聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

津田左右吉を不敬罪で告発した蓑田胸喜とその仲間たち:中島岳志「『原理日本』と聖徳太子」

2022年06月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 7月9日に早稲田大学で開催される聖徳太子シンポジウム(こちら)では、太子の事績を疑った津田左右吉の誤りと慧眼について語る予定です。

 それはともかく、津田左右吉を不敬罪で告発した連中については、論文を何本か書きましたが(最初の論文は、こちら)、考えてみたら、私が監修した論文集でも、売れっ子の中島岳志さんがこの問題を論じており、紹介していないままでした。

中島岳志「『原理日本』と聖徳太子ー井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心としてー」

(石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年)

です。

 中島さんは、『親鸞と日本主義』(新潮社、2017年)で、親鸞崇拝の超国家主義者が登場したのは、親鸞の思想自体にそうした主張を生み出す余地があったからだと論じて衝撃を与えました。その影響は極めて大きく、上記の論文集のうちの多くの論文が、この本に触れています。新たな視点を提示した意義を認めたうえで同書の問題点を指摘した斎藤公太「本居宣長の日本主義ー曉烏敏による思想解釈を通してー」も、この論文集に収録されています。

 さて、中島さんは上記の論文では、三井甲之が一高時代に神経衰弱となり、真宗の近角常観が説教していた求道学舎に通い、親鸞の思想に傾倒していったことから話を始めます。東大国文を出た歌人であった三井は、正岡子規の後継となる和歌の雑誌を編纂するうちに国家主義に染まり、また親鸞と聖徳太子への崇拝を強めるようになり、和歌雑誌でありながら国家主義的な主張を打ち出す『人生と表現』を刊行したのです。

 ここに集まってきた1人が、『人生と表現』に寄稿していた木村卯之の言葉に感動した真宗大谷派の僧、井上右近(1891-?)でした。京都で出逢って木村と交流するようになった井上は、木村が東京勤務となったのを追いかけるように東大に入って宗教学を学びます。木村卯之は、南無阿弥陀仏に代えて「南無日本」と唱えるべきだと説いた人物であることは、私が以前紹介しました(こちら)。

 井上は、東大法学部から文学部に移ってきていた蓑田に影響を与え、蓑田は強烈な超国家主義者となっていきます。

 井上は、1919年に京都に戻って真宗大谷大学で教えるようになりますが、大谷大学が『仏教研究』を刊行すると、日本精神から逸脱していると思われた者たちを激しく攻撃する文章を、同誌に載せるようになります。ただ、大学はまもまく辞職し、枝葉村塾という私塾を開いて若者の指導を始めました。

 この井上に出逢い、三井や蓑田の影響も受けつつ聖徳太子研究に打ち込むようになったのが、黒上正一郎(1900-1930)です。黒上は、聖徳太子が物部氏から仏教を守ろうとしたことを踏まえ、国民精神をそこなう敵たちに対する「永久思想戦」の必要を説き、親鸞はこの太子の立場を継いだと論じるようなりました。

 黒上は若くして亡くなりますが、三経義疏に関する熱烈な解釈は、没後に『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』として刊行され、この仲間たちに大きな影響を与えます(この点については、このブログでも紹介しました。こちら)。

 井上はこれらの人々をつなぐ重要な役割を果たしていたのですが、これまで詳しい研究はなされておらず、中島さんのこの論文がその取り組みの最初です。

 さて、井上は、太子の「世間虚仮、唯仏是真」を「国際世間虚仮、唯日本是真」と言い換えた木村卯之の路線に従い、「社会虚仮、唯真是祖国」と称して次々に太子関連の著作を刊行してゆきます。「祖国」という点を強調するのは、三井の影響ですね。

 井上によれば、太子の仏教のみが大地に根付いた仏教なのであって、インドや中国の仏教は大地を忘れて空ばかり見上げる「亡国的思想」だとし、その日本の正しい仏教とは、天皇への「随順」であるとします。国民を貴賎に関係なく平等に結びつけ、国体そのものである「同一宗教的生命に融会」せしめるのが天皇の「大御心」であるとして、それを妨げる者たちを攻撃する「戦闘的人生観」を説くのです。

 現実の天皇はそうした仏教信仰は持っていませんが、国体尊重、「南無日本」の彼らにとっては、現実の天皇の考えなどどうでもよく、自分たちの理想を体現する存在とみなされるだけなのですね。

 こうした思想を背景として、原理日本社の中心となって『原理日本』を編纂刊行し、思想的な敵とみなした者たちを罵倒攻撃するばかりか、時には告発までして大学などから追放していったのが、蓑田胸喜(1894-1946)でした。蓑田は他の仲間たちと同様、「自力のはからい」を捨て、現実の社会に生きた親鸞を釈尊よりも上位に置き、その先駆が聖徳太子だとするのです。

 中島さんは、「蓑田にとって、民主主義とは国民の平等な合一化である。それは皇化による融合によって成し遂げられる」とし、これこそが親鸞の説く「自然法爾」の世界だったと説きます。彼らは、「民族共同体の中に「融合」することで、疎外感を克服しようとした」とするのです。

 つまり、原理日本社は民主主義者や自由主義者を激しく攻撃したものの、自分たちこそが天皇のもとでの民の真の平等を目指す者だと考えていたとするのですね。また、中島さんは、そうした蓑田は、しばしばスピノザを引用するとし、「神即自然」を説いて一元的汎神論を説いたスピノザと蓑田との意外な共通点に注目します。

 これは重要な指摘ですね。三井は、民族心理を探求したドイツのヴントを高く評価していましたし、「ドイツ国民に告ぐ」を著してドイツ語の意義を強調したフィヒテも尊重していました。ナショナリズムは、実は海外の影響を受けている場合が多いのです。

 この中島論文のもう一つの特徴は、上記の人々が手紙と和歌雑誌への投稿を通じて一体感を得ていたことに注意している点です。不安な世相の中で、人とのつながりを得て同志として共感しあうという点が彼らの結びつきを強め、思想の敵たちに対する一体となっての攻撃に駆り立てたのです。

 それにしても、聖徳太子は本当に「自分の願望を投影しやすい存在」であるということを、改めて痛感させられますね。


津田左右吉が憲法十七条や三経義疏を疑った背景:大井健輔『津田左右吉、大日本帝国との対決』

2021年07月12日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 「憲法十七条」の聖徳太子撰述を疑った最初は、江戸の狩谷掖斎であって、近代になってこれを推し進めたのは津田左右吉であることは、良く知られています。

