聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

最近の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子論であって「和」の特質を強調:頼住光子「仏教伝来と聖徳太子」

2024年04月27日 | 論文・研究書紹介

 2018年に放送大学のテキストとして末木文美士・頼住光子共編でNHK出版から刊行された『日本仏教を捉え直す』が、修正・加筆のうえ、末木文美士編著『日本仏教再入門』となって講談社文庫から10日ほど前に刊行されました。最近の研究成果を踏まえた充実した内容になっています。

 末木さんが「はじめに」「序説」と日本仏教の特質に関する諸章、頼住さんが人物を中心として古代から中世までの諸章、大谷栄一さんが近代仏教の形成・グローバル化・社会活動などの諸章を担当し、最後の第十五章「日本仏教の可能性 まとめ」は、頼住「仏教思想の観点から」、大谷「近代仏教の観点から」、末木「仏教土着の観点から」という形で三人がそれぞれの立場で語っています。従来の日本仏教史の本とは異なる視点での記述が目立ち、有益です(献本してくださった三人の著者の皆さん、有難うございます)。

 ここは聖徳太子ブログですので、この本のうち、

頼住光子「第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想Ⅰ」

をとりあげます。頼住さんは、日本倫理思想史を専門とする東大の教授でしたが、道元の研究で知られているためか、私が3年前に定年退職した曹洞宗系の駒澤大学仏教学部にこの4月から移られたため、私とはすれ違いになってます。

 この第三章では頼住さんは、人間は「超越的なるもの」を見いだすことによって、「この私」を成立させ、また「この私」の延長上にある共同体を成立させたというところから話を始めます。これは、日本人にその「超越的なるもの」を教えたのは仏教だからです。

 むろん、日本には日本なの信仰があったものの、それを意識して言葉で表現することを可能にさせたのは仏教でした。神道は、土着のカミ信仰が仏教の刺激によって自覚され、形成されていったのです。

 また逆に、日本の伝統的など土壌が仏教の受容に影響を与えますし、仏教や儒教のような外来の思想同士がある時には融合し、ある時には反発しあいながら日本風な仏教や儒教が形成されていったのだと頼住さんは説きます。
 
 日本には儒教と中国化された仏教が入ってきますが、儒教と仏教の関係について、頼住さんは3つの類型をあげます。(1)対立、(2)融和、(3)包摂、です。これは、宗教的多元論に関する議論で用いられる分類ですね。「包摂」というのは、どちらかが上となって相手を取り込む関係です。
 
 そして、頼住さんは、儒教は日本においては支配層からは、統治のための教え・道徳として摩擦なく抵抗なく受容されたとします。ただ、日本は儒教を受容したものの、天皇による神々の祭祀と衝突するため、「祭天」の儀礼は取り入れなかったことに注意します。

 これは重要な指摘ですね。唐王朝は北方遊牧民族出身ながら老子を祖先と称して祀っていたためめか、日本は遣唐使を送って盛んにあれこれ学んでおりながら、老子に基づくとされる道教の導入は拒否したこととも関わるのでしょう。

 一方、仏教については、受容に際して神々の祭祀と関わるとされ、紆余曲折があったことは良く知られていますが、受容されて王権守護、祖先祭祀などの面で共同体と結びつけられてからは、日本文化の最深部にまで浸透していったとします。これは、仏教教理の専門家などはあまり注意しない視点です。

 頼住さんは、そうした状況で登場したのが聖徳太子の「十七条憲法」であったと説きます。

 なお、私の方で補足しておくと、「十七条憲法」という呼び方には注意が必要です。『日本書紀』では「憲法十七条」とありましたし、古い注釈では「十七条憲章」とか「十七条之憲法」などと称していました。やや遅れる『聖徳太子平氏伝雑勘文』では「十七条憲法」と呼んでいますが、そういう呼び方が広く用いられるようになったのは、明治になって「大日本帝国憲法」が制定され、その先蹤という意味で用いられることが増えてからのことです。

 ともあれ、著者が用いているのでここではその呼び方を用いますが、「十七条憲法」の作者とされる聖徳太子については、その実在性も含めて議論が盛んであるものの、後に聖徳太子と呼ばれる人物が推古朝に蘇我氏の協力のもとで国政にたずさわったことは確かとされている、と頼住さんは述べます。

 さらに、国語学・歴史学の側からも『日本書紀』掲載の「十七条憲法」、少なくともその原型は推古朝にさかのぼる可能性が指摘されているとします。これが最近の学界の動向ですね。

 そして、「十七条憲法」は、地方官たちに対する倫理規定である北周の「六条詔書」など、北朝の官僚に対する倫理規定と類似しており、その影響下で作成されたと言われていると述べたうえで、「和」を冒頭にかかげるのは「十七条憲法」の特徴であることに注意します。
 
 ついで、第一条が強調する「和」に関して儒教由来・仏教由来とする議論を紹介したうえで、儒教であれば「和」と結びつくはずの「礼」がここで説かれていないことを指摘します。

 また、仏教では僧伽(僧団)の平等な和合を重視し、また様々なことを共に行うべきだとする「六和敬」を説いていることに注目し、「十七条憲法」が想定する官人集団も「共にこれ凡夫」と言われている点などから見て、仏教の「和」と似た性格を持つとします。

