聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『法華義疏』は隋に派遣された留学僧が帰国する推古末年以前の作:井上亘「御物本『法華義疏』の成立」

2023年06月26日 | 三経義疏

 前回の門田論文では、「三経義疏については諸説がある」といった述べ方をせず、聖徳太子の時期の仏教理解は低いとし、「聖徳太子による編纂が仮託であったにも関わらず」と断定的に述べていました。

 三経義疏の内容には言及していないため、読んでいないことが推察されますが、御物本の『法華義疏』が推古末年以前の作であることは確実であって、聖徳太子の作と見て良いとする論文が出ています。

井上亘「御物本『法華義疏』の成立」
(古瀬奈津子編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』、同成社、2021年)

です。

 このブログで論争があった井上さんですが、大山説批判であって「憲法十七条」も太子の作と見て良いとする点は、私と同じ立場です。今回はそれに三経義疏真作説も加わったというわけですが、この論文は知りませんでした。井上さんも送ってくれれば良いのに……。

 さて、この論文は、御物本『法華義疏』は提婆達多品がない二十七品本であるため、提婆品が加えられた二十八品本が広まり、二十七品本が通用しなくなった時期を明らかにすれば、その成立下限が明らかになるという前提で出発しています。

 井上さんは、従来の研究を紹介する形でこの問題を論じています。まず、鳩摩羅什が五世紀初めに訳した『法華経』には提婆品がありません。ですから、『法華義疏』の「本義(種本)」となった梁の光宅寺宝雲(467-529)の『法華義記』は、それに基づいているため、提婆品はありません。一方、隋の天台宗の智顗(538-598)や三論宗の吉蔵(549-623)の『法華経』注釈には入っています。

 晋の竺法護訳の『正法華経』十巻(286年)には提婆品が入っており、隋の闍那崛多共訳『添品妙法蓮華経』七巻(601年)にも入っていますが、西域本に基づいた鳩摩羅什訳と違い、『添品妙法蓮華経』は天竺の梵本に基づいていくつかの点を補訂してあったにも関わらず、主流になりませんでした。広く読まれたのは、鳩摩羅什訳に提婆品が付け加えられて二十八品としたテキストだったのです。

 隋の経典目録である費長房の『歴代三宝紀』(597年)では、「妙法蓮華経七巻」と「妙法蓮華経八巻」があるとしており、以後の唐の道宣の『大唐内典録』(664年)も同様ですが、智昇の『開元釈教録』(730年)になると、「妙法蓮華経八巻、二十八品或七巻」となっており、七巻本にして八巻品にしても、提婆品が添加されている形が標準になったことが知られます。

 その理由について、井上さんは、吉蔵『法華義疏』では、法献が西域で得た提婆品を瓦官寺の南斉の法意が永明8年(490)に『提婆達多品経』として訳したが、梁末に真諦三藏がこの品を訳し、羅什訳の宝塔品の後に加えたと述べていることを紹介します。

 ところが、天台智顗の『法華文句』では、羅什が406年に訳した段階で既に二十八品だったのに、女人成仏を説いていたので長安の女官たちが秘蔵した結果、南朝では二十七品が流布したが、『法華経』を百回も講義した満法師は提婆品を勧持品の前に置いて講義しており、この形のテキストは広まらなかったが、南岳禅師は宝塔品の後に提婆品を置いていたので、私は後に『正法華経』と比較したところ、その位置で良かったことが分かった、万法師と南岳禅師は『法華経』の意図を深く理解していた、と述べています。

 井上さんは、南岳禅師は智顗の師匠の南岳慧思だが、この記述をそのまま信ずることはできないものの、慧思が二十八品に定めたとする記述は重要とします。その話を伝えた弟子の智顗は隋の煬帝が皇太子の時も皇帝になっても尊崇した名僧だったからです。

 このことから見て、井上さんは、智顗を尊重して授戒した煬帝が君臨する隋の都では、二十八品本が流布していたであろうから、607年に倭国から派遣された「沙門数十人」や翌年派遣された僧旻などは、それを書写してもち帰ったはずと見ます。というのは、煬帝が設置した四方館(後の鴻臚館)では、朝鮮諸国を含め、諸国から留学してきた僧侶を教育していたからです。

 井上さんは、太子が天才であって一人で作ったといった伝承には従わず、『法王帝説』が、慧慈の指導のもとで作ったという記述を史実に近いものと見ます。そして、中国撰述ではありえず、百済ないし高句麗の僧侶が種本となった注釈を講義し、太子がそれを略称しながら自分の解釈を加えていったとする私の説を引いてくれてます(ありがとうございます)。

 そのあたりが穏当なところでしょう。井上さんは、真筆かどうかの問題はとりあげていませんが、このブログでは、これに関する妥当な説の紹介をしてあります(こちら)。

【付記】重複していた箇所を削除しました。


『勝鬘経義疏』を尊重した唐の僧侶の注釈:楊玉飛「明空撰『勝鬘経疏義私鈔』の注釈性格」

2022年12月26日 | 三経義疏

 前回は『勝鬘経』講讃図をとりあげたので、今回は、中国にもたらされた『勝鬘経義疏』に対して中国僧がつけた注釈について中国人研究者が日本語で書いた論文にしましょう。

 前回は~だったので、今回は……というのは、トイビトのサイトに「鬼はなぜ虎皮のパンツを履くのか」などのお気楽学術エッセイを書いている連載のスタイルです(こちら)が、取り上げるのは、

楊玉飛「『勝鬘経疏義私鈔』の註釈性格」
(『印度学仏教が研究』第67巻第2号、2019年3月)

です。『勝鬘経疏義私鈔』について初めて詳しく書いたのは、中国人研究者である王勇さんの『聖徳太子時空超越ー歴史を動かした慧思後身説ー』(大修館書店、1994年)であるのも、面白いところです。

 王勇さんとは、コロナになって以来、会ってませんが、日中国交回復がなされて創設された北京日本学研究センターの第一期生であって、現在の中国における日本研究の代表的な一人ですね。

 楊さんは、来日して国際仏教学大学院大学で学び、中国における『勝鬘経』注釈書の研究で学位を得た若手です。

 その楊さんのこの論文は、日本の僧が入唐した際に『法華義疏』と『勝鬘経義疏』をもたらしたところ、中国僧の明空が『勝鬘経義疏』に注釈をつけたものであって、長い中国仏教史の歴史の中で、中国人僧がインド以外の仏教文献について注を書いたのはこれが最初で最後ですね。

 それというのも、『勝鬘経』は如来蔵思想の重要な経典であったにもかかわらず、唐以前の注釈の多くは散佚してしまっていたうえ、聖徳太子は天台宗の開祖である智顗の師匠であった南岳慧思の生まれ変わりという伝承があったため、天台宗系の僧侶であった明空が注目して6巻の注釈を書いたたのです。

 入唐中にその注釈に出逢った円仁が、これを日本に持ち帰り、叡山で保存されており、近代になってから再び注目を集めるようになった次第です。

 さて、楊さんは題目の論文では、太子の『勝鬘経義疏』の輪廻のあり方、生存のあり方について注目します。普通は、肉体による分段生死と、体を持たない不思議変易生死という二種類ですが、『勝鬘経義疏』は四種の分類を説きます。これに対し、『勝鬘経疏義私鈔』は「無名氏」の説に基づいて二種の生死についてのみ説明し、残りの二つには触れません。四種生死説は、伝統説から見れば誤りなのですが、賛成も反対もせず、無視するのです。 

 また『勝鬘経疏義私鈔』は、『勝鬘経義疏』では一切の生き物に仏性があることを認め、そうでないと草木と同じだとしていることに着目します。というのは、これはインド仏教以来の伝統であるものの、中国仏教となると隋から初冬にかけて活躍して三論宗を集大成した吉蔵は、悟った仏の目から見れば自然界もそのまま仏の境地だと説くようになっており、天台宗も唐代になると湛然などはその立場を強調するようになるからです。

 『勝鬘経疏義私鈔』は、天台宗の文献を引用しており、湛然の著作も利用していますので、その立場からすれば『勝鬘経義疏』のこの部分は批判すべきなのですが、『勝鬘経疏義私鈔』は、ここでも表だっては批判しません。諸説ある部分については、「無名氏」の解釈なるものを示し、それに賛同するのみで、『勝鬘経義疏』の問題のある箇所を否定することはないのです。

 このため、楊さんは、『勝鬘経疏義私鈔』は太子の『勝鬘経義疏』を尊重有していたため、賛成できない部分については批判せず、「こっそりと『義疏』の解釈を変えようとしている」と推測します。南岳慧思禅師に生まれ変わりの方の解釈ですからね。


三経義疏は梁以前の学説に基づき、同一人物によって書かれた:木村整民「聖徳太子の序品解釈」

2021年12月13日 | 三経義疏
 前回の記事では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同一人物が書いたとする私の発表「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」が刊行されたことをお伝えしました。三経義疏については、早くから同一作者説で論文を書いてきました。

 ただ、古い論文で述べたのは、中国撰述ではないというところまでであって、日本で書かれたと書くようになったのは最近であり、厩戸皇子の作と見てよいということを明確に示したのは、今回が初めてです。しかも、今回の「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」では、梁代仏教の影響だけでなく、その前の王朝である南斉の仏教が厩戸皇子に与えた影響について論じてあります。
 
 上宮王の三経義疏のうち、『法華義疏』は、中国南朝の梁の三大法師と称された光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』を「本義」と呼んで種本としつつ、時に批判も加えていることは有名です。『法華義疏』以外でも、『勝鬘経義疏』は三大法師のうちの僧旻の『勝鬘経』注釈に基づいているらしいことは、このブログでも触れました(こちら)。

 つまり、三経義疏は、隋唐仏教から見れば古くさい南朝仏教、それも梁代の学風に基づいているというのが通説になりつつあるのです。私は論文では、法雲の『法華義記』の用語が三経義疏全体の基本になっていることを指摘したのですが、これを更に進め、三大法師より前の学僧たちの解釈に基づいている部分が多いことを指摘した論文が春に出ていました。見落としていて申し訳ありません。

木村整民「聖徳太子の序品解釈」
(『四天王寺大学紀要』第69号、2021年3月。PDFは、こちら

です。木村氏はインド仏教や中国仏教の論文などを書いており、聖徳太子関連はこの論文が最初のようです。

 木村氏がこの論文で取り上げたのは、経典の序の部分を三経義疏がどのように解釈しているかという問題です。中国では仏教経典については、序分・正宗分・流通分という三つの部分に分けて解釈するのが通例ですが、どの部分を序分とみなすか、また序分を更にどのように分けるか、序分はどのような意図を説いていると見るかは、注釈者によって様々です。

 ですから、三経義疏のうち、経の序分に関する解釈と似ている解釈をしている注釈があれば、三経義疏はそれを参照して書かれた、ということが分かるわけです。その問題に取り組む前に、木村氏は三経義疏をめぐる論争史を整理して紹介しており、きわめて有益です。私の諸論文にも触れてくれています(有難うございます)。三経義疏の論争史について書かれた論文は、20年以上前のものしかありませんので、最近の研究を含む論争史としては、木村氏のこの論文をお勧めします。

 さて、そこで紹介されている諸説の中で一番穏当なのは、田村晃祐先生の「多くの朝鮮人学僧の共同著作ではなくて、何人かの諸種の傾向をもった学僧たちの顧問をもった個人著作」という説でしょうね。三経義疏を読みもせずに、「あの当時の日本仏教の水準で書けるはずがない」と決めつけて否定する大山誠一氏を批判した田村論文については、このブログで紹介したことがあります(こちら)。

