聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『法華義疏』は隋に派遣された留学僧が帰国する推古末年以前の作:井上亘「御物本『法華義疏』の成立」

2023年06月26日 | 三経義疏

 前回の門田論文では、「三経義疏については諸説がある」といった述べ方をせず、聖徳太子の時期の仏教理解は低いとし、「聖徳太子による編纂が仮託であったにも関わらず」と断定的に述べていました。

 三経義疏の内容には言及していないため、読んでいないことが推察されますが、御物本の『法華義疏』が推古末年以前の作であることは確実であって、聖徳太子の作と見て良いとする論文が出ています。

井上亘「御物本『法華義疏』の成立」
(古瀬奈津子編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』、同成社、2021年)

です。

 このブログで論争があった井上さんですが、大山説批判であって「憲法十七条」も太子の作と見て良いとする点は、私と同じ立場です。今回はそれに三経義疏真作説も加わったというわけですが、この論文は知りませんでした。井上さんも送ってくれれば良いのに……。

 さて、この論文は、御物本『法華義疏』は提婆達多品がない二十七品本であるため、提婆品が加えられた二十八品本が広まり、二十七品本が通用しなくなった時期を明らかにすれば、その成立下限が明らかになるという前提で出発しています。

 井上さんは、従来の研究を紹介する形でこの問題を論じています。まず、鳩摩羅什が五世紀初めに訳した『法華経』には提婆品がありません。ですから、『法華義疏』の「本義(種本)」となった梁の光宅寺宝雲(467-529)の『法華義記』は、それに基づいているため、提婆品はありません。一方、隋の天台宗の智顗(538-598)や三論宗の吉蔵(549-623)の『法華経』注釈には入っています。

 晋の竺法護訳の『正法華経』十巻(286年)には提婆品が入っており、隋の闍那崛多共訳『添品妙法蓮華経』七巻(601年)にも入っていますが、西域本に基づいた鳩摩羅什訳と違い、『添品妙法蓮華経』は天竺の梵本に基づいていくつかの点を補訂してあったにも関わらず、主流になりませんでした。広く読まれたのは、鳩摩羅什訳に提婆品が付け加えられて二十八品としたテキストだったのです。

 隋の経典目録である費長房の『歴代三宝紀』(597年)では、「妙法蓮華経七巻」と「妙法蓮華経八巻」があるとしており、以後の唐の道宣の『大唐内典録』(664年)も同様ですが、智昇の『開元釈教録』(730年)になると、「妙法蓮華経八巻、二十八品或七巻」となっており、七巻本にして八巻品にしても、提婆品が添加されている形が標準になったことが知られます。

 その理由について、井上さんは、吉蔵『法華義疏』では、法献が西域で得た提婆品を瓦官寺の南斉の法意が永明8年(490)に『提婆達多品経』として訳したが、梁末に真諦三藏がこの品を訳し、羅什訳の宝塔品の後に加えたと述べていることを紹介します。

 ところが、天台智顗の『法華文句』では、羅什が406年に訳した段階で既に二十八品だったのに、女人成仏を説いていたので長安の女官たちが秘蔵した結果、南朝では二十七品が流布したが、『法華経』を百回も講義した満法師は提婆品を勧持品の前に置いて講義しており、この形のテキストは広まらなかったが、南岳禅師は宝塔品の後に提婆品を置いていたので、私は後に『正法華経』と比較したところ、その位置で良かったことが分かった、万法師と南岳禅師は『法華経』の意図を深く理解していた、と述べています。

 井上さんは、南岳禅師は智顗の師匠の南岳慧思だが、この記述をそのまま信ずることはできないものの、慧思が二十八品に定めたとする記述は重要とします。その話を伝えた弟子の智顗は隋の煬帝が皇太子の時も皇帝になっても尊崇した名僧だったからです。

 このことから見て、井上さんは、智顗を尊重して授戒した煬帝が君臨する隋の都では、二十八品本が流布していたであろうから、607年に倭国から派遣された「沙門数十人」や翌年派遣された僧旻などは、それを書写してもち帰ったはずと見ます。というのは、煬帝が設置した四方館(後の鴻臚館)では、朝鮮諸国を含め、諸国から留学してきた僧侶を教育していたからです。

