聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『大成経』に関する最新の諸論文を含む特集:岸本覚・曽根原理編『書物の時代の宗教』

2023年12月02日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 このコーナーでは聖徳太子作とされる偽の『五憲法』とそれを含む偽作の『先代旧事本紀大成経』に関する学問的な研究、そして『五憲法』や『大成経』を利用した強引な国家主義・道徳主義の押しつけやトンデモ説をともに紹介していきます。

 8月27日に東洋大学で『大成経』研究集会が開催され、私を含む内外の研究者が発表し、討議をおこないました。江戸時代の偽作である『先代旧事本紀大成経』について、こうした研究会が開かれたのは、これが初めでしょう。

 江戸中期に山王一実神道や修験道系の思想と『大成経』の影響を受け、独自の説を形成した天台僧、乗因について論じた『徳川時代の異端的宗教 : 戸隠山別当乗因の挑戦と挫折』(岩田書院、 2018年)を著すなど、『大成経』関連の研究を進め、この研究集会を組織した東北大の曽根原理さんの共編で刊行されたのが、

岸本覚・曽根原理編『書物の時代の宗教ー日本近世における神と仏の変遷』【アジア遊学 287】
(勉誠出版、2023年)

であって、この本の「Ⅱ 『大成経』と秘伝の世界」と題する章に関連する論文3本とコラム1本が掲載されています。この「『大成経』と秘伝の世界」の内容は、

佐藤俊晃「禅僧たちの『大成経』受容」

M.M.E.バウンステルス「『大成経』の灌伝書・秘伝書の構造とその背景-潮音道海から、依田貞鎮(徧無為)・平繁仲を経て、東嶺円慈への灌伝受容の過程に-」

湯浅佳子「増穂残口と『先代旧事本紀大成経』」

W.J.ボート「コラム:『大成経』研究の勧め」

であって、いずれも『大成経』研究の実績がある人ばかり。佐藤さんは、黄檗宗・曹洞宗・臨済宗の禅僧たちによる『大成経』受容の研究者。この論文では、近世を代表する禅僧たちが『大成経』を信奉し、聖徳太子が片岡で飢えて倒れていた人とあったがそれは実は菩提達磨だったとする中世の伝承を再評価し、禅宗と神道を結びつけたことについて解説しています。

 バウンステルスさんは、ヨーロッパにおける日本研究の拠点の一つであるオランダのライデン大学日本学部の講師であって、近世の神道・儒教・仏教の論争が専門。この論文では、『大成経』を理解するには師から灌頂を受けて秘伝を聞く必要があるとされていたため、それを記した秘密文献の残存状況を報告したものです。

 湯浅さんは、江戸の文学や思想の研究者。『大成経』についてもすぐれた論文も書いており、この論文では、日蓮宗の談義僧から独自の神道説教家となり、従来の権威ある説を批判して大胆な神道説を唱えた増穂残口が、吉田神道の影響のもとで『大成経』を利用して神道解説の通俗書を著し、禁書とされていた『大成経』の説を民間に普及させたことを論じています。

 ボートさんはライデン大学日本学部の名誉教授であって、近世思想史の研究者です。ボートさんが書いているコラムについては、後で紹介します。

 ライデン大学のお二人が日本に来られることになったので、この研究集会が開催されたのです。ですから、これらを読めば、現在における『大成経』研究の状況がある程度、分かります。

 海外の研究者が2人も書いているのが興味を引くでしょうが、実は、河野省三『旧事大成経に関する研究』(芸苑社、1952年)以後、『大成経』に関して1冊、本を書いているのは、留学して東大大学院で宗教学を学んだこともあるアメリカのブラウン大学にいるアヴェリイ・モローさんが2014年に刊行した、

 
この本だけなんです(超古代史扱い風な邦訳あり)。こういうことは時々起こります。モローさんに関しては、8月にベルギーのゲント大学で開催されたEAJS(ヨーロッパ日本学教会)大会での「近代の聖徳太子」パネルで私が『五憲法』の受容の発表をした際(こちら)、挨拶されて初めて話しました。
 
