聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に関する新発見!

2010年10月31日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 聖徳太子については、基本文献すら完全には理解できていないのが実状です。私が、出典に注意しつつ基本文献をきちんと読むことから始めなければならないと、これまで何度も強調してきたのは、そのためです。昨日、東大寺の現代仏教講演会で行なった講演、「<聖徳太子架空人物説>の誕生と崩壊--光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説を正す--」でも、そのことに触れ、そうした例の一つとして釈迦三尊像光背銘をとりあげました。

 つまり、太子の母后が亡くなってすぐ太子と干食王后(膳妃)が重病となったことについて「王后王子」と臣下たちが「深く愁毒を懐」き、太子の背丈と同じ大きさの釈尊像を作りますと誓願したとあるうち、その「愁毒を懐く(愁苦の思いをいだく)」という表現は、『仏本行集経』のような仏伝関連経典に見えており、また「安住世間」という語は主に仏について言う表現であることなどは、これまで注意されていないと述べたのです。

 ところが、帰りの新幹線の中で、この箇所を読み直し、また用例を検索し直していたら、とんでもない見落としをしていたことに気づきました。「懐愁毒」については、そのものずばりの用例があったのです。(講演を聞いてくださった皆さん、申し訳ありません……)

 それは、釈尊が、天に昇って亡き母のために九十日、説法をしていた間、弟子たちは歎いて釈尊を捜し求め、優填王は釈尊を恋慕するあまり、牛頭栴檀(香木)で釈尊そっくりの像を作って礼拝供養したという話です。この話は、仏像の起源譚として様々な仏典に見えており、有名なものですが、インド由来の諸文献に基づいて中国で編集されたと推定され、六朝末から唐にかけて広く読まれた『大方便仏報恩経』では、こう書かれています。

優填大王、如来を恋慕し、心に「愁毒を懐き」、即ち牛頭旃檀を以て、如来の有する所の色身を{てへん+票}像し、礼事し供養すること、仏の在(いま)す時と異なり有ること無きなり。
(優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也)、大正蔵3巻136b。

 釈迦三尊像光背銘を書いた人が、この話を意識して書いたことは疑いありません。銘文では、「尺寸王身(上宮王の身、つまり太子と同じ背丈)」の釈迦像を作る功徳によって、「転病延寿し、世間に安住」されるよう願い、定業であるなら、「浄土に往登し、早く妙果に昇る」よう願ってますが、実際には助からないことが確定した段階で臨終儀礼の一つとして誓願を行なうこともよくあったようです。

 この銘文は太子が亡くなってから書かれているのですから、「母后が亡くなってすぐ、太子が後を追うように亡くなったのは、釈尊と同様、亡き母に説法するため天に行かれたのだ」と受け止め、不在の釈尊を恋慕する優填王が釈尊そっくりの像を作ってお仕えしたように、残された我々も太子の生前の姿そのままの像を作るのだ、という面も意識しつつ、生前の誓願として描いたと見るべきでしょう。

 釈迦三尊光背銘が太子を釈迦扱いしているかどうかは、これまで論争の的になってきましたが、これで確定しましたね。しかも、この出典には、亡き母も登場していますので、場面もぴったりです。

 こうなると、「天寿国繍帳」もこの図式を考慮すべきかもしれません。釈尊が天におもむいて亡き母に説法する図は、「孝」を尊ぶ中国では好んで描かれています。また、「天寿国繍帳」とともに古代日本の繍仏の双璧とされる勧修寺の繍仏(法隆寺金堂壁画の仏と似ていることで有名)について、肥田路美さんの「勧修寺繍仏再考」(『仏教芸術』212号、1994年1月)は、技術の高さなどから見て中国製と推定したうえで、これまで言われてきた釈迦霊鷲山説法図ではなく、初唐に流行した弥勒仏ないし優填王像(優填王の逸話が示す釈迦像)としており、こう書かれています

『全唐文』には、唐の繍仏の賛が十七篇収録されており、そのほとんどが亡者追善のために、女性が発願したものである。(74頁上)