 井上さんは、太子が天才であって一人で作ったといった伝承には従わず、『法王帝説』が、慧慈の指導のもとで作ったという記述を史実に近いものと見ます。そして、中国撰述ではありえず、百済ないし高句麗の僧侶が種本となった注釈を講義し、太子がそれを略称しながら自分の解釈を加えていったとする私の説を引いてくれてます(ありがとうございます)。

 そのあたりが穏当なところでしょう。井上さんは、真筆かどうかの問題はとりあげていませんが、このブログでは、これに関する妥当な説の紹介をしてあります(こちら)。

【付記】重複していた箇所を削除しました。


仏教受容期にはどのような経典が読まれたか:門田誠一「仏教伝来期の経典とその系譜」

2023年06月21日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子に関連する学問のうち、この15年ほどで進展がいちじるしいの分野の一つは考古学でしょう。韓国や日本での発掘成果により、様ざまなことが明らかになりつつあります。

 東アジア諸国におけるそうした発掘成果に注意しつつ、仏教受容期の日本について論じたのが、

門田誠一「第一章 仏教伝来期の経典とその系譜-出土文字資料による検討-」
(門田『出土文字資料と宗教文化』、佛教大学、2022年)

です。

 後代になって編集された『日本書紀』や『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』などの文献資料だけで仏教受容の状況を判断するのは危険であり、出土文物と文献の記述がどの程度、一致するかを確かめる必要があります。

 その点、韓国ではこの10数年で寺院やその遺跡から文物の発見が続いており、これを参考にすることができます。王興寺と弥勒寺からは、金銀銅の多重の舎利箱が出ていますが、その所依経典としては、原始経典の『涅槃経』における釈尊の葬送に関する記述があげられるとします。

 また、同様の多重の舎利函については、中国では百済仏教の手本となった梁の長干寺の愛育王塔の舎利の由来譚にも同様の記述が見えると説きます。

 その梁の武帝は、大乗の『涅槃経』を信仰し、また『愛育王経』に見える愛育王の仏教信仰を手本としていたことが知られています。これらが百済にもたらされたのです。

 そのため、百済の舎利崇拝については、原始経典の『涅槃経』と大乗の『涅槃経』を参照したと見られるとします。ところが、日本の場合、仏教受容期には『涅槃経』や『愛育王経』の直接の影響は見られず、聖徳太子の三経義疏にしても、『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の注釈であって、梁代に流行していた経典ではあるものの、『涅槃経』や『愛育王経』ではないと述べます。

 このため、三経義疏の場合、『涅槃経』の代替として「同様に悉有仏性を説く短編である『勝鬘経』」があてられたとする見方があるとして、私の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』を挙げたうえで、「三経義疏に関する記述は、聖徳太子による編纂が仮託であったにも関わらず、百済からの仏典伝来の様相よりも、むしろ『日本書紀』編纂時点では、これらの経典が重視されていたことを反映しているのであろう」と述べます。

 拙著を引いてくださってありがたいのですが、あの書き方だと私は仮託説であるように見えますね。もっとも、あの本の段階では、藤枝晃の中国撰述説を批判しただけであって、太子の作だとは論じてませんでしたが。

 門田氏は東アジアの出土文物の研究者ではあっても仏教学者ではないため、上記の説明を含め、やや不適切な点が目立ちますね。

 まず、大乗の『涅槃経』と「同様に悉有仏性を説く短編である『勝鬘経』」とありますが、『涅槃経』と『勝鬘経』はともに衆生の身の中に仏の素因があるとする立場ですが、『涅槃経』は仏性と如来蔵、『勝鬘経』は如来蔵を説いており、「悉有仏性」を説いたのは『涅槃経』だけです。

 ただ、大乗の『涅槃経』は北本は40巻、梁の地で編集した南本の『涅槃経』にしても36巻あります。梁で『涅槃経』と並んで尊重された『大品般若経』は20巻です。それに対して、三経義疏の場合、『法華経』は7巻、『維摩経』は3巻、『勝鬘経』は1巻です。三経義疏の作者は、『涅槃経』を尊重した学派の注釈に基づいてますが、大部の『涅槃経』そのものは読んでません。

 ただ、「聖徳太子による編纂が仮託であった」と断定されてますが、真作と見て良いことは私が論証してきています。また、『日本書紀』編纂時も『涅槃経』と『愛育王経』が特に重視されたことはありません。

