聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

図柄から見た天寿国は極楽浄土だけでなく弥勒浄土の面もある:高瀬多聞「天寿国繍帳小考」

2022年08月30日 | 論文・研究書紹介

 「天寿国繍帳」については、これまでいくつもの論文を紹介してきました。今回は、20年近く前の論文ですが、「天寿国繍帳」の古さを美術史の面から明らかにしている論文を取り上げることにしました。

高瀬多聞「天寿国繍帳小考」
(林雅彦編『生と死の図像ーアジアにおける生と死のコスモロジーー』、明治大学人文科学研究所叢書、2003年)

です。

 高瀬氏は、繍帳の殘欠のうち、僧侶が梵鐘を撞く様子を描いた断片は鎌倉時代に模造された部分だが、梵鐘の撞座の位置が高いのは上代に限られるため、鎌倉時代の新繍帳は古代の繍帳を忠実に模写している、という点から話を始めます。

 そして、大橋一章『天寿国繍帳銘の研究』(吉川弘文館、1995年)の復元案を高く評価し、阿弥陀仏が描かれているとする点には賛同しつつも、蓮華座の上に阿弥陀仏とともに往生者である聖徳太子像があったとする推測には反対します。

 如来、菩薩、往生者には厳然とした区別がある以上、いかに太子を思慕していたからといって、太子を如来と同等に描くことは考えられないためです。

 そして、他の研究者も天寿国を西方浄土と決めつけている点に疑問を呈し、残欠部分には主尊が描かれていない以上、眷属と思われる尊格から主尊を推測するほかないとします。仏や菩薩にはつきしたがう眷属が決まっていますので、それが分かれば主尊が分かり、主尊がわかればその場所も分かるからでっす。

 そこで高瀬氏が着目したのは、残欠ではかなりの大きさで描かれているう鬼の図様です。鬼の頭上から帯のようなものが伸びているのですが、高瀬氏は、これは弥勒を供養するために牢度跋提が兜率天で四十九院を化現させた雲そのものと見ます。

 このため、「天寿国繍帳」は、

1.宝池から生ずる蓮華座上に坐する阿弥陀如来を主尊とする無量寿国の景観
2.牢度跋提からの供養を受ける、椅像の弥勒菩薩を主尊とする兜率天の景観

の2幅から成ると結論づけます。

 そして、注目するのが新調した「天寿国繍帳」に基づいて鎌倉時代に作成された『太子曼荼羅講式』の文章です。高瀬氏は、これまでの解読を批判し、次のような対句の形を想定します。

 常楽我浄之所成也、顕四重宮殿之階級、
 男女禽獣之無隔也、表十界帝網之依正
 日月並二輪、同耀定恵修性之光、
 鍾磬在両方、遠驚分段変易之夢

このうち、仏教的な世界を表わす「十界帝網」と対になっていることから見て、「四重宮殿」は具体的な建物の描写ではなく、明恵が入滅の際に兜率往生を願って「処於第四兜率天、四十九重摩尼殿」と唱えたと伝えられているように、兜率天宮を示すと見ます。

 実際、西方の無量寿国への往生とこの世の上方にある兜率天への往生を同時に願うことは、古代にはしばしば見られたことであるうえ、敦煌の初唐の石窟の変相図でも、弥勒変相を描いた図の対面には西方浄土の変相が描かれるのが通例だと、氏は説きます。

 ついで、「天寿国繍帳」に描かれた女性像では、たすきのようなものをかけている点に注目し、「衣裓(えこく)」と推測します。天人が空中で散華供養をする際、手に蓮華を盛るための花皿を持っており、これを「華籠(けこ)」と呼びますが、経典ではこれを「衣裓」と呼んでいる箇所があるのです。

 竹ひごや金属で作った籠であれば、「衣」という語に続けて「ころもへん」の「裓」という字を使うはずがないとして、高瀬氏は布でできたくるむ道具であるとし、『一切経音義』では、「衣の前の襟なり。又た云う、婦人の衣の大帯なり」と説明している点に注意します。

 そして、キジルの石窟の天人図や仏供養図を描いた壁画では、白い布で物を受け取っている様子が見られるとし、これが日本に伝わり、「天寿国繍帳」に描かれたとするのです。

 「天寿国繍帳」については、銘文では「彼の国の形は眼に看がたき所なり」とされているため、釈尊を生んですぐ亡くなって生天した母に説法するため、釈尊が天に登っていった結果、誰の目にも見えなくなったとする『大方広仏報恩経』に基づいていることを私が発見しており(こちら)、この高瀬論文はそれ以前に発表されたものですが、図柄にしても銘文にしても、典拠を綿密に調べればいろいろなことが分かってくることを教えてくれています。


岩倉具視がイギリスに送った法隆寺の貝葉『般若心経』の写真:齊藤紅葉「岩倉具視と「文化外交」」

2022年08月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 私は芸能マニアであって、最近いろいろ話題の蛙亭もオズワルドも好きなため、蛙亭のイワクラがオズワルドの伊藤たちと故郷の宮崎県を旅して「よかとこ」を伝える UMK宮崎テレビの番組、「蛙亭イワクラ使節団ー伊藤と肥満とサイダーとー」は毎回見ています。

