾向です。「憲法十七条」がめざす「和」は、群臣会議でのなごやかな協議による意見の一致ですので、そこで新羅攻撃がなごやかに全会一致で決定されても何の不思議もありません。実際、第二次大戦中の日本は、「憲法十七条」の「和」と「承詔必謹」の精神で戦争に勝とうとしており、東京府生活局ではすべての家に「憲法十七条」を配布しようとしたほどでした(こちら)。

 井沢氏自身、別のところでは、国内が「和」でまとまれば、対外戦争をしても不思議はないと述べています。そうでありながら、上記のようにこの箇所で「分裂的傾向」が見られると説くのは、「かつてはノイローゼで悩んでいたという過去が、大きく影響していると考えるべきだろう」(54頁)とするためです。

 つまり、強引に豊田氏が唱えたノイローゼ説に持っていくためなのです。井沢氏はさらに、聖徳太子が怨霊であることを最初に説いたのは「哲学者梅原猛氏である」(57頁)として、怨霊史観を述べていきます。しかし、怨霊説はとっくの昔に否定されており、その怨霊説を筆頭とする梅原『隠された十字架』の事実誤認のひどさは、このブログでも詳しく論じました(こちらこちらこちら)。

 井沢氏の聖徳太子説は、上記のような豊田氏の想像と梅原氏の「直観」に基づいており、その図式が『逆説の日本史』シリーズ全体を支えているようですが、そもそもその前提が根拠のないものなのです。

 井沢氏のこの本の後で出された怨霊関連の本のうち、大森亮尚『日本の怨霊』(平凡社、2007年)は、奈良時代の井上内親王や早良親王の例で始めています。最近の小山達子『もののけの日本史ー死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)でも、古代の死者の霊と中国の鬼神との比較で話を始めているものの、聖徳太子怨霊説などは一顧だにされていません。太子怨霊説は、文献研究や考古学などの発見が進んだ現在になっても裏付ける証拠がなく、学界で相手にされていない妄説です。

 井沢氏は、「太子の子孫は……皆殺しにされている。太子の霊を祀る子孫はいなくなったのである」(60頁)を怨霊化の理由とするものの、前の井沢批判記事で書いたように、殺されたのは、太子の数多い息子・娘たちのうち山背大兄とその家族だけです。

 ついで井沢氏は、怨霊と同様に重視する「言霊思想」を持ち出し、現代には寿陵といって生前に墓を作っておくと長生きするという信仰があるが、当時はそうした信仰はまだ無く、神道の言霊信仰の影響で「生前に墓を作るなんて(死を招いているようで)不吉だ、という感覚が強かっただろう」(63頁)と述べ、崇峻天皇暗殺事件と太子との関わりを論じていきます。

 しかし、『日本書紀』には、蘇我蝦夷と入鹿が多くの人々を動員して自らの寿陵として二つの巨大な陵を作らせたとし(これは事実であって、その陵に関する考古学の論文は、こちら)、それへの不満がきっかけで山背大兄の家族が滅ぼされることになったと書いてあります。井沢氏が『日本書紀』をしっかり読んでないことは、こうした例が他にいくつもあることから察せられます。

 また、「神道」の「言霊思想」と言っていますが、「神道」の成立が新しく、仏教との相互影響があることは早くから知られており、私の研究室の後輩である伊藤聡さんの名著『神道とは何か-神と仏の日本史』(中公新書、2012年)などが説いているとおりです。伊藤さんのこの本の刊行は、『逆説の日本史2』より後ですが、『逆説の日本史』が刊行され始めた頃は、この本の元になった伊藤さんや他の研究者の論文がいろいろ出ていたはずです。

 『日本書紀』にも「神道」の語は出てきますが、今日言う宗教としての神道とは意味が異なることは、津田左右吉が早くから指摘していました。井沢氏は、学界の研究成果に注意せず、自分の図式を優先させる傾向が強いですね。

 太子の死について盛んに空想を書く井沢氏は、『聖徳太子伝暦』では、太子は膳部妃に自分は今夜死ぬだろうからお前も一緒に死のうと言って、二人で新しい清潔な衣を身につけてともに床につき、翌朝亡くなっていたと説いているため、「これはどうみても「心中」という他はない」(94頁)と断言します。

 そして、上原和氏が『聖徳太子 再建法隆寺の謎』で、『勝鬘経』が仏教の正法を得るために身と命と財を捨てるべきことを説いており、その注釈である太子の『勝鬘経義疏』がこの部分を説明する際、釈迦の前身が飢えた虎の親子を救うために我が身を捨てて食べさせたとする「捨身飼虎」を譬喩にあげていること、法隆寺の玉虫厨子にその「捨身飼虎」が描かれていることに着目し、太子は自殺したのだと強調します。

 上原先生は、私の勤務先であった駒澤大学がお招きし、聖徳太子について講演していただいたこともあります(その際の講演は、こちら)。すぐれた美術史学者であるもののロマン主義の傾向が強く、特に思い入れがある太子については、歴史小説に近い描写をすることがありました。

 それはともかく、井沢氏も書いているように、『聖徳太子伝暦』は太子讃美の書であって、太子の神格化が進んだ平安時代の本です。また、井沢氏は、変死した人は怨霊となると説いているわけですが、神格化が進んだ太子讃美の伝記が、太子は自殺した、心中した(つまり、変死したのだ)などと書くはずがないでしょう。

 古代にあって、自分の死期を悟るというのは、聖人の証拠でした。実際、『日本書紀』の推古紀では、太子が亡くなると、高麗の慧慈がそれを悲しみ、来年の同じ日に死んで浄土でお会いしようと願い、翌年の同じ日に亡くなったため、世間の人は、「太子だけでなく、慧慈も聖人だった」と言い合ったと記されています。『日本書紀』をきちんと読んでいない井沢氏は、この話のことも忘れているようですが、これも「自殺」とか「後追い心中」とか言うんですか?

 そもそも、二人が同じ日に同じ床で亡くなったというのは、神話化が進んだ『伝暦』の記述であって、太子が没して一年後に作成された法隆寺金堂釈迦三尊像銘では、12月に太子の母后が亡くなり、1月に太子が発病、王后(妃の膳部菩岐岐美郎女)も病床につき、2月21日に王后が亡くなり、「翌日」太子も亡くなったと記してます。

 普通、これを読めば、伝染病かそれに近い病気だろうと思うでしょう。この銘文では、王后の忌日は正確に記し、太子ついては翌日亡くなったとしか書いていませんし、太子を「法皇」と称して尊崇しているものの、奇跡を起こす超人・聖人としては描いておらず、病気で亡くなったと記しているだけです。

 太子と等身のこの釈迦像を造った人たちは、銘文では「三主」、つまり、太子と母后と王后に来世でもお仕えして仏法を興隆することを願っています。皇族でもない膳部氏の妃にお仕えするというのですから、この像は斑鳩地域の豪族であった膳部氏などが中心となって建立したことが推測されます。最初から最後まで太子の奇跡的な言動を並べている『伝暦』とこの銘文のどちらを信用すべきかは明らかでしょう。

 井沢氏は、上原氏の捨身重視説について説明するため、『勝鬘経義疏』の該当部分の現代語訳を示しています。自分で原文の漢文から適切に訳せば良いのに、井沢氏は、「『日本の名著 聖徳太子 勝鬘経義疏』中村元訳 中央公論社刊」(102頁)からという形で、この箇所を引用するのです。しかし、この本は「責任編集 中村元」であって、『勝鬘経義疏』については早島鏡正訳と明記されています。

 『聖徳太子のひみつ』では、中村元・瀧藤尊教訳である「憲法十七条」を、「日本を代表する仏教学者」である「中村元訳」(68頁)と記していましたが、前作の『逆説の日本史2』でも、著名な中村元先生の権威を利用し、不注意というよりは意図的な書き換えに近いことをやっていたわけです。こうした書き方をする人を、学問の世界にいる研究者たちが信用するはずがありません。

 ここで一端やめます。こんな例ばかりです。井沢氏は、歴史学者は古代人の心情が分からないと批判してあれこれ書いていますが、氏が強調するのは、古代人の心情というよりは、現代の週刊誌のゴシップ記事ライターの心情に近いように見えます。

 聖徳太子を尊敬してその伝説を長々と書いている平安初期の景戒『日本霊異記』では、登場人物の考え方・感じ方などは、現代人のものとはかなり違っています。貧しい女性が七人の子を心をこめて養っていたおかげで、薬草にめぐりあって神仙となることができ、空に飛んでいったのは素晴らしいという話では、残された子供たちはどうなるんだと心配になってしまいます。

 著者の景戒自身、「自分が死んで焼かれる夢を見たが、これは長生きするということなのか、官位を得るということなのか。結果を待ちたい」などと書いているので驚かされるばかりです。そもそも、『日本霊異記』は仏教説話集なのに、仏教伝来以前の雄略天皇が昼間から皇后と交わっているところを臣下に見られ、恥じて適当な命令を下したところ、その臣下が忠義であって見事に役目を果たしたとする話が上巻の第一話となっています。

 これには因果のつらなりを示すという背景があるのですが(私は『日本霊異記』も研究しており、論文も何本か書いています)、古代人の心情を重視するというなら、現代の週刊誌のゴシップ記事風な想像ではなく、そうした古代的な感性を尊重して史料を見ていくべきでしょう。そう言えば、『逆説の日本史』は週刊誌の連載でしたね。

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1)

2022年02月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 少し前に井沢元彦氏の『(「日本教」をつくった)聖徳太子のひみつ』(ビジネス社、2021年)を取り上げました。

