聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

釈迦三尊像脇侍菩薩にこめた女人往生の願い: 中野聰「法隆寺金堂釈迦三尊像の所依経典と美術表象」

2011年09月30日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の釈迦三尊像については、山のような論文が書かれており、そうした研究史をまとめた論文も複数発表されています。そうした中で、研究史を紹介しながら釈迦三尊像作成の背景となった経典について検討した最新の論考(研究ノート)が、

中野聰「法隆寺金堂釈迦三尊像の所依経典と美術表象
(『龍谷大学 仏教文化研究所所報』34号、2010年12月)

です。多くの論文を引いており、注では出典を示すだけでなく、その論文や著者の主張について簡単な説明も付しているため、最近の研究動向の概説として読むこともでき、有益です。

 女人往生の問題に注意しながら「天寿国繍帳」や法華寺十一面観音像その他に関する研究を発表してきている中野氏は、釈迦三尊像を扱うに当たって、表現のよりどころとなった経典は何かというところから出発します。

 最初に紹介しているのは、大乗仏教の百科事典のような性格を持つ『大智度論』に基づくと論じた長谷川誠氏の研究です。長谷川氏は、荘厳具に見られる表現に着目しており、大光背にレリーフ状に描かれた七体の化仏は、釈迦の舌から光明が放たれて化仏が生じ釈迦を荘厳したとする『大智度論』巻七・八に基づくと説いていました。

 また、宝珠についても、末法の世になると仏の舎利が宝珠に変化して人々を救済すると説く『大智度論』巻十の記述によるとします。浅井和春氏も、『大智度論』依拠説をさらに進め、銘文中の「法皇」は正法に基づいて統治する転輪聖王を法王とするのに当たるとし、中国の江南地方で盛んであった舎利信仰と転輪聖王信仰との関係に注意します。

 中野氏はこれらの指摘を評価しつつも、さらに重視しているのは、『法華経』の影響を強調した亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」(『仏教芸術』132号、1980年)です。亀田論文は、法隆寺の秘伝を伝える鎌倉時代の『古今目録抄』が、釈迦像の脇侍を薬王・薬上菩薩としているのは、『法華経』薬王菩薩本事品、妙音菩薩品などに基づくとし、薬王品では『法華経』を信仰する女性は死後に阿弥陀の極楽浄土に往生できるとあることを指摘しています。つまり、この二体の菩薩は、太子の生母と太子の后を表していると見るのです。

 そこで中野氏は、仏教受容期の日本における『法華経』の受容について検討し、大光背だけでなく脇侍菩薩の宝冠や台座などにも見える蓮華の意匠は、『大智度論』よりもむしろ『法華経』に基づくと論じます。脇侍菩薩本体は簡略な造形であるのに対し、脇侍菩薩の蓮華坐が「意識的に入念につくっている」(6頁)のは、薬王品では女人の往生者は「蓮華の中の宝座の上に生まれ」ると明言していることと関係があると見るのです。

 中野氏はさらに、このブログでも紹介した長岡龍作氏の論文が在銘像は願主の願いを成就するための積善行為だと論じたことを承け、こうした造形は、「王后・王子・諸臣等」など、女性を含めた願主たち自身の「浄土往生」の願いがこめられた図像であると推定します。

 このような議論は方向は正しいと思いますが、「浄土往生」という点を強調すると平安以後の浄土信仰になる恐れもありますね。重要なのは悟りを得て仏となることであって、浄土往生はそのための最も確実な階梯であるために重視されるというのが古代仏教の基本姿勢です。浄土に往生できたらそれで終り、ということではありません。

 むろん、生天思想はインドでも初期仏教以来、在家向けに説かれていましたし、中国・朝鮮でも常に盛んでしたが、銘文を見れば、願主たちの最終目標は「同趣菩提(ともに菩提[悟り]におもむく)」ことであり、しかも、自分たちと無数の人々がそうなることよう強く願われています。これこそが、浄土教が盛んになる前の大乗信仰でした。

 中野氏のこの論文は、私が本ブログで『大方便仏報恩経』に着目する以前に書かれたものですが、釈迦三尊像銘を扱う場合は、太子信仰だけを問題にするのではなく、太子と同時期に亡くなった「母王」と「王后」、すなわち太子の母と妻が銘文でいかに重視されているかに注意するという傾向は、この数年で定着しましたね。

厩戸は「うまやと」でなく「うまやべ」だとする説:井上薫「聖徳太子『異名』論」

2011年09月27日 | 論文・研究書紹介
 「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称のそれぞれの部分に関する諸論文を紹介する連載をしていましたが、「厩戸」については、太子が移り住んだ斑鳩の南は古代の牧場地帯であり、太子の伝承は馬と関係深いことに触れただけでした。その「厩戸」は、実は「厩の戸」ではないとする説があります。

 奈良朝仏教史で功績を挙げ、『日本書紀』編纂における道慈の役割を強調したことで名高い井上薫氏の一般向け解説、

井上薫「聖徳太子『異名』論--なぜさまざまな名をもつのか」
(『歴史読本』1996年12月号)

