「天寿国繍帳」については、これまでいくつもの論文を紹介してきました。今回は、20年近く前の論文ですが、「天寿国繍帳」の古さを美術史の面から明らかにしている論文を取り上げることにしました。
高瀬多聞「天寿国繍帳小考」
(林雅彦編『生と死の図像ーアジアにおける生と死のコスモロジーー』、明治大学人文科学研究所叢書、2003年)
です。
高瀬氏は、繍帳の殘欠のうち、僧侶が梵鐘を撞く様子を描いた断片は鎌倉時代に模造された部分だが、梵鐘の撞座の位置が高いのは上代に限られるため、鎌倉時代の新繍帳は古代の繍帳を忠実に模写している、という点から話を始めます。
そして、大橋一章『天寿国繍帳銘の研究』(吉川弘文館、1995年)の復元案を高く評価し、阿弥陀仏が描かれているとする点には賛同しつつも、蓮華座の上に阿弥陀仏とともに往生者である聖徳太子像があったとする推測には反対します。
如来、菩薩、往生者には厳然とした区別がある以上、いかに太子を思慕していたからといって、太子を如来と同等に描くことは考えられないためです。
そして、他の研究者も天寿国を西方浄土と決めつけている点に疑問を呈し、残欠部分には主尊が描かれていない以上、眷属と思われる尊格から主尊を推測するほかないとします。仏や菩薩にはつきしたがう眷属が決まっていますので、それが分かれば主尊が分かり、主尊がわかればその場所も分かるからでっす。
そこで高瀬氏が着目したのは、残欠ではかなりの大きさで描かれているう鬼の図様です。鬼の頭上から帯のようなものが伸びているのですが、高瀬氏は、これは弥勒を供養するために牢度跋提が兜率天で四十九院を化現させた雲そのものと見ます。
このため、「天寿国繍帳」は、
1.宝池から生ずる蓮華座上に坐する阿弥陀如来を主尊とする無量寿国の景観
2.牢度跋提からの供養を受ける、椅像の弥勒菩薩を主尊とする兜率天の景観
の2幅から成ると結論づけます。
そして、注目するのが新調した「天寿国繍帳」に基づいて鎌倉時代に作成された『太子曼荼羅講式』の文章です。高瀬氏は、これまでの解読を批判し、次のような対句の形を想定します。
常楽我浄之所成也、顕四重宮殿之階級、
男女禽獣之無隔也、表十界帝網之依正
日月並二輪、同耀定恵修性之光、
鍾磬在両方、遠驚分段変易之夢
このうち、仏教的な世界を表わす「十界帝網」と対になっていることから見て、「四重宮殿」は具体的な建物の描写ではなく、明恵が入滅の際に兜率往生を願って「処於第四兜率天、四十九重摩尼殿」と唱えたと伝えられているように、兜率天宮を示すと見ます。
実際、西方の無量寿国への往生とこの世の上方にある兜率天への往生を同時に願うことは、古代にはしばしば見られたことであるうえ、敦煌の初唐の石窟の変相図でも、弥勒変相を描いた図の対面には西方浄土の変相が描かれるのが通例だと、氏は説きます。
ついで、「天寿国繍帳」に描かれた女性像では、たすきのようなものをかけている点に注目し、「衣裓(えこく)」と推測します。天人が空中で散華供養をする際、手に蓮華を盛るための花皿を持っており、これを「華籠(けこ)」と呼びますが、経典ではこれを「衣裓」と呼んでいる箇所があるのです。
竹ひごや金属で作った籠であれば、「衣」という語に続けて「ころもへん」の「裓」という字を使うはずがないとして、高瀬氏は布でできたくるむ道具であるとし、『一切経音義』では、「衣の前の襟なり。又た云う、婦人の衣の大帯なり」と説明している点に注意します。
そして、キジルの石窟の天人図や仏供養図を描いた壁画では、白い布で物を受け取っている様子が見られるとし、これが日本に伝わり、「天寿国繍帳」に描かれたとするのです。
「天寿国繍帳」については、銘文では「彼の国の形は眼に看がたき所なり」とされているため、釈尊を生んですぐ亡くなって生天した母に説法するため、釈尊が天に登っていった結果、誰の目にも見えなくなったとする『大方広仏報恩経』に基づいていることを私が発見しており(こちら)、この高瀬論文はそれ以前に発表されたものですが、図柄にしても銘文にしても、典拠を綿密に調べればいろいろなことが分かってくることを教えてくれています。