 となると、「憲法十七条」は全体として仏教色が強いものいうことになります。こうした理解を強調したのは、日本思想史の村岡典嗣であって、その考察が優れていることは、このブログでも指摘しました(こちら)。

 ただ「六和敬」については、隋の三大法師とも称される慧遠や吉蔵などもしばしば触れていますが、具体的なあり方に関する議論はほとんどなく、また三経義疏では六和敬について説明していないことが気になります。

 また、頼住さんが重視する「憲法十七条」の「共にこれ凡夫」の「凡夫」は、仏教の「凡夫」ではなく、儒教の人性論における「並みの人間」を指すことは、拙著の『聖徳太子―実像と伝説の間―』でも書いておきました。「和」を仏教色が強いものと見る点は賛成ですが、その基盤を大乗の「自他不二」の思想に求めるのは、理想主義的すぎる見方のように思われます。

 頼住さんは、拙著をこの章の参考文献としてをあげてくれているうえ、このブログも時々見てくださっているようですが、山下洋平さんが法家の影響の強さを強調したように(こちら)、「憲法十七条」はあくまでも統治の法であって、ここに仏教の道徳面を見いだそうとしすぎる点は賛成しかねます。

 「憲法十七条」の「和」については、拙著で触れたほか、古い論文でも書いたうえ(こちら)、少し前に「憲法十七条」の基盤となる仏教経典をを発見し(こちら)、「礼楽」という言葉が示すように、儒教の「礼」は「和音」を重要要素とする「楽」と結び着いているのに、「憲法十七条」では「楽」に触れず、仏教がその代役を果たしていることなどは、このブログでも報告しました(こちら)。「憲法十七条」については本を執筆中ですので、詳しいことはそちらに書きます。

 ともかく、この頼住さんによる第三章の聖徳太子論は、枚数の制限もあって簡略に書かれていますが、全体としては現在の学問成果を考慮した穏健な論述となっており、重要な視点も示した概説となっていると言えるでしょう。儒教の受容のされ方と仏教の受容のされ方の違いを指摘した点などは、大事な点です。

【追記:2024年4月28日】
頼住さんは、ネットの動画でも聖徳太子について3回の連載で解説しています(「憲法十七条」に触れた回は、こちら)。ネット上には、頼住さん以外にも聖徳太子について解説する動画がたくさんあがってますが、日本を闇雲に礼賛するサイトで予備校講師などが多くの分野について自信満々に語っている類の動画は、話題の本を数冊かじっただけの内容を受け狙いで大げさに話していることが多く、専門知識がないため初歩的な間違いをしているうえ、中には陰謀説のようなトンデモ論も混じっているものが目立ちます。ここで紹介して批判しようかと考えたこともあるのですが、その動画を見る人が増えても困るので、やめています。この手の人たちの特徴は、原文を自信をもって解説することはできないため、原文には触れないか、他の人の訳を利用して一部だけとりあげ、「要するに~ということです」などとまとめることです。「教科書では教えませんが、実は~」などと語ることも多いですね。私も大学院生時代に予備校や塾でバイトで教えていた頃は、生徒の注意を引こうとしてそうした話し方をしたこともあるため、分かるのですが、問題は上記のような人たちの中には、表現をおだやかにしてあるものの、論旨そのものは戦前の狂信的な右翼の主張や戦後のオカルト説に似ている場合が多いことです。「聖徳太子はいなかった。不比等と長屋王と道慈がでっちあげたのだ」というセンセーショナルな説もそうでしたが、陰謀説だと、すべてを簡単に説明できてしまい、聞いている側はスッキリするうえ、自分はそうした歴史の秘密を知っているのだという優越感を味わえるのですね。この点は九州王朝説も同じですね。実際の歴史は、諸要素がからみあっていて複雑であるうえ、資料不足で断定できない場合が多いわけですが。


古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」

2024年04月22日 | 論文・研究書紹介

 前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。

官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」
(『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月)

です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。

 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。

 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。

 中国では、夏の時代に「父子相承」の形での直系相続が既に確立していたものの、後継ぎの子が幼い場合など、王の弟らが争って王族内に殺し合うことが多かったため、殷の時代には一時期ながら兄弟継承という形態がとられました。ただ、この混乱を避けるため、周の時代に嫡長男が王位を継承する制度が確立され、以後、これが中国の伝統となりました。

 これは兄弟姉妹が王位を継承した古代日本と違うところです。官氏は、日本の学者の一部が姉妹による継承を「中継ぎ」とみなしていることに反対します。直系相続が伝統になっていない状況では、直系相続をおこなうための臨時の中継ぎという形はありえないからです。

 女性の天皇たちについては諸説がおこなわれており、亡くなった天皇の皇后が即位することもあったものの、官氏は、皇族の女性という資格だけで即位している例もあることに注意し、当時にあっては、王位の継承者は成人(30才以上)でなければならないとする習慣の存在が大きかったと見ます。

