聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

釈迦三尊像や救世観音像など法隆寺の仏像に関する最新の見解:藤岡穣「古代寺院の仏像」

2021年02月26日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、法隆寺の救世観音像に関する梅原猛のとんでもない珍説とその批判を紹介し(こちらと、こちら)、前回の記事では、その梅原の影響を受けて古代の「ロマン」を追い、釈迦三尊像は奈良朝になって長屋王家が滅亡した後に飛鳥朝の古風な仏像に似せて作られた模作だとする珍説を紹介しました。こうした説が生まれるのも、法隆寺の様々な仏像のどれもがそれぞれ強烈な特色を持っており、あれこれ言いたくなるからですね。これらの仏像について、最近の見解を述べているのが、 

藤岡穣「古代寺院の仏像」
(吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『シリーズ古代史をひらく 古代寺院-新たに見えてきた生活と文化』、岩波書店、2019年)

です。

 当然、法興寺の仏像の話から始まっています。いきなりの注文で申し訳ないのですが、その書き出し部分で、蘇我氏本宗家が滅亡すると「法興寺は蘇我氏の氏寺から国家の寺院へと変貌をとげた」(137-8頁)というのは、どうでしょうかね。この最初の時期は、氏の祖先の追善を願い、氏統合の象徴、支配下の地域の中心かつ権威づけとなるような氏寺や官僚制はまだ確立されておらず、国家のいろいろな職務を氏単位で担当していた時期ですので、蘇我氏が天皇・国家の安泰を願う国家的な寺を氏の職務として建立した、といったところではないでしょうか。

 それはともかく、ここでは法隆寺に関する記述を見てゆきましょう。藤岡氏は、まず現在の法隆寺については、金堂外陣の杉材の天井板1枚が667-668年の伐採、檜材の天井板1枚が668-669年の伐採であるため、焼失したとされる670年の少し前に現在の地で金堂の造営が始まっていた可能性があるとし、どう解釈すべきか新たな課題が生じているとします。ただ、若草伽藍からは焼けた瓦や壁画片が出土していることに注意していますので、むろん非再建説ではありません。

 そのうえで、金堂の釈迦三尊像については、伝承通り、聖徳太子と等身の像であって、「美術史の分野ではこの銘記は造立当初のものと認められている」(147頁)と述べます。そして、古拙なアルカイックスマイルを浮かべたこの像については、北魏様式の影響が論じられてきましたが、氏は複数の例をあげ、南朝の梁の様式が百済経由でもたらされたものであり、新旧の要素を折衷していると説いています。銘記についても、梁から百済の系譜に連なるものと考えられる由。

 議論の多い薬師如来像については、釈迦三尊像より柔らかい造りになっているため、七世紀後半の作とされることが多かったものの、釈迦三尊像に近い七世紀前半の作と見るのが妥当とします。ただ、銘記については、造立時のものかどうかは不明とします。
 
 金堂の四天王像については、光背の裏に掘られた作者の名のうちに山口大口費が見えており、山口大口費は『日本書紀』によれば勅命によって650年に千仏像を刻んだととあるため、七世紀半ばの作とされてきましたが、650年をどれだけ前後するかは検討材料だとします。この四天王像についても、類例をあげ、南朝の六世紀半ば頃の様式に基づいているとします。

 次に、百済観音像については、法隆寺の火災の後の時期の作であって、隋の作例と類似することから、七世紀後半の作と考えられるようになってきたと述べます。

 聖徳太子等身と伝えられてきた問題の救世観音像については、『東院縁起』の記述は信用できないものの、「その大ぶりな目鼻立ちは釈迦三尊像よりも飛鳥大仏に近く、釈迦三尊より先行する作例と見てよいと思われる」(156頁)と述べています。そして関山神社に伝来する百済からの渡来と思われる菩薩像に似ているため、そうした渡来仏を手本としていたと推測します。

 これはかなり思い切った説ですね。美術史学ではこの像を飛鳥時代の作、それも止利式仏像とみなすのが主流の見解でしたが、明確な製作年代は提示されておらず、太子没後と見る場合が多かったように思われます。また、日本史学では、聖徳太子信仰が高まるようになったやや後の時期に作成されたと説く人もいましたので。

 なお、藤岡氏によれば、その宝冠の飾りは古墳の副葬品と関連するものであり、釈迦三尊像を造った止利仏師が「鞍(作)首(くらつくりのおびと)」であって、馬具製作に携わる家系の出身であったことが想起されるとしています。
 
 以上のように、現在の金堂は670年の火災の後、ないしその少し前に造営が始まったとしつつ、その金堂や奈良時代に建立された東院に安置されている仏像たちについては、ほとんどを推古朝頃のものと見るのです。

 天寿国繍帳については、兜率天を描いたとする三田覚之氏の説を紹介し、その繍帳の中には弥勒像が安置されていたであろうとして、広隆寺の宝冠弥勒が「太子本願」とされたのも、四天王寺金堂に弥勒菩薩が安置されたのも、太子と弥勒菩薩の由縁によると述べています。

 前回の記事でとりあげた木村氏の本は、自ら述べていたように「ロマン」先行でしたが、藤岡氏は本論文の末尾において、後世の霊験や伝承について、こう述べています。

ロマンにあふれて興味深いが、仏像造顕当時の実態を知るためには、それをいったん忘れ、客観的に見ることも必要になる。(188頁)

 そして、様式・技法・科学的調査によるデータなどから情報を引き出し、「そのうえで歴史的位置づけを明らかにする」必要性を説いてしめくくっています。

【珍説奇説】新刊の木村勲『聖徳太子は長屋王である』

2021年02月22日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 この10年ほど、学界で大山誠一氏の虚構説を明確に支持して論文を書く人は、盟友の吉田一彦氏以外には見かけなくなったように思いますが(こちら)、そうした中で大山説を受け継ぎ、さらに空想を重ねていった本がまともな出版社から刊行されました。
 
木村勲『聖徳太子は長屋王であるーー冤罪「王の変」と再建法隆寺』
(国書刊行会、2020年10月)

です。木村氏は、古代にも関心を持つ日本社会史・近代文芸の研究者である由。

 国書刊行会は、近年は様々な系統の本を出版していますが、仏教・神道・近代民間信仰などについては、きわめて地味で学術的な書物を数多く出してきました。韓国の金剛大学仏教文化研究所が編集した中国の地論宗に関する韓国・日本・中国の研究者たちの論文集、『地論思想の形成と変容』(2010年、こちら)では、私は「序章」を執筆させてもらっています。

 また、国書刊行会から出版された大竹晋『大乗起信論成立問題の研究』(2017年)については、長年の真偽論争に決着をつけた画期的な書物だと高く評価し、いちはやく書評を書いたくらいです。そうした優れた学術書を世に送ってきた国書刊行会が、世間によくある『聖徳太子は実は誰々だった!』といった類の本を出すというのは驚きです。