 木村論文は、「結論から言えば、三疏は同一人物によって書かれたものであり、それは、梁代以前の学説に基づくものであると考えられる」としつつ、序分解釈の特徴を論じた今回の論文で扱ったのは、あくまでも三経義疏全体の一部であるとことわっています。着実ですね。

 中国南朝で盛んだったのは、小乗でありながら大乗に似た面を持つ論書、『成実論』の法相を利用しつつ、『涅槃経』『勝鬘経』『法華経』『維摩経』『大品般若経』などの大乗経典を研究する成実涅槃学派でした(この呼方は私の提唱)。この派は「一切衆生悉有仏性」を説く『涅槃経』を最重視する者が多かったのですが、そうした立場を良く示すのが、梁の武帝の命によって宝亮が編纂し、509年に完成したとされる『涅槃経集解』71巻です。

 『涅槃経集解』は、道生・僧亮・僧宗・宝亮など20名もの学僧たちの解釈を編集したものですが、編者については異説があり、宝亮撰述は疑われています。ただ、梁とそれ以前の学僧たちによる『涅槃経』解釈を集成したものであることは間違いないため、南朝仏教の教理を知るためには、きわめて重要な注釈です。

 木村氏は、この『涅槃経集解』に着目し、三経義疏における経の序分の解釈と一致している説を検討します。『法華義疏』では法雲の『法華義記』を「本義」としつつ、法雲とは別な解釈を採用したり、「一家の習う所(自分たちの派で伝統として学んできたこと)」としてある学派の共通の見解をあげたりしているためです。

 すると、法雲以前の僧の解釈と三経義疏が一致していたり、ある僧が「旧釈」として述べている説、つまり、梁代より前の時代の説と一致したりする場合があることが明らかになります。法雲の説と一致する場合もあり、一致しない場合もあるのです。

 このため、木村氏は、三経義疏は、そうした旧説を「統合した人物、もしくは学派の説を参考としたものと考えられ、法雲の説に限定されるものではない」と結論づけます。

 これは重要な指摘ですね。南朝は南斉→梁→陳と移り、隋によって南北朝が統合されるのですから、陳代あたりに、梁代とその前の南朝仏教の教理に基づき、少しだけ訂正を加えた注釈があれば、『法華義疏』は光雲の『法華義記』を「本義」としつつ、そうした注釈をも参照したと可能性がある、と私は考えていました。木村氏は、梁代とその前の解釈を使っている、という点を強調していますが。

 いずれにしても、停滞していた三経義疏研究が、こうして新たな視点で検討しなおされ、着実は研究成果が報告がなされるのは、非常に好ましいことです。私も刺激を受け、早速、複数文献の一致箇所を自動的に抽出して比較するNGSM(こちら)を用いて『法華義疏』と『涅槃経集解』の一致箇所を調べてみたところ、いろいろ面白いことが分かってきました。

 こうなると、法隆寺で後代に偽作したとか、中国北地の注釈を遣隋使が持ってきただけだといった説は、いよいよ成り立たないことになりますね。

【付記:2021年12月23日】
木村氏は、結論において、上記の事柄をまとめたうえで、「吉蔵の諸説との類似性は、非常に重要である」と述べてしめくくっています。吉蔵は、六朝時代の多くの注釈をとりこんで注釈を書いたことで有名であり、どこまでがそうした説でどこが吉蔵の新説であるかを見極めることが必要とされています。吉蔵がそれまでの教学と違う主張をするようになった重要な転機は、『法華経』に如来蔵思想を認める世親『法華経論』に出会ったことですので、そうしたことも含めて、この問題を検討していく必要があります。

三経義疏に関する最新の研究状況を「中外日報」紙に寄稿

2021年04月30日 | 三経義疏
 三経義疏については、読まずに「~のはずがない」「~に決まっている」などと発言する人がけっこういるのですが、このたび、仏教を含めた宗教関連の新聞の老舗かつ最大手である『中外日報』に依頼され、その「論」のコーナーに三経義疏研究の最新の研究状況を寄稿しました。

石井公成「三経義疏の研究状況」
(『中外日報』2021年4月21日号)

です(後に公開されたオンライン版は、こちら)。

 三経義疏については、戦前に早稲田の津田左右吉が疑い、これに反発する形で東大の花山信勝が太子撰を立証する精密な『法華義疏』研究を刊行したものの、戦後に広島大学の小倉豊文が正倉院の写経記録から見て成立の遅さを推定し、議論となりました。また、津田の弟子である早大の福井康順が、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』はともかく、『維摩経義疏』だけは他と形式が違っているうえ、太子より年下の唐の文人の文を引用しているため、成立は太子以後と論じ、論争を激化させました。

 そうした状況にあって新聞でも報道され、学界に衝撃を与えたのは、藤枝晃がひきいて敦煌写本のうちの『勝鬘経』の注釈群を研究していた京大人文研の敦煌班が、『勝鬘経義疏』と7割程度一致する写本を発見したことです。世界的な書誌学者であった藤枝氏は、後に岩波の思想大系の『聖徳太子』において、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本であり、遣隋使がもたらしたその注釈を太子が講経の場で読み上げただけだと説いたため、大論争となりました。

 日本史学界では、井上光貞などを除いては三経義疏を実際に読んでいた人は少なかったこともあって、藤枝説が主流となりましたが、仏教学界では反対説がほとんどでした。

 様々な反論がなされ検討が加えられた結果、『法華義疏』が梁の三大法師の一人である光宅寺法雲の『法華義疏』を「本義」としていて6割程度が重なっているのと同様、『勝鬘経義疏』も『維摩経義疏』も三大法師である開善寺智蔵と荘厳寺僧旻の注釈を元としているらしいと推測されるようになってきました。

 そこに乗り込んできたのが私です。私が、漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMというシステムを用い(やり方は、こちら。論文については、このブログの作者の関連論文コーナーにリンクが貼ってあります)、三経義疏は用語と語法がきわめて似ていること、しかも、森博達さんが『日本書紀』について指摘したような和習が目立つことを論証しました(このブログでも、藤枝説は成り立たないことを紹介しました。こちらこちら)。

 その結果、日本史学界でも中国成立説は消えましたが、朝鮮成立論者もわずかに残ったうえ、三経義疏の内容研究はとまってしまいました。石井説に反論するにせよ補強するにせよ、新しい発見をするにはパソコン処理を用いて多くの例を示さねばならない時代になったものの、文系研究者はそうした作業は苦手だったからというのも一因でしょう。

 そのような状態のまま10年ほどたちましたが、最近になって私が発見したのが、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の一致点の多さです。『日本書紀』によれば、推古12年の春に皇太子が「憲法十七条」を作り、推古14年に皇太子が推古天皇の請によって『勝鬘経』を講義したと記されています。

 『勝鬘経義疏』がその講経の時の台本であったか、講義時のメモに基づいて後に編纂したものかは不明ですが、「憲法十七条」と関係があると見るのが自然でしょう。ともに真作であれば両者に共通点が多いのは当然のことですし、偽作であれば、どちらも同じ人(たち)が偽作したことになります。

 「中外日報」の拙文は、これらの点について簡単に述べたにとどまります。詳細な検討や、重要であってそちらにはまだ書いていない発見などについては、10月か11月に刊行される『駒澤大学仏教学部論集』に最終講義代わりに掲載する予定です。

 戦後の古代史学は、聖徳太子の事績と大化の改新を疑うことによって進展し、「聖徳太子いなかった説」まで出るに至ったのですが、太子が島大臣(馬子)とともに天下の政治を補弼し、三宝を興隆したとする『法王帝説』の記述はかなり信用できるということになり、古代史研究は「振り出しに戻る」ことになるかもしれません。実際、そうした方向の論文が出始めていますし(たとえば、こちら)。

 なお、関連する「憲法十七条」については、本を出すことになりました。「憲法十七条」が収録されている『法王帝説』については、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説ー注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)にすぐれた成果が見られますが、仏教学者が加わっていないため、仏教関連の語の注釈にはやや難があります。

 ただ、佐藤信氏が「厩戸王とその生存時代においては、蘇我氏との関係が密接・良好であった」(148頁)と説いている箇所などは重要な点です。少なくとも、太子の晩年以外はそうであったことは確かですね。私は山背大兄と舒明天皇の皇位継承争いや乙巳の変などは、強大となった蘇我氏内部の分裂抗争と考えています。

 むろん、『法王帝説』が仏教の師としては高句麗の慧慈のみをあげて太子の学問の深さを強調している箇所などは、誇張であって後代の要素が入っていますし(最初は百済の僧が指導したはずです)、太子が七寺を建てたなどという部分は、太子の没後に「太子の奉為(おんため)」に建てられた寺を含むのでしょうが。 

 いずれにせよ、太子研究にあっては、基礎資料を、典拠や語法に注意しつつ正確に読み解くことが第一の要件です。

【付記:2021年5月9日】
「中外日報」掲載の論文では、『勝鬘経義疏』が梁の三大法師の1人である開善寺智蔵の注釈との共通性に触れました。三経義疏が三大法師の諸説と一致することは確かですが、『勝鬘経義疏』については三大法師である僧旻の説との類似を最初にあげるべきでした。この点については、秋に出る論文で訂正しておきます。

三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然

2021年02月02日 | 三経義疏

 先日、勤務先で教員向けに N-gramを用いたコンピュータ処理による古典研究法の講習をし、例として三経義疏の分析をやってみました。文系のパソコンおたく仲間である漢字文献情報処理研究会のメンバーたちで開発したこのNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)という比較分析法に関しては、2002年に東京大学東洋文化研究所の『明日の東洋学』No.8 に簡単な概説(こちら)を載せ、その威力を強調してあります。それ以来、宣伝し続けてきたのですが、文系の研究者には処理が複雑すぎたため、まったく広まりませんでした。

 ところが、一昨年の暮に、上記の主要な開発メンバーであった師茂樹さんが、私の要望に応えてきわめて簡単で高速な形に改善してくれました。その結果、大学院の私の演習に出ている院生たちは、1回講習したらほとんどできるようになりました。そこで、今回は私が所属する学部や他の文系学部の教員向けの講習をやることになった次第です。

 NGSMは、複数文献の共通する箇所や共通していない箇所をわかりやす対照表にして示すものです(具体的なやり方は、こちら)。

 ここで三経義疏についておさらいしておくと、『法華義疏』が中国南朝の梁における三大法師の1人であって『法華経』解釈を得意とした光宅寺法雲(467-529)の『法華経義記』を種本としており、「本義」と呼んでいることは良く知られています。『勝鬘経義疏』も、「本義」と呼ぶ種本に基づいているものの、その「本義」は不明でした。

 ところが、中国の西北端に位置する敦煌から出土した『勝鬘経』の注釈書の中に、『勝鬘経義疏』と7割ほどが一致する写本(E本)があることが発見され、これが「本義」だということになって大ニュースとなりました。ただ、研究が進むにつれ、これは種本ではなく、共通の詳細な祖本があったのであって、それをそれぞれ簡略化したのがE本と『勝鬘経義疏』であるらしいということになり、この敦煌写本研究を主導していた藤枝晃氏は、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本を遣隋使が日本にもたらし、太子はそれを読み上げただけだと説くに至りました。

