聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子シンポジウムの基調講演で「憲法十七条」の古注について概説

2022年02月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 このブログで予告してあった聖徳太子シンポジウム(こちら)が2月19日に開催され、私は基調講演「「以和為貴」を第一条とする「憲法十七条」成立の背景」を担当しました。その報告を忘れてました。

 第一条全体の典拠となるのは『史記』「楽書」であり、隋の劉炫『孝経述義』もこの箇所を引用しているため、『孝経』を重視している「憲法十七条」の作者は、おそらく南朝の『孝経』の注釈などに引かれていた「楽書」の文章を見たのだろうと推測できることなどを話したのです(この件については、こちら)。

 ただ、基調講演では、この話に入るにあたっての説明として、「憲法十七条」がこれまでどのように解釈されてきたかについて、簡単に説明しました。実は、「憲法十七条」に関する論文や本は山ほどあるものの、不思議なことに、近代以前の「憲法十七条」の注釈に関するまとまった研究はありません。

 それらの古注は、聖徳太子奉賛会編『聖徳太子全集』全4巻(龍吟社、昭和17年)の第1巻に収められています。戦時中にこの全集が刊行されたのは、むろん、「和」の精神で臣民一体となり、「承詔必謹」の「臣道」によってこの戦争を勝ち抜くためでした。

 ところが、 全集第1巻にはこれらの注釈に関する簡単な開題が載っているものの、そうした注釈の変遷、あるいは個別の古注に対する詳細な論文は、これまで書かれていないのが実状です。

 これは、これらの古注が「以和為貴」を初めとする文句の典拠を中国の古典に見いだして指摘することが主であって、面白みに欠けるものが多いためかもしれません。しかし、古典文献を読む際は、注釈類にも目を配っておくことが常識ですので、この講演で簡単に触れた次第です。

 まず、『日本書紀』が720年に奏上されると、翌年から講書が始まっています。となれば、「憲法十七条」に関する注釈もなされたことになりますが、こうした早い時期の解釈がうかがわれる注釈は残っていません。
 
 次に、平安時代の写本がある『聖徳太子十七憲章并序註』は、四天王寺と縁が深い広島文理大の小倉豊文(こちら)が発見して研究室の所蔵
とした現存最古の注釈です。ただ、冒頭の3行分が欠落しているため、第一条の「和」をどう解釈していたかはよく分かりません。儒教・仏教によって説明しており、『万葉集』から太子に関する歌などを引いて説明しています。

 この注釈は、後代の注釈では「明一伝」として引用されており、『金光明最勝王経』の注釈などを著した奈良時代の東大寺僧、明一の『聖徳太子伝』(「伝」とは注釈という意味が原義です)とみなされていたようですが、そうかどうかは不明です。
 
 次に、『聖徳太子十七ケ條之憲法并註』は、1272年に法隆寺宝光院での評定をまとめたものです。この当時は、論議が盛んであって、ある人が講義すると他の僧侶たちが質問したり批判したりしており、その手控えのノートや講義録がたくさん作られています。
 
 この注釈では、鎌倉時代に入っていますので、「憲法十七条」を「公家武家の明鏡」、つまり天皇や貴族たち、そして武士たちの手本であると位置づけたうえで、仏教と儒教で解釈していますが、仏教面の解説は多くありません。
 
 次は、太子ゆかりの寺とされる橘寺の法空の『聖徳太子平氏伝雑勘文』「十七条憲法事」です。1314年の作。『聖徳太子伝暦』の注釈であって、僧侶なのに儒教色が濃い注釈です。法空は『上宮太子拾遺記』でも「憲法十七条」を儒教と仏教で解釈しています。

 1448年に完成した訓海『太子伝玉林抄』巻十一「十七条憲法事」は、「王道ニハ十七条憲章を以テ亀鏡ト為シ、仏道ニハ三経義疏ヲ以テ規模ト為ス」と述べ、「上一人ヨリ下万民ニイタルマデ、此ノ掟ニ背クモノナシ」と断言していますが、庶民は「太子様は観音様の化身です」ということで尊崇していたのであって、「憲法十七条」を道徳の手本としていた形跡はありません。

 面白いのは、「先最初ニ和合ヲ教ヘ給フ事、病アル処ニ薬ヲヲクガ如シ」と述べており、釈尊が、病気に応じて薬を与えるように、相手に応じてふさわしい教えを説いたとする仏教の常識に基づき、当時の日本では争っていたのでその薬として「和合」を教えたと述べていることです。これは、私の解釈と一致しており、「日本は伝統的に和を重んじる国だったので」といった俗説とは異なります。

 さらに興味深いのは、

『説法明眼論』ニハ、「柔和忍辱ノ心ヲ、如来ノ衣ヲ着ルト名ヅク。……南山『戒疏』云フ、「俗ハ和ヲ以テ貴シト為シ、僧ハ和ヲ以テ義ト為ス」ト。

と述べ、観音菩薩である聖徳太子が著したとされる中世の偽作、『説法明眼論』を引いていることです。

 「南山」というのは、中国における戒律解釈の基礎を定めた唐の道宣のことであって、その『四分律行事鈔』の取意が説かれています。俗人は『礼記』『論語』の「和」、僧たちは僧団の定義である和合を趣旨とするというのですね。 

 中世から近世にかけて重視されたのは、玄恵法印(1269?-1350)の作とされる『聖徳太子憲法』です。玄恵は論議が巧みな蔵書家として知られ、文学に通じ、また朱子学を導入した一人として有名です。それだけにいろいろな本の著者に仮託されており、『太平記』を玄恵の作とする伝承もありました(これについては、論文を書いたことがあります。こちら)。

 この『聖徳太子兼憲法』については、清原良賢(1348-1432)もしくは林宗二(1498-1581)の作と推定されています。この本の「和」の解釈の特徴は『論語』を朱子学に基づいて解釈していることであり、儒教重視ですから、「和」の意義を説きつつも、

衆人ニ和合スルトイフトモ。大儀ニ至テハ。非義ニ同ズベカラズ。是ヲ和而不同トイフ。

と述べ、『論語』の路線で、大事なことに関する協議では付和雷同してはならないと戒めていることでしょう。 

 この後に出てくるのは、神に触れない「憲法十七条」に不満を持ち、江戸時代になって「神職憲法」なども加えて登場する偽作の『聖徳太子五憲法』です。これについては、あの三波春夫もこの偽憲法の信者だったことを含め、このブログで何度か紹介しました(こちらや、こちらや、こちら)。

 これらの注釈の変遷については、そのうち詳しく論じたものを書く予定です。

近代における聖徳太子のシンポジウム(3月5日開催)

2022年02月25日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 東北大のオリオン・クラウタウさんが「聖徳太子の近代」という国際シンポジウムを開催します。



日本学研究会 2022年大会
日本学研究会(第3回学術大会)2022年3月5日(土) 10:00-16:45
登録締切: 3月4日(金) 10:00 AM

午後の部・国際シンポジウム「聖徳太子の近代」(14:00-16:45)
アーサー・デフランス (École Pratique des Hautes Études)
  太子の使者――欧文の文献における聖徳太子
ユリア・ブレニナ (大阪大学)
  近代の日蓮仏教における聖徳太子像の種々相
オリオン・クラウタウ (東北大学)
  〈憲法作者〉としての聖徳太子の近代

コメント: 石井公成(駒澤大学)
司会: 大澤絢子(日本学術振興会)
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研究会事務局: tohoku.nihongaku@gmail.com

 リモート開催ですので、参加希望の方はここから申し込んでください(こちら)。親しい人ばかりであって、私はコメンテーターを頼まれてます。

 近代日本の仏教学について精力的に研究を進め、この分野の若手のリーダーとなっているオリオンさんとは、古いつきあいであって、駒澤大でのシンポジウムで話してもらったこともありますし、彼が編集した論文集『戦後歴史学と日本仏教』(法藏館、2016年)に書評を書いたこともあります。オリオンさんは、偽の「憲法十七条」や聖徳太子のものとされる怪しい予言にも関心を持ってましたね。

 ユリアさんは、近代の日蓮主義についてすぐれた論文を次々発表しており、石井監修、近藤俊太郎・名和達宣編の『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)にも寄稿してもらっています。

 パリの高等研究院のデフランスさんには、コレージュ・ド・フランスで「論議」のシンポジウムが開催され、私が芸能と論議の関係について発表した際、掛詞・縁語などがたくさん出てくるすさまじく厄介な古文資料を見事なフランス語に訳してくれており、感謝するばかりです。西洋における聖徳太子の紹介についての論文を書いています。

