聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

若草伽藍の造営中に四天王寺金堂の建立が始められた:山崎信二『古代造瓦史-東アジアと日本-』

2021年06月27日 | 論文・研究書紹介
 古代日本について研究するには、中国・韓国の状況を考慮する必要があります。それを瓦の制作方法の研究でおこなった例が、

山崎信二『古代造瓦史-東アジアと日本-』
(雄山閣、2011年)

です。奈良文化財研究所に勤めて長らく瓦の調査に携わってきた山崎氏は、この本では、仏教導入以前の古代中国の瓦の概説から始め、南北朝の瓦を検討したのち、古代韓国の高句麗・百済・新羅の瓦について説明し、そのうえで日本における瓦生産について論じていきます。むろん、各国での現地調査もなされています。

 山崎氏は、推古天皇の旧宮に建てられた尼寺である豊浦寺について、その遺跡から日本最古の本格寺院である飛鳥寺の瓦と同笵のものが出ているとする報告を紹介し、瓦が「日本へ渡来して10数年で百済の文様にないものへと変化している」ことに注目しています。

 次に若草伽藍については、豊浦寺金堂で使用した瓦当笵を用いた瓦が出ていることから見て、豊浦寺の金堂創建期(603~607)以降であって、四天王寺創建期(623~630年代)より古く、607~615年頃ではないかとします。『日本書紀』によれば、斑鳩宮の造営開始は推古天皇9年(601)であって、その4年後に移住していますので、『日本書紀』の記述とおおむね合うことになります。

 むろん、上記の年代設定は、『日本書紀』の記述を考慮しつつ、瓦の様式の変化を見て判断していますので、「ニワトリと卵」の関係に近い面もあるのですが、瓦は様式の変化がはっきり分かるため、正確な年代はともかく、制作順序についてはかなり正確に把握できるのです。

 そして、豊浦寺の瓦を作った工人たちは、飛鳥寺の瓦を作った瓦当笵やそれを簡略化した笵を用いていた瓦師に統括されていたものの、若草伽藍の金堂を造営する頃になると、百済では考えられないような手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を使うようなっており、これは「単なる模倣」の段階を脱した「飛鳥の漢人氏族の工人」たちの優れた発想力に基づくと述べています。

 なお、飛鳥時代になると、須恵器を焼く窯では瓦も平行して焼いているところがかなり多くなり、京都の宇治市の隼上り窯から須恵器とともに発見され6種の軒丸瓦のうち5種が、50キロも離れた大和の豊浦寺の瓦と同笵であることが発見されていることに注意します。そうなると、どうしても当時の日本の須恵器のな作成法や文様が寺の瓦に影響を与えることになるのです。

 日本は百済とは早くから親しかったのとは異なり、新羅とは対立する時期が続きましたが、山崎氏は、600年から630年代にかけて関係が深まったことに着目し、聖徳太子が622年に亡くなると新羅が翌年、仏像や舎利や様々な仏具を送ってきたため、それらを太子と関係深い秦寺と四天王寺に置いたとする『日本書紀』の記事に注意します。瓦についても、この時期から新羅の影響が見られるようになるのです。

 そうした中で、若草伽藍の金堂の軒丸瓦を作成した瓦当笵が楠葉平野山瓦窯に運ばれ、そこで四天王寺の金堂の瓦が作成されますが、笵の傷は徐々に進み、ある段階から急激に進んだことが知られています。山崎氏は、若草伽藍の金堂が造営された後、塔が建立される前に瓦当笵が楠葉平野山瓦窯に運ばれ、四天王寺の金堂の瓦を作成したと見ています。

 この推測が正しければ、若草伽藍の金堂が完成した時点、つまり、伽藍全体はまだ造営途中の段階で四天王寺金堂の造営が始められたことになります。それはどのような理由によるのか。いずれにしても、この時期から、瓦の文様は多様になっていきます。

 蘇我馬子が百済の瓦師とその指導を受けた渡来系氏族の工人たちを独占していた時期から20年ちょっとたつと、各地で同時に寺々を建立できるほど技術を備えた工人たちが増え、また文様などの多様化、日本化が始まったのです。これは仏教研究についても同様でしょう。

「皇室の権威確立をめざす厩戸皇子 vs 横暴な蘇我氏」の図式は的はずれ:遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』

