聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

教科書における聖徳太子記述の変遷:寿福隆人「明治20年代中期の古代史教材の転換」

2021年08月30日 | 聖徳太子信仰の歴史
 「厩戸王」という呼称は、古代の文献に見えないことがようやく知られるようになってきたため、おそらく教科書から消えるでしょう。また、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』がきわめて類似しており、同じ人物が書いたとしか思われないことは先の発表報告で述べた通りです(こちら)。

 先日開催された古事記学会の関西例会では、大阪市立大学の若手研究者、岡田高志氏が、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』には、作者が好んでいるらしい共通の語法がそれぞれ複数回見えることを指摘されました。この言い回しは、『日本書紀』では「憲法十七条」以外の部分には見えないものの、三経義疏では『法華義疏』と『維摩経義疏』にも見えているのです。

 いずれ学会誌の『古事記年報』に掲載されるでしょうが、これによって、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』(を含む三経義疏)の作者が同一人物らしいことが、いよいよ確実になってきました。

 こうなると、気になるのは、教科書における「憲法十七条」や三経義疏の扱いです。古代史学界の動向では、またそれを反映した教科書では、推古天皇の時代を聖徳太子に重点を置いて説く黒板勝美・坂本太郎の図式が疑われ、聖徳太子は影が薄くなってきていましたが、今後はどうなるか。

 「歴史はくりかえす」傾向にありますので、今後の変化を予測するには、過去における聖徳太子評価の変動を見ていく必要があります。その点、興味深いのは、かなり前の論文ですが、

寿福隆人「明治20年代中期の古代史教材の転換ー聖徳太子教材の成立を通してー」
(『日本の教育史学』28号、1985年。PDFは、こちら

です。

 日本大学第一高等学校の教諭であった寿福氏は、江戸末期に「読物」として読まれ、また藩校などで「歴史の教科書」として用いられた岩垣松苗『国史略』(1826年刊)の影響に注意します。この書は、国学者や儒者の太子非難の影響を受けているため、太子は「憲法十七条」では「悪を見たら必ず正せ」と命じておきながら、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子を太子は討伐せず、寵愛して用いている、これでは「憲法十七条」は「虚文」にすぎない、といった調子の否定的な論述が目立つのです。寿福氏は、この点について、「悪意にも似た感情」が見られると述べています。

 ところが、明治10年(1877)の木村正辞『日本略史』あたりから記述のし方が少し変わり、明治20年(1887)頃の歴史教科書から太子の業績に関する記述が増える由。特に注目されるのは、明治25年(1892)の山県悌三郎編『帝国小史』では、6世紀後半から7世紀前半を太子中心で記述しようとしていることだそうです。

 つまり、天皇の事績を中心に年代ごとの事件を並べていくのでなく、「人物史」を基本とするのであって、これが以後の国定教科書につながると説くのです。

 一方、明治20年に出された文部省の「小学校用歴史編纂旨意書」(今日の指導要領ですね)に基づいて翌年刊行された神谷由道『高等小学歴史』では、太子を中心とせず、推古朝の事柄を列記しているにとどまるそうです。つまり、この時期までの文部省は、太子重視ではなかったのです。

 これが太子重視となるのは、明治21年(1888)の明治憲法、そして明治25年(1892)の「教育勅語」などに見られる天皇観、皇室に対する忠義の強調が影響を与えたものと、寿福氏は説きます。また、明治21年に文部省が出した「修身」と「愛国ノ精神」を強調する「小学校教則大綱」以降、歴史教育が次第に「修身化」しており、こうした要素がからんだ結果、臣民道徳育成に役立つ「聖徳太子教材」が成立していったと見るのです。

 ただ、「憲法十七条」は「承詔必謹」を説いているものの、これを国体教育に用いようとする場合、ネックになるのは、「憲法十七条」には「神」が出てこないことでしょう。この点については、太子を国家主義の元祖として礼賛していた戦前・戦中も、苦しい説明がなされていました。

 今後の指導要領では、聖徳太子の役割が現在よりは強調されるようになるでしょうが、天照大神の命令による天孫降臨・瑞穂国統治を説く建国神話は、太子よりかなり後になってから、仏教の影響を受けて形成されたことをどう説明するのか。気になるところです。

聖徳太子の事績を疑う見方は今後も必要:谷中信一「新出土資料の発見と疑古主義の行方」

2021年08月27日 | 論文・研究書紹介
 私は大山誠一氏の聖徳太子虚構説を批判してきましたが、それは太子の事績を疑う研究を否定するものではありません。実際、このブログでは「憲法十七条」と『三経義疏』を疑った津田左右吉に関するコーナーと、その津田の影響を受け、『三経義疏』を疑った小倉豊文のコーナーを設け、その研究者としての姿勢を尊重しているほどです。

 逆に太子礼賛派の花山信勝などについては、三経義疏に関する文献的な研究は高く評価するものの、戦前・戦時中は文部省に依頼されて国家主義的な太子礼賛本を次々に出し、終戦の詔勅を聞いた途端に、近代日本は武に走りすぎた、これからは武でなく文の時代であってその手本は聖徳太子だ、としてその立場で『勝鬘経義疏』注釈を書き始めるなど、常に時流に乗った太子礼賛をする点について、論文で批判的に扱っています。

 私が大山説を批判したのは、先行研究を尊重せず、事実誤認や空想に基づく強引な主張が目立ち、批判も多かったにもかかわらず、説得力のある批判すらまったく無視し、「学問的な批判は一切ない」などと断言し続け、新奇な話題を好むマスコミにとりあげられて社会的に影響を与えるに至ったためです。

 私は、典拠と語法の調査に基づく厳密な文献研究の結果、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』(『勝鬘経』講経)は同一人物の作であって、聖徳太子の作と見てよく、それと連動する遣隋使も太子の主導と見てよいという結論に至りました(こちら)。

 その点では、『日本書紀』や『法王帝説』の記述の重要部分を史実と認めることになりますし、聖徳太子の神格化は生前からあって次第に強まっていったと考えていますが、太子関連文献の様々な記述をすべて信じ、無暗に礼賛を、それも国家主義的な立場からの礼賛をつらねると、戦前の国家主義体制下における状況と同じになってしまいます。

 下の写真は、「承詔必謹」「背私向公」という「憲法十七条」の「御精神」を戦時下の「(東京)市民の指導教材」とするため、大政翼賛会東京支部が昭和18年2月に作成したものです。むろん、花山信勝も訓読に協力しています。



 そこで想起されるのが、中国における疑古派と信古派の対立です。中国では近代になって古代に関する批判的な研究が進むにつれ、多くの伝説が否定され、著名な文献の成立年代を引き下げるようになりました。こうした立場の研究者は疑古派と呼ばれます。これに反対し、伝承をそのまま事実と認める立場の研究者たちが信古派です。

 ところが、20世紀後半からは、疑古派の見解が否定され、文献に書かれたことを史実と受け止めて思想史研究をする動きが盛んになってきました。行きすぎと思われるような主張も目立ってきています。中国のそうした傾向を現地で見聞きし、違和感を感じたことについて述べた論文が、かなり前になりますが出ています。こちらです。

谷中信一「新出土資料の発見と擬古主義の行方」
(『中国出土資料研究』第2号、1998年3月。PDFは、こちら

 谷中さんは、津田左右吉を祖と仰ぐ早稲田の東洋哲学研究室の出身の古代中国思想研究者であって、私のちょっと上になる登山好きの先輩です。

 谷中さんは、疑古的な津田の学風で鍛えられてきたため、上の論文では、近年の中国の学者が、これまで後代の作とされてきた文献や偽書とされてきた文献をそのまま信用して使うことが増えた傾向に対し、「厳密な文献考証の伝統はどこにへいったのかという苦々しい思いもある」としたうえで、このようになった風潮について検討していきます。