 中国でも兄弟継承はおこなわれていましたが、これは「父子相承」の習慣が確立した後のことであり、王の子が幼いために王の弟が即位した場合、弟は自分の子を次の王にすることもありましたが、それは利己的な行為とされ、非難されたため、継承制度の主流にはならなかったと官氏は説きます。

 王の弟が即位しても、亡き王の子が成人したり、戦争などが終わって政治が安定したら、王位を前王の子に譲るのがあるべき姿とされたのです。

 一方、日本では30才以上でないと王位につけなかったうえ、譲位の習慣が無かったのですから、「中継ぎ」はありえないことになります。女性の身で即位して初めて譲位した皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に王位を譲ったわけですが、軽皇子は自分の子ではなく、前の天皇の子でもなく、自分の弟ですので兄弟姉妹継承であって、「中継ぎ」とも言えないことになります。

 しかも、古代日本の王位継承者は、有力な豪族たちの合意によって決定されていました。「皇太子」の制度は律令制からとはいえ、王を補佐し、その後継候補となる皇族はいたでしょうが、欽明天皇の嫡子であって「皇太子」となったとされる敏達天皇が亡くなり、その異母妹であった皇后の推古が天皇となると、推古は敏達と自分の間に生まれた皇子ではなく、自分の兄である用明天皇の子を「皇太子」としているのです。

 官氏は、『日本書紀』が「皇太子」としている皇族が必ずしも即位していないことに注意し、持統朝までの立太子は皇位継承者という位置づけより、天皇の補佐役となってある場合は天皇に代わって国政に参与する立場であったとする村井邦彦氏の説を紹介して賛同し、ヒツギノミコは一人とは限らなかったとする説もあることに注意します。

 そして7世紀にあっては、天皇を中心とする単位家族は成立していないため、直系相続もなかったのであって、これが変化するのは持統・元明朝からとします。持統天皇は在位中の11年(697)の春に15才だった軽皇子を太子に立て、同年8月に譲位して文武天皇とします。歴史上初の未成年の天皇の誕生です。

 しかし、文武天皇が25才で亡くなり、文武と不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子は僅か7才であって、天智の娘、持統の妹、草壁皇子の妃、文武の母である言天皇が即位し、首皇子が14才になった段階で皇太子としたものの、まだ幼いという理由で、自分と草壁の間の娘であって文武天皇の姉であった元正に譲位します。男子の直系相続はなされていません。

 いずれの国においても、王位の継承法はその国の血縁集団の特質と結びついており、中国の法令制度が日本に伝わっても、日本の血縁集団の構造自体は変わらないのです。持統天皇以後も、直系、あるいは嫡子相続はなされておらず、中国と違って女性たちが何人も皇位についているのです(女性を認めない儒教社会である中国において、皇位についたのは、仏教を利用して弥勒の化身と称して即位した則天武后ただ一人ですね)。

 官氏は、推古と持統は「優れた政治的能力を持った女帝」だったと評価します。お飾りでも中継ぎでもなかったのです。しかも、皇位継承をめぐる争いの中で多くの皇子たちが殺されたにもかかわらず、推古から元正に至るまでの六人、八代、計86年の間、女帝に反対して争いが起きたことはなかったと、官氏は指摘します。これは重要ですね。

 官氏は、当時は特定の天皇の単位家族は成立しておらず、近い皇族であれば男女の誰もが王位継承の資格があるとされ、皇后になっていなくても皇女であれば即位できたとし、だからこそ皇族内での極端な近親結婚が行われたのだと結論づけています。

 こうして見ると、「女帝中継ぎ論」は、儒教的な考えが広まった近世以後、明治以後の発想だったことが良くわかりますね。その国の特徴を知るには、やはり他の国と比較しなければならないということです。なお、私の『東アジア仏教史』(岩波新書)は、諸国の仏教の比較だけでなく、相互交流・相互影響という点に重点を置いて書いてあります。


朝政成立史においては推古朝が画期的:馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」

2024年04月17日 | 論文・研究書紹介

 まだ中国です。中国はネット規制が強いため、前の記事では次の記事は帰国後にアップすると書きました。実際、泊まっているホテルのWi-Fiではこの太子ブログにアクセスできなかったのですが、帰国する日の早朝(時差は1時間)に目が覚めてしまったため、別の経路でアップすることにしました。

 古代史は東アジアの政治情勢の中で展開していきましたので、海外からの視点から見てみることも必要です。その一つが、

馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」
(『国際日本研究』10号、2018年3月)

です。つくば大学の雑誌であって、この時の馬氏は大学院の博士後期課程の学生です。

 馬氏は、「朝政」という言葉の検討から始め、古代中国では、朝、臣下たちが君主にまみえたことが原義であったとし、平安時代では『源氏物語』に「朝政」を「あさのまつりごと」と呼んでいる例があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、分析に足るだけの「朝政」の用例がないと述べます。

 ただ、政治がおこなわれる場所である朝堂については、7世紀には成立していたとされており、最古の遺跡は、孝徳朝の難波長柄宮と推定される前期難波宮の朝堂院です。『日本書紀』の推古紀や孝徳紀には、「庁」に関する記述が散見されるものの、朝堂の前身と推測されているだけであって、実態は不明です。