2021年06月23日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事で、近江氏が「新しい国家の運営は王族が中心となるべきという固い決意があったと考えられる」と述べているのは、戦前の古い図式に引きずられたものとコメントしておきました。

 『日本書紀』では、後の天皇系統の祖となる中大兄皇子(天智天皇)たちのクーデターを正当化するため、蝦夷・入鹿は悪者として描かれています。馬子については意外にも賞賛記事ばかりですが、戦前の皇国史観に基づく研究では、馬子についても皇室の権威を確立しようとした厩戸皇子と横暴な豪族との対立、という図式で眺めようとしていました。

 『日本書紀』の記述を客観的に検討しようとしないことから来るかたよった説ですが、この図式は戦後になって否定される一方で、形を変えて生き残っています。そうした見方に反発し、この対立図式を単純にひっくり返すと、実際には蘇我馬子こそが大王だったという、これまた極端な主張が出てくるわけです。

 このような空しい議論を批判し、蘇我氏悪玉説を疑って『日本書紀』の記述を見直した例が、

遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
(学研新書、2008年)

です。遠山氏は、『蘇我氏四代:臣、罪を知らず 』(ミネルヴァ書房、2006年)などの研究書を出しており、それを読みやすい一般向けの新書にしたのが、この本です。

 遠山氏は、蘇我氏は百済系渡来人であったとする説を批判し、この説が広まった理由の一つに江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」の影響があったことを指摘します。蘇我氏が急に台頭し、新たな政策を次々におこなった背景がその出自に求められたのです。騎馬民族説は、馬に関する考古学的な研究によって否定され、消えていますが、その影響の余波がしばらく残ったのです。

 遠山氏は馬子が「葛城馬子」と名乗り、かつての大豪族であった葛城の土地が自分の故郷であるからその土地を拝領したいと願い出たのは、守屋が父方の物部氏の名と母方の弓削氏の名に基づいて物部弓削守屋と名乗っていたことから見て、馬子の母が葛城氏出身であったためと推測します。

 そして、蘇我稲目がなった「大臣」とは、群臣、つまり「太夫(まえつきみ)」と呼ばれ君主の前に集まって協議する有力な豪族の臣下たちを統括する職、「大まえつきみ」なのであって、それまで世襲制度が確立していなかった王権を支える制度として誕生したと説きます。つまり、後に「天皇」となっていく「大王」の権力強化と、「大臣」の権力強化は平行しており、両者は同じ利害関係にあったと見るのです。これは、中国北朝や新羅などの例から見ても納得できる議論です。

 そして、その稲目が娘たちを欽明天皇に嫁がせ、生まれた皇子やその子供たちが次々に天皇となっていくことにより、外戚としての蘇我氏の権威が高まっていくことになります。

 馬子は崇峻天皇を暗殺したことで有名ですが、これは敏達天皇の后であって蘇我氏の血を引いている額田部王女(推古天皇)を初めとする皇族や他の豪族たちの合意に基づくものであって、外交政策などの対立が背景となっており、ある意味では、馬子の政策に近い日本最初の女帝を誕生させるための行為であったと見ます。

 その結果、推古天皇が即位し、父方母方とも蘇我氏の血を引く最初の皇子である厩戸皇子と馬子が推古天皇を補弼し、仏法紹隆などの新政策をとっていくわけです。その厩戸皇子と馬子が対立していたとする研究者は、厩戸皇子が斑鳩に移住したのは、馬子との権力闘争に敗れたためとするのですが、遠山氏は、厩戸皇子が政治に参画するようになったのは、むしろ斑鳩移住の後であることに注意します。

 実際、斑鳩寺は馬子の配下にあった工人たちによって建立されており、対立していたとは考えられません。ただ、遠山氏は一方で、蝦夷に背いた蘇我氏同族の境部摩理勢、蝦夷・入鹿を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂などの例を見ると、厩戸皇子が馬子と長らく良好な関係にあったとは限らないします。単純な対立図式はとらないのです。

 これは私も賛成であり、七世紀初めから半ばまでは、「皇室vs蘇我氏」ではなく、強大になりすぎた蘇我氏内部の対立が主であって、皇子たちはそのどちらかの勢力について対立したというのが実態であるのに、『日本書紀』がそれを「皇室vs蘇我氏」の図式に改めたものと考えています。