 この本は、最近の研究成果を参照していないばかりか、この本の図式の元となっている「日本教」という言葉を創った山本七平氏にすら触れておらず、基礎資料である『日本書紀』や三経義疏その他については、もちろんきちんと読まずに誤読に基づく断言を並べたてています(こちら)。

 井沢氏はしきりに独創を誇るものの、聖徳太子観については、SF小説第一世代の1人として活躍し、歴史小説や歴史読み物も手がけた豊田有恒氏の聖徳太子作品にかなり依拠しているように見えます。その豊田氏は、『聖徳太子の悲劇』(祥伝社、1992年)では、

小説家は物語の進行の都合上、ストーリーが面白くなるように、文献資料を恣意的に使う特権をあたえられているが、それと同じことを本職の学者がやってはいけない。(211頁)

と注意していました。また、私の敬愛する幸田露伴は、日本の歴史小説の最高峰と思われる『連環記』では、三河守定基について述べていて、定基の浮気を怒った妻との喧嘩を描くところまで来ると、

小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日本評論社、1941年)

と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。

 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。

 日本の歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ行ったのか、諸国の仏教や中国思想との詳細な比較はまったくしていませんし、誤読のひどさから見て、史料を元の漢文で読んで比較するだけの学力がないことは明らかです。

 面白いことに、ビジネス社の『聖徳太子のひみつ』は、末尾で同社の本を4冊宣伝しており、その最後に、山本七平・小室直樹『日本教の社会学』(2016年)がありました。これは、講談社から1981年に出された同書を再刊したものです。

 その宣伝では「待望の復刊!」と記されており、これは看板に偽りなしですね。山本・小室氏によるこの本は、博学で見識を有する個性的な人物同士による対談であって示唆に富んでおり、有益な本です。センセーショナルにあおり立てるばかりで間違いだらけの井沢氏の本とは比べものになりません。

 井沢氏は『聖徳太子のひみつ』の本文では「日本教」という言葉自体は用いていないものの、表紙では「「日本教」をつくった」と記してあるところを見ると、『日本教の社会学』を復刊したビジネス社は、自社が復刊したこの本を念頭に置いて『聖徳太子のひみつ』を企画宣伝しているらしいことがうかがわれます。

 さて、井筒氏が長年刊行し続けている「逆説の日本史」シリーズのうち、第2巻は『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(小学館、1994年)です。刊行された当時、私は題名を見て、とっくの昔に学問的に否定された梅原猛の怨霊説を今さらむしかえしていることに呆れかえり、手に取ることもしませんでしたが、今回、検討のため、第2巻と第1巻『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の古本を購入して眺めてみました。

 このシリーズは、例によって題名が問題ですね。「逆説」というのは、paradox の訳語であり、通説の反対であって真実ではないようでありながら、真実の一面をついていている言明、というのが基本の意味です。西洋では「(足が速い)アキレスは亀に追いつけない」というゼノンの逆説、東洋では『老子』の「大道廃れて仁義有り」などの言葉が有名ですね。仏教では、「般若は般若でない。だから般若だ」といった『般若経』の主張などが逆説の例として知られています。

 ところが、『逆説の日本史』の第1巻と第2巻の章名を見る限りでは、どれも本来の逆説になっていません。歴史学者たちを批判し、「通説」に「逆らった」説を述べた、というだけの意味で「逆説」の語を用いているように見えます。第2巻「第一章 聖徳太子編ー「徳」の諡号と怨霊信仰のメカニズム」の場合は、たまたま例外であって、「聖徳」という立派な名前がついているのは怨霊を鎮めるためだという逆説風な形になっていますが。

 あるいはこの聖徳太子の章が発想の元であって、この路線で日本史全体を書こうとして「逆説の日本史」という書名が生まれたのか。しかし、柱となる太子怨霊説は早くに否定されており、「聖徳」という名の由来も論証不足であって、そもそも出発点が間違っているのですから話になりません。

 また、第2巻で「第一章 聖徳太子編」に続く「第二章 天智天皇編-暗殺説を裏付ける朝鮮半島への軍事介入」中の「「天智暗殺の実行犯」天武天皇は”忍者”だった!?」の節では、驚異の新説のように述べていますが、天智暗殺説も天武忍者説も豊田有恒『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』のうち、「ミステリー⑥ 聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」に続く「⑦ 天智天皇は暗殺された!?」で書いていることですね。

 井沢氏は、忍者説については、「『英雄 天武天皇 その半生は忍者だった』(祥伝社刊)の著者豊田有恒氏は次のように書いている」(282頁)として、その部分を引用していますが、聖徳太子→天智天皇という章立ての順番ばかりか、「!?」という記号まで一致しているではありませんか!?

 つまり、井沢氏の説く「逆説」なるものは、豊田氏の説にかなり頼っておりながら、後になるとその点の明記が次第に減っていくのです。これは「話し合い至上主義」が日本教だとする主張も同様です。『逆説の日本史1』では、日本人の根本原理は「話し合い至上主義」であると山本七平氏が指摘していると述べ(105-106頁)、「聖徳太子は熱心な仏教信者であり、山本氏はキリスト教信者である。だからこそ、それが見えたのである」(108頁)と述べていました。

 聖徳太子と並べ称するほど山本氏を高く評価し、その図式を受け継いでおりながら、『逆説の日本史2』の結論にあたる部分で、怨霊信仰こそが「日本教」だと述べた際は、『逆説の日本史1』で触れたからそれで十分ということなのか、山本氏には言及しません。ただ、その「日本教」を説明する際は、意味合いは違うものの、「日本教」という言葉を有名にした山本氏の用語である「空気」という言葉を用いており(424頁)、山本説を意識していることがうかがわれます。

 さらに、『聖徳太子のひみつ』に至ると、山本氏の主張にはまったく触れていないため、山本氏の主張を知らない若い世代の読者は、この本だけ読んだら、「井沢先生の独創的な見解」と思うことでしょう。

 そもそも、井沢氏の本は内容の粗雑さで有名であって、たとえば忠臣蔵に関する記述のひどさについては、詳細で厳しい批判がなされています(たとえば、こちら)。しかし、一般読者はそうしたことを知らないうえ、世の中には井沢信者もいてかなりの影響を与えているため、ここで『逆説の日本史』の第1巻と第2巻における聖徳太子記述について検討しておくことにしました。

 読んでみたところ、前の記事で批判した『聖徳太子のひみつ』とほとんど同内容であって、文章も同じである箇所が目立ちます。つまり、『聖徳太子のひみつ』は、聖徳太子1400年遠忌で関心が高まっている時期に、聖徳太子に関する近年の研究成果などまったく確かめないまま20年近く前の間違いだらけの旧作を切り貼りし、参照した人名・資料名をかなり省いて作りあげた聖徳太子本だったのです。(以下、続く)

研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』

2022年01月31日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子本が刊行されました。

井沢元彦『聖徳太子のひみつ』
(ビジネス社、2021年12月)

です。表紙では、題名の横に「「日本教」をつくった」と記されています。

 井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史本を数多く出していることで有名です。今回の本もその一つですが、そもそも副題のような「「日本教」をつくった」という部分が問題です。

 「日本教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳という形で『日本人とユダヤ人』を、山本氏が社主をつとめる山本書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日本教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山本七平氏です。
 
 山本氏は、1977年には『「空気」の研究』(文藝春秋)も刊行しており、日本では方針を決定するのはその場の空気であり、責任者が曖昧だと主張し、多大な影響を与えました。

 井沢氏のこの本は、「日本教」とは「話し合い教」であって日本は「和」を重んじる国であるとし、それを明言した「憲法十七条」を高く評価しています。日本人の特徴は「和」であり、「太子の生きた飛鳥時代には、すでにそれが日本人の特質になっていた」(79頁)と説くのです。つまり、「日本教」という語を創った山本氏が説く「空気」を「話し合い」に変えたように見えます。

 しかし、だったらなぜ、太子の少し前には群臣会議がもめて死者が出る争いが続いていたうえ、太子没後も推古天皇の後継を決める会議で群臣が怒って意見が割れ、争いになって死者が出ているのでしょう? 井沢氏は、『日本書紀』をきちんと読んでいないとしか考えられません。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、和でない状況であったためというのが常識だと思うのですが(こちら)。

 「まえがき」では、外国語と比較しないと自国語の特徴は分からないため、ゲーテは「ひとつの外国語を知らざるものは母国語を知らず」と語ったが、「この教訓をもっとも生かしていないのが……日本の歴史学者です」と述べ、日本の歴史学者ほど「世界史を知らない人間はいません」が、「わたしはそれをやっています」と説き、その大先輩が聖徳太子だと述べています(5~6頁)。

 日中交渉史・日韓交渉史・東西交渉史を含め、歴史学者たちの専門や学風や主張は様々であるのに、それを無視してひとまとめにして否定するのは、井沢氏が歴史学者たちの著書や論文を幅広く読んでいないためのように見えます。

 話し合いが「日本教」だとする自分の図式の元型を作った山本七平氏にもひと言も触れないところを見ると、研究者の最近の研究成果を参照せず、古い説や専門家でない小説家などの推測に基づいて自分の考えだけで書いているのか、それとも、自説に都合の良い部分についてはこっそり利用していながら、否定だけして名をあげない方針なのか。

 ちなみに、井沢氏は指導要領改訂騒ぎの際、聖徳太子の本名は「厩戸皇子」ないし「厩戸王」なので、歴史学者が本名の「厩戸王」で呼ぶのは悪いことではないと述べたうえで、歴史学者の批判をしてますね(こちら)。私の本でも論文でもこのブログでも書いているように、「厩戸王」は古代の文献には見えず、戦後になって想定された名なのですが(こちら)。
 