 木村氏は、冒頭の「プロローグ」を「古代は近代史を学ぶ私にとって基本的にロマンである」という言葉で書き始めています。つまり、近代については学問的に取り組むが、古代は趣味でロマンを追う、ということのようです。ですから、史実の解明を期待する人であれば、題名を見た段階で「トンデモ本だな」と判断し、この最初の文を読んで「やはりそうか。ロマンとなれば梅原流か?」と思って放り投げるのが正解です。

 しかし、国書刊行会の本ですので、多少は役に立つ考察もなされているのではないかと、我慢してぱらぱら読んでいくと、大山誠一説への高い評価が書かれており、道慈が果たした役割が強調されています。ところが、その後に続いているのが、森博達氏の『日本書紀』α群β群説の紹介と賞賛なのです。森さんは、大山氏の道慈執筆説は「妄想」にすぎないと断定して強く批判しているんですが……(こちら)。

 以下も、こうした不統一と不勉強な記述が続き、学界の通説を無視した空想が書き連ねてあります。たとえば、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、「聖徳法皇なる人物の死(書紀の厩戸は六二二年)にこと寄せて、長屋王一家の死を書いているのだ。つまり、銘文は七二九年二月十二日以降の製作なのである(あらかじめ言っておけば七三六年までには完成している)」(113頁)んだそうです。銘文では「上宮法皇」であって「聖徳法皇」ではないですけど……。

 学界の通説は研究の進展によって変わっていくものですので、通説を批判するのは結構なのですが、その場合は、きちんとした論証が必要でしょう。近代の研究者である木村氏は、基礎となる漢文資料が読めておらず、思いつきばかりで論証がなされていません。

 木村氏は、釈迦三尊像と銘を刻んだ光背とは一体として推古朝に作られたとする東野治之氏の説のうち、一体説の部分だけを承認して時代判定を大幅に変え、釈迦三尊像も光背も「長屋王の変の後に改めて、元の飛鳥古風で作り直されたのだ……何より優れた総合プロデューサーの監督下で」(111頁)と論じるのです。「総合プロデューサー」というのは、道慈ですね。道慈は法隆寺と交渉はあったものの、そこまで深く関わっていたことを示す資料はないですが。まあ、この辺が滅ぼされた上宮王家と長屋王一家の悲劇をつなぐロマンなんでしょう。

 釈迦像に鋳造の失敗と見られる跡があることが指摘されているのは、これまで言われているように推古朝頃の技術が未熟だったためではなく、奈良時代になって古風な仏像の精巧な模造品を作るのは困難だったためだろうというのが、その論証らしきものです(釈迦三尊像に関する美術史研究者の見解はまったく違いますので、次回の記事で最新の説を紹介しましょう)。

 木村氏は、「憲法十七条」については、元明女帝の敕や元正女帝が発した敕のうちの仏教関連の内容と関係があり、それに基づいて道慈が書いたと論じます。そこまでは大山説に近いですが、氏はさらに『法華義疏』も道慈が718年に書いたと論じています。帰国してまもない時ですね。大山説においては説明に困るといつも道慈がやったとされるのですが、木村氏が説く道慈は、大山説以上に、超人的な万能ぶりを発揮しているのです。

 しかし、道慈は、木村氏自身が「まず三論の僧であった」(154頁)と書いているように、攻撃的な論調で知られ、中国では反発をくらって数人が殺されている三論宗の僧侶ですよ。実際、道慈は「硬骨」で衝突しがちであって、日本仏教のあり方を批判する『愚志』を書いたと伝えられていますので、まさに三論宗の特徴と合致します。そのうえ、道慈は長屋王から宴席への参加を誘われた際、僧侶と俗人は立場が違うと謝絶する漢詩を送ったことで知られています。

 その三論宗を大成した攻撃的な学風の吉蔵(549-623)は、『法華義疏』の「本義」である『法華経義記』を書いた光宅寺法雲(467-529)のことを、小乗にすぎない『成実論』に基づく「成実論師」と呼んでいました。そして、法雲については『法華経』の素晴らしい意義を知らず、すべての衆生に仏性が有ると説いている『涅槃経』と違って『法華経』は仏性を説いていないため『涅槃経』より劣る経典と位置づけたとして激しく批判し、『法華経』も実質的には仏性を説いていることを力説していました。

 『涅槃経遊意』で論じているように、『法華経』がきちんと説いているのに、それを理解できなかった劣った理解力の者たちのために補足として説いたのが『涅槃経』だ、というのが吉蔵の見解です。前の記事でちょっと触れましたが(こちら)、吉蔵の『法華玄論』では、「仏性」の語を何百回も用いて、この問題を熱っぽく論じています。空観と仏性・如来蔵思想を統合しようとした三論宗にとって、この問題はそれほど重要な問題だったのです。吉蔵の兄弟弟子であって吉蔵に似た主張を展開していた百済の慧均(生没年不明)も、『四論玄義記』において「仏性義」という章を設け、仏性について詳しく論じています。

 一方、法雲の『法華経義記』とそれを手本とした太子の『法華義疏』は、「仏性」という言葉を一回も使っていません。木村氏は、道慈が『法華経義記』を参考にして『法華義疏』を作ったと述べていますが、道慈は時代考証されてもばれないように、自分自身が属する三論宗の主張を完璧に隠し、許しがたい成実師路線で『法華義疏』を書いたことになりますね。吉蔵に申し訳ないと思わないのでしょうか。

 なお、福井康順氏は、『維摩経義疏』の太子撰を否定し、道慈が唐から将来したか朝鮮あたりの作を太子作としたかと推定しつつも、道慈の弟子であって、法相宗と激しい論戦をやったいかにも三論宗らしい智光(709?-780?)が、『浄名玄論略述』において『維摩経義疏』を太子の作として何度も引用していることに注意し、説明に困る事柄としています。また、福井氏の説を批判する太子礼賛派の花山信勝氏は、道慈関与なら吉蔵の思想の影響がないのはおかしいと論じていました。

 しかも、道慈は唐代仏教を代表する長安の国際的な学問寺に16年も留学していたのに、日本人である太子の作と見せかけるために、『法華義疏』をわざと誤字や変格語法だらけのつたない漢文で、それも隋頃の古い書風で書いてみせ、別人の筆跡による訂正も加えておいたことになります(こちら)。芸が細かいですねえ。ただ、これだと、太子礼賛にならないんじゃないでしょうか。

 木村氏は、『法華義疏』について新説を出すのであれば、原文を読んで教理について判断するのは無理にしても、せめて『法華義疏』の原物(複製)を最初の方だけでもぱらぱらと眺めてみるべきでした。誤字・誤記が多いことくらいは分かったでしょう。

 一度、無理な説を主張すると、それを支えるためにさらに無理な説を唱えざるをえなくなるものです。たまたま大山氏の『<聖徳太子>の誕生』を読んで「古代逍遙者の身にまたスイッチが入ってしまった」(234頁)という木村氏は、『古事記』の背後には長屋王がいるという大山説をさらに進め、ついには「古事記は書紀から作られた」などと言い出します。