 厩戸皇子については、遠山氏は、王位継承を安定化させるためもあって、厩戸王の数多い子どもたちの養育用に諸国に壬生部を与えられていて裕福であったとし、外交については高句麗の慧慈の助言を承けつつ慎重派、性格としては将来は大王になると確信しており、頭は良いが野心的な俗物だったのではないかと説きます。従来の聖徳太子の人物象とははかなり異なる見方を示すのです。

 また、この記事では扱いませんが、遠山氏は蘇我氏をキングメーカーと見ており、蝦夷を大臣としての職務に忠実であろうとしつつ、甥にあたる山背大兄の将来を心配する温情も示したとして描かれている点に着目するなど、従来の蘇我氏のイメージに縛られずに蘇我氏について考察しており、私も賛成する点が少なくありません。

 遠山氏は、蘇我氏悪玉説に立つ研究を批判しますが、これまで述べてきたように単純な対立図式を疑いますので、「エピローグ」では、『日本書紀』のうち、「蘇我氏について好意的な記述だからといって、それを鵜呑みにはできないことを肝に銘じるべきだ」と注意をうながしています。そして、「なぜそのように書かれているかを考えて、その主張(証言?)の質を見極めていかねばならないであろう」と述べて締めくくっています。 

 『孟子』 尽心篇下では、『書経』について、「尽く書を信ずれば、則ち書無きにしかず(すべての記事を信じ込むようなら、書物など無い方がましだ)」と述べていますが、まさにその通りですね。

道が聖徳太子と蘇我馬子の外交政策の違いを語る?:近江俊秀『道が語る日本古代史』

2021年06月20日 | 論文・研究書紹介
 飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の広壮さについては、何度か触れてきましたので、今回は、道から見た古代史に関する本を紹介しましょう。

近江俊秀『道が語る日本古代史』
(朝日新聞出版、2012年)

です。近江氏は、文化庁文化財部の調査官であって、古代交通史が専門です。

 本書は、「道路は社会を映し出す鏡」と題する序で始まってます。私も、「聖徳太子のイメージは社会を映す鏡」とか「ものまねは社会を映す鏡」といった類の文を書いてきましたが、道路は確かにそうした存在ですね。

 創立されて間もない島根県立大学にうかがった際は、その周辺道路を含めたインフラ整備のすごさに驚きましたが、その理由を尋ねたら、回答は、「竹下さんの地元です」でした。田中角栄が権勢をふるっていた頃、新潟県の道路の雪解け対策用の設備は先進的ですごいものでしたし。

 近江氏のこの本は、古墳時代の道路の歴史で始まり、大豪族であった葛城氏がおこなった道路造り、渡来人がもたらした技術などを概説したのち、「第二章 大和・河内の直線古道」において、「四 聖徳太子と蘇我馬子」という節をもうけています。

 近江氏はその節では、聖徳太子は高句麗の惠慈、馬子は船氏や東漢氏の渡来人をブレーンとし、有力氏族との調整をはかりながら政策の立案をしたとします。ただ、聖徳太子が新羅との関係に力を注いだという指摘は良いのですが、「新しい国家の運営は王族が中心となるべきという固い決意があったと考えられる」と説くのは、戦前の皇室中心の歴史学みたいですね。

 当時は、天皇後継者の決定を含め、国も重要な政策については有力豪族から成る群臣の協議で決まっていたのですから、父方母方とも蘇我氏の血を引き、蘇我氏系の推古天皇の娘と結婚し、馬子の娘も妃としている太子が自らの発言力を増すには、義父である大臣馬子の力を群臣たちより圧倒的に強くする必要があったと考えるべきでしょう。「皇室vs蘇我氏」という対立図式は、少なくとも推古朝の前半にあっては当てはまらないと思われます。

 近江氏は、斜めの太子道(筋違道)が示すように、対外交渉に力を入れていた太子がそのための立派な道を作ろうとしたのと違い、馬子は自らの権威を高め、耕地を拡大するために直線道路を作ったと推測します。

 上ツ道・中ツ道・下ツ道という南北の直線道路がその代表です。蘇我氏は、蘇我稲目の頃から渡来系氏族を用いたミヤケの開発と管理によって力をつけてきた氏族ですし、下ツ道の起点である五条野丸山古墳については、蘇我氏の本拠地であって馬子の邸宅にも近いため稲目の墓だとする小澤毅説にしたがいます。