 1400年遠忌で数多く開催されている聖徳太子シンポジウムの中では、かなり特異で示唆する点が多い試みになることは疑いありません。

倭国が隋から下賜された「鼓吹」、そして伎楽導入の背景:渡辺信一郎「北狄楽の編成」

2022年02月23日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」では、「礼」を強調しておきながら、「礼」と不可分で「和」をもたらす「楽」にわざと触れていませんでした(こちら)。しかし、このことは、当時の倭国が「楽」に関心が無かったことを意味しません。

 昨年、このブログの「倭国は隋に音楽を貢納し鼓吹を下賜されていた?」という記事(こちら)で紹介したように、倭国では朝会で自国の音楽を奏させており、隋の使いが来ると、鼓吹楽で迎えていました。

 その鼓吹楽は、隋から下賜されたものだったというのが、渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家ー日本雅楽の源流』「第三部第一章 隋の楽制改革と倭国」(文理閣、2013年)の推測でした。

 そこで今回は、思いがけない指摘と示唆に富む同書のうち、「第二部 第四章 北狄楽の編成ー鼓吹楽の改革」によって鼓吹楽について説明しておきます。
 
 鼓吹楽は、北方民族の音楽であるため、北狄楽とも称されました。遊牧民族、つまり騎馬民族の馬上の音楽ですので、主に軍楽として利用され、また隋唐期には、皇帝が出御する際は、前後2部、千数百人におよぶ鼓笛隊が用いられ、威勢を示しました。

 ただ漢代以後は、宮中の饗宴でも演奏されるようになっており、南朝の梁以後は、儀礼や祭祀の際に小編成でおこなう演奏も用いられるようなった由。皇帝だけでなく、各地の王侯も身分によって規模が異なる鼓吹隊を所有することが認められました。ベトナム地方の王に鼓吹が下賜された例もあります。

 簫(パンパイプス)、笳(小縦笛)を用いるものを鼓吹楽、鼓・角(角笛)を用いて馬上で演奏するのを横吹楽と称しました。

 文帝は隋を建国すると、大がかりな楽制改革に取り組み、鼓吹としては横吹楽を中心とし、自らの出身母体である鮮卑族系の音楽を中核として再編させます。

 というのは、『孝経』が「風を移し俗を易(か)えるは楽より善きはなし」とのべていたように、風俗を善導するのは音楽ほど有効なものはないのに、文帝が即位してしばらくは、文帝の業績を礼賛する音楽が作られず、前王朝の音楽が演奏される時期が続いたため、文帝が怒ったのです。
(仏教経典の注釈である三経義疏は、「経」の語を説明する際、いずれもこの「移風易俗」の語を用いてましたね。ただ、「憲法十七条」と同様、「楽」には触れないわけですが)

 そこで文帝は、国家祭祀に関わる雅楽、祭祀や儀礼の後の饗宴で用いられる宮廷音楽としての燕楽、軍楽・儀仗の楽としての鼓吹楽、曲芸・芸能と関わる楽しい散楽、という四部の区分によって様々な系統の音楽を再編成し、上で述べたように鮮卑楽を中核とする新しい鼓吹楽の確立をめざしたのです。その改革は開皇令に反映されています。

 文帝を継いだ煬帝は、さらに改革を進め、横吹楽を鼓吹楽と合わせて四部に編成し直してともに鼓吹楽と称し、楽器も長鳴角、中鳴角、大角、角、そして西域系の篳篥を加えました。

 ただ、煬帝は、燕楽を七部の諸国の伎楽に分類していたのを改め、九部に再編成します。そして、文帝の時期には伎楽は西方の西涼伎が第一位に置かれ、中国の伝統音楽であった南朝の清商伎が第二位とされていたのを改め、一位と二位の順序を改めます。

 これは、隋は北方民族系の国家であったものの、煬帝が中国文化の中心であった洛陽に遷都したことと通じるものがあると、渡辺氏は述べています。

 以前、簡単に紹介した同書の「隋の楽制改革と倭国」では、隋は大業2年(606)以来、正月15日から月末にかけて、洛陽ですさまじい規模の饗宴と散楽による芸能興行をおこない、集まって来ていた諸国の王や使節たちに国威を見せつけたことに注意していました。

 渡辺氏は、推古20年(大業8年、612)に百済の味摩之が来朝して伎楽を伝えたというのは、むしろ、こうした状況のもとで、倭国が積極的に伎楽を導入したのではないかと推測しています(528頁)。これは卓見ですね。

 私は、「仏教タイムス」に寄稿した記事では、倭国は「礼」を推し進めておりながら、「礼」と一体である「楽」を導入しなかったと述べ、「憲法十七条」が「楽」でなく仏教によって「和」をもたらそうとしたと書きました。

 鼓吹は導入したものの、隋の本格的な音楽は導入しなかった倭国は、仏教重視の政策から見て、音楽については仏教と関係が深いタイプの伎楽にその役割を期待したのではないでしょうか。その伎楽は、四天王寺・法隆寺・川原寺・東大寺その他の大寺院で練習が重ねられ、演じられ続けたのに対し、宮中ではあまり整備されておらず、やがて消えていきます。

 日本において、音楽・芸能が寺院を中心として発展していったことは、拙著『<ものまね>の歴史-仏教・笑い・芸能』(吉川弘文館、2017年)で書いた通りです。聖徳太子を様々な音楽・芸能の祖とするのは中世になってのことであって、その多くは伝説ですが、聖徳太子が日本仏教の祖とされるようになれば、そうした伝説が生まれても不思議ではない面があるのです。 

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(3)

2022年02月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 井沢氏の聖徳太子論は、シリーズ第1巻となる『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の主張に基づいていますので、ここでそちらを見ておきます。

 「第一章 古代日本列島人編ー日本はどうして「倭」と呼ばれたのか」では、古代の日本人は集落を「わ」と呼んでおり、濠をめぐらしていたので、これを表記する際、「輪状」のものとか「めぐらす」という意味の「環」や「輪」の字をあてたとします。そして、「わ」には「人間のつながり、親交」という意味もあるとし、我々の先祖は、こちらの面を示すため、音も意味も最も近い漢字として「和」を選んだのだと説きます。

 「和」を「わ」と発音するのは、漢字音ではなく大和言葉の「わ」を当てたのだというのは、国語学では聞いたことがなく、国語辞典や古語辞典などにも載っていない珍説です。そのような大和言葉の「わ」があるなら、『万葉集』などにそうした用例がありそうなものですが、まったく出てきません。

 また、「憲法十七条」の第一条の「和」が実質的には大和言葉の「わ」であるなら、第一条冒頭の「以和為貴」を訓読する際は、現在は中国古典に基づく表現だということで「わをもって~」と「和」の漢字音で訓んでいるのと違い、大和言葉の「わ」ということで「わをもって~」訓んだことでしょう。

 しかし、『日本書紀』の講書では、できるだけ和語で訓読しようとしていたことが指摘されており、「憲法十七条」についても様々な古訓が残っていますが、その中にはそうした例は見えません。

 斯道文庫編『諸本対照 十七條憲法訓読並校異』(汲古書院、1975年)では、21ものテキストを示しているものの、第一条「以和為貴」の「和」については、「ヤハラケル」「ヤハラカナル」「ヤハラキ」「アマナヒ」「ニコヤカナル」などと訓んでおり、苦労がうかがわれます。つまり、「和」を「わ」と訓んでいるものは皆無なのです。

 「和」を漢字音のまま訓んでいるのは、朱子学の立場で解釈している玄恵注だけであって、ここでは発音を「クワ(=クァ)」と表記しています。つまり、南北朝頃ですので、「和」を古い呉音の「ワ」でなく漢音の「カ」で発音しているのであって、「ワ」よりは喉奧で発音する現代中国語の「和( hé)」に近い音を示しているのです。

 中国における「和」の発音の変化については、台湾の中央研究院の「漢字古今字資料庫」で検索すると、いろいろな時代や諸地方の発音が表示されます。「字形」のボックスところに「和」とか「倭」などを入力し、「確定送出」をクリックして、ページ下部の「上古音・中古音・官話~」などの項目を選んでクリックしてみてください(こちら。別な字を調べる場合、前の字の「字號」は消します)。

 「和」という漢語に発音と意味が似た「わ」という大和言葉があったとする井沢説は成り立ちません。要するに、「人という字は、人が人が支えている形です。人と人が支え合っているから人なんです」などと説明するのと同じであって、もっともらしいものの、歴史的には正しくない民間語源解釈の類なのですね。

 井沢氏は、日本の根本原理は「わ」であったことの証言者が聖徳太子だとし、「憲法十七条」が説く「和」は儒教でも仏教でもなく、この人間の親交を意味する「わ」だと述べ、自分の新発見としています。