 注釈の中身を読んだ仏教学者の多くはこれに反対していました。ただ、仏教学にも通じていてE本と『勝鬘経義疏』を詳細に比較した古代史学の井上光貞氏などは例外であるものの、経典の注釈などは読まない多くの日本史学者の間では、藤枝説が定説となりました(ちなみに、藤枝氏は世界的な書誌学者ですが、仏教教理の専門家ではありません)。漢文が苦手で仏教学にうとい虚構論者たちは、むろん原文で読むようなことはせず、「三経義疏? この時代に書けるわけがない」「~が捏造したに違いない」などと想像で決めつけただけです。

 しかし、『勝鬘経義疏』には和習が多く、中国成立説は成り立たないのであって、これについては私がNGSMを用いて論証し、何本も論文を書きました(こちら)。

 三経義疏のうち、『維摩経義疏』だけが「本義」という言葉を用いて特定の注釈を頼りに注釈することをしておらず、その他、書写記録を見ても不審な点があるため、『維摩経義疏』だけを疑う研究者もおりました。実は、私もその1人でしたが、NGSMをやってみて三経義疏の類似度の高さに驚いた次第です。

 状況は以上の通りです。『勝鬘経義疏』を「勝」、敦煌E本を「E」、『維摩経義疏』を「維」、『法華義疏』を「法」、法雲の『法華経義記』を「義」と略抄し、これらのファイルをNGSMによって4字から8字までの単位で切り出して対照させると、以下のようになります。ローマ数字は、登場回数です。ちなみに、NGSM処理に要した時間は、私のノートパソコンだと10数秒……。

  第一初二 ( 勝:4 E:0 維:3 法:14 義:0 )
  第一初二行 ( 勝:1 E:0 維:3 法:11 義:0 )
  第一初二行偈 ( 勝:1 E:0 維:3 法:6 義:0 )
  第一初二行偈嘆 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  第一初二行偈嘆佛 ( 勝:0 E:0 維:1 法:0 義:0 )

 これは、「第一初二」という言い方が、勝・維・法に見えていてE本には見えていないことを示しており、この三疏が似ていることを示しています。「第一初二行偈」は6字も共通していますので、これを日本撰述部を含む大正大蔵経データベースのSAT(こちら。数十人で作業しましたが、10数年前にネット公開作業をやったのは、上記の師茂樹さんと私です)、日本撰述部を除く大正大蔵経とその他の中国の多様な仏教文献を含む台湾のCBETA(こちら)で検索すると、なんと、この言い方は三経義疏にしか見えないことが分かります。三疏が類似していることは明らかですね。

 次のような用例も興味深いものです。

  中亦有二第一正 ( 勝:5 E:0 維:6 法:11 義:1 ) 

 「~の中に亦た二有り。第一は正しく~す」という科文(かもん=経典の内容分類、つまり異様に詳細な目次のようなもの)ですが、こうした分け方はE本には見えておらず、三経義疏と種本である法雲の『法華経義記』に共通ということですので、これをSATで検索すると、用例は本当にこれだけです。つまり、5世紀の末頃から6世紀の初め頃にかけて活躍した法雲の『法華経義記』と三経義疏だけに見えるのであって、三経義疏が等しく法雲の注釈を手本としていたことを示しています。こうした例は、他にも少なくありません。

 現代の仏教学では、地論宗の浄影寺慧遠(523-592)、天台宗の天台智顗(538-598)、三論宗の吉蔵(549-623)を隋の三大法師と呼んでいますが、智顗と吉蔵は梁の三大法師の教学を乗り越えようと努めており、小乗の論書である『成実論』を基本としていた法雲の『法華経』解釈を厳しく批判していました。三経義疏は、三論宗系と言われることもありますが、それは吉蔵が古い注釈をたくさん引用しており、そうした古い注釈と三経義疏が一致している部分が目立つためであって、基本的な学風は吉蔵とは異なっています。

 さて、『法華義疏』は、7世紀に入って書かれているにも関わらず、100年近く前の法雲の注釈の用語を用いて説明していたのです。実は、これは『勝鬘経義疏』も同様であり、三大法師の一人である僧旻の『勝鬘経』注釈に基づいていた可能性があることが指摘されています(こちら)。

 三大法師が活動した梁は、史上最も仏教を尊崇して「菩薩天子」と称され、経典の講義をしたり注釈を書いたことで名高い梁の武帝(464-549)の治世です。武帝の長男であって賢明さで知られた昭明太子(501-531)も経典の講義が巧みであって、法雲に賞賛されています。

 聖徳太子は、おそらくこれをめざしたのですね。津田左右吉は、太子を神格化しようとする僧侶がこうした例を参考にして、太子も講経したと記したのだろうと見たのですが(幅広い東洋学者なればこその推測であって、さすがです)、太子は朝鮮諸国に見せつけるためもあって、講経や注釈作成を実際にやったものと思われます。百済や高句麗の僧を家庭教師としてのことですが。

 和習の例としては、

  漢中之語 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外國 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外國云 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )

の「漢中」もその一つです。「関中」なら長安など中国中央の地を指しますし、「梵漢之語」「胡漢之語」などの言い方はたまに見られますが、中国のことを「漢中」と呼んで「これは、漢中の語であって、外国では~と言う」などと述べているのは、検索すればわかるように、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』だけです。

 和習というのは、中国の標準的な漢文と異なる変格語法ということです。百済や新羅の資料にも変格語法は多数見られますが、『勝鬘経義疏』のうねうねと続く長い文章は、『源氏物語』の文体のようであって、百済や新羅の変格漢文では見たことがありません。これについては、香雪美術館での講演で述べました。いずれ書きます。

 三経義疏に関する私の論文については、このブログの作者の関連論文のところにリンクを張ってあるうえ、また論文を発表する予定です。関心のある方は、自分で NGSMを使って三経義疏を調査してみてください。

【付記:2021年2月3日】
 私はこれまでの論文では、三経義疏は変格語法が目立つため、中国撰述説は成り立たないと論じてきましたが、日本成立、太子の作とまでは書いていませんでした。しかし、調査していて『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の類似をいくつも見出した結果、「百済・高句麗の僧に指導されて「本義」を読み、それを略抄しつつ自分の意見をはさむ形で太子が書いたと見てよい」と考えるようになりました(むろん、「憲法十七条」も百済の学者などの指導のもとで太子が書いたという立場です)。ただ、宮内庁本の『法華義疏』は太子自身が筆をとって書いたのではなく、草稿本を側近が書写した可能性が高いと見ています。
 異質な点がある『維摩経義疏』については検討すべきことが多いのですが、『勝鬘経義疏』『法華義疏』ときわめて似ていることは確かです。太子の作ということはあり得ますし、そうでない場合は、『勝鬘経義疏』『法華義疏』を読みすぎてその用語・文体でしか書けなくなった人の作ということになるでしょう。
 いずれにしても、これまで指摘されているように、三経義疏は梁の三大法師の教学が基本となっており、隋の新しい教学は反映されていません。さらに唐代になって645年から玄奘の画期的な新訳が登場するようになった後で、こんな古い学風・用語で書くのは無理であることは、現在の大学生に明治の頃の学者の論文に似せた形で文語文で卒論を書けというのと同じです。書いたとしても、ボロだらけになるでしょう。
【付記:2021年2月16日】
上の記事では、三経義疏をきちんと読んでいた日本史研究者として、井上光貞氏と曾根正人氏をあげてありました。曾根さんは実際に三経義疏を読んでいたものの、外国僧を主とする太子学団作成説を唱えた井上氏と違い、結論は中国撰述説だったので、誤解を避けるために上の部分から曾根さんの名前を削除しました。着実な研究者である曾根さんの主張については、大昔にN-gramがらみでブログで書いていましたので、ご参照ください(こちら)。当時に比べ、N-gramが簡単に使えるようになりましたので、研究者の意見も変わるでしょう。なお、曾根さんは、この問題を論じるには仏教学のかなりの素養が必要だと判断したのか、最近は難解な唯識論書の注釈に仲間で取り組み、そちらの成果を次々に発表しています。


義疏の内容に踏み込んだ田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序)」

2020年08月12日 | 三経義疏
 筆者は現在、オランダのBrill社が刊行中である Brill's Encyclopedia of Buddhism のうち、Buddhism in Vietnam という項目を悪戦苦闘しながら執筆する一方で、東大寺凝然の700年遠忌記念として来年刊行される論文集に寄稿するため、凝然の三経義疏研究に関する論文を書いています。凝然は、自ら「三経学士」と称したほど三経義疏研究に打ち込んだ大学僧です。

 前者では、現在のベトナム中部にあたるインド文化圏のチャンパ(林邑。後の環王国・占城)や、チャンパと関係深いジャワの密教についても調べているのですが、こうした東南アジアのインド文化圏諸国では、国王はヒンドゥー教の神か、ヒンドゥー色の強い密教系の観音菩薩を守護神とし、かつそうした守護神と一体視されることによって権威を保っていました。

 倭国が手本とした隋の文帝なども、梁の武帝を継承して菩薩戒皇帝を自称し、仏教に関する様々な奇瑞があったと宣伝し、また宣伝させ、自らを聖なる存在として権威づけをはかっていました。古代とはそういうものなのです。また、そのように描くのが当時の常識というものです。たとえば、梁の武帝に朝貢した婆利国の上表文では、「伏して惟うに、皇帝是れ我が真仏」と賞賛していました
(河上麻由子「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について」『史学雑誌』117(12), 2008年、28頁。こちら)。

 聖徳太子は、蘇我馬子のような一番の実力者ではなかったものの、その補佐役であって次代の天皇候補者であったのですから、生きているうちは普通の人間とみなされ、死後かなりたってから神話化が進んだなどというのは、古代というものを理解していないからこそ出てくる議論です。

 さて、前の記事で紹介した聖徳太子講義では、三経義疏のうち、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』は太子の作と見て間違いないとし、「師匠が講義する種本の注釈をまとめつつ、自分の解釈をはさみ、時に種本説に反対して見識を示すといった感じ」と述べ、こうした注釈書作成は「国威発揚の一助でもある」ことに触れました(61頁下)。これは、梁の武帝やその息子の昭明太子の経典講義がそうしたものだったためです。

 津田左右吉は、中国についても日本についても幅広く知っていたため、太子の経典講義は、そうした事例に基づく作文である可能性を示唆したのですが、実際にそうした事例をまねたものと見る方が妥当です。このことは、種本と比較しつつ、三経義疏を和習だらけの原文(漢文)で読んでみれば分かります。太子礼賛者であった花山信勝が苦労して読みやすくした訓読文しか読んでいない最近の歴史研究者には、和習の部分は見えません(津田は原文をざっと読んでいたようです)。まして、訓読さえ読まずに聖徳太子本を書いている人たちは論外です。

 凝然の三経義疏研究に関する論文を書くため、近年の三経義疏に関する論文を調べてみたところ、内容に踏み込んだ論文はきわめて少ないのが実情のようです。そうした状況にあって、今でも有益なのは、

田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序論)」
(『日本仏教綜合研究』 3号、 2005年、PDFはこちら

でしょう。

田村先生は、『勝鬘経義疏』に関する藤枝説を更に拡大して三経義疏は中国製だと論じた大山誠一説を検討し、その問題点を具体的に示しつつ「無定見」「研究史無視」「他説の曲解」などの特徴を指摘しています。また、『法華義疏』については、種本について「ここは奥深すぎて分からない」などと率直に述べている部分があること、「私の懐(こころ)」「私の釈」など、「私」の語を盛んに用いて解釈していることをなどをあげ(これは、花山信勝が既に述べていたことですが)、太子が保護した学僧の顧問団の作とする井上光貞氏の説を批判し、「多くの朝鮮人学僧の共同著作ではなくて、何人かの諸種の傾向をもった学僧たちの顧問をもった個人の著作であると考える」(3頁下~4頁上)と述べています。