【追記 2010年11月28日】
上に書いたように、「天寿国繍帳」の銘文も調べ直したら、案の定、優填王の説話を踏まえて書かれていましたので、次の回の記事で指摘しておきました。

太子・馬子による『帝記』『国記』等の編集は史実か: 笹川尚紀「推古朝の修史に関する基礎的考察」

2010年10月27日 | 論文・研究書紹介
 推古二十八年条の「是の歳、皇太子・嶋大臣共に議して、天皇記及び国記、臣連伴造百八十部并公民等の本記を録す」という記事については、諸説がありながら研究は進んでいません。また、「臣連」以下の部分は本文なのか、注のまぎれこみなのかという問題も残っています。

笹川尚紀「推古朝の修史に関する基礎的考察」
(栄原永遠男・西山良平・吉川真司編『律令国家史論集』、塙書房、2010年2月)

は、修史がなされた可能性を認めたうえで、様々な面から検討を加えたものです。

 氏は学説史の整理から始めます。まず、津田左右吉は「公民」の語を疑いつつ、帝記や旧辞の修訂が推古朝になされた可能性を示唆しました。次に坂本太郎は、国記は建国の由来、国政の発展、諸国との交渉などを記したものとし、「臣連」以下の部分は貴族から庶民に至る系譜の如きものだが完成には至らなかったと推測します。その他、「臣連」以下の部分は本来は注記であったとする榎木英一氏など氏の説が紹介されたのち、取り上げられているのが、「西琳寺縁起」です。

 「西琳寺縁起」が引く天平十五年の日記によれば、大山上・文首阿志高が親族をひきいて欽明天皇のために己卯年に西琳寺と阿弥陀仏像を造立したとありますが、大山上は大化五年(六四九)から天武十四年(六八五)まで用いられた位であり、また西琳寺の主要な堂は斉明五年(六五九)以前に整備されているため、大山上は生涯最高の冠位を記したものとすれば、己卯年は「西琳寺縁起」が記している欽明二十年(五五九)ではなく、推古二十七年(六一九)と見るのが妥当だと、氏は説きます。欽明の子である推古天皇の二十八年には、欽明陵の大がかりな改修がなされて砂礫が葺かれ、域外に盛り上げた土の山のうえに諸氏族がそれぞれ大きな柱を競い立てているため、それと関連すると見るのです。

 氏は、推古二十八年にこうした工事と儀礼がなされたのは、沒後五十年の式年祭に関連すると見る和田萃氏の説にしたがい、推古朝の修史もその行事と関係があるものと推測します。また、白雉五年(六五四)に、高向玄理を押使とする遣唐使は、「日本国の地理、及び国初めの神名」などを問われ、すべて答えていますが、推古朝にしばしば送られた遣隋使の場合も、こうした問いに答える準備をする必要があったろうと説いています。

 その他、氏は、いろいろな面から検討を加えたうえで、推古朝に氏族の系譜や王権への奉仕の由来を説いた「臣連伴造百八十部并公民等の本記」が作成された可能性を指摘しています。厩戸皇子と蘇我馬子大臣の関与の有無などの問題については今回は論じられていません。

 阿弥陀仏像がこの時期に造立されたというのは、やや早いようにも思われますが、西文氏は初期仏教をリードしていた河内の帰化人系氏族の一つですので、基礎となる堂寺が欽明没後五十年である推古二十七年に創建された可能性はあるでしょうし、欽明を祖とする系譜や欽明への奉仕の歴史を強調する風潮がこの時期に高まった可能性はあるでしょう。

 いずれにせよ、『日本書紀』の個々の記述がどこまで史実を反映したものなのかについて、このように地道に検証されていくのは、大いに歓迎すべきことです。

小墾田宮と一体の制度としての冠位十二階: 北康宏「冠位十二階・小墾田宮・大兄制」

2010年10月23日 | 論文・研究書紹介

 推古紀の記述のうち、制定者については異説があるものの、制度そのものは誰もが史実と認める数少ない例の一つが冠位十二階です。今回は、その冠位十二階について、法隆寺金堂の釈迦三尊銘・薬師如来像銘や天寿国繍帳に関する独自な論文を発表してきた北康宏氏が提示した新説の簡単な紹介です。