 しかし、「憲法十七条」の説く「和」が儒教の「和」と異なっていることについては、『逆説の日本史』よりかなり前の1984年に指摘した中国学の論文があり、このブログでも紹介しました(こちら)。また、儒教の「和」や仏教の「和」とは異なると説くのは良いですが、影響を受けていることに触れていないのは、儒教や仏教を知らないためにほかなりません(こちら)。

 ここで、『逆説の古代史2』に戻ります。井沢氏は、こうした「わ」は仏教ではなく、「日本教」とも言うべき「日本人の伝統的な考え方」であったとします。そして、そのことを明示した厩戸皇子が「聖徳太子」として尊重されるようになるには、「日本古来の伝統的宗教感情があった」とし、それを「御霊信仰と一応言っておく」と述べ、いよいよ怨霊説に入っていきます。

 井沢氏はその際、御霊信仰は仏教には元々無かったものであって、現在の日本仏教が先祖供養や怨霊鎮魂をやっているのは、仏教が日本に入ってきて「日本教」の影響で変質したものだと論じています。

 しかし、インド仏教でも餓鬼(プレータ)の救済などの形で先祖供養はなされていましたし、「孝」を尊ぶ中国では、亡き父母や先祖の供養は仏教の重要な任務でした。死んだ親の位牌を祀ったり七回忌をやったりするのは、いずれも儒教の影響を受けた中国仏教の風習です。

 それに、鬼神を鎮伏するのは、ヒンドゥー教の影響が強い密教の得意とするところであって、日本で「怨霊」という言葉が登場するのは、雑密(ぞうみつ)と呼ばれる類の呪術的密教が盛んであって、空海による純密(最近は雑密・純密の語は使わなくなっていますが)が導入される直前の9世紀初めですね。

 神道の「祓え」は『薬師経』などの影響を受けていることが示すように、日本古来の風習と考えられているものの中には、仏教の影響を受けているものがかなりあるのです。むろん、逆に外国由来のように見えて、実際にはまったく日本風なものに変質してしまっているものも多いのですが。

 井沢氏は第1巻の「第二章 大国主命編 「わ」の精神で解く出雲神話の“真実”」では、アマテラスとオオクニヌシが「話し合い」をしているところに日本の古くからの伝統、つまり、「「わ」の精神」の発生原因を見ていますが(134頁)、『日本書紀』のアマテラスの描写には『金光明経』その他の仏教の影響があることは、家永三郎が早くに指摘していました。

 また、『日本書紀』でもアマテラスは成立の新しい部分に出てくることが近年の研究で明らかになっています。ですから、6世紀から7世紀前半頃の神話はどうであったかはともかく、720年に奏上された『日本書紀』に見えている形のアマテラス神話について言えば、聖徳太子より後になって作られたことになります。

 アマテラスの「話し合い」の姿勢を、仏教や儒教が入る前の古代日本人の素朴なあり方を示すものとし、それが「憲法十七条」の「和」を生んだ背景だとすることはできません。

 また、「憲法十七条」は話し合いによる意見の一致を強調していましたが、日本が制度の手本とした古代韓国の諸国でも貴族の合議がなされていました。新羅の貴族会議は全員一致が原則となっており、その会議は「和白」と呼ばれていたことは、学界ではかなり前から知られています。このこともブログで紹介してあります(こちら)。
 
 さて、井沢氏によれば、聖徳太子は一族を皆殺しにされ(これが事実でないことは、先の記事で指摘しました)、また自殺している変死者であるために怨霊とされたと説くのですが、怨霊となったとする史料はまったくありません。梅原猛氏が、伎楽を見て「直観」でそう誤解しただけです(こちら)。

 井沢氏はさらに、島流しにされるなど不運な死に方をした天皇には「徳」の字を持つ諡号が多いという古くからの話を聖徳太子にあてはめ、こうした立派な名がつけられたのは怨霊となった太子を鎮魂するためだと力説します。

 実際には、流されるなどして不遇な死に方をしても「徳」の字がついていない天皇たちもいるのですが、井沢氏は、土御門上皇などは「雅びでおっとりした」性格だったのでそうならなかったのだ、などという珍説明をしています。

 また、「第二章 天智天皇編」では、第一章部分の連載を読んだ読者から、神武天皇から称徳天皇までの諡号は淡海三船が一度につけたものであり、懿徳天皇や仁徳天皇に「徳」の字をつけるのはおかしいという反論を受けたとして、これに反論しています。第一章にあたる部分を連載していた頃は、『日本書紀』の天皇の漢風諡号は、数人の天皇を除いては三船がまとめて撰進したことを知らなかったようですね。

 困った井沢氏は、「そもそも、漢風諡号が三船によって選ばれたことなど、あり得ないと考えている」と切り捨て、三船撰進説は同時代の『続日本紀』には記されておらず、少し後の『釈日本紀』に見えるため、「学者の中にも断定は出来ないという人は多い」(233頁)と述べます。

 そして、天智天皇の「天智」というのは中国最悪の帝王である紂王が所持していた宝玉の名であって悪い名であるため、子孫である三船がそんな諡号をつけるはずがない、と力説しています。これは苦しい弁明ですね。

 実際には、中山千尋「天皇の諡号と皇統意識ー漢風諡号の成立をめぐってー」(『日本歴史』622号、2000年3月)などが示すように、漢風諡号の撰進時期や採用時期については異説があるものの、三船がつけたというのはほぼ通説になっています。「断定は出来ないという人は多い」というのは正しくありません。

 多いというなら、代表的な数人の名を出せば良いだけのことですが、そうしていませんし、歴史学者を批判していながら、こういう時だけ歴史学者の説を頼りにするのはいかがなものか(ちなみに、私は歴史学者ではありません。専門は「ちちの仏教学」?と称してます。こちら

 そのうえ、奈良時代半ばすぎに活躍した三船は、天智天皇の遠い子孫にすぎないのに対して、720年に『日本書紀』が奏上された時の天皇は、元正天皇であって天智天皇の孫です。天智天皇と天武天皇の関係は微妙であり、天智紀・天武紀はそれを反映していて史実でない記述も見られるものの、天智天皇の孫である天皇に奏上される『日本書紀』が、祖父の天智天皇を紂王のような悪逆な帝王扱いして書くはずはありません。実際、そうした記述はないのです。三船は、その『日本書紀』を読んで歴代天皇の漢風諡号をつけたのですが。

 次は、「聖徳太子」という名です。井沢氏は、「聖」というのは、「本来、怨霊となるべき人が、善なる神に転化した状態を表現した文字だ」(165頁)と説くのですが、前の記事で指摘したように、聖帝の代表である仁徳天皇などはあてはまりません。

 この名が文献に見える初出は、751年の紀年を持つ漢詩集、『懐風藻』の序であり、『懐風藻』は三船の編集と見て良いとするのが現在の学界の説です。

 私はさらに、三船は、「太子は天台宗の開祖の天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりだ」とする説を主張した天台宗系の鑑真門下と親しくしており、『経国集』に見える三船の漢詩でも、その立場に立って厩戸皇子のことを「聖徳太子」と称していることを指摘しました(こちら)。仁徳天皇などの諡号を定めた三船が、厩戸皇子を礼賛して「聖徳太子」と呼んでいるのです。

 以上、述べてきたように、井沢氏の聖徳太子論は、最初から最後までこうした調子のものでした。研究者の最新の研究成果をきちんと踏まえたうえで、ところどころで自分の独自な解釈や推測を示すという形でなく、不勉強なまま梅原猛氏や豊田有恒氏などの想像説にとびつき、誤った前提の上に立ったうえで想像を重ねていっているだけです。新刊の『聖徳太子のひみつ』は、こうした旧作を切り貼りするばかりで、近年の研究成果を調べようともしておらず、旧作では触れていた参考文献の名などを省いてつくりあげた粗雑本です(こちら)。

 この3回の連載で触れなかった間違いもありますし、『逆説の日本史2』では、私が中国・韓国・日本の華厳思想を扱った博士論文で取り上げた聖武天皇の大仏建立についても不適切な記述が目立ちますが、この聖徳太子ブログで論じるのはやめておきます。

