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書物としての『日本書紀』について検討した遠藤慶太『日本書紀の形成と諸資料』

2015年05月20日 | 論文・研究書紹介

 以前このブログの「東アジアからの視点で史書の成立を眺める:遠藤慶太『東アジアの日本書紀』」という記事(こちら)で紹介した遠藤慶太さんが、本年の2月に、新著を出されています。

 遠藤慶太『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、201年)

です。

 本書は、先の本を継承し、『日本書紀』をあくまでも1冊の書物と見て検討していくという立場で、個々の資料とそれが『日本書紀』にどうより合わされていったかについて詳細な考察を加えたものです(遠藤さん、御恵贈有り難うございます。お礼が遅くなりました)。

 『日本書紀』の記述を利用して古代史について何か書く人は有益な本であって、特に「第一章 日本書紀の読書史」は必読でしょう。第一章は二つに分かれており、1は「『日本書紀』研究の課題」、2は「『日本書紀』の写本と注釈-読書史をたどる-」です。

 ここでは、「記紀で研究する前に、記紀を研究しなければならぬ」という有名な坂本太郎の言葉が引かれ、この言葉の意義が再確認されており、関連する様々な問題点が指摘されていて有益です。

 遠藤さんの立場は穏健なものであって、「『日本書紀』は8世紀初めに一定の意図に基づいて編集された編纂物なのだから、『日本書紀』によってそれ以前の歴史を知ろうとするのは意味がない」といった極端な立場には反対です。

 『古事記』であれば、分量が少なく、テキストが均質であるため、個々の記述に基づいて全体の編纂者の意図について語ることも出来るでしょうが、『日本書紀』のように不統一であって「さまざまな素材史料が束のまま投げ出されたような面をもっている」書物はそうはいかない、というのです。

 『日本書紀』は、助辞、訓注、形式、漢籍の典拠、天文記録その他によって巻ごとの区分が可能であることは、全体の統一がとれていない証拠だとする遠藤さんは、森博達さんの音韻による区分論を最近の研究における最大の成果として高く評価しつつ、筆録者の名前まで特定するのは難しく、「筆録が可能であったろう集団の想定」あたりが限界ではないか、と論じています。

 2では、原撰本が残っていない『日本書紀』を我々が今日読むことができるのは、書写し、また解釈して後世のために伝えてきた人たちのおかげという点を重視し、その過程を検討しています。

 遠藤さんは、ここでは、『日本書紀』に付された「古訓」と称される平安中期の訓点を重視しつつ、これが「そのまま上代語(奈良時代の言葉)ではない」ことに注意します。古訓を絶対視すると、『日本書紀』を伝えてきた卜部氏の解釈にしたがって『日本書紀』を見ることになってしまうのです。

 遠藤さんは、注釈や写本の系統研究の歴史をたどった後、他の古典では古い写本が底本に選ばれるのに対し、『日本書紀』では、現代の代表的な注釈でも、広く読まれてきた寛文九年の版本が底本とされてきる状況に注意します。

 さて、2の「『日本書紀』の写本と注釈-読書史をたどる-」を読み、様々な立場で解釈してきた歴史をたどっていると、気づかされるのは、客観的だと称する現代の研究も、実際には中世の密教的解釈と同様、何かしらの目的をもってかたよった解釈していく面がある、ということです。

 2の末尾はこうです。「また『日本書紀』の読書史は、未来に向かっても開かれていると思うのである」。

 なお、「第二章 分註の諸相」を初めとする諸章でも、いろいろと有益な指摘がなされています。たとえば、『日本書紀』編集当時は、中国では『漢書』は顔師古注、『左伝』は杜預注、『文選』は李善注で読むのが通例になっていたことなどを強調し、『日本書紀』も最初から注つきで書かれただろうと説いた部分がそうです。

 また、歴史書が時代の背景の中で製作されることを認めつつも、「本当に歴史書を編纂する者は、ほしいまままに歴史を書くことができたのであろうか」と疑ったところも興味深い点です。これは津田左右吉批判であり、また現代における『日本書紀』編纂者万能書き換え説に対する批判でもあります。

 遠藤さんは、『古事記』についてはそう言うことができても、不統一であって異説を「一書」として並記する『日本書紀』については、筆録者万能書き換え説は当てはまらないとし、分註からそのことを論証していきます。

 個々の部分については、遠藤さんの主張には反論もあるでしょうが、こうした検討方法は有効なものと、私は評価しています。