 上記の「『大成経』と秘伝の世界」の論文はいずれも有益ですが、最後に、『大成経』そのものの研究の勧めを説いたボートさんのコラムを紹介しておきます。というのは、『大成経』の受容については、これまである程度研究が進められているものの、『大成経』そのものの研究は遅れているからです。
 
 ボートさんはまず、六国史など日本の正史は、中国の史書と違って列伝がないのが普通であるのに、『大成経』72巻は、中国の正史の紀伝体を思わせる形式になっているのが珍しいと指摘します。
 
 さて、9世紀頃の成立であって『大成経』が受け継いでいる『先代旧事紀』では、宇宙の起源の話から始まっているのに対し、『大成経』の「神代本紀」では、いきなり無生始天神である「天祖天譲日天先霧地譲月地先霧皇尊」の説明で始まります。
 
 ボートさんは、『大成経』が神以前に「元気」が存在したとする説を批判しているのは、宋代儒学の世界観を否定するものであると指摘します。宋学では神を死んだ人の気として説明しますが、『大成経』では、神は生きており、個性をもって活動する存在であることが強調されるのです。
 
 ボートさんは、『大成経』が1670年から79年の間に何度か印刷され、話題になったことについて簡単に説明したのち、『大成経』についてはいろいろな観点からの研究が可能であり、また必要であることを論じます。
 
 つまり、近世思想史の一面としての儒仏神に関する論争の例として、あるいは、古代・中世の史書や神道書以来の思想展開の例として、また、『大成経』以後の文学や思想に対する影響の歴史についても検討する必要があるとするのです。
 
 作者については諸説をあげつつ、いずれも推測に留まるとします。そして、江戸時代には、誰が書いたということより、どのテキストが公となったかが問題にされたとし、独自の神道家であって『大成経』を尊崇した徧無為が、最初に木活字で刊行された鷦鷯本、そして高野(山)本、長野本を区別したことについて述べ、いずれも不明な点が多いとします。
 
 そして、このように、『大成経』は謎が多いからこそ、多くの人が研究に参加するよう希望してしめくくっています。研究の視点として、あと一つ加えるなら、聖徳太子信仰の展開の一例ということですね。
 
 私は来秋刊行予定の某学会の論文集に、宋代に流行した儒仏道の三教一致説が日本でいかにして『大成経』が説いている儒仏神の三教一致説になったかについて論文を書くことになりました。あるいは、聖徳太子関連の別な論文集に、もう一本、『五憲法』関連で論文を書くかもしれません。
 
 いずれにしても、『大成経』『五憲法』研究を進めていきます。また同時に、これらを真作として持ち上げる困った人たちを批判してゆくことにします。

皇室史学者が三波春夫の偽『五憲法』解説本を擁護:倉山満『嘘だらけの日本古代史』

2023年11月14日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 「聖徳太子はいなかった」説が勢いをなくすと、「それ見たことか」と調子に乗り、太子にかこつけて国家主義や戦前の旧道徳の押しつけを始める連中が出てくるぞ、その際は偽作の『五憲法』が使われる可能性があるぞと予言しておきましたが、その通りになったため、前回の記事でお知らせしたように、「偽『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」というコーナーを新設した次第です。 

 その第一弾が、

倉山満『嘘だらけの日本古代史』「第四章第四節 世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」」
(扶桑社新書477、扶桑社、2023年)

です。少し前なら、「聖徳太子に関する珍説奇説」コーナーか、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」コーナーに入ったであろう内容です。

 扶桑社って、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を出しているところですね。文科省の歴史の指導要領が「厩戸王」という名を中心にしようとして国会でも議論された際、文科省案に反対する「新しい歴史教科書をつくる会」の理事が、「厩戸王」の名は『古事記』にも『日本書紀』にも見えず、戦後になって小倉豊文が想定した名であることを知らずに国会議員にレクチャーし、しかもそれを隠蔽しようとしたことは、前に記事で書いておきました(こちら)。伝統を守れと叫び、聖徳太子を持ち上げる人には、そうしたタイプが多いですね。

 倉山満氏は、この本の著者紹介によれば、憲制史学者で救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学で学び、大学院在学中から国士舘大学日本政教研究所の非常勤研究員となり、2015年まで同大学で日本国憲法を教えた、とありました。「あとがき」では、「皇室史学者 倉山満」と記しています。