大山氏の師匠である井上光貞は、東大の国史の学生でありながら、印哲の授業にも出て学んでいました。仏教学の素養はかなりのものですし、『勝鬘経義疏』の種本と言われた敦煌写本が話題となると、その写本と『勝鬘経義疏』の原文を綿密に比較して読んでいます。このため、賛成・反対はともかく、井上は、考慮すべき説を数多く述べています。読まずに想像であれこれ論じるようなことはありません。

田村先生は、『法華義疏』が教判を説明する際、一初教、二波若教、三維摩教、五涅槃教に分け、その上で四として法花教を位置づけていることに着目します。これは、『法華義疏』の種本である梁の光宅寺法雲の『法華義記』が、道場寺慧観の有名な分類である、一有相教(小乗)、二無相教(般若)、三抑揚教(維摩)、四同帰教(法華)、五常住教(涅槃)という五時教判を、光雲が法華至上の立場から、一有相教、二大品経、三維摩経、四涅槃経、五法華経と改めたのを受け継ぎつつ、四とされた涅槃に五の番号を付けて慧観の古い教判に戻したものと見るのです。

 こうした点が、種本に大幅に頼りながら、ところどころで見識を示そうとする例です。

 ただ、田村先生は指摘していませんが、三経義疏は、大部な経典である『涅槃経』を尊重する学僧たちの詳しい注釈には通じていないため、『涅槃経』と『法華経』の同異に関する詳細な議論はしていません(と言うか、読んでないからできない……)。

 三経義疏は吉蔵(549-623)の三論学の影響があるとし、推古朝以後の作とする説もありますが、『涅槃経』の一切衆生悉有仏性説を重視して三論の空の思想と融合しようと努め、『法華経』も尊重していた吉蔵の直接の影響は、三経義疏には見られません。つまり、光宅寺法雲のような六世紀前半の梁の三大法師の注釈を種本とし、それを批判するというのは、7世紀初めとしては時代遅れです。

 こんな古くさい学風の注釈を、三論宗と法相宗が盛んになって教学が大いに発展した奈良時代になって作るのは不可能ですし(つい新しい用語や思想が入ってしまう)、種本を略抄した部分以外は「在」と「有」を混同するような変格語法だらけなのですから、中国製作のはずがありません。残る可能性は、百済/高句麗作、百済/高句麗の学僧(たち)が日本で作成、それらの学僧に習った日本人が作成、です。

 最後に、田村先生が「おわりに」の冒頭で説いている結論の最初の部分をあげておきます。

  (1)『原典』が第一の資料であり、原典の精読なくして論ずることはできない。

【付記】
同じ内容が貼り込まれていたため、訂正前の部分を削除しました。
ご指摘に感謝します。

拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」の刊行

2014年04月14日 | 三経義疏
 一年間のご無沙汰でした……。などと玉置宏の挨拶のようになってしまいました。申し訳ありません。いろいろな分野に手を出して遊んでいるうちに、このブログを更新しないまま時間がたってしまいました。

 実は、この「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」論文は、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月)の続編であって、書いて提出したのは3年ほど前のことです。2012年には出るはずでした。

 ところが、この論文が収録された『奥田聖應先生頌寿記念インド学仏教学論集』(佼正出版社、2014年3月30日)が先日ようやく刊行され、送っていただいたのですが、見てびっくりしました。なんと、90名が執筆していて1156ページもあります。これでは、刊行が遅れるわけです。

 それはともかく、(上)論文では『勝鬘経義疏』を中心にしていたのに対し、 この(下)論文は、『法華義疏』と『維摩経義疏』が中心です。そして、伝統説に基づく花山信勝先生の訓読では、『法華義疏』の冒頭部分の句読すら間違っており、正しく読めていなかった個所がいくつもあることなどを明らかにしました。また、漢文として誤っていたり、奇妙であって他に用例がない表現が多いことも指摘しました。

 一例をあげれば、『法華義疏』に多く見えていて「ひとしく賜ふ」と訓まれてきた「平賜」は、『法華経』にも見える一般的な用語である「等賜」と違って、現存文献では『法華義疏』にしか見えません。『法華義疏』は、「ひとしく説く」の意味で「平説」という表現もしています。しかし、この用法は、『法華義疏』をのぞけば、有名な経典や中国の注釈には見えません。

 「平等」という言葉が示すように、「平」には「等しい」という意味もありますが、『法華義疏』はかなり特異な表現をしているのです。しかも、通常の漢文には出てこない表現が少なくありません。

 ほかには、「不清去(清く去らず)」などもそうです。この表現は、検索できる限りの現存文献では、『維摩経義疏』に3回、『法華義疏』に2回見えているのみであって、「(解釈が)スッキリしない」の意で用いられています。こんな表現は、仏教漢文に限らず、中国の古典や史書などにも全く見えません。

 そればかりか、「猶不清去(なお清く去らず=やっぱり、スッキリしない)」という表現も、『維摩経義疏』と『法華義疏』に1例づつ見えるのみです。

 したがって、三経義疏の中で一つだけ形式が異なると言われてきた『維摩経義疏』も、表現では『法華義疏』などと非常に似ていることになります。しかも、これを書いた人は、訓読風な文章で考え、自己流の漢文を書いているのです。

 三経義疏が中国の学僧の作でないことは明らかです。韓国の場合、古い文献や木簡などがあまり残されていないのですが、現存文献に限って言えば、「不清去」その他の表現は、新羅・高麗の注釈などにも見られません。それどころか、後代の日本の仏教文献にも出てこないのです。

 漢文として明らかにおかしい表現もあります。たとえば、『法華義疏』では、「起」と書けばすむところを、「為起(起こるを為す)」と記している個所があります。『日本書紀』にも同様の表現があり、これが和習であることは森博達先生が指摘ずみですが、三経義疏にはそうした不自然な「為~」という表現が多いのです。このタイプの表現も、今のところ韓国の金石文や木簡などの用例は報告されていません。

 三経義疏には、このような表現がたくさんあります。日本古代史学では、これまではそうした点に十分注意しないまま、中国の注釈だとする藤枝晃先生の説を鵜呑みにしたり、奈良朝の偽作だと説いたりしていたのが実状です。しかし、文体や表現に注意しないで著者や成立地や成立年代を論じるなど、まったく無理な話でしかありません。

 三経義疏に聖徳太子が関わっていたかどうかはまた別な問題ですが、ともかく、研究にあっては資料をしっかり読むことが出発点であることを、改めて痛感させられました。

 この論文の PDFについては、いずれ、このサイトで公開する予定です。

【付記:2021年2月4日】
「いずれ」と書いていながら、そのままになってました。(上)はこちらで、(下)はこちらです。
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三経義疏の変格語法に関する論文の続編を提出

2011年12月01日 | 三経義疏
 今、ハノイのホテルです。明日からハノイ国家大学で短期集中講義をし、漢喃研究院などで古書の調査をして7日に帰国します。

 締め切り遅れの仕事に追われていましたが、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」の続編については、ベトナム出張前に某記念論集の編集事務局あてに何とか提出できました。刊行期日はいつになるか聞いていません。おそらく3月末か4月あたりになるものと推測しています。

 今回の拙論は続編であるため、「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」という題名にしてありますが、森博達さんのご教示により、今後は「変格漢文」という呼び方にすることにしました。今回の論文でも、本文では「変格」の語を用いています。

 (上)論文では主に『勝鬘経義疏』を扱いましたので、今回の(下)論文では、『法華義疏』と『維摩経義疏』を中心にしました。今回は(中)として『法華義疏』だけ取り上げ、『維摩経義疏』の用例は(下)に回そうかとも考えたのですが、どの疏も変格語法がどっさりあり、詳しく検討していると『法華義疏』だけでも(中の一)(中の二)(中の三)……などとなっていきそうでした。

 そこで、(上)や(下)という題名で変格語法については論ずるのは今回で終りにすることとし、思想に関する論文を一本書いたうえで、以後、語法関連の論文については、「三経義疏における尊敬と謙譲の表現」といった形で、個別のテーマごとに扱っていくことにした次第です。

 「当時の日本仏教の状況を考えると、日本撰述とは思われない」とか、「天才であった聖徳太子以外に書けるはずがない」などと推測だけで断定するなら簡単なのですが、南北朝末から唐初ころの中国・朝鮮の仏教の状況を考慮しつつ、実際に三経義疏の原文に当たって細かく調べていくとなると、けっこう手間がかかります。花山信勝の訓読は労作ですが、親切に説明を補った形で訓んでいるため、変格漢文であることが分からなくなっており、問題が多いですね。

 さて、今回の論文では、確定には至らなかったものの、日本撰述の可能性が高いことに触れました。つまり、「中国の学僧が書いたものではない」と指摘するにとどめてきたこれまでの拙論の論調から、一歩進めたわけです。上宮王撰述かどうかは、さらにその先の問題ですが、平行して書いていた某日本思想史講座の担当個所(受容期から奈良時代の仏教)では、一般向けの概説であって論証過程は書けないため、三経義疏は上宮王撰と見て良いと記してしまいました。御物本の『法華義疏』は、乱雑な訂正がなされた草稿を急いで書写したものであって、見事な書体であれを書いた人は著者とは別人だと思いますが……。

 今回の三経義疏論文を書いてみてよく分かったのは、これまでは、三経義疏のそれぞれの疏の冒頭10行程度くらいさえ正確に読めていなかった、ということですね。その典型は、『法華義疏』の冒頭部分です。そこでは、「釈尊がこの世界に現れた意図は、この『法華経』を説いて、人々にすぐれた修行をさせ、唯一の素晴らしい悟りを得さるためだ」と述べているのですが、次のように句読を切るのが伝統となっています。

  若論釈迦如来応現此土之大意者、将欲宜演此経教、修同帰之妙因、令得莫二之大果。

 この句読に基づく花山信勝『法華義疏(上)』(岩波文庫)では、「将に宜しく此の『経』(法華経)の教を演べて、同帰(万善同じく一如に帰す)の妙因を脩し、莫二(一乗平等)の大果(大乗の極果)を得せしめんと欲してなり」と説明を補足しながら訓んでいます。

 しかし、このように、

  将欲宜演此経教、
  修同帰之妙因、
  令得莫二之大果。

と切ったのでは、七字・六字・七字となって落ち着きません。末尾の二句が対句となるよう考慮し、

  将欲宜演此経、
  教修同帰之妙因、
  令得莫二之大果。

と切り、「まさに宜しく此の経を演[の]べ、同帰の妙因を修せしめ、莫二の大果を得せしめんと欲すればなり」と訓むべきでしょう。「教」は、「教えて」という動詞でなく、「令」と同じく使役の語と見れば「~を修せしめ、~得さしむ」という対句になりますし、実際、古代朝鮮諸国の金石文などでは、「令」以上に「教」の語を使役としてよく用いています。

 普通の漢文であれば、「教~、令~」とせず、「令~、~」だけで「令」が全体にかかるのですが、「教修」という表現も仏教経典にはよく用いられますので、それに引かれたのか。それはともかく、さらに問題なのは「宜演~」です。