 こうした飛びはねぶりは、大山氏が推古は即位しておらず、蘇我馬子こそが天皇だったと説くようになったことや、その大山氏を太子礼賛の立場で叩いていた新しい歴史教科書をつくる会元会長の田中英道氏が、『高天原は関東にあった』とか『京都はユダヤ人秦氏がつくった』といった類の本を出すようになったことに良く似ていますね。

 そのうえ、木村氏は、国際日本文化研究センターを創った頃の梅原猛を(氏が新聞記者だった頃に?)厳しく批判していたものの、次第に評価が変わったそうで、『隠された十字架』がこれまでの分析的な研究を批判し、総合的な考察をすべきだと説いていることを高く評価します。やはり、梅原の影響もあったか……。

 しかし、総合的な考察をするのだと称して実証的な研究を無視し、直感優先でロマンを追った梅原説がどれほど悲惨な結末に至ったかは、このブログで指摘した通りです(こちらと、こちらと、こちら)。

 いや、困りました。明らかに「古代史小説」とか「古代史エンターテインメント読み物」として出される本なら、それでもかまいませんが、国書刊行会が出す本がこんな内容で良いのか。残念ですね。 

【付記】
「憲法十七条」の第一条の冒頭では、「無忤(さかふること無し)」という姿勢を強調していますが、三論宗の居士であって周囲と激しく対立し、最後は皇帝にまで逆らって怒らせ、獄中で殺された陳朝の傅縡(530年代~580年代)は、成実師たちに対する激しい論難を批判され、「無諍(争わない)」という態度を守るべきだと忠告されると、『明道論』を書いて反論し、異説がとびかう都会では「俗に忤」って真実の教えを広めるべきであって、「無諍」というのは山の中で修行している仲間うちでのみ通用する話だと言い放っています。
 吉蔵に関する記述についても、少し補足しました。
【付記:2021年2月23日】
 三論宗は「破邪顕正」を特徴としており、日本の三論宗も批判的でした。智光は法相宗の行基を非難したため地獄に落ちたと伝えられていることが示すように、奈良朝半ばから平安初期にかけては三論宗は法相宗を激しく攻撃しており、天皇が命じても両宗の争いがやまなかったほどです。その三論宗に属する道慈が「憲法十七条」第一条で「無忤を宗となせ」などと説くか……。
【付記:2021年3月1日】
 上記の付記の末尾でそのように書いたのは、20年前の拙論「「憲法十七条」が想定している争乱」(こちら)で指摘したように、「無忤」というのは、三論宗から攻撃された『成実論』尊重派の僧尼が尊重していた徳目だからです。

『法華義疏』の画像データベースによると重要な訂正部分は別人の筆跡:飯島広子氏の博士論文

2021年02月18日 | 論文・研究書紹介
 先日の「三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然」記事(こちら)は、かなりのアクセスがありました。あるいは、三経義疏に対する関心というより、古典をコンピュータ処理するという点が興味深かったのかもしれません。そこで、今回はその続編として、画像データベースを用いて『法華義疏』の書風を分析した論文を取り上げます。

 『法華義疏』は、廃仏毀釈によって困窮していた法隆寺が(寺の僧が7名にまで減ったと、昔、法隆寺の方からうかがいました)、明治11年(1878)に多数の宝物を明治天皇に献納して褒賞のご下賜金、1万円を得、雨漏りがしていた金堂の修理などをおこなった際の宝物の中に含まれていたものです。

 宝物のほとんどは後になって国家に寄贈され、現在は上野の国立博物館のうちの法隆寺宝物館に収められていますが、明治天皇が身近に置いていた『法華義疏』や「唐本の御影」と呼ばれる例の肖像画はそのまま留め置かれたため、これらは現在、宮内庁が管理しています。

 その『法華義疏』については、真作説以外に、中国伝来説、朝鮮成立説、太子学団作成説、後代日本製作説など、実に様々な説が出されており、実際に筆をとって書いたのは誰かについても、真筆説、写経生説、側近説などいろいろな説がなされています。

 このうち、敦煌文献学者である藤枝晃氏や書道史家の魚住和晃氏らの中国伝来説については、私が多数の変格語法を指摘した結果、消えることになり(こちら)、三経義疏の共通性も明らかになってきましたが(こちら)、不明な点がまだ数多く残っており、実際に筆をとってこれを書いたのは誰かという問題もその一つです。

 この厄介な問題に対して果敢に取り組んだ労作が、

飯島広子「伝聖徳太子筆『法華義疏』の書風と解釈に関する研究」
(筑波大学博士 (芸術学) 学位論文・平成11年3月25日授与 (甲第2193号)
 [つくば大学の機関リポジトリで公開されています。こちら]

です。20年ちょっと前ですので、最近の論文とは言えませんが、刊行されておらず、ほとんど知られていないようであるため、紹介しておきます。

 『法華義疏』には達者な筆跡で知られるその筆者以外の人が訂正を書き込んでいることは、前から指摘されていました。飯島氏は、これまでの研究史を整理したうえで、重要な文字をスキャンして画像データベースを作成し、それを活用することによって別人筆跡説を確定しました。作業の素材となったのは、むろん写真複製本ですが、氏は、国立博物館での特別展示の際、原物を間近で見て疑問点を確認しています。

 検討された複数の字のうち、特に重要なのは『法華義疏』中でも大事な概念となっている「果」の字です。この字については、真ん中の縦の線を上から下まで一本線で書くのが普通ですが、書道史家であって『法華義疏』についても詳細な検討をおこなった西川寧氏は、『法華義疏』が「田」と「木(実際には「示」の上の横棒を除いた形)」とを分けて書いているのは隋の書風によるとしていました。

 西川氏は四巻のうち、巻一のみを扱いましたが、飯島氏は全体を調査し、特に巻一と巻四を詳細に検討しています。以下の図のうち、1-02-12-04 というのは、巻一の第二紙の12行目の上から4字目を示します。『法華義疏』は、横幅 42~44cmくらいの褐色の紙を素人くさいやり方で貼り継いで巻物仕立てにしてあり、本文の橫に訂正を書き込んだり、大幅に訂正する際は数行切り取って白色の紙を新たに切り継いで貼って訂正したりしており、草稿のように思われることは有名です。


 
 そうした切り継ぎのうち、紙全体を白い紙で入れ替えてある巻四第六紙では、11例見える「果」の字のうち、4-06-5-21の字が示すように、多くは巻一や巻四に見える例と同じ形であって、「田」と「木」が離れていますが、上の画像に見えているように、それ以外の右側の3例は、いずれも上から下まで一本線で貫かれています。書風も、曲線的で字配りのバランスが良い字を細身の筆でもって軽快にさっと書いている本文と違い、第六紙は穂先のつぶれた筆でごつごつと書かれており、書風の違いは歴然としています。

 こうした違いは、他の字でも同様です。「於」の字では、右側に二つの点を打つのが普通であって、巻一と巻四ではそうなっていますが、巻四第六紙では、三つの点を続けて書く形になっていて他と異なっています。