 津田は、『日本書紀』の神話や伝説には中国文献を切り貼りして作った部分や、後になって机上で創作した部分が多いことを指摘し、聖徳太子の事績も疑いました。その結果、このブログの「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」コーナーで紹介している熱狂的な聖徳太子礼賛者である国家主義者たちによって非難攻撃され、起訴までされて裁判となり、大学をやめざるをえなくなったのです。

 その津田のことを、津田裁判と戦後の主張を詳細に検討することによって、時世に流されない学者、「真の愛国者」として描いたのが、

大井健輔 『津田左右吉、大日本帝国との対決ー天皇の軍服を脱がせた男』
(勉誠出版、1915年)

です。大井氏は、ハノイ在住の若い日本思想史家であって、日本の大学や研究所などに属していないためか、この本の書評は書かれていないようです。

 私は、ベトナム仏教研究者でもあり、ベトナム独自の文字である字喃(チュノム)とダラニの音写文字の関係を指摘した論文がベトナム語に訳されたことがきっかけで、ハノイ大学に招かれて日本文化について集中講義したこともあるため、ハノイ在住を選んでその地から日本の思想について考えている大井氏には何となく親しみを感じます。

 国内で考える日本と外から見る日本は大きく違います。私が社会判断の手本として仰いできた中江丑吉は、北京の地から日本の動向を見つめ続けた人物でした(こちら)。

 さて、津田は上記のように記紀の神話を大胆に疑ったのですが、実際は明治人らしいナショナリストであって、皇室に対する強い敬愛の念を持っていました。ただ、日本の皇室は他の東西の多くの国と違い、武力で征服して王となったのではなく、また圧政をしいて民衆に恨まれ反乱を起こされることなどなく、親しまれ愛されてきたと考えていたのです。

 このため、天照大神の天壌無窮の詔勅を日本の国体の根本とし、東征をおこなったとされる神武天皇に始まる皇室の伝統を強調して、天皇のことを軍隊を率いる「大元帥陛下」に仕立て、軍国主義を推し進めようとする傾向に早くから反対していました。

 大井氏は、その点について、裁判時の津田の言葉、「虚偽なことに依つて日本の皇室の起源が語られて居ると云ふことは、これはただ知識の上において疑ひを抱かしめるのみならず、もつと深いところにおいて人心を不安ならしめるものと私は考えました」という言葉に注目しています。中国文献を切り貼りして机上で作られた「虚偽」の神話を疑うべからざるものとして押しつけるのは、日本人に日本人としての本当の自信を与えることにならないというのです。

 さらに津田は、日本の文化は独自であって、インドや中国とは文化がまったく異なるため、東洋文化などとひとくくりにするのは誤りだと説いた『支那思想と日本』を、昭和13年(1938)に一般の人が手にしやすい岩波新書の形で刊行しました。
 
 この時期は、精神的・道徳的な文化を共有する東洋諸国を、東洋文化の精華を誇る大日本帝国が領導して西洋列強諸国と対決するのだと称して進められていた日中戦争のさなかの時期にほかなりません。まさに、国策を批判する勇気ある著作です。こうした姿勢が聖徳太子を尊崇する狂信的な国家主義者たちの怒りを買ったのです。

 津田は、このように大胆な時局批判をおこない、裁判においても自説をまったく曲げませんでした。大井氏は、陪席判事として裁判にあたった山下判事が、戦後になって津田について述べた言葉を紹介しています。

立派な人であつた。温厚篤学というのが、同氏の全体から受ける印象であるが、しかしまた、真理の探究のための勇気と気概にも燃えており、どうしてこうした人が刑事被告人として、われらの前に立たされたのかと、慨嘆したことであつた。

 津田は、皇室に対する不敬罪で告発されたものの、そうした意図はないが結果的に皇室の尊厳をそこなうことになったということで、出版法違反の罪に問われました。

 その結果、非公開でおこなわれたこの裁判は、こんこんと語る津田の講義のような形で長らく続いたうえ、昭和19年(1944)に「時効完成により免訴」ということになりました。要するに、裁判所側は結論を出さずに寝かしておき、うやむやのうちに終わらせたのです。

 ただ、津田は記紀の神話・伝承を政治的な創作と見て史実ではないと主張し続けましたが、大井氏が注意しているように、そうして創作された内容を「物語」とみなし、「物語」はそれを作り出した人々の心情・特性を反映しているとして、その価値を認めていました。中国の単純な模倣や明らかに政治的な作為は好まなかったものの、民衆の生活・心情が反映したような「物語」については重視していたのです。

 また、天皇制を擁護したとはいえ、津田は「愛国、愛国」と騒ぎたてて実際には日本を危うくするような狂信的な天皇崇拝者を嫌っていました。津田は大正15年の段階で、「我々は皇室の仁政のおかげによつて、即ちおなさけによつて生活してゐるとは思はぬ。我々は我々自身で、我々の自分の力、我々の独立の意志で生活してゐる。またしようとしている」と言い切っています。

 皇室については、無闇にあがめたてるのではなく、あくまでも国民団結の中心点であったというところに意義を見いだしていたのです。津田の皇室観は史実とは異なる点もありますが、皇室崇拝を進めようとする政府とそれに乗ってあおっていた人たちへの反発として評価する必要があるでしょう。

 ところが、戦後、マルクス主義が盛んになって天皇制否定の動きが出てくると、津田は、学会の指導的な立場についてもらおうとした左派の知識人たちの期待を裏切り、意外にも天皇制擁護を強く打ち出し、左派を攻撃し始めます。

 その結果、『古事記』『日本書紀』を批判的に検討する研究方法は史学に大きな影響を与えたものの、左派からは厳しく批判されるようになったのです。津田の著作から大きな影響を受けた家永三郎なども、戦後は津田の天皇制擁護の主張を思想的後退と見て批判的に検討した本を出しています。実際、津田自身も意見を多少変えている場合がありますが。

 その津田については、私は傑出した東洋学者として早くから尊敬してきました。そもそも私が学んだのは、津田が創設した早稲田大学の東洋哲学研究室であり、津田だけを手本としてきたわけではありませんが、津田を含め、幸田露伴、南方熊楠、内藤湖南のような東洋の文学・歴史に通じた学者になりたいと願ってきたのです。

 平安文学研究をしていた関係で、最初に読んだのは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』、大学院の東洋哲学専攻に入ってからきちんと読んだのは必読書とみなされていた『道家の思想とその開展』であって、記紀研究を読んだのは博士課程になってからです。