 このタイトルの元となった岩倉使節団の岩倉具視(1825-1883)は、実は法隆寺と関係がありました。それについて紹介したのが、

齊藤紅葉「岩倉具視と「文化外交」ー大蔵経、法隆寺の貝多羅葉写しのイギリスへの送付を通してー」(『人文学報』119号、2022年)

です。

 齊藤氏は、木戸孝允を中心として幕末から明治初期の政治・社会を研究しており、仏教史学の研究者ではないため、仏教関連に関する記述には時々おかしな表現が目につきますが、この論文は当時の仏教学における国際的な交流という面で興味深いものです。

 岩倉が1883年7月20日に亡くなると、5日後にイギリスの「タイムス」紙に訃報が掲載されました。それを目にしてその日のうちに短い追悼文を書き、「タイムス」紙に寄せたのは、当時のイギリスのインド学仏教学を代表する大物学者、マックス・ミュラーでした。この追悼文は、7月30日の「タイムス」紙に載せられています。

 ミュラーは、岩倉大臣は、その年の3月に、法隆寺が保存してきた神聖な古代の椰子の葉に書かれた現存最古の梵文資料の写真を撮ることに成功したことを知らせる手紙を送ってくれており、後に写真が届いたため出版する予定だと述べ、大臣は、日本の寺院に蔵されている他の貴重な資料に関する情報を集めるために全力を尽くすと書いてくれていた、と記しています。亡くなって追悼される政治家は多いでしょうが、このように国際的な学問貢献を讃えられる人は稀でしょう。

 その世界最古の梵文資料というのは、むろん、貝多羅葉(ターラ樹の葉)に悉曇文字で書かれた『般若心経』のことです(こちら)。これについては以後、研究が進んでおり、またインド北部や西域で樺の木の皮に書かれたさらに古い梵文経典が多数発見されていますが、日本のこうした資料がインド学者であったミュラーの関心を仏教に向けるきっかけの一つとなったことは事実です。

 岩倉は使節団を率いて欧米を回った際、漢文の仏教資料を集めていたインド省の図書館に対して、漢文の大蔵経を送ると約束しました。そして、1875年に、明代の大蔵経に基づいて鉄眼が17世紀末に木版印刷した黄檗版大蔵経を実際に送っています。

 ただ、これを活用できるようにしたのは、オックスフォード大のミュラーのもとに留学した真宗東本願寺派の南條文雄でした。南條はサンスクリットを学ぶと同時に、この大蔵経の整理と解説に取り組み、英語でその目録を刊行し、その価値を西洋の学問世界に知らせたのです。

 さて、岩倉は、法隆寺所蔵の悉曇で書かれた『般若心経』と『仏頂尊勝陀羅尼』の写しを1880年にミュラーに送り、1883年には写真も送りました。この貝葉は、法隆寺が所蔵していたものですが、廃仏毀釈の中で困窮するに至り、本堂も雨漏りがするような状況だった法隆寺が宝物を皇室に献上し、1万円の御下賜金をもらってそれで修理などをした際の宝物に含まれていました。

 それに着目したのは、英国公使の通訳を務め、日本学の研究者となりつつあったアーネスト・サトウであって、サトウは岩倉に面会し、これを含めた貴重な梵文資料をミュラーに送るとする約束をとりつけたのです。

 岩倉は公家であって、長らく右大臣を務め、皇室との関わりも深かったため、皇室のものとなったこの貴重な秘宝の写しや写真をミュラーに送ることができたのですが、これには、岩倉が日本の文化を重視していたことも背景になっています。欧米を視察した岩倉は、西洋の技術だけを導入したのでは弊害も多いことを知り、日本の伝統文化の意義を見直し、保持しようとしていました。

 古社寺の宝物を展示することがおこなわれるようになり、1882年に浅草寺でおこなわれた展示を明治天皇が視察した際は、宮内卿の徳大寺実則は、岩倉に事後承諾となってしまったことを詫びる手紙を出しています。つまり、そうした行幸などは、岩倉が宮内省以上の力を持って取り仕切っていたのです。


山背大兄が滅ぼされたのは近親結婚のためとする講演:石井公成「聖徳太子とその周辺の人々」

2022年08月22日 | 論文・研究書紹介

 浅草の浅草寺では、長らく「佛教文化講座」と称する公開講演をほぼ毎月おこなっており、それを編纂して毎年刊行しています。私も以前、禅宗は不立文字を立場としているのに、どうして文献が異様に多いのか、実は唐代の禅僧はかなり経典を読んでいたのだ、という講演をしたことがあります(こちら)。

 昨年12月、1400年遠忌記念ということで聖徳太子の講演を頼まれ、周辺の近親結婚の多さとその背景について話したところ、それが刊行されました。

石井公成「聖徳太子とその周辺の人々~近親結婚の背景~」
(『浅草寺 佛教文化講座』第66集、2022年8月、こちら

です。

 太子周辺の近親結婚については、以前、このブログで書きました(こちら)。今回の講演はそれに基づいて、新たに気づいた点を加えたものです。

 継体天皇は、誉田(応神)天皇の「五世の孫」とされており、大王家の血筋としては問題ありの人ですが、仁賢天皇の皇女を后としたことが即位を可能にしたと言われています。その息子で、蘇我稻目の娘たちを妃とした欽明天皇以後しばらくは、皇女を后にすることに加え、蘇我氏の血を引くか蘇我氏の女性を妃とすることも実際上の即位の条件に加わったように見えます。