 歴史小説なら、参考文献をいちいちあげなくても良いわけですが、この本で名前があげられているのは、歴史学者というよりSF作家・歴史小説家であって、聖徳太子はノイローゼであったと説いた『聖徳太子の悲劇』の豊田有恒氏と、かの『隠された十字架』の梅原大先生くらいです(梅原説のトンデモさについては、こちらこちらこちら)。

 あと、「しらぎ(新羅)」という語の由来に関する朴炳植氏の説を紹介してますが、建築業から言語研究に転じた朴炳植氏の説は、言語学の専門家からは素人のトンデモ説とみなされています。井沢氏は、見事なまでにそうした人の説に頼って書いているのですね。

 私は、歴史小説や芸能は史実通りでなくてはいけないとは考えておらず、無頼派作家であった坂口安吾が推測を交えて書いた歴史読み物が大好きです。また、自分自身、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』を書いたことが示すように、エンターテインメント好きであって、山岸凉子のBL漫画『日出処の天子』も認めていますし、脳みそ夫が飛鳥中学の女子中学生や飛鳥商事のOLという設定で聖徳太子を演じてみせるコント(こちら)などもお気に入りであって、ライブに出かけたくらいです。

 豊田氏については、島根県立大学で日韓シンポジウムを開催した際、同大学の教授だった温和な豊田氏とお会いしてますし、『聖徳太子の悲劇』は真面目な姿勢で書かれた本なので、言いにくいのですが、太子は、父の用明天皇が亡くなった後、母の間人皇后が、夫の用明天皇と他の妃の間にできた子、つまり義理の息子であって太子の異母兄となる田目王と結婚したため、ショックを受けてノイローゼになり、伊予の温泉で長らく湯治して直ったという説は無理ですね。

 温湯碑文は難解なので、様々な解釈が出るのは無理もないのですが、典拠に注意してきちんと読めば、そうした様子はうかがわれません(碑文については、こちらと、こちら)。また豊田氏も、その推測に基づいている井沢氏も、太子に同道したのは高句麗の慧慈だとしてあれこれ論じているものの、訂正される前の原文では「恵忩法師」となっていますので、百済の慧聡とするのが自然ということになります。

 なお、豊田氏が「太子の母親が、異母兄と結婚した」(157頁)と普通に書いているところを、井沢氏は「母が太子の異母兄と密通する」(51頁)という、事実と異なるセンセーショナルな言い方をしています。しかし、当時の皇族における近親結婚の多さについては、近年は研究が進んでいて理由があったことが明らかになっており、このブログでも紹介しました(こちら)。

 聖徳太子は、母后と斑鳩で一緒に住んでおり、母后が太子の異母兄と結婚して生んだ佐富女王を、自分と最愛の妃との間に生まれた長谷王と結婚させています。母后とは仲良くしていたとしか考えられません(太子を含めた当時の皇族の近親結婚の多さについては、12月に浅草寺で講演しました。講演録が8月に刊行される予定です)。

 なお、蘇我馬子が命じて崇峻天皇を暗殺させた東漢直駒は、その後で、馬子の娘である河上娘と通じたという理由で馬子に殺されますが、井沢氏は、豊田氏は河上娘とは聖徳太子の妻であった刀自古郎女だと指摘しているとして「(駒と)不倫関係にあった」という表現で紹介し、「ちなみに、この太子の妻は、東漢直駒が処刑されると、そのあとを追って自殺してしまったといいます」(46頁)と述べています。

 しかし、崇峻天皇が暗殺された時、聖徳太子は18歳であり、『法王帝説』によれば、刀自古郎女は太子の子として山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女を生んでいます。すると、刀自古郎女は十代前半か半ばであった太子と結婚し、毎年のように4人も子供を産んでいながら他の男と不倫関係となり、それがばれて自殺するわけですね。不倫関係が続いていたとすると、駒の子もまじっていることになりますか? 刀自古郎女は、河上娘の妹とする説もありますけど。

 なお、豊田氏の本では、刀自古郎女については記録がないとしたうえで、駒が殺されて「ほどなく死んだと考えるべきだろう。駒の死を知って、自殺したのか、あるいは、駒と心中したのか、たぶん、そんなところだろう」(148頁)と書いています。「あとを追って自殺してしまったといいます」と書く井沢氏の紹介とはかなり違いますね。ほかにも同様な箇所が見られるため、井沢氏は元になった資料を、「エンターテインメント」のためなのか、こうした調子で書き換える癖があるようです。

 井沢氏は、伝説化が進んだ太子伝に基づいて太子自殺説をとり、異常死した人物は「未完成の霊」として復活するとして、大昔に否定された梅原の怨霊説を高く評価します。「未完成の霊」って、何でしょう? 没後すぐに創られた「天寿国繍帳銘」によれば、太子は「天寿国」に往生したとされてますし、後代には怨霊として恐れられるどころか、観音の化身とされ、極楽浄土への導き手とされるようになってますが。 

 また井沢氏は、太子=御霊説を説く際、聖徳太子一族は根絶やしにされたことをその理由の一つとするのですが、滅ぼされたのは、太子の大勢いる息子・娘たちのうち、山背大兄とその家族だけです。後の伝記になればなるほど、話が大げさになって殺されたという人数がどんどん増えていき、一族が皆殺しになったように説かれるのです。太子没後50年ほどになって再建された法隆寺に金銅の潅頂幡を施入した「片岡御祖命」は、山背大兄の妹である片岡女王だとするのが通説です。

太子の十七条憲法で説かれている「和」の精神にしても、これはは「仏教」由来でなく、「日本教」とも言うべき日本独特の伝統的でユニークな考え方であるということを私は解き明かしました。(176頁)

と誇っているということは、博学な井沢氏は仏教にも通じていて、仏教では「和」を説かないと断言できるんですね?

 仏法僧の三宝のうち、僧宝たる僧伽(僧団)は「和合」を特質とする、というのがインド以来の伝統解釈であり、釈尊が亡くなって以後の僧伽では、物事は話し合いで決定し、まとまらない場合は投票して決めたんですよ。日本でも、僧兵たちは、他の寺を焼き討ちしようなどという場合を含め、物事は平等な話し合いで決めてますけど。

 仏教の思想そのものではないと説くなら良いですが(私もそう思います)、仏教由来ではない、影響も無かったと説くためには、仏教をかなり知っていないと無理でしょう。この本を読むかぎり、インド・中国・韓国の仏教について具体的な説明がなく、かなりの知識があるようにはまったく見えません。

 話し合いが重要だったことは確かですが、推古朝前後の合議については研究が進められていますので、それらを参考にすべきでしたね。このブログでも、推古朝前後の合議と新羅の全員一致の豪族会議「和白」との類似に着目した鈴木明子氏の論文を紹介したばかりです(こちら)。

 一番の問題は、出版社側の責任とはいえ、冒頭で触れたように、表紙の裏に「極上の歴史エンターテインメント!」とあるものの、実際には明らかな誤りと思いつきが続くばかりで、楽しめないことでしょうか。梅原の『隠された十字架』は、トンデモ本ながら、一般読者の興味をひきつけるおどろおどろしい書きぶりになっていたため、ベストセラーになったのですが。

 あるいは書いた当人は、歴史の真実を「解き明かしました」と主張しているものの、出版社側は「極上の歴史エンターテインメント」と称してこの作を宣伝しつつ、「学術的な研究書ではないんですよ。間違いが多いとか指摘されても困ります」と予防線を張っているのか。

 ちなみに、安吾の歴史物は、今日の研究成果から見ると正しくない部分も散見されますが、文体が生き生きとしていて素晴らしいうえ、するどい洞察があちこちに見えており、まさに「極上の歴史エンターテインメント」です。

【付記】
朝方、公開した記事に多少の訂正と補足を加えました。
 なお、井沢氏は、推古天皇は「腹を痛めた息子」である竹田皇子の天皇後継のライバルとなるため、太子を初めは排除しようとしたものの、竹田皇子が死んでしまうと、「ほかに子どもはいません」ので身内で最も優秀な甥の太子を登用したと述べています(124頁)。しかし、実際には、太子の叔母であり義理の母である推古天皇には尾張皇子という末の息子がおり、その娘である橘大郎女を、後に太子と結婚させていることを、氏は忘れているのではないでしょうか。こうした間違いは他にもたくさんあります。
 たとえば、井沢氏は、歴代天皇で「徳」という字を含む諡号は「不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ」という常識があったとし、「聖徳太子」という号もその一例だとして怨霊説につなげるのですが、聖君とされる仁徳天皇については説明に困っています。そこで、仁徳天皇の頃は「徳を持つ」という意味でこの字を使っていたが、「聖徳太子以降、日本人は……むしろ怨霊鎮魂に使ったのではないでしょうか」と珍説を唱えています(202頁)。仁徳天皇の時代には漢字諡号はなく、数人を除くほとんどの天皇の漢字諡号は、奈良時代半ばすぎに文人の淡海三船がつけたとされていることを忘れているのではないでしょうか。また、現存文献で見る限り、聖徳太子という呼称を最初に使ったのは、その三船のようであり、三船は、太子を南岳慧思の生まれ変わりとして礼賛する文脈で聖徳太子と呼んでいることにも注意してもらいたいところです(こちら)。