 ただ、東洋全般、それも古代から近代にまでわたる津田の学問の幅広さに感嘆し、記紀神話を大胆に批判する論調に共感しつつも、国民文学論・皇室論・アジア認識その他個別の主張については反対することが多く、それを口にしていたため、「津田先生、津田先生」と持ち上げるばかりであった研究室の先輩たちの顰蹙を買っていました。

 しかし、私は津田を尊敬するのであれば、通説を大胆に疑った津田の学問姿勢をこそ学んで津田説そのものを批判すべきだと考え、論文でも「憲法十七条」と三経義疏は推古朝の作である可能性が高いと論じて津田説に反対してきたのです。

 大井氏は、近代日本思想が専門であるため、津田が訴えられるきっかけの一つであった聖徳太子事績批判などについてはほとんど触れていませんが、津田が「憲法十七条」や三経義疏を疑ったのも、上で述べてきたような背景によるものです。聖徳太子については、様々な伝説を否定して太子の真の姿を描きだすべきだというのが津田の立場でした。単純な「いなかった説」ではありません。

 その「憲法十七条」と『勝鬘経』講経(『勝鬘経義疏』他の三経義疏)、遣隋使について、私は最近、太子の仕事であることの確実な証拠を発見して津田説をひっくり返すに至りました(『駒澤大学仏教学部論集』第52号に掲載予定)。「憲法十七条」については、校注本と一般向けの解説本別々の出版社から出すことになっています。ただ、近代史学を推進した津田の功績は不滅であって、今回批判したのは津田の仕事の一部にすぎません。

 「憲法十七条」や三経義疏、さらには隋との外交も聖徳太子の仕事とみなして良いとする今回の私の発見が広く知られるようになると、聖徳太子礼賛が盛んとなり、津田が懸念していたような事態がまた起きる可能性があります。

 記紀の神話を復活させ、聖徳太子を戦前のような形で持ちあげて国家主義に利用しようとする傾向には、神話に基づく国家主義・軍国主義を日本を破滅させるものとして批判した津田と同様に、粘り強く警告してゆきたいと考えています。

 津田については、同じ勉誠出版から、新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』ー津田左右吉を読みなおす』(2011年)も出されていて有益ですが、こちらと違って大井氏のこの本は書評が書かれていないのが残念です。なお、大井健輔はペンネームであって、論文については本名の「児玉友春」で書いており、CiNiiなどで検索することができます。

「蓑田狂気」と呼ばれた蓑田胸喜の思想史的位置

2010年11月23日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 津田左右吉攻撃といえば、その代表は津田が「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子製作を疑うなど『日本書紀』に対して文献批判的研究を行なったことに激高し、不敬罪で告発して裁判にまでもっていった原理日本社の蓑田胸喜(1894-1946)です。

 蓑田たちの津田攻撃については、「津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち」において大山説批判とからめて簡単に紹介しておきましたが、昭和思想史における蓑田の位置づけに関するわかりやすい解説が出ました。

植村和秀『昭和の思想』
(講談社選書メチエ483、講談社、2010年11月、1500円)

です。

 既に『「日本」への問いをめぐる闘争--京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)という研究書を著している植村さんは、昭和の思想を論じるには「右翼」対「左翼」といった図式では不十分であるとし、次のような構図を想定します。

             西田幾多郎
                /
    丸山真男 --------- 平泉澄
              /
            蓑田胸喜

 横は「理の軸」であって、政治志向で論理的な人たちです。縦は「気の軸」であって、根源を求め仏教に親和的であり、近代的でない面を持ち、戦略的な政治行動などは不向きとします。

 つまり、左翼知識人の代表のように思われがちな法学部の丸山と、皇国史観を構築して大きな影響を与えた国史学の平泉は、西洋の学問に基づく近代的で明晰な思考法や政治主体を重視する行動様式が似ており、一方、西田やその門下たちにも攻撃の刃を向けていた蓑田は、実際には西田と同様に「東アジア的」であって共通する面があるとするのです。

 縦の軸では、西田がいる上部が創造的、蓑田のいる下部は否定的とされます。西田は苦闘しつつ東西を統合した新たな思想を生み出そうとしますが、聖徳太子と親鸞を礼讃しつつ「原理日本」を絶叫する蓑田は、激しい表現を用いた攻撃文書をまき散らし、軍部や貴族院などにまで働きかけて狙った相手を大学から追放するなど、異様なエネルギーで活動したものの、ひたすら罵詈讒謗を加えるばかりであって、長期にわたる見通しや冷静な戦略などはないのです。これは、西田が社会に関心を持ちつつも、思弁的すぎたため、政治に対して現実的な働きかけができなかったのと同様とされます。

 植村さんは、国体に反すると思われた教授達を猛烈に攻撃しまくった蓑田について、その旧友であった細川隆元の思い出を紹介しています。新聞記者であった細川が、「では一体政治や経済を何うすればよいのか」と尋ねると、蓑田は「叩くんだ、ただ叩くんだ。悪いものを叩けば必ずいいものほんたうのものが生まれるにきまっている」と答え、具体的な政治状況について話そうとすると、蓑田は「そんな実際政治の内幕などどうでもいいですよ、原理日本に徹しなければ何事も駄目ですネ。みんな馬鹿許[ばか]りですよ。だから僕は悪いものを叩くんです」と言うのみだったそうです。

 こうしたほとんど宗教的な思考法は、今でも一部の人たちに見られますが、これだと全面否定か全面肯定しかありえませんので、このような人たちは虚々実々の粘り強い駆け引きを必要とする外交などには向きませんし、聖徳太子関連の個々の記述や文物について、是々非々で厳密に検討するのも無理ですね。実際、蓑田は聖徳太子については、仲間である井上右近や黒上正一郎などの礼讃解釈を感激して引くばかりで、自分独自の解釈はありませんでした。

戦前・戦中に文部省や教学局等が刊行した聖徳太子関係の小冊子(2)

2010年08月17日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 先の記事(こちら)で、「あと1冊か2冊あったように思うのですが、見あたりません」と書いたところ、1冊出てきました。聖徳太子関連のコーナーではなく、隣部屋の近代国家主義関連コーナーに置いてありました。もう1冊くらい、どこかにあるかもしれません。見つけたのは、

 花山信勝『日本の仏教』(教学局編纂、国体の本義解説叢書、内閣印刷局、昭和17年5月、販売所:内閣印刷局発行課・全国各地官報販売所・全国各地主要書店、定価二十銭)