 奥付は11月1日刊となってましたので、出たばかりです。『五憲法』や『大成経』であれこれ検索していたらヒットしたため、購入しました。

 この「第四章第四節 世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」」では、導入部分で三波春夫の『聖徳太子憲法は生きている』(小学館、1998年)を紹介し、「たいへん固い内容の本です」と述べます。真面目なだけに困った作であるこの本については、このブログで以前、紹介してあります(こちら)。

 倉山氏は、偽書と判定された『聖徳太子五憲法』について、「偽物だと言ってもそのすべてが嘘とは限らず、本当の部分だけを抽出して事実を再現する手法なので、極めて高度な技術が求められます」と説いています。

 これは、その通りの場合もありますが、偽作ではあるが古い貴重な資料に基づいているはずだと論じる場合、よくあるのは、明らかな偽作を無理に弁護しようとする場合です。こうした傾向についても、前に書きました(こちら)。

 倉山氏は、三波が『聖徳太子五憲法』によって、十七条憲法はもとは八十五条あったと主張していることについて「納得がいくことが多々あります」と述べます。

 倉山氏は、十七条憲法では天皇より先に坊さんが来ているのは不自然とし、八十五条を解体して一つにまとめた際、こうなったのは仏教界の意向が反映したためとする仮説は成り立つ、として三波説を評価します。それというのも、倉山氏は神道重視であるためです。

 氏は、「仏教を信仰する聖徳太子は蘇我馬子と組んで神道を固守する物部氏を滅ぼした」というイメージだけで語るより、その後も神道家や儒学者から崇拝された日本の歴史を考えると、三波説の方が説得力がある、と説いています。

 これで倉山氏の歴史や思想史に関する学力が知れました。氏の専門は古代ではありませんが、日本の憲制史を研究し、聖徳太子を絶讃しているのですから、憲法の初めとされる「憲法十七条」については、古代史の専門家に近いほど研究していて論文が書けるくらいでないとおかしいはずです。

 しかも、倉山氏は、本書では、歴史研究者は自分の専門のところしか知らないが、自分は幅広く研究しており、広い時代にわたって本を書いていると自負しています。

 広いと言っても、実際にはこの程度でしかない、ということですね。あるいは、『五憲法』は明らかな偽作であって、三波の本は史実や当時の研究成果を踏まえていないと分かっていながら、知らぬ顔で評価しているのか。前者なら学力不足、後者なら詐欺です。 

 『五憲法』は、宋代の儒学や中世の神道論に基づいて書かれていますので、古い時代の成立とすることはできませんし、神道家が太子を崇拝したとありますが、それは『五憲法』が登場する前からのことであって、彼らは『五憲法』など読んでおらず、引用もしてません。

 ただ、中世の神道家は、「憲法十七条」が「神」にひと言も触れていないので困り、太子は実は神道を重視していたとする伝説を作りあげたのです。その伝統を引き継いで江戸時代に、古代としては不自然な漢文や、禅宗の語録などに良く見える中国近世の俗語などを用いて『五憲法』が作成されるのであって、『五憲法』があったから太子が神道家たちに尊崇されていたわけではありません。

 要するに、真面目で道徳志向であるものの、歴史や思想について学術的研究ができない歌手の三波春夫が、聖徳太子が儒教・仏教・神道の尊重を説いて作ったとされる『五憲法』を真作と見てその意義を強調したため、天皇重視・神道尊重でいきたい倉山氏がとびついた、ということです。

 その程度の学力ですので、これに続けて大山説を批判した部分も、「聖徳太子」というのは後代の名だといっても当人が存在しなかったことにならないとか、「国司」という言葉があるからといって後代の作とは言えないといった程度であって、これは大山説ではなく、津田左右吉説に対して何十年も前から指摘されていることばかりであり、大山氏の新説の柱となる部分について具体的に批判することはしていません。

 聖徳太子が大偉人だったことは、『教科書では絶対に教えない偉人たちの日本史』(ビジネス社、2021年)に書いてあるとあったので眺めてみましたが、上の著書と良い勝負の粗雑な記述であり、とりあげる価値はありません。