【追記:2022年2月21日】
 歴史学者を批判する井沢氏が、研究者より作家の推測を重視していることは確かなので、怨霊説についても梅原猛以外にヒントになった作家はいないかと探したところ、小松左京らしいことに気づきました。短編小説集『怨霊の国』(角川書店、1972年)に収録され書名とされた「怨霊の国」の末尾では、「いずれにせよ、われわれのものの見方はかたよりすぎ、不完全なのだ。とりわけ「歴史」に対してそうだ。精霊や、妖精、怨霊や、悪縁や、ーーかつてまじめに論じられ、現代では一笑に付せられているこういったものの存在を、ある、あるいは、あったと仮定して世界を見なおすと、今まで見えなかった部分が見えてくる、という事がたくさんあるのではないか?」(112頁)と述べています。井沢氏の基本姿勢は、これであるように思われます。
 『逆説の日本史1』の「序論」で、呪術的側面を無視するのが日本の歴史学者の三大欠陥中の最大の問題だと論じた部分では、山本七平が『比較文化論の試み』で、何かがいると感じることを「臨在感」と呼んでいることを紹介していますが、小松左京の名は出てきません。

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2)

2022年02月18日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 粗雑な『聖徳太子のひみつ』同様(こちら)、ツッコミどころ満載です。

 まず、井沢氏は、聖徳太子は「日本仏教の祖」とされるが、大事なのは「和の思想」であって、仏教でも儒教でもキリスト教でもない日本の伝統である「和の思想」を「発見」したのは、聖徳太子だと述べ、その太子がなぜ「聖徳」と呼ばれたのかという疑問から話を始めます(8頁)。

 しかし、「憲法十七条」における「和」を聖徳太子の思想の中心として重視するようになったのは、昭和初期のナショナリズムの高まりの中においてのことでした。ヘーゲル研究で知られる国家主義的なドイツ哲学者、紀平正美などが持ち上げ、紀平が属する国民精神文化研究所で編纂した『国体の本義』(文部省教学局、1937年)において、「和」を建国以来の日本の特質と強調した結果、広まったものです(こちら)。

 井沢氏がしばしば用いる「和の精神」という語も、この『国体の本義』に見えています。「日本精神」という言葉が盛んに使われたのも、この時期ですね。「精神」というのは古くからある漢語ですが、現在のような意味で用いられるようになったのは、明治期にspirit、Geist などの訳語として用いられてからです。

 さらに「日本精神」が強調されてそれが「和の精神」だとされたのは、19世紀後半からドイツで「ドイツ精神」が盛んに論じられるようになり、第一次大戦で敗れて莫大な賠償金を課されて苦しめられた結果、ナチスが生まれるほどナショナリズムが高まり、世界に冠たる「ドイツ精神」が強調されるようになった影響です。

 ですから、日本の古来からの特質として「和の精神」を説く人は、実際には紀平など経由で、西洋の影響をもちこんでいるのです。実際、教科書の聖徳太子記述に「和」が初めて登場したのは戦時中のことであり、国民が「和」して一体となって戦争を勝ち抜くためでした。

 つまり、「憲法十七条」が日本独自の「和の思想」を説いていると見るのは、井沢氏とは立場が違うものの、昭和初期から十年代あたりにかけて広まり、戦後になって「平和主義」「民主主義」の方向で解釈しなおされ、その影響が続いている俗説なのです。通説に反対するはずの井沢氏は、おそらく知らないでのことでしょうが、その古い図式に乗った議論を繰り返しており、紀平と同様に、史実を無視した主張をしているのです。

 なお、「憲法十七条」の「和」が中国の典拠と仏教の思想を倭国の状況に合わせて用いたものであることは、このブログで紹介しました(たとえば、こちら)。

 さて、井沢氏は、聖徳太子が天皇になれなかったことを謎としつつ、それは推古天皇が長生きしすぎたためであることを認めたうえで、「太子は天皇になる機会が、少なくとも一度はあった」(13頁)と述べます。つまり、崇峻天皇が殺された後がその機会であって、19歳の優秀な太子がいるのに推古天皇が即位したとするのです。

 しかし、当時、天皇になったのは30代後半以上の皇族ばかりであることは早くから知られていました。若かった太子が天皇になっていないのは当然であって不思議ではないのです。

 井沢氏はここで、豊田有恒氏の『聖徳太子の悲劇』の名をあげて、その説を長々と引用します。つまり、太子の妻はその外国語の家庭教師だった東漢直駒と不倫関係になっており、それが発覚して妻の父である馬子に駒が殺された後に自殺し、太子の母は夫の用明天皇が亡くなって未亡人となった後、太子の異母兄、つまり母からすれば義理の息子と「できてしまった」うえ、死んだ妻の父である馬子に相談に行ったところ、馬子は太子の美しい叔母(後の推古天皇)と男女の関係になっていた、というすさまじい推測の連続です。

 駒が太子の妻の外国語の家庭教師だったことを初め、想像ばかりで記録にないことの連続であって、週刊誌が推測で書きまくる芸能人愛欲相関図の古代版のようなものですね。太子の母が義理の息子(かつ甥)と結婚したことは事実ですが、身分の釣り合い、天皇(治天下大王)となるには前の天皇かその前の天皇などの皇女と結婚しておくことが条件だったらしいこと、財産の分割を防ぐ、その他の理由もあって、当時の皇族における近親結婚の多さは驚くべきものがありました(こちら)。

 ところが、井沢氏は、上記の推測について「これは決して誇張でない」として、以下、こうした複雑な状況のために太子はノイローゼとなり、伊予の温泉で長らく湯治して回復してから政治の世界に関わったとする豊田説に基づいて、聖徳太子論を展開していくのです。

 そして、豊田説を略抄しつつ『風土記』佚文である伊予温湯碑について、「おそらくその病が全快したので、太子は感謝の意を込めて、温泉を讃える碑文を書いたのだろう」(47頁)と推測しています。しかし、この碑文では、「我が法王大王」が慧聡法師・葛城臣と夷与(伊予)の村にやって来て、温泉の霊験に感心して碑文を作ったとし、その碑文が掲載されています。

 「碑」というのは文学のジャンルの一つであって、韻に注意して美文で書かれる碑文に状況説明となる「序」が付されます。「序」と「碑」は同じ人が書くものですので、「序」の部分で「我が法王大王」が温泉に来たと述べている以上、「碑文」は太子の筆ではないことになります。

 また、碑文は、間欠泉とおぼしきこの温泉をたたえ、『維摩経』では「法王」である釈尊が、供養された500の傘蓋(日傘)を神通力で天を覆う巨大な一つの傘蓋に変えたように、この温泉の地で椿の巨木の枝葉が天を覆ってトンネルをつくっているのは、「法王」のような太子の威徳によるものだとして讃えているだけです(こちらと、こちら)。

 碑文では、噴泉が開き閉じる間欠泉らしき様子を描き、平等に人々に恩恵を与え、病気を治す働きがあるとして温泉を上から目線で称賛しているだけであって、自分の病気を治してくれたことに対する感謝の言葉など全く出てきません。なお、豊田氏も井沢氏も、同道した僧侶を高句麗の慧慈としてあれこれ論じますが、訂正される前の原文は「恵忩法師」ですので、百済の慧聡と見るべきでしょう。

 井沢氏は、太子がノイローゼを治して政界に復帰したのは、推古天皇の子である竹田皇子が亡くなり、「推古女帝には他に子はいない」ため、かつては竹田皇子のライバルだったが、今となっては最も身内である甥の太子を用いたためとします。

 『聖徳太子のひみつ』は、旧作のこうした部分をそのまま切り貼りしているのですが、前の記事で書いたように、太子と自分の娘を結婚させた推古天皇には、竹田皇子の弟となる尾張王という息子がおり、後のその尾張王の娘を太子と結婚させています。

 ここで不自然なのは、井沢氏が、「憲法十七条」は「和を以て貴しとなす」と言っているものの当時の太子は新羅攻撃を企てる「武断主義というべき立場」であって、太子の事績には「分裂的傾向」がある(52頁)としていることです。

 「憲法十七条」の「和」を平和主義と見なすのは戦後の傾向です。「憲法十七条」がめざす「和」は、群臣会議でのなごやかな協議による意見の一致ですので、そこで新羅攻撃がなごやかに全会一致で決定されても何の不思議もありません。実際、第二次大戦中の日本は、「憲法十七条」の「和」と「承詔必謹」の精神で戦争に勝とうとしており、東京府生活局ではすべての家に「憲法十七条」を配布しようとしたほどでした(こちら)。

 井沢氏自身、別のところでは、国内が「和」でまとまれば、対外戦争をしても不思議はないと述べています。そうでありながら、上記のようにこの箇所で「分裂的傾向」が見られると説くのは、「かつてはノイローゼで悩んでいたという過去が、大きく影響していると考えるべきだろう」(54頁)とするためです。