です。『歴史読本』は、歴史ファンを対象とした一般雑誌であって、珍説奇説やまったくの素人議論が目立つ一方で、第一線の研究者が力を入れて書いた記事もあり、内容は玉石混淆です。「聖徳太子『異名』論--なぜさまざまな名をもつのか」というタイトルは編集者がつけたものでしょうが、井上氏は「聖徳太子」「厩戸皇子」「東宮聖徳王」「上宮厩戸豊聡耳命」について解説しており、中でも「厩戸皇子」の解説には力が入ってますので、15年以上前のものですが、取り上げておきます。

 その記事では、まず家永三郎の研究を紹介しています。つまり、古代の皇族の名は地名か氏族名にちなんだものが多く、実際、『文徳実録』の「先朝の制は、皇子の生れる毎に乳母の姓を以て之の名と為す」とあるため、厩戸皇子の場合も、「厩戸部」といったものに由来するという主張です。

 ただ、これについては坂本太郎が、厩戸部という部民はなく、当時、馬の飼育にたずさわっていたのは馬飼部であると反論しています。そこで井上氏は、「厩戸」という氏族ではないかとし、岸俊男の論文、「日本における『戸』の源流」(『日本歴史』197号、 1964年10月)を援用します。

 岸論文では、飛鳥戸・史戸・他戸・楯戸その他、「戸(べ)」の字を含む17の氏族の例をあげ、それらは朝鮮からの渡来人系に限られており、大和・河内・和泉・摂津・武蔵・常陸・近江・美濃・越中・播磨・豊前にわたっていて定着は6世紀にさかのぼり、特に河内の高安郡と安宿郡に集中していることを明らかにしています。

 井上氏は、この論文に基づき、(イ)厩戸氏の女性が太子の乳母をつとめた、(ロ)厩戸氏が馬の飼育や調教などの技術で太子に仕え重く用いられた、のどちらかであるとし、後者を重視します。そして、敏達朝は皇室制度の整備が進み、官司制の発達が見られるため、馬と関係が深い厩戸皇子の名の「厩戸」は「うまやべ」なのだと説いています。

 その証拠の一つとして出しているのが、天平神護元年(765)に馬養造(うまかいのみやっこ)人上は、播磨国印南野に住んでいた祖先の牟射志は、よく馬を養ったため厩戸皇子に仕えて馬司の官人に任じられたのに、庚午年籍作成の際、祖先は誤って馬飼部に遍入されてしまっため、修正してほしいと申し出て許可されたという件です。井上氏は、これは太子の馬官が古来の伴造制の官司とは異なっていたことを示す例とするのです。他にいくつか挙げている証拠の一つは、渡来人である司馬達等は、名から見て馬をつかさどる職掌であって、その子孫は鞍作氏となっており、鞍作氏は蘇我氏だけでなく上宮王家とも関係が深かったという点です。

 その他、いくつかの論点に基づいて「厩戸」は「うまや(の)と」ではなく、「厩戸(うまやべ)氏」に由来するのであって、後にそれが忘れられるようになった結果、「馬小屋の戸のところで生まれた」などという伝説が生まれたとしています。

 厩戸皇子が馬および渡来系氏族と関係が深く、「厩戸」という名もその関連で付けられたことは確かでしょうが、「厩戸氏」という氏族が実際にいて用明天皇や上宮王家と関わっていたという早い時期の記録が残っていないのですから、論証としては弱いですね。

中世における聖徳太子信仰の見取り図: 阿部泰郎「聖徳太子の世界像」

2011年09月23日 | 聖徳太子信仰の歴史
 先日の藝林会聖徳太子シンポジウムでは、武田佐知子先生が広隆寺の裸形着衣太子像を中心として、太子像からうかがわれる太子信仰のあり方の変遷について論じられ、私も聖徳太子について考えるには、信仰史・研究史の検討が重要であることを強調しました。その信仰史のうち、中世の雑多な太子信仰全体を見通した講演が活字になりました。

 中世文書研究の鬼である阿部泰郎さんの、

阿部泰郎「聖徳太子の世界像--中世太子宗教テキスト体系の形成--」
(『日本宗教文化史研究』第15巻第1号、2011年7月)

です。

 現在でも砺波平野の真宗寺院である瑞泉寺では、大きな太子堂で夏に開かれる太子伝会において聖徳太子伝の絵解きが行われており、説法が終わると正面内陣の廚子の帳があげられ、幼い太子の像が礼拝されます。阿部さんは、その絵解きに出会い、また能や舞曲などの中世芸能にも太子が登場し、舞楽や猿楽の芸能者たちが太子を芸能の祖としていることなどをきっかけとして、中世文学の研究を始めたのでした。

 阿部さんは、寺院文献に対する文献学的な調査を進めるうちに、経論などばかりでなく、太子伝などを含む典籍全体を「宗教テクスト」としてとらえ、個々の文献を研究するだけでなく、そうした「宗教クスト」を総体として把握するようになっていきます。そうした中世宗教テクストの世界を最も体現しているのが「聖徳太子という存在」です。