 講演では、蘇我氏の血を引いていないことが強調されがちな敏達天皇にしても、蘇我系の異母妹である推古天皇を皇后としていることに注意しました。

 聖徳太子については、父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であって、敏達天皇と推古皇后の間に生まれた皇女を妃とし、蘇我馬子の娘である刀自古郎女も妃にしていましたので、即位の条件は揃っています。

 しかし、問題はその周辺です。異母兄の用明天皇の皇后となって聖徳太子を生んだ間人皇后は、夫の用明天皇が亡くなると、用明天皇が稻目の末娘?と結婚して生まれた田目皇子と結婚し、佐富女王を生みます。すなわち、義理の息子との結婚、かつ、叔母の息子つまり甥との結婚です。

 しかも、この佐富女王は、聖徳太子と膳氏の菩岐岐美郎女の間に生まれた長男の長谷王と結婚しています。長女である舂米女王は、太子と刀自古郎女の間に生まれた山背大兄と結婚していました。

 つまり、太子の周辺の婚姻関係は、太子の血族だけで完結しているのです。私は以前、山背大兄は天皇の娘と結婚していないため、天皇候補としての条件が弱いと考えていたのですが、聖徳太子は天皇に準ずる地位にいたのであって、山背大兄はその太子の娘、つまり異母妹の舂米女王を妃としていた以上、天皇の皇女と結婚しているという即位の条件は満足していることになると考えを変えました。

 山背大兄が天皇になる気満々であって、境部摩理勢のように、山背大兄を天皇候補として強く推していた人物がいたのは不思議でないのです。

 しかし、もう一つの条件は満たしていません。つまり、蘇我氏の娘を妃とするという点です。山背大兄に対する摩理勢の応援ぶりを見ると、摩理勢の娘を娶っていたのかと思われるほどだと、講演では語ってしまいました。馬子の弟とも言われる人物ですので、蘇我氏系といえば蘇我氏系ですが、本宗家ではありません。

 これが、山背大兄が蘇我氏に滅ぼされた大きな原因ではないかと考えられます。太子の晩年には、まさに婚姻が内部完結する斑鳩王朝のようになりつつあったのであれば、飛鳥を本拠とする蘇我氏の本宗家が警戒するのは当然でしょう。

 蘇我本宗家が蘇我氏の血の濃い山背大兄を推さず、蘇我氏の血は引いていなくても、蘇我蝦夷の娘と結婚していた田村皇子(舒明天皇)を推したのは、自然な流れと言えるかもしれません。田村皇子は、天皇の娘ではなく、孫娘、しかも結婚歴が有る宝女王と、時期は不明ながら結婚していますので、皇女を娶るという条件は満たしています(あるいは、満たすことになりました)。

 それに対して、山背大兄は条件が足りていませんし、境部摩理勢に代表される支族が蘇我本宗家と対立していたなら、なおのこと山背大兄と本宗家との関係は難しかったでしょう。

 近親結婚は、優秀な人間を生む場合も、困った人間を生む場合もあるとされていますが、優秀な聖徳太子が生まれたのも、その太子の長男を滅ぼしたのも近親結婚だったのではないかというのが、この講演の結論です。


没後すぐ救済者的存在とされた聖徳太子:井上一稔「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘を読む」

2022年08月18日 | 論文・研究書紹介

 前回は、聖徳太子は後に伝説化されて当然である位置に生前からいたとする論文を紹介しましたが、そうしたことが言えるのは、法隆寺関係の史料に対する検討が進んできたからです。

 「天寿国繍帳」も金堂の釈迦三尊像銘もそうですが、「時期から見て、~のはずがない」などと決めつけ、推測だけで語るのでは論証になりません。大事なのは、文献であれば一字一句を検討して背景を明らかにすること、物であれば詳細に調査して系統をはっきりさせることですね。

 だいぶ前の論文ですが、そうした試みの一つとして注目すべきなのが、

井上一稔「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘を読む」
(『文化史学』第62号、2006年11月)

です。井上氏のこの論文の次には、北康宏氏の「天寿国繍帳銘文再読ー橘大郎女と殯宮の帳帳ー」が掲載されており、この号は聖徳太子研究上、きわめて重要な号となっています。

 さて、「近年、長い歴史をもつ法隆寺金堂釈迦三尊像の研究は新たな段階に入ったと思われる」という文章で始まる井上氏のこの論文で注目されるのは、太子の治病祈願や追善という点だけでなく、母后や干食(膳)王后の役割に注意していることです。

 井上氏は、光背の銘文を実地調査した東野治之氏の報告によって追刻説は消えたとし、内容の検討に入ります。この銘文については、「転病延寿」を願いつつ、「もし定業であって世を去られるなら、淨土に登って、すみやかに妙果に至りますように」と述べていること、そして、助力してこの像を作成した者たちが現世では安穏、死後は「三主に随い奉り、三宝を紹隆」することを願っている点が不自然とされてきました。