 近江氏が、「太子と馬子の確執」の例と見るのは、隋の使節が都に至る経路の違いです。推古16年4月、隋使の斐世清が遣隋使の小野妹子を同道して筑紫までやって来ると、倭国は難波に館を作って迎えたものの、斐世清たちはそのまま二ヶ月も止め置かれます。6月になってようやく出発した一行は、大和に入って現在の桜井市にあたると推定される海石榴市で75頭の飾り馬による出迎えを受け、9日後に都に入ります。

 一方、その2年後にやってきた新羅使の場合、王権と関係深い海石榴市のずっと手前になる田原本町坂手付近とされる阿斗で出迎えられて滞在しています。近江氏は、そこから下ツ道を南下し、軽衢で左折して小治田宮に入ったと推測し、蘇我氏の本拠地を経由していると指摘します。

 そして、新羅使の応対には馬子と蝦夷の名が見えるのに、隋使関連の記述には馬子の名すら見えないとします。そこで、氏は、「この時期は、聖徳太子が対隋外交、蘇我氏が対半島外交を担っていたという考えも、もちろん成り立つだろう」としつつも、隋使以後、太子の活動が見られなくなることから、以後は馬子が外交を握ったと見るのです。

 さて、どうでしょうかね。外交使節に見せつけるためもあって立派な直線道路を造るのは、中国の王朝がやってきたことであって、隋の都の道などは異様なまでに広壮なものでした。また、外国からの使節が都に至る経路については、確かにその当時の権力者の意向が大きいでしょう。

 しかし、道路の建設状況や途中で超える川の季節による増水状況、その他の事情もあるでしょう。それに、都に至るまでの南北・東西の直線道路は、耕地拡大のためと言えるのか。外国からの使節も通る大路の横を田畑にすることはないでしょう。

 耕地拡大が目的なら、池の開鑿や川からの水の取り入れ、湿地帯の埋め立てなどが優先されそうです。また、上宮王家は東国や瀬戸内に勢力を伸ばしていったことを考えると、太子は耕地拡大に関心がなかった、とも言えなさそうに思われます。

 その他にも疑問な点があるのですが、その当時の権力のあり方を考えるには、道路に注意すべきであることは確かですね。

厩戸皇子は皇太子でなく有力王族として国政に関与した:本間満「古代皇太子制度の一研究」

2021年06月16日 | 論文・研究書紹介
 このブログは聖徳太子実在説の立場ですが、文献的にしっかりした研究であれば、太子の事績を疑う論文なども紹介しています。

今回は、その一つである、

本間満『日本古代皇太子制度の研究』「第六章 古代皇太子制度の一研究-厩戸皇子との連関で-」
(雄山閣、2014年)

を取り上げます。

 本間氏は、古代の皇太子研究を大幅に進展させた荒木敏夫『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年)が、皇太子制度は飛鳥浄御原令によって成立したため、厩戸皇子は皇太子にはなっておらず、その政治活動は「有力王族の一人としての関与」にとどまると説いた説を受け継ぎ、その立場で検討を進めます。

 厩戸皇子の立太子を認めた早い研究は、法隆寺金堂の薬師像光背銘が、病気となった「池辺大宮治天下天皇」、つまり用明天皇が「大王天皇与皇太子」、すなわち推古天皇と厩戸皇子を呼び、治病のために仏像建立を誓願したが亡くなったので、没後に「大王天皇」と「東宮聖王」が建立したとあるのを重視した家永三郎であって、家永はこれを皇太子の最初としました。

 ところが、福山敏男が、銘文に見える天皇の呼称は後世の響きがあり、そもそも薬師像自体、天武朝かそれ以後の作だとしたのをきっかけとして批判的研究が進み、薬師像と銘文の成立時期については諸説あるものの、推古朝の作とすることは否定するのが通例となっています。

 本間氏は、『日本書紀』に見える厩戸皇子・葛城皇子・草壁皇子の立太子記事を検討し、すべて年齢が20歳であり、摂政記事が付加され、天皇・皇后の長子とされ、太子期間が長く、没後に尊称が与えられており、3人とも大きな政変の後に立太子されている点に注意します。しかも、厩戸皇子と葛城皇子は、元年に立太子したとされています。