 しかも、飯島氏は、この巻四第六紙は、『法華経』を大乗諸経のうちに位置づける際、仏性を説く『涅槃経』を最高として仏性を説かない『法華経』をその下と見るのか、『法華経』を『涅槃経』とならぶ、あるいはそれ以上に尊い大乗経典とみなすか(この場合、「仏性」の語を用いていないだけで、実質的には「仏性」を説いているとみなす)という問題に関わる、きわめて大事な議論をしている箇所であることに注意をうながします。つまり、この第六紙を誰が書いたかは、『法華義疏』の作者・書写者問題、『法華義疏』の思想傾向に関わる重要問題なのです。

 南北朝後期の中国では、釈尊最後の説法とされ、「仏性」を説いている『涅槃経』を最高と見て、「仏性」の語が見えない『法華経』は『涅槃経』の下に位置づけられるのが普通でした。『法華義疏』の「本義」であって、南朝における『法華経』解釈の第一人者であった光宅寺法雲『法華経義記』もその立場であって、解釈する際、「仏性」には一度も触れていません。

 これに対して隋の天台智顗や三論宗の吉蔵は、『法華経』を重視しており、特に三論宗を集大成した吉蔵は、『法華経』は実質的には「仏性」を説いている奥深くて素晴らしい経典であることを力説し、『法華玄論』では「仏性」の語を何百回も用いてそのことを強調していました。太子の『法華義疏』は、「本義」と同様、「仏性」の語をまったく用いていないものの、『法華経』の優れた意義を強調するという特色を持っています。そうした特色を含む部分が、本文とは異なる筆跡で巻四第六紙に書かれているのです。

 ただ、この巻四第六紙を含め、白色の紙で補正した人物は、本文が利用していた『法華経』のテキストと同じ誤字・異体字のテキストを見ているようであり、紙質も同じ頃のものとされています。つまり、本文を書いた人と白色の紙を切り貼りして訂正した人は、きわめて近いグループに属していたのです。

 なお、『法華義疏』冒頭の「法華義疏 此是大委国上宮王私集非海彼本」という有名な部分は、もちろん本文を書いた人とも白紙による訂正をした人とも異なる別人の筆跡です。飯島氏は、巻一末尾の「法華義疏 巻一」という部分は、冒頭の字と同じ人の筆と説いています。

 このように、飯島氏は異筆問題を決着させたものの、学位論文を書物や学術論文として発表しておらず、さらに研究を進展させずに終わったのは惜しまれることでした。

 ただ、この学位論文自体にも惜しまれる点があります。それは、異筆問題を扱った中島攘治氏の「『法華義疏』筆者試考」(『國学院大学紀要』20巻、1982年3月)という44頁にも及ぶ長大な論文を参照していないことです。この中島論文では、別人の筆と思われる箇所を図で示して検討し、本文は書に巧みであって太子から評価されたと伝えられる膳臣清国(太子の最愛の后であった膳大嬢菩岐岐美郎女の兄弟ですね)の筆、つたない字による訂正部分は太子自身の筆と推定しています。

 私は、膳臣清国かどうかについての判断は保留するものの、太子が早書きで書いた誤字や訂正だらけの読みにくい草稿を、書の名手であるものの仏教にはあまり詳しくない儒教系の側近が急いで誤写だらけで書写して最低限の訂正をし、それに太子がまた急いで不十分な訂正を加えたのが現在の『法華義疏』と見ています。中島氏の論文と私見については、そのうち記事にして紹介しましょう。

聖徳太子の母、間人皇女が義理の息子と近親再婚した時期:遠藤みどり説と桜田真理絵説

2021年02月14日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(?~621)は、『聖徳太子平氏伝雑勘文』が引く『上宮記』の逸文によれば、夫の用明天皇が亡くなると、用明天皇と蘇我稻目の娘である石寸名(いしきな)との間に生まれた第一皇子の田米王(田目皇子)と再婚し、佐富(さほ)女王を生んでいます。

 母のこの再婚、それも自分とは腹違いの兄との再婚が、多感な少年であった厩戸皇子に衝撃を与え、これが厩戸皇子が仏教にのめりこむ一因となったと説いた人もいました。用明天皇が亡くなった翌年に再婚したなら、その時の太子は、かぞえで15歳、翌々年だと16歳です。

 しかし、この時期の皇族は、身分の釣り合いの関係、また財産の分割をふせぐ必要もあったうえ、天皇の皇女との結婚が天皇となる資格の一つとなっていたようであるため、近親婚が目立つのです。用明天皇と間人皇女にしても、ともに欽明天皇の子であって腹違いの兄妹婚であり、敏達天皇と結婚した推古天皇も、同じく欽明天皇の腹違いの子同士の兄妹婚です。

 ただ、間人皇女の場合は、義理の息子と結婚していますので、かなり特殊と言えるでしょう(ゾロアスター教では近親婚、それもつながりの深い近親婚こそが聖なる結婚として推奨されていましたので、私が聖徳太子に関する珍説を書きとばす歴史ライター・研究者・哲学者などであれば、『聖徳太子の母はゾロアスター教徒だった!』といったあやしげな本を書きたいところです)。
 
 ところが、間人皇女が再婚したのは、太子が成人してからだとする論文が刊行されています。こちらです。

桜田真理絵「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ-「不婚の女帝」論の再検討-」
(『文化継承学論集』13号、2018年3月)

 桜田氏は、女帝が即位する条件について検討した遠藤みどり氏の『日本古代の女帝と譲位』「第四章 女帝即位の歴史的意義」(塙書房、2015年)が、ともに欽明天皇の皇女である推古(額田部皇女)と穴穂部間人皇女のうち、推古が即位して女帝となったのは、推古の方は夫の敏達天皇が亡くなって以来、独身のままであったのに対し、間人皇女は再婚して子を生んでいたためだとするのに反対します。

 当時は、天皇が亡くなると殯がおこなわれ、妻や娘など近親の女性がそれに奉仕するのが通例でした。桜田氏は、『日本書紀』によれば推古天皇元年(五九三)九月に用明天皇を埋葬しており、それまで間人皇女は用明の殯に奉仕していたと考えられるため、再婚は殯の終了以後となるはずだと論じるのです。改葬の翌年に再婚したとしたら、厩戸皇子はかぞえで21歳です。これだと、「多感な少年が母の再婚にショックを受け……」という図式は難しくなりますね。

 『日本書紀』推古紀のその部分は、「秋九月、橘豊日天皇(用明)を河内の磯長陵に改葬す」とあって「改葬」となっています。桜田氏は、「殯期間を天皇の死から改葬も含めた最終的な埋葬までとすると」という前提のもとで論じているのですが、推古紀は、事実や呼称はどうであれ、推古元年にその間人皇女の長子である厩戸皇子が「皇太子」となったとしています。

 となると、用明天皇の殯が終わって陵に葬った後、しばらくして間人皇女が再婚したものの、その後で用明天皇の妹である推古天皇が即位し、長子である厩戸皇子が「皇太子」となったため、用明天皇のために改めて盛大な陵を築いて改葬した、という可能性もまったくないとは言えません。