【付記:2022年2月1日】
文章を少し訂正しました。論旨に変化はありません。
 本文で、井沢氏は仏教をよく知らないと書きました。それどころか三経義疏をきちんと読んでおらず、三経義疏について意見を述べることができるほど諸論文も読んでいないことは、「当時最新の仏教書であった中国・南北朝時代の書物にも見劣りしないクオリティを持っています」(60頁)と書いていることからも知られます。「当時最新」というなら、同時代の隋の仏教文献でしょう。『法華義疏』が「本義」、つまり種本としたのは、中国で最も仏教信仰が篤く、経典の講義や注釈で知られる梁の武帝の時代の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』であり、『勝鬘経義疏』の「本義」はおそらく三大法師の荘厳寺僧旻(-510-)の注釈であって、隋の仏教者からは古くさい不十分な解釈とされて批判されていたものです。「当時の倭国にとって最新だった、という意味だ」と弁解されるかもしれませんが、太子の仏教の師となった慧聡や慧慈の母国である百済や高句麗では、その頃には既に梁の仏教より新しい三論教学や唯識教学などが伝わり始めていました。三経義疏が「本義」として梁武帝時代の代表的な注釈を選んだのは、それなりの理由があると考えるべきでしょう。
 「クオリティを持っていると言われています」なら、まだ良いですが、井沢氏は実際に中国の南北朝の注釈類を読んで三経義疏と比較したかのように、「持っています」と書いていますね。しかし、太子は仏教を興隆した立役者です。その太子について論じるには仏教について触れざるを得ないはずですし、原文で読むのは無理としても、せめて訓読版でも良いですから三経義疏を読んでいれば、この部分は「憲法十七条」と共通しているなどと指摘することができたでしょう。実際、そうした指摘をしている論文は玉石混交ながらいくつも出ていますが、そのような指摘もまったくなされていません。つまり、仏教を良く知らず、関連論文も読まず、それどころか肝心な三経義疏すら読まないまま、太子の「和」は仏教由来でないと論じているわけです。
 本書で名前があげられているのは、豊田有恒・梅原猛・朴炳植氏などくらいと書きましたが、「憲法十七条」の訳については、中村元先生の訳(『日本の名著 聖徳太子』)を使っていました。井沢氏は、「憲法十七条」の「和」は仏教に基づくとして、インドのアショカ王やチベットのソンツェンガンポ王などの法令と比較して国際的な広い視点で論じている中村先生の説には触れていないのですから、そんな取り上げる価値もない説を出している中村先生の訳など使わず、自分で適切な訳を示せば良いと思うのですが。
 井沢氏は「憲法十七条」の「和」は日本独自の宗教である「話し合い教」に基づくとしているものの、「和」は漢語であって、その出典は中国の古典です。井沢氏は、具体的な仏教文献だけでなく、そうした中国の古典にも触れていません。世界史に通じていると自認し、外国と比較しないと自国のことは分からないと説く博学な井沢氏のことなのですから、「憲法十七条」の「和」は、典拠となった中国の複数の古典の用例とどこが違うのか、わかりやすく説明していたら、説得力が増したと思うのですが、なぜやらないのか。言行不一致なのか、できないのか。

【追記:2022年2月2日】
 ゲーテの言葉の部分を追加するなど、少し変更しました。エンターテインメントとして「楽しめない」というのは、聖徳太子のことを研究しており、またアジア諸国の古典文学や芸能にも関心があって論文を書き、エンターテインメントが好きで「日本笑い史年表」(『早稲田学報』1244号、2020年12月)をまとめたり、「笑い」と「お笑い」の違いについてその歴史を書いたりしている(こちら)私個人の感想です。古代史を知らず、史実と異なる「母が太子の異母兄と密通する」といった井沢氏流の表現を好む読者は、「目からウロコだった。おもしろい」と思うかもしれませんので。
 なお、「憲法十七条」には2箇所、不自然な箇所があります。これまでは典拠の解明が不十分であって、私自身を含め、その部分を説明できていませんでした。井沢氏もその不自然さに気づいておらず、指摘していませんが、在家の仏教信者向けの大乗戒経の漢訳と「楽(がく)」に関する中国の文献が典拠だと発見できたおかげで、謎が解けました(第一条は、こちら。第二条は、前回の記事である こちら)。
 このように、古代の漢文を読む際は典拠を確認することが大事なのです。井沢氏は第一条の「上和下睦」を「上下の区別なく」と受け止め、「人は皆な平等だ」と述べているとしています(71頁)が、これは誤読です。典拠となった『千字文』では「上和下睦、夫唱婦随」であって平等主義ではないですし、中村元訳もそんな風になっていません。「憲法十七条」は「礼」を強調しており、身分の上下のあり方を守るよう説きつつ、そのうえで「なごやかに話し合え」と命じているだけです。「憲法十七条」は、凡人であって嫉妬しがちな群臣たちと、国の方針を示しうる「賢聖」とを区別していることは、第十四条が説いている通りです(ちなみに、第十四条の嫉妬禁止は、大乗戒経の『優婆塞戒経』に基づきます)。井沢氏は、典拠の意義を理解していませんし、他にも誤解が目につきますが、きりがないので、ここらでやめておきます。
【追記:2022年2月6日】
 ここらでやめるはずでしたが、上記の記事を読み直していて気になる箇所がありました。井沢氏は「日本を代表する仏教学者である故中村元氏の訳文を見てみましょう。(『日本の名著 聖徳太子』中央公論社)」(68頁)と記しており、珍しく書名や出版社を記していましたが、この本を引っ張り出してみたところ、中村先生は「責任編集」であって冒頭に「聖徳太子と奈良仏教」と題する概説を書いており、「憲法十七条」の現代語訳は「中村元・瀧藤尊教訳」となってました。瀧藤氏は、中村先生の東大印哲の後輩で後に四天王寺管長となった人です。「中村・瀧藤訳」としない井沢氏の書き方は、事実を歪め、「日本を代表する」有名な仏教学者の権威を利用したものですね。この第一条の口語訳は「諧於~」の部分が訳されていないので、いずれ記事でとりあげましょう。
【追記:2022年2月8日】
本文では、豊田氏の『聖徳太子の悲劇』では「結婚」と記しているところを、井沢氏が「太子の異母兄との密通」といったセンセーショナルな書き方をしていると記したのですが、聖徳太子だけを扱っている同書ではなく、古代史ミステリーを12並べ、その6で聖徳太子をとりあげている豊田氏の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(PHP研究所、1994年)には、「太子の実母と異母兄の密通」(106頁)と記してありました。井沢氏は『聖徳太子のひみつ』では、豊田氏の説に基づくと何度か書いているものの書名をあげていませんが、実際には多くの箇所で豊田氏の推測と文をそのまま使っていることが分かりました。『逆説の日本史』の聖徳太子やその近辺の記述も同様ですね。一般読者はだまされて、「井沢先生の独創であって、目からウロコ」と感心するのでしょうが。
【追記:2022年2月12日】
「未完成の霊」については、『逆説の古代史2』の聖徳太子の部分を読んだら、変死者の「未完成の霊」について論じた民俗学の谷川健一氏の文章を引いてました。これですね。しかし、民俗学の説、それも折口信夫系の説をそのまま古代に適用するには注意が必要ですので、その部分の本文を少し補足しました。

【追記:2022年2月20日】
あまりにもひどいので、元となった『逆説の日本史2』を読んでみたら、こちらもすさまじい間違いの連続でしたので、3回に分けて、この「珍説・奇説コーナー」で批判しておきました(こちら)。

【追記:2022年2月22日】
 井沢氏が中村元先生の権威を利用して『日本の名著 聖徳太子』の「憲法十七条」の現代語訳を中村元訳としていた件ですが、中村先生は仏教にも通じていたインド哲学者です。大学者ではあるものの、中国思想の専門家ではありません。「憲法十七条」は仏教文献を利用した箇所は少なく、中国の文献に基づいている部分が圧倒的に多いのですから、正確な理解をめざすなら、中国古典の専門家の解釈を参照すべきでしょう。たとえば、和漢比較文学の第一人者であった小島憲之先生は、『日本の名著』の「憲法十七条」の現代語訳が全面否定の表現である第十条の「我必非聖」の「必非」を「かならずしも」と訳していることを「誤訳」と断定しており(小島『万葉以前』「第1章 太子聖徳の文藻」(岩波書店、1986年、47頁)、このことは研究者の間ではかなり知られています。この部分の解釈は、「憲法十七条」全体のイメージ、また聖徳太子のイメージに関わる重要な問題です。ちなみに、井沢氏が日本の歴史学者の三大欠陥とするものの一つは、「権威主義」でした。

「蘇我蝦夷か入鹿が天皇」説を提唱し、後のトンデモ説に影響を与えた破天荒な作家、坂口安吾

2021年10月31日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 来月の14日に四天王寺で講演をする予定です。題名は、

  「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉

 このところ、講演や講義はリモートばかりでしたが、久しぶりに通常の対面の形でおこないます。定員200名なのに、9月初めに予約が満杯になった由。講演では、大山説が誕生する前の様々なトンデモ説にも簡単に触れる予定です。

 イタリアンレストランで働いているうちに古代史に興味を持つようになり、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿だった』を出して話題を呼び、以後トンデモ本を書きまくっている関裕二とか、岡山大学の東洋史出身ながら、『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (1993年)で太子は北方民族の首領だと説いた小林惠子とかですね(これについては、今年のエイプリルフールのおふざけ記事で対抗し、太子は英語を話すバイキングだったと書きました。こちら)。 

 こうしたトンデモ説の起源はどこかと考えてみたところ、敗戦後の騒がしい時代に大活躍した、破天荒作家、坂口安吾(1906-1955)の歴史物が大きな影響を与えているようです。

 東洋大で仏教を学んだ後、作家となった安吾は、常識嫌いで精神不安定だったうえに薬物中毒となり、いろいろ問題を起こしますが、作品は個性的で類を見ないものばかりであり、私は学生の頃から大好きでした。没後に夫人が書いた追憶本なども買いました。