 氏はさらに皇太子を意味する「東宮」について、その宮、東宮に仕える役人などについて検討した後、上記の三皇子の立太子は『日本書紀』編者が「理想的な古代皇太子像として造作したものと考える」と結論づけます。

 そして、皇太子制度の成立を飛鳥浄御原令としつつも、実際の確立を聖武天皇の娘である阿倍内親王が天平10年(738)に立太子した時に求める荒木説を追認し、皇太子制度確立には、天皇の譲位、皇太子即位、新たな皇子の立太子、という図式の確立が必要とします。

 これを逆に言うと、そうした実質をともなわず、名前だけ皇太子と呼ばれる場合があったかもしれないということになりますし、本間氏自身も「単独としての皇太子」があり得たとしています。ただ、その場合は、「その政治的影響力は少しく乏しく、その存在自体も疑問視せざるをえない」と述べ、「厩戸皇子の国政関与は一人の有力皇族としてのものであろう」と説きます。

 確かに厩戸皇子の場合は、制度としての天皇制自体が確立していない時期なのですから、立太子して皇太子となることはあり得ないでしょう。しかし、「国政関与は一人の有力皇族としてのもの」というのは、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ広壮な太子道の発掘などがなされる前の推測ですね。

 私自身は、最近は『法王帝説』が「上宮厩戸豊聡耳命、嶋大臣と共に天下の政を輔く」と述べているのが実際の状況だったのではないかと考えています。当初は馬子主導だったでしょうし、途中で関係が悪くなった可能性はありますが。

明治以後のお札と聖徳太子:植村峻『紙幣肖像の近現代史』

2021年06月12日 | 聖徳太子信仰の歴史
 近代になってからは、聖徳太子は紙幣の肖像として親しまれました。そうした紙幣の肖像について、カラーやモノクロの写真をたくさん載せて紹介しているのが、

植村峻『紙幣肖像の近現代史』
(吉川弘文館、2015年)

です。



 本書は冒頭で、紙幣には人物の肖像がつきものであるのは、ちょっとでも違っていると気がつきやすく、偽造防止に役立つからだと述べ、そうした紙幣の肖像の歴史を概説してゆきます。その第13章「兌換銀行券整理法と聖徳太子登場」は「お札の代名詞だった聖徳太子の初登場」という節で始まっており、以後、戦後の状況を紹介した第17章には「聖徳太子を描いたB1000円券」という節もあります。

 紙幣の人物肖像画は、初めはお雇い外国人キヨッソーネが書いたコンテ画に基づき、日本人彫刻師が彫っていたのですが、聖徳太子の肖像が初登場した昭和5年(1930)の乙100円券は、最初の考証からデザインまで日本人がおこなうこととなり、内閣印刷局図案官の磯部忠一が担当しました。

 磯部は太子に関わる建物、文字、図柄をできるだけ多く盛り込むこととし、「日本銀行」などの字を『法華義疏』の書体で書き、法隆寺の金堂幢の文様を用いるなどの複数の案を示した結果、それらをとりまとめた形で作成されることになった由。ただ、法隆寺や正倉院の宝物などについては、キヨッソーネを含む調査団が既に調査してスケッチを残していたため、それらが参考にされたと推測されるそうです。
 
 顔については御物の二王子像の太子の顔に陰影をつけたえうえ、太子鑚仰者であった東大国史学の黒板勝美にも尋ね、笏を持たせた方が良いとか、明治天皇の壮健時の感じを入れるなどの意見を取り入れて試行錯誤した結果、高貴で理知的な感じ、つまりは理想化された太子像ができあがったわけです。紙幣の右側にその肖像画、左側には夢殿が描かれて完成しました。

 以後、太子の肖像を用いた紙幣は7種類発行されていますが、最初の3回は最初のまま、ないし平版用の版面に直したのみで、以後の4種は、元版を受け継ぎつつ、乙100円劵は森本茂雄、B1000円券は加藤倉吉、C5000円券は押切勝造、C1万円劵は渡部文夫といった彫刻官がそれぞれ彫っており、表情が微妙に違っています。本の表紙に見えるのは、なじみのある1万円の肖像ですね。