 井上氏は、こうした不自然さは、太子の太子と等身の釈尊像を造りますので治病しますようにと祈った生前の誓願と、没後の発願仲間たちがこの造像の功徳によって自分たちについて願った部分が混在しているためとし、それをつなぐために「もし定業であって世を去られるなら、淨土に登って、すみやかに妙果に至りますように」という部分が挿入されたと推測します。

 そして、法隆寺所蔵の王延孫発願の像の光背は、現在の父母の安穏と、何度生まれ変わっても淨土に生まれることが願われている点は、釈迦三尊像光背銘と似ているようだが、王延孫の場合は、現世と来世が続いているのは自然であるに対し、三尊像銘がそうでないのは、太子追善の部分は本来は後半に持っていくべきであるのに、後半は願主たちの願いなので、治病の願の後ろに付けたため不自然になったと説くのです。

 そして、後半も太子の追善のようでありながら、太子と一緒のところに生まれている母后の追善の意も込められているとします。これは、膳氏の王后についても同様ですね。

 つまり、前半は太子の治病のために太子と等身の釈迦像を造るという点が主であるため、母后や王后に関する祈願はないものの、後半は亡くなった太子・母后・王后の3人に対する奉仕を誓っているため、三尊像のうちの脇侍の菩薩2体は、母后と王后を表わすもの、その追善のためのものと見るのです。

 銘文のうちの「法皇」については、「仏教に深く帰依した皇子」という意味だが、アショカ王のように仏法によって統治する人物、菩薩行をおこなう人物という意味も兼ねていると見ます。遣隋使が隋で「海西の菩薩天子」と呼びかけたように、文帝や煬帝のように仏法興隆に努めた菩薩天子の手本がいるのですから。

 等身の像については、このブログでも紹介したように、中国では皇帝が父や自分と等身の仏像を作らせた例を指摘した肥田路美氏の研究を参照します。そのうえで井上氏は、太子は現在は仏ではないものの、死後に仏となることが願われていることに注意し、目の前の釈迦像のようにいずれ仏になることが願われているとします。これは「出生入死」が、輪廻を意味する「生死」に出入するの意であるとし、何度か生まれ変わって仏となることだと説いた私の指摘より前のことであるため、今一歩ですが、方向はこれで間違っていません。

 つまり、太子は近い将来に仏、具体的には「日本の釈迦」というイメージでとらえられるような存在とみなされていた、それも没後すぐの段階で、ということです。

 次に、この像のを発願した「王后王子等及与諸臣」とは誰かという問題を扱います。この「王后」については、これまでに(1)膳妃、(2)刀自古郎女、(3)刀自古郎女または橘大郎女、(4)橘大郎女及び刀自古郎女、(5)三妃、とすべての可能性が指摘されています。

 井上氏は、膳妃とその王子や膳氏の関与を認めるものの、三妃の可能性も認め、また、山背大兄が太子の後継者とされていた以上、山背大兄を除く王子たちだけで制作したとは考えがたいとし、山背大兄が中心だったと見ます。

 そして、銘文が母后も追善している点から見て、同じ皇族として同居していたと思われる橘大郎女もこの造像に参加していたお推測しますが、これは無理ですね。推古天皇の孫娘であって、自らの系譜を誇った「天寿国繍帳銘」を作成させた橘大郎女が、地方の豪族の娘にすぎない膳王后を含めた「三主」にお仕えするなどいう銘文を認めるはずがありません。

 ただ、井上氏が論文の「結び」で述べているように、太子が没して間もない銘文作成の段階で「太子が救済者的存在となっていることを確認できる」と述べているのは妥当でしょう。ただ、末尾では、新羅の弥勒菩薩像と花郎信仰の関わりに注意する田村圓澄説を考慮すべきだとしていますが、銘文には花郎信仰を思わせる要素が見られないため、賛成できません。


厩戸皇子は伝説化されてしかるべき位置に生前からいたとする穏当な推古朝概説:川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」

2022年08月14日 | 論文・研究書紹介

 このブログでは、聖徳太子や法隆寺に関する論文や研究書を紹介していますが、時代の見通しをつかむには当時の歴史状況を概説した論考も必要ですので、程良くまとめられた穏当な例をとりあげることにします。

川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」
(『岩波講座 日本歴史 第2巻 古代2』、岩波書店、2014年)

です。

 古代史研究者である川尻氏は、古代にあっては仏教が大きな役割が果たしたことに注意したうえで、諸説がある仏教公伝については、「年紀はともかく、漢籍による修飾があっても(その指摘が正しかったとしても)、史実でないとは断言できない」と述べます。

 これは妥当ですね。公伝などに関する記述を疑う人たちは、「中国の典籍の表現を使っているから、机上の創作であって史実ではない」と言いがちなのですが、これは、「自分の言葉で、見たもの、感じたことをありのままに書きましょう」という戦後の作文教育の弊害ではないでしょうかね。

 古代にあっては、いかに古典の言葉を散りばめて書くかが重要ですので、中国古典や後の時代の仏典の言葉を用いて書いてあるからと言って、後代の創作とは限りません。

 川尻氏は、「元興寺縁起」を疑った福山敏男の研究については、先見性を評価しつつも正しくない点もあることを指摘します。たとえば、問題とされてきた塔露盤銘のうち、蘇我を表記する際に「巷宜」の字を用いていることについては、飛鳥池遺跡出土の七世紀末の木簡によって、上古音に基づく表記であることが確定したとします。