 こうした人だからこそ、「日本の伝統は」などと言って憲法や皇室について自信満々で語れるんですね。歴史は実際には分からないことが多いのですが。

【追記:2023年11月15日】
倉山氏が大山説を批判した部分は、津田説について何十年も前から言われてきた批判でしかない、という説明を付け加えました。他にも、わかりやすくなるよう補足したところが少しありますが、趣旨は変えてません。


『先代旧事本紀大成経』など聖徳太子関連の偽文献にすがる人が絶えないのはなぜか

2023年08月07日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 ベルギーのゲント大学で開催されるEAJS(ヨーロッパ日本学協会)大会が近づいてきました。そのうちの近代の聖徳太子パネルでオリオン・クラウタウさん、ユリア・ブレニナさんとともに発表・討議することは前に書きましたが、私が報告する『五憲法』、つまり、5部の偽作の「憲法十七条」を含む『先代旧事本紀大成経』の受容の歴史を調べば調べるほど、この偽作文献にだまされる人の多さにあきれざるを得ません。

 中でも驚いたのは、江戸文化の研究家として名高い三田村鳶魚(1870-1952)が昭和10年代になって『大成経』にはまりこみ、その注釈を書いた徧無為、すなわち独自な神道家であった依田貞鎮(1681-1764)を尊崇して月命日ごとに墓参りに行っていたことです。

 このことについては、徧無為研究に取り組んでいる野田政和氏が「三田村鳶魚 晩年の大成経研究と徧無為三部神道の信仰について」(『府中市郷土の森博物館紀要』第35号、2022年3月)で紹介しており、有益です。

 鳶魚ほどの学者が江戸時代に作られた『大成経』の不自然な記述に気づかないはずはないのですが、野田氏によれば、鳶魚は『大成経』偽作説に触れた際、天台宗の開祖である智顗が偽経の『清浄行経』を引用していることについて、鳶魚の師である太子崇拝の学者、島田蕃根(1827-1907)が「面白いではないか。そこは仏法の妙といふもの。偽経でもなんでもかまわない。道理がそこなら引用なさる」と語った言葉が今でも耳に残っていると述べたうえで、『大成経』の疑わしい点は継続して調査してゆくが、「真偽を超越した講究にも励みたいと存じます」と決意を語っています。

 なるほど。『大成経』がおかしいことは分かっておりながら、真偽とは無関係に価値高い部分があるとして研究していたんですね。これは、『大成経』を引用している江戸の学者にはたまに見られるパターンです。

 なお、野田氏は触れていませんが、島田蕃根は『大成経』信奉者でありながら、江戸幕府に偽作と判定されて禁書にされた経緯があるためか、表だっては『大成経』を賞賛せず、信頼できる弟子だけにその重要性を語っていたようです。

 疑いつつも、あるいは偽作と知りつつも、自分の説にとって都合が良いと、『大成経』のこの部分は古い資料に基づいているのだ、あるいは、真偽はともかく大事な教えを述べているから、という理由で使うのです。

 これは、実は空海も同じです。入唐した大安寺の戒明が、龍樹撰と称する『釈摩訶衍論』を持ち帰ると、歴代天皇の漢字諡号を定め、厩戸皇子を聖徳太子と呼んだ淡海三船(こちら)が、還俗僧としての見識に基づいて偽書だと早速批判しました。最澄なども偽書だとしたため、真作説派と偽作説派の間に論争が生じたのですが、空海は密教と顕教を区別する大事なところで、何も言わずに『釈摩訶衍論』を使うのです。

 天台宗の草木成仏説を確立した安然などは、初めは空海が偽書の『釈摩訶衍論』を使っているとして批判していたのですが、そのうちに自分も黙って利用するようになりました。まさに、空海と同じですね。なお、『釈摩訶衍論』については、新羅で作成されたことを私が以前、論証してあります。

 新羅撰述という点では、中国華厳宗の大成者である法蔵の作と伝えられてきた『華厳経問答』も同じです。この文献について、鎌倉時代の大学僧である東大寺凝然は、「文章が拙劣であって法蔵大師の著作に似ないが、内容が深遠なので、先徳たちは使ってきた」と述べています。