 つまり、強引に豊田氏が唱えたノイローゼ説に持っていくためなのです。井沢氏はさらに、聖徳太子が怨霊であることを最初に説いたのは「哲学者梅原猛氏である」(57頁)として、怨霊史観を述べていきます。しかし、怨霊説はとっくの昔に否定されており、その怨霊説を筆頭とする梅原『隠された十字架』の事実誤認のひどさは、このブログでも詳しく論じました(こちらこちらこちら)。

 井沢氏の聖徳太子説は、上記のような豊田氏の想像と梅原氏の「直観」に基づいており、その図式が『逆説の日本史』シリーズ全体を支えているようですが、そもそもその前提が根拠のないものなのです。

 井沢氏のこの本の後で出された怨霊関連の本のうち、大森亮尚『日本の怨霊』(平凡社、2007年)は、奈良時代の井上内親王や早良親王の例で始めています。最近の小山達子『もののけの日本史ー死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)でも、古代の死者の霊と中国の鬼神との比較で話を始めているものの、聖徳太子怨霊説などは一顧だにされていません。太子怨霊説は、文献研究や考古学などの発見が進んだ現在になっても裏付ける証拠がなく、学界で相手にされていない妄説です。

 井沢氏は、「太子の子孫は……皆殺しにされている。太子の霊を祀る子孫はいなくなったのである」(60頁)を怨霊化の理由とするものの、前の井沢批判記事で書いたように、殺されたのは、太子の数多い息子・娘たちのうち山背大兄とその家族だけです。

 ついで井沢氏は、怨霊と同様に重視する「言霊思想」を持ち出し、現代には寿陵といって生前に墓を作っておくと長生きするという信仰があるが、当時はそうした信仰はまだ無く、神道の言霊信仰の影響で「生前に墓を作るなんて(死を招いているようで)不吉だ、という感覚が強かっただろう」(63頁)と述べ、崇峻天皇暗殺事件と太子との関わりを論じていきます。

 しかし、『日本書紀』には、蘇我蝦夷と入鹿が多くの人々を動員して自らの寿陵として二つの巨大な陵を作らせたとし(これは事実であって、その陵に関する考古学の論文は、こちら)、それへの不満がきっかけで山背大兄の家族が滅ぼされることになったと書いてあります。井沢氏が『日本書紀』をしっかり読んでないことは、こうした例が他にいくつもあることから察せられます。

 また、「神道」の「言霊思想」と言っていますが、「神道」の成立が新しく、仏教との相互影響があることは早くから知られており、私の研究室の後輩である伊藤聡さんの名著『神道とは何か-神と仏の日本史』(中公新書、2012年)などが説いているとおりです。伊藤さんのこの本の刊行は、『逆説の日本史2』より後ですが、『逆説の日本史』が刊行され始めた頃は、この本の元になった伊藤さんや他の研究者の論文がいろいろ出ていたはずです。

 『日本書紀』にも「神道」の語は出てきますが、今日言う宗教としての神道とは意味が異なることは、津田左右吉が早くから指摘していました。井沢氏は、学界の研究成果に注意せず、自分の図式を優先させる傾向が強いですね。

 太子の死について盛んに空想を書く井沢氏は、『聖徳太子伝暦』では、太子は膳部妃に自分は今夜死ぬだろうからお前も一緒に死のうと言って、二人で新しい清潔な衣を身につけてともに床につき、翌朝亡くなっていたと説いているため、「これはどうみても「心中」という他はない」(94頁)と断言します。

 そして、上原和氏が『聖徳太子 再建法隆寺の謎』で、『勝鬘経』が仏教の正法を得るために身と命と財を捨てるべきことを説いており、その注釈である太子の『勝鬘経義疏』がこの部分を説明する際、釈迦の前身が飢えた虎の親子を救うために我が身を捨てて食べさせたとする「捨身飼虎」を譬喩にあげていること、法隆寺の玉虫厨子にその「捨身飼虎」が描かれていることに着目し、太子は自殺したのだと強調します。

 上原先生は、私の勤務先であった駒澤大学がお招きし、聖徳太子について講演していただいたこともあります(その際の講演は、こちら)。すぐれた美術史学者であるもののロマン主義の傾向が強く、特に思い入れがある太子については、歴史小説に近い描写をすることがありました。

 それはともかく、井沢氏も書いているように、『聖徳太子伝暦』は太子讃美の書であって、太子の神格化が進んだ平安時代の本です。また、井沢氏は、変死した人は怨霊となると説いているわけですが、神格化が進んだ太子讃美の伝記が、太子は自殺した、心中した(つまり、変死したのだ)などと書くはずがないでしょう。

 古代にあって、自分の死期を悟るというのは、聖人の証拠でした。実際、『日本書紀』の推古紀では、太子が亡くなると、高麗の慧慈がそれを悲しみ、来年の同じ日に死んで浄土でお会いしようと願い、翌年の同じ日に亡くなったため、世間の人は、「太子だけでなく、慧慈も聖人だった」と言い合ったと記されています。『日本書紀』をきちんと読んでいない井沢氏は、この話のことも忘れているようですが、これも「自殺」とか「後追い心中」とか言うんですか?

 そもそも、二人が同じ日に同じ床で亡くなったというのは、神話化が進んだ『伝暦』の記述であって、太子が没して一年後に作成された法隆寺金堂釈迦三尊像銘では、12月に太子の母后が亡くなり、1月に太子が発病、王后(妃の膳部菩岐岐美郎女)も病床につき、2月21日に王后が亡くなり、「翌日」太子も亡くなったと記してます。

 普通、これを読めば、伝染病かそれに近い病気だろうと思うでしょう。この銘文では、王后の忌日は正確に記し、太子ついては翌日亡くなったとしか書いていませんし、太子を「法皇」と称して尊崇しているものの、奇跡を起こす超人・聖人としては描いておらず、病気で亡くなったと記しているだけです。

 太子と等身のこの釈迦像を造った人たちは、銘文では「三主」、つまり、太子と母后と王后に来世でもお仕えして仏法を興隆することを願っています。皇族でもない膳部氏の妃にお仕えするというのですから、この像は斑鳩地域の豪族であった膳部氏などが中心となって建立したことが推測されます。最初から最後まで太子の奇跡的な言動を並べている『伝暦』とこの銘文のどちらを信用すべきかは明らかでしょう。

 井沢氏は、上原氏の捨身重視説について説明するため、『勝鬘経義疏』の該当部分の現代語訳を示しています。自分で原文の漢文から適切に訳せば良いのに、井沢氏は、「『日本の名著 聖徳太子 勝鬘経義疏』中村元訳 中央公論社刊」(102頁)からという形で、この箇所を引用するのです。しかし、この本は「責任編集 中村元」であって、『勝鬘経義疏』については早島鏡正訳と明記されています。

 『聖徳太子のひみつ』では、中村元・瀧藤尊教訳である「憲法十七条」を、「日本を代表する仏教学者」である「中村元訳」(68頁)と記していましたが、前作の『逆説の日本史2』でも、著名な中村元先生の権威を利用し、不注意というよりは意図的な書き換えに近いことをやっていたわけです。こうした書き方をする人を、学問の世界にいる研究者たちが信用するはずがありません。

 ここで一端やめます。こんな例ばかりです。井沢氏は、歴史学者は古代人の心情が分からないと批判してあれこれ書いていますが、氏が強調するのは、古代人の心情というよりは、現代の週刊誌のゴシップ記事ライターの心情に近いように見えます。

 聖徳太子を尊敬してその伝説を長々と書いている平安初期の景戒『日本霊異記』では、登場人物の考え方・感じ方などは、現代人のものとはかなり違っています。貧しい女性が七人の子を心をこめて養っていたおかげで、薬草にめぐりあって神仙となることができ、空に飛んでいったのは素晴らしいという話では、残された子供たちはどうなるんだと心配になってしまいます。

 著者の景戒自身、「自分が死んで焼かれる夢を見たが、これは長生きするということなのか、官位を得るということなのか。結果を待ちたい」などと書いているので驚かされるばかりです。そもそも、『日本霊異記』は仏教説話集なのに、仏教伝来以前の雄略天皇が昼間から皇后と交わっているところを臣下に見られ、恥じて適当な命令を下したところ、その臣下が忠義であって見事に役目を果たしたとする話が上巻の第一話となっています。

 これには因果のつらなりを示すという背景があるのですが(私は『日本霊異記』も研究しており、論文も何本か書いています)、古代人の心情を重視するというなら、現代の週刊誌のゴシップ記事風な想像ではなく、そうした古代的な感性を尊重して史料を見ていくべきでしょう。そう言えば、『逆説の日本史』は週刊誌の連載でしたね。

逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1)

2022年02月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 少し前に井沢元彦氏の『(「日本教」をつくった)聖徳太子のひみつ』(ビジネス社、2021年)を取り上げました。

 この本は、最近の研究成果を参照していないばかりか、この本の図式の元となっている「日本教」という言葉を創った山本七平氏にすら触れておらず、基礎資料である『日本書紀』や三経義疏その他については、もちろんきちんと読まずに誤読に基づく断言を並べたてています(こちら)。

 井沢氏はしきりに独創を誇るものの、聖徳太子観については、SF小説第一世代の1人として活躍し、歴史小説や歴史読み物も手がけた豊田有恒氏の聖徳太子作品にかなり依拠しているように見えます。その豊田氏は、『聖徳太子の悲劇』(祥伝社、1992年)では、

小説家は物語の進行の都合上、ストーリーが面白くなるように、文献資料を恣意的に使う特権をあたえられているが、それと同じことを本職の学者がやってはいけない。(211頁)

と注意していました。また、私の敬愛する幸田露伴は、日本の歴史小説の最高峰と思われる『連環記』では、三河守定基について述べていて、定基の浮気を怒った妻との喧嘩を描くところまで来ると、

小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日本評論社、1941年)

と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。

 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。

 日本の歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ行ったのか、諸国の仏教や中国思想との詳細な比較はまったくしていませんし、誤読のひどさから見て、史料を元の漢文で読んで比較するだけの学力がないことは明らかです。

 面白いことに、ビジネス社の『聖徳太子のひみつ』は、末尾で同社の本を4冊宣伝しており、その最後に、山本七平・小室直樹『日本教の社会学』(2016年)がありました。これは、講談社から1981年に出された同書を再刊したものです。

 その宣伝では「待望の復刊!」と記されており、これは看板に偽りなしですね。山本・小室氏によるこの本は、博学で見識を有する個性的な人物同士による対談であって示唆に富んでおり、有益な本です。センセーショナルにあおり立てるばかりで間違いだらけの井沢氏の本とは比べものになりません。

 井沢氏は『聖徳太子のひみつ』の本文では「日本教」という言葉自体は用いていないものの、表紙では「「日本教」をつくった」と記してあるところを見ると、『日本教の社会学』を復刊したビジネス社は、自社が復刊したこの本を念頭に置いて『聖徳太子のひみつ』を企画宣伝しているらしいことがうかがわれます。

 さて、井筒氏が長年刊行し続けている「逆説の日本史」シリーズのうち、第2巻は『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(小学館、1994年)です。刊行された当時、私は題名を見て、とっくの昔に学問的に否定された梅原猛の怨霊説を今さらむしかえしていることに呆れかえり、手に取ることもしませんでしたが、今回、検討のため、第2巻と第1巻『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の古本を購入して眺めてみました。

 このシリーズは、例によって題名が問題ですね。「逆説」というのは、paradox の訳語であり、通説の反対であって真実ではないようでありながら、真実の一面をついていている言明、というのが基本の意味です。西洋では「(足が速い)アキレスは亀に追いつけない」というゼノンの逆説、東洋では『老子』の「大道廃れて仁義有り」などの言葉が有名ですね。仏教では、「般若は般若でない。だから般若だ」といった『般若経』の主張などが逆説の例として知られています。

 ところが、『逆説の日本史』の第1巻と第2巻の章名を見る限りでは、どれも本来の逆説になっていません。歴史学者たちを批判し、「通説」に「逆らった」説を述べた、というだけの意味で「逆説」の語を用いているように見えます。第2巻「第一章 聖徳太子編ー「徳」の諡号と怨霊信仰のメカニズム」の場合は、たまたま例外であって、「聖徳」という立派な名前がついているのは怨霊を鎮めるためだという逆説風な形になっていますが。

 あるいはこの聖徳太子の章が発想の元であって、この路線で日本史全体を書こうとして「逆説の日本史」という書名が生まれたのか。しかし、柱となる太子怨霊説は早くに否定されており、「聖徳」という名の由来も論証不足であって、そもそも出発点が間違っているのですから話になりません。

 また、第2巻で「第一章 聖徳太子編」に続く「第二章 天智天皇編-暗殺説を裏付ける朝鮮半島への軍事介入」中の「「天智暗殺の実行犯」天武天皇は”忍者”だった!?」の節では、驚異の新説のように述べていますが、天智暗殺説も天武忍者説も豊田有恒『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』のうち、「ミステリー⑥ 聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」に続く「⑦ 天智天皇は暗殺された!?」で書いていることですね。

 井沢氏は、忍者説については、「『英雄 天武天皇 その半生は忍者だった』(祥伝社刊)の著者豊田有恒氏は次のように書いている」(282頁)として、その部分を引用していますが、聖徳太子→天智天皇という章立ての順番ばかりか、「!?」という記号まで一致しているではありませんか!?

 つまり、井沢氏の説く「逆説」なるものは、豊田氏の説にかなり頼っておりながら、後になるとその点の明記が次第に減っていくのです。これは「話し合い至上主義」が日本教だとする主張も同様です。『逆説の日本史1』では、日本人の根本原理は「話し合い至上主義」であると山本七平氏が指摘していると述べ(105-106頁)、「聖徳太子は熱心な仏教信者であり、山本氏はキリスト教信者である。だからこそ、それが見えたのである」(108頁)と述べていました。

 聖徳太子と並べ称するほど山本氏を高く評価し、その図式を受け継いでおりながら、『逆説の日本史2』の結論にあたる部分で、怨霊信仰こそが「日本教」だと述べた際は、『逆説の日本史1』で触れたからそれで十分ということなのか、山本氏には言及しません。ただ、その「日本教」を説明する際は、意味合いは違うものの、「日本教」という言葉を有名にした山本氏の用語である「空気」という言葉を用いており(424頁)、山本説を意識していることがうかがわれます。

 さらに、『聖徳太子のひみつ』に至ると、山本氏の主張にはまったく触れていないため、山本氏の主張を知らない若い世代の読者は、この本だけ読んだら、「井沢先生の独創的な見解」と思うことでしょう。

 そもそも、井沢氏の本は内容の粗雑さで有名であって、たとえば忠臣蔵に関する記述のひどさについては、詳細で厳しい批判がなされています(たとえば、こちら)。しかし、一般読者はそうしたことを知らないうえ、世の中には井沢信者もいてかなりの影響を与えているため、ここで『逆説の日本史』の第1巻と第2巻における聖徳太子記述について検討しておくことにしました。

 読んでみたところ、前の記事で批判した『聖徳太子のひみつ』とほとんど同内容であって、文章も同じである箇所が目立ちます。つまり、『聖徳太子のひみつ』は、聖徳太子1400年遠忌で関心が高まっている時期に、聖徳太子に関する近年の研究成果などまったく確かめないまま20年近く前の間違いだらけの旧作を切り貼りし、参照した人名・資料名をかなり省いて作りあげた聖徳太子本だったのです。(以下、続く)

太子虚構説に全面賛成も全否定もしない苦衷の聖徳太子信仰史本:榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』

2022年02月13日 | 聖徳太子信仰の歴史
 大山氏の聖徳太子虚構説については、この10年ほどははっきり賛成する学術論文は見たことがなく、学界では相手にされていない状況です。その虚構説に対する諸研究者の批判を簡単に紹介する一方で、虚構説を明確には支持しないものの「一般にも影響を与え……賛否両論が巻き起こった」(24-25頁)という過去形で取り上げ、否定説よりやや詳しく紹介している本が出ました。

榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』
(勉誠出版、2021年)

です。12月28日刊行となってますので、まさに出たばかりです。

 この本は、冒頭に書いたように、大山説にはっきり賛成しているわけではなく、諸説様々であって「どの説を信じるかという話になってくる」と述べているのですが、虚構説を大山批判より詳しく説明する形になっていますので、そちら寄りかと思われるような書きぶりになっています。

 これは榊原氏の経歴と関わるように思われます。榊原氏は、聖徳太子信仰、特に四天王寺における太子信仰の研究者であって、このブログでも論文を紹介したことがあり(こちら)、そうした成果をまとめた研究書、『『四天王寺縁起』の研究―聖徳太子の縁起とその周辺』(勉誠出版、2013年)も出しています。

 榊原氏は、『ヒストリア』176号(2001年9月)に『四天王寺縁起』の論文を載せた後は、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)に「『四天王寺縁起』の成立 」、大山氏が勤務していた中部大学が出した『アリーナ』5号(2008年3月)の聖徳太子特集に「『聖徳太子伝暦』小考」、大山氏の虚構説の盟友である吉田一彦氏編集の『変貌する聖徳太子』(平凡社、2011年。この本は、ブログで紹介しました。こちら)に「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」を掲載しています。