 太子に関する歴史と伝説が重ねられ、太子伝の正典となったのが『聖徳太子伝暦』ですが、これを中心として、様々な伝説・信仰が新たに形成されていくと同時に、古典研究と同様の学問的営為として注釈が積み重ねられていきます。

 舎利は釈尊そのものでもある聖なる存在ですが、太子についても、奇跡的な誕生の際に右手に握って生まれてきたという舎利が崇拝され、釈迦の仏像が崇拝されるように、幼い姿の「南無太子像」を初めとする様々な太子像が作られ、信仰されるようになります。そうした太子信仰のあり方を、阿部さんは次のような図で示します。

 つまり、

 図像テクスト ←- -→ 文字テクスト

 礼                    儀
 拝  太子尊像   太子講式    礼
 ↑                     ↑
          舎 利 
 ↓                     ↓
 芸  太子絵伝   太子伝記    物
 能                     語

  解釈←---  ---→注釈

 この講演では、天台座主であって鎌倉初期に四天王寺の別当を兼ねた慈円、法隆寺の聖徳太子信仰を広めた慶政・顕真など、太子を信仰した個性的な宗教者に着目すると同時に、その慈円のもとで出家したと伝えられる親鸞とその門徒の太子信仰にも目を配り、寺の絵殿に描かれた障壁画や持ち運ばれて絵解きされた掛幅画の太子伝、和歌・今様なども含めた多様な太子宗教テクストの展開を追っています。

 太子と生身の善光寺如来との手紙のやりとりや、空海が太子廟に参籠して奇瑞を得たとする伝承が示すように、太子宗教テクストはどんどん複合化していきますが、秘伝を多く含むそうした太子宗教テクストを広める際、重要な役割を果たしたのは、磯長の太子廟や四天王寺や法隆寺その他、太子と関係深い聖地と拠点として全国を旅する念仏聖たちでした。

 上の図が示すように、こうした生動する太子宗教テクストの中心に「舎利」を置くのが阿部説の特徴です。この講演では触れられていませんが、玉虫厨子でも絵の中心は舎利でしたね。瑞泉寺の太子伝会と、その隣町の善徳寺で行われ南無太子像の開帳を含む「虫干法会」に「およそ三十年余り、ほぼ毎年恒例のように参って聴聞して」きた阿部さんは、太子信仰は「今も生きた文化の遺産であり、祀られ続け、その営みのうちに絶えず古えの記憶が蘇っている」ことを強調して、しめくくっています。

 この内容豊かな講演を読む人は、「聖徳太子は『憲法十七条』を作って『和』の思想を説き、中国と対等の外交を行った偉人である」といった太子観が、いかに近代的なものであるか、それでいて、微妙な形で中世の太子信仰とつながっている面もあるといった点について、考えさせられることでしょう。

「国書」書き換えの実例: 増田えりか「ラーマ1世の対清外交」

2011年09月20日 | 論文・研究書紹介
 推古朝における遣隋使に関しては、『隋書』が記す内容との不一致を初めとして不明な点が多く、中でも推古16年に帰国した小野妹子が「唐帝」から与えられた「書」を百済で盗まれたと申し立てたとする記事については、様々な推定がなされています。

 国書をめぐるこうした問題について考える際、きわめて示唆に富むのが、前回の河上論文が引用していた、

増田えりか「ラーマ1世の対清外交」
(『東南アジア--歴史と文化--』24、1995年6月)

です。近世のタイ・中国間の外交問題を扱った論文ですが、基本となる状況は遣隋使の頃とあまり変わらないでしょう。

 同論文では、タイのラーマ1世(在位:1782-1809)が清朝に送った国書をとりあげ、タイ側に残されている国書と中国側の記録とを比較しています。タイ側の資料は『ラーマ1世の中国に御下賜になった国書』という題名で1964年に刊行されており、タイ国王と清の皇帝の国書がともにタイ語で収められている由。

 それによれば、タイ側からは、(1)金の板にタイ語で書かれた国王の書:1通、(2)検査用に提出される使節名や貢物のリスト:1通、(3)財務卿書翰:3通、などが送られるものの、タイの研究者によれば、タイの使節が広東に着くと、その地の中国人総督は使節を受け入れ、旅の準備を整えるとともに、「タイの公式書簡の翻訳と、その内容を覚書の形に書き換え……そのためしばしば削除や、彼がふさわしいと思ったように書き換えることが行われた」(29頁)とか。

 使節が北京に到着すると、漢語に翻訳された国書は礼部を経て内閣に回され、更に皇帝に上奏されますが、広東の総督の段階ないしこの段階で、対等な国王同士のやりとりとして書かれていた国書が「上表文」の形に書き換えられます。つまり、漢訳された「上表文」が公式の国書とされる一方で、タイ側にとって最も重要な金葉の国書は「貢物」の一つとして漢語訳されたリストに記されてしまううえ、時には献上された後に鋳溶かされてしまった場合もあるとか。これは、梵語の貝葉などが中国にもたらされ、皇帝の命などによって漢訳されると、そちらが正式なものとなり、貝葉は寺の石室などに収められて利用できなくなってしまう(後で確かめて誤訳などを指摘できなくなる)のと、通じる点がありますね。