 これも私が解明したのですが、この『華厳経問答』は、入唐して智儼に師事し、華厳教学を学んだ後に新羅に帰った義湘が、入唐する僧に託して智儼門下の仲間であった法蔵に贈り物を届けたところ、法蔵が兄弟子の義湘あてにお礼の手紙とともに自分の著作をたくさん届けたため、義湘が弟子たちとその内容を考慮しつつ討議したものでした。新羅語でのやりとりを無理に漢文に直したため、教理面ではすぐれた内容が説かれているものの、おかしな文体となっていたのです。

 ただ、戦後、『大成経』を持ち上げている人は、凝然や鳶魚のような学識がないため、不自然な部分に気づかず、純粋に真作だと信じている人ばかりのように見えます。不自然な部分というのは、たとえば、『大成経』は「この~」という場合、「此」などのほかに「這」の字を使うことがありますが、「這」は唐代以後に用いられた俗語であって、禅宗の語録での問答部分などに良く見られるものです。

 ですから、聖徳太子が編纂させたと称する『大成経』に出てくるはずはないのであって、実際、『大成経』を偽作だと論じた江戸の学者の中には、この点を指摘した人もいました。

 偽書には、こうしたミスが必ずたくさんあるのです。しかし、漢文・古文にうとく、歴史に通じていない素人にはそれが分からないのであって、以前書いた三波春夫はその好例ですね(こちら)。

 また漢文・古文に通じている人の場合、自分の主張にとって都合の良い記述であると、上に書いたように、現在の形はおかしな箇所が目立つため後代の作とみなしつつも、内容自体は古い文書や伝承に基づいている、と考えたくなるのですね。凝然の場合も、『華厳経問答』は法蔵が書いたものではないとしつつも、弟子などが師匠の講義の内容を下手な文章でまとめたものと見たのでしょう。

 いやあ、三田村鳶魚も『大成経』を偽書と疑いつつ尊重していたのか……。こうした現象については、偽書を中心としたノンフィクションライターである藤村明氏による『日本の偽書』(河出文庫、2019年)冒頭の「人はなぜ偽書を信じるのか」という概説が参考になります。

 この『日本の偽書』では、三田村鳶魚が1941年に発表した「大成経学の伝統」論文に触れ、長野采女が『大成経』の作者だとする説を鳶魚はとんでもない「憶測」と評しているが、「案外真相に近いのではないかと思われる」と述べています。私もその意見に賛成です。博学で虚言癖があった采女が最有力候補でしょう。

 問題は、全部が采女の作か、近世の偽作文書などをそのまま利用している部分があるかですね。7月1日に上智大学で行われた『源氏物語』シンポジウムでは、私は『源氏物語』は仏教由来の語を利用して主要な登場人物の性格を書きわけており、そのやり方は最後まで一貫しているため、宇治十帖作者別人説は成り立たないと述べました。

 『大成経』の良いテキストが電子化されれば、仲間で開発したNGSMシステムを使って語彙・語法の分析をやり、巻ごとの特徴を明らかにしたいところです。仏教関連で言えば、禅宗の用語を用いている巻と天台教学の用語を用いている巻が重なるのかどうかとかですね。


明治期は「憲法十七条」より江戸時代の偽作である「聖徳太子五憲法」の方が人気だった

2022年10月28日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 先日、真宗大谷派の九州教学研究所で「近代の聖徳太子信仰と国家主義」と題する連続講義をしてきました。その際、強調したのは、明治初期には本物の「憲法十七条」よりも、江戸時代の偽作である『聖徳太子五憲法』の方が人気があったという点です。この講義録が活字になるのは来年でしょう。

  明治5年(1872)に政府は「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を柱とする「三条教則」に基づいて布教するよう命じたため、仏教諸宗はその説法の資料として、神道・儒教・仏教の三教融合を説く「五憲法」に頼ったのです。何しろ、本物の「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え」と命じただけであって、「神」に一言も触れず、儒教の「孝」も説きませんので。

 偽書である『先代旧事本紀大成経』に含まれるこの偽作の憲法については、これまで何度か触れてきました(こちらや、こちら)。偽憲法の信奉者は現代でもかなりおり、かの三波春夫などは解説本まで書いていることも紹介してあります(こちら)。