 つまり、榊原氏がまだ若く、学術誌にあまり論文を掲載できなかった時期に、大山氏や吉田氏に評価されて論文を書かせてもらっており、恩があるのです。そのうえ、これらの本や雑誌に聖徳太子関連で書いている人たちのうちの半分くらいは、当時は太子虚構説に賛成、ないしそちら寄りの立場で書いていて盛り上がっていましたね。

 そうした経緯があるものですから無理もないのですが、この本では両論並記であるものの、大山説の紹介はかなり長い一方、批判派ないし批判となりうる説については簡単に述べており、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(1999年)にしても、「憲法十七条」は天武朝以後に制作されたものであり、「憲法十七条」を含むβ群は文章博士の山田御方によって記述されたとする説が、2行で簡単に書かれているだけです。

 大山氏は当初は森さんのこの本を読んで自説の援軍になると喜び、「聖徳太子関係史料の再点検」(『東アジアの古代文化』104号)では、「森氏の研究の緻密さに感嘆した」と書き、それまで太子関連記述は道慈の筆としていたことを改め、「御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と書くに至っています。

 ただ、森氏が「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号。後に『日本書紀の真実』中央公論社、2011年に掲載)において、大山氏の道慈作文説を文体の違いに注意しない「妄説」「空想」「虚妄」として厳しく批判すると、大山氏は一転して森氏の説を粗雑なものとして批判するようになったのですが、そうしたことは、この榊原氏の本では触れられていませんし、『日本書紀の真実』も紹介されていません。

 大山説を批判した私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、1996年)は、割と長めに紹介されています(有難うございます)。

 榊原氏は、冒頭に書いたように、四天王寺を中心とした太子信仰の展開の研究者であって、聖徳太子そのもの研究者ではなく、またそれまでの経緯もあるため、上記のような書き方はやむをえないと言えばやむをえないでしょう。ともかく、榊原氏自身が、虚構論や批判説についてどう考えているか明確でない書き方になっており、苦衷がうかがわれます。

 ただ、律令制度を充実させていくためには、「中国的な聖天子像」の人物が必要であり、『日本書紀』において厩戸皇子が「そういった聖天子とされ、彼に関する記述がなされたことは間違いないであろう」(32頁)という総括は間違いです。

 儒教の根本の徳目は、「仁」であり「孝」です。ですから、『日本書紀』が尊重する仁徳天皇などは、「仁」であり「孝」であったと明記されています。これに反して、このブログで何度も書いているように(こちら)、厩戸皇子は「仁」とも「孝」とも言われていないどころか、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子とともに政治をし、ともに国史を編纂したと記されています。

 このため、江戸時代になって儒者たちから極悪人として批判されたのです。そのうえ、私の最近の典拠の発見が示すように、「憲法十七条」は「礼」を重んじていながら、礼と並ぶ必須の「楽」に触れず、「孝」にも触れません。こんな儒教はありませんね(こちら)。

 ただ、そうした問題が目立つのは、「第一章 聖徳太子信仰の成立」であって、以下、次のような章が続きます。*は目次に基づく私の説明です。

 第二章 聖徳太子信仰の霊場  *法隆寺と四天王寺
 第三章 法隆寺と四天王寺の対抗意識 *次々に作られる太子伝と関連文献
 第四章 霊場の増加  *太子が創建したとされる寺院、関係する神社仏閣
 第五章 太子への思い *初期から鎌倉時代頃までの僧俗の太子信仰
 第六章 平安時代の文学作品における聖徳太子 *『三宝絵』『源氏物語』
 第七章 聖徳太子信仰の美術  *絵伝と太子像
 第八章 太子講        *太子講の由来と実状
 第九章 文化の創始者聖徳太子 *建築・華道・製紙・お香・伎楽
 おわりに   *現代までつながる太子信仰の諸相、文化への影響

と並んでいます。聖徳太子が建てたとか、太子のために建てたと言われる寺が多いのは有名ですが、聖徳太子を祭神とする神社や、聖徳太子が創建したと伝える神社の存在など、興味深い情報が紹介されており、私自身も知らないことや忘れていたことがかなり記されていました。太子信仰の流れをつかむための入門書としては有益な本となっています。

 聖徳太子信仰が日本文化に与えた影響はこのように絶大ですが、学校で「聖徳太子」という名を教えないと、こうした歴史が失われることになるのです。歴史上の人物としての聖徳太子についてどう考え、どう評価するかは、また別な問題です。 

倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」

2022年02月10日 | 論文・研究書紹介
 古代の日本について語るには、同時代や少し前の時代の韓国や中国の状況と比較する必要があります。

 「憲法十七条」の「和」の背景となる群臣の合議については、少し前に新羅の「和白」にも触れた鈴木明子氏の合議制論文を紹介しましたが(こちら)、古代韓国三国における合議制と王への権力集中の過程を論じたのが、

倉本一宏『日本古代国家成立の政権構造』「第二章 朝鮮三国における権力集中」
(吉川弘文館、1997年)

です。

 倉本氏は、まず次のような石母田正氏の類型説(1971年)を提示します。

 ・国王自身に支配階級の権力が集中される百済類型
 ・宰臣が国政を集中的に独占し、国王は名目的な地位にとどまる高句麗類型
 ・支配階級の権力が王位に就く資格のある王族の一人に集中され、王位には女性が即き国権をもたない政治的首長の役割を果たし、これらとは別に貴族の首長の評議によって国家の大事を決定する機関を持つという新羅類型

 倉本氏は、この分類を評価しつつも、これはあくまでも七世紀中葉のある時期の一側面を述べたものであり、これが長い伝統ではなかったことに注意します。そして、どの国でも軍国体制であって、権力集中はいつの時代も課題となっていたとして、

 A 貴族合議体の成立
 B 合議体主催者の成立
 C 国王近侍官の成立
 D 合議体構成員による国政諸部門の分掌
 E 官司制の成立と合議体の地位の低下

という発展経過を想定し、ABCについて論じてゆきます。

 まず、高句麗については、3世紀に自立的な貴族である対盧によって国政を議する合議体が成立、4世紀以降、対盧の上位にあって国政をつかさどる大対盧が成立、6世紀前半までに国王に近侍して機密をつかさどる国王直属官僚群として中裏制が成立したとし、大対盧は「大臣」と称され、対盧は「臣」と称されて浮いた可能性があるとします。

 百済については、6世紀以前に、それ以前の官位の上に佐平という官位が置かれ、6世紀前半に佐平が身分呼称化して合議体を構成、その一部は合議体を統括する上(大)・中・下の三佐平となり、官司を統括さうる六佐平(そのうちに内臣佐平は国王近侍官)に就いた、と見ます。

 そして、新羅については、『隋書』に「其有大事、則聚群官而定之」、『新唐書』に「事必与衆議、号和白。一人異則罷」とあって、和白と称される合議体が全会一致を原則として国事を議したことがわかるとします。

 その和白の構成員は、大等という貴族階層であり、ある時期になって大等の上に和白会議を主催・統括する上大等が設置されたとし、複数の大等に一定の職掌を担当させ、中代以降にその上部に長官(令)を置き、官司を成立させたとし、『日本書紀』では新羅は大臣を「上臣」と称するとしていることを指摘します。

 倉本氏は、古代朝鮮諸国でこうした政治体制が確立していく時期、中国の魏晋南朝では皇帝と宰相以下の貴族が国事を担当する貴族制がおこなわれいたため、これが「観念的な政治理念として」朝鮮、特に百済に伝えられた可能性は十分にあると述べ、この章をしめくくっています。

 読めば明らかなように、倭国の状況との類似が目につきますね。実際、倉本氏は、この前の第一章で倭国の合議制を論じた際、朝鮮諸国の影響に触れています。

 この第二章は、1990年に発表した論文に基づいたものです。30年も前にこうした論文が出されていたのであって、石母田氏の論文とともに、その国際的な視野の広さと先見性に感心させられます。こうした研究をせずに古代の日本の特色を論じることはできないでしょう。

 ただ、この時期の論文としては無理ないことながら、古代朝鮮の状況に関する韓国の研究者の研究については、日本語訳が出ているかなり前の論文を用いています。近年の韓国では、日本留学組や中国留学組を含め、若い研究者たちによってアジア諸国での最新の研究状況を踏まえた研究が急激に進みました。私も少し前に科研費で変格漢文の国際共同研究をやった際は、韓国・中国・日本の研究者に参加していただいています。その際にも痛感したのですが、今後は国際的な共同研究がいよいよ重要になることでしょう。