 これは訓読では「宜しく~を演[の]ぶべし」となりますが、この経典を演説するのが適当である、というのであれば、直前の「将欲」は不要です。「将欲」は「将」一語と同じ意味であって、「まさに~しようとする」の意ですので。ここのように「将欲」に「宜しく~すべし」の「宜」を続けた用例は、漢訳経論や中国仏教文献にはありません。

 となると、ここでの「宜」は、時期・能力に応じて「宜しく(適切に)」説く、という意味で用いられていることが考えられます。しかし、時機や相手の能力に応じてうまく説くということなら「巧説」その他の言い回しがありますが、「宜演」などという用例は他にありません。「時宜」という言葉は経論では盛んに用いられていますし、『法華経』でも「随宜説法」という表現は何度か見えますが、これは「宜しきに随ひて説法す」であって、「宜しく説法す」ではありません。『法華義疏』が「宜演~」を適切な説き方で法を述べるという意味で用いるのは、「よろし」という訓に引きずられたものであって誤用なのです。

 さあ、どうでしょう? かの『法華義疏』の冒頭は、こうした変格語法がこれ以外にもいくつも見られるんですよ。また、木簡や金石文とこうした経典の注釈とでは性格が違うので、比較することはできないのですが、百済や新羅の金石文や木簡でこれまで報告されている変格漢文の中には、こうした用法は見られません。日本で書かれた可能性は十分有ります。
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中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(2)

2011年07月22日 | 三経義疏
 これまで見てきたように、曾根論文では以前の自説を改めて誠実な取り組みがなされ、有益な示唆がなされています。ただ、疑問に思われる点も少々有ります。

 そのうち、三経義疏が中国撰でないなら「第一の候補は(日本への渡来僧を含む)百済・高句麗僧であろう」とあるのは、「第一の候補は日本に渡来した百済・高句麗僧であろう」とする方が適切ではないでしょうか。もし百済や高句麗の学僧が自国で書いたのであれば、その書物が百済や高句麗で全く知られずにいるのは不自然だからです。曾根さんは、おそらく渡来僧に重点を置きつつ上のように書いたのでしょうが。

 鎌倉時代に法隆寺で開板された三経義疏のうち、『法華義疏』は現存する御物本に基づく模刻であるほか、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』も、『法華義疏』と共通する古風な異体字などから見て、『法華義疏』御物本にきわめて似た体裁の古写本の模刻であったことは、花山信勝が早くに詳述しているところです。

 つまり、三経義疏は、学風だけでなく、体裁も似ていたことになります。だからこそセットにされたのですね。曾根さん自身も、注12では、性格の異なるものを組み合わせることは考えにくく、特に外国僧と日本僧の注釈を組み合わせることは想定しにくい、と述べている通りです。

 今日まで奇跡的に痛みが少ない状態で伝えられてきた『法華義疏』御物本は、紙が貴重な7世紀前半あたりに、隋の上質の紙を用いて書かれているため、他の二疏も同様であったと推測されます。

 しかし、中国の注釈を参照しつつそうした高級紙を使って『勝鬘経義疏』1巻、『法華義疏』4巻、『維摩経義疏』3巻というそれなりの質と量を有する3部の注釈を書けるのは、かなりのエリートに限られるでしょう。そのようなエリートである百済僧や高句麗僧が自国で人気経典の注釈を3部も書いていたとしたら、そのことがそれぞれの国で全く知られずにいるとは考えにくい。

 しかも、百済が滅亡した時期には、貴族や僧侶を含む多くの百済人が日本に渡ってきていますし、百済の時ほどではないものの、遅れて滅亡した高句麗からも僧を含めたかなり数の人々が日本に渡って来ています。『日本霊異記』に見えるように、高句麗に留学していた際に高句麗滅亡時の戦乱に巻き込まれ、必死で逃れて中国に渡り、長年の苦労の末、ようやく日本に戻ってきた日本僧もいました。

 実際、法隆寺が蔵する甲午年銘(持統8年、694年)の造像記板には、鵤(斑鳩)大寺の徳聡、片岡王寺の令弁、飛鳥寺の弁聡という、百済王の家系である3人の僧が父母の恩のために観音像を造ったと記されています。7世紀末には、再建が進みつつあった法隆寺および太子と関係深い寺々に百済系の僧、それも貴族の血を引く僧たちが確実にいたのです。これは、百済の首都となった扶余の寺院のほとんどが王家や官に関わる寺であったことが示すように、百済仏教が中国南朝を手本とした貴族仏教であったことと関係しているでしょう。

 そうした朝鮮からの渡来僧、朝鮮諸国に留学した日本僧、朝鮮経由で入唐した日本僧たちが仏教の指導役として法隆寺や飛鳥寺を含めた各寺で活躍しているのに、また仏教受容期から奈良朝前半あたりまでは、朝鮮諸国や唐への留学僧の多くが朝鮮渡来系氏族出身であったのに、百済や高句麗の学僧が自国で書いた3部の注釈が上宮王撰とされるでしょうか。

 高句麗や百済の仏教は新羅にも影響を与えており、高句麗や百済の仏教界で話題になった書物であれば、新羅にも情報が伝わるでしょう。新羅は後にはこの二国を併合して半島を統一しますし。

 天平宝字5年(761)の『東院資財帳』では、『法華義疏』は律師行信が捜し求めて奉納したとあるため、8世紀半ばになって行信がこれら3部の注釈を上宮王撰だと言い立てて宣伝したのだとする説もあります。しかし、百済僧か高句麗僧の作、ないしその可能性のある著者不明の注釈を上宮王撰だとして宣伝していることを、日本と長く対立してきて微妙な関係にあった統一新羅に知られたら、非常に恥ずかしいことにならないでしょうか。唐に知られた場合も同様です。

 三経義疏を秘蔵して外に出さないなら、新羅にも唐にも知られずにすむでしょうが、三経義疏は天平19年(742)から天平勝宝8年(756)頃にかけて盛んに書写されていることが記録から知られます。また、その時期ないし少し後の時期には智光(709~)などの学僧たちが注釈書でしばしば引用しています。さらに、宝亀8年(777年。松本信道説による)には、得清らが『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐にもちこんで鑑真ゆかりの寺に献呈し、後に唐僧の明空が『勝鬘経義疏』の注釈を著すにまで至ったことは有名です。

 その頃の唐の有名な寺々には、百済と高句麗を併合した統一新羅から、日本の留学僧とは桁違いの数の僧たちがやって来ていました。「三経義疏は、実は百済か高句麗の作らしい」などいう噂が奈良時代の仏教界でつぶやかれていたとしたら、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐に持っていって南嶽慧思の後身である上宮王の作として誇る、などという怖いことは出来なかったでしょう。

 次に、仏教受容期の日本人に高度な教理が理解できたか、という点については、今でも欧米で広く読まれている英文著作を著したのは、新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙、忽滑谷快天その他、開国して数十年しかたたない明治期の知識人たちであることも考えるべきでしょう。

 彼らが有名な英文著作を書いたのは、海外渡航後ですが、横浜で育った岡倉天心などは、幼い頃からアメリカ人宣教師に英語を学び、帝国大学ではフェノロサに習い、フェノロサの奈良古寺調査に当たっては助手となって通訳を勤めています。

 飛鳥は渡来系氏族が活躍した地であり、飛鳥仏教は、日本風な色づけも少々なされているものの、基本的には朝鮮仏教です。斑鳩寺を建てた厩戸皇子は、百済と結びついていた仏教推進者である蘇我氏系のエリートですので、天心のような環境で育ったと考えるべきでしょう。庶民や地方の中小氏族の子弟と同一視することはできません。

 厩戸皇子以外の日本人が関与したとしても、育ちは厩戸皇子と同じようなものでしょう。それに、三経義疏は、種本を要略した部分以外で自説を強調している箇所は、どの疏も変格漢文が目立ちます。百済・高句麗僧であれ日本人であれ、中国に長いこと留学していた人なら、あのような漢文にはならないはずですす。

 というより、朝鮮渡来僧が書いたのか、日本人が書いたのか、という二者択一はそもそも成り立たないのですね。ここで振り返るべきなのは、古代において帝王や聖人の作などという場合、自分ですべてやったという意味ではないように、「上宮王撰」の場合も太子の保護のもとで朝鮮系外国僧(たち)が書いたという意味だ、それが平安朝以後の太子信仰の中で太子一人の作とされるようになったのだ、講経にしても外国僧による講経を太子が主催したという程度なら「むしろ大いにありうる」、と説く井上光貞説でしょう。

 検討すべきなのは、その外国僧は一人だったか複数だったか、その僧(たち)の出身国や学系はどれなのか、厩戸皇子ないし他の日本人の関与があったのか、あったとしたらどの程度のものか、コメントを少し付した程度か、種本の講義と抄出をしてもらいながら質疑を重ねつつ書かせた(書いた)りしたのか、といった問題ですね。

中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(1)

2011年07月19日 | 三経義疏
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の個別論文紹介の第四弾は、曾根正人さんの三経義疏論文です。

 『アリーナ 2008』に掲載された曾根さんの「廐戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」については、以前、このブログで紹介しました。すなわち、『法華義疏』の内容や、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈の学系などについて、曾根論文が重要な指摘をしていることについては評価するものの、曾根論文が大前提としている藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説は誤りであり、曾根論文での考察結果は、藤枝説に従わなくてもそのまま生かせるはずだ、と論じたのです。

 今回の曾根論文はその論文の増訂版ですが、この間に私の藤枝説批判の論文が2篇刊行され(そのうち、短い方はPDFで読めます)、また639年に書かれた百済王室の「舎利奉安記」の文言との類似から百済仏教と三経義疏の関係の深さを強調した瀬間正之さんの論文(増訂されて『日本書紀の謎と聖徳太子』に収録)が刊行されたことなどを考慮したためでしょうが、今回の論文では曾根さんは藤枝説に従わなくなりました。

 これまでは藤枝説支持で論文を書いて来たことは明記されていませんが、「中国以外の成立とする有力説も見えている」(267頁)として注で石井の2本の論文を引き、自説の重要な根拠の一つとしていた中国撰述説が崩れたことを率直に認め、そのうえで様々な問題に誠実に取り組まれたことは高く評価されるべきでしょう。

 さて、曾根論文では、『勝鬘経義疏』中国撰述説が絶対のものでなくなったことを認めたのですが、だからといって三経義疏をただちに厩戸皇子撰述とすることはできないとし、その立場から様々な問題を提示しています。まず、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』と『維摩経義疏』は性格が異なることが早くから指摘されている以上、『勝鬘経義疏』が中国撰述でないということになっても、他の2疏については検討がまだ十分でないこと、『勝鬘経義疏』は中国撰述説でないとしても、朝鮮撰述か日本撰述かなどはまだ明らかにされていないことが指摘されます。

 また、仏教受容期であって留学もしていない厩戸皇子にこれだけのものが書くことが可能だったのか、三経義疏が日本製ならば、以後、日本僧の著作が残っておらず、奈良後期まで空白になってしまうのはなぜか、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈は三論宗であったと伝えられており、三論教学は江南の成実学が強い三経義疏とは学風が異なる以上、三経義疏は厩戸の著作でないとすべきなのか、従来の伝承説が示すような慧慈の学系を考え直すべきなのか、といった種々の疑問が提示され、そのいくつかについて実際に検討がなされています。