 その第一の要因は、古代の有力者の墓などの発掘が進み、出てきた竹簡や木簡などに記されていた事柄が、予想外に伝承に一致する場合が多かったことです。このため、疑古派の旗色が悪くなり、信古派の研究者が増えていきました。

 その傾向を促進したのが、中国の文化ナショナリズムの台頭です。どこの国でも、自国の物事の起源を古い時代にもっていって誇りがちですが、中華意識が強く、実際に悠久の歴史を誇る中国の場合、西洋列強や日本に押さえつけられいた屈辱的な時期から脱し、国力が増してくるにつれて、それが行き過ぎがちになるのは当然でしょう。

 谷中さんは、伝説とされていた古代の夏王朝などが実在したことを解明する国家プロジェクトが1996年に発足したことを紹介し、その基本理念である「走出疑古時代(疑古の時代からの脱却)」が国家的スローガンになりつつあると述べています。中国の史書の元祖である司馬遷の『史記』では、紀元前841年から始めていますが、それをなんと、紀元前2000年までに遡らせて中国の歴史の始原としようというのです。

 谷中さんは、「疑古」というのは「信ずべき合理的根拠がない限り疑うべきである」ということだと考えてきたが、「走出疑古時代」の場合は、「疑うべき合理的根拠が現れない限り信ずべきである」とするようだと説きます。

 そして、中国の近代的な史学は、顧頡剛などが雑誌『古史弁』を1926年に創刊したことがきっかけですが、日本の中国学の重鎮だった金谷治先生は「疑古の歴史」(『武内義雄全集』月報連載)において、疑古の系譜はもっと古いのであって、司馬遷の「実証的事実主義」に基づくと説いていることを紹介します。
 
 私は助手時代に中国学会理事長だった金谷先生の指示のもとで学会大会を補佐する機会があり、その明快な判断ぶりに感心しましたが、谷中さんの引用によれば、金谷先生は上の考察において、中国の学界の疑古離れを批判し、

疑古で疑いすぎたからといって、すっかりそれを無視して伝説の世界に戻るのでは、その成果は別としても、科学的な態度とはいえないであろう。新しい思想史的研究あるいは哲学研究は、実証的な疑古の成果をふまえて、疑古とあわせて進められなければならない。

と説いており、まったく同感です。

 谷中さんは、疑古派の研究を否定する中国の学者から、「あなたは極めて深刻な疑古中毒にかかっている」から『走出疑古新時代』をぜひ読みなさいと勧められたそうですが、疑古派は考古学や社会科学を無視したように述べているのは誤りであると批判します。

 そして、新出の出土資料から見て、これまでの疑古派の説が否定され、その時代が終わったことを認めつつ、「行きすぎた疑古派を否定した後、新たに現れたのが、かつて一度否定された信古であったなどいうことがあってはならない」とする金谷先生の見解に賛同します。

 それは、実物を前にして詳細に検討すれば、疑古主義と信古主義の対立など入り込む余地はないはずだ、という理由からです。聖徳太子研究も同じですね。私は信古派ではなく、疑古派をさらに進めた「疑『擬古派』派」なのであって、その立場での研究の結果、たまたま信古派の主張と一致した部分があっただけと考えています。

中宮寺の半跏思惟像は聖徳太子の面影?:片岡直樹「中宮寺菩薩半跏思惟像と聖徳太子」

2021年08月23日 | 論文・研究書紹介
 物思いにふける中宮寺の半跏思惟像は、古代の仏像の中でもきわだって優美なことで知られています。現在は黒漆の面が出ていて真っ黒ですが、当初は、肉身部は肌色、着衣は朱・緑青・群青・丹などで彩色されており、截金も僅かに残っているため、現在のイメージとは全く異なる華やかな像であったようです。

 この半跏思惟像について、寺伝では如意輪観音としていますが、これは後代の聖徳太子信仰の中で生まれた伝承ですので、弥勒像、それも聖徳太子の面影をしのばせる像であったとする立場で検討し直した最新の論文が、

片岡直樹「中宮寺菩薩半跏思惟像と聖徳太子」
(『奈良美術研究』22号、2021年3月)

です。片岡氏は、大山誠一氏が「長谷寺銅板法華説相図」を長屋王と結びつけたのを批判して氏と論争となり(こちら)、後に研究書を出しています。大山氏が美術史の成果を無視するようになったのは、これが一因でしょう。

 さて、片岡氏は、現在は法隆寺の東隣にある中宮寺の場所から東400メートルほどのところにあって、四天王寺式伽藍配置になっていた元々の中宮寺跡から、斑鳩寺(若草伽藍)の瓦のうち、金堂の瓦と塔の瓦の中間時期の同笵品が出土していることを重視します。

 つまり、中宮寺は、聖徳太子が亡くなるふた月前に亡くなった母后のために遺族が建てた寺ではなく、おそらく太子の存命中に法隆寺と平行して造営が進められた寺と見るのです。

 太子造営の寺とされるのは時代とともに増えていきますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『上宮聖徳太子法王帝説』では、太子建立の七寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺、葛木寺(尼寺)の七寺があげられており、太子没後に太子の菩提を祈る為に建立された寺もあると考えられていますが、片岡氏は、中宮寺は太子生前に造営が始まっていた可能性が高いとするのですね。

 これが正しい場合は、飛鳥で僧寺である飛鳥寺と尼寺である豊浦寺が間近い距離で建立されたように、斑鳩でも僧寺である斑鳩寺と尼寺である中宮寺をセットとして建立したということになります。尼は僧の管轄下に置かれるため、セットとなる尼寺は僧寺から鍾が聞こえる程度のほどほどの距離に建立されるのが通例であり、奈良時代の国分尼寺も国分僧寺から500メートルほどのところに立てられています。

 ただ、稲垣晋也「聖徳太子建立七箇寺院の創建と成立に関する考古学的考察」(田村圓澄・黄壽永編『半跏思惟像の研究』吉川弘文館、1985年)などは、間人皇后が亡くなった後、皇后の宮を改めて寺としたという『太子伝暦』の記述が最も史実に近いと見ており、私もその説です。この場合、間人皇后がいた宮に瓦を用いた小さな仏殿などが設けられていて、没後に宮全体が寺に改められた可能性が出てきます。

 さて、その中宮寺の半跏思惟像は髮を双髻の形にするのは、玉虫厨子の薩埵太子など法隆寺関係の像に限られています。「尺寸王身」で造られた法隆寺金堂の釈迦三尊像の場合、顔の長さが18.8センチであるのに対し、中宮寺の半跏思惟像では19.2センチでほぼ羡一致することから、松浦正昭氏はこの半跏思惟像は「面長の数値を聖徳太子に合わせて造立された、尺寸王身の弥勒菩薩像」としており、また金子啓明氏は、釈迦像の座高は87.5センチ、半跏思惟像は87.9センチとほぼ等しいため、太子等身の聖像と見ています。

 こうした見方については、太子と釈迦を同一視するのは後代のものとする反論もありますが、片岡氏は、上記の立場で制作年代について検討してゆきます。

 中尊寺像が飛鳥寺の釈迦像や法隆寺金堂の釈迦像に比べて、技術的にすぐれていて後の作であることは明らかですが、片岡氏はこれらの像の目が古代的な杏仁形であるのに対し、中尊寺像のふっくらした目は新羅などの朝鮮仏の影響とし、さらに660年から680年頃の制作と推定される法隆寺の百済観音との類似に注意します。

 そして、木材を組み合わせて釘でとめる作成法などから見て、中尊寺像は持統朝の686年から690年初頭と見るのです。

 髮を双髻に結う例は、中国では東魏(6世紀)の弥勒菩薩の交脚像などが知られているものの、双髻の半跏思惟像は外国では見られないようですが、片岡氏は、双髻は「人間」の姿をあらわす記号であるとして、中尊寺像が金色などでなく肌色で着色されていたことに着目します。