 安吾の作品のうち、『明治開化 安吾捕物帖』(後に『勝海舟捕物帖』と改題)は、安吾お気に入りの人物だった勝夢酔の息子、勝海舟がいろいろな事件を推理する短編集です。普通の推理小説と違い、海舟のもっともらしい推理はことごとく外れるのですから、変わっています。

 そうした迷探偵ぶりを歴史に関して発揮したのが、『文芸春秋』に昭和26年(1951)3月から12月まで連載し、また30年2月号から再開してその取材旅行から帰った翌日に急逝するまで続いた「安吾日本地理」シリーズです。その中の、

 坂口安吾「飛鳥の幻」
(『坂口安吾選集』第二巻、創元社、1956年。現在は、『安吾の新日本地理』などの題名で文庫本が出てます)

は、「飛鳥の幻」となっているものの、吉野の話が長く続きます。安吾は、「神話と歴史の分水嶺は、仏教の渡来だろう」と書き、文字による記録の重要さを説いたのち、聖徳太子と馬子が協力して書いたとされる「天皇紀」、「国記」、各氏族の本記の考察に移り、これらが蘇我氏とともに亡びたという記述について、「一度疑ってみても悪くはなかろう」と述べます。

 そして、東洋大で学んでいた際、日本仏教史となると『上宮聖徳法王帝説』や関連文献を読まされたと回想し、『法王帝説』は字数は少ないが面白いと言います。というのは、『日本書紀』が長々しく書いている箇所を、『法王帝説』は事実だけを「気持がいいほど無感情、実にあっさり」と書いているためだそうです。

 その例として安吾があげるのが、蘇我入鹿が山背大兄一家を滅ぼし、後に入鹿とその父親である蝦夷が殺されて蘇我本宗家が亡びる事件です。この箇所について、『法王帝説』ではきわめて簡潔に書いているのに対し、『日本書紀』の記述は異様なほど長く、敵意に満ちているのです。

 そこで安吾は、『法王帝説』のこの部分に「□□□」などの欠字が目立つのは、問題となる箇所を後人が伏せ字にしたのではないか、と推測します。そして、「山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね」と述べ、そうした事実を隠そうとした証拠が上記の伏せ字なのではないか、と説くのです。

 これは、大正期から戦時中にかけては検閲によって伏せ字にすることが多かったことから「推理」し、原本の写真版を見ずに活字本だけ見て想像したものですね。いつの時代も書き換えや削除は多いものの、もとの字数がわかるような形で伏せ字にするのは近代日本の検閲の工夫です。

 『法王帝説』の簡潔な記述と違い、『日本書紀』のこの部分は非常に詳しいのですが、安吾はそれについて、「なんとまァ狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね」と述べ、ヒステリー的であって「ハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、出ているようだ」と評します。

 『日本書紀』全体の中で、ただ一箇所、調子が乱れていてざわめきたっているのがこの箇所であるのは、『日本書紀』成立の理由は天孫たる天皇の由来を説くためであるとし、蘇我天皇の存在を抹消しようとして、かくも感情的な記述をしたのだ、というのが安吾の推測です。「素人タンテイの心眼」なので怪しいと述べるのですが、『日本書紀』のこの箇所が大化の改新の詔と同様、怪しいことは確かですね。
 
 そこで、安吾は蘇我氏の祖先について考察し、「蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的であるですよ」と述べ、「私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見る」ため、『日本書紀』の蘇我氏に関する記述は「そのままでは全然信用しないのである」と断言します。

 「蘇我天皇」という言い方は、戦後になって天皇の子孫と称する人たちが次々に登場し、「熊沢天皇」などは、自分は現在の天皇まで続く北朝系に皇位を奪われた南朝系天皇の子孫であって皇位継承権があると主張し、騒ぎになったことを踏まえたものですね。

 安吾の推測は、戦後になってそれまでの神格化された天皇像が否定されて言論が自由になり、安吾自身が手元の資料も十分でない状態で、「素人タンテイ」してみたものですので、問題も多いのですが、入鹿の暗殺前後の記述が異様であるのは確かです。安吾の主張は示唆に富んでおり、考慮に値するものです。

 ただ、言論が自由といっても、戦時中の当局による検閲に変わり、敗戦直後は軍国主義的な発言を警戒するGHQの検閲がおこなわれており、安吾の「特攻隊に捧ぐ」は1947年に発禁となっています。

 この時期に『堕落論』などを発表して戦中・戦後の常識を真っ向から批判し、くだけた率直な文体、魅力あふれる文体で大胆な主張を展開した安吾の作品は、戦後、大人気となりました。「新日本地理」シリーズも良く読まれ、現在までいろいろな版が刊行されています。

 ただ、安吾の責任ではないのですが、聖徳太子の事績について戦前から疑い、著書が発禁となった津田左右吉の説が、戦後になって皇国史観を反省するようになった古代史学界で高く評価されるようになったのと同様、安吾のこうした推測は、話題作りを狙う素人の歴史ライターや、従来の歴史研究のパラダイムをひっくり返そうとした野心的な研究者たちに刺激を与えたのですね。

【付記】
「馬子=天皇」説などのトンデモ説の元祖、ということで記事を書き始め、確認が不充分なまま、「「蘇我馬子=天皇」説を提唱した~」という形の題名で早朝に公開してしまいましたので、題名を改めました。

【珍説奇説】九州王朝の年号は11世紀の経典に基づき、聖徳太子が善光寺如来とやりとりした手紙は本物

2021年09月26日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 前回、SATを活用して研究してほしいと書いたのですが、逆に、SATを利用してトンデモ説を書き散らしている困った人がいますので、この「珍説奇説コーナー」でとりあげることにします。

 近代の偽書である『東日流外三郡誌』をめぐる真偽論争がきっかけで九州王朝説論者たちが内部分裂した後、真作説をとる古田武彦支持を貫いて活動している「古田史学の会」の現代表、古賀達也氏がその人です。

 「聖徳太子」であれこれ検索しているうちに見つけた古賀氏のサイト、「洛中洛外日記」に「聖徳太子」という項目があったので見てみたら、SATを利用して書いていました。九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)「九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か」という記事です。

 九州年号の「蔵和」をSATで検索したところ、時代が合うのは竺法護訳の『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』であって、これが出典だと分かり、Wikipediaで調べると「竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧」とあったと述べ、竺法護について紹介しています。
 
 SAT作成・公開の主要メンバーの一人であった身としては、利用してくれるのは有り難いのですが、SATの名を出してこんなデタラメをたれ流されるのは迷惑です。SATの名誉のために言うと、SATでは「法護訳」としかなっていません。

 仏教史を知らない古賀氏が「法護」で検索し、有名な「竺法護」がヒットしたので勘違いしただけです。『大乗菩薩蔵正法経』の冒頭を見れば分かるように(見ても分からなかった?)、「西天訳経三蔵朝散大夫試光祿卿伝梵大師賜紫沙門臣法護等奉 詔譯」という長々しい肩書き(中唐以後、北宋で顕著な特徴です)が記されているこの法護は、北宋期に拙劣でわかりにくい訳をしておりながら朝廷から尊重されたカシミール出身の法護(963-1058)であって、西晋の竺法護とはまったくの別人です。

 7世紀の九州王朝の王は、11世紀に訳された経典に基づいて年号を作ったわけですね? 九州王朝説論者によれば、九州王朝は大和などよりはるかに先進的だったそうなので、おそらくタイムマシンを使ってこの経典を知ったのでしょう。

 また、古賀氏は「仮説」としつつ、この経典は「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」と説いているため、「令和」の年号が『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟したのと同様に、「菩薩蔵」の「蔵」と「和合」の「和」を集成して九州年号の「藏和」を作ったのだろう、と述べています。

 しかし、この組み合わせは考えられません。東アジアでは、書写・印刷した仏教の経論を納める建物を「経蔵」と称するようになりましたが、インドの伝統仏教の場合、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵という場合、「蔵(ピタカ)」は「集まり」を意味します。「経蔵」なら多くの経典の集成のことです。

 古代の優秀なインド僧は、自分たちの派が保持する「経蔵」を暗記したのであって、三蔵に広く通じている学僧が三蔵法師です。ただ、大乗仏教が登場して多くの経典が作成されるようになると、伝統的な三蔵以外に「菩薩蔵」があるとする説が一部で登場しました。中期大乗以後のことです。

 古賀氏が典拠だとする「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」という箇所のうち、「所有」は「あらゆる」の意、「大菩薩蔵」は上記のような菩薩蔵を賞賛して「大」の語を付けたものであって、素晴らしい大乗経典の大集成ということになります。「和合甚深正法義」は、そうした「素晴らしい菩薩蔵=多数の優れた大乗経典」で説かれる奥深くて正しい教義ということでしょう。実際には、この経典が含まれるような『宝積経』系統の経典を指すのでしょうが。

 こうした文脈で仏教僧伽(サンガ=僧団)の特質とされる「和合」の語が来るのは不自然であって、実際、SATでは「和合甚深」という語は、同時代のインド僧の施護の訳などと同様、漢訳の質が悪いことで知られる北宋の法護の『大乗菩薩蔵正法経』のこの箇所にしか見えません。

 そうした「和」を「菩薩蔵」の「蔵」と結合させるんですか? 「甚深正法義」のうち、意味が似ていて同じ品詞の語を結びつけた「深正」とか、意味がつながる「深法」といった組み合わせの年号にするなら分かりますが、「蔵」と「和」をくっつけるというのは、どういうことでしょう? ピタカが「和合」するんですか? 「令和」も妙な名付け方でしたが。

 トンデモ説ついでに言うと、この「九州王朝(倭国)の仏典受容史」の (3)に当たる「九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』」という記事では、驚くべき主張がなされていました。