『日本書紀』β群の筆者は日本人で漢訳仏典になじんでいた:李明月「日本書紀の「亦」と「又」」

2022年02月07日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事で、基礎資料をしっかり読まず、曲解と空想ばかりをくりひろげる井沢元彦氏のトンデモ本を取り上げました(こちら)。

 これに対して、語法に注意して『日本書紀』の用例を地道にこつこつと検討していった例が、

李明月「日本書紀の「亦」と「又」」
(『上智大学国文学論集』55号、2022年1月)

です(李さん、刊行されたばかりの論文の抜刷、有難うございます)。

 「~ぞ」「~よ」「~ぜ」といった助詞のニュアンスを正確に把握するのは、外国人には難しいの同様、漢語の虚詞のニュアンスは日本人には分かりづらいのですが、李さんは中国人研究者の立場から、漢語では意味が異なる「亦」と「又」が『日本書紀』においてどのように区別して用いられているかを調べています。

 まず、藤原照等氏が、「古事記の用字『亦』と『又』」(『古事記年報』5巻、1958年6月)において、『古事記』では副詞の用法の場合、「亦」は「更に」、「又」は「別に」として用いられており、接続詞の用法の場合、「又」はほとんど文頭で用いられ、話が転じるところでよく用いられるのに対し、「亦」は様々な位置に置かれ、重ねての意味で用いられることが多いと説いたことを紹介します。

 ついで、品詞の違いに注意しつつ、『日本書紀』の用例を検討していくのですが、巻五の避板(同じ語が続くのを避けて別な語を用いる)の一例を除き、『日本書紀』ではα群β群とも「又」はすべて「さてまた」という漢字本来の意味で用いられているとし、すべての巻で「亦」と「又」を使い分けていると総括します。

 さらに、『日本書紀』では「亦」を接続詞として用いているとし、これは漢籍には無い用例であって誤用であるとしたうえで、その例はすべてβ群であると指摘します。

 後に補筆修正が入れられているものの、基本的に正格漢文と中国語の北方音を用いて書かれたα群は唐人の続守言と薩弘恪の撰述、仏教漢文の影響が強く、和習だらけのβ群は学僧として新羅留学に留学した後に還俗して大学で教えるようになった日本人の山田史御方、α群でもβ群でもない巻30は紀朝臣清人の筆だというのが、森博達さんの説です(『日本書紀の謎を解く』『日本書紀成立の真実』)。具体的な人名などについては異説も多少あるものの、α群・β群・どちらでもない巻30、という森さんの区別は学界の定説となっており、李さんの研究はそれをさらに補強するものです。

 李さんは、β群の「亦」の用法は誤用だが、前の文との結びつきが緊密であることを意識して用いられていると説きます。そもそも、中古以前の日本では、接続詞がほぼ存在していなかったとされていること、接続詞の「また」の用例は、『万葉集』『古事記』『常陸国風土記』『続日本紀』にだけ見えており、しかも、これらは漢文訓読と関わる場面で用いられているとされています。

 そこで李さんは、「亦」を接続詞として用いるのは、「又・復・且」などの語が「また」と訓読されて、「また」が接続詞となってある程度定着した後、同じく「また」と訓読されていた「亦」が接続詞として用いられるようになったと推測し、「亦」を接続詞として用いたのは日本人と考えられるとします。

 李さんは次に、『日本書紀』では「又亦・又復・亦復・亦還・亦更」などの双音節虚詞として用いられているとし、これら漢訳仏典ないし唐代口語の影響とします。仏典は、読誦しやすくするため、不要な字を添えて四字句の連続にしたりしますし、漢語は同音異義語が多いため、会話する際は2字で1語にして誤解されないようにするのであって、そうした用法が影響を及ぼしたとするのです。

 後は位置の問題です。森さんは、「亦」は副詞であって「我亦~」などとすべきなのに、「亦我~」というように主語の前に「亦」が来ることが多いのは漢訳仏典の影響と説きましたが、李さんも森さんがあげている以外の例をあげ、漢訳仏典の影響とします。

 「まとめ」では、『広韻』『説文解字』などでは「亦」や「又」の説明はごく簡単であるのは、母国語としてなじんでいる中国人にはこうした語のニュアンスを詳しく説明する必要はかなったためではないかとします。そして、日本人は、漢籍や仏典から「亦」と「又」の用法をおおよそ理解したものの、その人が学んだ書籍や漢文の素養の程度によって理解に差が生まれたと考えられるとまとめています。

 『日本書紀』で「また」と訓読されている語は、「亦・又・復・且・更・及・還・並・加」の9字があるため、今後はこれらについても検討したい由。

 こうした地道な作業によって、『日本書紀』のどの部分がどの人によって書かれたかが明らかになっていくのです。李さんには、三経義疏や他の推古朝の遺文との比較もお願いしたいところです。

【重要】「篤敬三宝」や「承詔必謹」より「和」が先に来る理由を「仏教タイムス」紙に掲載

2022年02月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先週の記事では、「憲法十七条」第一条の「和」の背景となる典拠について説明した小文、「 「憲法十七条」の「和」の典拠を発見(上)」が、「仏教タイムス」紙の1月27日版に掲載されたことを報告しました(こちら)。

 その1週間後となる昨日、何より重要なはずの「篤敬三宝」が第二条、倭国の基本方針としたいはずの「承詔必謹」が第三条に配され、第一条で「和」が強調されている理由を説明した(下)が、同紙の2月3日版に掲載されました。

 第一条の「上和下睦」の典拠は『千字文』ですが、『千字文』のこの句は、『孝経』冒頭の、古代の聖王は最高の「要道」によって天下を教化したため、「民は用(もっ)て和睦し、上下、怨むなし」となったという箇所に基づいています。『孝経』によれば、その最高の「要道」とは、書名が示すように「孝」であって、それを補足するのが「楽」です。

 ところが、「憲法十七条」は上下関係を律する「礼」を強調しておりながら、「礼楽」という言葉が示しているように儒教では「礼」と密接に結びついている「楽」については全く触れなかったのと同様に、儒教の根本である「孝」にもひと言も触れません。孝を強調し、のめりこむほどの音楽好きであった孔子が「憲法十七条」を読んだら、「これは儒教ではない!」と怒るでしょう。

 「聖徳太子はいなかった説」によれば、『日本書紀』は律令制における理想的な天皇像を示すため、儒教・仏教・道教の聖人である<聖徳太子>をでっちあげたそうですが、どこが儒教の聖人なんでしょう? このことは、『日本書紀』の太子関連記事では、太子が親孝行であったことは記されていないなど別の観点から論じたことがあります(こちら)。

 「憲法十七条」は「和」をもたらす「楽」を仏法僧の三宝への帰依で、つまり仏教で代用しようとしたのです。僧宝という場合、「僧」は個々の僧侶でなく、僧伽(僧団)全体であって、僧伽の特質は「和合」だというのがインド以来の伝統です。

 また、「以和為貴」に続く「忤(さか)う無きを宗と為せ(無忤為宗)」とあるうち、「無忤」は、大昔に論文で指摘したように、三経義疏が手本とした中国南朝の僧尼が重視した徳目ですし(南朝仏教の影響の強さは、こちら)。

 第三条は、君主は天であり臣下は地なのだから、君主の言うことにさからう者は破滅するぞと警告しています。しかし、それほど重要な君主の絶対性を説く「承詔必謹」が第三条、治国の根本となるはずの仏教尊重を説いた「篤敬三宝」が第二条に来ており、「和」が冒頭の第一条に置かれて強調されるのはなぜなのか。

 これについては、仏教導入は群臣間でもめて武力が発動され、天皇後継も群臣会議が決めていたため、もめて戦いとなったことが示すように、群臣の協議が何よりも重要であって、そこでの「和」が期待されたため、というのが私の推測です。

 街に「駐車禁止」や「スピード落とせ」などの看板がたくさん出ているのは、守らない人が多いからですね。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、「和」でない状況だったためでしょう。

 このことは30年近く前の論文で指摘しておきましたが(こちら)、「和」を冒頭に置く「憲法十七条」について、「日本は、古来から和を尊ぶ民族だったことを示す」などと言う人がいるのは不思議です。

 いずれにしても、このブログで再々述べているように、天皇の称号と特質を確定した律令を制定し、神話によって天皇を権威づけた天武朝以後になって、「天皇」も「神」も出てこない「憲法十七条」が作られるはずはないですね。後代の作とした津田左右吉が、制作時期は律令などを企画していた頃としたのは、完成後なら無理と考えたためでしょう。