 むろん、それほどすぐ再婚するかどうかは分かりませんし、その「改葬」が最初から予定されていてそれが正式な陵であり、間人皇女(皇后)がその間中、ずっと殯に奉仕していたとすれば、桜田氏の主張が成り立つことになりますが、当時の殯の期間はそれほど長くありません。

 間人皇女が16歳で厩戸皇子を生んだとすると、夫の用明天皇が死去した際は、30歳。その2年後に再婚したとすると32歳の若さであって、改葬が終わった翌年に結婚したとしても37歳です。これより1~2歳若かった可能性もありますし、逆に数歳年上であったとしても、再婚での出産は可能でしょう。

 一方、遠藤氏は、本文では、間人皇女は「用明死去時で三十歳前後と考えられる」(142頁)としておりながら、注53では、田目皇子と結婚した時は「三十代後半から四十代前半と推定される」(152頁)と述べています。しかし、これだと推古天皇が即位した後になってしまいますし、当時の寿命を考えると、そうした年齢での出産の可能性は低くなりそうに思われます。

 実際のところ、間人皇女は何歳で厩戸皇子を生み、何歳で再婚して、何歳で佐富女王を生んだのか。

 いずれにしても、間人皇女は、太子の宮があった斑鳩の地で暮らしていました(この地域の太子と后妃たちの宮については、前の記事で触れた仁藤氏の詳細な研究『古代王権と都城』[吉川弘文館、1998年]があります。このブログでの記事は、こちら)。しかも、間人皇女と田目皇子との間に生まれた佐富女王は、聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の間に生まれた長谷王(泊瀬王)と結婚し、葛城王・多智奴女王を生んでいるのです。

 菩岐岐美郎女は、太子の后妃の中で最も多くの子を生み、太子と同時期に病気となって一日違いで亡くなったほど仲むつまじい后でした。その2人の長子である長谷王と結婚したとなると、間人皇女の娘である佐富女王は、大事な存在とみなされていたことが推測されます。さらに、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘によれば、太子と間人皇女と膳部菩岐々美郎女は「三主」と呼ばれて尊重されています。こうした状況を見ると、少なくとも太子の晩年の頃は、太子の腹違いの兄と再婚した母の間人皇女と太子の仲が悪かったようには見えません。

 なお、遠藤氏と桜田氏は、后のあり方などに関しても有益な考察をしており、間人皇女が釈迦三尊像光背銘と「天寿国繍帳銘」では「大后」(前者では「太后」)と呼ばれている点についても検討しています。

 遠藤氏は、「天寿国繍帳銘」を推古朝頃の作と見ており、その銘文に登場する「后」「大后」は、すべて太子に関わりの深い后妃に限られるとし、『日本書紀』の「皇后-妃」という図式とは異なるとします。「皇后」は律令制の用語ですし。

 一方「天寿国繍帳銘」については、天武・持統朝頃の作と見る東野治之氏の説に従う桜田氏は、この前後の時期の「大后」は皇后の前身となる称号ではなく、天皇ないしそれに準ずる人物の后妃に対する一般的な尊称であって、嫡妻や天皇の生母だけを指す制度上の呼称ではないとし、「皇后」と書けない場合、皇后に代わる言葉として用いられることもあったと結論づけます。

 そして、聖徳太子を顕彰している『法王帝説』が用明天皇の3人の后妃のうち、間人皇女だけを「大后」と呼んでいるのは聖徳太子の生母だったためであるとし、釈迦三尊像銘については太子の没後まもなく製作されたものと認めたうえで、こちらも間人皇女を太子の生母として尊重して「大后」と呼んでいると述べています。

 なお、桜田氏は、「天寿国繍帳銘」を天武・持統朝頃とみる東野説に従っているものの、東野氏は「推古末年頃作られた原繍帳ともいうべきもの」があったと推定されています(『日本古代金石文の研究』岩波書店、2004年、165頁)。

 また、冒頭であげた桜田論文では、遠藤氏が用いた「不婚」という言葉は語法的に不適切だとして「非婚」という言葉を提唱していますが、中国・韓国でも「不婚」の用例はいくらでもありますし、一度結婚したものの、以後結婚しなかったといった場合にも用いられています。これに対して、「非婚」という表現は、男女関係にあるものの正式な婚姻関係ではないような印象を与えるため、適切ではないように思われます。

【付記:2021年2月15日】
間人皇女の年齢を計算違いしていましたので、訂正しました。論旨に変更はありません。

「厩戸」は太子を養育した渡来系氏族の名か:仁藤敦史「「聖徳太子」の名号について」

2021年02月10日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事は、何かと問題の多い「厩戸王」という呼称がらみでしたので、今回は聖徳太子の名号に関する最近の論文を紹介しましょう。

仁藤敦史「「聖徳太子」の名号について」
(新川登亀男編『日本古代史の方法と意義』、勉誠出版、2018年)

です。斑鳩宮を初めとする皇子宮や女帝などの研究で知られる仁藤氏は、早くから太子虚構説に反対してきた一人であり、この論文は、聖徳太子の名号に関する最も精細な最新の文献研究となっています。

 氏はまず、教科書で用いられるようになった「厩戸王」という呼称は、家永三郎が古書には見えないことを指摘し、石井公成が小倉豊文の推測した名称であることを示したとしたうえで、「ただし、『古事記』などに見える某王などの名称例からすれば、厩戸王であった蓋然性は高い」(479頁、注4)と述べます。高森氏と違い、私の指摘であることを明記してくださっており、有り難いですね。

 「厩戸王」であった可能性は高いとするのは、以後展開される氏の考察から導かれる結論に基づきます。氏は、聖徳太子という呼称については、『令集解』が、「諡」というのは、ある説によれば、上宮太子を聖徳王と称したような類だ、と述べている有名な箇所に注意し、「反対に言えば、「上宮」が生前に用いられていた名号の可能性を示唆する」(464頁)と述べます。これは賛成ですね。私も公式度の高い呼称は「上宮王」だったと考えています。

 そして、氏は「聖徳」の語の用例を『日本書紀』と他の諸文献に探り、死後の称号として用いられたことは確かであり、「遅くとも『日本書紀』の成立段階には「聖徳」号は用いられていたことが確認される」(466頁)とします。つまり、『日本書紀』の編者が見た資料には「聖徳」と呼んでいたものが既にあった、ということです。

 そして、『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命」と称しており、この段階で既に「上宮・厩戸・豊聡耳」の三要素が揃っていた以上、虚構説のように『日本書紀』の(最終)編纂段階で潤色する前から、少なくともこれらの名号は存在していたのであって、これらの名号のいわれを説明するために伝承的な話が作られていったという道筋を確認します。

 氏は具体例をあげておられませんが、この説によれば、「厩戸」という名であったので、そのいわれを説明する厩戸誕生説話が語られ、「豊聡耳」という名であったため、耳の良さに関する伝承が膨らんでいった可能性があるということになります。これは重要な観点ですね。

 次に「上宮」については、『日本書紀』の記述から見て、斑鳩宮とは別であったとし、太子の死後もその一族について「上宮」の語が用いられているため、生前からの特殊な称号であったとします。