です。またしても、またしても花山信勝です。「本編は東京帝国大学助教授花山信勝氏に委嘱して執筆を煩はしたものである。 昭和十七年三月 教学局」とあります。三経義疏研究を一生の使命とした花山の著作ですので、当然ながら聖徳太子に関する記述が多く、全体の四分の一ほどを占めてます。この時期の特徴である最上級の敬語を用いて太子の仏教を礼讃しています。

 この本が「国体の本義解説叢書」として刊行されていることを見れば、教学局や文部省がどれほど聖徳太子を日本の「国体」なるものと重ね合わせてとらえていたか、東京帝国大学印度哲学科の日本仏教担当であった花山信勝がいかにその意向に応えていたかが、良くわかりますね。

 ただ、花山は、原理日本社のように、津田左右吉を激しく論難することはありませんでした。津田などの批判に応えるため、全力をあげて三経義疏の太子撰述を学問的に論証すべく一生を捧げたと言うべきでしょうか。そこら辺はさすがに文献学者です。ただ、時流に流される面があり、戦時中はやはり軍国主義に引き寄せた三経義疏解釈を説いて太子礼讃に努めていました。

 そうした人物である以上、当然のことながら、時流が変われば太子の意義付けも変化します。花山信勝校訳『勝鬘経義疏』(吉川弘文館、1977年)の「はしがき」では、

 終戦の詔勅によって、明治以来の武の日本が崩壊した。新しい日本の基盤は文でなければならぬと考えた。そこで終戦の翌日から、わたしはわが国最初の著書である勝鬘経義疏の校訳に微力を傾倒し始めた。三ケ月の後に終わり、原稿を岩波書店の当時の主人である岩波茂雄氏のもとに持参した。東都はほとんど壊滅して印刷所もなければ、紙もない。しかしあなたの趣旨は了承したから、何とかしましょう、との返事であった(1頁)

とあります。戦時中は日本精神の宣揚、「国体の本義」発揚のために聖徳太子の意義を説いていたものが、終戦の翌日(!)から文化日本の建設のために、文化国家日本の象徴と思われた『勝鬘経義疏』の校訂と訓読に打ち込んだのであって、常に真面目なのです。そして、完成すると、5年前に津田事件で起訴された岩波書店主に出版を依頼し、岩波はそれを了承したのです。岩波書店は、戦争末期の昭和19年に、花山の『勝鬘經義疏の上宮王撰に関する研究』を刊行していました。『勝鬘経義疏』の校訳は、昭和23年8月に岩波文庫として刊行されています。

 上記の吉川弘文館版は、藤枝先生らの敦煌本研究を踏まえたうえで岩波文庫版を補訂したものであり、訓読に少々問題があるものの、長年読んできた花山ならではの訓読と注記がなされているうえ、末尾に宝治版の写真版もそのまま掲載されており、『勝鬘経義疏』研究には必須の本です。

戦前・戦中に文部省や教学局等が刊行した聖徳太子関係の小冊子

2010年08月13日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 今回は、国家主義的な聖徳太子礼讃者の一例として、文部省を取り上げてみます。

 昭和10年代になって国家主義が強まると、神道系国家主義者による仏教攻撃が激しくなります。仏教などは外国の教えであって、神国日本には不用だとする議論です。

 これに対して、仏教界は聖徳太子を持ち出し、必死になって防戦に努めました。日本では、皇太子である聖徳太子が仏教を盛んにしたうえ、「憲法十七条」では天皇の命令に必ず従うよう命じていることが示すように、日本仏教はもともと皇室と縁が深く、出世間をめざす他国の仏教と違って、国家と一体になった独自の大乗仏教であったのだ、と強調したのです。

 文部省やその外局であって後に文部省内に吸収された教学局も、聖徳太子尊重でした。文部省は青少年の間に社会主義や自由主義が広まることを恐れ、国家主義教育に全力をあげていたものの、近代的な科学を推進して軍事力を高めなければならない立場としては、海外の文化や技術の取り入れをすべて否定する極端な排外主義に賛同するわけにはいかなかったのでしょう。

 そこで、文部省や教学局は、昭和10年代になると、聖徳太子に関する国家主義的な小冊子を次々に刊行し始めました。現在、手元にあるものだけ並べると、以下のようになります(あと1冊か2冊あったように思うのですが、見あたりません)。実際には、表紙に「文部省」とか「教学局編纂」などとあるのみで執筆者の名が印刷されておらず、前書きのところで「本篇は、広島文理科大学講師国民精神文化研究所嘱託金子大栄氏に委嘱し、執筆を煩したものである」などと記しているだけの場合も含まれていますが、以下では執筆者の名前を先に出しておきます。昭和15年の夏から秋にかけて3冊続けて刊行されているのは、津田左右吉事件を意識してのことでしょう。

1.辻善之助『聖徳太子十七條憲法』(日本思想叢書 第1編、文部省社会教育局、 昭和6年3月)  

 *日本仏教史の大家であった辻の詳細な解説、本文、簡単な注記から成っており、割とおだやかなものです。

2.花山信勝『聖徳太子と日本文化』(文部省思想局編、日本精神叢書、日本文化協会出版部、昭和12年2月)

 *この本の末尾では、明治以後、すぐれた研究をした人々の名を列挙していますが、聖徳太子の事跡をかなり否定した津田左右吉の名はあげられていません。

3.佐伯定胤『十七条憲法と大乗仏教』(教学叢書第六輯、教学局、昭和14年3月)

 *法隆寺管長で、性相学の大家であった佐伯定胤の解説です。もちろん、国家主義的な太子礼讃ですが、仏教的な解釈の部分はさすがにしっかりしています。以上の3冊は、いずれも大きめの版で大きめの活字で刊行されています。

4.白井成允『聖徳太子の十七条憲法』(文部省教学局編纂、日本精神叢書(二十五)、印刷局、 昭15年8月)

 *京城大学教授であって、聖徳太子礼讃専門の人です。

5.金子大栄『三経義疏と日本仏教』(教学局編纂、日本精神叢書(四十四)、内閣印刷局、 昭15年9月)

 *東大出身でない金子大栄が加わっているのは、大栄がこの少し前から国家主義色を強めており、文部省のシンクタンク的存在であった国民精神文化研究所の嘱託となっていたためでしょう。大栄は、「太子の出現に依りて、仏教は異国のものでないことが証明されたのである」(11頁)、「太子は神の子孫に在す限り、その御言行が悉く神ながらの道の顕現であることを何うして拒むことが出来よう」と述べ、「篤敬三宝」と説く「憲法十七条」も「悉く神ながらの道である」(13-14頁)と断言しています。
 