 実際、天武・持統期の飛鳥浄御原宮の遺跡では朝堂の遺跡は発見されていません。平安時代の十二朝堂は、中国の朝堂とは異なりますし、どこまで遡れるのかは明らかになっていないのです。

 とりあえず、馬氏は中国における「朝政」について、「朝」の字について検討することから始めます。諸文献に見える用例の変化を追い、馬氏は、両漢から魏晋南北朝までは、皇帝と官僚集団が相対的に独立しており、政策は各層の会議による官僚の集団意志と皇帝の裁可によって成立していたのに対し、隋唐になると、朝堂を外朝化することによって皇帝一人による一元的な「朝政」が出現したとします。

 一方、日本については、7世紀までは秦漢頃までの中国に似ており、諸豪族の連合政権であったと言えるとします。そして奈良時代の律令制は遣唐使を通じて唐の政治を取り入れたとされるものの、むしろ平安前中期の方が唐の制度に近いと述べます。律令制は、大化以前の伝統が唐制と妥協して生まれたものとするのが馬氏の見解です。

 『日本書紀』における「朝政」の初出は天武12年であって、「朝」は「みかど」と訓まれ、「朝政」が行われていた場所を指し、「政」は君臣に通じる「まつりごと」であったというのが馬氏の見解です。

 そこで、『日本書紀』における政治関連の「朝」「朝庭(廷)」の用例を検討し、「天皇・中央政府」、「宮・庭などの場所」、「天皇の治世」、「国家・国土」の4種に分けられるとして、崇神天皇紀以後の用例を分類していきますが、「天皇・中央政府」の用例が急に増えるのは、敏達朝と崇峻朝です。

 そして、「宮・庭」などの用例が急に増えるのは、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明天皇の時であって、「朝廷」の語は推古朝に1例、孝徳朝に3例、天武朝では6例も見られます。推古朝に続く舒明朝では、「天皇の治世」「国家・国土」の例もそれぞれ1例登場します。このため、馬氏は小墾田宮が造営された推古朝を画期とみなします。

 つまり、宗教的な「まつりごと」を主としていた時代が終わり、様々な政治協議をおこなう朝堂の前身となる「庁」が設置され、複数の「庁」を包含する「ニハ(庭)」が成立したと見るのです。

 「朝廷」の語は、推古以前は中央政府を指すのが一般的であるのに対し、推古朝からは天皇を指す場合が多くなると、馬氏は指摘します。

 推古朝での変化は契機については、当然ながら、推古8年(600)の遣隋使が倭国の「まつりごと」について報告し、文帝に「おおいに義理無し」と評されたことをあげます。これをきっかけとして、一連の改革事業がなされていることは、良く知られている通りですが、「朝」の字の用例を見ても、それが裏付けられるのです。

 欽明朝あたりから政治と祭事が分離するようになり、推古朝の小墾田宮造営によって朝廷機能が変化し、伝統を反映させながら律令制を整備することによって、日本は固有のあり方から隋唐の式の朝廷・朝政へと変化していったというのが、馬氏の結論です。


大山誠一・吉田一彦氏に遠慮しつつ、ついに聖徳太子虚構・道慈作文説を否定:榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」

2024年04月12日 | 論文・研究書紹介

 こちらも論文集を紹介し始めたところで中断していた例です(こちら)。

榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」
(小林真由美・鈴木正信編著『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

 四天王寺の研究者である榊原氏については、若い頃、大山誠一氏や吉田一彦氏に評価され、両氏が編集する論文集や雑誌の特集で論文を発表させてもらうようになった恩義があるためか、虚構説に遠慮して是非の判断を避ける書き方をしている本を以前紹介しました(こちら)。

 今回は、遠慮しつつも虚構説を否定し、注での目立たない書き方ですが、以前支持していた道慈作文説を撤回すると明記しています。

 今回の論文でも、冒頭で厩戸皇子については諸説があるとし、「近年においては、大山誠一氏によって聖徳太子虚構説が提起された」として、その説の内容を簡単に紹介します。

 そして、大山説以後も、「聖德太子をめぐっては、さまざまな説が提示されている」とし、具体的な活動については「いまだ十分に明らかになっていない」と述べるにとどめ、大山説が学界で相手にされなくなっていることには触れません。

 ここから四天王寺に関する検討に入り、若草伽藍で用いられた瓦当笵がすりへった段階で四天王寺の瓦作成に用いられたことなど、考古学の研究成果を紹介し、四天王寺の創建は若草伽藍の創建時期に近いが、それより遅かったことを再確認します。

 そして、どの程度遅れるかに関する諸説、また厩戸皇子の建立とする説と、難波吉士氏の建立であって厩戸皇子との関係は認められないとする説などを紹介します。

 ついで、文献から見て、当初、玉造に造営された寺が現在の地に移築されたとする説を紹介したのち、『日本書紀』の記事と考古学の成果から見て移築説を否定します。

 また、『四天王寺縁起』(1007年)は寺の所有として多くの土地や建物などの名をあげ、物部氏の旧領・邸宅・資材・人民が四天王寺に施入されたとしていますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が法隆寺のものと記している「水田」「薗地」「庄倉」は、物部氏の本拠であった渋川にも見られることに着目します。