 百済は武帝に『涅槃経』の注釈の下賜を求めており、これは恐らく武帝の注釈を下賜してくれるよう頼んだものと見られますが、受容期の日本はそこまで至っていなかったと見るべきでしょう。そもそも、仏教導入と同時に、紙や筆を作り始めているような状況ですし。

 なお、飛鳥寺の塔から出た埋蔵遺物は、古墳の副葬品と類似しているため、仏を神と見る段階、古墳祭祀をそのまま仏教祭祀に置き換えたような状況だったと考えられてきましたが、門田氏は、百済王室の寺からも同様の宝物が出ているため、仏教遺物と説いています。こうしたことは、王興寺の発掘調査で明らかになってきたことですね。

 このため、飛鳥寺の舎利函は失われたものの、百済のそうした状況を反映したものとし、『日本書紀』欽明13年に百済から伝えられたとされる「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」とあるのは、後代の潤色を含むとしても、「百済の舎利埋納の所依経典である『涅槃経』が含まれていたと考えられる」としていますが、これは議論が飛躍しています。武帝が尊重したのは36巻もある大部の『涅槃経』であって、20巻もある『大品般若経』についても講義しています。

 飛鳥寺の失われた舎利函が、百済のものと同様であったろうという推測は良いですが、「若干巻」とある以上は、小部の仏伝経典や、仏教を信じる功徳を強調した小部の大乗経典でしょう。


大王や大后は尊称であって正式な称号ではない:吉村武彦「古代の王・王妃称号と尊称」

2023年06月15日 | 論文・研究書紹介

 前回は継体天皇を扱った論文を紹介しました。むろん、継体当時は「天皇」という称号はありません。では、何と呼んでいたのか。こうした問題を検討したのが、

吉村武彦「古代の王・王妃称号と尊称」
(『日本古代国家形成史の研究-制度・文化・社会-』、岩波書店、2023年)

です。出たばかりですね。

 聖徳太子のことを、「厩戸王」と呼ぶのは適切でないこと、「厩戸王子」も感心できなことは、これまで何度も書いてきました。史学界で「廐戸王」の語がかなり用いられたのは、「皇子」は律令制の言葉であるためですが、それと同じ理由で古代の天皇に対する呼び方もかなり変わってきました。

 中でも多いのは、「大王」です。つまり、天皇と呼ばれるようになるまえの正式な称号は「大王」だったろうということで、「推古大王」とか「大王家」などといった呼び方がなされたのです。

 これに大反対しているのが吉村氏です。まず、天皇号に関する研究史を概説していますが、そこで気になるのは、東夷の倭国が早くに「天皇」の語を用いていたなら、唐の高宗が「天皇」の称号を名乗るとは考えられない、「天皇国書」は『日本書紀』の潤色だろう、という部分です。

 私も「天皇国書」は『日本書紀』の潤色があると思いますが、髙宗が「天皇」と呼ばれたのは臣下たちが捧げた尊称であって、正式な称号である「皇帝」が「天皇」に変えられたわけではありません。突厥の王などが一定期間、「天皇」と称したりしたなら、大唐の皇帝の側近たちがそんな言葉を使うはずはありませんが、何十年も前に東夷の小国が「天皇」という語を一度だけ用いた程度であれば、側近たちがそんな事実をわざわざ調べたかどうか。

 また、「天皇」の語が四度見える「天寿国繍帳銘」については、吉村氏は東野治之氏の説によって舒明朝以後の作としますが、銘文では、「天皇」の語が用いられているのは、欽明天皇、用明天皇、推古天皇についてだけであって、敏達天皇については「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと)」とあるのみです。

 つまり、蘇我稻目の娘たちをキサキとした欽明天皇、その間に生まれた用明と推古を「天皇」と称しており、皇女から生まれた敏達については、字数の関係もあるのかもしれませんが、「天皇」とは呼んでいないのです。このことは、銘文の「天皇」は、欽明と稻目の系統の天皇だけに用いられた尊称であった可能性があることを示すものです。

