山崎信二『古代造瓦史-東アジアと日本-』
(雄山閣、2011年)
です。奈良文化財研究所に勤めて長らく瓦の調査に携わってきた山崎氏は、この本では、仏教導入以前の古代中国の瓦の概説から始め、南北朝の瓦を検討したのち、古代韓国の高句麗・百済・新羅の瓦について説明し、そのうえで日本における瓦生産について論じていきます。むろん、各国での現地調査もなされています。
山崎氏は、推古天皇の旧宮に建てられた尼寺である豊浦寺について、その遺跡から日本最古の本格寺院である飛鳥寺の瓦と同笵のものが出ているとする報告を紹介し、瓦が「日本へ渡来して10数年で百済の文様にないものへと変化している」ことに注目しています。
次に若草伽藍については、豊浦寺金堂で使用した瓦当笵を用いた瓦が出ていることから見て、豊浦寺の金堂創建期(603~607)以降であって、四天王寺創建期(623~630年代)より古く、607~615年頃ではないかとします。『日本書紀』によれば、斑鳩宮の造営開始は推古天皇9年(601)であって、その4年後に移住していますので、『日本書紀』の記述とおおむね合うことになります。
むろん、上記の年代設定は、『日本書紀』の記述を考慮しつつ、瓦の様式の変化を見て判断していますので、「ニワトリと卵」の関係に近い面もあるのですが、瓦は様式の変化がはっきり分かるため、正確な年代はともかく、制作順序についてはかなり正確に把握できるのです。
そして、豊浦寺の瓦を作った工人たちは、飛鳥寺の瓦を作った瓦当笵やそれを簡略化した笵を用いていた瓦師に統括されていたものの、若草伽藍の金堂を造営する頃になると、百済では考えられないような手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を使うようなっており、これは「単なる模倣」の段階を脱した「飛鳥の漢人氏族の工人」たちの優れた発想力に基づくと述べています。
なお、飛鳥時代になると、須恵器を焼く窯では瓦も平行して焼いているところがかなり多くなり、京都の宇治市の隼上り窯から須恵器とともに発見され6種の軒丸瓦のうち5種が、50キロも離れた大和の豊浦寺の瓦と同笵であることが発見されていることに注意します。そうなると、どうしても当時の日本の須恵器のな作成法や文様が寺の瓦に影響を与えることになるのです。
日本は百済とは早くから親しかったのとは異なり、新羅とは対立する時期が続きましたが、山崎氏は、600年から630年代にかけて関係が深まったことに着目し、聖徳太子が622年に亡くなると新羅が翌年、仏像や舎利や様々な仏具を送ってきたため、それらを太子と関係深い秦寺と四天王寺に置いたとする『日本書紀』の記事に注意します。瓦についても、この時期から新羅の影響が見られるようになるのです。
そうした中で、若草伽藍の金堂の軒丸瓦を作成した瓦当笵が楠葉平野山瓦窯に運ばれ、そこで四天王寺の金堂の瓦が作成されますが、笵の傷は徐々に進み、ある段階から急激に進んだことが知られています。山崎氏は、若草伽藍の金堂が造営された後、塔が建立される前に瓦当笵が楠葉平野山瓦窯に運ばれ、四天王寺の金堂の瓦を作成したと見ています。
この推測が正しければ、若草伽藍の金堂が完成した時点、つまり、伽藍全体はまだ造営途中の段階で四天王寺金堂の造営が始められたことになります。それはどのような理由によるのか。いずれにしても、この時期から、瓦の文様は多様になっていきます。
蘇我馬子が百済の瓦師とその指導を受けた渡来系氏族の工人たちを独占していた時期から20年ちょっとたつと、各地で同時に寺々を建立できるほど技術を備えた工人たちが増え、また文様などの多様化、日本化が始まったのです。これは仏教研究についても同様でしょう。