 聖徳太子信仰は時代がくだるにつれていよいよ強まり、また平安時代には善光寺信仰も盛んになって、善光寺如来は「生身(しょうじん)」だとする信仰が強まっていきます。さらに平安後期から鎌倉時代にかけては、聖徳太子伝説と善光寺如来の生身伝説が結びつくようになり、荒唐無稽な伝説が次々に生まれます。中世は偽文書がやたらと作られ、怪しい年号が盛んに用いられた時代ですが、聖徳太子関連の偽文献の多さは中でもすさまじいものです。

 聖徳太子が善光寺如来に手紙を書いて届け、使いの者が料紙に硯を添えて御簾の下から差し入れると、御簾の向こうで墨をする音がした後、御簾の下から返事の手紙と硯がすっと出された(善光寺如来が返事を書かれた!)、という話もその一つであって、後にはさらにそのようにしてやりとりしたという手紙なるものが登場します。むろん、中世の手紙の書式で書かれており、写本によって字が微妙に違っている場合があるのですが、そのやりとりの手紙の一つがこれです。
 
          御使 黒木臣
  名号称揚七日已 此斯為報広大恩
  仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
     命長七年丙子二月十三日
   進上 本師如来宝前
        斑鳩厩戸勝鬘 上

 当然ながら、中世に作成されたひどい漢文の偽文書であって、黒木臣などという人物は早い時期の史料には見えません。ところが、古賀氏はなんと、九州王朝の年号が用いられているという理由でこの文書を本物とみなし(ということは、善光寺の阿弥陀如来が漢文で書いた返事も本物と認めるんですね? 善光寺僧の代作とするんですか?)、次のように述べます。

わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。


 「善光寺如来に宛てた「願文」」、というのは願文の語義からするとおかしな言い方ですが、それはともかく、「利歌彌多弗利」は、『隋書』倭国伝の開皇20年条に見える言葉です。つまり、倭王は、姓は阿毎、字は多利思北孤であって、太子を名づけて「利歌爾多弗利」というとある記事ですね。

 古代の日本語にはラリルレロで始まる言葉がなく、そうした語は外来語だけですので(韓国語も同じです。ですから年寄りは「ラジオ」と言えず、「ナジオ」と発音します)、この「利歌爾多弗利」の「利」は「和」の誤記であって、「和歌爾多弗利」は皇族を意味する「わかんどほり」の語の古形と見るのが学界の通説です。私自身、敦煌の地論宗文献の研究をしていた頃は、写本の誤記・誤字・異体字・音通字の多さに悩まされました。写本というのは、そういうものですし、木版本の場合も、そうした写本類に基づくのですから、稀なほど厳密な校訂を経ていても、まったく間違い無しではすまされません。

 しかし、書いてある字をそのまま受け取る九州王朝論者は、文献学や国語学の常識などは無視しますので、当時の倭国の太子は「利歌弥多弗利」であったとするのです。九州王朝ではラ行で始まる言葉がない古代日本語とは異なる言葉を使っていたんでしょう。

 会員の一人が、「勝鬘」とあるのでこの文書の筆者は女性だろうと述べ、古賀氏も、また古賀氏同様に聖徳太子についてトンデモ説を書き散らしている他の会員も、その意見に賛成だそうです。

 しかし、聖徳太子は、奈良時代には天台宗を開いた天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりとされ、後には観音菩薩の化身だとか、聖徳太子が講経した『勝鬘経』を説いた菩薩である勝鬘夫人の生まれ代わりという伝説も生まれました。「斑鳩厩戸勝鬘」という署名は、それを反映したものです。

 鎌倉時代にこの文書を見た人たちの多くは、偽作だと思わずに信じたでしょうが、「斑鳩厩戸勝鬘」というのは「厩戸皇子=聖徳太子」だと受け取ったはずであり、女性だなどと考えた人は一人もいないはずです。

 「古田史学の会」代表の古賀氏とその仲間は、この程度の仏教知識であれこれ空想して論議し、学界の通説を否定したつもりになって楽しむ「学問ごっこ」で盛り上がり、「遣隋使を派遣したのは九州王朝の王、多利思北孤であって、聖徳太子のものとされてきた事績は多利思北孤とその太子の利歌爾多弗利の事績を盗用したものだ」という珍説を論証しようとするのです。

 学校の宿題やレポートなどで聖徳太子について調べる生徒・学生たちが、こうしたサイトを見て、従来の学界の説を打破する新しい説だと思ったりすると困りますね。

 古賀氏は、この会の「全国世話人」を務める人から『大正新脩大蔵経』の検索サイトであるSATを教えてもらい、「おかげで、連日のように発見が続いています」と記しています。

 そりゃ、こんなやり方でこじつければ、学界の通説をひっくり返したと称する大発見がいくらでもできるでしょう。やれやれ。こんな使われ方をするために SATを作成・公開したのではないのですが。

 なお、太子と善光寺如来がやりとしたとされる手紙は、むろん中世の作ですが、いろいろな異本があるうちの一つが法隆寺剛封蔵に秘蔵される四重の箱に収められており、明治時代に一度開けられています。論文もいろいろ出ています。

 少し前にここまで書いて公開しようとし、念のためにあれこれ検索したところ、古賀氏はこうした内容を古田史学の会編『(古代に真実を求めて 古田史学論集第十八集)盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店、2015年)に掲載していることに気づいたので、注文しておきました。

 本日、届いたので眺めたところ、古賀氏は善光寺如来とのやりとりについては、上記の命長七年の「勝鬘」の手紙だけを本物と見ているようですが、他にも聖徳太子に関する珍説記事を書いているほか、他の会員たちも漢文が読めず、珍解釈を述べているので呆れました。

 たとえば、上で見た命長七年の消息について古賀氏に続いて考察めかした文章を載せている岡下英男氏の「「消息往来」の伝承」では、仲間である正木裕氏が、この手紙は病に臥す九州王朝の太子「利」が、我を助けたまえと善光寺阿弥陀如来に願ったものだと説いているとしてそれに賛成して論じています(正木氏の論も同書に載っています)。

 しかし、「助我済度常護念」は、「我が済度を助け、常に護念したまへ(私が衆生済度するのを助け、常にお守りください)」の意であって、病気などはまったく関係ありません。「命長」という年号にひきずられ、重病となった「利」なる人物が阿弥陀仏に「助けてください!」とお願いしたものと解釈したんでしょうか。阿弥陀仏にお願いするなら、「極楽にお迎えください」と頼むんじゃないですか? 

 それに、「私が人々を済度するのをお助けください」というのは、平安朝の末法思想の流行にともなって浄土信仰が高まるにつれ、それまでは危難から救ってくれる菩薩として信仰されていた観音が、往生を願って亡くなった人を阿弥陀仏のいる極楽浄土へ導く役割を果たす菩薩として信仰されるようになってからの発想ですね。

 観音菩薩は、仏像だと阿弥陀如来の横に勢至菩薩とともに脇侍として置かれるため、平安時代以後は念仏する人々を極楽に迎えようと誓った阿弥陀如来の手助けをする菩薩としての性格が強まりました。聖徳太子は早くから人々を救う観音の化身(救世観音)とみなされるようになっていますので(太子が模範とした梁の武帝は「救世菩薩」と呼ばれていました)、そうした「太子=観音信仰」と浄土信仰における観音のイメージが結びつくようになるのです。奈良時代までの観音信仰、聖徳太子信仰にはそのような浄土教的な要素はありません。

 そのうえ、古賀氏も岡下氏も消息の冒頭部分を「名号称揚七日巳」としていますが、最後の字は文脈から見て、~tvā, ~tya (~し終わって)の訳語である仏教表現ですので、「巳(み・へび)」ではなく、「已」と直さねばなりません。写本では「己・已・巳」は区別できないことが多く、そうした点に気をつけなければ正しく読めず、正しく読めなければ好き勝手な解釈がなされることになります。 

 こうした例ばかりであって誤りを指摘するときりがないため、学界が全く相手にしていないのは当然であり、放っておく方が楽であるものの、SATがらみのトンデモ説が広がるのを防がねばならないため、敢えてとりあげた次第です。

 学問上の解釈はいろいろあって良いのですが、古賀氏とその仲間の古代史ファンたちはその水準まで達していないため、「漢文と仏教の基礎を学んでください」と言うほかないですね。社会批判的な硬派の書物を多く出している明石書店は、いつまでこうした素人たちの同人誌みたいな非学問的なシリーズを出しつづけるのか。出版社の信用に関わると思うのですが。