 これらのことから、榊原氏は、四天王寺は厩戸皇子によって創建されたと考えるの妥当と結論づけます。

 ついで、創建説話については、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は信じがたいとする吉田氏の説を紹介し、同様に古い『四天王寺縁起』に基づいて『日本書紀』の創建説話が書かれたとは考えるのは難しいだろうと述べます。

 しかし、『日本書紀』は厩戸皇子が登場せず、四天王寺創建にも触れない記事の部分ですら四天王寺系の資料を用いており、すべて最終段階の編者の筆と見ることはできないことは、前回の記事で示しておきました(こちら)。

 榊原氏がその部分を疑うのは、厩戸皇子が勝たせてくれたら四天王の為に寺を建てますと誓った箇所のうち、「護世四王」とある部分は、『日本書紀』完成の少し前の702~703年に西明寺で義浄が訳した(そして、聖徳太子虚構説では、それを西明寺に留学していて718年に帰国した道慈がもたらし、道慈が理想的な厩戸皇子を記述するなど、『日本書紀』の原稿を潤色する際に用いたとされる)『金光明最勝王経』に見えるからです。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』には確かに「護世四王」の語は見えないものの、この語は、597年に訳された増補版であって中国でもかなり読まれた『合部金光明経』には見えています。創建説話のその箇所には後代の潤色があるとしても、7世紀の末頃までに四天王寺で創建説話の原型ができていて不思議ではありません。

 なお、榊原氏は、『日本書紀』の編者が『金光明最勝王経』を参照しながら四天王寺創建説話を書いたことは疑いないとし、「四天王像を頭に載せるという記述は、仏像が宝冠を頭に載せていることに想を得たのではなかろうか」と述べています。

 榊原氏は、いなかった説を痛罵した石井公成さんの『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』は読んでおられないのか、大山氏や吉田氏への遠慮もあって引用しにくいのか、まったく言及していませんが、小さな仏像をお守りにする際は髷の中に入れるのがインドの習慣であることは、本に書いておきました。あるいは、榊原氏は、絵本などに描かれる巳の刻参りや八つ墓村のような太子の姿を思い浮かべているのでしょうか。

 榊原氏は、『日本書紀』編纂の最終段階で四天王寺創建説話が書かれたことについて、新川登亀男氏の説などを紹介し、「皇太子の制度の理想型」を示すために厩戸皇子が「皇太子」と呼ばれて活躍が強調されたとし、『日本書紀』の最終編纂時期に、理想的な皇太子が『金光明最勝王経』の教えを実践していたことにするためだったと推測します。

 そして、四天王寺は、一時期、古代史学で強調されたような外敵退散のためではなく、上宮王創建の他の寺と同様、追善のためとする三船隆之氏の説を紹介し、難波、斑鳩、飛鳥を結ぶ交通網が整備されたことに注意し、斑鳩宮への移住は対外交渉の拠点づくりのためとする塚口義信氏の説を紹介します。

 そして、推古朝は推古女帝のもとに、聖德太子と蘇我馬が共同執政の形で政治をおこなったとする塚口氏の説を「妥当な見解」と評価します。塚口氏の説の追認という形ですが、太子虚構説は完全に否定されていますね。

 ここまで書いてしまった以上、曖昧な書き方は無理とあきらめたのか、榊原氏はその後で、「厩戸皇子は、実在した勢力のある王族であり、有能な人物であったと評価することができるのではないだろうか」と述べ、ついに虚構説を否定してしまいました。しかも、馬子との共同執政であったものの「外交に関しては、厩戸が主導していた」と明言しています。いやいや。

 なお、注58では、自分の旧稿では道慈が創建説話を述作した可能性があるとしたが、「現在では、具体的な人物を特定することは難しいと考えている」と述べています。読んでいて感慨深いです。いろいろと迷った末の決断でしょう。

 なお、お知らせです。本日の夜の飛行機で中国に向かい、浙江大学、浙江理工大学、杭州仏学院などで「禅宗の成立と疑偽経類」「中日仏教文化交流」その他について連日講演し、最後に1日だけ寺院や遺跡をめぐって翌日に帰国しますので、次の記事は少し遅れるかもしれません。

 杭州は、鎌倉・室町時代には日中貿易や僧侶の往来の中心地だったところであって、また私が近代中国の思想家の中で最も高く評価する章太炎の旧居と墓があるところです。10月開催の唯識学会にも呼ばれてますので、杭州にはまた行くことになります。コロナ禍がおさまり、ようやく海外の研究者を受け入れるようになったため、秋には長らく延期になっていた北京の人民大学などでの講義もありそうです。


高句麗の影響を受けた百済の石積みによる造墓技術が方墳へ:坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉」

2024年04月08日 | 論文・研究書紹介

 恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。

 飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。

 それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。

坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」
(『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年)

です。

 前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上げた半沢英一氏も画期として注目していたところです。ただ、半沢氏は、母親の古墳に合葬された敏達天皇はそれ以前の天皇たちと違い、巨大な前方後円墳を造ってもえなかったとし、守屋合戦に勝利した厩戸が仏教的な法王として即位した結果、新たな時代が始まったたとする強引な仏教革命説を繰り広げていました(こちら)。