北康宏「冠位十二階・小墾田宮・大兄制--大化前代の政権構造--」
(『日本史研究』577号、2010年9月)

 北氏は、十二階の冠位は「四位以下」の階層に与えられたのであって、蘇我馬子大臣などは与える側であったとする通説に反対します。氏は、冠位十二階を基準とする大化の営墓規定では、徳冠は用いられず、王以上・上臣・下臣という枠組みが使われていることに着目し、これは徳冠が他の十階を超越した位置を占めること、すなわち、徳冠は皇子や諸王や大臣などに対しても与えられたことを示すと見るのです。

 そして、小墾田宮での最初の元日朝賀において冠位十二階が施行されたことは、小墾田宮の構造そのものと官位十二階が「一体の政治理念の下に構想されたことを意味する」(41頁)と説きます。つまり、諸資料から見て、朝庭の東西堂とその南の幄に、十階を超えた紫の冠を冠する「王族(皇子・王)」と「大臣・大夫」が東西に対座して坐し、その前に十階の冠を着けた者たちが列立したと思われるのであって、この構図が後の朝堂院東西第一堂の起源となった、というのが氏の推測です。

 氏は、こうしたあり方は、「大臣・大連制」が解体し、「大臣を中心とする豪族集団」と「大兄を中心に結集する王族集団」の均衡によって王権が成り立っていた時期なればこそとします。大兄制が中大兄で終わるのは、六世紀の王権が生み出し、「聖徳太子によって整備された」上記のような政権構造が終わったためだ、というのが全体の結論となっています。
 
 小墾田宮の構造が重要であることは、石田尚豊先生も強調してましたね。



推古朝の権力構造と上宮王家の経済基盤: 仁藤敦史「6,7世紀の宮と支配関係」

2010年10月19日 | 論文・研究書紹介
 上宮王家の宮に関する研究で知られる仁藤敦史氏の最近の関連論文を紹介しておきましょう。

仁藤敦史「6,7世紀の宮と支配関係」
(『考古学研究』55巻2号、2008年9月)

です。

 早い時期の天皇の宮の実態は、よく分からないのに対して、聖徳太子・山背大兄王の居宅を中心とする斑鳩宮については考古学的調査もなされており、資料も多少残っているため、その研究は、律令制以前の土地支配や伝領のあり方を知るうえで非常に重要だというのが、仁藤氏の基本姿勢です。なお、仁藤氏は、聖徳太子については、「厩戸王子」という表記を用いていますので、以下ではそれに従います。

 仁藤氏は、非蘇我氏系の王族による広瀬地区進出に対抗するため、新興の蘇我氏の意向によって上宮王家が斑鳩開発に乗り出し、少なくとも斑鳩宮、岡本宮、中宮、飽波葦垣宮(泊瀬王宮)の四つの宮が存在したこと、これら諸宮が広義の「斑鳩宮」であって、妃ごとに分散居住し、次世代に伝領されていったことを示します。しかも、諸宮がばらばらに活動するのでなく、厩戸王子と山背大兄王を家長とする上宮王家が中心となって、畿内に分布する物部氏の遺領や自家の壬生部集団や屯倉などを運営していたとします。

 上宮王家の王子・王女名には、舂米部・長谷部・丸子部その他の部名や河内・摂津・大和の地名にちなむ者が多く(46頁)、このことは、それらの部を領有していたことを示すものであり、上宮王家が盛んに行なった寺の建立も、こうした動きと関連があるのであって、斑鳩の諸宮の多くが後に寺となったのは、家産の分散を防ぐためだった、というのが氏の見解です。

