聖徳太子研究の最前線

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逆臣の守屋が地蔵菩薩や熊野権現へと変化:伊藤純「聖徳太子と物部守屋」

2024年06月03日 | 聖徳太子信仰の歴史

  『日本書紀』の守屋合戦記事では、厩戸皇子が四天王に誓願したからこそ勝利したように描かれていますが、それ以外の部分では、名前も他の皇子たちの後に記され、少年の身であって軍勢の最後につき従っていたと書かれています。

 それが実状でしょう。ところが、後代の太子伝になると、厩戸皇子自身が先陣をきって勇ましく戦ったように描かれるようになります。中には太子自身が守屋を討ち取ったとする太子伝も登場しますが、そこで問題になるのは、仏教を広めた太子が「殺生」をするのはいかがなものか、という問題です。

 この問題を解決するため、守屋が仏教導入に反対したのは、仏教を広めるためにわざとやったのであって、守屋は『法華経』の言葉を唱えながら亡くなった、と説く太子伝も造られました。

 そうした筋を、煩悩の元である無明と、真理のあり方である「法性(ほっしょう)」の戦いとして展開した『無明法性合戦物語(合戦状)』なども中世には書かれています。

 これは、前にこのブログで書いたように(こちら)、四天王寺周辺には守屋側の人間であって四天王寺に属させられた者たちがかなりいたことも関係しているかもしれません。そうした人たちは、守屋を弁護したいでしょう。

 それとは作成グループが異なるかもしれませんが、とにかく守屋を弁護しようとした試みの一つを扱ったのが、

伊藤純「聖徳太子と物部守屋―逆臣守屋から地蔵菩薩守屋へ」
(『日本文化研究』第55号、2024年3月)

です。伊藤氏については、これまでも聖徳太子の有名な肖像画、「唐本御影」は、近世には秘蔵されていなかったことを明らかにした論文などを紹介したことがあります(こちら)。

 伊藤氏はまず、『日本書紀』では跡見首赤梼が樹に登って矢を射ていた守屋を射おとして守屋とその子などを「誅」したとあって、罪ある者を殺す「誅」の語を用いていることが示すように、守屋を逆臣として描いていることに注意します。

 ところが、平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』になると、太子が誓って矢を放つと守屋の胸にあたり、守屋が樹から落ちたところを、「川勝」がその頭を斬った、となっています。

 ところが、『聖徳太子伝暦』になると、太子は「守屋は生まれ代わるたびに仏教を破壊する族であった」が述べたとしつつ、仏法を興す時もつき従っており、「影と響きの如し」とします。

 それが、嘉禄3年(1227)頃の四天王寺系『太子伝古今目録抄』となると、「権者は仮に悪人を示し、衆生を化す」とあって、守屋はわざと悪人の姿を示して仏法を興隆させたとされており、四天王の一体を毎日供養するのは、「守屋の菩提の為なり」と述べており、仏法流布の仲間扱いとなってます。

 以上は四天王寺系の文献でしたが、延応元年(1239)頃の法隆寺系の『古今目録抄』でも、「太子守屋共に大権菩薩。仏法を弘めんと為し、此の如く示現す」と説くにいたっているとします(「弘めんが為に」ですね)。

 なお、守屋のイメージがこのように変化したことは、先行研究、特に松本眞輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(新典社、2007年)でまとめてろんじられています。

 さて、以後も太子と守屋のイメージは代わっていきますが、応安5年(1372)の『顕真得業口決抄』では、馬子が与えた太刀で川勝が守屋の首を切ったとし、「或る説に云う」として、「守屋は地蔵の化身」と述べ、仏教が無い世界に仏教を弘めるためにその身を現わしたとしています。

 この頃から、守屋と太子の合戦は法性と無明の仮の戦だとする文保本『聖徳太子伝記』の言説が広まっていきます。

 太子信仰は地方へも広まっていきますが、応永34年(1427)頃の『善光寺縁起』では、四天王寺の北東の柱を彫って守屋の首を納め、今に至るまで「守屋柱」と名づけていると説きます。これは四天王寺の話のはずでsが、善光寺本堂には現在も「守屋柱」と呼ばれる柱がある由。

 このように、守屋は菩薩扱いされることもあったものの、寛政10年(1798)の『摂津名所図会』では、四天王寺の太子堂の後ろい守屋祠があるが、三啓客が憎んで石をなげて壊すため、寺の僧が「熊野権現」と表記した由。祭ってるのは、守屋と弓削子連、中臣勝海という排仏トリオだそうで、現在でも中心伽藍の東の境内地に「守屋祠」があると伊藤氏は述べます。上記の善光寺の守屋柱やこの四天王寺の守屋祠などは、写真が示されているのが良い点です。

 なお、伊藤氏のこの論文では、注がなく、末尾に「参考文献」として先行研究をあげおり、松本さんの論文と本も記されていますが、これではどこまでが知られていることで、どこが伊藤氏の新しい指摘か分かりません。一般向けの本の書き方ですね。近世に関してはこれまでにない報告がいくつもなされているものの、論文としては感心できません。

 「おわりに」では、『広文庫』が引く篤胤の『出定笑語』によれば、赤穂の越の浦に大酒の杜と称する守屋の祠があるとしており、通常では秦河勝を祭神としている大避(大酒)神社に守屋が結びつけられていることが報告されています。こうした近世の状況を報告している点が、この論文の意義ですね。