 戦後になると、GHQの指令により、軍人などの肖像は禁じられ、岩倉具視・大久保利通・福沢諭吉など明治時代の人物の肖像を用いることになりました。聖徳太子の肖像を継続して使うかどうかについては、GHQと激論がかわされたのですが、日銀総裁の一万田尚登が太子は軍国主義でなく、平和主義であって「憲法十七条」を制定し、博愛精神で政治をおこなったと主張した結果、古代の人物である太子だけは例外として認められました。

 そこで、い100円券に新たに天平の雲と桜を赤色で加刷したA100円券が発行され、以後、最高額の紙幣には聖徳太子の肖像が用いられるのが通例となったのです。ただ、加藤倉吉彫刻官が作成したB1000円券については、昭和37年(1962)に東北・関東で広まった精巧な偽1000円劵事件(チ-37号事件)により、聖徳太子の肖像はそのままにして図柄に訂正を加えた新しい1000円券が発行されたそうです。

 いや、聖徳太子のお札もいろいろ歴史があって面白いですね。 

「厩戸王」を用いず、聖徳太子と呼ぶ最新刊の古代史概説本:大津透『律令国家と隋唐文明』

2021年06月09日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説は、太子を尊崇する黒板勝美や坂本太郎など東大国史の研究者たちが作りあげた「聖徳太子と大化の改新を重視する古代史パラダイム」をひっくりかえそうとする試みでした。

 そうしたパラダイムとはやや距離を置き、太子については三経義疏を客観的に検討してすぐれた論文を書いた井上光貞以後、東大文学部の日本史研究室には、太子崇拝者の研究者はもちろんのこと、太子研究に力を入れる研究者そのものがいなくなりました。

 先日、紹介した佐藤信氏の本にしても、太子の活動には否定的であって「厩戸王」の語を用いており、「憲法十七条」や三経義疏については、論文を書いて自説を述べるほどは詳しく検討していないためか、これらについては触れずに終わっています(こちら)。

 ところが、その東大日本史研究室の大津透氏が今年の2月に出した本では、「聖徳太子」の語を用い、その活動をある程度認めています。

大津透『律令国家と隋唐文明』
(岩波新書、2021年2月)

です。

 古代史を専門し、日本と唐の律令の比較や支配形態などに関する精密な研究で知られる大津氏は、「憲法十七条」については推古朝のものと見る自説を出しておられるものの、「天寿国繍帳銘」や三経義疏などについては、諸研究者の成果に基づいて判断している部分が多いようです。

 この本では聖徳太子という名を用いており、『日本書紀』の太子関連記述についても比較的認めています。ただ、

聖徳太子信仰との関係で有名な「和を以て貴しとなす」(一条)、「篤く三宝を敬へ」(二条)など、仏教思想が中心のように考えられ、また一般的な道徳訓戒と考えられることも多い。(2頁)

とあるうち、「聖徳太子信仰との関係で有名な」というのは、曖昧な書き方ですね。

 実は、「憲法十七条」は後代の聖徳太子信仰とはあまり関係がありません。「憲法十七条」を作成したという点を重視するのは、権力にかかわっているような限られた上層の人ばかりであって、一般の人々は観音の化身とか、極楽浄土への導き手という点で信仰していたのであって、聖徳太子を熱烈に信仰していた親鸞も、「憲法十七条」については和讃でちょっと触れているだけです。

 「憲法十七条」第一条が説く「和」が広く知られ、重視されるようになったのは、おそらく近代になってからでしょう(こちら)。「憲法十七条」の「和」が教科書に初めて載ったのは、国民が「和して」一体となり、鬼畜米英との戦いに勝利するのだとされていた戦時中のことでした。

 あるいは、上の文は、聖徳太子が作成し、以後、その太子信仰でも重視された、ということでしょうか。それはともかく、大津氏は、

聖徳太子の死去の後、その妃橘大郎女が推古天皇に願い出て勅命で作られた刺繍による浄土図で……美術史の側からは、これを推古朝の遺品と考えて問題ないようである。(14頁)

とか、

新羅が任那とともに倭に遣使し、聖徳太子の死を悼んでか、仏像・金塔・舎利を献上した。(21頁)

とか、推古天皇が亡くなった状況についても、

喪儀が終わっても後継者が定まらず(聖徳太子はすでに亡くなっていた)……(22頁)