 「厩戸」については、諸説を検討したのち、飛鳥戸氏など、「べ」とも読まれた「戸」の字を含む十七氏族の多くが渡来系であるとする岸俊男氏の指摘に基づき、用明天皇と関わる「橘戸」、道祖王に関わる「道祖戸」、他戸親王と関わる「他戸」などの存在に注意します。よく知られているように、当時の王族の名は養育した氏族の名に基づくものが多いためです。

 そして、古代日本の馬の文化は百済経由であり、「馬官」の「厩戸」で誕生したとされる聖徳太子当時は、馬の養育に携わる「馬司」が存在したこと、斑鳩近辺には馬に関わる地名が見られることなどから、史料には見えていないものの、馬に関わる渡来系氏族、それも飼育担当の馬飼部とは異なる交通関連の役割を担当した「厩戸(馬屋戸)」氏に養育されたとする推定も可能だろうとします(蘇我氏・聖徳太子と馬の関係については、前にこのブログでもとりあげました。こちら)。

 上記の事柄について詳細な検討を重ねた後で、氏は「おわりに」で、

近年の伝承と史実を断絶させる議論とは異なり、できるだけ同時代的において矛盾の少ない名号の起源を探求してみたが、推測に及ぶ部分が多く、ご批判をいただければ幸甚である。(478頁)

と述べてしめくくっています。空想と断定を重ねておりながら「学問的な反論は皆無」だとして批判を一切認めない虚構論者と違い、綿密な文献の検討をおこなってきた後での言葉だけに、謙虚で誠実な姿勢が好ましく思われます。

 ただ、この推定の問題点は、やはり、文献に「厩戸」という氏族が見えないことですね。天皇候補となる立場の皇子の養育を担当するとなれば、それなりに有力な氏族であったはずです。また、他戸親王にしても道祖王にしても8世紀の人物であって、『日本書紀』では「~戸皇子」という名の皇子は他にいません。『古事記』では、若日下部王のように「~部王」と称する例は数例あり、聖徳太子の母も「間人穴太部王」と呼ばれていますが、「~戸王」と表記する例は見えません。法隆寺系の早い資料には、「厩戸皇子」やこれに近い呼び方をした例が見えないことも気になります。

 これに対して「厩戸皇子」という呼称は、『日本書紀』では守屋合戦のところで、つまり四天王寺建立説話において強調して用いられていることを見ると、四天王寺系統の厩戸誕生伝説とセットになった呼称であるようにも思われてきます。『日本書紀』に見える厩戸誕生伝承は、仏伝に基づいて話をふくらませてあることについては、私の本やこのブログ(こちら)で説いた通りです。

 つまり、「厩戸皇子」という呼び方は、厩戸誕生伝承と結びついて四天王寺などで呼ばれるようになった名であって、それが『日本書紀』に取り入れられた可能性もあるように思われるのです。「馬耳東風」という言葉もありますが、「六月晦大祓祝詞」が良く聞く動物の例として馬に言及していることが示すように、かつての日本では、馬は耳聡い動物の代表とされていたことも見逃せません。「厩戸」と「豊聡耳」は容易に連合して、名前の由来説話をふくらましうるのです。いかがでしょう。

新しい歴史教科書をつくる会理事の高森明勅氏が国会議員におこなった聖徳太子レクチャーに関する疑問

2021年02月06日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 指導要領を改訂する際の「厩戸王」騒動は、聖徳太子という呼称を尊重せよと主張して強硬に反対した人たちも、国会の委員会で「厩戸王(聖徳太子)」などと表記するのは歴史への冒涜だと述べた議員も、「厩戸王」の語は『日本書紀』や『古事記』に見えるのでと答弁した文部科学大臣も、本名である「厩戸王」を前面に出すことに反対するのは近年の学問成果を無視するものだと論じる人も、その騒動を報じたマスコミも、いずれも「厩戸王」は小倉豊文が戦後になって仮に想定した呼称であって古代の文献には登場しないことを知らないまま議論するという恥ずかしい状況でした。この騒動について書いた記事が、「こちら」です。

 文部科学大臣の答弁は、文部省の役人が指導要領改定に関わった研究者に聞いて書いたのでしょうが、その研究者は「厩戸王」を前面に押し出そうとしていたわけですから、『古事記』『日本書紀』に見えないということに気づいていなかった可能性があります(指導要領改訂に加わった学者のうち、古代史を担当したのは誰なのか、そのうち調べてみましょう)。

 さて、大臣がこうした細かな点について答弁する際は、質問する側があらかじめ質問内容を通知しておくのが慣例です。つまり、「厩戸王」という語を前面に出すべきでないと主張した国会議員側は、「『古事記』や『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称をなぜ使うのか」という質問は提出しておらず、大臣の答弁を聞いて反論することもなかったわけです。日本や東洋の歴史・文化にかなり通じていた読書家もある程度いた昔の国会議員と違い、現在の国会議員は、令和天皇の即位式典で「願って已(や)みません」の「已」が読めず、「願っていません」と読み上げた安倍首相の例が示すように、日本の古典や歴史の素養はあまりない人が大多数でしょう。

 となれば、質問した国会議員はあらかじめ学者に尋ねていたはずであるため、どの学者がその役割を果たしたのか、気になっていました。そうした学者は複数いたのでしょうが、自分が説明したと述べている文章に出会いました。保守系の雑誌である『正論』の「「教科書検定」を斬る」という特集の冒頭に掲載されていた、

 高森明勅「聖徳太子は「架空の人物」か」
(『正論』令和2年4月号[通巻 583号]、2020年4月1日刊)

です。

 皇室研究で知られる神道学者であって、新しい歴史教科書をつくる会の理事として活動している高森氏は、

この時は指導要領の”改悪”を阻止すべく、私も国会議員の皆さんに学説状況や基本的な史料の紹介をする機会を与えられた。文科省は、学界で受け入れられていない大山氏の説に影響を受けて、振り回される醜態を演じた。(159-160頁)

と評しています。氏は、その少し後の部分では、

当初、文科省が採用しようとしていた「厩戸王」という語は、(学説上の想定にとどまり)古代の史料には一切登場しない。これまで、知られているところでは、江戸時代の『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか。(162頁)

と述べています。不思議ですね。国会でこの事実を持ち出せば、その段階で文科省は「厩戸王」案を撤回し、この文章の冒頭で述べたような「醜態」はおさまったはずです。

 高森氏は、改訂案が事実誤認に基づくあまりにも恥ずかしいものなので、武士の情けでこのことを国会議員に説明しなかったのでしょうか。考えられるのは、文科省の姿勢を批判して「学説状況や基本的な史料」を国会議員に説明した高森氏も、当時はそのことを知らず、後になって、つまり文科省の「厩戸王」取り下げを報じる『産経新聞』に載った私の談話や当ブログなどを見て、「厩戸王」の語は『古事記』や『日本書紀』に見えないことに気づいたということですね。つくる会は、指導要領改定騒ぎの際、「厩戸王」との並記をやめるよう要望する文書を文科相に送っていましたが、その文書では「厩戸王」は『古事記』『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称であることを指摘していたというニュースは聞いていません。