 銘文では、聖徳太子のことを「大皇」と呼び、その直後で「大王」と呼んでいることも気になります。この時期は、「皇」と「王」は発音も同じですし。

 ただ、ここから先の吉村氏の議論は、いずれも納得のいくものです。まず、江田船山古墳出土の太刀が「治天下〇〇大王」となっていることに注目し、皇帝が君臨する中国に対しては、「王」と名乗りつつ、国内向けには「天下」をおさめる統治者を名乗ったことに注目します。そして、『古事記』ではすべての天皇について「~宮に坐して天下治らしき」となっているため、これが倭国王の資格だとします。

 稲荷台出土の鉄剣の銘には「王賜~」とあり、自ら「王」と称しており、となると、天皇以前は「大王」だとは言えないことになると説きます。また、天寿国繍帳銘にしても、聖徳太子を「大王」と呼び、橘大郎女の父を「尾張大王」と呼んでいますので、「大王」は倭国王以外にも使われることになり、こうした例は『万葉集』その他にも見られます。

 そこで吉村氏は、倭国の首長は中国に対しては「王」と名乗り、国内向けには「治天下」の存在と称し、その配下はこの首長を尊んで「大王」と呼んだと見ます。倭国王の武にしても、「大王」という称号の要請はしていないのです。『古事記』にしても、古いところを除けば、欽明は「~天皇」、敏達は「~命」、用明は「~王」、崇峻は「~天皇」、推古は「~比売命」となっており、「~大王」という例は一つもないのです。

 そこで吉村氏は、関晃の説、つまり、大王というのは王と呼ばれる人の中で特に尊崇すべき人、とりわけ天皇によく用いられた敬称という程度に見ておくべきだとする説に賛同します。

 そして、資料を検討し、これを「大后」にも当てはめるのです。つまり、皇后が生まれる前の存在が「大后」なのではなく、キサキの中で有力な存在を「大后」と呼んだと見るのです。

 「大兄」についても、天皇ないし天皇たり得る人の長男が「大兄」だとする井上光貞説に賛成し、一夫多妻であるため、複数のキサキから複数の大兄が生まれることとなり、王位継承の争いの元となるため、一人制の「太子」が生まれたと見ます。聖徳太子についても、「皇太子」というのは後代の用語であるにせよ、「太子」と呼ばれた可能性はあるとします。

 「廐戸王」は戦後に推定された名であって古代文献に見えないのと違い、「大王」「大后」は文献に見えている言葉ですが、どのような文献においてどのような文脈で用いられているかは、吉村氏が指摘するように注意する必要がありますね。


明治期の皇室制度にも影響、テキストが史跡を生成:遠藤慶太「歴史叙述の中の『継体』」

2023年06月11日 | 論文・研究書紹介

 このところ、聖徳太子の周辺の人物に関する論文の紹介が続いてますが、今回は、

遠藤慶太「歴史叙述の中の『継体』」
(『史学雑誌』第129巻第10号、2020年)

であって、継体天皇です。遠藤さんについては、以前、その『日本書紀の形成と諸資料』の紹介をしたことがあります(こちら)。

 父の用明天皇や叔父の崇峻天皇、叔母の推古天皇ならともかく、祖父どころか曾祖父であって、聖徳太子とはかなり遠い存在であるわけですが、ご当人も大王家の血縁は薄かったうえ、大和の地の生まれでもなかったのですから、なおさらですね。

 しかし、継体天皇の子である欽明天皇の子、敏達、用明、崇峻、推古が次々に天皇になったのであって、敏達以外はすべて欽明天皇と蘇我の稲目の娘たちの間に生まれており、天皇の家系が定まったのは、この継体天皇からとされているのですから、その意義は大きいですね。

 しかも、継体は『日本書紀』で重要な位置づけになっているだけでなく、近代においても重要な存在だったと、遠藤さんは論じています。というのは、明治時代に皇室典範を制定した際、起草主任を務めた井上毅は、天皇の正当性を支えるものを血統に求め、継体天皇によって皇統が保たれたとしたからです。

 すなわち、誉田(応神)天皇の五世の孫であって越前ないし近江出身であった継体が即位することによって辛くも皇統斷絶の危機が回避されたとして評価したのです。

 このため、継体天皇の即位問題は、遠い古代の話ではなく、徳川将軍に代わる天皇支配を打ち出した明治期にあっては「現実の課題」だったと遠藤さんは説きます。これは、聖徳太子にもあてはまりますね。昭和天皇が聖徳太子にならい、皇太子の時代に摂政となって大正天皇の代行をしたわけですから。