と記すなど、『日本書紀』の太子関連の記述をかなり認めています。

 また、天皇の語については、『天皇の歴史1 神話から歴史へ』(講談社、2010年)の段階から、推古朝において外交の場面で用いられたと説いていました。隋は認めなかったろうとしており、その通りと思われます。

 「厩戸王」の語は、今後は次第に使われなくなるでしょうから、おそらく、史学界では、聖徳太子については後代に神格化されて作成された伝説が多いとしつつも、上記のように、推古朝において天皇後継者として活動し、仏教に力を入れていたとする見方が今後の主流になってくるものと思われます。

湯岡に来遊したのは聖徳太子でなく九州王朝の王者だとする妄説を一蹴:白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」

2021年06月06日 | 論文・研究書紹介

 大山誠一氏と同様に、いくら証拠を示して批判されても主張を変えないのが、かの九州王朝説の信者たちです。古田武彦氏は、初めは親鸞関連の文書について文献学的に精密な論文を書いて評価されていたのですが、九州王朝説を唱えだした頃からこじつけ文献学に変貌し、強引な自説を支えるためにさらに強引な議論を展開するようになり、最後は『東日流外三郡誌』のような明らかな偽作文書にすがるようになったのは残念なことでした(ただ、『法華義疏』について重要な指摘もしています)。

 九州王朝説が登場してから50年近くになります。その間、飛鳥や斑鳩では『日本書紀』に書かれた記事を裏付ける遺跡や出土品が数多く発見されているのに対し、九州では都市開発、宅地開発が大幅に進んだにもかかわらず、九州王朝の存在を裏付けるような遺跡や碑や木簡などはまったく発見されていません。

 ただ、そんなことでは考えを変えないのが信者の信者たる所以です。この人たちは、自分たちは大和王朝説に立つ反動的な皇国史観の図式から抜け出せずにいる学界や世間の人々を是正してあげているのだ、自分たちこそ合理的かつ民主的な学問をしているのであって、正義の味方なのだと固く信じているため、反論されればされるほど意固地になっていくのです。善意に基づいてワクチン陰謀説を広めるようになったトランプ大統領支持者たちみたいですね。

 学界ではまったく相手にされていませんが、歴史好きな市民たちに対する影響は大きく、意外なところにまで及んでいます。たとえば、「歴史を愛好する者の一人」だという合田洋一氏などは、明治大学の史学専攻を卒業しておりながら、古代史について書くとなると、序の冒頭第一行で「古代史ほどロマンを掻き立てるものはない」と断定する姿勢のためか、

合田洋一『聖徳太子の虚像-道後来湯説の真実』
( 創風社出版、2004年)

のように、古田説に基づくトンデモ本を出してしまうのです。これを小気味よく一刀両断したのが、

白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」
(『伊豫史談』339号、2005年10月)

です。

 愛媛大学で長らく教え、近松門左衛門などの研究で知られる白方氏は、『源氏物語』研究会に参加し続けた副産物として『紫式部日記臆説』(風間書房)を書いています。この本は、紫式部は不美人だったのかとか、『尊卑分脈』では藤原道長の「妾」と書かれているが本当かといった問題について、軽妙な筆で論じており、楽しい本です。

 このため、私は会ったこともないのに、『紫式部日記』研究の先輩として勝手に親しく思っていました(私の学問の出発点は、浪人の頃に取り組んでいた『紫式部日記』です)。しかし、聖徳太子に関する論文も書いていたというのは、数年前に知ったばかりです。

 さて、その白石氏は、「法興六年十月」に伊予の温泉に「法王大王」たる「上宮聖徳皇子」が来遊したと記す『伊予国風土記』の佚文をとりあげ、九州王朝の「法王」と「大王」という二人の兄弟王が来たのだと説く古田説を批判します。

 白石氏は、『日本書紀』が天皇となる予定の「王(=皇子・皇女)」を「大王」と呼んでいる例を示します。そして、碑の序では「我が法王大王」と親しみを持った呼び方をしていることに注目し、「法王大王」を「法大王(のりのおおきみ)」と同じ用法とし、兄弟王とする解釈を否定します。

 「法王大王」の表現のうち、「法王」が『維摩経』に基づくことには気づいておられないですが、「法大王」を仏教熱心な「のりのおおきみ」という生前の尊称と見る点は私と同意見ですね(このブログで湯岡碑文について書いたのは、こちらこちら)。