 一方、坪井氏のこの論文は、朝鮮の造墓技術との関連に着目した考古学の立場での考察です。氏は天皇のことを「大王」と記していますので、この記事ではそれに従います。

 坪井氏は、三輪山西麓に広がる纒向の地に初めて登場した前方後円墳、つまり、墳丘280メートルもある箸墓古墳の話から始めます。この巨大な古墳が倭国王の墓であることは疑いなく、その前方後円という特異な形は、大王の墓として考案されたものでした。

 以後、7世紀初めまで、何千という古墳が造営されましたが、大王墓と見られる前方後円墳は、いずれも首長クラスの 墓とは異なり、きわだって巨大なものでした。

 ところが、6世紀後半になって、大王が一般的に見える「方墳」に葬られるようになってしまうのです。7世紀半ばになると、高御座と共通する八角形の墳墓が作られるようになり、再び王権独自の墓が造営されるようになります。

 坪井氏は、考古学では、異論はあるものの、最後の前方後円墳は、太子町奧城にある墳丘長93メートルの太子西山古墳であろうとし、敏達大王(585年没)の墓とする説が有力だとします。この墓は、大型の方墳や円墳から成る磯長谷古墳群を見下ろす尾根の上に、いちはやく営まれています。

 続く用明大王陵は、春日向山古墳と推定されており、こちらは東西66メートル、南北60メートルの方墳です。用明大王の墓は初め磐余にあり、後に磯長に改葬したとする説もあるものの、磐余近辺にも前方後円墳の遺跡は見つかっていません。

 次に倉梯岡陵と記されている崇峻大王陵は、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡と治定していますが、考古学では同じ倉橋にある一辺50メートルの赤坂天王山古墳の可能性が高いとしています。

 推古大王については、大野岡上にあった竹田皇子陵に合葬され、後に磯長に改葬されたとされており、前者は橿原氏の上山古墳(東西40メートル、南北27メートルの長方墳)、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)と見られています。

 これらの大王たちの祖である欽明天皇の墓について、宮内庁は平田梅山古墳を治定していますが、考古学では墳丘長318メートルという巨大さを誇る五条野丸山古墳が有力です。

 平田梅山古墳については、被葬者をめぐって諸説があり、敏達埋葬のために造られたが何かの事情でそうならなかったとする説もあるものの、坪井氏は、いずれにしても敏達の墓を前方後円墳にしようとした事実はゆるぎないとします。

 『日本書紀』によれば、敏達は母である石姫の墓に合葬されたとあります。白石太一郎氏は、継体天皇は、それ以前の大和・河内勢力によるヤマト王権と血がつながっておらず、ヤマト王権の仁賢大王の皇女である手白香との婚姻が不可欠であったとしますが、坪井氏は、その継体から敏達に至るまでの大王はすべてヤマト王権の血を引く女性を妃としており、その系統が前方後円墳と結びついていたと見ます。

 一方、用明は、敏達の弟であるとはいえ、ヤマト王権の血とはつながりのない蘇我稻目の娘、堅塩媛から生まれています。続く崇峻も推古も欽明天皇と蘇我氏の女性の間に生まれています。

 ですから、ヤマト王権の伝統である前方後円墳にこだわる必要はなかったと坪井氏は説きます。しかも、この頃には、前方後円墳は大王陵としては既に形骸化していたと推測します。

 磯長古墳群は、蘇我氏系の大王の墓が林立することで有名ですが、坪井氏は、最初は蘇我氏の血を引かない敏達大王の墓で始まっていることを重視します。つまり、これによってこの地が皇室の墓の地として格付けされ、以後、前方後円墳にこだわらず、方墳を進展させた蘇我氏の影響が発揮されたとするのです。

 そもそも方墳は、4~5世紀の百済に普及していった高句麗系の「石基壇石塚古墳」と称されるものがルーツとなっていると、坪井氏は主張します。それが、6世紀後半に蘇我氏の宗主の墓に用いられ、やがて蘇我氏系の大王の墓に用いられたとするのです。

 ここで注目されるのが、一辺が41~42メートルであって、7~8段ほどの石積みとなっている都塚古墳です。この古墳は、大きさはさほどではないものの、人の頭ほどの石を12万9千個くらい積み上げてあり、大変な労力をかけたものです。これが百済の王陵と良く似ているのです。

 都塚古墳が位置する明日香村阪田から祝戸にかけての地域は、朝鮮半島からの渡来集団が配されていた地です。中国南朝出身の司馬達等もこの辺りに棲んでいました。

 その都塚古墳の北西400メートルほどのところにあるのが、巨大な石を積み上げ、「桃原」に造営された馬子の墓とされる石舞台です。つまり、渡来人を配下に持つ蘇我氏が、高句麗系の様式による百済の石積みの造墓技術を採用して自分たちの墓に用いたのであり、それが蘇我氏系の大王の墓に用いられるようになったとするのです。