 大栄は、さらに、「真宗の教こそ全面的に国家理念と思ひ合はすべきものといふを得るであらう」(104頁)と述べるにまで至っており、法然および親鸞を含むその弟子たちを流刑に処したことについて、「主上臣下、法に背き義に違い」と評した親鸞とは別の道を歩んでいます。大栄のように、すぐれた仏教学者であって、信仰の深さによって敬愛されていた真宗の僧が、これほど簡単に時流に流されてしまうのは、恐ろしいほどです。真宗では、真宗の改革運動に打ち込んだ真面目な信仰者からこうした国家主義者に転じた人が何人も出ています。

6.花山信勝『聖徳太子と日本文化』(教学局編纂、日本精神叢書(三)、日本文化協会、昭15年10月)  
 
 *先に刊行されたものとほぼ同じですが、この頃になると、物資不足になってきたためか、文庫本の形式であり、紙質もかなり落ちてます。日本精神叢書を文庫本型にしたのは、岩波文庫に対抗しようとしたのかもしれません。原理日本社では、津田左右吉攻撃の際は、岩波書店攻撃も盛んにやっており、岩波茂雄も津田とともに起訴されています。

 これ以外に、文部省教学局編の「日本諸学研究報告」シリーズの歴史学篇などにも、聖徳太子関連の論文が載っており、津田左右吉に続いて聖徳太子の批判的研究を行った小倉豊文も書いています。ただ、小倉は、「大東亜新秩序の建設」を使命として聖徳太子を礼讃しつつも、史料批判の必要性を強調して史実と伝承の区別に努め、学問の自立を守ろうとしていたため、別にとりあげることにします。

【8月14日 追記】

文部省や教学局が津田左右吉事件を強く意識していたことは、

武内義雄『支那思想と日本』(教学叢書第十一輯、教学局、昭和16年9月)

からも伺われます。すなわち、原理日本社の攻撃のきっかけとなった津田の『支那思想と日本』(岩波新書、昭和13年11月)とまったく同じ名の本を出したわけです。当時、東北帝大教授であった武内義雄のこの本は、学術的かつ穏健な内容であってむやみに愛国主義をあおるようなことはしていません。ただ、末尾で、

 日本も最初は漢唐の儒教をとり入れ、後に宋明の儒教に改めたが、いつも支那思想を鵜呑みにするやうなことがなく、日本の独自性が発揮せられてゐ る。さうして支那儒教と日本儒教とを比較考究することいよつて吾人は支那と日本との共通性と特異点を明瞭に認めることができる。(27頁)

と述べられているのを見ると、日本は最初は模倣ばかりであって、以後も儒教受容も表面的なものにとどまっており、中国と日本は文化が違うため、儒教は真の意味では日本に影響を与えていないとする津田説を批判するために、教学局が、中国思想研究の代表者の一人で津田とはかなり学説が異なっていた武内義雄に執筆を委嘱したことが 推測されます。





津田左右吉を批判した旧式の英語学者:松田福松

2010年07月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 超国家主義の親鸞讃仰・聖徳太子礼讃者たちの集まりである原理日本社が、本格的に津田左右吉攻撃を始めたのは、昭和14年(1939)3月刊行の『原理日本』第15巻第3号が最初です。この号には、松田福松の「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(上)」が掲載され、4月刊行の次号に同「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(下)」が掲載されました。松田は3月号では、この批判論文に続けて「谷崎源氏の反戦的亡国意識」という批判論文も書いてます。

 この松田福松という人物は、旧式な英語学者であって、リンカーンやホイットマンに傾倒していた人物です。早くから蓑田胸喜と意気投合して原理日本社の創設メンバーとなり、昭和十年代に入ってからは、大学のあり方をめぐって激しい批判活動を繰り広げていました。

 リンカーンやホイットマンを敬愛する英語学者がなぜ英米批判の超国家主義者になったかは、福間良明「英語学の日本主義--松田福松の戦前と戦後--」(竹内洋・佐藤卓己編『日本主義敵教養の時代--大学批判の古層--』、柏書房、2006年)が概説しています。すなわち、有色人種に対する差別に憤っていた松田は、リンカーンとホイットマンが奴隷制度に反対であった点を評価する一方、現在のアメリカは「白人優越の幻想」に基づいて、東洋を侵略するようになってしまったとし、リンカーンらの精神は東洋保護に乗り出した皇国日本に保持されている、と考えるようになったのです。松田は、上記の福間論文によれば、『米英研究』(原理日本社、1942年)で次のように述べています。

 皇威の光被して草木をも靡かすところ、リンカン、ホイツトマンの精魂もまた耀やき天翔りつゝ御前に事[つか]へまつり無窮の皇運を扶翼しまつるであらう。

 つまり、どこであれ天皇の威光が輝くところであれば、リンカーンやホイットマンの魂もまたそこで輝くのであり、二人の魂はアメリカの地から遠く天皇のお側にまで天翔ってお仕えし、無窮なる天皇の偉大な活動をお助けするだろう、というのです。

 こうした人物が、インドと中国と日本は、それぞれの文化に基づく国であったのだから共通した「東洋文化」などというものは無く、現代日本は西洋文化の側だ、と説く津田の『支那思想と日本』(岩波新書、1938年)を読めば、東洋文化を体現してアジア諸国を救おうとする皇国日本の活動を否定する危険思想だ、と受け止めるのは当然でしょう。

 ただ、興味深いのは、この時点では、松田は津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論を知らなかったらしいことです。松田は、最初の論文において、日本は初めは中国文化を学ぶばかりで取捨を加えることもできず、拝跪するばかりであったとする津田説に触れ、「聖徳太子の十七条憲法及び三経義疏をとつて考へ見よ」(34頁)と反発していますが、聖徳太子に関する議論は、それで終わっています。しかし、津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論は、昭和5年(1930)に岩波書店から刊行された『日本上代史研究』で明確に述べられていました。松田がそれを読んでいたら、もっと激しい反論がなされたでしょう。

 蓑田の筆によるこの号の編集後記でも、松田論文については、津田の「合理主義的唯物論的思想法の根本的欠陥」を指摘していると述べて津田説を批判し、「支那印度の勝れた精神的伝統『東亜一体感』は日本人の内心にのみ生きてをる」ことを強調するのみです。蓑田や松田が津田の著作を読むようになったのは、津田が10月に東大法学部に新設された東洋政治思想史講座に講師として招かれ、また11月に小野清一郎の津田批判が『中央公論』に掲載されてからのようです。


「教育勅語」や「国体の本義」に引き寄せた「憲法十七条」解釈:小野清一郎(2)