 推古朝の政治については、大王推古と大臣馬子と王子厩戸の「三極構造」として捉え、推古のもとでの厩戸と馬子による「共同執政」と位置づけます。そして、家臣的氏族については、大王だけでなく、上宮王家や蘇我氏のように有力な王族や豪族に奉仕して地位を確保する「二重身分」であったとします。そうした中小伴造の奉仕先であるツカサ(司、官)は、上宮王家や蘇我氏などにもあって管理されており、大王宮への集中は不十分であったとします。

 つまり、貢納・奉仕に基づく疑制的な同族関係による支配から、官司的な屯倉・部民支配への転換が進みつつあったものの、この時期は過渡期であって不十分であったため、上記のような「分節的支配」となっていたとするのです。

 本論文では、大王と王族・豪族のみが人格的に結びついていて、大王が代わるごとに遷宮が行われた従来の形が、上記のような過渡的な支配形態を経て、遷宮を前提としつつも官司や交易の機能が集中した律令的な都城に移行するようになっていったことなどについて、論じられています。

 ここで明らかにされている上宮王家の新しい支配形態とその規模は、上宮王家が蘇我本宗家につぐ勢力を持ち、蘇我本宗家と密接な関係を保ちつつ次の時代への変化をリードしていったことを示すものです。

「天寿国繍帳」は浄土図より墓の壁画に近い?: Chari Pradel, The Tenjukoku Shucho Mandara

2010年10月15日 | 論文・研究書紹介
 チリ鉱山の落盤事故での救出成功は、誠にめでたいことでした。ニュースで、救出用の穴の上に設置された大きな滑車を見て、『日本霊異記』下巻十三縁の落盤事故の説話を思い出しました。

 こちらは『法華経』と観音の霊験記ですが、ある男が鉄鉱石の鉱山で落盤事故にあって穴に閉じ込められ、七日たったので国司なども死んだものと諦めます。しかし、妻子が観音を供養して祈り、男も助かったら書写の誓願を立てながら終わっていない『法華経』の書写を完成させますと誓うと、しばらくして、まず指の太さくらいの細い穴があきます。そして、(不思議なことに、観音である)一人の沙弥がその細い隙間から入ってきて食べ物を届けてくれ、その後で、穴が二尺ほどまで太くなりました。山に来た人たちがかすかな声に気づいて縄を穴に下ろしたところ、反応があったため、人がいることを確認します。そこで、人々が籠を縄でつないで穴の底に下ろし、男を滑車で引き上げて、親の家に送り届けたところ、男は一族と再会して皆は大喜びします。大統領も、失礼、国司も感動しその男を援助することとし、皆に呼びかけ『法華経』書写を完成させて供養をおこなった、というのですから、観音をマリア様に変えるなど、少しだけ手を加えれば、この話はチリでもほとんどそのままいけますね。

 それはともかく、「天寿国繍帳」の「天寿国」については、兜率浄土だとか、極楽浄土だとか、漠然とした天の国を意味するとか、諸説が入り乱れていて決着がついていませんが、視点を変え、朝鮮や中国の墓に描かれた壁画との共通性を強調したのが、若手の女性美術史研究者、Chari Pradel氏のこの論文です。

 Chari Pradel. "The Tenjukoku Shucho Mandara: Reconstruction of the Iconography and Ritual Context." In Images in Asian Religion edited by Phyllis Granoff and Koichi Shinohara, UBS Press, Vancouver, 2004.