 継体天皇が問題になるのは、『日本書紀』は天皇の歴史書でありながら、継体天皇の没年について決定できず、531年と534年の二説をあげ、「後に勘校へむ者、知らむ」として後の判断に委ねているからです。

 531年だと、次に安閑天皇が即位するまで空位であったことになり、534年だと、継体から安閑へと継承されたことになりますが、『日本書紀』がしばしば引いていて信頼性が高いとされる『百済本紀』では、五三一年に天皇・太子・皇子が死去したと記していました。

 この時期に関しては、天皇並立の内乱があったとする林屋辰三郎説が大きな反響を呼びました。遠藤さんは、継体天皇が武烈天皇の妹を皇后とすることによって前の王統につながることは、五世紀に数例あり、継体はそれを踏襲していることに注意します。

 こうした婚姻は、継体の子である安閑・宣化の后妃にも言えることであり、欽明天皇の場合も、宣化天皇の四人の皇女をキサキとしており、その一人である石姫から生まれた皇子が敏達天皇として即位しているのです。このため、遠藤さんは、庶兄である宣化と欽明天皇の間に深刻な対立があったと見るのは困難とします。

 そこで注目されるのは、安閑こそが大兄制の確実な初例である匂大兄であったことです。『日本書紀』では継体朝に亡くなった巨勢男人は、『続日本紀』では継体・安閑朝の人物とされており、男人は二人の娘を安閑のキサキに納入れているのですが、『日本書紀』では男人の逝去記事に続けて「磐余玉穂宮・匂金椅宮に御宇しし天皇に御世に大臣として供奉した、と記されています。

 遠藤さんは、これは継体朝において匂大兄皇子(安閑)がもう一人の倭王として在位していたことを示すのではないかと述べます。つまり、父子ないし兄弟による共同統治を経て、欽明天皇の単独在位という形に移行したのではないかと推定するのです。

 実際、武田幸男氏は、524年の年紀がある新羅の石「蔚珍鳳坪碑」が、寐錦王(法興王)と葛文王(王弟の立宗)の二王が併存して刑罰を告知していることから、この時期の新羅は二重王権大成と見ています。

 遠藤さんも、これを考慮し、大兄制の仮説を一歩進めた形で継体天皇と安閑天皇のあり方を考えてみることが有効と説きます。王が重複していても、後に形成された王統譜では、父子・兄弟としての継承という形で記されるのであり、それが『百済本紀』のような外国の史書の記述によって紀年の矛盾が生じたのではないかと推定するのです。

 遠藤さんは、さらに後代の資料における継体天皇のイメージを検討していってますが、上記の推定は、推古天皇とそれを補佐する弟のような甥たる聖徳太子の位置について考える際も、参考になると思われます。

 いずれにしても、国家、国境、国王などについて、現代の常識で判断するのは危険ということですね。遠藤さんは、林辰三郎が当時の状況を内乱と見たのは、南北朝の帝位並立を意識して論じた師の喜田貞吉の説の影響としています。

 ここで明治期に戻ると、皇室典範の審議では、皇族の範囲をや称号に関して盛んな論義がなされた由。三条実美が五世以下の皇族は賜姓による臣籍降下を主張したのに対し、井上毅は継体天皇の例を考慮し、「百世」であろうとも永世皇族主義をとって皇位継承に不測の事態が生じないようにすべきだと論じ、大議論の末、多数決によって井上の原案が承認されたそうです。これは、皇位継承が問題になり、宮家復活の議論もある現在にも関わる問題ですね。

 問題は、こうした議論によって継体天皇に対する関心が高まった結果、継体を扱った世阿弥の創作能によって生まれた継体関連の伝承が着目されるようになったことです。明治11年(1878)10月に北陸を行幸した明治天皇は、福井を訪れた際、継体天皇の事績調査を命じたそうですし、越前では継体天皇が暮らしたという伝承によって地名変更の願いが出され、記念碑も建てられるに至ります。

 つまり、史実がテキストに残されるのではなく、テキストが史跡を生みだしたのです。これは古今東西で見られる現象ですが、捏造石器や捏造文書に基づく史跡づくりは、現代でも複数の地方自治体でおこなわれているのですから、注意が必要ですね。