 ただ、中尊寺像は「人間」太子という点を意識してはいるものの、同時に弥勒像なのであって、写実的な肖像としてすぐれている唐招提寺の鑑真和上像や法隆寺夢殿の行信像とは性質が異なるとしています。

 この指摘は重要ですね。聖徳太子を一人の人間とみなすのは、近代になってのことであることは、以前、「「人間聖徳太子」の誕生-戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷ー 」(こちら)という論文で論じておいた通りです。 

瓦の様式と瓦窯と造営氏族から考える飛鳥・斑鳩の寺々:小笠原好彦『検証 奈良の古代仏教遺跡』

2021年08月19日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説は、文献だけを材料としてあれこれ想像するばかりであって、考古学や美術史の研究成果を無視していました。

 だからこそ仏教受容の初期に百済の工人が招かれ、蘇我馬子の飛鳥寺→推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺→推古天皇の甥で推古天皇・馬子の娘婿である厩戸皇子の斑鳩寺(若草伽藍)→四天王寺、という順序で瓦を作成する瓦当笵が(むろん、百済の工人に育成された倭国の工人たちも)移動し、壮大な寺院が造営されていった事実に目を向けず、斑鳩寺などは推古朝に46もあった寺の一つが都から離れた地に建てられたものにすぎないのであって、「厩戸王」は国政に関わるほどの勢力はない一王族だった、などと断定することができたのです。

 また、学界ではまったく相手にされていないものの、九州王朝説の信者たちは、今でも「聖徳太子とされるのは九州王朝の多利思北孤だ」とか「現在の法隆寺は九州王朝の寺を移築したものだ」などという珍説を信じ、仲間うちの雑誌に書いたりネットに投稿したりしています。考古学については、自説に都合のよい部分だけをつまみ食い式に利用し、九州王朝の優位を説く強引な解釈をやるのが特徴です。

 つまり、自分たちは皇国史観の図式に引きずられている従来の研究を正してやっている正義の味方なのだと思い込み、大幅に進んだ考古学の成果を無視して厩戸皇子の事績を自信満々で否定する点は、虚構説論者も九州王朝信者も同様なのです。そういえば、法隆寺は焼失しておらず聖徳太子がお建てになったままだと主張する国粋主義的な太子礼賛者も、考古学の成果を無視しますね。この人たちは、立場は異なるものの、自説先行であって、自分に都合の悪い材料は認めようとしない点が良く似ています。

 実際には、若草伽藍跡からは焼けた瓦や壁画の破片が出ていますし、九州では都市開発が猛烈に進んだものの、6世紀後半から7世紀前半頃の本格的な寺院の遺跡は報告されておらず、ましてその瓦を焼いた瓦窯の跡などまったく発見されていません。それに対し、飛鳥・斑鳩のこれらの寺については、豊浦寺にしても若草伽藍にしても再建法隆寺にしても、瓦を焼いた瓦窯の跡が大和や山背などあちこちの地で発掘されており、出土する瓦の破片の研究も大幅に進んでいます。

 そうした瓦の様式と瓦窯に注意を払い、飛鳥・白鳳時代の古寺について検討したのが、

小笠原好彦『検証 奈良の古代仏教遺跡-飛鳥・白鳳寺院の造営と氏族』
(吉川弘文館、2020年)

です。

 多くの発掘調査に関わってきた小笠原氏の『日本古代寺院造営氏族の研究』(東京堂出版、2005年)は、考古学的な研究であるばかりでなく、その成果を文献とつきあわせて造営した氏族を明らかにするよう努めており、考古学と歴史学をつなぐ興味深い試みでした。

 昨年出たばかりの『検証 奈良の古代仏教遺跡-飛鳥・白鳳寺院の造営と氏族』は、学界と自身の最近の研究成果に基づき、主要な諸寺院について概説したものです。

 小笠原氏は、最初期の寺は「草堂」と呼ばれる簡単な仏堂であって、瓦葺きではなかったとし、瓦を用いた本格的な寺院は、物部守屋との合戦において蘇我馬子・上宮王側に加担した諸氏族と大和・畿内を本拠とする渡来系氏族によって建立が進められたとします。瓦の様式の変化によって諸寺院の系統とその成立順序を推定し、あちこちで発見されている瓦窯跡の調査によってその地で活動していた氏族と関係づけていくのです。

 最初はもちろん蘇我馬子が建立した飛鳥寺です。百済から技術者たちを派遣してもらって造営が始められたものの、3つの金堂が塔を囲む形は高句麗に見られる形であることはよく知られています。その飛鳥寺の瓦は飛鳥寺東南の瓦窯で作られており、創建時の軒丸瓦には文様から見て星組・花組という2種類があることから、百済から派遣された4人の「瓦博士」たちには二つの系統があったことが知られています。

 その瓦の一部には須恵器の作成法が見られるため、百済の工人たちの指導のもとで作業を担当したのは、それまで須恵器の生産に当たっていた倭国の工人たちだったと氏は説きます。本格寺院の造立のためには大量の瓦が必要なため、須恵器を造っていた工人たちを動員したとするのです。

 飛鳥寺の軒丸瓦には、百済寺院の主流であった作成が容易な八弁の蓮華文ではなく、十弁・十一弁のものが見られます。これは、百済が手本とした中国の様式であるため、そうした知識を持っていた百済の工人が中国南朝と百済の両方の形式を提示した結果、馬子が命じて百済のものよりやや大型のそうした中国式の瓦を作らせたためと小笠原氏は推定します。南朝仏教を手本としていた百済は、梁に依頼して造瓦その他の工人を派遣してもらっていますからね。

 次に推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺については、最初に建てられた金堂の跡からは飛鳥寺創建期の軒丸瓦が出ており、金堂より少し遅れる塔の造営にあたっては高句麗の様式で作られた瓦が用いられています。

 その高句麗式の瓦は、1982年の京都府宇治市の隼上り瓦窯の発掘によって、飛鳥から45キロも離れたこの瓦窯、つまり、前から須恵器を作成していた隼上り瓦窯で大量に作成されていたことが明らかになりました。この瓦が水路を利用して豊浦寺に運ばれたと推測する小笠原氏は、隼上り瓦窯が位置する山背南部の地には、秦氏および秦氏と擬制的な同族関係にあった氏族が分布していたことに注意します。

 言うまでもなく、秦氏は厩戸皇子に仕えた渡来系の豪族ですので、秦河勝は豊浦寺を造営した馬子とも深いつながりを持っていたことになります。その隼上り瓦窯から出土している高句麗様式の瓦は、豊浦寺式のものと隼上り瓦窯特有のものがあります。

 隼上り瓦窯の瓦は、飛鳥では豊浦寺、その近辺の奥山久米寺跡・和田廃寺、斑鳩・平群の地では中宮寺跡、上宮王家に仕えた平群氏の氏寺である平隆寺跡、そして隼上り瓦窯のある山背では秦氏の氏寺である蜂岡寺(北野廃寺)とそれが移転した広隆寺の瓦などに見いだされ、大量に供給していたことがわかります。

 これについて、小笠原氏は、厩戸皇子から仏像を与えられた秦河勝が蜂岡寺を建立した際、馬子が飛鳥寺の造瓦工人のうちの花組の一部を山背に派遣し、京都市岩倉の元稻荷瓦窯で蜂岡寺の瓦を焼いたと推測します。

 そして、元稻荷瓦窯の工人の一部が宇治の隼上り瓦窯に移り、その後、馬子が豊浦寺で金堂に続いて塔を建立した際、今後は逆に、隼上り瓦窯で焼かれた高句麗様式の瓦が豊浦寺に運ばれて塔に用いられたとするのです。

 説明はないですが、上記の寺々のうち、和田廃寺は『法王帝説』によれば太子が葛木(葛城)臣に賜ったとされる葛木寺とする推測が有力です。葛城臣は、守屋合戦の際、馬子側で参戦した豪族であり、「湯岡碑文」によれば太子の湯岡訪問に同道した一人ですね。