 坪井氏は、こうした古墳の型式の変遷は、朝鮮半島の状況、それと日本との関係が大きな影響を及ぼしていることに注意して論をとじています。


『日本書紀』の守屋合戦に続く敵将と忠犬の記述こそ語りものの元祖、編者は元資料を貼り込んだだけ:石井公成「お説教でない仏教説話」

2024年04月04日 | 論文・研究書紹介

 葛西太一さん、瀬間正之さん、森博達さんと、『日本書紀』の語法に関する論文が続きましたが、今回は私の番で、

石井公成「お説教でない仏教説話」
(『日本文学研究ジャーナル』第29号、2024年3月)

です。「仏教説話」特集の冒頭のエッセイを依頼されたため、「ですます調」の気楽な感じで書いておきました。

 仏教説話というと、仏教関連の興味深い話を紹介し、最後に教訓となるよううな言葉を述べるというのが通例です。ただ、仏教的な題材であっても、興味深いだけで最後に教訓が述べていない場合は、仏教説話と呼べるのか。

 こうした点についていくつか例をあげて検討した後、取り上げたのが『日本書紀』の守屋合戦の記事です。この記事では、厩戸皇子と馬子が造寺を誓って誓願すると、敵を打ち破ることができたとし、合戦がおさまった後、「摂津の国に四天王寺を造る。大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺の奴・田荘とす」と記し、馬子は飛鳥寺を建てたとしています。

 天皇の勅願寺院でない四天王寺のことに「大寺(おおてら)」と呼んでいるのですから、この書き手はおそらく四天王寺の僧であったと考えられます。守屋の「奴」と「宅」の半分を四天王寺に納めたということは、あとの半分は馬子のものになったということですね。

 守屋合戦の記事としては、これで終わりにして良いはずです。しかし、『日本書紀』では、これに続いて守屋に仕えていた武将である捕鳥部万の奮戦ぶりと戦死を描いたうえ、その愛犬についてまで記しています。その後半の内容は以下の通りです。

朝廷は、万の死体を八つに切り、八つの国に分けて串刺しにしてさらせと命じた。国司がその通りに死体を斬って串刺しにしようとすると、雷が鳴り大雨が降った。この時、万が飼っていた白い犬が、その屍の回りを俯したり仰いだりしながら回って吠えた。ついに屍の頭をくわえ、古い冢に収め、枕の横に伏せてその前で餓死した。国司が、その犬をきわめて不思議に思い、朝廷に報告すると、朝廷はひどく気の毒に思い、命令を下した。「この犬は世に稀な存在でって、後世に示すべきだ。万の一族に墓を作って葬らせよ」と。このため、万の一族は、二つの墓を有真香邑に立て、万と犬を葬った。

以上です。

 雷が鳴り大雨が降ったとなれば、八つに切ることはできなかったことになります。こうした天変地異の記述は、朝廷の命令が適切でないため、天が警告を与えたことを示していますね。

 この万の奮戦と忠犬の話については、『法華経』の文句をそのまま用いているため、僧侶か還俗僧か『法華経』を暗記している在家信者が書いたことは間違いありません。問題は、この記述は、忠犬を讃える形で終わっており、仏教の教訓になっておらず、また四天王寺創建とも関係ないことです。

 この話を喜んで聞いたのは、万の親族を含め、守屋側で戦った人々の子孫でしょう。そのことは、万と忠犬の話に続けて、同じような戦死者と忠犬の話がもう一つ、付されていることからも推察できます。聞いた人々の中には、四天王寺の「奴」とされた者たちもいたかもしれません。むろん、こちらも仏教の教訓はなされておらず、四天王寺との関係も記されていません。

 しかも、この万の奮戦と忠犬の話については、変格漢文が目立つのです。たとえば、「万所養之犬」などとせず、「万養犬」と記しているのは、「万が飼っていた犬」という和語の文をそのまま漢字にしたためでしょう。

 つまり、合戦場面が臨場感をもって描かれ、哀れな犬の振舞いが生き生きと描かれており、それも変格漢文が目立つのは、「語りもの」として語られていたものを無理に漢文にしたためと考えられるのです。

 日本の絵解きは、聖徳太子伝で始まりましたが、この守屋の武将と忠犬の話は絵に描かれるとは考えにくいため、語りものにとどまったと思いますが、聖德太子と芸能の結びつきは、この話からも推察できますね。

 ところで、この話で重要なのは、厩戸皇子と山背大兄に関する記述は、『日本書紀』の最終段階でかなり増訂されたことが明らかにされているものの、この話はそうではないということです。そもそも、厩戸皇子が登場しないどころか、厩戸皇子たちの軍勢と戦った側について好意的に描いているため、廐戸皇子をやたらと神格化しようとした『日本書紀』の方針とは異なるのです。

 上記の拙文は「仏教説話」特集の冒頭エッセイであったため、『日本書紀』における位置づけなどについては触れていませんが、この万と忠犬の話は、『日本書紀』編集の最終段階で創作されたり、書き換えられたりしたものではありえません。四天王寺系の資料をそのまま貼り込んだとしか考えられないものです。

 となると、『日本書紀』における厩戸皇子関連の記述には、他にも四天王寺系の文献や他の系統の文献をそのまま貼り込んだものが含まれている可能性が高いということになります。