 そして、福山が問題とした「佐久良葦等由良宮(さくらい・とゆらみや)」についても、上総国の桜井舎人部豊前が納めた調布の銘文から見て、塔露盤銘前半は、記紀ではない独自の資料に依拠していて史実を含んでいることが明らかになったとします。

 また、『日本書紀』欽明15年条では、百済救援の見返りとして五経博士などとともに九人の僧が交代したことが記されており、こうした記事は百済史料、ないし百済渡来人が作成した史料に基づくものであって、年紀はともかくとして、内容は信頼性が高いとします。

 たとえば、『日本書紀』敏達紀が、日本で最初に出家し、馬子が保護していた三人の尼を佐伯造御室が捕らえ、衣を奪って海石榴市(つばきち)の亭(うまやたち)で「楚鞭(むちで叩く)」したとする記事が、「元興寺縁起」前半では、派遣された「佐俾岐弥牟留古(さひきみむろこ)」が三人の尼を召しだし、「都波岐市(つばきち)の長屋に到」って法衣を脱がし、仏法を破滅したとなっています。

 川尻氏は、両者は似ているため、片方が片方を参照したか、共通の史料に基づいたかだが、「長屋」は「馬屋」の誤写である可能性もあり、縁起の方が古い形を残していると説きます。

 太子に関する法隆寺資料などについても、薬師如来像銘の内容などは信用しがたいにせよ、若草伽藍の創建を丁卯年(607)とすることなどは、何らかの伝承に基づくと思われるとします。そして、釈迦三尊像と銘文、その木製台座などに関するこれまでの研究成果を併せ考えると、推古朝のものと見て差し支えないとし、「聖徳太子と呼ばれるようになったのは後世のこととしても、厩戸王は、後に伝説化されてしかるべき位置を生前から有していたと考えられる」と述べます。

 「厩戸王」という表記を使っているのは問題ですが、判断はこれで妥当でしょう。

 川尻氏は、「元興寺縁起」には誇張があるものの、豊浦寺を推古の建立とするのは史実に基づくものであり、推古の宮を寺に改めて尼寺とした以上、推古と仏教の関係は「積極的に評価すべきだ」と論じます。「豊浦大臣」と呼ばれていた馬子が実際には建立したとはいえ、推古が仏教を積極的に受容していたのは確かであり、推古2年の三宝興隆の詔については、「倭国における仏教の最終的な公的受容とみる」のです。

 なお、飛鳥寺にが高句麗の要素が見られることが指摘されていますが、川尻氏は、百済の威徳王陵と推定される扶余の東下塚古墳の壁画には高句麗の影響が見られることから、百済と高句麗は対立抗争しつつも高句麗仏教の影響が百済に及んでいたと推測し、そうした要素が百済経由で日本にもたさされた可能性に注意します。

 これは面白い発想ですね。聖徳太子の場合も、『日本書紀』では高句麗の慧慈との関係が強調されていますが、三経義疏が百済仏教の模範であった中国南朝の学風であることを見ても、実際には百済仏教の影響が強いです。

 なお、飛鳥寺については、川尻氏は蘇我氏の氏寺ではあるが、当時の蘇我氏の立場を考慮すると、国家的な性格を併せ持っていたと考えるべきだと説きます。

 これは賛成ですし、この段階で「氏寺」という言葉を用いるのは適切ではないと思われます。北朝の銘文では、自分の父母の追善を願う造像の碑銘においても、まず「皇帝陛下」などの長寿を願う言葉を先頭に置くことが多いですが、これについては倉本尚徳さんの勝れた研究が出ているため、いずれ紹介しましょう。

 川尻氏は、この後、舒明から天武・持統朝に到る国家と仏教の関係について概説し、古代にあっては、官衙と寺院が両輪となって国家イデオロギーとして駆動していたとし、初期における寺院の重要さを強調し、朝鮮諸国の影響を重視すべきことを力説して終わっています。


聖徳太子信仰は天武天皇が強めたのではない:大橋一章「法隆寺美術理解のために」

2022年08月11日 | 論文・研究書紹介

 前回とりあげた論文が掲載された論文集は最新の内容であって、冒頭の、

大橋一章「総論 法隆寺美術理解のために」(大橋一章・片岡直樹編『法隆寺ー美術史研究のあゆみー』、里文出版、2019年)

は代表的な美術史家による法隆寺美術に対する概説として、きわめて有益です。この総論では、法隆寺再建非再建論争史について詳細に検討した後、法隆寺の個々の美術について述べていますが、太子信仰についても大橋氏の見解が示されています(普段は「先生」とお呼びしており、昨年の国立博物館の聖徳太子展でもお会いして話しましたが、このブログは「氏」か「さん」で統一してますので、「大橋氏」でいかせてもらいます)。

 聖徳太子の事績を疑う人たちの中には、天武天皇による太子尊重が太子の聖人化と関わりがあるとする人がかなりいます。これは、厩戸皇子を絶讃する『日本書紀』の元となった史書の編纂を天武天皇を命じたということも一因となっていそうに思います。しかし、大橋氏は天武天皇の聖徳太子信仰を疑います。私も天武朝画期説は無理と考えるため、今回は、大橋氏の情報豊かな総論のうち、この部分だけを紹介させてもらいます。 