 下の写真のうち、「地」と記してある『聖徳太子五憲法』は、江戸室町三丁目の戸嶋摠兵衛が延宝三年(1675)五月に刊行した最古の版です。これは下巻であって、「天」に当たる上巻は、『先代旧事本紀』中の聖徳太子の伝記にあたる「聖皇本紀」などです。

 真ん中の『説教用意 新刻五憲法』と右端の『復神武帝 勅五憲法』は、京都の浄土宗勧学院が明治5年(1872)に刊行したものです。まさに「三条教則」に対応するための泥縄対策であって、どちらも裏表紙に「官許」と記されています。

 いずれも私の所蔵本ですが、こうした本が今でも手に入るほど多数印刷されたのです。 

 延宝3年本の冒頭は、太子の画像です。伝統的な『勝鬘経』講経図などではなく、明・清の中国の小説類の挿絵みたいですね。江戸時代には、そうした本が大量に輸入され、日本で印刷刊行されており、訓読本や翻案本なども出されていたのです。

 この絵では、太子は髪を美豆良(みずら)に結っており、筆を持っていますが、経典を思わせるものは置いていないため、「五憲法」をどう書こうかと考えている姿なのでしょう。

 面白いのは、浄土宗は上記のように「五憲法」重視で廃仏毀釈以後の厳しい状況を乗り越えようとしたのに対し、「和国の教主、聖徳皇」という親鸞の和讃が示すように熱烈に聖徳太子を尊崇してきた真宗では、意外にも「五憲法」を尊重しなかったようです。

 かなり後になりますが、真宗本願寺派の学者であった佐々木憲徳は「聖徳太子五憲法に就て」(『日本仏教史学』第二巻第四号、昭和19年1月)では、「五憲法」は徳川時代に神道・儒教・仏教の三教一致が要請される状況のもとで造作された偽物であるのに、現在の神道重視の時勢に合っているため、「真物より却つて偽作の贋物の方よいように思われ、つい誤魔化されることになる」と警告しています。これは重要な指摘です。

 その三教一致の風潮を利用し、「五憲法」を含む『大成経』を作り上げた偽作者については諸説ありますが、有力候補は長野采女です。この長野は、上野(こうずけ)の大守の子孫であって、先祖は在原業平だと称していました。偽書を作る人間は、このように自分の系譜についても誇大な主張をすることが多いですね。

 この手の人間は、嘘をついているという自覚が弱く、トランプ大統領などもそうですが、自分に都合の良い主張を繰り返し声高に述べているうちに、自分でも本当にその気になってしまいがちです。それだけに自信満々で述べるため、素人がだまされ、信奉者が増えてしまうのが困ったところです。

 現代になっても「五憲法」は次々と刊行されています。青沼やまと編『聖徳太子に学ぶ十七條五憲法』(総合出版、1995年)には、元皇族で明治神宮果道敬神会名誉総裁(当時)の梨本徳彦氏、また藤原五摂家の一つである二條家の三十代当主であって二條良基公顕彰会会長(当時)の二條基敬氏などが推薦文を寄せており、こうした人の支持を得ていることが分かります。

 編者の青山氏は「まえがき」では、「五憲法」の真偽をめぐる学術論争には参加しないと宣言し、「内容それ自体に……日本人の指針たりえる価値」があるため、それを世に伝えるために本書を刊行すると述べています。

 「世間虚仮」とつぶやいた聖徳太子を敬慕していたからこそ、その真実のあり方を追求し、太子に仮託された偽「五憲法」の利用を激しく批判した小倉豊文(こちら)とは、立場がまったく異なりますね。


「お客様は神様です」の三波春夫が偽作版「憲法十七条」の礼賛本を書いた

2021年05月31日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 伝説化されすぎた聖徳太子のイメージに縛られず、一人の人間としての聖徳太子の真実の姿を解明するため、文献に出てこない「厩戸王」という名を仮に想定して研究を進めた小倉豊文が最も危険視し、強く批判したのは、太子は神道も重視する『聖徳太子五憲法』を作ったという伝説でした。

 なにしろ、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説いて仏教を強調するのみである「憲法十七条」は、神道家が最も重視する天孫降臨説に触れないどころか、「神」という言葉さえ一度も出てこないのですから、江戸時代に国学者やその影響を受けた儒学者たちから激しく攻撃されたのは当然でしょう。