 四天王寺式伽藍配置であったと推測されている奥山久米寺跡については、厩戸皇子の弟である久米王の寺であったとする説もありますが、小笠原氏は力を入れて反論します。飛鳥寺の北東800メートルにあって蘇我氏本拠地の中枢に位置し、7世紀第1四半世紀に工事が始まっておりながら中断し、7世紀後半に完成するところから見て、馬子の弟であって勢力があったものの、山背大兄を支持して蝦夷と対立し、殺された蘇我同族の境部摩理勢の寺であったと推測するのです。

 その奥山久米寺跡では、創建時に葺かれた5種の軒丸瓦が出ていますが、そのうち4種は、飛鳥の西南に位置して吉野へ続く五條市にある今井の天神山窯で焼成されており、1種は四天王寺の軒丸瓦を焼成した京都市と大阪府の境にある楠葉・平野山瓦窯で焼成されたことが知られています。蘇我氏の寺と上宮王家の寺とに関係が深いことが着目されますね。

 斑鳩寺、すなわち若草伽藍については良く知られているためか、簡単な記述にとどまっていますが、その斑鳩寺からほど近い場所(現在の中宮寺から500メートルほど東)に建立された中宮寺は、遺跡から見て若草伽藍と同様に四天王寺式伽藍であったと推測されています。

 その中宮寺跡の軒丸瓦は、創建期のものは奥山久米寺式のものであり、七世紀半ばの瓦は、斑鳩の西に位置する平隆寺(平群寺)の瓦を焼いた平隆寺北方の今池瓦窯で用いられた瓦当笵と同じ笵型で造られ、平群氏から供給されたものです。斑鳩近くを本拠とする平群氏は、守屋合戦に参戦した氏族でもあって、再建時の法隆寺も支えたと推測されており、上宮王家と関係深い氏族です。

 ほんの一部の紹介しかできませんが、このように瓦の様式と瓦窯から寺と氏族のつながりを見ていくと、『日本書紀』の初期の仏教関連の記述は、伝説化されている部分はあるものの、史実をかなり反映していることが理解できます。

 むろん、『日本書紀』の記述を前提にして氏族や瓦について考えているため、ニワトリと卵の関係になっている部分はありますが、地域の面、また須恵器の編年の面から見ても、そう外れないという点が重要でしょう。

「憲法十七条」の「和」は断章取義であって『論語』の趣旨と異なる:佐藤一郎「中国古典における「和」と17条憲法」

2021年08月15日 | 論文・研究書紹介
 様々な共通点から見て「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同じ人物が書いており、渡来した学者や学僧の支援を受けて聖徳太子が作ったとしか考えられないことは、すでに論証しました(こちら)。ただ、私は推古朝における聖徳太子の活躍を認め、生前から神格化されていたと考えていますが、戦前の太子礼賛派の学者たちのように、太子の事績とされるものを無暗に認めて賞賛ばかりするつもりはありません。

 「憲法十七条」は中国古典の言葉を多数用いてますが、出典となった書物をすべてきちんと読んでいたわけではなく、類書の「聖」の部分に見える用例を切り貼りして用いているらしいことは、早くに指摘しておきました(こちら)。今回は、かなり前の論文ですが、「憲法十七条」はそうした中国の典拠の本来の意図を無視し、「断章取義」的に用いていることを指摘した論文を紹介しておきましょう。

佐藤一郎「中国古典における「和」と17条憲法」
(『比較思想研究』11号、1984年)

であって、比較思想学会の雑誌、『比較思想研究』が「和」の特集をやって東西における「和」の思想を論じた際、中国学の立場から書かれた論考です。

 佐藤氏は戦後、北大で長らく教えた古代中国思想の研究者ですが、伝統的な中国哲学の学風にあきたらなくなり、比較思想学会を創設して会長となったインド学・仏教学の中村元に師事するに至った人物です。この論文執筆時は、北大を定年退職して名誉教授となっていました。

 さて、「憲法十七条」第一条冒頭の「以和為貴」は、『論語』学而篇の「有子曰、礼之用和為貴、先王之道斯為美、小大由之、有所不行。知和而和、不以礼節之、亦不可行也(有子曰く、礼の和を以て貴しと為すは、先王の道も斯(こ)れを美と為す。小大、之れに由れば、行われざる所有り。和を知りて和をすれど、礼を以て之を節せざれば、また行なうべからざるなり)」に基づいているとされてきました。『礼記』にもほぼ同じ文章が見えます。

 佐藤氏は、『論語』では「和」はあくまでも「礼」によって制約されるものであり、どんなことについても「和」を先行させるのはよろしくないとされているのに対し、「憲法十七条」では、「和」は何よりも重要な要請とされている点に注意します。また、「礼の用は、和を以て貴しと為す」という訓み方は、体用思想を用いるようになった宋代儒学のものであって「憲法十七条」の時代にはふさわしくないと注意します。

 そして、『論語』の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」などの例を引き、「和」は違いを前提としたうえでの調和であって、完全一致の「同」とは違うことを指摘します。そして、儒教で最も重要とされるのは「仁」であって、「和」ではないと説きます。

 和音というのは、違う音があってこそのハーモニーなのです。だからこそ上下関係を基本とする身分・立場の違いを秩序づける「礼」を、ハーモニーである「楽(がく)」によって補完するのであって、「礼」と「楽」は一体のものであることを強調します。ところが、「憲法十七条」では「礼」は盛んに説かれるものの、「楽」はまったく登場しません。

 佐藤氏は、『論語』以外の「和」の例を検討し、『老子』では「和」を個人の心身の調和として説いていること、「中和」を強調する儒教の『中庸』では、「中」が根源的なあり方であって、それが現実に現れた際、様々な異なるものが節度にかなっている状態を「和」としていることなどを説きす。

 そこで、佐藤氏は、「憲法十七条」の「以和為貴」について、次のように述べます。

この句は有子言の前提である「礼」と和との関係を切除したもので、全くの断章取義的用法でえあり、中国の古代思想史からも断絶していることが明白になった。

 ただ、佐藤氏は、だから価値が低いとは言えないとし、「憲法十七条」のこうした「和」の背景となったのは、聖徳太子の権威か、仏教の権威、あるいは双方であるかもしれないとし、仏教思想としては「六和敬」の影響もあったと思われると述べています。

 「六和敬」の影響を想定する仏教研究者はそれまでもいましたが、中国哲学者である佐藤氏が説くというのは、まさに仏教学も学んで比較思想学会に参加していた佐藤氏ならではのことです。

 佐藤氏が指摘するような中国思想との意味のズレは、「憲法十七条」には数多く見られます。問題は、どの程度理解したうえで敢えて異なる意味で用いたのか、あまり理解しないまま言葉だけ用いた結果、そうなったのかという点ですね。私自身は、類書の「聖」の項目に並べられた様々な思想系統の用例を、当時の日本の状況に合うように切り貼りした結果、「憲法十七条」ができあがったものと見ています。

 儒教の言葉が多く用いられているものの、基調は法家の『管子』だと説く山下洋平氏の主張(こちら)は一理あるものです。基調は、私が指摘した『優婆塞戒経』などの仏教の影響と山下氏が説く法家の思想を合わせて倭国の現状にふさわしいものとし、そのうえで儒教や老荘思想の名文句を切り貼りしていったのではないでしょうか。

推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(3)

2021年08月11日 | 論文・研究書紹介
 連載の最後です。

 義江氏は触れていませんが、推古が即位できた要因は、即位後の政策と関連しているはずと考えると、仏教もその要因の一つと見て良いかもしれません。推古以後の例となりますが、則天武后が男尊女卑の伝統を破り、歴史上初めて女帝として即位できたのは、弥勒の化身だと宣伝するなど、仏教を利用してのことでした。