 その一番の候補は、厩戸皇子が亡くなったあとの慧慈の述懐の部分でしょうね。用明紀では豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王などの異名をあげており、推古紀の本文では、徹底的に「皇太子」と呼んでおりながら、この箇所に限って、厩戸皇子とも皇太子とも呼ばず、これまで登場していない「上宮太子」という呼び方が複数回使われているのは、何かの資料を貼り込んだだけで呼称の統一などの編集作業をしていなかった、ということですね。私は、「天皇」という語も「神」という語も使わない「憲法十七条」は、その可能性が高いと考えているのです。

【追記:2024年4月6日】
厩戸皇子の異名について、少し補足しました。


飛鳥の古墳から冠位十二階の最上位を示すピンクの冠が出現!(4月1日限定:特別記事)

2024年04月01日 | その他

 飛鳥寺跡から西北へ2キロほど行ったあたりに、桃の巨木が密生した林がありますが、その林の中の小高い岡のことを、地元の人は貴人の墓と伝えてきました。その岡が実は推古朝頃の墓であったことが昨年判明し、「高桃塚古墳」と命名されたことは記憶に新しいところです。

 その調査にあたっていた奈良秘立博物館の秦野頓勝研究主任と小野姉子研究員が、本日、4月1日に記者会見をおこなうというニュースが先ほど流れ、プレスリリースが回ってきました。

 いつもは4月1日になると、部屋の壁が壊れて古文書が出現したり、テレビの画面がおかしくなったりすることが多いため、このブログでは「その他」のコーナーで「4月1日限定:特別記事」として報告してきましたが(こちらや、こちらや、こちらや、こちらや、こちらなど)、今回は違うようです。

 そのプレスリリースによれば、古墳は盗掘されておらず、ファイバースコープを入れてみたところ、玄室の壁には彩りあざやかな壁画が描かれ、中央部にはピンクのベストのようなものを着た男性が胸を張り、左手をあげて人差し指を立てている絵もあった由。

 さらに驚かされるのは、棺の横に、純金製と思われる沓(くつ)と半分朽ちかけたピンクの冠が置かれていたことだったそうです。その冠は、つまんだような形で頂きを袋状にし、縁(ふち)を付けてありましたので、推古11年(603)に制定された冠位十二階の冠と同じ作りです。

 冠の下部には、Kinucci と読めるロゴが金糸で刺繍されていた由。これは、『日本書紀』では、守屋合戦の後で、馬子が「飛鳥の衣縫造の祖、樹葉の家」を壊して法興寺(飛鳥寺)を建てたとあることから知られるように、衣の作成や刺繍を担当していた 「衣縫(きぬぬい)」氏が作成したことを示すのでしょう。

 ~ucci とあるのは、Gucciを真似て、高級ブランドであることを示したものと思われます。九州王朝説によれば、九州王朝は東北地方にまで影響を及ぼすほど勢力が盛んだったというのですから、九州王朝がイタリアからGucciの職人を招き、臣下だった大和王朝に下賜したのではないでしょうか。聖徳太子は北方から渡ってきた遊牧民族の首領だったという説もありますので、あるいは、その首領が、ローマと長安を結ぶシルクロード経由で謎の地球儀と一緒にもたらしたのかもしれません。どちらにしても、古代は本当にロマンに満ちてますね!

 冠位十二階は、大徳・小徳の下に、五行思想に基づいて仁・礼・信・義・智の五位を設けてそれぞれを大小に分け、五行のそれぞれに対応する青・赤・黄・白・黒の布で冠を作ったのであって、最上位の徳位の冠については、紫だったとか錦の布だったという説があります。

 しかし、今回、黄金の沓が添えられるほどの貴人の墓から、ピンクの冠が発見されたのですから、被葬者はおそらく大徳の位に任じられていた貴人であって、最上位の徳位の冠の色はピンクだったと推定されます。

 壁画に描かれた男性が冠と同じ色であるピンクのベストを着て胸を張り、左手をあげて人差し指を伸ばしているのは、「自分が冠位十二階のナンバーワンだ。トゥース!」と言っているのでしょう。

 奇妙なことに、男の横には桃ではなく、椰子の若葉が描かれていた由。「やし」の「わかば」、あるいは「わかば」の「やし」というのは、何かの暗号なのでしょうか。それとも、ピンクのベストを着て胸を張っている男と何か関係があるのか。

 ここで思い出されるのは、蘇我馬子大臣が亡くなり、「桃原墓」に葬られたという『日本書紀』推古34年(626)春正月の記事です。これはおそらく馬子の生前の指示によるものと思われますので、馬子は美しいピンクの花が咲き、ピンクの実をつける桃を愛していたに違いありません。

 高桃塚古墳は、大徳に任じられた蘇我系氏族の氏長などの墓と思われます。すっかり忘れられていた高桃塚で発見された冠は、ピンクの桃を好んだ蘇我氏の栄華、つまり、「ピンク栄華」のはかなさを象徴するものですね。

 ただ、ファイバースコープで調査しているうちに、その穴から外気が入ったためか、壁画は急に変色して色が薄くなり、見えなくなっていった由。それと同調するように、プレスリリースも急速に字の色が薄くなっていってますので、このプレスリリースが読めるのは、本日、4月1日だけかもしれません。