 直訳すれば、「天寿国繍帳曼荼羅--図像と儀礼の背景の復元--」ということになりましょうか。要するに、「天寿国繍帳」の欠けている部分を推測し、またこうした図の背景となっている儀礼がどんなものであったかを、様々な資料から推測してみるという試みです。

 Pradel氏は、橘大女郎は太子の「往生の状[さま]」が見たいというのは、死後の生活ぶりを見たいということであることに着目し、朝鮮や中国の墓の壁に描かれた理想的な死後の世界の絵との比較を行います。その結果、東アジアにおいては、カーテン(繍帳)は葬儀と関係が深く、その繍帳という要素も含め、「天寿国繍帳」に描かれているのは、6世紀の高句麗や中国南朝の墓の壁画に描かれた要素とかなり共通するとしています。つまり、経典における浄土の記述だけでは説明がつかないとするのです。

 中国においては、浄土思想は6世紀には神仙思想やその他の中国の伝統的な死後世界観とかなり習合していたのですから、Pradel氏の議論は、浄土思想の面をやや軽く見過ぎている点があるように思われますが、「天寿国繍帳」が早い時代の朝鮮や中国南朝の墓の壁画と共通する面が多いというのは重要な指摘ですね。極楽浄土に間違いないとか、弥勒浄土に決まっているなどと、すっきり決めるのは、あの時代については無理でしょう。中国の伝統的な死後の世界という点では、金堂釈迦三尊像銘は願による像銘というより、墓誌の形式に似た面があるとする新川登亀男さんの指摘とも重なってくるかもしれません。

 「天寿国繍帳」は後世の偽作という説については、Pradel氏は注で触れており、そうした主張があることも承知してはいますが、素材から見て6世紀の高句麗の墓の壁画などに最も近いとするため、伝承通りの作として扱っています。

聖徳太子奉讃会の歴史 : 増山太郎編著『聖徳太子奉讃会史』

2010年10月11日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子一千三百年遠忌事業をきっかけとして生まれ、聖徳太子顕彰運動の中心となり、法隆寺の支援と聖徳太子や法隆寺に関する学問的研究の支援をおこなってきたものの、平成10年に解散するに至った聖徳太子奉讃会の歴史が本になりました。

増山太郎編著『聖徳太子奉讃会史』
(永青文庫、2010年10月、非買品)

 増山氏は、電通を定年退職された後、奉讃会の理事兼主事として活躍し、現在は、奉讃会会長をつとめていた時期の細川護立侯爵が創設した永青文庫の常務理事をされています。

 同書によって歴史をふりかえると、明治3年(1870)の太子一千二百五十年遠忌法要は、衰退して堂塔も傷みが目立ち、法要のための法具も不十分であった法隆寺においては、僅かな関係者のみで、ひっそりと営まれました。儒者や国学者による太子批判はかなり強く、その余波は大正初期にまで及んでいました。学僧として知られる法隆寺の佐伯定胤貫主は、そうした状況を歎き、一千三百年遠忌を国民全体が太子を讃仰する機会にしたいと願い、周囲に働きかけます。

 大正元年(1912)に、岡倉天心や東大国史の黒板勝美助教授や仏教系ジャーナリストの高嶋米峰らが法隆寺会設立準備会を開催。翌年、東大印哲の高楠潤次郎などが加わって法隆寺会が結成されます。

 まずは募金ということで、初めに財界の大御所である渋沢栄一のところへ東京美術学校校長の正木直彦、黒板、高嶋が趣き、協力を頼んだところ、水戸学を学んだ渋沢は、崇峻天皇を殺した蘇我馬子を重用するような大義名分を乱した人物などのためには働けないと、にべもなく断ったそうです。正木らが、太子は日本文化の恩人であって、中国外交において活躍したことなどを1時間ほど説いた結果、渋沢は一転して協力を約束し、自分は副会長を引き受けるから別に立派な会長を推薦しようということになり、以後、運動の熱心な賛同者として力を発揮しています。

 その結果、大正7年(1918)に、久邇宮邦彦親王を総裁、徳川頼倫侯爵を会長、渋沢栄一男爵を副会長として、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会が創設されました。募金の目標は45万円でした。

 大正9年(1920)には、遠忌記念の美術展覧会を上野公園竹之台陳列館にて開催。聖徳太子記念研究基金として、内帑金(天皇の個人財産)から4万円を下賜され、翌年、叡福寺における遠忌大会を奉賛し、また法隆寺での聖霊大会を奉賛します。
 