 大橋氏が注目するのは、法隆寺が再建される前後の時期には、斑鳩で次々に寺の整備がおこなわれたことです。しかも、再建法隆寺の金堂は、焼失した若草伽藍の金堂とほぼ同じ大きさであって、その金堂は飛鳥寺の中金堂と同じ大きさでした。飛鳥寺には丈六の釈尊像が安置されていましたので、若草伽藍もそうであったと推定します。

 このため、大橋氏は、若草伽藍は飛鳥寺に続く我が国で二番目の本格伽藍であったという点を強調します。これは、豊浦寺を無視した言い方ですが、豊浦寺は金堂の跡は発掘されているものの、五重塔や回廊や中門などの跡は発見されていないため、伽藍と言えるほど建物が整っていたかどうかは不明というほかないためもあるでしょう。また、豊浦寺は尼寺であったため、若草伽藍を飛鳥寺に続く第二の本格的な僧寺と称することは可能です。

 注目すべきは、斑鳩地域では、飛鳥寺を建立した百済由来の技術によって若草伽藍も建設した工人たちの後継者たちが、7世紀後半になっても、その技術に基づいて次々に寺塔を建立していったことでしょう。

 彼らは、中宮寺を造営し、完成は天智朝頃までずれこんだと見られる法起寺造営に取り組み、ついで天武朝前半に再建法隆寺の金堂を造営し、天武8年(679)年の法隆寺の食封停止による中断期間を経て、持統朝後半に造営を再開して五重塔を建てます。

 その中断期間は、法隆寺の塔は壁や戸口の部分を取り付けないまま放置されますが、この時期に法輪寺の三重塔の塔が起工されます。また、法起寺の三重塔は、天武14年(685)に起工式がおこなわれたものの、完成は慶雲3年(706)です。

 太子が若草伽藍と四天王寺の金堂を建てて以後、この再建法隆寺が造営される間の期間に舒明天皇が立てた最初の天皇勅願寺である百済大寺は、金堂が飛鳥寺や若草伽藍の金堂の倍近い大きでした。塔も、高さ90メートルにも及ぶ九重塔であって、桁違いに壮大な規模の寺であり、唐の技術が採用されていました。続いて建立された勅願第二号となる川原寺も、初唐の写実的な造像技術が用いられています。

 天智天皇や天武天皇時代の寺は、父である舒明天皇の寺を受け継ぐものであり、天武天皇は天武9年(680)には国の大寺以外の寺院は官治から外し、国家が与えた食封も30年に限るとし、その結果、国家の官寺とされたのは、百済大寺を移築した大官大寺、川原寺、そして特例として認められた飛鳥寺だけでした。

 法隆寺は、金堂薬師像の銘文を作成して用明天皇勅願の寺であることをアピールしたものの、認められなかったのです。大橋氏は、法隆寺はそこで方針を転換し、法隆寺を太子信仰の寺とする方針を定めたとします。

 小倉豊文氏や田中嗣人氏などは、法隆寺再建の時期は天武天皇の治世であるため、この時期に太子信仰が強まったとし、田中氏は法隆寺再建も天武天皇の発意によるとしますが、大橋氏はこれに反対し、上で述べたような斑鳩地区の寺塔の特殊な性格に注意します。つまり、再建法隆寺や法起寺・法輪寺などは斑鳩地区の太子信仰に基づいて建立されたと見るのです。

 そして、法隆寺金堂には、かつては釈迦三尊像や薬師如来像と並んで百済観音や玉虫厨子なども安置されていたうえ、法隆寺には六観音や小金銅仏など、他の寺から移された仏像が多いことから、再建法隆寺はいわば「聖徳太子記念館」とも言うべき性格のものだったとする笠井昌昭氏の説を紹介します。

 この太子信仰の寺という性格を象徴するのが、太子等身とされる救世観音像を安置するために造られた上宮王院、つまり、法隆寺東院伽藍だとするのです。

 確かに、持統天皇は法隆寺に何度か施入しているものの、天武朝には法隆寺の食封は他の寺と一律に打ち切られているうえ、再建法隆寺の建築と仏像には皇室が保有していた最新の唐の技術が用いられていないことから考えると、天武天皇が聖徳太子を尊重して法隆寺を特に重視していた形跡はないと見る方が自然でしょう。

 金堂の壁画には唐の絵画の影響がありますが、再建法隆寺の建築や仏像たちの基本は、若草伽藍を受け継ぐ百済系のものですので。


唐本の御影の研究史、そもそも聖徳太子の像なのか:松原智美「御物聖徳太子二童子像」

2022年08月07日 | 論文・研究書紹介

 日本の近代美術史は法隆寺の再建非再建論争で始まりました。そうした論争を整理した大橋一章編『法隆寺美術ー論争の視点』(グラフ社)が刊行されたのは、1998年のことでした。

 そこで取り上げた問題を、最近の研究成果に基づいて書き直したのが、大橋一章・片岡直樹編『法隆寺ー美術史研究のあゆみー』(里文出版、2019年)であって、これによって現在の研究状況が分かります。このうち、「唐本の御影」という名で知られる、二人の童子を従えた聖徳太子の有名な肖像画について論じたのが、