2010年07月19日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 小野清一郎(1891-1986)は、『中央公論』昭和14年11月号での津田左右吉批判に続き、昭和15年2月に刊行された小野清一郎・花山信勝共編の論文集『日本仏教の歴史と理念』(明治書院)所載の論文においても、津田批判を行っています。本書は、前年の7月に行われた島地大等の十三回忌法要の一環としてまとめられた弟子たちの論文集です。真宗の僧であって東京帝大で仏教を講じた島地大等は、近代日本の仏教学を代表する優れた仏教学者の一人であって、聖徳太子の思想を理解するには三経義疏、特に『勝鬘経義疏』に依るべきことであることを強調していました。花山信勝に三経義疏の研究を勧めたのも島地です。

 その島地に捧げられたこの記念論文集には、錚々たる研究者たちによる論文が並んでいます。ただ、時期が時期だけに、学術的な議論の間に国家主義的な主張というか、時局に関する演説めいたものがなされる例がしばしば見られます。そうした演説派論文の代表は、イギリス留学組の東大助教授であって、戦時中は国家主義を鼓吹し、戦後はアメリカ礼讃に変わった宮本正尊の「明治以後の日本仏教に就いて」でしょうか。

 小野の「憲法十七條の宗教的基礎」は、宮本論文ほど露骨ではありませんが、東大助教授であって津田の三経義疏説を批判した花山信勝の論文、「日本仏教の源流としての三経義疏」、そして京城大学教授の白井成允の「聖徳太子の御教の一端」という、題名を見ただけで内容が分かるような論文に続いて置かれていることから推測されるように、「憲法十七条」礼讃、聖徳太子礼讃です。「発達した後世の神道思想が古代において存在したと考へることは歴史的錯誤にすぎない」(220頁)といった批判的な見解が示されている箇所もあるものの、「教育勅語」に引きつけた時局的な解釈が目立ち、「憲法十七条」そのものの歴史的研究とは言えないものです。

 たとえば、「憲法十七条」冒頭の「和」については、直接の出典である『論語』や影響を与えた仏教の「和合」などとの違いを強調し、「わが日本国家を一の民族共同体として把握し、其の共同体的な和の精神をもつて其の事理を明かにし、その事理に従つて国家の経綸を行ふべしといふ意味のものである」(71頁)と断言します。そして、「教育勅語」に「億兆心ヲ一ニシテ」とあるように、「億兆一心の和こそは国体の精華を発揮する所以である」(72-3頁)といった方向で論じていくのです。しかし、「憲法十七条」そのものついて言えば、「和」は臣下たちに対して要請されているのであって、民衆は関係ありません。「民」は、監督保護されるべき存在として位置づけられているにとどまります。これは、儒教としては当然の考え方です。

 しかし、小野は、「憲法十七条」は海外思想を盛んに取り入れてあるものの、その柱となっているのは優秀なる日本民族のあり方なのだとします。つまり、「憲法十七条」の「和」は、海外思想の影響というよりは、それらを材料とした「日本精神そのものの自爾の発展である」とし、「憲法十七条」は聖徳太子なればこそ作り得た高次な国法なのであって、近代日本の「教育勅語」を先取りしているとされるのです。そして、そこには「思ひあがれる民主主義を容[い]るる余地なきと同時に、又独裁政治を容るる余地もない」と断言しています。そのような「民族的共同体としての大和の世界が確保されるべき」であり、「憲法十七条の宗教的・国家的精神はかくて永遠に実現されてゆくのである」(83頁)というのが、同論文の結論です。「思ひあがれる民主主義」というのは、天皇が統治する神国日本に、個人が何よりも尊いと説くような欧米流の民主主義を取り入れようとするのは不遜である、というのでしょう。むろん、庶民が成り上がって権力をふるうヒトラー流の「独裁政治」も、日本ではとうてい受け入れられないとしています。

 このように、当時の日本の政治状況を「憲法十七条」のうちに読み込む人は、社会が軍国主義化すれば、そうした風潮を「憲法十七条」に読み込んでいくことになります。文部省では、国家主義的な学者たちを集め、「教育勅語」を更に国家主義的にした「国体の本義」を編纂させ、昭和13年に全国の学校に配布しますが、小野は、早くからその作成に関わった学者たちと交流しており、「国体の本義」が配布される前からその主張の影響を受けていました。「憲法十七条」の「和」は、西洋で説かれるような「武力闘争を排斥する」単なる「平和」や民主主義ではなく、もっと高次のものだと主張するようになった(小野「和の倫理」、東京大学仏教青年会『仏教文化』11巻34号、1937年)のも、その一例です。

 しかし、武力を用いない単なる「平和」より高次なものとなると、平和のための武力発動も含まれることになります。小野は、「国体の本義」作成にも関わった紀平正美のように、荒々しい「武」の発動も含むのが「和」を超えた「大和」だ、などと強調することはありませんでしたが、「憲法十七条」の「和」について「軟弱なる教育主義でもないことが明かである」と述べています(「憲法十七条における国家と倫理」、『改造』20巻8号、昭和13年)。単にやさしく教えるだけではないと言うのです。

 そして、かつては「憲法十七条」の「和」を「教育勅語」の「億兆心ヲ一ニシテ」という箇所によって解釈していた小野は、「国体の本義」以後しばらくすると、「和」とは、天皇に一心に従う臣民たちの「絶対なる随順の和」なのだと断言するまでに至っています(「憲法十七条における和の精神について」、小野『日本法理の自覚的展開』、1942年)。つまり、国民が「和」して、一体となって努力して立派な仕事をなしとげるという方向の解釈が変わり、親鸞崇拝の国家主義者たちの間で阿弥陀仏などに対して用いられていた「随順」の語を天皇への姿勢に用いることにより、国民が一体となって天皇に全身全霊で従うのが真の「和」である「随順の和」だという、ほとんど宗教的な「和」を説くようになったのです。これは、「憲法十七条」そのものとは、全くかけ離れた解釈です。

 このように、「憲法十七条」は日本の民族精神に基づくものであって、「教育勅語」と内容が一致するとし、さらに「国体の本義」の主張と重ね合わせて理解するようになっていった以上、その「憲法十七条」が聖徳太子の作であることを疑ったり、中国の思想を切り貼りして作ったものだとするような主張がなされれば、強く反発せずにおれないのは当然でしょう。小野にとっては、そうした説は、「教育勅語」や「国体の本義」を、つまりは、政府や文部省が示した日本のあり方を否定するに等しいことになるのです。

