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聖徳太子・山背大兄王と周辺の近親結婚:荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』

2021年05月28日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子周辺の近親結婚については、このブログでも記事を書いたつもりになっていましたが、検索したら見当たりませんでした。拙著を刊行した翌年に学内の講演会で話しただけのようです(こちら)。

 そこでは、太子の前後の時代は皇族の近親結婚が多いことに触れ、山本一也氏の論文、「日本古代の近親婚と皇位継承ー異母兄弟婚を素材としてー(下)」(『古代文化』53巻9号、2001年9月)を紹介しておきました。

 山本氏は、直系相続がまだ確立しておらず、皇位継承制度が未成熟であった時期において、皇子の異母兄弟婚が目立つとし、天皇の娘と結婚していることが天皇候補者となるための一つの重要な要素だった面もあるとします。

 そして、『日本書紀』で「大兄」と呼ばれている人々のうち、天皇の皇子でない唯一の存在でありながら天皇になりたがっていた山背大兄王が、腹違いの妹、つまり聖徳太子の娘と結婚していたことは、皇子・皇女でない異母兄弟婚の唯一の例として注目すべきことであり、これは「厩戸皇子の政治的立ち場の問題に関わるものかもしれない」(15頁右)と述べています。つまり、厩戸皇子が天皇に準ずる存在とされていた可能性を示す、ということですね。

 私がこの講演をおこなったのは、2017年だったのですから、近親婚について触れるなら、山本氏の論文の後に出た本にも触れるべきでした。それは、

荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』
(吉川弘文館、2013年)

です。

 古代における皇太子の研究で知られる荒木氏は、異母兄弟姉妹婚に加え、山本氏が考慮すべきだと説いていた皇族の「オバーオイ」「オジーメイ」婚についても検討し、そうした皇族女性は独自の家産を持っていたことを推測しています。氏が検討したのは、以下の例です。

 異母兄弟姉妹婚の例
敏達天皇 = 推古天皇
用明天皇 = 穴穂部間人皇女
山背大兄 = 舂米女王

 「オバーオイ」婚の例は、
蘇我石寸名 = 用明天皇
穴穂部間人皇女(厩戸母) = 田目皇子(用明天皇の長子)
田眼皇女(敏達・推古天皇の皇女) = 舒明天皇
佐富女王(間人皇女・田目皇子の子) = 長谷皇子(厩戸の子)

 「オジーメイ」婚の例は、
厩戸皇子 = 橘大郎女(推古天皇の孫娘)
舒明天皇 = 宝皇女(皇極天皇)
孝徳天皇 = 間人皇女(厩戸の母とは別人)

いかがでしょう。天皇の皇子でなく、敏達天皇の孫であった田村皇子(舒明天皇)は敏達天皇と推古天皇の間に生まれた田眼皇女と結婚してますが、田眼皇女は田村皇子よりかなりの年上なのですから、天皇候補としての資格を得るための政略結婚のように見えますね。

 敏達天皇・推古天皇の皇女である菟道貝蛸皇女と結婚していた厩戸皇子が、晩年になって叔母にあたる推古天皇の孫娘であってかなり年下の橘大郎女と結婚したのは、菟道貝蛸皇女が亡くなっていたためとする説もあります。

 後に舒明天皇が天皇の皇女や孫娘でなく、敏達天皇の孫の娘である宝皇女を后としたのは、田眼皇女が亡くなっていて、少しでも皇族の血を引く女性と結婚しておく必要があったためかもしれません。

 さて、荒木氏は、当時は大王宮の近くに「キサキノミヤ」もあって個別の財産を背景としていたとし、『日本書紀』における山背大兄一家の滅亡も、そうした文脈で眺めます。つまり、蘇我蝦夷が自分自身と息子の入鹿のために壮大な寿墓を建設した際、上宮の乳部(みぶ=壬生)の民を動員したため、君でもないのに国政を我がものとしていると「上宮大娘姫王」が怒り、これが蘇我氏に滅ぼされるきっかけだったという記事に着目するのです。

 そして、厩戸皇子の後継者である山背大兄王ではなく、山背大兄王と異母兄弟結婚をしていた舂米女王と思われる「上宮大娘郎女」が怒ったことから見て、この「上宮大娘郎女」が上宮の乳部の民を駆使する権利を持っていたのであって、厩戸皇子の後継者である山背大兄とともに斑鳩宮に住んでいたとしても、独自の家産を有する宮を営んでいたと推測します。

 荒木氏は、皇位を争った山背大兄と田村皇子(舒明天皇)のうち、田村皇子は蘇我蝦夷の娘と婚姻関係にありつつ皇族と「オジーメイ」婚をしていることに注意しています。この二重の条件が天皇後継者として有利に働いたのであって、蝦夷の娘をめとっていない山背大兄は不利になったのでしょう。

 ただ、厩戸皇子が天皇に準ずる存在とされていたなら、山背大兄がその厩戸皇子の娘(自分とは腹違いの妹)と結婚していることは、後継候補としての資格を補強するものとなりえます。蝦夷が独断で娘婿である田村皇子を天皇としたというのは、山背大兄がなって当然とする群臣が多かったことを示しています。

 ここは『日本書紀』としては、書くのが難しいところですね。『日本書紀』編纂当時の天皇たちの父方である天智天皇も天武天皇も舒明天皇の子であるのに、その舒明天皇を即位させてくれた蘇我蝦夷を、皇室を軽んじる悪人に仕立てなければいけないので。

 『日本書紀』については、山背大兄王の即位失敗と滅亡事件、大化の改新、壬申の乱が、虚構を含む舞文曲筆をもたらした要因であり、厩戸皇子関連の記事もその流れの中で見ていく必要がありそうです。厩戸皇子関連記事については、『日本書紀』編集以前に既に伝記本があってそれを利用したのだという坂本太郎説に賛成ですが。

【追記:2021年5月29日】
最後の段落を追記しました。
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