聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

梅原猛の珍説(1):太子の怨霊である「蘇莫者」は「蘇我の莫(な)き者」

2020年12月19日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 「いなかった説」の前に聖徳太子に関して大きな議論を巻き起こしたのは、梅原猛の「法隆寺=聖徳太子の怨霊鎮めの寺」説でした。周知のように、梅原は西洋哲学の研究者であって、次第に仏教に関する関心を深めていった学者です。

 雑誌『すばる』に連載され、昭和47年(1972)に新潮社から刊行された梅原の『隠された十字架』は、湯川秀樹などに斬新さを賞賛されたこともあって大変な話題となり、毎日出版文化賞を受賞するに至りました。

 こうした評価の結果、専門家でなくても古代史に関して大胆な説を出して良いのだ、いや専門家は伝統説にとらわれすぎているため非専門家が新たな視点を提示すべきなんだ、という雰囲気が広まったように思われます。代表的な太子研究家であった日本史学の重鎮、坂本太郎が「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』第300号、1973年)を発表して批判し、梅原の本は読み物としてはきわめて面白いものの、文献の性格をわきまえた着実な研究となっていないことを指摘したのですが、こうした意見は一般には浸透しませんでした。

 梅原が「太子=怨霊説」を思いついたのは、昭和46年(1971)4月2日に、太子を祀る法隆寺の聖霊会において舞楽の「蘇莫者(そまくしゃ)」を見た際、強い印象を受けたのがきっかけです。梅原は、舞台に現れた蘇莫者を太子の霊だと直感し、次のように書いています。

 太子の霊はしずしずと、講堂の前にもうけられた舞台の上に登場し、そこで舞いを舞うたのである。そのとき、太子の顔は真赤であり、白い長い毛が、ふさふさとたれ下り、その赤い顔をかくしていた。そしてその白い長い毛ごしに見えた太子のお顔は、いとも恐ろしい顔であった。眼をかっと見開き、口は大声で何かを叫び、舞いというより、それは、おどりに近い早い動きである。しばらく、太子は舞台で奇怪な舞いを舞い、そして消えた。
 このようにいうと、人は、私が幻影を見たというであろう。しかし、私は、幻影とは思わない。私が見たのはたしかに太子の霊だと思う。(「塔・17」『芸術新潮』昭和46年5月号)

 つまり、これによって「太子は怨霊となって荒れ狂う存在」ということになり、その結果、「法隆寺=太子の怨霊鎮めの寺」説が生まれたのです。以後、梅原は次々に想像を繰り広げた結果、『隠された十字架』では「蘇莫者」について次のように書くに至ります。

文字通りにとれば蘇我の莫(な)き者、蘇我一門の亡霊という意味ではないか。蘇我一門の精神的代表者である太子の霊が、蘇莫者という名で呼ばれても不思議はない。

 想像するのは自由ですが、蘇莫者というのは、古泉圓順「蘇莫者」(『四天王寺女子大学紀要』第12号、昭和55年3月)によれば、シルクロードで盛んになって中国で流行した行事であって、寒い時期に色とりどりの胡服を着、額にはちまきをし、頭に花の冠をつけ、大勢で騎馬し、西域の音楽を演奏して大声で西域の歌を歌ったり踊ったりした由。踊り手の中には、裸となって水をまきちらし、跳んだり跳ねたりして街路を踊りまわる者もいることが示すように、「冬迎え」「年送り」「新年迎え」などのための冬の祭りなのです。こうした裸の水かけ祭りは現代の日本にまで伝わってますね。その祭りの西域の呼び名を漢字で「蘇莫遮」と音写していたのです。

 一方、同じくシルクロードの亀茲(クチャ)には、正月七日に犬の頭や猿の面をつけて男女が昼夜、歌いながら舞う習俗があり、これを「婆羅遮」「婆摩遮」などと称していました。どうも、この二つが中国で混同されるようになった結果、白髪で舌を出した老猿の面をかぶり、蓑を身につけた日本の「蘇莫者」となったらしい、というのが古泉説です。つまり、聖者を意味する「アルハン」の語を「阿羅漢」と漢訳した場合、これ全体が音写であって、「漢」は「悪漢」「痴漢」などのように「人」を意味するのではないのと同様、「蘇莫者」とは「蘇莫の者」ではなく、全体が音写なのです。