 小野は、穏やかな性格でしたが、上記の「憲法十七條の宗教的基礎」では、「憲法十七条が後代の偽作なることを主張する学者があるが、これは憲法十七条の精神的内容に対する理解なきところから生ずる盲目的臆断である」(79頁)と述べ、津田説を感情的な調子で論難しています。小野たちがあちこちで行なっていたこうした批判が、東大法学部に津田を招いて講義させていることに反発していた蓑田やその仲間の注意を引きつけ、津田攻撃の際に利用されたのです。


「憲法十七条」を重んじて津田左右吉を批判した法学者: 小野清一郎(1)

2010年07月17日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 今回は、蓑田のような偏った性格の狂信的な超国家主義者ではなく、彼らの目を津田に向けさせるきっかけの一つを作った性格温厚な国家主義の法学者、ということになります。ただし、もちろんのことながら、親鸞を信仰する熱烈な聖徳太子礼讃者です。

 明治24年に盛岡に生まれた小野清一郎は、盛岡中学校在学時に、明治の傑僧と言われた真宗の学僧、島地黙雷の講義に接して感銘を受けました。一高・東京帝大法律学科に進んでからは、その黙雷の養子であって東大で日本仏教史を講じていた島地大等の小石川の家で、大等から親しく教えを受けたそうです。また、欧米留学の経験もある近角常観は、明治になって注目を集めるようになった『歎異抄』に基づき、近代的な親鸞解釈と浄土信仰を説いていましたが、東大近くにあったその近角の求道会館にも通い、日曜ごとに法話を聞いています。さらに、インド学・仏教学の第一人者であった高楠順次郎が発案した英文の仏教伝道雑誌、『ヤング・イースト』の第一期編集委員になったことも、小野の思想に影響を与えました。

 小野は、大正8年に東京帝大法科大学の助教授となり、欧米留学後には教授に昇進し、刑法研究の中心人物として活躍すると同時に、昭和8年には高楠順次郎の後を継いで東大の印度哲学科で教えた木村泰賢や聖徳太子信奉者の仏教学者、白井成允らと東京大学仏教青年会を組織し、活発な活動を始めました。熱烈な聖徳太子礼讃者であった印哲の花山信勝とも親交を深めており、数年後には共編で日本仏教の本を出すに至っています。

 この頃から、日本は中国や欧米諸国との対立が激しくなり、昭和12年には「支那事変」と称された日中間の戦争も始まりました。小野はその少し前から国家主義的な立場を強めていましたが、その拠り所となったのは「憲法十七条」であったこと、戦後になって新たな主張をするようになった際の根拠も「憲法十七条」であったことは、以下に示す法律学以外の著作のリストが物語っている通りです。

昭和8年  「仏教と平和と戦争」
昭和9年  「憲法十七条の国法性について」
昭和10年 「聖徳皇太子十七条憲法の国法性」
        「十七条憲法に現れたる国家及び法律観」
昭和12年 「和の倫理」
昭和13年 「憲法十七条における国家と倫理」
昭和14年 「和の倫理」
昭和15年 「憲法十七条の宗教的基礎」(小野・花山共編 『日本仏教の歴史と理念』)
       「東洋の存在」
       「憲法十七条の法理的思想内実」
昭和17年 「憲法十七条の政治理想」
       「憲法十七条における和の精神について」
昭和18年 「憲法十七条に見る日本肇国の精神」
昭和19年 「戦争と道義と法」
昭和20年 「道義建設への確信」
昭和21年 「夫れ事は独り断ずべからず」
昭和23年 「法の倫理--憲法の世界観」
昭和26年 「新憲法と聖徳太子」  

 これほど「憲法十七条」を尊重していた小野をいらだたせたのが、津田左右吉でした。津田は昭和初期には学者の間でしか知られておらず、日本古典に関する学説もさほど影響力を持っていませんでしたが、東洋諸国の文化を受け入れて発展させた日本が東洋の盟主となり、東洋の文化・道徳を体現して西洋列強と戦い、東洋諸国を救うのだといった当時の思潮に背を向け、昭和12年に岩波新書中の一冊として『支那思想と日本』を刊行しました。インド・中国・日本はもともと文化が違うのだから、「東洋文化」などというものは無い、と主張したものです。同書では、日本は中国の儒教を模倣したものの、深いところでは受け入れていないことを強調しています。

 さらに津田は、昭和14年3月号の『中央公論』に「日本に於ける支那学の使命」を発表して、日本と中国とは文化が違うこと、日本は中国のことなどまったく分かっていないことを強調したほか、同年には、東大法学部に東洋政治思想史講座を開設した南原繁の要請により、その初代担当者となって講義を行ないました。その時、法学部の助手として津田の世話をしたのが丸山真男です。

 津田説が広まることに危機感を覚えた小野は、『中央公論』11月号に「東洋は存在しないか」を寄せ、津田説は東洋を文化的に否認するものだとして批判しました。敬意を払ったうえでのまともな批判ですが、途中にはやや激した部分も見えます。特に、「憲法十七条」は、津田が言うような中国思想の単なる受容・模倣でなく、「わが民族的な精神を基本としつつ」中国の思想を背景とする国家統治の思想を取り入れたものであり、この伝統が建武中興や明治維新にまでつながるのだと反論した箇所などは、力が入っています。これを受けて、親鸞讃仰の聖徳太子礼讃者たちを中心とする超国家主義団体の運動家であった蓑田胸喜は、『原理日本』12月号に「津田左右吉氏の神代史上代史抹殺論批判」を載せ、激しい言葉を連ねて津田攻撃を行いました。そして、翌年、津田を不敬罪で告発するに至ったのです。

 西洋の近代的学問を何よりも尊重していた津田は、儒教の日本への影響度や中国・朝鮮の文化・学問を軽く見る傾向があり、小野の批判には当たっている面もあります。ただ、戦後、公職追放となった小野の「憲法十七条」解釈は、「教育勅語」の影響を受けており、文部省が国家主義の学者たちに作らせて昭和13年に配布した「国体の本義」が出るとそれに引きずられ、戦後はまた民主主義の影響を受けた解釈に変わっていったのに対し、津田の場合は、時局の変動によって「憲法十七条」解釈が変わることはありませんでした。以下は次回に。

津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち

2010年06月26日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 近代的な聖徳太子研究を推進した初期の立役者が、久米邦武と津田左右吉であることについては、おそらく異論はないでしょう。二人とも非難されて職を辞するに至っていますが、久米の辞職は「神道ハ祭天ノ古俗」論文事件によるものです。信頼できない資料を切り捨てた久米の『上宮太子実録』(1904年)は、太子は黒駒に乗って空を飛んだといった伝承を否定し、確実と思われた資料のみによって、太子を明治期日本の手本となるような、外交に巧みな政治家として位置づけようとするものでした。