 しかも、この国書に答えて、清朝の皇帝が臣下であるタイ国王に下賜する上諭、敕諭は、軍機大臣が起草し、皇帝の承認を得て確定したと推定されますが、これがタイの通事と中国人通訳によってタイ語に翻訳されると、現在残っているタイ語の資料が示すように、対等の国王同士のやりとりに変わってしまうのです。

 興味深いのは、タイの国書の中に「chim kong」という語が見られることです。これは漢語「進貢」のタイの文字で発音表記したものだそうですが、敢えて翻訳せずに音写のまま用い、贈り物を送るという意味で使っているらしいとか。つまり、これによって、タイ側は対等の交流と主張することができ、中国側は「朝貢してきた」と受け取ることが可能になっています。

 漢語に訳されたタイの国書がタイ語の元版と異なっていたことは、漢文の上表文に改められた1784年のタイ国書を、当時、北京に赴いていた朝鮮使節が記録していることからも、知ることができます。それによると、タイ国王は清帝を讃え、自分は「不便な、海の果ての蛮夷のできたばかりの地におります。今、貢物を備えて来朝いたしましても、朝貢の儀式のやり方にのっとって行うのが誠に難しいのです」と述べていたとか。

 これは、誰がどの時点で改めたにせよ、辺地の国という点を強調し、中国周辺の朝貢国のような礼儀をとることができないと伝えていると見ることもできそうです。つまり、中国皇帝を尊敬し、贈り物をしますが、拝謁のために国王自ら都に赴いて臣下としての礼を尽くすことはできない(=属国として振る舞わない)ということを、へり下った言葉で述べていることになりますね。となれば、中国側としても、遠く離れた絶域の国なのだから、不十分な朝貢の形でもやむを得ないと大目に見てやる、という形をとることが可能でしょう。これは私の解釈ですが。

 面白いことに、増田氏は、こうした書き換えた形での国書のやりとりになっていることについて、「ラーマ1世も知っていたという可能性も否定することはできない。あるいは、清朝側に受け入れられることを意図した漢字表文が既にタイ側で用意されていた、ということもあり得ないとは言えない。もしそうであれば、清帝と対等な立場で書かれた国書は、タイ国内において、タイ国王としての立場を示すために書かれたものであり、臣としての立場を強調した漢字表文は、清朝に無事受理される為に書かれたものであるという解釈も成り立つだろう」(41頁)と述べています。

 では、推古朝の遣隋使の場合はどうであったのか。タイと同様、倭国の場合も、中国から遠く離れた絶域の国家という点が重要なのでしょうが、国家間の認識のズレやそれを隠した二重外交(国家同士、あるいは現場の使節による立場の使い分け)は、今も昔も変りないはずです。むろん、その辺をうまく調整できずにもめる場合も多かったことは、貞観5年に唐から派遣された高表仁が倭国の王子と礼を争い、朝命を伝えずに帰国したと『旧唐書』に記されている通りですが。

仏教色が濃い上表文:河上麻由子「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について」

2011年09月16日 | 論文・研究書紹介
 前回は、五胡十六国時代の「天王」を取り上げましたので、続く時代である南北朝期の上表に関する論文を紹介しておきます。

 聖徳太子関連では、『隋書』における倭国の上表文の記載と『日本書紀』の記事との矛盾が問題になりますが、史書というのは、それぞれ自分に都合良く編纂されるものですし、その元となった史料自体、自分側に都合良く書かれがちです。その点では、隋の国書のうち、「倭王」を「倭皇」などと書き換えておきながら「朝貢」という言葉を残してしまった『日本書紀』は、むしろ不利な記載も伝えている方だと言えそうです。

 その隋と倭国の国書のやりとりを考えるうえで参考になる研究を次々に発表しているのが、若手の河上麻由子さんです。そうした論文のうち、

「遣隋使と仏教」(『日本歴史』717号、2008年2月)

は有名であって、聖徳太子に関心のある人は必読であるため、今回は、同論文に続いて発表された、

「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について--南海諸国が奉った上表文の検討を中心に--」
(『史学雑誌』117編12号、2008年12月)

の方を紹介しておきます。

 この方面の先駆としては、鈴木中正「南海諸国から南朝の諸帝に送られた国書について」(鈴木俊教授還暦記念会編『東洋史論叢』、1964年)があります。この鈴木論文では、宋・斉・梁の三王朝に東南アジア・セイロン・インドなどの諸国が送り、皇帝を菩薩などと称して礼賛するなど仏教色の強い国書を検討していますが、国書中で自らを「臣」と称したり、中国皇帝に「五体投地」して礼拝しますなどと書かれていても、中国の藩属国になることを承認したとは限らず、外交上の修辞にすぎない場合もあることに注意しています。

 というのは、貿易を望む文章が続いたり、隣国の脅威に対して保護を願ったりすることがあるためであり、また、南海出身の仏教僧侶が中国で活動するのを保護してもらうなどの目的もあったと見るからです。むろん、中国は、こうした相手国を属国扱いしています。つまり、南海諸国では交易その他の関係を求めたのに対し、中国ではそれを下位の国による朝貢として受け止めたということです。