 また、新羅初の女性国王となった善徳女王は、後継候補の王子たちが次々亡くなった後に即位したとはいえ、熱心な仏教信者であって、仏教保護に努めていました。

 その仏教について、義江氏は、仏教を導入しようとした蘇我稲目の周辺で推古も馬子も育ったことに注目します。これは推古の兄である用明天皇も同じでしょう。推古は豊浦宮から小墾田宮に移ると、豊浦宮を改め、馬子が建立する僧寺である飛鳥寺と一対となる尼寺、豊浦寺として造営していきます。

 義江氏は、飛鳥寺→豊浦寺→若草伽藍という瓦の系譜から見て、これは「仏法興隆をめぐる馬子・推古・厩戸の密接な協力関係の、物的証しともいえよう」と説き、推古が「朕は蘇何(蘇我氏)より出たり」と述べているのは当然とします。

 推古は即位すると、その蘇我氏の馬子大臣との協調のもとで、まず三宝興隆を打ち出します。諸臣は「各の君父の恩の為に、競いて仏舎を作る」とあるように、寺を建てるのは大王のためでした。補足すると、「恩の為」というのは、いわゆる報恩に加え、造寺造像の功徳によって「君父」のパワーが増大してこちらに及ぶよう願うことを意味します。

 さらに補足すると、上の「競いて仏舎を作る」という記事については、ありえないと考える研究者もいますが、史書というものはこういう書き方をするのが通例であり、一斉に瓦葺きの寺を建立したわけではありません。最初期に瓦ぶきの本格寺院を建立できたのは蘇我本宗家およびその血縁である王族のみであり、ついで蘇我氏の傍系氏族や守屋合戦の際に馬子側で戦った有力氏族と蘇我氏配下の渡来系有力氏族でした。

 これらの氏族や他の豪族たちは、自邸に小さな堂を立てて小さな仏像を祀るくらいのところからスタートし、後になって蘇我氏や国家の技術支援を得て本格的な寺を建立していったものと思われます。

 さて、推古の讃え名である「トヨミケカシケヤヒメ」は、神への奉仕と解釈されていますが、義江氏は、「御食奉献」に象徴される仏法外護者としての推古を称えるものと見ます。これはどうでしょうかね。

 また、受戒のために百済に派遣された3人の尼については、「国家のために奉仕する官人としての側面が濃厚」だとします。これは、『元興寺縁起』では、この件うぃ主導した馬子を「大臣」とか「馬子宿禰」と称さず、「官(つかさ)」と呼んでおり、これは部門の管理者/責任者を「官」と呼ぶ7世紀初め~8世紀初めの用法だと説いているとする田中史生氏の研究を踏まえたものです(「官」に関する田中氏のこの論文は、そのうち紹介します)。

 義江氏は、特定の氏族が個々のそれぞれの役割を担当していた倭国では、蘇我氏が仏教という部門を担当していたのであって、それが推古即位によって仏教尊重は全氏族の義務となり、蘇我氏が主導したと見るのでしょう。

 『隋書』では倭国王は男性とされていることについては、義江氏は「王妻」などの記述は、中国の王権の構造に合わせて倭国の情報を記したものであり、当時の倭国の王が男性だったことを意味しないとします。王もキサキも「キミ」と呼ばれ、王の御子たちが男女を区別せず「ワカミタフリ」と呼ばれていたのは、嫡妻としての「キサキ」や唯一の皇位継承者としての「太子」も未成立だったことを示すと見るのです。

 義江氏のこの本では、仏教に関する記述は全般に簡単であって、『勝鬘経』講経も厩戸皇子の事績であって推古は重要な役割を果たしていないとみなされたのか取り上げられていませんが、私が先日発表して秋に刊行されるように(こちら)、推古は、『勝鬘経』で大乗の法を説いた勝鬘夫人(推古同様、国王夫妻の娘で[隣国の]国王の夫人!)のような女性の在家菩薩とみなされていた可能性がある点は見逃せないでしょう。

 紹介すべきことは多いのですが、ここらでしめくくるに当たり、重要なのは、推古が馬子の葛城割譲を拒んだことが強調されがちであるものの、この本では、推古の蘇我氏意識の強さを強調していることです。

 在位20年となる正月の宴では、蘇我氏の大王奉仕の伝統を強調する馬子と歌を歌いかわしているうえ、翌月には、推古の母で馬子の妹である堅塩媛を、父天皇である欽明の桧隅大陵に合葬して大がかりな儀礼をやり、堅塩媛こそが欽明のキサキの第一位であることを天下に示しているのもその一例とされています。

 これは馬子との共同作業であることを強調する義江氏は、欽明と蘇我稲目を始祖とする推古から見て、稲目の墓を「陵」と称することはありえたとまで説くのです。

 この改葬の意義はその通りでしょうが、この件に関する『日本書紀』の記述では、馬子の弟と推定され、山背大兄を後援して殺されることになる境部摩理勢が蘇我氏の「氏姓の本」を述べるなど、多くの者が誄を言上するなどしているのに、厩戸皇子の名がまったく見られないのが、私には気になります。

 推古中心で厩戸については敢えてあまり触れないという方針は分かりますが、当時の権力順位や山背大兄の後継者問題にも関わりますので、もう少し厩戸についても触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、最後の部分で、義江氏は推古の遺詔とされるものを検討します。本書の副題となっているほど重視している問題ですね。まず、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘が記す「王后王子等」は、上宮王の後継者たる舂米(上宮大娘)とその夫の山背大兄を指すとします。

 これは無理ですしょう。銘文では、太子と母后と「干食王后」を「三主」として来世でもその来世でもお仕えして仏教紹隆に努めることを誓っているのですから、その母后の娘であってプライドの高い舂米、また蘇我馬子大臣の娘を母としていた山背大兄が、自分の母をさしおいて、斑鳩地方の豪族の娘にすぎない「干食王后」を「主」として仕えることは考えにくい。

 義江氏は、推古と馬子の王位継承プランが次第に別方向になっていったとし、また大王にせよ氏族長にせよ嫡子相続ではなく、兄弟が年齢順に相続していくことが多かった時代において、蘇我氏については、稲目→馬子→蝦夷→入鹿と長子相続が続き、蘇我氏内部での不満が高まっていたことに注意します。これは重要な指摘ですね。

 そうした状況のもとで、死を間近にした推古の後継者問題が起きるわけですが、それまでは群臣が推挙して決定していたのに、この場合は、候補であった田村皇子(舒明天皇)と山背大兄に対する推古の遺詔、それも曖昧な遺詔が後継者決定の根拠とされ、「遺命に従うのみ。群言を待つべからず」という発言までなされたことに『日本書紀』ではなっています。

 蝦夷が支持する田村皇子を推して蘇我系王権が存続することを願いつつ、蘇我の血が濃い山背にもその後のチャンスがあるから自制せよ、というのが推古の思いであったろうと義江氏は推測します。いずれにしても、即位して36年間、実績を積み重ねてきた推古の言葉は、そうした重みを持つに至っていたと義江氏は説くのです。

 ただ、この件に関する推古の言葉は怪しいものですし、『日本書紀』でも、推古が後継者に関して群臣相手に公的に発言した言葉とはされていないのですから、「遺詔」と呼んで良いかどうか。

 ただ、いずれにせよ、群臣の協議で決めるのが通例であった王の後継者推挙にまで、女性の推古の発言が影響を及ぼすようになったこと、少なくとも『日本書紀』はそうみなしていることは重要でしょう。

 義江氏は、推古を単なる中継ぎ・お飾りと見るのではなく、大王としてふさわしい存在と認められて即位し、長い期間統治して実績をあげ、その発言が従来の大王に認められていた以外の事柄にまで影響を及ぼすようになった存在、王権の確立者として描くのです。

 義江氏のこの本の内容は豊富であるため、その一部しか紹介できませんでした。この連載記事でも、いくつかの点については疑問を示しましたが、他の研究者からも様々な異論が出てくるでしょう。ただ、本書は、推古の背景と実態を検討し、推古朝のあり方をこれまで以上に明らかにしていますので、聖徳太子研究にとっては有益かつ必読の本であることは疑いありません。