 つまり、明確な結論を出すには至らないものの、三経義疏中国撰述を前提としてきた自説とぶつかる状況に正面から向き合い、いろいろ摸索する中で、様々な問題点がこれまで以上に明確になって浮かびあがってきたという状況でしょうか。

 そうした摸索の中で、曾根さんは、「日本人撰述・厩戸皇子撰述の新たな可能性が出てくることはあり得る」と認めつつ、「日本人や厩戸皇子以外の撰述ではない」という結論を導くのは、極めて難しい」と述べます(280頁)。そして、三経義疏が中国成立でなく、仏教を受容して間もない日本人の作でもない可能性が高いとなれば、第一の候補は百済・高麗僧であり、「飛鳥仏教との親密度からすれば、百済僧の可能性がもっとも高いと考えられる」とまとめています。これは大きな変化ですね。

 曾根論文は、その結論において、三経義疏そのものの研究や百済での発掘成果に関する研究の進展によっては、『三経義疏』の背景にある「朝鮮仏教像」そのものが修正されていくことも考えられるとし、次のように結んでいます。

「『三経義疏』をめぐる問題は、いまや厩戸皇子や飛鳥仏教を超えて東アジア仏教の問題なのである。」(280頁)

 こうした言葉は、従来の日本史研究者の発想からは出てこないものであり、三経義疏研究が新たな段階に入ったことを示すものです。

 なお、これまでの私の論文では『勝鬘経義疏』の変則語法を中心に論じていることは確かですが、その関連で『法華義疏』と『維摩経義疏』の漢文の変則さについても触れており、こちらも中国撰述でありえないことを示してあります。『法華義疏』と『維摩経義疏』の変則語法に関する詳しい検討は、この秋に論文原稿を提出して来年刊行される予定です。ただ、語法や思想の特色を指摘する程度で、それ以上には踏み込めないでしょう。慎重に論じようとすると、けっこう手間がかかりますので。

橘堂晃一「トユク出土『勝鬘義記』について--トルファン、敦煌そして飛鳥--」

2011年06月04日 | 三経義疏
 このブログのタイトルの制限は「全角50字以内」です。そのため、普段は、こちらで簡単なタイトルを付け、論文や研究書については題名を示すだけにとどめてサブタイトルは記事の中で紹介していたのですが、今回はサブタイトルが面白いため、そちらを優先しました。

橘堂晃一「トユク出土『勝鬘義記』について--トルファン、敦煌そして飛鳥--」
(『仏教文化研究所紀要』第46集、2007年12月)

 うん、なかなか良いですね。橘堂氏は、敦煌写本研究の伝統で知られる龍谷大学西域研究会の研究員です。

 さて、中国の西北端に位置する敦煌の洞窟で発見された膨大な写本に含まれる『勝鬘経』注釈書類のうちに、聖徳太子の作と伝えられる『勝鬘経義疏』とかなり似ている『勝鬘経』注釈書(奈93)が存在することが報道されたのは、1968年のことでした。橘堂氏にならって、以下、この写本を敦煌本と呼びます。

 この敦煌本こそ、『勝鬘経義疏』が「本義」と呼んでいる種本だろうということで、藤枝晃先生はこれを『勝鬘経義疏本義』と名付けました。そして、『勝鬘経義疏』はこの『勝鬘経義疏本義』を抄出してできた出来の悪い注釈であって、遣隋使が持ち帰ったものと説いたため、大論争になった次第です。

 しかし、藤枝先生がひきいる敦煌写本研究班の一員として『勝鬘経』注釈を担当し、最初にこの類似を発見した古泉圓順先生は、敦煌本が『勝鬘経義疏』の直接の種本なのではなく、元になった注釈が別にあって、それを敦煌本と『勝鬘経義疏』がそれぞれのやり方で抄出して作成したのだと論文で主張しました。藤枝先生も、後にそうした成立過程説に変わりましたが、古泉先生とは少し意見が違う点もあります。
 
 ただ、その古泉先生も、敦煌写本の研究をしていた他の研究者も、敦煌本については、中国北地の地論宗の学風を受けた注釈と見ていました。これに対して、金治勇氏は、敦煌本は『成実論』を基礎学として尊重したことで知られる梁の三大法師の一人である僧旻(467-522)の『勝鬘経』注釈、つまり江南に位置した南朝の注釈なのであって、これが『勝鬘経義疏』の「本義」と推定しました。

 金治氏は、三経義疏のうちの『法華義疏』は、梁の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』を本義としているように、『維摩経義疏』は、智蔵(454-522)の注に基づくとも主張していました。つまり、三経義疏はそれぞれ梁の三大法師の注釈を手本としており、すべて江南の学風を継いでいると主張したのです。

 金治氏は聖徳太子礼賛者ですが、三経義疏を太子作として誉めたたえるだけの駄作論文を書く人が多い礼賛派の中では、珍しく着実な文献学的研究をしていた研究者です。

 ところが、最近、この問題に関連する西域の資料が発見されました。大谷探検隊が敦煌のさらに西に位置するトルファン地区のトユク(吐{山谷}溝、トヨク)で発掘し、現在は写真だけが残る587年書写の写経断片と同じ写本の一部と思われる断片が、旅順博物館が所蔵する大谷探検隊将来資料のうちに見い出されたのですが、それが敦煌本や『勝鬘経義疏』に類似する『勝鬘経』の注釈だったのです。これを橘堂氏はトユク本と呼んでいます。

 旅順博物館と龍谷大学の共同研究において、この断片を研究した橘堂氏は、断片のうちに見られる「四種生死」と「従識窟出」という文句に着目します。「四種生死」というのは、金治氏が僧旻の説であることを指摘し、敦煌本は僧旻の注釈だと主張する際の根拠とした術語です。その術語が、トユク本のうちにも見られたわけです。
 
 もう一つ橘堂氏が注目したのが、「従識窟出」という句です。橘堂氏は、三論宗の吉蔵が「成論師」や『成実大乗義』の説として「(衆生は)無明識窟」より「流来」してこの世に生まれたとしている箇所を指摘し、吉蔵が「成論師」と言って批判する場合は梁の三大法師を指すとする通説に注意します。すなわち、敦煌本や『勝鬘経義疏』と似ているトユク本は、江南の成実師の注釈が西域のトルファンまで伝わったものであり、金治説が妥当である可能性が強まったとするのです。

 藤枝先生は、敦煌本と『勝鬘経義疏』は良く似ているものの、科段の進行の仕方が違うことを指摘していました。経典を章・大段落・中段落などに分けていく際の分け方は同じなのに、段落の意義の説明と個々の箇所の説明の順序が違っていたのです。藤枝先生は、「本義」は科段進行は敦煌本より『勝鬘経義疏』の方に近かったろうと推測していましたが、今回のトユク本は、まさに『勝鬘経義疏』の科段進行に近いものでした。

 橘堂氏は、敦煌資料における写本の多さから見て、西域ではトユク本より敦煌本のタイプの方が広まっていたと推測していますが、トユク本・敦煌本・『勝鬘経義疏』もすべて、「成論師」と呼ばれた江南の『成実論』尊重派の系統の注釈と見ます。ただ、トユク本が敦煌本と『勝鬘経義疏』の共通の祖本なのか、あるいは『勝鬘経義疏』は敦煌本を「本義」としつつ、トユク本のような注釈も参照した結果、あのような科段進行になったのかについては、現時点では結論は出さずにおくとしています。

 無難な判断でしょう。ただ、私は、敦煌本については、学風が違う面もあるため、梁の三大法師の系統の注釈でなく、それに基づいて北地の解釈を入れたものと見るのが妥当ではないかと考えています。

 『勝鬘経義疏』は変則漢文が多く、中国撰述とは考えられないことは2本の論文で論証した通りですが、以上のように、『勝鬘経義疏』に関する研究状況は変わりつつあります。『勝鬘経義疏』は中国北地で作成された敦煌本に似ているから、『勝鬘経義疏』も中国北地の作だとする説は、成り立たなくなりました。だからといって、聖徳太子の作と論証されたわけではありませんが。

 それにしても、この論文のサブタイトルが「そして飛鳥」となっているのが気になりますね。飛鳥時代の日本という一般的な意味なのか、飛鳥寺での作と見るなどの理由があって「斑鳩」という言葉をわざと避けた意図的なものなのか。

 さて、本日は、近代仏教史研究会で戦中・戦後の聖徳太子像の変化に関する発表です。著名な教学者たちの変節と戦争責任がらみの内容なので気が重い……。これから発表資料の残りを完成させ、コピーして綴じる作業に入ります。「人間聖徳太子」という点を明確に意識した最初は、戦争末期の亀井勝一郎みたいですね。

【追記:2011年8月16日】
吉蔵が『成実大乗義』の説として「(衆生は)無明識窟」より「流来」してこの世に生まれたとしている点については、奈良時代後半に書かれた『東大寺六宗未決』の成実宗の疑問の箇所が、まさにこの無明から生まれて三界に入るという問題で始まっていることからも裏付けられます。
【追記2021年2月3日】
インドや西域の地名の表記は様々ですが、この記事を書いてから10年近くたった本日、題名は「トヨク」でなく「トユク」となっていることに気づきました。美術史の宮治昭先生などは、吐峪溝を「トヨク石窟」と書かれているため、そう思い込んでおりました。橘堂氏には申し訳ない次第です。

三経義疏が中国作でないことの念押し論文: 石井公成「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」

2010年12月24日 | 三経義疏
 以前、このブログでお伝えしていた三経義疏の語法に関する拙論がようやく刊行されました。

石井公成「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」
(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月)

です。予定より遅れたため、抜刷が出るのは来年となりました。PDF公開が始まれば、リンクするようにします。

 藤枝先生の中国撰述説を否定した拙論「三経義疏の語法」(『印度学仏教学研究』57巻1号、2008年12月)の詳細版ですね。朝鮮俗漢文の語法が含まれている可能性もあるため、今回は題名では「倭習」という語を用いず、「変則表現」としました。三経義疏それぞれの冒頭部分を検討し、三経義疏だけに共通していて他の諸文献には出て来ない表現が多く、しかも中国の知識人が書く漢文とは異なる変則表現が多いことを論じたものです。

 共通表現については、簡単に説明して一覧表を末尾に並べるだけにしてています。三経義疏に共通して出てくる表現を、仲間たちと開発したNGSMというプログラムで自動的に抽出し、それが漢訳経論や中国・朝鮮・日本の仏教文献ではどの程度用いられているか、私自身長く関わってきた SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)、そして、SATと協力関係にあった台湾の CBETA(中華電子仏典協会)のデータによって検索したものです。

 三経義疏だけに出てきて他には全く見えない例のほか、『法華義疏』の種本となった梁代の光宅寺法雲『法華義記』と三経義疏とにだけ共通する表現、三経義疏と新羅や日本の文献にだけ出てきて中国文献には見えない表現などををあげて注記しておきました。『勝鬘経義疏』はS、『法華義疏』はH、『維摩経義疏』はYで表しており、H:10 とあるのは、この言い方が『法華義疏』に10回出てくる、という意味です。こんな感じの一覧表が何頁も続いています。