 河上論文は、これを承けてさらに詳しく検討し、いくつかの興味深い点を指摘しています。その一つは、こうした上表は、東晋や南北朝期に盛んであった「仏教的朝貢」の一つであったこと、時代も国も違うのに上表文に同じ表現がしばしば見られるのは、中国側の事情による面もあったことです。たとえば、こうした上表が最も盛んであった梁代の場合、「皇帝菩薩」「救世菩薩」として仏教を熱心に広めていた「武帝自身か梁内部の人物が、武帝の意図に沿うために、周辺諸国に対して仏教的朝貢に関する情報提供の働きかけを行っていた」(11頁)と見るのです。

 武帝が何度も捨身して寺の奴となり、臣下たちが寺に膨大な布施をして買い戻したことは有名であり、そうした捨身は師子国(セイロン)の影響であることが指摘されていますが、寺への捨身が終わって武帝が宮中に戻った日に、その師子国から武帝を讃える上表文が届けられたりしているのは、偶然にしては出来すぎていると河上さんは論じます。

 そして、仏教用語を乱発して中国皇帝と中国を讃えるそうした文章は、通交ルート上に位置する扶南あるいは南地の交州・広州といった場所にそうした仏教的上表文が保存され、それが後に利用された可能性が高いとします。河上論文では、国書を書くうえで必要な梵語と漢語を対比した工具書の存在なども推定しています。また、現地に長期間滞在して仲介役となった中国人の存在に注意しています。

 河上さんの指摘で特に重要なのは、中国と外交関係を結んだ東アジア諸国は中国王朝から冊封・徐授を受けるのが常であったのに対し、仏教色の濃い上表文を提出した南海諸国は、呵羅単国の1例を除けば、そうした冊封・徐授を受けていないという点です。つまり、南海諸国は、贈り物を送って朝貢し、何らかの要求をするものの、中国のそうした冊封体制に組み込まれたいとは明言しない仏教的な上表文を呈上していたのです。河上さんは、武帝にならって「菩薩国王」として仏教再興に努めた隋の文帝を対象とした倭国の遣使も仏教的朝貢の一つと見ており、このことは、「遣隋使と仏教」論文で論じられています。

 このように、仏教を軸として中国と対等な関係を結ぼうとする南海の仏教国側と、あくまでも下位の国からの朝貢とみなす中国とで見解が異なっている以上、国書をやりとりする場合はどう書けば良いのか。あるいは、どのように途中で改めることになるのかが問題になりります。この点について、河上論文は、近世のタイ国王が清朝の皇帝に送った対等の立場の国書が、北京では臣国からの上表文の形になっていたことに関する増田えりか氏の論文を参照していますので、次回は、その増田論文を紹介しましょう。

「天王」を手がかりとして「太子」について考えてみる: 内田昌功「東晋十六国における皇帝と天王」

2011年09月13日 | 論文・研究書紹介
 「上宮廐戸豊聡耳太子」のうち、「上宮」「廐戸」「豊聡耳」についてそれぞれ関連論文を紹介してきた以上、次は「太子」ということになります。これについては「天皇」や「皇太子」という称号と一緒に考える必要がありますが、その「天皇」に関しては、「大王→天皇」ではなく、「天王→天皇」とする説が一時はなかなか有力でした。
 
 中国では皇帝と王の中間に位置する天王という称号が五胡十六国時代に使われていたうえ、『日本書紀』雄略天皇五年秋七月条の分注では、『百済新撰』の引用の形で、百済の蓋鹵王が弟を大倭に派遣して「天王に侍らしむ」とあり、二十三年夏四月条の本文では、百済の文斤王が薨ずると倭国の天王は蓋鹵王の五人の子のうちの末多王を百済王とすべく兵士と武器と共に百済に送って東城王とさせた、という記事が見えるためです。後者も『百済新撰』などに基づく記事でしょうから、天王という称号は、すべて百済側が用いたものということになります。
(『書紀』における「天王」については、テキストの系統による異同もあるのですが、今回はその問題には触れません)

 「天王→天皇」論議は反対も多く、ややおさまっていましたが、中国における「天王」について検討し直した論文が最近いくつか出ており、その中でも詳細なのが、

内田昌功「東晋十六国における皇帝と天王」
(『史朋』41号、2008年12月)

です。

 同論文では、「天王」号を用いる背景には、実権を握る宗族が君主を支えつつ抑制する非漢族国家の特徴があることを指摘した中国史家の谷川道雄、四天王その他、仏教の天王の影響を重視する東洋史家の宮崎市定などの大家を初めとする研究者たちによる議論の過程をまず概説します。そして、実際には天下を統治する皇帝に近い場合もあれば、各地の王に近い場合もあり、状況は複雑だとしたうえで、天王号を用いたのは非漢族のみであることに注意します。