松原智美「第十一章 御物聖徳太子二童子像」

です。研究史を詳細に紹介してあって有益です。

 まず、料紙4枚を縦に継いでおり、縦101.6センチ、横53.7センチとなっているこの絵では、太子が身につけている袍の上半身部分は、墨を刷毛ではいたような隈取りがほどこされ、輪郭線はなぞったような、途切れがちの描線が引かれています。また人物の位置が不自然であって、太子の佩刀が山背大兄の下半身を横切って描かれています。

 つまり、三人は横並びに並んでいるのか、左の殖栗王を先頭として縦並びに歩んでいるのか明確でない描き方になっているのです。また、太子の額ぎわは淡墨を用いて肌を透かせ、布の薄い質感を示すなど、写実が進んだ部分と、素朴で古様な部分が併存しています。

 そもそも、この絵は太子摂政像の一つとされていますが、他の摂政像は絵にせよ像にせよ、一人のものばかりですので、この絵の異質さが分かりますね。

 そもそも、保延6年(1140)に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』の上宮王院の項では、「太子俗形御影一舗 件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり」と記されていました。この伝承が生まれた事情は不明です。

 また、13世紀前半にまとめられた顕真『聖徳太子伝私記』では、この絵について、中央の人物が聖徳太子、向かって右が長男の山背大兄王、左が同母弟の殖栗王としたうえで、この絵は「唐本の御影」と呼ばれており、唐人の前に太子が応現したため、唐人がその姿を二篇描き、ひとつは日本にとどめ、一つは唐に持ち帰ったとされています。

 その他、百済の阿佐太子の前に現れた姿だという伝承もありますが、こうした様ざまな伝承があるのは、この絵が特殊すぎるためですね。

 この絵について、唐代の絵の影響が見られることが知られた結果、戦後になると飛鳥時代のものとする説は出ていないようです。ただ、原画があって、それを唐の絵の影響を受けて模写したとする説が大正時代からあり、模写であることを否定する説も早くから有力でした。

 この画像を直接調査して精密な研究をした最初は、昭和23年(1948)の亀田孜「御物聖徳太子御影像考」でした。料紙を精査した亀田は、四枚の紙のうち、第1段は後補、第4段も表装のために切り縮められているとし、当初は一段が9寸ほどであって、また画法も奈良時代の例と似ているため、奈良時代の作としました。

 服飾の面の研究もいろいろなされましたが、武田佐知子は、長屋王邸跡から発見された木簡に描かれている男性の像から見て、8世紀中頃までに描かれたとしました。

 この絵が疑われるようになったのは、東大史料編纂所の今枝愛真が、昭和57年(1982)10月15日の朝日新聞に文章を寄せ、御物本の右下には「川原寺」と見えると指摘し、また翌年1月7日の同紙に、会津八一が同様の構図の中国の拓本を学生に見せ、御物本は太子像ではないと説いたという話を紹介したためです。これよって、史学界では否定的な意見が有力となりました。

 ところが、平成3年に御物本を調査した東野治之氏が、「川原寺」というのは、大正時代の記録では、表具は黄色の綾智に寿・寧・康・福の字が色糸で織り出してあったとされているため、そのうちの銀糸による「康」の部分が変色したものと報告したため、今枝説は消えました。

 ただ、だからといってこの絵の像主を聖徳太子と断定できるわけではないと、松原氏は説きます。これと同じような図柄の人物を単独で描き、しかも髭がない画像が薬師寺に伝来しており、同じ図像が江戸時代末期の『集古代十種』では秦河勝の像とされていることなどに注意します。

 そして、このことは、唐代の俗人の人物画がもたらされ、それを手本として、このような俗形人物が「かつては多数制作されてたことを示唆する」と説き、これが御物本に見られる古様の新様の混在に対する回答となるのではないかと論じます。

 「多数制作されていた」にしては、残存例がなさすぎますね。しかも、薬師寺にあったという俗人図にしても単独で描いたものであった以上、三尊像のような御物本と同等に扱うのは無理でしょう。

 松原氏は、太子像と決めつけて論じるのは適切でないとし、これまでは服飾史の面の検討がなされてきたものの、絵画史からの考察は十分でなかったと述べ、X線写真などの資料があるにもかかわらず、御物本という性格上、調査の全容が公開されていないため、決定は難しいと説いて説き、作品そのものの精密な調査が必要と説いてしめくくっています。

 慎重な態度ではありますが、この論考で無視されているのは、奈良時代半ば頃までに、仏教の三尊図のような形で描かれるほど尊崇されていた俗人は聖徳太子しかいない、とする武田氏の主張ですね。有力な豪族が、先祖や父親などの肖像画を描いてそれを拝むといった習慣が奈良時代になされていた形跡はありません。最先端の技術で作成された像や絵や刺繍は、すべて仏や菩薩などであったことは、やはり考慮すべきでしょう。


飛鳥に君臨した蘇我氏の威勢:小澤毅「三道の設定と五条野丸山古墳」

2022年08月03日 | 論文・研究書紹介

 飛鳥の石舞台に立って考えてみると、蘇我の蝦夷か入鹿は天皇だったに違いないと戦後まもなく論じた破天荒な作家、すなわち、私の大好きな坂口安吾の主張については、以前、触れました(こちら)。