 大正13年(1924)に、運動の存続を願う久邇宮総裁の強い意志により、徳川頼倫侯爵を会長、渋沢栄一子爵を副会長として、財団法人聖徳太子奉讃会が発足すると、太子顕彰運動を行うとともに、廃仏毀釈によって痛手を受けていた法隆寺を支援し、また太子関連研究の支援を行なうようになっていきます。

 敗戦を迎えると、満鉄などの株券・債権を主としていた基本財産が烏有に帰したため、活動停止となりました。しかし、苦しい財政状況の中で、昭和26年に法隆寺との共催で法隆寺夏期大学を実施したところ、非常に人気となり、長く続きました。坂本太郎理事などは「夏期大学の講義中に死ねたら幸いである」とよく口にしていたほどであるうえ、花山信勝理事も、歩行が不自由になった晩年ですら夏期大学には必ず出席するほど、理事たちは力を入れていた由。

 昭和33年には、逆に法隆寺から資金支援を受けて給費研究生制度を復活しますが、会を支えてきた理事たちが次々に高齢で亡くなっていき、財政もいよいよ厳しくなったため、ついに平成10年に奉讃会は解散し、資料と残余財産を公益財団法人永青文庫に委譲するに至りました。

 奉讃会は、設立当初は資金豊富であったため、乙項研究給費生には当時の大卒初任給程度(現在の数倍相当?)の研究費が支給されたそうで、第1回の大正15年には花山信勝、第2回の昭和2年には坂本太郎が含まれています。花山の「法華義疏の研究」と坂本の「大化の改新を中心としたる史的研究」は、いずれも研究成果報告論文が学位論文の基盤となっています。そして、昭和3年の給費生は足立康と三品彰英、昭和4年は横超慧日と大岡実です。錚々たる顔ぶれですね。

 甲項の研究調査委嘱については、昭和2年の石田茂作、昭和18年の家永三郎、昭和19年の井上光貞などがいます。こちらも大物揃いです。上記のうち、花山、坂本、大岡、石田の四氏は、後に奉讃会理事となっています。

 戦後、中断していた研究給費生は、戦前とは逆に法隆寺からの資金援助を得て昭和33年(1958)に再開されますが、その最初の研究給費生二名のうちの一人は、飯田瑞穂でした。太子伝研究に努め、天寿国繍帳銘研究の基礎を築いた着実無比な文献学者ですね。

 ところが、以後の研究給費生には、花山・坂本・大岡などの諸氏のように、聖徳太子を熱烈に信奉して太子や法隆寺の研究を熱心に進め、太子顕彰に努めた人は見あたりません。研究題目にしても、太子や法隆寺そのものを扱う人は稀であり、研究給費生制度は、仏教学、古代史学、建築史、美術史などの研究者に対する奨学金制度に近いものになっていったようです。

 財政がきわめて厳しかったうえ、研究支援もこうした状況になったとなれば、解散するに至ったのも無理はありませんが、奉讃会が太子研究の上で大きな役割を果たしたことは確かであり、その歴史をまとめた本書は、大正以後の聖徳太子の顕彰史・研究史に関する貴重な資料となっています。

 なお、本書の奥付には「製作=吉川弘文館 印刷=平文社」とありました。これは偶然の一致でしょうが、大山誠一『<聖徳太子>の誕生』の出版社・印刷社と同じ組み合わせですね。

法家思想の役割を重視した「憲法十七条」論文: 「「憲法十七条」が想定している争乱」

2010年10月08日 | 論文・研究書紹介
 前回、法家思想を重視する宮地氏の「憲法十七条」論文を紹介しましたので、同様に法家思想の役割を強調した拙論をあげておきます。「聖徳太子研究の最前線」と名乗っておりながら、大昔の論文で申し訳ありませんが、

石井公成「「憲法十七条」が想定している争乱」
(『印度学仏教学研究』41巻1号、1992年12月)