上宮王家擁護の境部摩理勢は馬子の弟で国造のクニの境界を定めた:鈴木正信「境部氏と境界画定について」

2023年06月07日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子関連人物で個別研究の無い例として、前々回、用明天皇をとりあげましたが、今回は『日本書紀』では「聖皇の好む所」であったと言われ、太子の長子の山背大兄を天皇候補として押し続け、蘇我本宗家によって殺された境部摩理勢について触れている、

鈴木正信「境部氏と境界画定について」
(『成城文藝』260号、2022年12月)

です。

 国造の制度を運用するには国造を任命するだけでなく、そのクニ(管掌範囲)の境界を定める必要があります。その境界は、今日の県境などと違い、交通の要所を境界点として区画するものでした。そして、その作業は、境部が担当したのであって、蘇我臣氏の同族である境部臣とその配下に編成された境部が担当したと考えられてきました。

 蘇我臣氏は屯倉制だけでなく、国造制の施行にも積極的に関与したと説いてきたのが、鈴木氏です。つまり、国造制は、国家の制度として整備されると同時に、蘇我臣氏が勢力を伸ばしていくための手段ともなっていたと見るのです。

 その境部については、「境部・坂合部・堺部・左甲部・坂合」などと表記されています。鈴木氏は、その境部が史書に登場する例を検討し、雄略紀に見える例は、坂合部がその祖先を坂合黒彦皇子に結びつけようとしたものであって史実でない可能性が高いとし、境部氏には『日本書紀』編纂に関係した人物が多いことに注意します。

 となると、最初の例は、推古8年(600)に境部臣が新羅征討の将軍に任命されたという記事です。この境部臣については、摩理勢とする説と雄摩侶とする説がありますが、鈴木氏は「蘇我境部臣」とも記される摩理勢と見ます。

 蘇我馬子は、父である稻目の娘(つまり、自分の姉妹)であって欽明天皇の妃となった堅塩媛を、推古20年(612)に欽明天皇の檜隈大陵に改葬した際、一族を引き連れ、境部摩理勢に「氏姓の本」を述べる誄を奏上させています。つまり、馬子の弟と言われる摩理勢は、蘇我の同族集団のうち、馬子に継ぐ地位にあったのです。

 一方、雄摩侶は、推古31年(623)に大徳の身で新羅派兵の大将軍に任じられていますが、推古8年の派兵の際の副将軍であった穂積臣は再任されていないことから見て、推古8年時の大将軍は摩理勢であったと鈴木氏は推定するのです。

 となると、馬子が実権を握るようになった6世紀後半に境部が設定され、それを統括する氏族として蘇我臣から蘇我境部臣が分出されたと考えるのが自然ということになります。蘇我臣氏は、ほかにも倉・小治田・久米・桜井・箭口・岸田・御炊・河辺・田口・高向などの同族を多く独立させています。

 当時の政治は豪族の氏上たちによる合議制であって、一族から1人、最大勢力の氏族からも2人までしか代表を出せませんでしたが、蘇我臣は同族を独立氏族とし、その者たちを合議の構成員として送り込み、馬子が大臣となって主導することによって勢力を強めたのです。

 鈴木氏は、このことが逆に統率をとれなくし、本宗家の孤立と滅亡を招いたと見ています。これは、このブログでも書いてきた私の意見と同じです。私の場合は、上記のような細かい経緯は検討しておらず、本宗家と摩理勢側の対立といった程度しか考えていませんでしたが。

 なお、坂合部については、多氏・阿倍氏・尾張氏・東漢氏などの系統に属していますが、鈴木氏はこれらの氏族はいずれも蘇我臣氏と密接な関係にあったことに注目します。

 阿倍氏は、馬子が守屋を討った際、その軍勢に参加してますし、馬子が推古天皇に葛城郡の割譲を要望した際、阿倍臣麻呂を使者に立てているうえ、舒明即位前紀では、推古天皇の没後、阿倍臣麻呂が蝦夷を補佐して群臣会議を主催しています。

 その境部の職掌については諸説がありますが、鈴木氏は、国造たちのクニの境界に「境(坂合)」という地名が確認できることから、そこに境部の拠点が置かれていたと推測し、境界画定をその主要な業務としていたと見ます。