 最後に要望も記しておきましょう。義江氏のこの力作によって、推古のイメージはかなり変わりました。単なる中継ぎでもお飾りでもなかったことは確かでしょう。ただ、重要なのは、隋の動向などをどの程度理解していたか、その前提となる漢文の文献を読む能力はどの程度のものだったか、という点です。

 父方・母方とも蘇我氏の血を引いている初めての大王候補者であり、百済の文化の導入に力をい入れていた馬子大臣の娘婿ともなる厩戸は、若い頃から百済や高句麗から来た学者や学僧に習うことができましたが、推古のそうした教養はどの程度のものだったか。

 『楽毅論』を書写している光明皇后のような教育を受けていたのでしょうか。仏教経典をどの程度読むことができたのか。これは、推古天皇について考える際、重要な問題です。

推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(2)

2021年08月09日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。

 義江氏は、世襲王権を支えた要件の一つとして近親結婚を指摘するものの、それはこの時期の王権だけの現象ではないと説きます。大伴氏や藤原氏といった有力氏族でも、国家体制が整う七世紀から八世紀にかけて近親結婚が増えており、藤原氏の場合、権勢を振るった不比等の四人の子がそれぞれ上級官人になると、今度は四人それぞれの「家」内部での近親婚をおこない始めているからです。

 この指摘は、厩戸皇子の子として異母兄妹(姉弟?)同士で結婚した山背大兄一家滅亡の悲劇は、王権対蘇我氏の対立ではなく、王族内部の対立、および蘇我氏内部の対立を背景にしていたことを思い起こさせますね。

 さて、今回の記事では、即位前の推古については義江氏の呼び方にならって「額田部」、即位後については「推古天皇」「推古」と呼び、『日本書紀』の記事に触れる際は記事通りに「炊屋姫尊」などと呼ぶことにします。

 義江氏は、古代においては首長となるのは、卑弥呼が示すように男女様々であったものの、倭の五王の時代は戦争が続いたため、軍事指導者としての男性が大王となることが続いたと述べる一方で、倭国では大王の子を男女ともに「王(みこ)」などと呼ぶ時代が長く続いていたことに注意します。

 そして、大后としての推古の位置については、敏達6年に推古のために「私部(きさいべ)」が設置されたことを重視します。大后以外のキサキについても「私部」は設置されたようですが、それまでは、額田部氏が養育したため額田部と呼ばれたことが示すように、特定の氏族が大王の子たちの養育を担当しました。しかし、国家の公的な養育制度が確立することによってキサキの地位が高まり、王権と密着した氏族の勢力も安定して増大していったと見るのです。

 そして、推古15年に「壬生部(みぶべ、乳部)」が厩戸のために設置され、厩戸の没後は娘の舂米(上宮大娘姫王)が管理していたらしいことが示すように、有力な皇子にも家産が与えられ、男女に関係なく子に受け継がれたことに注意します。こうしたことが、前回の記事で紹介したような近親婚の背景です。

 さて、『日本書紀』によれば、敏達天皇が亡くなると、欽明天皇と蘇我稲目の娘の小姉君との間に生まれ、敏達の後継となろうとした穴穂部皇子が、敏達天皇の殯宮に侵入して殯宮に奉仕していた額田部を「姧」そうとし、欽明の寵臣である三輪君逆が拒んで入れなかったため、騒動となります。これについて義江氏は、額田部の合意があれば近親婚となり、穴穂部が蘇我氏系の皇子たちを率いる立場に立った可能性があるとします。

 実際には、穴穂部ではなく、穴穂部の兄である用明が即位しますが、その用明天皇は即位1年半ほどで病没すると、磐余に葬られ、推古元年に磯長の方墳に改葬されます。注目すべきは、どこかに仮葬されていた敏達天皇も、「炊屋姫尊と群臣」の推挙によって穴穂部が即位して崇峻天皇となった後の崇峻4年に、磯長谷最古の前方後円墳である石姫の墓に追葬されていることです。
 
 義江氏は、非蘇我氏系である石姫の磯長の墓に非蘇我氏系の敏達天皇を追葬し、その磯長の地に、蘇我氏系である用明の墓を造ったこと、それも馬子以後の蘇我氏長と共通する方墳で造ったのは、額田部と馬子の明確な方針に基づくことを示すものとします。こうした動きは、非蘇我氏系を婚姻によって蘇我氏に取り込んでいく方針と一致していると見るのです。

 その額田部は次第に発言力を増していきます。穴穂部の誅殺は敏達の皇后である「炊屋姫尊」の「詔」を奉じたものですし、崇峻天皇の即位は「炊屋姫尊と群臣」の推挙によるものとされています。

 義江氏は、穴穂部誅滅を命じることができた額田部が即位せず、穴穂部の弟である崇峻を即位させたのは、女帝の即位をはばむ要因があったためであって、それは倭の五王以来の軍事王の伝統だったと見ます。

 推古以後は、8紀後半まで8代6人の女帝が断続的に即位しており、男帝は6人であって男女は半々です。それが可能になったのは、家産としての「ヤケ(宮)」を持ち、そこに仕える中小豪族たちと密接な関係を結び、統率者としての能力を発揮し、大兄ないしキサキの立場を活用して有力豪族と連携を固めることができた者が大王になることができたためであり、額田部は女性の身でまさにそうした一人となったと義江氏は説きます。

 そして、崇峻天皇殺害は、馬子の横暴ではなく、足かけ5年にわたる治世を見て来た群臣たちが見放した結果であり、この時点でようやく額田部が上記の諸条件を満たすと認められ、推挙されて即位したのだと説きます。

 こうした説き方を見てくると、義江氏が推古を皇女・皇后としての身分、蘇我氏などの氏族とのつながり、豊かな資産などを背景とし、判断力・決断力を備えたしたたかな政治家としてとらえ、また推古がそうした資質を生かせる時代状況となったと見ていることが良くわかります。

推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(1)

2021年08月07日 | 論文・研究書紹介
 日本初の女帝である推古天皇については、欽明天皇の皇子たちが次々亡くなった状況下で、敏達天皇と推古皇后の子であって推古が愛していた竹田皇子が即位するまでの中継ぎと見る説や、即位したものの宗教的な祭祀などが主であって、政治・外交の実務は大臣の蘇我馬子や厩戸皇子が主導したとする見方もありました。

 そのような見解を批判してこの時代に女帝が誕生した理由を探り、社会状況そのものの変化と推古個人の資質に着目したのが、昨年出たばかりの、

義江明子『推古天皇:遺命に従うのみ 群言を待つべからず』
(ミネルヴァ書房、2020年)

です。

 推古天皇を題名とした本としては、中村修也『女帝推古と聖徳太子』 (光文社新書、2004年)などが僅かに出ているだけです、しかも中村氏のこの新書本は想像の部分が多く、古代小説に近い面があるため、推古だけを題名とした学術的な単著が刊行されるのは、今回の義江氏の本が初めてですね。

 父方母方の双系系譜を初めとする古代の女性の地位や女帝の研究などで知られる義江氏ですが、同書の「あとがき」によれば、推古天皇に親しみを覚えたのは、山岸涼子の漫画『日出処の天子』であった由。

 主人公の厩戸にはあまり興味を惹かれず、「貫禄たっぷりの中年の推古が、練達の政治家として叔父馬子とやりあい駆け引きをめぐらす姿」に惹きつけられたそうです。実は、今回の本もそうなっており、厩戸の影は薄いです……。

 義江氏は、倭王は世襲制になったものの、継承順位が明確に定まっていたわけではなく、「血統的条件を備え、群臣(倭政権を構成する有力豪族たち)の支持を得た皇子」が倭王となることができたこと、即位の平均年齢は40歳以上だったらしいこと、そして蘇我氏の血を引く推古は、大臣となる蘇我馬子とともに近い環境で仏教尊重の状況下で育ったらしく、馬子は叔父ではあるもの年齢は近かったのであって、むしろ同志のような関係であったことなどに注意します。