 興味深いのは、華北の大半を支配下に置いた石勒に対して、群臣が皇帝即位を要請すると、石勒はこれを固辞して330年に「趙天王」を名乗り、「皇帝事を行なう」とあるように実質的には皇帝として行動していたものの、祖父を宣王、父を元王、妻を「王后」、長子を「太子」と呼ぶなど、皇帝ではなく王としての呼称を守ったことです。ただし、337年に即位して「大趙天王」と名乗った石虎の例が示すように、「大~天王」を名乗った者たちの場合は性格が変わり、皇帝とは並立しないようになっていきます。

 一方、非漢族でも皇帝を名乗った者たちもいますが、こうした者たちは、それ以前に漢族国家である西晋や東晋から冊封を受けており、その上で晋の皇帝に代わって自ら皇帝として即位するという形をとっています。つまり、天王を称した国は、非漢族であって、漢や晋といった漢族の国家と直接の関係を持っていなかった国家ということになるのです。

 ただし、357年に(大秦)天王となった前秦の苻堅などは、天王号の権威が確立して国家が隆盛していたこともあってか、一貫して天王であり続け、皇帝になろうとはしていません。また、胡族の王者の伝統的呼称である(大)単于を君主が兼ねたり、皇太子や有力王族に任じさせたりすることもなくなります。つまり、この時期の天王は、胡族の最高実力者であると同時に、漢族たちを多く含む広大な領国の王者を兼ねる至高の称号たりえていたのです。

 このように天王号は、4世紀以来、1世紀強にわたって用いられてきたものの、五世紀になると姿を消し、再び皇帝という号が用いられるようになりますが、内田氏は、この「皇帝」は胡族はなれなかったかつての漢族国家の皇帝ではなく、「漢族と非漢族を一律に統治することのできる称号」(12頁)となっていたことを指摘しています。

 さて、このように内田論文を見てきて、『書紀』の「天王」表記に戻ると何が見えてくるか。高句麗では、「王」より上位の存在として「太王」という称号を用いていたことなども考慮すると、百済がある時期において倭国の君主を「天王」と称したことはあり得ることであって、倭国の君主が実際に「天王」を正式な称号として名乗った時期はなかったとしても、この天王という呼称が「天皇」という称号のきっかけとなった可能性はありそうに思われます。

 「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、推古紀の多くの個所で「皇太子」と呼ばれているのは、律令以後の潤色でしょうが、厩戸皇子を「太子」と呼んだ個所は、冒頭のこの個所以外では、厩戸皇子が没した際の高句麗の慧慈の言葉のみであることに注意すべきでしょう。

 皇帝・皇后・皇太子などは「こうてい」「こうごう」「こうたいし」であって「皇」は「こう」という漢音で呼ばれているのに対し、天皇の「皇」は「おう(わう)」であって、それ以前の発音によっているため、「天皇」の語は律令以前から定着していた可能性が高いことは、森田悌氏が注意された通りです。

 これは「太子」の場合も同様であって、律令によって「皇太子」が規定される以前の段階でも「太子」と呼ぶことはあり得たように思われます。少なくとも推古紀では、冒頭の「上宮厩戸豊聡耳太子」という名称を紹介した個所以外では、厩戸皇子のことを一貫して「皇太子」と称しておりながら、推古29年の薨去の記事、つまり高句麗の慧慈関連の記事だけが「上宮太子……太子……上宮太子……上宮太子」とあるように、集中して「太子」と呼んでいることが注目されます。あるいは、これは「天王」の語が百済系史料にのみ見られたように、朝鮮渡来系の僧侶たちの伝承に基づく史料によったことを示すのかもしれません。

金堂の見事な壁画は西域由来の最新描法による:有賀祥隆『法隆寺金堂壁画選』解説

2011年09月09日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の四壁を飾る壁画の原寸コロタイプ複製については、以前、このブログで紹介しました。大変な手間と技術によって昭和10年に撮影されたそのガラス乾板から直接にコロタイプ製版・印刷された図版が、6月に刊行されています。

「法隆寺金堂壁画撰」刊行会編『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』
(岩波書店、2011年、36,750円)

です。今回の出版は、いろいろな職人技の成果による工芸作品のようなものであって、値段もそれなりにしますので、私も図書館で拝見しました。

 仏・菩薩・飛天の顔の部分を原寸でコロタイプ印刷した7枚のうち、6枚はモノクロであり、傑作として知られる第6号壁の「阿弥陀如来左脇侍菩薩」像1枚は、世界初の多色刷コロタイプ印刷によるものであって、技術史から見ても画期的な労作です。薄い解説が付されており、東北大名誉教授の有賀祥隆氏と、復刻印刷を担当した京都の便利堂の鈴木巧氏が書いておられます。

 美術史の面を担当した有賀氏の解説では、金堂壁画の様式は、敦煌の莫高窟壁画(7世紀中頃から末葉)に求められるものの、敦煌の壁画に比べても明快で清冽な画風となっており、高い画格と確かな技術がうかがわれるとしています。おそらく、長安など中央画壇で、則天武后が君臨した周代(690-705)に活躍した西域系の画家、尉遅乙僧が得意とした「鉄線描や凹凸画法による西域画の作風が時をへだてず逸早く新しい表現方法として受容され、習得された結果」だというのが、有賀氏の判断です。