自有二。第一  (S:1 H:10 Y:14)  *他に、『法華義記』36例のみ
自有三。第一  (S:1 H:1  Y:9)   *他に、『法華義記』9例のみ
有二。第一挙  (S:1 H:7  Y:7)   *他に、『法華義記』2例のみ
有二。第一初二 (S:2 H:3  Y:1)
有二。第一嘆  (S:1 H:1  Y:1)
有二。第一直  (S:7 H:26 Y:7)
第一先列     (S:1 H:4  Y:3)  *他に、『法経義記』3例、
                     『涅槃経集解』1例のみ
第一可見。就第二 (S:1 H:6 Y:5)
第一初二行偈   (S:1 H:6 Y:3)
第一初三     (S:1 H:3 Y:2)   *他に、日本『因明論疏明
                      燈鈔』1例のみ
第一直述     (S:2 H:1 Y:2)
第二釈標疑云   (S:1 H:4 Y:3)
第三従是故以下結 (S:1 H:1 Y:1)

 三経義疏の科文(かもん=内容分類)は、いずれも『法華義記』の用語に基づいており、それをちょっとだけ変えることによって中国や朝鮮の文献には無い三経義疏だけの独自な形になっていることがよく分かりますね。

 日本にも無い場合が多いのは、現存する日本の他の注釈は、中国仏教が確立した隋唐の仏教文献の表現を基本としているからです。上のリストのうち、『法華義記』以外に出てくる『涅槃経集解』は、『法華義記』の少し前に同じ系統で編集された梁の注釈集成文献です。

 リストのうち、「第一可見。就第二(第一は、見るべし[最初の部分は、経文を見ればわかるだろう]。第二に~就きては……)」とか「第三従是故以下結(第三に『是故』より以下は、~を結ぶ)」などという長たらしい言い方が三経義疏だけに共通していて、現存する中国・朝鮮・日本の注釈に用例が全く見えないのは、三経義疏が同じ著者(たち)か同じ学派のきわめて近い人々によって書かれた証拠ですね。

 むろん、中国でも朝鮮諸国でも、多くの注釈が失われており、中には三経義疏と同様に『法華義記』系統の用語を使ったものもあったでしょう。上記の調査によって言えることは、「現存文献で電子化されていて簡単に検索できるものついては……」ということです。敦煌写本などはまだほとんど電子化されていませんし。

 変則表現については、『勝鬘経義疏』の冒頭の部分を中心に論じましたが、最初の数十行だけでも標準的な漢文の語法に外れた表現がたくさん出てきます。また、『勝鬘経義疏』と内容が7割ほどまで一致することで有名な敦煌出土の『勝鬘経』の注釈と比較し、文体がいかに違うかについて、以下のように書いておきました。『勝鬘経義疏』が「苦仏已過(苦は、仏はすでに過ぎている)」と、日本語の文をそのまま漢字にしたような文を書いている部分です。

「また、『苦仏已過』もおかしい。普通の漢文であれば、『苦仏』という仏が既に過ぎてしまったように読めてしまう。一方、敦煌本は、該当する箇所では、……『此苦、於仏乃是過去(此の苦は、仏に於いては乃ち是れ過去なり)」(452a)としており、意味は明瞭である。
 すなわち、Sは敦煌本と内容が七割ほど内容が一致すると言われているが、文章はこれほど違うのである。」

 むろん、語句が完全に一致する箇所も多いうえ、敦煌本にも漢字の誤記・誤写はあるものの、『勝鬘経義疏』のように語順が大幅に違っている箇所や、副詞を形容詞として用いる類の文法の間違い、平安朝の物語のようにうねうねと長く続く文などは全くありません。

 今回の論文は(上)としましたが、続篇は(下)になるか(中)になるか未定です。三経義疏の思想を扱った論文はその後で書きます。三経義疏と聖徳太子の関係の有無について書くのは、さらにその後になるかもしれません。きちんと論ずるためには、それなりの準備が必要ですので。それまでには、田村晃祐先生の『法華義疏』の研究書が出ているでしょうし。

【追記 12月24日夜】
拙論を含む論集が22日に学部事務室に届けられたため、刊行月を「12月」と記しましたが、改めて見たら、論集の奥付も論文のヘッダも当初の予定日であった「10月31日」のままでした。訂正しておきます。
【付記 2021年5月5日】
三経義疏に関する拙論については、このブログの画面右側に出る「作者の関連講演・論文」コーナーにリンクを貼ってあります。この論文については、こちら

伝言ゲームで増幅される誤り : 宮脇淳子「つくられた聖徳太子」

2010年08月09日 | 三経義疏
 モンゴル史を中心とする東洋史家である宮脇淳子氏は、一般向けの歴史講座の連載第一回目を、聖徳太子に関する意外な話の紹介で始めました。

宮脇淳子「(淳子先生の歴史講座--こんなの常識!)日本誕生① つくられた聖徳太子」(『歴史通 WiLL別冊』7月号、2009年7月)

です。誤りが目立ちますが、論文ではなく、気楽に読める歴史娯楽読み物といった感じで書かれていますので、内容は紹介しません。気になったのは次の発言です。

「日本人が仏教学上の本を書くようになるのは、仏教を導入した聖徳太子の時代から、二百年近くたった弘法大師が初めてでした」(162頁)

だから、三経義疏が太子の作であるはずがないというのですが、これは史実と全く異なります。朝鮮三国に比べて大幅に遅れていた日本の仏教学も、奈良時代中期あたりになると、玉石混淆ながら注釈がいろいろ書かれるようになっており、中でも三論宗の智光や華厳宗の寿霊などは、多くの文献を引用し論評するまともな注釈を書いていて、今日まで伝えられています。また、奈良末から平安初めにかけて活躍した三論宗の安澄の注釈などは、学術的価値の高い立派な著作です。

 それなのに、なぜ宮脇氏のような断言がなされるのか。これは、「京都大学東洋史学科に進級したときから可愛がっていただいた、藤枝晃先生の研究に基づいています」(161頁)という発言から分かるように、藤枝先生の困った断言癖に基づいているようです。

 藤枝先生が、一般市民向けに語った内容を編集した藤枝晃『敦煌学とその周辺』(なにわ塾叢書51、大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1999年)では、藤枝先生は次のように述べています。

 京都大学人文科学研究所で私と同僚だった上山春平君が「三経義疏は聖徳太子の作ではないということをうちの研究部で研究しているところで、奈良時代にはこれという仕事はない。だから、日本人の著作らしい著作というのは弘法大師が始まりでしょう」と言いましたら、中村[元]先生が大変に怒られて、大論争になったようです。(120頁)

 上山先生は、西洋哲学出身とはいえ、仏教文献も幅広く読んでおり、空海を特に高く評価していましたので、上のような発言になったのでしょう。「奈良時代にはこれという仕事はない」以下は、「奈良時代の仏教文献は、中国や新羅の注釈を学んで多少自分の意見を加えた程度のものばかりであって、これが日本仏教だと自信を持って世界に紹介できるような思想的著作はない。そうしたすぐれた著作を生み出したのは、空海が最初だろう」という意味です。実際には、最澄もきわめて独自な主張をしているのですが、空海は確かに大物ですので、こうした上山先生のような意見があっても不思議ではありません。

 ところが、藤枝先生は、上山先生の発言を紹介した4頁後で、こう言ってます。

 飛鳥時代にそれだけ高級な注釈ができたとすれば、奈良時代にもないといけないんですが、この時代には仏教的な著作が*全くなくて、やっと伝教大師や弘法大師で本らしいものができるわけですから、そういうことがあり得るのかということですね。(*補訂者注…これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている。)(124頁)

 先ほどは、上山先生の意見を正しく伝えていたものが、ここでは、奈良時代には仏教的な著作が全くなくて……という言い方になってます。これが「言い過ぎ」であることは、藤枝先生の娘婿であって書誌学の大家である石塚晴通先生が「補訂者注」で記している通りです。宮脇氏は、くだけた場で藤枝先生のこうした放言風な発言だけを聞いて、記憶にとどめたのでしょう。

 また、宮脇氏は、太子が『勝鬘経』を講義して3日で説きおわったとする『日本書紀』の記述について、「何行か大きい声で読んだら、お見事だったということだと、藤枝先生は言っています」(162頁)と述べています。確かに、『聖徳太子集』(岩波書店、1975年)の解説では、藤枝先生は、『日本書紀』における『勝鬘経』講義の記事について、「遣隋使が持ち帰ったばかりの難しい『義疏』を、太子が天皇の前で声高く朗読したのであれば、それは正史に記載するに足る盛事であったに違いなく……」(539頁)と書いてますが、「何行か」とまでは言ってません。それでは3日間持ちませんし……。

 しかし、『敦煌学とその周辺』になると、藤枝先生は、 上の記述について、「これは『日本書紀』に書いてある、太子が『勝鬘経』や『法華経』を講じたという記事を、私がうっかり信用したことによる失敗です」(125頁)と明言して、その解釈を自ら否定しています。つまり、藤枝先生は、後になると、聖徳太子が『勝鬘経』や『法華経』を講義したという『日本書紀』の記述を疑い、講義したというのは事実でない、と考えるようになったということです。

 すなわち、宮脇氏は、歴史講座の第一回目において聖徳太子について語るに当たり、日本仏教史の最近の研究状況を確かめるどころか、師匠である藤枝先生の本もきちんと読まずに、かなり前に聞いた放談を藤枝先生の意外な学説として披露したのです。 

 上山春平 → 藤枝晃 → 宮脇淳子、という順序で、つまり、仏教文献を幅広く読んで思想を追求していた上山先生、数多くの敦煌写本を調査して書誌学の面で画期的な業績をあげたものの、仏教史や教理は専門外でその方面の論文は一本も書いたことがない藤枝先生、モンゴル史などが専門で藤枝先生よりさらに日本仏教を知らない宮脇氏、と話が伝わっていくうちに、どんどん意外で面白おかしい話になっていったわけです。恐いですね。

 なお、『敦煌学とその周辺』は、上記のような「言い過ぎ」がいくつも混じっているものの、全体としてはきわめて面白く、有意義な書物です。また、藤枝先生の『文字の文化史』(岩波書店、1971年。以後、いろいろな版が出ています)は、古い時代の文献を扱う人や文字に関心のある人にとっては必読の名著です。


師の学系から考える三経義疏論 : 曾根正人「厩戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」

2010年08月07日 | 三経義疏

 2008年の田村先生の『法華義疏』論文を紹介しましたので、同年に刊行された曾根正人さんの論文も取り上げておきます。

 曾根さんの『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館、2007年)は、森田悌『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、2005年)の方向を受け継いで大山誠一氏の聖徳太子非実在説を批判し、太子関連の諸資料について是々非々の検討を加えたものです。そのため、「憲法十七条」については、後代の粉飾や改変の可能性を認めつつも基本としては真作とする一方、三経義疏については中国撰述と見て太子撰述を否定しています。つまり、太子に関する伝承のほとんどを事実と認める立場でもなく、すべて後代の捏造とする立場でもないのです。同書には、『日本書紀』の記述は「蘇我氏顕彰譚」を利用して書かれた部分がある(105頁)、といった重要な指摘も見られます。

 同書の三経義疏に関する議論に少しだけ手を加えたのが、

 曾根正人「厩戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」
 (『アリーナ 2008』第5号(中部大学国際人間学研究所編、2008年3月)

です。
 
 曾根さんは、藤枝先生の説を支持し、『勝鬘経義疏』が中国撰述であることは確実としたうえで、「以前のように『三経義疏』をセットで厩戸皇子撰とするのは不可能である。そして『勝鬘経義疏』が中国成立だとしたら、法隆寺においてセットで伝来して来た三疏のなかで、他の二疏のみが倭国成立という可能性は低い」(192頁下)と述べています。しかし、藤枝説が誤りであることが判明した現在、状況はまったく変わってしまいました。