 そうした中で、17世紀半ばすぎに登場したのが、通常の「憲法十七条」の順序と言葉を多少変え、末尾の第十七条で「篤く三法を敬え」と説いて、「三法とは、儒・仏・神なり」と断言した「通蒙憲法」、そしてそれぞれ17条ある「政家憲法」「儒士憲法」「神職憲法」「釈氏憲法」という五つの憲法から成る『聖徳太子五憲法』でした。これらは、『日本書紀』の推古紀に相当する『大成経』の「帝皇本紀 下之上」で上宮太子が説いたとする内容を示した巻70の「憲法本紀」に収録されていました。

 これは、伊勢神宮の内宮の別宮でありながら、経済支援がとどこおって困窮した伊雑宮(いざわのみや)の神職たちが、伊雑宮の権威を内宮同様に高める運動をしており、内宮の抗議を受けるという流れの中で、儒教・仏教・道教の三教一致説の影響を受けつつ伊雑宮を内宮より上位に位置づけた偽作文書の『先代旧事本紀大成経』がでっちあげられたものです。

 その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します。さらに、『聖徳太子五憲法』を巻70に収録した『先代旧事本紀大成経』72巻が延宝7年(1679)に刊行されると大騒動になり、天和元年(1681)には幕府の命令で絶版とされて版木は焼かれ、関係者は流罪や所払いに処せられました。

 しかし、国学が広まるとまた注目を集め、特に仏教を攻撃した平田篤胤流の国学の影響で廃仏毀釈までおこなわれた幕末から明治初めの時期には、評価されて様々な版や註釈書が刊行されました(篤胤の神道理論は、実際には、仏教や道教に加え、漢訳されたキリシタン書の影響も受けています)。明治初年には、普通の「憲法十七条」より、この偽作の『聖徳太子五憲法』の注釈の方が数多く刊行されているほどです。

 神国日本を誇り、天皇崇拝のナショナリズムが高まった戦前・戦中時期には、「承詔必謹」を説く「憲法十七条」が重視されただけでなく、『聖徳太子五憲法』も一部の者たちが持ち上げ、アジア諸国を指導するための理論としようとしました。小倉はそうした傾向を警戒したのです。

 戦後になると、そのような動きはさすがにおさまっていました。ただ、信奉者は僅かながらいて関連本もが出されていましたが、平成の世になって、この『聖徳太子五憲法』を礼賛し、解説本を出した人物が出てきました。なんと、あの三波春夫です。

 親しかった永六輔が推薦し、瀬戸内寂聴も末尾に高く評価する解説を載せているのが、この本です。

三波春夫『聖徳太子憲法は生きている』
(小学館、1998年)



 明治後半から昭和初期にかけて最も人気があった芸能は、義理人情・忠君愛国の倫理と娯楽性・音楽性を巧みに結びつけた浪曲です。若き浪曲師としてスタートし、歌謡浪曲を得意とする演歌歌手に転じて大成功した三波は、実際には生真面目な人物であってかなりの読書家でした。

 有名な「お客様は神様です」という言葉にしても、客にこびて言っているのでなく、偉大な力を感じ、神前に手を合わせるような思いで歌っているという意味であるとこの本では述べており、当人の公式サイトにも説明があります(こちら)。

 この本では、三波は『大成経』を真作だとし、貴重な書物であるのに迫害を受けたと述べています。そして『大成経』を解明するために、永六輔と各地を旅したとして、聖徳太子や古代史についてあれこれ書いています。

 『聖徳太子五憲法』については、「今の社会に当てはまることが多く、現在の日本に大切なことばかりだったのです」(序)というのが三波の評価であり、「通蒙憲法」については全体を、他の憲法については要所を解説しています。

 ただ、善意と自分なりの責任感に基づいて生真面目に研究しているとはいえ、批判的な文献研究の訓練を受けておらず、どんな本や論文を読んでも、またどの土地を調査しても、自説に都合良く解釈する傾向から免れていません。