 金堂第一号壁の十大弟子のうち、若くて眉目秀麗な比丘の顔は、顔の輪郭を額・眉下・頬・小顎・おとがいの五個所で筆継ぎし、見事な描線で描いていますが、このように小顎で筆継ぎして描くのは、高松塚古墳の壁画や。唐の節愍太子墓(710年)東壁の像の表現と近い由。

 この他、壁画の面によって顔の描き方は異なっているものの、全般に西域の画法の影響が強いと指摘されています。唐代の長安でもてはやされた最新の異国風な描法が、まさに同時代の日本にもたらされたということです。

 問題は、こうした壁画の手本は、どの遣唐使の際に将来され、どのような経路で法隆寺にまで届けられたのか、またその手本に従って描けるだけの高度の技術を持った画工たちをどうやって確保したかということですね。再建時の法隆寺が国家からの支援をどの程度得ていたかについては、いろいろ議論があって決着を見ていませんが、上宮王家が滅亡した後、斑鳩の中小氏族だけで地元の工人たちを使って造営したとしたら、そのような最新の描法を用いた壁画作成が可能だったか。

 寄せ集めの木材で造られた金堂と違い、五重塔などは統一した上質の用材によって建立されたことが知られています。金堂の壁画は、そうした伽藍が整う和銅四年(711)頃には描き終わっていたと有賀氏も推測していますので、造営工事の最終時期の作と見てよいのでしょうが、この時期は、光明皇后などが天平7年(735)あたりから積極的に支援するようになる前です。あるいは、通説と異なり、壁画だけ作成時期が下がるのか。

 ただ、平城京を代表する興福寺にしても大安寺にしても、こうした見事な壁画で飾られていたとする記録がありません。壁画の焼けた破片が出土している鳥取県の上淀廃寺のように、白鳳時代には地方の寺でも壁画による荘厳がなされていた例がありますが、法隆寺金堂壁画のような質のものであったかどうか。

 あと一つ気になるのは、東アジアの仏教絵画を代表する傑作の一つである金堂の壁画と、絵のうまい子供が描いたような天寿国繍帳の素朴な絵柄との落差をどう考えるか、ということですね。

「トヨトミミ」の「ミミ」は聞く「耳」か:古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」

2011年09月06日 | 論文・研究書紹介
 「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称のうち、前々回は「上宮」、前回は「厩戸」を取り上げましたので、今回は「豊聡耳」です。関連論文を簡単に紹介しているだけですが、こういう調子でやっていると、推古紀の太子関連記事を読むだけで数年かかりそう……。

 さて、「豊聡耳」だけを主題とした論文は、えらく昔のものしかありません。

古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」
(『仏教史研究』1号、1949年9月)

です。60年ちょい前ですが、これ以後、まとめて論じたものがないため、これが最前線ということになります。

 しかも、この論文はなかなか面白い議論をしているのに、ほとんど注目されておらず、最近の太子関連の本や論文で引用されているのを見たことがありません。一刻一秒を争う理系の最新分野の論文と違い、文科系の学問では、こうした例は良く見られます。大正時代の論文が一番良いなどといった場合もたまにあるため、重要な事柄については、古い論文も確かめておいた方が安全です。

 さて、同論文では、「天寿国繍帳」に「等巳刀弥弥乃弥己等」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥已等」、同寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王」とあるため、「トヨトミミ」という呼び名が早くからあったことは間違いないものの、「御在世中に既にあつたか、どうかを確言することは出来ない」というところから話を始めます。

 そして、『古事記』『日本書紀』が「ミミ」に「耳」の字を当てているのは妥当かどうか、検討します。『書紀』の神代の巻に見える「~耳命」「~耳尊」「~耳神」などの「耳(ミミ)」が男性の尊称であることは、宣長『古事記伝』が指摘していうるえ、継体紀にも「耳皇子」という皇子がいるためです。「紀直の祖の豊耳」などという人物もいましすし。

 ところが、養老年間や大宝年間の戸籍になると、神や皇族、あるいは豪族の祖先などではなく、一般人の名や女性の名にも「耳」が用いられるようになり、元の意味が失われてしまっているため、「トヨトミミ」の「ミミ」を聴覚器官の「耳」に結びつけたのは、そのような時代だろうと推測するのです。用明天皇元年の分注に「更名豊耳聡聖徳、或名豊聡耳法大王」とあるのは、そうした混乱を示す例と同論文では見ています。

 そして、『書紀』の太子名由来譚は、『書紀』編者が創作したか、「太子伝」のようなものを材料としていたかについては、後者の可能性が高いとし、当然、僧侶の作であろうから、道慈か彼のような人物によって書かれたと見ることも出来ようとしています。そこで、あげるのが、『法華経』法師功徳品の次の個所です。

 持此法華者  悉皆得聞之
 三千大千界  内外諸音声
 下至阿鼻獄  上至有頂天
 皆聞其音声  而不壊耳根
 其耳聡利故  悉能分別知
 持是法花者  雖未得天耳
 但用所生耳  功已如是