 古賀氏は、このブログの三経義疏記事なども見ておられるようで、その点は有り難いのですが、このブログや私の論文をトンデモ説のために利用しないよう願うばかりです。

【付記:2021年10月7日】
九州王朝説には時間の無駄なので関わりたくなかったのですが、この記事のことがあったため、古田史学の会編『「九州年号」の研究ー近畿天皇家以前の古代史』(ミネルヴァ書房、2012年)を買ってみたら、古賀氏がこの偽消息を扱っていました。それによると、「我が済度を助け、常に護り念じたまえ」という願文としてますが、「護念」はアディシュターナ系統の語の訳であって術語です。また、命長七年には、倭王の多利思北孤は亡くなっているので、利歌弥多弗利が倭王となっていたとし、おそらく永く病に伏していた利歌弥多弗利が「我が済度を助け」るよう、つまり、彼岸への済度(救済)を阿弥陀如来に願っていると解釈していますが、阿弥陀如来なら一般的な「彼岸」ではなく、極楽浄土への往生を願うとすべきでしょう。「利歌弥多弗利は如来信仰に帰依しており」という部分も意味不明です。如来は釈迦も薬師もいますし、帰依は仏に対して帰依するのであって、「信仰に帰依する」などという言い方はありません。とにかく、まったくデタラメな記述が続いており、空想ばかりです。
【付記:2021年11月9日】
このしばらく後で、太子が善光寺如来に当てた手紙なるものについては、中世の信仰の中で生まれたものであることを示している論文を紹介しておきましたが、付記するのを忘れてました(こちら)。
【付記:2021年11月23日】
正しくは「多利思比孤」ですが、九州王朝論者は、誤記された新しい版本を信仰しているため、その主張どおりに「多利思北孤」の表記を使っています。
【付記:2022年1月26日】
上の記事で岡下英男氏の説に触れましたが、昨日、図書館で『古代に真実を求めて』第17集を見つけ、岡下氏が「聖徳太子伝記の中の九州年号」なる文章を書いていることに気づいてぱらっと読んだところ、善光寺如来の返書の冒頭に「一日称揚無息留」とある箇所を、「一日念仏しただけでも息が切れるのに」と訳していたため、静粛であるべき図書館内ながら、思わず声をあげて笑いそうになりました。「無息」という箇所を「息ができなくなる」と解釈したのでしょうが、この「息」は「休息」「終息」などの意味であって、「一日中、休んだりやめたりせずに念仏し続ける」ということです。古田史学の会の仲間たちは、皆なこうした珍解釈に基づいて大胆な主張をしますね。

【追記:2022年5月21日】
古田史学の会のメンバーがいかに常識知らずで学術論文の書き方すら分かっていないかについては、「石井公成氏に問う」などと挑んできたトンデモ主張の批判として詳しく述べておきました(こちら)。 
【追記:2022年5月29日】
以前、このブログで九州王朝説論者である合田洋一氏を批判しましたが(こちら)、その合田氏が、古田史学の会の代表である古賀氏の誤りを認めない姿勢を厳しく批判する声明を出し、「古田史学」でなく「古賀史学」だと論じていました(こちら)。

【追記:2022年12月1日】
「厩戸勝鬘」とは聖徳太子を指すのであって、『四天王寺縁起』などの記述に基づくことについては、太子に未来記に関する記事で触れておきました(こちら


太子の未来記とユダヤ伝説その他を結びつけたトンデモ予言本:五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』

2021年07月04日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 『日本書紀』の推古紀は、厩戸皇子を神格化した記事で満ちており、その一つが元年条の「兼ねて未然を知る(前もって、まだおきていないことを知っていた)」という記述です。ちなみに、「兼」を「前もって・あらかじめ」の意味で用いるのは、森博達さんが指摘しているように変格語法です。

 このため、中世には聖徳太子に仮託された「未来記」、つまり、予言書がたくさん生まれています。太子の「未来記」を含めたこうした書物については、小峯和明さんが『中世日本の予言書―“未来記”を読む』(岩波新書、2007年)、『予言文学の語る中世: 聖徳太子未来記と野馬台詩』(吉川弘文館、2019年) などで論じ、その時代背景を明らかにしています。戦乱、社会変動、疫病の流行などが続いて不安が高まった時期には、こうした予言書が登場しがちなのです。

 同様に社会不安が高まった平成の世に、梅原猛の珍説(こちら)の刺激を受けてこうした怪しい予言書を復活させ、世界各地に広まっているユダヤ人伝説と結びつけたトンデモ予言本が出ました。

五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言ー1996年世界の大乱、2000年の超変革、2017年日本は』
(青春出版社、1991年)  

です。国会図書館で検索したら、1991年9月刊となってましたが、私の手持ち本は初版であるのに、奥付には刊行年月日が入ってません。

 旅行ガイド本などだと、情報が古いと思われたくないため、奥付には刊行年月を入れず、カバーにだけ印刷したり、カバーでも目立たないところに小さく入れるだけの本がありますが、予言本も同様な状況なので敢えて入れなかったか。

 1973年に、1999年7月に世界は滅亡すると説いた『ノストラダムスの大予言』を刊行し、200万部を超える大ベストセラーにして有名となった五島氏は、友人から梅原の『隠された十字架』に関する上位層の僧侶たちの感想を聞きます。その僧侶たちは、法隆寺や四天王寺などには、太子が建てられた建物に「みらいぞう」があるとする秘伝が伝えられていると語った由。

 五島氏は「未来像」「未来蔵」のいずれにせよ、未来を予言するものがあるのだと確信し、『ノストラダムスの大予言』の類と各種の太子の「未来記」を結びつけ、次々に空想をくりひろげていきます。

 その空想を支えたのは、佐伯好郎などが展開していた日本への景教影響説とユダヤ人影響説でした。言葉がちょっとでも似ていると、何でもかんでもその影響とする佐伯は、秦氏の「秦(はた)」は景教では「主教」の意味だったとし、太子の側近であった秦河勝はユダヤ人の宗教家だったとするなど、珍説をくりひろげていました。

 五島氏はその影響を受けたのであって、「類は友を呼ぶ」というか、「トンデモはトンデモを呼ぶ」のです。こうしたこじつけをやれば、何でも好きなように解釈できるでしょう。

 私も、玄奘三蔵がインドで学んだナーランダ寺の滅亡をテーマとした歌が日本に伝えられていると指摘したことがあります。「♪咲いた、咲いた、チューリップの花が、な~らんだ、な~らんだ、赤白黄色」と歌う童謡の「チューリップ」がそうだと説いたのです。

 「咲いた」は本来は「サンヒタ」であってサンスクリット語で「集められた」の意、「チューリップ」の「チユ」は「死ぬ」、「リップ」は「汚す」という意味の動詞であって、偶像崇拝を嫌うイスラム勢力がインドに侵入した際、インド最大の仏教寺院であったナーランダ寺の僧侶たちが集められて虐殺されたことを嘆いた悲惨な歌なのだ、と主張したのです。

 むろん、冗談であって、こんなこじつけをやれば、何でも言えることになります。五島氏はまさにそうしたこじつけを重ねていったあげく、「聖徳太子の黙示録」が存在すると言い出して、1996年の世界大乱が予言されているとします。

 そして、釈迦は自分の死後、2500年後に天界から超ハルマゲドンがもたらされと予言しており、その破滅の危機を救うのが、人類が進化した「超人類」であって、それを形にしたのが法隆寺の救世観音像であり、聖徳太子は人類は2000年に大きな変革を迎えると予言していたと主張するのです。「救世」は未来の救い主であるメシアのような存在を意味すると見るのですね。

 しかし、予言された1996年には大戦争などは起きませんでしたし、2000年も日本で起きたのは、有珠山・三宅島の噴火とか、自民党が敗れて民主党勢力が伸びたとか、旧石器捏造事件の発覚とかであって、人類が生物学的に進化して大きく変わったという話は聞いていません。

 そもそも、五島氏は、「世間虚仮(こけ)」という太子の有名な言葉を紹介する際、「虚仮」に「きょか」とルビを振っており、他にも似たような間違いをやってます。仏教知識がゼロに近いのに、聖徳太子について論じるとは、いい度胸ですね。

 というか、そういう人だからこそ、自分が考えていることを「聖徳太子は憲法十七条でこれこれと説いていた」「太子の未来記が述べているのは、実はこれこれの予言なのだ」などと自信たっぷりに述べるわけです。実際には、中世の未来記などの多くは後づけであって、既に起きたことを「実は大昔に予言されていた」と説くパターンが多いのですが。

 五島氏のこの本では、恐ろしいことがいろいろ予言されているものの、もっと恐ろしいことがあります。本の帯で「ユダヤ、聖書予言を超えた恐るべき宿命! ……封じられた予言がいま的中する」とあおっているこの『聖徳太子「未来記」の予言』の裏表紙に、「キャスター 生島ヒロシ」氏の推薦文に加え、「国学院大学文学部教授・文学博士 中国長春市・東北師範大学客員教授」という長々しい肩書きを名乗る阿部正路氏の推薦文が掲載されていることです。

 阿部氏は「文字暗号の解読など、丹念な調査、大胆な推理と着想には舌を巻く思いだ」と賞賛しています。文学部の教授がそういうことを言うとは、なんと恐ろしいことか!

 そう言えば、この「珍説奇説シリーズ」の第1回でとりあげた「法隆寺の五重塔は送電塔がモデル」というトンデモ説も、大学の教員の論文であって、「秦氏=ユダヤ人」説が説かれてましたね(こちら)。やはり、類は友を呼ぶようであって、大学の教員だからといって安心はできません。

【珍説奇説】新刊の木村勲『聖徳太子は長屋王である』

2021年02月22日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 この10年ほど、学界で大山誠一氏の虚構説を明確に支持して論文を書く人は、盟友の吉田一彦氏以外には見かけなくなったように思いますが(こちら)、そうした中で大山説を受け継ぎ、さらに空想を重ねていった本がまともな出版社から刊行されました。
 
木村勲『聖徳太子は長屋王であるーー冤罪「王の変」と再建法隆寺』
(国書刊行会、2020年10月)

です。木村氏は、古代にも関心を持つ日本社会史・近代文芸の研究者である由。

 国書刊行会は、近年は様々な系統の本を出版していますが、仏教・神道・近代民間信仰などについては、きわめて地味で学術的な書物を数多く出してきました。韓国の金剛大学仏教文化研究所が編集した中国の地論宗に関する韓国・日本・中国の研究者たちの論文集、『地論思想の形成と変容』(2010年、こちら)では、私は「序章」を執筆させてもらっています。

 また、国書刊行会から出版された大竹晋『大乗起信論成立問題の研究』(2017年)については、長年の真偽論争に決着をつけた画期的な書物だと高く評価し、いちはやく書評を書いたくらいです。そうした優れた学術書を世に送ってきた国書刊行会が、世間によくある『聖徳太子は実は誰々だった!』といった類の本を出すというのは驚きです。