です。当ブログのブックマーク、つまり、「作者の関連論文」コーナーのところにもリンクを貼っておきました。

 『印度学仏教学研究』(略称は、「印仏研」)は、仏教学に関する最大の学会である日本印度学仏教学会の機関誌ですので、これを見れば仏教学界のおおよその研究動向がわかります。

  CiNii では、PDF で読める「印仏研」の論文は、2002年以降の論文に限られていましたが、先だって Journal@rchive で、1952年の創刊号から2006年度の論文までが PDFとして公開されましたので、CiNiiで検索してこちらで読むことが可能となっています。便利な時代になりましたね。

 拙論は、「憲法十七条」についてあれこれ論じる前に、まず典拠を徹底して捜そう、そして『日本書紀』が「憲法十七条」を重視しているのは明らかである以上、「憲法十七条」と『日本書紀』の他の記述との関係を明らかにしよう、という方針で書いたものです。

 「無忤」の典拠、雑家に分類される『呂氏春秋』と類似する要素があること、仏教・儒教・『荘子』の思想などが混在しているものの、それらすべてが法家的な立場に結びつけられて用いられていること、類書(文献の用例を並べた中国流百科事典)の「聖」の項目を利用して書かれたらしいこと、「憲法十七条」が想定している「聖」なる臣は蘇我馬子らしいこと、などを論じています。

 18年も前の不備な試みですが、新たな視点をいろいろ提示し得たものと考えています。そのうち、『孝経』の影響以外の面についても、補足篇を書く予定です。

法家思想に基づき「公法」を提示した「憲法十七条」 : 宮地明子「日本古代国家論」

2010年10月05日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」の受容ではなく、本体に関する論文を見てみましょう。大山誠一説によれば、『日本書紀』の聖徳太子関連記述のうち、儒教関係記事は、外典を博士の覚に学んだという記事を除けば、「憲法十七条」だけということになっていますが、「憲法十七条」には法家の思想も見られることは早くからの通説です。瀧川政次郎に至っては、法家の思想こそが根本となっているとまで論じていました。

 それほど重要な法家思想の要素について大山氏がまったく触れないのは、『日本書紀』の聖徳太子像は、律令を編纂した儒教主義の不比等と、道教好きの長屋王と、僧侶の道慈が作り上げたものであり、「憲法十七条」は不比等の基本構想をもとにして、僧侶の道慈が仏教に関する箇所を加えて書いたという役割分担説では説明しきれない、という点も一因となっているように思われます。

 一方、瀧川説を受け継ぎ、「十七条憲法を貫く最も重要な論理は、法家の思想に基づくものであるといえる」(178頁)と断言したのが、

宮地明子「日本古代国家論--礼と法の日中比較--」
(館野和己・小路田泰直編『古代日本の構造と原理』、青木書店、2008年)

です。

 この数年、「公法」としての「憲法十七条」という観点で一連の論文を発表している宮地氏は、この論文では、日本は礼を柱とする中国のあり方を受け容れず、中国の礼制の秩序に組み込まれない道を選択し、法だけを手本としたことを強調します。そうした姿勢の典型である「憲法十七条」については、真作・偽作の問題は扱わず、『日本書紀』において「憲法十七条」が果たしている役割だけを扱うと明言しています。これはこれで一つの方法でしょう。

 その際、氏が注意するのは、『古事記』では「公私」という意味での「公」の語は「公民」という一例のみ、「私」も「是れ天神の御子なり、私に産むべからず」という一例しかないことです。『日本書紀』にしても、そうした「公」の用例は限られた巻に集中しており、推古朝に6例(うち5例は憲法)、大化の改新に3例、天武朝に7例見えるだけであって、きわめて偏っていると、氏は指摘します。この指摘は重要ですね。

 氏はまた、『日本書紀』には律令の記事が少ないのに対して、「憲法」は全文が掲載されていることから見て、「『日本書紀』の核とする法思想は、十七条憲法であることが想定される」(174頁)と説きます。「篤く三宝を敬え」にしても、法として規定されているところに意義があるというのが、氏の考えです。