 論文では、氏族の系譜や分布について詳細な検討がなされていますが、ここでは、聖徳太子に関わる摩理勢とその前後の状況だけ紹介しました。

 以前、上宮王家は、蘇我氏と守屋氏の争いの中で台頭し、蘇我氏実権時代になると、その内部抗争に巻き込まれて亡んだという見通しを書いたのですが、その正しさを裏付けてもらった感じです。


ベルギーのゲント大学開催のEAJS大会で近代の聖徳太子パネル

2023年06月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 昨年3月、近代の聖徳太子像に関するシンポジウムが開催され、私はコメンテーターを担当したことは、このブログでも紹介しました。発表者が全員、海外出身の研究者という面白いシンポジウムでした(こちら)。

 そのシンポジウムを主催した東北大学のオリオン・クラウタウさんが組織したパネルが、この8月にベルギーの古都、ゲント(ヘント)大学で開催されるEAJS、すなわち、ヨーロッパ日本学協会の2023年大会において開かれることになりました。

 

 一昨日、そのプログラムが確定して発表されました。ベルギー開催ですし、参加には事前の有料登録が必要ですので、「お近くにおいでの際はどうぞ」とは言えないのですが、興味深い内容となることでしょう。パネル名と内容は、以下の通りです(こちら)。

Phil_13:
A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history   
Convenor: Orion Klautau (Tohoku University)

Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University) 

Kosei ISHII (Komazawa University):
Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku  

Yulia Burenina (Osaka University):
Projecting modern ideals on the past: Nichirenist perspectives on Shōtoku Taishi

Orion Klautau (Tohoku University):
Harmonizing the Prince: Shōtoku Taishi’s constitution between the Taishō and early Shōwa years  

以上です。

 発表者のうち、クラウタウさんは近代日本仏教研究のリーダーの一人、ブレニナさんは近代日蓮宗研究の代表的な研究者の一人、林 淳さんは近世から近代の日本宗教史の第一人者です。

 私は、このブログで何回か触れた聖徳太子作とされる偽の『五憲法』が、近世から近代にかけていかに歓迎され、利用されたかについて、特に明治初期に「三条教則」が出された際の対応を中心にして話す予定です。

 なにしろ、「憲法十七条」 は「神」という言葉を一度も使っておらず、「忠」も「孝」も説いていないため、江戸時代の国学者や儒学者からは評判が悪かったのです。

 そこで、「憲法十七条」の「篤敬三宝」を改変して「篤敬三法」とし、「三法」とは「儒・仏・神なり」と断言する偽憲法がでっちあげられたのですね。

 五憲法では、通常の「憲法十七条」をそのように改変した「通蒙憲法」のほか、為政者向けの「政家憲法」、神職向けの「神職憲法」、儒者向けの「儒士憲法」、僧尼向けの「釈氏憲法」が作られ、中国の儒教・仏教・道教の三教一致説にならった儒教・仏教・神道の三教一致が説かれていました。

 このため、明治期に神道重視の政策がとられると、大人気となったのです(こちら)。その影響は今日まで続いており、かの「お客様は神様です」の三波春夫が解説本を出しているほどです(こちら)。

 問題は、この『五憲法』を含む偽文書群たる『先代旧事本紀大成経』72巻は、吉田神道を受け継ぎ(こちら)、「憲法十七条」の根本は日本の神の教えであって、その日本の神の教えがインドで仏教となり、中国で儒教となったのだ、世界最古の文明は日本なのだと説いていたことです。

 某田中英道氏の妄想と同じ図式ですね(こちら)。田中氏に限らず、自国の文化が世界最古・最良と誇る人たち、あるいは、近代文明のきっかけを作ったのは自分の国だなどと誇る人たちは、いろいろな国にいますが、パターンは見事に同じですね。

 ただ、この『五憲法』は偽作として発禁になったものの、江戸期の時代思潮と合う部分があったため、忍澂や面山といった著名な学僧のほか、安藤昌益や山崎闇斎なども利用しています。自分の説に都合が良いと、どうしても文献批判が甘くなるのですね。 

 『五憲法』については、江戸から明治の版本は、1点を除けばすべて入手できましたので、文献的な発表ができるでしょう。これだけ版本を集めることができたということは、いかにたくさん印刷されて出回っていたか、ということですね。