 すなわちここに、『法華経』を誦持する者は「其耳聡利故(其の耳、聡利なるが故に)」悉く聞いて知る、ということが強調されている点に注目し、「書紀編者が太子の法華経講説と云ふことを念頭に置いて居つたことが知れよう」(33頁)とするのです。この個所は、一度に十人の話を聞いたという伝承の典拠とされている個所ですが、一般に知られている長沼賢海氏の指摘より、この古江論文の方が早いです。

 「耳聡」という個所が一致すること、『書紀』の分注では、「豊聡耳」より「豊耳聡」の方を先にあげているのは、興味深いですが、道慈帰国以前である712年に献上された『古事記』段階で「上宮之厩戸豊聡耳命」と称されているのですから、道慈創作説は成り立たないですね。

 その「上宮之厩戸豊聡耳命」といった最上級の敬称は、『古事記』の他の王子名には全く見えないこと、この時点で厩戸の神格化は相当に進んでいたことは、鎌田東二「聖徳太子の原像とその信仰」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』大和書房、2002年)が指摘していた通りです。

斑鳩の南は片岡と古代の牧場: 廣岡孝信「推古朝の『片岡』・馬見丘陵と王権の基盤」

2011年09月02日 | 論文・研究書紹介
 前回は、よく分からない「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称のうち、「上宮」を取り上げたため、今回は「厩戸」について考えてみます。その検討のための材料を提供してくれているのが、

廣岡孝信「推古朝の『片岡』・馬見丘陵と王権の基盤--奈良県馬見丘陵の飛鳥時代--」
(菅谷文則編『王権と武器と信仰』、同成社、2008年)

です。

 この論文では、斑鳩の南の地、すなわち大和川を北限とし、西は葛下川、東は高田川、南は高田川と葛下川で囲まれた地域を扱っています。つまり、現在では王子町・河合町・上牧町・広陵町・香芝町にまたがる一帯であって、古代の葛下郡・広瀬郡に含まれ、馬見丘陵と称される地域を中心としています。

 こうした地名から知られるように、中小の渡来系氏族が住んでいたこの地域には、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂など「馬」に関わる地名が広範囲にわたって広がっています。古代の牧があったことが推測されており、実際に5世紀代の木製の鞍も発掘されています。またいくつもの瓦窯跡が発見されています。

 一方、「片岡」というのはどの範囲を指すのかは、はっきりしていませんが、この地域の西北端に片岡王寺、片岡神社、片岡馬坂陵があり、またそれに隣接して、厩戸皇子が出会った飢人は実は達摩であって、その達摩を葬ったという後代の伝承を持つ達摩寺があります。片岡王寺も厩戸皇子信仰と関係深かったことは有名です。この近辺には西安寺もあります。

 この地域の北東には、長林寺(長倉寺)のように7世紀前半の創建、7世紀後半の伽藍完成が知られる寺もあり、しかもここは法隆寺式軒瓦です。他にも南西の地域からは片岡王寺式の軒瓦が出土することから見て、飛鳥時代の寺院があったことが推定されています。

 つまり、大和川をはさんで斑鳩の南に位置するこの地域には、7世紀初めから前半に創建された寺が四寺以上、存在していたのであって、大和国内では、飛鳥・斑鳩に次いで早くから仏教が盛んであった土地ということになるのことに廣岡氏は注意します。仏教が盛んな地域は、治水も盛んであるのが常ですが、この地域では同時代の治水関連遺構が発見されており、推古朝の池溝開発と仏教流布は並行していたことになります。廣岡氏は「軍馬・兵糧の確保」という点にも触れています。

 この地域の中心部に位置する牧野古墳は、敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子の墓とする説が有力視されており、この地には敏達天皇系王族が進出しています。その系統の高市皇子から長屋王へと家産が継承されたことが知られていますが、長屋王は「片岡」の御園から種々の産物を供給されていたことを示す木簡が長屋王邸から出ています。その意味では、長屋王は「片岡」を介して厩戸皇子と縁があることになります。

 ただ、片岡王寺と厩戸皇子や法隆寺との関係、また厩戸皇子の娘に片岡女王がいることを考えると、敏達天皇系統だけでなく、厩戸皇子やその系統も多少はこの地に勢力を持っており、やがて敏達天皇系王族に代わられていったということも考えられるかもしれません。

 そこで、肝心な「厩戸」の由来の問題です。王族の名は、養育に関わった氏族の名からとられることことが多いことを考えると、厩戸皇子の娘には、「片岡女王」だけでなく、「馬屋古女王」もいた(『法王帝説』)ことが注目されます。となれば、廐戸皇子自身についても、実際に「馬」に関する氏族や地名に由来を求める方が、景教の影響など持ち出すよりは可能性がありそうに思われます。ただ、厩戸が斑鳩に居住するようになったのは成人してからなので、さてどうでしょうか。関心深い牧の確保、大和川の水運と近くの土地の確保ということで、つながるかどうか。
コメント (2)