 ただ、「婆羅遮」「婆摩遮」は「蘇莫遮」に当たる語の別な漢字音写だという説もあります。また、カシミール出身の般若三蔵が8世紀後半に訳した『大乗理趣六波羅蜜経』では、「老いる」という苦について語る際、「蘇莫遮が帽子をかぶって面を覆い、人々に嘲笑されからかわれるように、人々は老衰という蘇莫遮帽をかぶって、街から街へとさまよい、人々に嘲笑されからかわれる」とあり、これによれば「蘇莫遮」は滑稽な帽子をかぶってさまよい、笑われる道化のような存在のように見えます。また、慧琳『一切経音義』では、その「蘇莫遮帽」について、獣や鬼神など「種種の面具の形状」のものだと説明しています。
 
 帽子であれ仮面であれ、白髪の老猿などが元であれば、梅原が見た蘇莫者が、赤い顔に白いふさふさ髮で大きく口を開け、怒っているようで素早く動き、奇怪な舞いをするのは不思議ではなく、怨霊と見る必要はないことになります。

 そもそも、現在の舞曲の「蘇莫者」は、聖徳太子が尺八を吹くと山神が現れて舞ったという伝承と結びついており、その山神が蘇莫者とされています。太子が蘇莫者ではないのです。王が笛を吹くと山神が現れて舞ったというのは、新羅の伝承にも見えるものですので、何かしら関係があるのでしょう。

 いずれにせよ、現在の「蘇莫者」は、宮川武治「古代のロマン 聖徳太子と尺八-舞楽蘇莫者から-」(『あいち国文』1号、2007年7月)によれば、「八世紀中頃に渡来した林邑楽[筆者注:ベトナム中部の舞楽]の蘇莫者、或は林邑系の楽に、折しも聖徳太子崇拝の高まりの中で、太子を主奏の笛役に仕立て、舞い踊る山神をセットに脚色して、四天王寺楽人の中で舞楽蘇莫者が制作され、秘曲として伝承されたのではないかと推考される」ものだそうです。

 「蘇莫者」が四天王寺に伝えられてきたことは中世の楽書、『教訓抄』にも見えています。法隆寺の聖霊会で奏されるようになった時期は不明ですが、かなり新しそうに思われます。

 つまり、「蘇莫者」は再建法隆寺の建立事情に関わるような舞楽ではなく、赤い顔に白いふさふさ髮をつけ、派手な出で立ちで登場する蘇莫者は荒れ狂う怨霊などではないのです。なお、法隆寺管長となった高田良信師が梅原と対談した際、「先生、怨霊の鎮魂と言わず、太子追善の寺と言ってください」と頼むと、梅原は「それは分かるが、怨霊としないと本が売れんのや」と語った由。やれやれ。

【追記】
 古代の日本で怨霊となって暴れたとされるのは、平将門であれ早良親王であれ菅原道真であれ、すべて殺されたり、都から追われて怨みをもって死んだりした人たちです。太子の長男であって天皇になりたがり、蘇我入鹿の軍勢に滅ぼされた山背大兄などなら怨霊とされるのは分かりますが、その場合にしても、蘇我氏が滅ぼしたのですから、「蘇我氏の莫き者」とは言えないでしょう。「蘇我氏が亡き者にした存在」ということにするのか。いずれにしても、病気で亡くなった太子が怨霊となったとする古代の史料は全くありません。蘇莫者のことを良く知らない梅原猛が、直感でそう思っただけです。
この記事についてブログを書く
« 「日出処天子」国書は対等外... | トップ | 神が出てこない「憲法十七条... »

聖徳太子をめぐる珍説奇説」カテゴリの最新記事