 つまり、「王権の強化と蘇我氏の繁栄は、何ら矛盾するものではなかった」のです。この点は、私も30年近く強調してきたことですので同感です。

 義江氏は、以上のような観点から、これまで大臣馬子と厩戸皇子の働きとされてきた事績を見直し、推古の意義を見直そうとします。

 まず、七世紀以前の倭国については、実力で有力首長たちに認められた者が首長連合の盟主、すなわち「治天下大王」の座につき、中国に遣使して「倭王(倭国王)」の称号を得て立場を確立したとします。ところが、継体天皇以後は王の世襲化が進み、特に推古が36年もその位置にあったため、王権が確立されたと見るのであって、推古を画期的な存在とするのです。

 その世襲化が進んだ原因は、継体天皇の皇子である欽明天皇の系統の皇族たちの近親結婚であり、蘇我氏も大伴氏も自らの氏の血を引く皇子を大王に擁立することによって勢力を拡大させようとしたのであって、とりわけ蘇我氏の婚姻政策が顕著であり、推古はまさにその例であるとします。

 欽明天皇と先帝の皇女とされる石姫との間に生まれたのが敏達天皇、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛との間に生まれたのが用明と推古、欽明天皇と同じく稲目の娘である小姉君との間に生まれたのが間人、穴穂部、崇峻であって、崇峻は稲目の長子である馬子の娘、河上娘と結婚しています。

 このうち、異母兄弟同士であるものの蘇我氏系でない敏達と蘇我氏系の推古が結婚して竹田皇子が生まれ、同じく異母兄弟、しかもともに稲目の娘たちと欽明の間に生まれた子であって蘇我氏との結びつきが強い用明と間人が結婚し、母方だけではなく、父方母方とも蘇我氏の血を引く最初の皇子である厩戸が生まれます。

 敏達と皇族である広姫との間に生まれた彦人皇子は非蘇我系ですが、蘇我氏と非蘇我氏系をつなぐ重要な位置にあった推古は、自分と敏達天皇との間に生まれた皇女たちのうち二人もこの非蘇我系の彦人皇子と結婚させます。そして、長女であった貝蛸については、父方・母方とも蘇我系である甥の厩戸と結婚させ、貝蛸が子を生まずに亡くなると(推定です)、孫娘を晩年に近い厩戸と結婚させます。

 つまり、自らの出身母体である蘇我氏を重視しながら、非蘇我系の有力な皇子であった彦人皇子のことも充分配慮しつつ、次世代以降に蘇我氏系である自らの血脈をつなげようとしたと義江氏は見るのであって、推古をそのような判断・行動をする人物としてとらえるのです。

 蘇我氏の血筋という点では、厩戸の母である間人は、異母兄である夫の用明が亡くなると、用明と蘇我稲目の娘である石寸名の間に生まれた田目と結婚しています。つまり、厩戸の異母兄となる義理の息子と結婚していることに驚かされがちであるものの、間人と田目は、稲目の孫という点では「同世代のイトコ」ということになります。つまり、間人は蘇我氏内部を固める近親婚をしたことになると、義江氏は指摘するのです。そういう見方はこれまで気づきませんでした。

 その間人は、推古のような政治的な動きをしていません。蘇我氏の血を引く皇女という点は同じでも、推古は間人とはまったくタイプが違う点に、義江氏は注目するのです。
 
 このように、従来の研究には見られなかった視点からの意外な指摘が多いため、次回も同書の紹介を続けます。

外交交渉で用いた「天子」号こそが画期的だった:河内春人『日本古代君主号の研究』

2021年08月04日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』の推古紀については議論百出状態が続いていますが、中でも厄介な問題の一つが、「天子」「天皇」を初めとする君主号の問題です。この問題に取り組み、研究史を整理したうえでいろいろな面から考察を加え、評価されたのが、

河内春人『日本古代君主号の研究ー倭国王・天子・天皇ー』
(八木書店、2015年)

です。

 河内氏は、「あとがき」では、自分が認識する「正しい」名前と他人が考える名前は違うとし、対外関係においてどう名乗るか、どう呼ばれるか、相手国向けと国内向けでどう異なるのかなどについて本書で検討したと述べています。

 これは、氏の名である「河内春人」は「こうち・はるひと」であるものの、そう呼ばれることは極めて稀であって、「かわち」「はると」と呼ぶ人がほとんどであり、面倒くさいので「かわちさん」と呼ばれても返事するようにしているという状況が研究のきっかけとなっている由。

 これは分かります。我々が中国と共同で国際シンポジウムを開く場合、国内では「日中国際シンポジウム」、中国では「中日国際シンポジウム」と称するなどと事前に取り決めておいても、報告をコピーしたりするうちに、国内でも「中日~」の形の表現が流れたりします。

 また、日本の研究者がそのシンポジウムについて報告した文章を中国の学者が紹介する際、「日中~」となっているその日本人研究者の報告の題名を「中日~」と変えて訳したり、逆に、日本側の題名にひっぱられて自分の本文でもつい「日中~」などと書いたりすることがあるほか、参加したいずれの国の研究者にしても、かなり後になって記憶で書いたりすると、微妙に違った表現になったりします。また聞きであれば、なおのことです。こうした状況は、推古朝期でも『日本書紀』編纂期でも同様でしょう。

 さて、本書のうち、聖徳太子に直接関わるのは、「第二部 古代天皇制への道程」のうち「第四章 推古朝における君主号の定立」です。本章では、遣隋使の研究史を検討することから始めます。

 遣隋使については、3回説から6回説まであります。3回とする説には、文帝に呆れられて訓戒された開皇20年(600)の遣隋使については大和朝廷ではなく、「西の辺なるもののしわざ」とする本居宣長の説も影響を及ぼしており、これは『隋書』よりも『日本書紀』を重視する姿勢と結びついています。

 戦後になると、『隋書』の記述を重視する研究が増してくるのですが、それでも、開皇20年の遣使は聖徳太子による国情視察のための非公式の派遣と見る坂本太郎説なども出されています(坂本氏は、後に九州・山陽あたりの豪族の私的な派遣と説を改めました)。そうした状況が変わっていくのは、『隋書』以外の中国文献が注目されるようになったためです。

 唐の貞元17年(801年)に完成した『通典』では、大業3年(607)の「日出処天子」の国書を開皇20年のこととするなど、中国側の資料にも年代にずれがあるほか、『隋書』倭国伝には見えないものの『通典』と顕慶5年(660)成立の類書である『翰苑』では、倭国の君主号について「華には天児と言う(華言天児)」と述べていることなども注目されるようになってきました。

 こうして議論が深まった結果、『通典』は参照した諸資料間の調整が不十分であるとされたのですが、河内氏は、『隋書』についても同様のことが言えるとします。また、このブログでもとりあげた榎本淳一氏が、斐世清に関する箇所は、当事者である斐世清の主観や作為の可能性を考慮すべきだとしている点に賛同します。この見方を極端にしたのが、前回紹介した苗壮氏の斐世清捏造説ですね。

 細かい論証の紹介は省きますが、そうした状況である以上、史料上の矛盾について、「この年の記述とこの年の記述は同一の遣使」などと無理に解釈するのは危険であるため、遣隋使の回数はとりあえず5回とし、消極的には6回もありうるという形で検討するとします。

 そこで取り上げられるのが、「東天皇」国書です。大業3年の「日出処天子」国書が煬帝の不興をまねいたため、翌年の倭国の国書では「天子」の号は避けて「天皇」を用いたと見る研究者が増えていますが、こうした見方は推古朝の対外交渉の過程で「天皇」の語が生まれたと見るものです。