 つまり、漢文や古文の資料をきちんと読解する力、資料を文献学の立ち場で批判的に扱う力がないまま、玉石混交の歴史本や論文などを大量に読んであこれれ推測を重ねたあげく、「邪馬台国は、どこどこにあった! 私がついに発見した!」などという本を私家版で出す古代史マニアと同じようなことをやっているのです。

 それにしても、小学館はこういう本を出すなら、「本書はあくまでも著者の個人的な見解です。当社はその学問的な価値を保証するものではありません」などと記さないとまずいのでは……。

【追記:2021年6月3日】
末尾の文章を少しだけ変えました。
【追記:2021年11月26日】
『大成経』の成立に關ル説明の文章を少し訂正しました。

【追記:2023年11月10日】
この記事は、『大成経』や『五憲法』に関して調べ始めたばかりの頃に書いたため、古い説に基づいており、訂正すべき箇所がたくさんあります。たとえば、「その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します」は誤りで、『首書五憲法』を著したのは、伊雑宮の直接の関係者ではなく、黄檗僧の潮音道海です。昨年あたりから『大成経』は『五憲法』を本格的に調べて論文や講演・学会発表などで扱うようになり、このブログでもいくつか記事を書いています(こちらや、こちら)。この問題は重要なので、新しくコーナーを作るようにします。


明治初年の「憲法十七条」刊行は偽書の『五憲法』ばかり

2010年10月02日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 以前の記事で、「憲法十七条」が特に尊重されるようになったのは明治以後、そして第一条の「和」こそが太子の思想の中心であって日本文化の伝統であったことが強調されるようになったのは昭和になってから、と書きました。

 その証拠として、近世における「憲法十七条」の注釈の作成と刊行の少なさをあげましたが、明治になると、「憲法十七条」は次々に刊行されます。ただし、その実態は、小倉豊文が次のように歎いている通りでした。

 古板・古註の明治以後の覆刻は、残念ながら偽書五憲法が先であり、回数も多く、種類も多い。だから従つてその流布も相当に広く、影響も少なからぬものがあつたであらう。
(斑鳩迂人[=小倉豊文]「太子学入門(六): 現代の主要文献(六)」、『太子鑚仰』新七号、1944年11月、20頁)

 つまり、明治になると「憲法十七条」が重視されるようになり、古い版の復刻が盛んになったものの、刊行の順序が先で種類も多かったのは、『日本書紀』に掲載されている通常の「憲法十七条」の「篤敬三宝」に代えて儒教・仏教・神道の「三法を篤く敬へ」と説いた「通蒙憲法」や、「神職憲法」などから成る江戸時代の偽書、「聖徳太子五憲法」だったのです。

 最初に刊行されたのは、明治元年の序文を持つ神阿編『復神武帝 敕五憲法』です。勤王僧であった浄土宗の神阿が、天明8年(1788)の版を復刻し、「五箇条御誓文」その他を付して、仏教書を専門とする京都の店から刊行したものです。

 明治6年に教部省が「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」という方針を「三条教則」として打ち出すと、神阿は上の版の表紙見返しに「三条教則」を印刷した形のものを刊行しており、以後も、少し変えた版を次々に刊行しています。

 つまり、神道重視の時代、将軍でなく天皇が統治する時代となったため、「神職憲法」を含み、儒教・仏教・神道の融和を説く禁書の「五憲法」が尊重されるようになったのです。特に、廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界は、「太子は神道を軽視していたのではない」と弁解する材料として歓迎したようです。

 これに対し、通常の「憲法十七条」の注釈が刊行されるのは、小倉によれば、明治16年の小嶋郡松編『集註 憲法十七条』、明治22年の広瀬進一述『十七憲法和解』などからです。

 また、当然のことながら、昭和十年代に天皇絶対主義、神道絶対主義が激化し、聖徳太子奉賛運動がよりいっそう盛んになると、「五憲法」を持ち上げる人たちが増えています。特に、イギリス政治学を専門とする京都帝大法学部教授の池田栄など、古典文献学の訓練を受けていない他分野の国家主義者たちは、「五憲法」は偽作ではないと主張して、これを弘めようとしました。

 その「五憲法」を重視した人たちが思い描く太子のイメージは、神道の面が強く、『日本書紀』が記している太子像や、親鸞が強調した「和国の教主」などとは、かなり異なっていたのです。