 氏は、「『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか」とさりげなく書いておられますが、『甲斐国志』の用例は私も知りませんでした。指導要領改定案に反対してその理由を述べた記事を2017年2月に太子ブログにアップし、史料にはまったく見えないと書いたところ、私の記事を読んで賛同してくださった方が指摘してくれたおかげでその存在を知り、上記のブログ記事の【付記】でその指摘を紹介したのです。けっして有名な事実ではありませんし、聖徳太子の名号について論じた論文で、このことに触れた例を見たことがありません。高森氏は、『甲斐国志』の用例を前から御存知だったのでしょうか。

 高森氏は、それまで大山説批判を何度も書いていますが、「厩戸王」が本名だと論じた部分については、何も言っていませんでした。少なくとも、

高森「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への眼差しについて考える-それは正しい史料批判か、それとも妄想か」
(『正論』平成16年12月号[通巻 390号]、2004年12月)
高森「「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生』への疑問」
(『季刊 邪馬台国』104号、2010年2月)

にはそうした批判は見えていません。むろん、『甲斐国志』の用例にも触れてません。

 「厩戸王」というのは小倉が想定した仮称だということは、私が最初に指摘したはずであって、それが多少知られるようになったのは、2010年に私がこの「聖徳太子研究の最前線」ブログを始めてからでしょう。指導要領改訂騒ぎ当時は、「聖徳太子 研究」などで検索すれば、このブログが上位でヒットしていましたし、現在はほぼトップでヒットします。

 しかし、冒頭の高森氏の文章では、直木孝次郞氏・東野治之氏・大平聡氏らの説を紹介して大山説を批判しているものの、研究者の中でも本や論文やこのブログで最も詳細に大山説を批判し続けていた私の名は、まったく出てきません。

 私の本やブログを御存知なかったとしたら、それはかまいませんが、「厩戸王」の由来をいつ、どうやって知ったのか気になります。あるいは、このブログで知ったものの、私が国家主義推進のために聖徳太子を政治利用するのは反対だと書いたり、聖徳太子を熱烈に礼賛して津田左右吉を攻撃した困った超国家主義者たちについて特設コーナーで解説したり、太子礼賛派の一人である田中英道氏の太子虚構説批判本の粗雑さは、大山氏の虚構説本の粗雑さと良く似ているなどと書いたりしたのがまずかったのでしょうか。

 そう言えば、田中氏は、現在は新しい歴史教科書をつくる会から離れているようですが、初期にはつくる会で熱心に活動していて会長を勤めた時期もあり、『聖徳太子虚構説を排す』と似たような書きぶりの『国民の芸術』というぶ厚い本を、つくる会から出版したりしてましたね。

 歴史研究で重要なのは、何よりもまず史実の解明に努め、どのような立場の人が書いたものであれ、先行研究を尊重することだと思うのですが、いかがでしょう。私自身は、聖徳太子は馬子に次ぐ権力者として推古天皇を支えたと考えており、三経義疏も「憲法十七条」も百済や高麗から来た家庭教師たちの支援を得た太子の作と見てよいという立場ですが、私とは説が異なる津田左右吉や小倉豊文の研究を高く評価し、このブログに2人のコーナーを設けていることは、先の記事で述べた通りです(こちら)。

 なお、聖徳太子の呼称について論じた諸研究者の論文で、私の「厩戸王」指摘に触れたおそらく最初の論文は、仁藤敦史氏のものだと思いますが、この論文は指導要領改訂騒ぎの翌年に刊行されています。この論文については、次回の記事で紹介しましょう。

【付記】
2月6日の零時1分頃に「皇室研究で知られる神道学者、高森明勅氏の聖徳太子説明に関する疑問」という題で公開しましたが、題名を変更し、一部補足を加えました。
【付記:2021年4月6日】
高森氏の名を誤記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。

三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然

2021年02月02日 | 三経義疏

 先日、勤務先で教員向けに N-gramを用いたコンピュータ処理による古典研究法の講習をし、例として三経義疏の分析をやってみました。文系のパソコンおたく仲間である漢字文献情報処理研究会のメンバーたちで開発したこのNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)という比較分析法に関しては、2002年に東京大学東洋文化研究所の『明日の東洋学』No.8 に簡単な概説(こちら)を載せ、その威力を強調してあります。それ以来、宣伝し続けてきたのですが、文系の研究者には処理が複雑すぎたため、まったく広まりませんでした。

 ところが、一昨年の暮に、上記の主要な開発メンバーであった師茂樹さんが、私の要望に応えてきわめて簡単で高速な形に改善してくれました。その結果、大学院の私の演習に出ている院生たちは、1回講習したらほとんどできるようになりました。そこで、今回は私が所属する学部や他の文系学部の教員向けの講習をやることになった次第です。

 NGSMは、複数文献の共通する箇所や共通していない箇所をわかりやす対照表にして示すものです(具体的なやり方は、こちら)。

 ここで三経義疏についておさらいしておくと、『法華義疏』が中国南朝の梁における三大法師の1人であって『法華経』解釈を得意とした光宅寺法雲(467-529)の『法華経義記』を種本としており、「本義」と呼んでいることは良く知られています。『勝鬘経義疏』も、「本義」と呼ぶ種本に基づいているものの、その「本義」は不明でした。

 ところが、中国の西北端に位置する敦煌から出土した『勝鬘経』の注釈書の中に、『勝鬘経義疏』と7割ほどが一致する写本(E本)があることが発見され、これが「本義」だということになって大ニュースとなりました。ただ、研究が進むにつれ、これは種本ではなく、共通の詳細な祖本があったのであって、それをそれぞれ簡略化したのがE本と『勝鬘経義疏』であるらしいということになり、この敦煌写本研究を主導していた藤枝晃氏は、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本を遣隋使が日本にもたらし、太子はそれを読み上げただけだと説くに至りました。

 注釈の中身を読んだ仏教学者の多くはこれに反対していました。ただ、仏教学にも通じていてE本と『勝鬘経義疏』を詳細に比較した古代史学の井上光貞氏などは例外であるものの、経典の注釈などは読まない多くの日本史学者の間では、藤枝説が定説となりました(ちなみに、藤枝氏は世界的な書誌学者ですが、仏教教理の専門家ではありません)。漢文が苦手で仏教学にうとい虚構論者たちは、むろん原文で読むようなことはせず、「三経義疏? この時代に書けるわけがない」「~が捏造したに違いない」などと想像で決めつけただけです。

 しかし、『勝鬘経義疏』には和習が多く、中国成立説は成り立たないのであって、これについては私がNGSMを用いて論証し、何本も論文を書きました(こちら)。

 三経義疏のうち、『維摩経義疏』だけが「本義」という言葉を用いて特定の注釈を頼りに注釈することをしておらず、その他、書写記録を見ても不審な点があるため、『維摩経義疏』だけを疑う研究者もおりました。実は、私もその1人でしたが、NGSMをやってみて三経義疏の類似度の高さに驚いた次第です。