 ところが、河内氏は、対外的には臣従、国内向けは対等というダブルスタンダードを用いたという解釈もありうるとしつつも、斐世清が役目を果たしたとしている以上、それに応えた倭国の国書は「倭王」ないしそれに類した君主号を用いたはずとします。つまり、「東大王敬問西皇帝」か、それに近い表記であったのであって、『日本書紀』がそれを潤色して「東天皇」と記したのではないかと見るのです。

 河内氏の主張で重要なのは、「天皇」以前では「大王」が倭国の君主号であったとされることが多いものの、「大王(おおきみ)」という呼称は古代にあっては国王以外の貴人にも用いられており、それが国王を意味するのは、「治天下大王」と限定される場合だとしている点です。「天下」がつけば、中国の皇帝に近いものとなるのです。

 つまり、倭国には一語で統一的な国王を意味する漢語表現はなかったのであって、煬帝の怒りを招いた「天子」の語こそが、初めて漢字でそうした立場を示したものであり、推古朝期に外交交渉の場面で用いられた点が重要だというのが、河内氏の主張です。

 河内氏はこの章では参照しているだけですが、同氏の「遣隋使の「致書」国書と仏教」(気賀澤保規編『遣隋使がみた風景』、八木書店、2012年)では、この「天子」は中国皇帝と同じ意味ではなく、数ある仏教的君主の一人という意味で使ったとも述べていました。

 すると問題になるのは、「天皇」の語が用いられている「天寿国繍帳銘」です。これについては、河内氏は、推古朝に原形があったとしても、現在の繍帳銘は後代のものであって、「王」を「皇」に変えるような変更をこうむっていると見ます。

 また、河内氏の指摘で興味深いのは、倭国の国書では実名を名乗った形跡がないという点です。これは、『隋書』巻84に見える突厥の国書、つまり、「天子」と名乗って「致書」形式で隋に送った国書とも違う点です。

 ただ、河内氏は、「東天皇」国書では「敬白」という仏教関連文献で良く用いられる表現を使っていることに注意し、結論では推古朝は最新文化である仏教をイデオロギーとしたと述べ、仏教外交の実状を明らかにした河上麻由子さんの著書も注であげているのですから、もう少し仏教を考慮してもらいたかったですね。

 このブログで何度も触れているように、森田悌氏は『天皇号と須彌山』(岩田書店、1999年)や『推古朝と聖徳太子』(同、2005年)などにおいて、「天皇」は仏教で用いられる呉音で「てんのう(てんわう)」と発音されているのに対し、律令制下で規定された「皇后・皇太子」などは漢音で「こうごう・こうたいし」と発音されてきたことに注意し、天皇の語は推古朝期における仏教重視の状況の中で考えるべきことを強調しています。

裴世清は煬帝が喜ぶような嘘の報告をした?:苗壮「裴世清の派遣と『隋書・倭国伝』の偽造」

2021年08月01日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事で遣隋使の小野妹子をとりあげましたので、その答使として日本に派遣された裴世清に関して中国側の視点から論じた最近の論文を紹介しましょう。

苗壮「裴世清の派遣と『隋書・倭国伝』の偽造」
(『東京大学中国語中国文学研究室紀要』23号、 2020年11月)

です。

 苗壮氏は、北京語言大で学位を得て母校である遼寧大学の教員となり、その日本研究所でも指導している若手研究者です。中国の古典文学や日本の中国学その他を専門としており、東京大学人文社会系の外国人研究員として来日していました。早稲田のシンポジウムで「海外の中国学からみた津田左右吉研究」という発表をしたこともありますが、日本古代史の専門家ではありません。

 この論文については、概要が付されていますので、それを掲げておきましょう。

裴世清が倭国に使者として派遣されたことは、中日文化交流史における重大な事件であるが、『隋書・倭国伝』の中には、相当奇怪かつ長期にわたり合理的に解釈できないでいる問題が存在している。日本史上では、当時の倭王は推古天皇である。推古天皇は女帝であり、裴世清は倭王と面会しているが、倭王が女性であるなら、非常に重要な外交情報であるにも関わらず、『倭国伝』には、一切言及がない。本論では、裴世清出使の具体的な儀礼の考察から始め、推古朝の礼制改革によって倭王の絶対的権威が強化され、裴世清の出使において、倭王との会見の機会はまったくなかったことを提示する。とするならば、『倭国伝』の裴世清と倭王の面会の場面は、裴世清が捏造した可能性がある。

以上です。

 「相当奇怪」というのは、女帝問題などだけでなく、『日本書紀』推古紀によれば、裴世清は宮殿の庭で国書を持って「両度再拝」したと記されていることなどです。中国の場合、隋の典礼に基づいて初唐に定められた『貞観礼』と『顕慶礼』を改訂して732年に作成された『開元礼』によれば、外国の使者は朝廷において国書を持って皇帝を礼拝する必要はなく、また唐代以前に「両度再拝」つまり、四拝はおこなわれていないことを理由としています。

 また、推古18年に来訪した新羅使の場合、大臣の馬子に国書を奉呈したという違いはあるもの、新羅使は再拝するにとどまっていることも注目されるとします。そもそも、『日本書紀』の記述を見る限り、裴世清は常に「庭中」におり、倭王と直接会見することはありませんでした。

 ところが、『隋書』の倭国伝では、良く知られているように、倭王は斐世清と会見し、「自分は夷人であって海の端におり、礼儀を聞いていない」と述べ、礼儀の国である大国隋の「維新の化」を聞きたいと語ったため、斐世清は「皇帝の徳は天地を合わせたほどであり、その恩沢は四海に満ち流れている。倭王がその化を慕ったため、使節を送って宣諭させるのである」と答えたことになっています。

 これだと、倭王は男性であって裴世清と話していることになるため、諸説があるわけです。

 苗氏は、裴世清は四拝はしていないだろうが、貞観5年(631)に唐使としてやってきたものの、倭国の王子と礼を争い「朝命を宣べずして還」った高表仁と違い、若くて官位も低く如才がないため、中国の使者としては屈辱的な倭国の礼儀にしたがって国書を奉呈し、役目を果たしたと見ます。

 ただ、倭王と直接会って宣諭することはできなかったため、それを隠して煬帝が喜ぶような朝貢国からの応対を受けたと報告したと推定するのです。

 さて、いかがなものでしょうかね。遣使は裴世清だけでなく、ともに来た副使も宮中に同道したでしょうし、隋の側の通訳もいたかもしれません。隋の使節である自分がいかに尊重されて歓待されたか、倭国王がいかに大国の隋とその皇帝である煬帝を尊重していたかなどについて、中国流に誇張した形で報告したり、あるいはまずい面は曖昧に書くことはできても、まったくデタラメの会見記を捏造するというのは無理そうに思われます。

 裴世清の身分は低いですし、そもそも倭国王は外国の使節と対面する伝統がないことが知られていますが、隋としては遣隋使に対する答礼というより訓戒するつもりで使節を送っているのですから、裴世清は倭国王の代行者ないし倭国側の外交責任者と会見するなどの形で倭国側に宣諭の意を伝え、何らかの形でそれなりの回答を引き出し、それを倭国王自身の対応として中国流に表現したことも考えられないことではありません。

 長い滞在期間のうち、国書奉呈の場以外に隋使と倭国側とのやりとりがまったくなされないというのは考えにくいでしょう。慰労の宴などでは、外交担当者から倭国の建て前より柔軟な発言がなされる可能性もあります。裴世清がそうした内容を盛り込んだうえで誇張した訪倭報告をまとめ、それが間接的に(年代などについて多少の混乱をともないつつ)『隋書』で利用されたという方が、全くの捏造説よりはありえそうに思われます。

 ただ、中国における皇帝と外国の使者の対面儀礼を調査し、それを日本側の記述と比較するというのは、有意義な検討法です。

 なお、『隋書』の信頼性については、以前、このブログで榎本淳一氏の論文をとりあげて紹介したことがあります(こちら)が、外交における君主号という視点から遣隋使問題を詳細に検討した河内春人氏の研究に触れていなかっため、次回はその本にしましょう。