 蘇我氏の威勢というこの問題を、考古学の立場から検討し直したのが、

小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』「第三章 三道の設定と五条野丸山古墳」(吉川弘文館、2018年)

です。小澤氏については、蘇我蝦夷の巨大な墓に関する論文(こちら)など、これまで論文をいくつか紹介してきました。

 奈良盆地では、南北方向に等間隔で東から上ツ道、中ツ道、下ツ道の順序で三道が作られ、耳成山の南を東西一直線に走る横大路がこの三道と交差しています。上ツ道は、横大路と交わった箇所から南西に斜行して飛鳥の都に到る阿倍山田道となりますが、横大路が上ツ道ないし山辺道と交わったあたりは、海石榴市の衢です。

 そして、北は山背へと続く下ツ道がその阿倍山田道と交わる地点は、軽の衢として知られ、市が立って賑わった箇所です。小澤氏は『日本書紀』や『日本霊異記』の記述から見て、雄略天皇の宮の一つが磐余にあり、その付近から飛鳥を経て軽に至る道、すなわち阿倍山田道ないしその前身となる道路があったことは間違いないとします。

 この三道については、壬申の乱の舞台となっているため、それ以前に出来ていたことは明らかですが、推古16年(608)に隋使の裴世清が入京した際は、最短距離ではない海石榴市を経てやって来ており、翌々年に来朝した新羅・任那使はその大和川ないしその支流である寺川側の阿斗の館に泊まっているため、当時はまだ三道が未整備であったと推測します。

 その整備の時期については、「難波より京に至るまでに大道を置く」と言われている推古21年(613)頃と小澤氏は推測します。三道の中央である中ツ道は、飛鳥の中心部に向かっているため、飛鳥が政治の中心であった時期に作られたとしか考えられないためです。

 そして、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ筋違道(太子道)は、厩戸皇子の存在と切り離しては考えられないため、三道・横大路・筋違道はいずれも推古朝時に整備されたと見るのです。

 問題は、軽の衢の少し南には、巨大な五条野丸山古墳があり、直線であった下ツ道に続く道は、ここで古墳を避けるように迂回し、南の吉野や紀伊方面へと向かっている点です。

(同論文、73頁)

 下ツ道はこの古墳の正面中央を起点とし、北へ直進するよう計画されたとする岸俊男説に賛成する小澤氏は、ここでこの古墳の埋葬者について検討します。

 丘を利用して造営された五条野丸山古墳は、全長が310メートルの前方後円墳であって、後円部には日本最長となる28.4メートルもの横穴式石室を有しており、かつては572年に没した欽明天皇と見る説が有力でした。しかし、『日本書紀』などには五条野丸山古墳に相当すると思われる地に造営された天皇陵は見当たららないうえ、この古墳は天皇陵として扱われてきていないのです。

 また欽明天皇陵は、『日本書紀』では砂礫を上に葺いたとあり、これと一致するのが、石山とも呼ばれた墳丘長140メートルの梅山古墳であるのに対し、五条野丸山古墳ではそうした痕跡がありません。 

 そのうえ、6世紀の天皇の墓は次第に小さくなっており、前方後円墳という形式も消えていきます。つまり、天皇家はその形から離れようとしていたのに対し、例外的な存在であるこの古墳の被葬者は、天皇ではなく、壮大な墳丘によって勢力を誇示する必要があった人物だったと小澤氏は見るのです。

 そうした人物、しかも石室などの様式から見て571年に亡くなった欽明天皇の陵と同じ頃のものとなれば、考えられるのは、その前年に亡くなっている蘇我稻目しかないというのが小澤氏の推測です。馬子の墓である石舞台は馬子の邸宅の近くに造営されていましたが、五条野丸山古墳も、稻目の邸宅があった軽の地の近くに造営されていることもその理由の一つです。

 この古墳には棺が2つおさめられており、前棺は6世紀後半、奧棺は7世紀前半と推測されています。前棺は稻目の没年と合いますが、その大臣稻目の棺を押しのけて棺が奧に安置されるとなれば、可能性があるのは、稻目の娘であって欽明天皇の妃となり、推古20年に盛大な儀礼によって欽明天皇の陵に追葬された堅塩媛、つまり推古天皇の母の改葬前の棺と見るべきだと小澤氏は論じます。

 小澤氏は、この改葬にあたって軽の衢で盛大な誄の儀礼が挙行されているのは、そこが蘇我氏の本拠だったためにほかならないと説きます。つまり、改葬は、蘇我氏の氏族祭祀としておこなわれたのであり、馬子が自らの氏の本地で氏族の勢威を示したとするのです。

 小澤氏は、以上の検討により、「飛鳥時代の前半に君臨した蘇我氏の権勢の大きさを、われわれは、改めて認識する必要があると思う」と述べ、この論文をしめくくっています。

 なお、私は、この改葬は、欽明天皇の皇后(大后)であった宣化天皇の娘の石姫皇女(敏達天皇の母)に代わって、堅塩媛を皇后扱いしたものである以上、蘇我氏はこれによって准皇族扱いされるようになった可能性があると考えています。これについては、そのうち書きます。