 法隆寺がセットとして伝承してきただけでなく、実際に三経義疏がきわめて似ており、セットとなっていることは、次の一覧表を見れば明らかでしょう。Sは『勝鬘経義疏』、Hは『法華義疏』、Yは『維摩経義疏』であって、 :  の後の数字は用例数です。

  中亦有二。第一正  (S:5 H:11 Y:6)     *他には『法華義記』1例のみ
  中亦有二。第一先  (S:1 H:8  Y:5)       *他には『法華義記』2例のみ
  中開為二。第一    (S:3  H:5   Y:10)     *三経義疏のみ
  中開為三。第     (S:2  H:2   Y:9)       *三経義疏のみ
  中開為五重。第一    (S:1  H:1   Y:1)     *三経義疏のみ
  中初開為二。第一従初訖  (S:2   H:4  Y:1) *三経義疏のみ

 いかがでしょう。これは、三経義疏中の共通部分をNGSMというプログラムで自動的に比較表示し、さらにその共通部分について大正大蔵経全体と続蔵の中国部の文献すべてを検索した結果を加えたものであって、12月刊行予定の拙論掲載リストの一部です。

 つまり、「中亦有二。第一正(~の中に亦た二有り。第一は正しく~)」という言い方は、中国・朝鮮・日本の何百という経典注釈の中で、三経義疏と、『法華義疏』の種本である光宅寺法雲の『法華義記』にしか見えないのです。『法華義記』は南朝である梁の主流であったため、その影響を受けた注釈は、中国でも朝鮮でもかなりあったはずですが、隋唐の新しい仏教が盛んになるとそれらは消え去ってしまい、シルクロードや唐の名宝が正倉院に残されているように、三経義疏という形で日本に残るだけになったのでしょう。

 さらに、「中初開為二。第一従初訖(~の中、初めに開きて二と為す。第一に初めより~訖[まで]は」という経典解釈の際の分け方は、三経義疏にしか出てこないことが知られます。こんな長ったらしい表現が一致するのは、偶然ではありえません。

 たとえば、皆さんが諸国の留学生を含んだ250人の学生を相手にレポートを課したとしましょう。法雲さんという年配の実力者である中国人学生と国籍不明の3人だけが、「の部分の中はまた二つに分かれます。第一は先ず~」と書いており、さらに、その国籍不明の3人だけが「~の部分のうち、初めの部分は二つに分けられます。第一に最初のところから~までは」と書いていて、他にも3人だけが似たような類似表現をいくつも使っていたらどうします?

 しかも、法雲さんや他の何十人もの中国人留学生たちの答案には全く出てこず、関西出身の日本人学生たちの答案だけに良く見える関西風な言い回しが、その国籍不明の3人の答案にたくさん見えていたらどう考えます? 

 おそらく、法雲さんのノートのコピーを関西仲間の日本人学生3人が入手し、一緒に話しながら勉強したのだろう、と考えるのが普通でしょう。学生は3人でなく、2人か1人であって、その学生(たち)が法雲さんのノートを見ながら、同じような形式で仲間の分を書いてやった可能性もあります。あるいは、慧慈さんとか慧聡さんなど、中国の状況を多少知っていて関西弁がまじる韓国人学生たちが、法雲さんのコピーを渡して説明してくれたうえ、レポート書きもかなり手伝ってくれたのかもしれません。

 正確なところは分かりませんが、ともかく、三経義疏は法雲『法華義記』の系統の注釈であり、非常に関係深いものであることは確かです。中国成立の全くばらばらな三部の注釈をよせ集めたものではありません。

 曾根さんは、作者問題を考えるに当たって、『上宮聖徳法王帝説』『三国仏法伝通縁起』その他の記述から聖徳太子の師の学系を推定する、という方法をとりました。そして、太子を教えたとされる高句麗の慧慈や百済の慧聡は吉蔵系の攻撃的三論宗ではなく、『成実論』を主として三論を従とする折衷的な成実・三論学派だったのではないかとする拙論「朝鮮仏教における三論教学」(平井俊榮監修『三論教学の研究』、春秋社、1990年)を引いたうえで、「三論・成実兼学で成実教学が柱になるとは考えにくい」(195頁)と述べています。

 拙論を参照してくださったのは有り難いのですが、「考えにくい」と言われても、中国江南では、実際に『成実論』中心の人や『成実論』を主として三論も少しだけ学ぶ折衷的な人々の方が主流だったのですから、仕方ありません。三論を大乗の精華として強調する一方で『成実論』などは小乗だと非難し、その『成実論』に基づいて大乗経典を解釈している法雲たちを激しく攻撃した三論師は、吉蔵や慧均その他、法朗門下の一握りの人たちに限られていました。

 吉蔵の著作は百済に持ち込まれているうえ、慧均は中国に留学した百済僧であることが最近判明しており、日本でも、後にはそうした吉蔵系の三論宗が有力になっていきますが、この問題については、曾根さんが、日本の三論宗は慧灌を始祖とするのみで「慧灌より先に来朝した慧慈がなぜ始祖とされなかったか」(196頁)という点に注意していることが重要です。

 曾根さんは、慧慈については太子を教えたことしか伝えられておらず、活動範囲が狭かったためと推測するのですが、慧慈が実際に吉蔵系でなかったから、と考える方が自然でしょう。

 また、曾根さんは、三車・四車説をめぐる『法華義疏』の解釈は、三論宗のものとは違って法雲の解釈と一致しているため、『法華義疏』は三論宗の慧慈に習った聖徳太子の作ではあり得ないとされます。これは重要な指摘であり、『法華義疏』の解釈が三論宗と異なっていることは確かですが、慧慈を太子の師と認めるのであれば、その慧慈は吉蔵系の三論宗ではなく法雲系であったから、と考える方が自然でしょう。つまり、曾根さんの指摘は、別な結論の根拠にもなりうるのです。

 慧慈や慧聡は三論宗の僧だと明言した鎌倉時代の学僧、凝然は、日本仏教は小乗に属する『成実論』に基づく学派で始まったのでなく、大乗の三論宗で始まったのだ、日本は最初から大乗仏教の国だったのだ、と主張するために、「慧慈・慧聡=三論宗説」を述べたというのが、私の考えです。

 凝然の主張が史実でないらしいことは、その凝然が、「慧慈や慧聡は三論宗だったが、『成実論』にも通じていたため、三経義疏は成実師である法雲風な解釈の仕方になったのだ」という苦しい説明をしていることからも明らかです(石井「仏教の朝鮮的変容」、鎌田茂雄編『講座 仏教の受容と変容5 韓国篇』、佼成出版社、1991年。同「聖徳太子像の再検討--中国仏教と朝鮮仏教の視点から--」、『仏教史学研究』50巻1号、2007年12月)。

 論文の末尾で、曾根さんは、『法華義疏』は「倭国には、慧慈が立脚する吉蔵系三論教学と対比させるテキストとしてもたらされたと考えられる。そして『勝鬘経義疏』などと共に厩戸皇子周辺に置かれ、『三経義疏』の神話を形成していったのである」(196頁下)と結論づけていますが、太子の師匠たちが吉蔵系の攻撃的な三論師であったなら、その厳しい批判の対象となっていた成実師系の『法華義疏』が、太子の作とされて尊重されるようになった、というのは不自然ではないでしょうか。

 以上のように、曾根さんの説は、『法華義疏』やその他の史料から曾根さん自身が読み取った内容と藤枝説との板挟みになっているため、苦しい解釈になっているように見えます。藤枝説を外してゼロから考え直すなら、曾根さんが読みとった内容は別の形で生かすことができるのではないでしょうか。藤枝先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説は、実力者である藤枝先生の勇み足であったこと、藤枝先生は敦煌文書偽作説に関しても勇み足をしており、行きすぎが訂正されつつあることは、既にご紹介した通りです。


『法華義疏』に関する最新の研究 : 田村晃祐「飛鳥時代の仏教と百済・高句麗の僧」

2010年08月03日 | 三経義疏

  前回の記事で田村晃祐先生の『法華義疏』研究に触れたので、最近のわかりやすい論文を紹介しておきます。

田村晃祐「飛鳥時代の仏教と百済・高句麗の僧」
( 『仏教学レビュー』第4号、韓国、2008年)

です(PDFは、こちら)。韓国・金剛大学校の仏教文化研究所が出している雑誌ですが、ここは海外の研究成果を紹介することを任務の一つとしているため、しばしば国際シンポジウムを開催したり研究会に諸国の学者を招いたりしており、これも田村先生をお招きして行なった講演です。日本語版と韓国語版が研究所のサイトで公開されています。以前、「もろ式:読書日記」でも、刊行されたことが紹介されていましたね。

 田村先生の研究の特徴は、『法華義疏』を御物本で綿密に読み、訂正の仕方などを初めとする写本の形態面と、経典解釈の仕方やその系統など内容面の両方に注意していることです。これは、師匠の花山信勝譲りですが、花山以上に細かい研究をされています。

 『法華義疏』については、本格的に研究しようと思ったら、活字本ではなく、御物本に取り組む必要があります。私も、大学院の演習で1年間、『法華義疏』を講読した際は、四天王寺会本版と御物本(もちろん、複製版の中古品です。書道史の研究者が所蔵していたらしく、異体字にやたら印や付箋を付けてあったため、市価の半額以下で購入できました)とを比べながら読みました。その御物本を調べるどころか、活字本すらきちんと読まず、「当時の日本の水準から考えて、中国撰述に間違いない」などと想像だけで書いたりするのは、論外です。中国撰述だと自信を持って断定したいなら、形式と内容の両面から論証すべきでしょう。

 なお、藤枝晃先生は、『法華義疏』程度の訂正をした写本は、敦煌にはいくらでもあると言われてましたが、これも断言癖の一例であって、事実ではありません。『法華義疏』は、かなり特徴のある訂正の仕方を大量にやっています。

 田村先生の論文で注目されるのは、『法華義疏』が江南の古い学問に基づいていることを、これまで以上に明らかにしていることです。『法華義疏』が、「本義」と称する種本である光宅寺法雲の『法華義記』に頼っていることは良く知られていますが、『法華義疏』は「本義」の説に反対する場合は、『法華義記』以前の説を採用し、時にはそれを簡略化し、あるいは簡明化して用いることによって、『法華義記』と異なる考え方を展開しているのです。つまり、『法華義疏』は、中国南地の古い材料を用いて、独自さを出していることになります。

 田村論文で最も興味深いのは、『法華義疏』にはかなり混乱している箇所があること、それも訂正している箇所にそれが見えることを指摘した部分でしょう。一人の人間、つまりは聖徳太子が、複数の系統の学術顧問たちの意見を聞きながらまとめたためそうなった、というのが田村先生の判断です。

 井上光貞先生の三教義疏講演や三経義疏論文は力作であって必読ですが、井上説では、三経義疏は太子の周辺にいた朝鮮渡来の学僧たちがまとめあげたものが太子の著作とされた、と推測していました。貴人の著作とされるものは、そうしたものが多いのです。しかし、田村先生は、それに反対しており、一人の人が書いたからこそ、統一が保たれつつ、上記のような混乱が時に生じたのだ、という意見です。

 私は、田村先生とは意見がかなり一致しつつ、異なる点も少しあるのですが、何と言っても、今日、『法華義疏』を最も綿密に読んでおられるのは田村先生なのですから、この研究が本になって秋か冬に刊行されるのを、わくわくしながら待っているところです。