 その『上宮太子実録』の再刊を久米に依頼したのは、聖徳太子顕彰の運動をしていた上宮教会であり、本書は『聖徳太子実録』という名で1919年に再刊されました。つまり、久米は文献批判に基づく聖徳太子研究のせいで迫害されたのではないのです。

 一方、津田左右吉を激しく攻撃して告発し、著作の発禁にまで追い込んだ者たちの多くは、強烈な聖徳太子礼讃者でした。私は、聖徳太子に関する津田の個々の説については反対であることが多いものの、津田が創設した研究室で学んだ身であって、その幅広い学識と自らの学説を貫き通した気概を尊敬してきましたので、10年ほど前からこの迫害事件について調べるようになりました。

 そこで驚いたのは、津田の古典研究を非難攻撃したのは、神道系の国家主義者でも、軍国主義と結びついていた法華信仰系の国家主義者でもなく、和歌の革新団体から出発した親鸞讃仰グループであって、親鸞が尊崇していた聖徳太子を絶讃する超国家主義者たちであったことです。

 彼らは、近代の西洋文明を取り入れなければならない日本の状況と、伝統文化を守りたいという願望の間で悩み、理想的な手本を聖徳太子のうちに見いだしていました。つまり、海外文化を自主的に取り入れつつ中国と対等の外交をし、三経義疏では中国の学僧たちの解釈に基づきながら時には堂々と反論して超絶的天才ならでは深遠な解釈を示した、とするのです。海外文化を取り入れつつ、伝統文化を守った(和歌も詠むなど)点では、明治天皇も同じことになりますので、彼らは明治天皇と聖徳太子のイメージを重ねつつ、自己流の聖徳太子研究に励み、また明治天皇御製の和歌をひたすら誦することをもって修行としていました。

 そうした彼らにとって、聖徳太子関連の文献を批判的に検討して太子の事跡を疑うような研究は、日本そのものを否定する試みのように見えたのです。そのグループの指導者であった三井甲之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(一)--原理日本社の三井甲之の思想--」(『駒沢短大仏教論集』8号、2002年10月)、有力な理論家の一人であって「世間虚仮、唯仏是真」という太子の言葉を変えて「国際的世間虚仮、唯日本是真」と主張した木村卯之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(二)--木村卯之の道元・親鸞比較論--」(『駒澤短期大学研究紀要』34号、2006年3月)を発表しました。

 また、この二人から大きな影響を受け、津田攻撃の文章を書きまくって「不敬罪」で告発した蓑田胸喜とその仲間については、「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)で簡単に紹介しておきました。

 蓑田が昭和14年に刊行した小冊子、『津田左右吉氏の大逆思想』では、6点をあげて津田説は反国家的なものだと非難していますが、その第5点は「津田氏の日本精神東洋文化抹殺論」、最後の第6点が「津田氏の聖徳太子十七条憲法・三経義疏擬作論」です。蓑田は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述を疑う津田のことを、「悪魔的虚無主義の無比凶逆思想家」などと言って非難しています。彼らにとって、津田の説がどれほど危険な思想と思われたかが分かりますね。

 彼らの活動の結果、検事局が津田を出版法違反で起訴して裁判となり、津田は早稲田大学を自ら辞職するに至っています。上代史に関する津田の著作は発行禁止となりました。

 しかし、津田は、実際には明治人らしいナショナリストであって、天皇を深く敬愛していました。ただ、軍国主義風な天皇観や、東洋は文化的に一体であって日本はその盟主なのだなどといった主張には強く反発しており、『日本書紀』をそのまま信じて狂信的な主張をする者たちについては、彼らこそが日本の伝統を歪曲するもの、日本を滅ぼすものとして、強い危機感を持っていたのです。

 蓑田は、狙いをつけた進歩的な学者たちを次々に攻撃して大学から追いやり、津田についても著作の発禁にまで追い込むことに成功しましたが、やがて仲間の間でも孤立するようになって活動から離れ、敗戦後に自殺しています。蓑田などの登場の背景を論じた書物のうち、入手しやすいものとしては、片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)などがあります。

 こうした聖徳太子絶讃派による戦前の聖徳太子研究については、参考にすべき指摘も少しはあるものの、全体としては思い込みが先行していて学術的論証になっていない場合がほとんどです。また、国文学を学んだ三井甲之や真宗の僧侶であって龍谷大学で教えた井上右近などを除けば、彼らは西洋の学問を本業としていた者が多く、仏教や中国思想については素人であって、当時の東アジアにおける国際状況の考察なども不十分であったため、今日の学問レベルからすれば、ほとんど使えません。同じ戦前からの礼讃派であっても、東大で日本仏教史を教えた花山信勝の研究は、偏見が強くて問題があるものの、文献学的な調査の部分に限って言えばさすがに厳密であって、今日でもほとんどそのまま使えますので、そこは大きな違いです。

 そのような太子研究を含む戦前の国家主義を反省し、史実としての聖徳太子と信仰の対象とされた聖徳太子の違いを区別しようとした代表が、広島文理大学の小倉豊文です。津田が示した方向をさらに進めて詳細な検討を行った小倉の研究は、まさに画期的でした。長年の研究成果をすべて戦災で焼かれ、広島原爆で被爆した身に鞭打ってまとめられた小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は、1971年)は、今日では訂正されるべき記述をかなり含んでいるものの、太子を研究する者すべてが読まねばならない誠実な研究であり、感動の名著です。

 一方、その津田や小倉を受け継いで文献批判を推し進めたと称する大山誠一氏の研究は、『日本書紀』などの記述をすべて信じて太子を超絶的天才と絶讃する戦前の超国家主義者たちの主張を裏返しにしたような面があり、片端から「陰謀」「捏造」だとして否定し、儒仏道と唐の政治情勢に通じていた道慈の述作によるとするばかりで論証が不十分であるのが実状です。つまり、超国家主義的な太子礼讃者たちと太子実在否定論の大山氏とは、評価の基準が違うだけで、論じ方自体はかなり似ているのです。


 近代以来の聖徳太子の意義付けというのは、現代の我々の聖徳太子観に大きな影響を与えているため、このブログでは、太子に関する伝承を疑う立場の研究だけでなく、この津田左右吉迫害事件を中心として、様々な系統の聖徳太子礼讃者たちの言説についても注意を払っていきます。