 「憲法」では「和」が強調されているものの、儒教が重視する「礼」と「和」の関係が示されていないうえ、「党」を作るなというのは法家の主張であり、第一条と密接に結びついているのは第十五条であって、ここに見られるのは「公私」の別を強調する法家思想であるとするのです。

 氏は、このような日本のあり方を、唐礼を受け入れて中国を中心とする礼に基づく華夷秩序のうちに入った新羅・渤海・吐蕃と比較し、吉備真備による唐礼の導入が唐側の史料に見えないのは、法を基本とする日本の体制を維持する方針のもとで行われたためと思われると述べています。

 宮地氏の主張の個々の部分については異論もあるでしょうが、「憲法十七条」では法家思想がきわめて重要な役割を果たしているのは事実です。儒教と仏教だけに着目して法家思想に触れない大山説は、自らの図式を優先し、「憲法十七条」の本文そのものにきちんと向かい合おうとしないものと言うほかありません。

明治初年の「憲法十七条」刊行は偽書の『五憲法』ばかり

2010年10月02日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 以前の記事で、「憲法十七条」が特に尊重されるようになったのは明治以後、そして第一条の「和」こそが太子の思想の中心であって日本文化の伝統であったことが強調されるようになったのは昭和になってから、と書きました。

 その証拠として、近世における「憲法十七条」の注釈の作成と刊行の少なさをあげましたが、明治になると、「憲法十七条」は次々に刊行されます。ただし、その実態は、小倉豊文が次のように歎いている通りでした。

 古板・古註の明治以後の覆刻は、残念ながら偽書五憲法が先であり、回数も多く、種類も多い。だから従つてその流布も相当に広く、影響も少なからぬものがあつたであらう。
(斑鳩迂人[=小倉豊文]「太子学入門(六): 現代の主要文献(六)」、『太子鑚仰』新七号、1944年11月、20頁)

 つまり、明治になると「憲法十七条」が重視されるようになり、古い版の復刻が盛んになったものの、刊行の順序が先で種類も多かったのは、『日本書紀』に掲載されている通常の「憲法十七条」の「篤敬三宝」に代えて儒教・仏教・神道の「三法を篤く敬へ」と説いた「通蒙憲法」や、「神職憲法」などから成る江戸時代の偽書、「聖徳太子五憲法」だったのです。

 最初に刊行されたのは、明治元年の序文を持つ神阿編『復神武帝 敕五憲法』です。勤王僧であった浄土宗の神阿が、天明8年(1788)の版を復刻し、「五箇条御誓文」その他を付して、仏教書を専門とする京都の店から刊行したものです。

 明治6年に教部省が「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」という方針を「三条教則」として打ち出すと、神阿は上の版の表紙見返しに「三条教則」を印刷した形のものを刊行しており、以後も、少し変えた版を次々に刊行しています。

 つまり、神道重視の時代、将軍でなく天皇が統治する時代となったため、「神職憲法」を含み、儒教・仏教・神道の融和を説く禁書の「五憲法」が尊重されるようになったのです。特に、廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界は、「太子は神道を軽視していたのではない」と弁解する材料として歓迎したようです。

 これに対し、通常の「憲法十七条」の注釈が刊行されるのは、小倉によれば、明治16年の小嶋郡松編『集註 憲法十七条』、明治22年の広瀬進一述『十七憲法和解』などからです。

 また、当然のことながら、昭和十年代に天皇絶対主義、神道絶対主義が激化し、聖徳太子奉賛運動がよりいっそう盛んになると、「五憲法」を持ち上げる人たちが増えています。特に、イギリス政治学を専門とする京都帝大法学部教授の池田栄など、古典文献学の訓練を受けていない他分野の国家主義者たちは、「五憲法」は偽作ではないと主張して、これを弘めようとしました。

 その「五憲法」を重視した人たちが思い描く太子のイメージは、神道の面が強く、『日本書紀』が記している太子像や、親鸞が強調した「和国の教主」などとは、かなり異なっていたのです。