 木村氏は、冒頭の「プロローグ」を「古代は近代史を学ぶ私にとって基本的にロマンである」という言葉で書き始めています。つまり、近代については学問的に取り組むが、古代は趣味でロマンを追う、ということのようです。ですから、史実の解明を期待する人であれば、題名を見た段階で「トンデモ本だな」と判断し、この最初の文を読んで「やはりそうか。ロマンとなれば梅原流か?」と思って放り投げるのが正解です。

 しかし、国書刊行会の本ですので、多少は役に立つ考察もなされているのではないかと、我慢してぱらぱら読んでいくと、大山誠一説への高い評価が書かれており、道慈が果たした役割が強調されています。ところが、その後に続いているのが、森博達氏の『日本書紀』α群β群説の紹介と賞賛なのです。森さんは、大山氏の道慈執筆説は「妄想」にすぎないと断定して強く批判しているんですが……(こちら)。

 以下も、こうした不統一と不勉強な記述が続き、学界の通説を無視した空想が書き連ねてあります。たとえば、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、「聖徳法皇なる人物の死(書紀の厩戸は六二二年)にこと寄せて、長屋王一家の死を書いているのだ。つまり、銘文は七二九年二月十二日以降の製作なのである(あらかじめ言っておけば七三六年までには完成している)」(113頁)んだそうです。銘文では「上宮法皇」であって「聖徳法皇」ではないですけど……。

 学界の通説は研究の進展によって変わっていくものですので、通説を批判するのは結構なのですが、その場合は、きちんとした論証が必要でしょう。近代の研究者である木村氏は、基礎となる漢文資料が読めておらず、思いつきばかりで論証がなされていません。

 木村氏は、釈迦三尊像と銘を刻んだ光背とは一体として推古朝に作られたとする東野治之氏の説のうち、一体説の部分だけを承認して時代判定を大幅に変え、釈迦三尊像も光背も「長屋王の変の後に改めて、元の飛鳥古風で作り直されたのだ……何より優れた総合プロデューサーの監督下で」(111頁)と論じるのです。「総合プロデューサー」というのは、道慈ですね。道慈は法隆寺と交渉はあったものの、そこまで深く関わっていたことを示す資料はないですが。まあ、この辺が滅ぼされた上宮王家と長屋王一家の悲劇をつなぐロマンなんでしょう。

 釈迦像に鋳造の失敗と見られる跡があることが指摘されているのは、これまで言われているように推古朝頃の技術が未熟だったためではなく、奈良時代になって古風な仏像の精巧な模造品を作るのは困難だったためだろうというのが、その論証らしきものです(釈迦三尊像に関する美術史研究者の見解はまったく違いますので、次回の記事で最新の説を紹介しましょう)。

 木村氏は、「憲法十七条」については、元明女帝の敕や元正女帝が発した敕のうちの仏教関連の内容と関係があり、それに基づいて道慈が書いたと論じます。そこまでは大山説に近いですが、氏はさらに『法華義疏』も道慈が718年に書いたと論じています。帰国してまもない時ですね。大山説においては説明に困るといつも道慈がやったとされるのですが、木村氏が説く道慈は、大山説以上に、超人的な万能ぶりを発揮しているのです。

 しかし、道慈は、木村氏自身が「まず三論の僧であった」(154頁)と書いているように、攻撃的な論調で知られ、中国では反発をくらって数人が殺されている三論宗の僧侶ですよ。実際、道慈は「硬骨」で衝突しがちであって、日本仏教のあり方を批判する『愚志』を書いたと伝えられていますので、まさに三論宗の特徴と合致します。そのうえ、道慈は長屋王から宴席への参加を誘われた際、僧侶と俗人は立場が違うと謝絶する漢詩を送ったことで知られています。

 その三論宗を大成した攻撃的な学風の吉蔵(549-623)は、『法華義疏』の「本義」である『法華経義記』を書いた光宅寺法雲(467-529)のことを、小乗にすぎない『成実論』に基づく「成実論師」と呼んでいました。そして、法雲については『法華経』の素晴らしい意義を知らず、すべての衆生に仏性が有ると説いている『涅槃経』と違って『法華経』は仏性を説いていないため『涅槃経』より劣る経典と位置づけたとして激しく批判し、『法華経』も実質的には仏性を説いていることを力説していました。

 『涅槃経遊意』で論じているように、『法華経』がきちんと説いているのに、それを理解できなかった劣った理解力の者たちのために補足として説いたのが『涅槃経』だ、というのが吉蔵の見解です。前の記事でちょっと触れましたが(こちら)、吉蔵の『法華玄論』では、「仏性」の語を何百回も用いて、この問題を熱っぽく論じています。空観と仏性・如来蔵思想を統合しようとした三論宗にとって、この問題はそれほど重要な問題だったのです。吉蔵の兄弟弟子であって吉蔵に似た主張を展開していた百済の慧均(生没年不明)も、『四論玄義記』において「仏性義」という章を設け、仏性について詳しく論じています。

 一方、法雲の『法華経義記』とそれを手本とした太子の『法華義疏』は、「仏性」という言葉を一回も使っていません。木村氏は、道慈が『法華経義記』を参考にして『法華義疏』を作ったと述べていますが、道慈は時代考証されてもばれないように、自分自身が属する三論宗の主張を完璧に隠し、許しがたい成実師路線で『法華義疏』を書いたことになりますね。吉蔵に申し訳ないと思わないのでしょうか。

 なお、福井康順氏は、『維摩経義疏』の太子撰を否定し、道慈が唐から将来したか朝鮮あたりの作を太子作としたかと推定しつつも、道慈の弟子であって、法相宗と激しい論戦をやったいかにも三論宗らしい智光(709?-780?)が、『浄名玄論略述』において『維摩経義疏』を太子の作として何度も引用していることに注意し、説明に困る事柄としています。また、福井氏の説を批判する太子礼賛派の花山信勝氏は、道慈関与なら吉蔵の思想の影響がないのはおかしいと論じていました。

 しかも、道慈は唐代仏教を代表する長安の国際的な学問寺に16年も留学していたのに、日本人である太子の作と見せかけるために、『法華義疏』をわざと誤字や変格語法だらけのつたない漢文で、それも隋頃の古い書風で書いてみせ、別人の筆跡による訂正も加えておいたことになります(こちら)。芸が細かいですねえ。ただ、これだと、太子礼賛にならないんじゃないでしょうか。

 木村氏は、『法華義疏』について新説を出すのであれば、原文を読んで教理について判断するのは無理にしても、せめて『法華義疏』の原物(複製)を最初の方だけでもぱらぱらと眺めてみるべきでした。誤字・誤記が多いことくらいは分かったでしょう。

 一度、無理な説を主張すると、それを支えるためにさらに無理な説を唱えざるをえなくなるものです。たまたま大山氏の『<聖徳太子>の誕生』を読んで「古代逍遙者の身にまたスイッチが入ってしまった」(234頁)という木村氏は、『古事記』の背後には長屋王がいるという大山説をさらに進め、ついには「古事記は書紀から作られた」などと言い出します。

 こうした飛びはねぶりは、大山氏が推古は即位しておらず、蘇我馬子こそが天皇だったと説くようになったことや、その大山氏を太子礼賛の立場で叩いていた新しい歴史教科書をつくる会元会長の田中英道氏が、『高天原は関東にあった』とか『京都はユダヤ人秦氏がつくった』といった類の本を出すようになったことに良く似ていますね。

 そのうえ、木村氏は、国際日本文化研究センターを創った頃の梅原猛を(氏が新聞記者だった頃に?)厳しく批判していたものの、次第に評価が変わったそうで、『隠された十字架』がこれまでの分析的な研究を批判し、総合的な考察をすべきだと説いていることを高く評価します。やはり、梅原の影響もあったか……。

 しかし、総合的な考察をするのだと称して実証的な研究を無視し、直感優先でロマンを追った梅原説がどれほど悲惨な結末に至ったかは、このブログで指摘した通りです(こちらと、こちらと、こちら)。

 いや、困りました。明らかに「古代史小説」とか「古代史エンターテインメント読み物」として出される本なら、それでもかまいませんが、国書刊行会が出す本がこんな内容で良いのか。残念ですね。 

【付記】
「憲法十七条」の第一条の冒頭では、「無忤(さかふること無し)」という姿勢を強調していますが、三論宗の居士であって周囲と激しく対立し、最後は皇帝にまで逆らって怒らせ、獄中で殺された陳朝の傅縡(530年代~580年代)は、成実師たちに対する激しい論難を批判され、「無諍(争わない)」という態度を守るべきだと忠告されると、『明道論』を書いて反論し、異説がとびかう都会では「俗に忤」って真実の教えを広めるべきであって、「無諍」というのは山の中で修行している仲間うちでのみ通用する話だと言い放っています。
 吉蔵に関する記述についても、少し補足しました。
【付記:2021年2月23日】
 三論宗は「破邪顕正」を特徴としており、日本の三論宗も批判的でした。智光は法相宗の行基を非難したため地獄に落ちたと伝えられていることが示すように、奈良朝半ばから平安初期にかけては三論宗は法相宗を激しく攻撃しており、天皇が命じても両宗の争いがやまなかったほどです。その三論宗に属する道慈が「憲法十七条」第一条で「無忤を宗となせ」などと説くか……。
【付記:2021年3月1日】
 上記の付記の末尾でそのように書いたのは、20年前の拙論「「憲法十七条」が想定している争乱」(こちら)で指摘したように、「無忤」というのは、三論宗から攻撃された『成実論』尊重派の僧尼が尊重していた徳目だからです。