 状況は以上の通りです。『勝鬘経義疏』を「勝」、敦煌E本を「E」、『維摩経義疏』を「維」、『法華義疏』を「法」、法雲の『法華経義記』を「義」と略抄し、これらのファイルをNGSMによって4字から8字までの単位で切り出して対照させると、以下のようになります。ローマ数字は、登場回数です。ちなみに、NGSM処理に要した時間は、私のノートパソコンだと10数秒……。

  第一初二 ( 勝:4 E:0 維:3 法:14 義:0 )
  第一初二行 ( 勝:1 E:0 維:3 法:11 義:0 )
  第一初二行偈 ( 勝:1 E:0 維:3 法:6 義:0 )
  第一初二行偈嘆 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  第一初二行偈嘆佛 ( 勝:0 E:0 維:1 法:0 義:0 )

 これは、「第一初二」という言い方が、勝・維・法に見えていてE本には見えていないことを示しており、この三疏が似ていることを示しています。「第一初二行偈」は6字も共通していますので、これを日本撰述部を含む大正大蔵経データベースのSAT(こちら。数十人で作業しましたが、10数年前にネット公開作業をやったのは、上記の師茂樹さんと私です)、日本撰述部を除く大正大蔵経とその他の中国の多様な仏教文献を含む台湾のCBETA(こちら)で検索すると、なんと、この言い方は三経義疏にしか見えないことが分かります。三疏が類似していることは明らかですね。

 次のような用例も興味深いものです。

  中亦有二第一正 ( 勝:5 E:0 維:6 法:11 義:1 ) 

 「~の中に亦た二有り。第一は正しく~す」という科文(かもん=経典の内容分類、つまり異様に詳細な目次のようなもの)ですが、こうした分け方はE本には見えておらず、三経義疏と種本である法雲の『法華経義記』に共通ということですので、これをSATで検索すると、用例は本当にこれだけです。つまり、5世紀の末頃から6世紀の初め頃にかけて活躍した法雲の『法華経義記』と三経義疏だけに見えるのであって、三経義疏が等しく法雲の注釈を手本としていたことを示しています。こうした例は、他にも少なくありません。

 現代の仏教学では、地論宗の浄影寺慧遠(523-592)、天台宗の天台智顗(538-598)、三論宗の吉蔵(549-623)を隋の三大法師と呼んでいますが、智顗と吉蔵は梁の三大法師の教学を乗り越えようと努めており、小乗の論書である『成実論』を基本としていた法雲の『法華経』解釈を厳しく批判していました。三経義疏は、三論宗系と言われることもありますが、それは吉蔵が古い注釈をたくさん引用しており、そうした古い注釈と三経義疏が一致している部分が目立つためであって、基本的な学風は吉蔵とは異なっています。

 さて、『法華義疏』は、7世紀に入って書かれているにも関わらず、100年近く前の法雲の注釈の用語を用いて説明していたのです。実は、これは『勝鬘経義疏』も同様であり、三大法師の一人である僧旻の『勝鬘経』注釈に基づいていた可能性があることが指摘されています(こちら)。

 三大法師が活動した梁は、史上最も仏教を尊崇して「菩薩天子」と称され、経典の講義をしたり注釈を書いたことで名高い梁の武帝(464-549)の治世です。武帝の長男であって賢明さで知られた昭明太子(501-531)も経典の講義が巧みであって、法雲に賞賛されています。

 聖徳太子は、おそらくこれをめざしたのですね。津田左右吉は、太子を神格化しようとする僧侶がこうした例を参考にして、太子も講経したと記したのだろうと見たのですが(幅広い東洋学者なればこその推測であって、さすがです)、太子は朝鮮諸国に見せつけるためもあって、講経や注釈作成を実際にやったものと思われます。百済や高句麗の僧を家庭教師としてのことですが。

 和習の例としては、

  漢中之語 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外國 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )
  漢中之語外國云 ( 勝:1 E:0 維:1 法:0 義:0 )

の「漢中」もその一つです。「関中」なら長安など中国中央の地を指しますし、「梵漢之語」「胡漢之語」などの言い方はたまに見られますが、中国のことを「漢中」と呼んで「これは、漢中の語であって、外国では~と言う」などと述べているのは、検索すればわかるように、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』だけです。

 和習というのは、中国の標準的な漢文と異なる変格語法ということです。百済や新羅の資料にも変格語法は多数見られますが、『勝鬘経義疏』のうねうねと続く長い文章は、『源氏物語』の文体のようであって、百済や新羅の変格漢文では見たことがありません。これについては、香雪美術館での講演で述べました。いずれ書きます。

 三経義疏に関する私の論文については、このブログの作者の関連論文のところにリンクを張ってあるうえ、また論文を発表する予定です。関心のある方は、自分で NGSMを使って三経義疏を調査してみてください。

【付記:2021年2月3日】
 私はこれまでの論文では、三経義疏は変格語法が目立つため、中国撰述説は成り立たないと論じてきましたが、日本成立、太子の作とまでは書いていませんでした。しかし、調査していて『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の類似をいくつも見出した結果、「百済・高句麗の僧に指導されて「本義」を読み、それを略抄しつつ自分の意見をはさむ形で太子が書いたと見てよい」と考えるようになりました(むろん、「憲法十七条」も百済の学者などの指導のもとで太子が書いたという立場です)。ただ、宮内庁本の『法華義疏』は太子自身が筆をとって書いたのではなく、草稿本を側近が書写した可能性が高いと見ています。
 異質な点がある『維摩経義疏』については検討すべきことが多いのですが、『勝鬘経義疏』『法華義疏』ときわめて似ていることは確かです。太子の作ということはあり得ますし、そうでない場合は、『勝鬘経義疏』『法華義疏』を読みすぎてその用語・文体でしか書けなくなった人の作ということになるでしょう。
 いずれにしても、これまで指摘されているように、三経義疏は梁の三大法師の教学が基本となっており、隋の新しい教学は反映されていません。さらに唐代になって645年から玄奘の画期的な新訳が登場するようになった後で、こんな古い学風・用語で書くのは無理であることは、現在の大学生に明治の頃の学者の論文に似せた形で文語文で卒論を書けというのと同じです。書いたとしても、ボロだらけになるでしょう。
【付記:2021年2月16日】
上の記事では、三経義疏をきちんと読んでいた日本史研究者として、井上光貞氏と曾根正人氏をあげてありました。曾根さんは実際に三経義疏を読んでいたものの、外国僧を主とする太子学団作成説を唱えた井上氏と違い、結論は中国撰述説だったので、誤解を避けるために上の部分から曾根さんの名前を削除しました。着実な研究者である曾根さんの主張については、大昔にN-gramがらみでブログで書いていましたので、ご参照ください(こちら)。当時に比べ、N-gramが簡単に使えるようになりましたので、研究者の意見も変わるでしょう。なお、曾根さんは、この問題を論じるには仏教学のかなりの素養が必要だと判断したのか、最近は難解な唯識論書の注釈に仲間で取り組み、そちらの成果を次々に発表しています。