 白井氏はさらに、古田氏は『失われた九州王朝』では「法興」を九州年号の中に入れていなかったものの、後の『法隆寺の中の九州王朝』では、「法王大王」を「法王」と「大王」に分解して二人の兄弟王だとし、「法興」は九州王朝の「傍系」の年号だと説くようになったと述べ、その無理さを指摘します。

 九州年号で言えばこの時期は「吉貴」3年に当たるため、別々の年号を使っているなら二王朝となるはずですし、兄弟統治なら年号は一つで良いはずだからです。「傍系」の年号というのは、いったい何なのか。

 また、伊予については、『万葉集』では斉明天皇に従って来た額田王が伊予の熟田津(にぎたつ)で歌を詠んだとされているものの、古田説では熟田津は伊予にはなく、九州の佐賀県の「新北」だとしていました。白石氏は、「新北」なら「にひ・きた」であり、「に・きた」に変化することはありうるものの、「にき・た」である「熟田津」と表記するのは不自然と説きます。

 ところが、合田氏の本では、その性格不明の「法興」を九州王朝の確定した年号としたり、熟田津の歌についても九州の「額田王」の歌であって、大和王朝がそれを大和王朝の「額田王」の歌だと書き換えた可能性があるとするなど、強引さが増しています。

 白石氏は、こうした合田氏の解釈法については、大和王朝が九州王朝の事績を書き換えたとする九州王朝説論者は、古代の歌のほとんどについて、作った場所や作者を勝手に変えることができてしまうと説き、その恣意的な解釈法を批判します。

 このほか、いろいろな主張をとりあげて九州王朝説信者たちの弱点をついていますが、氏がこうした批判を書いたのは、古代史好きの一般市民だけでなく、研究者の中にもそうした路線で書く人たちが出てきたのを見て危機感を覚えたためでした。これは、聖徳太子虚構説が一般世間に広まりつつあったのを見て危機感を覚え、このブログを始めた私と似てますね。

 むろん、九州王朝説説信者ではない研究者でも、松原弘宣氏のように太子の伊予来訪を瀬戸内海交通史の観点から否定している研究者もいます。こういう異説は学問では当然ありうるものであって、論争がなされればなされるほど研究は進展しますので、松原氏の主張については、いずれ取り上げましょう。

 なお、白石氏の批判論文のうち、碑文を書いた人物については、私は白石説に賛同できないため、こちらについてもそのうち書きます。

【追記:2021年6月7日】
合田洋一氏について、ひかりごけ事件や紅白歌合戦などについてすぐれたノンフィクションを書いていると記しましたが、似た名前の別の「合田」氏のことであって誤解でした。その部分を削除します。
【追記:2022年4月17日】
松原氏の本を批判的に検討した記事を書いたものの、ここに付記しておくことを忘れてました。こちらです。


盟友も撤退し、聖徳太子虚構説は終わった:吉田一彦「文明としての仏教受容」

2021年06月03日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説は、大山誠一氏が提唱し、盟友の吉田一彦氏が道慈作文説を補強して始まりました。しかし、当初は信仰的な聖徳太子像を大胆に否定する大山氏の姿勢に共感した人たちも、虚構説の個々の主張の無理さが知られるようになり、また「私の説にこれまで学問的な反論はない」とうそぶき続ける大山氏のもの言いに反発して次第に離れていきました。

 賛同していた人たちも一人また一人と消えていった結果、不比等・長屋王・道慈が『日本書紀』編集の最終段階で、斑鳩に宮と寺を建てた程度で国政に参加するほどの力はなかった「厩戸王」をモデルとし、律令制における理想的な天皇の模範となる<聖徳太子>像を作ったのであって、実際に書いたのは道慈だとする大山説については、吉田さんが支持する論を時々述べるだけになったことは、このブログでも紹介してきたところです。

 ただ、反対説を具体的に検討しようとすらしない大山氏と違い、吉田さんの場合は、10年ほど前に書いた論文では、虚構説の枠組みを維持しつつも、この問題を東アジア全体の中で考えようとしており、森博達さんや私の虚構説批判も読んで論文で紹介するなど、文献学者としての姿勢を見せていました(こちら)。

 こうした点は、大山説批判の抜刷を送っても返事をせず、自分の論文でも触れようとしない大山氏との違いですので(ですから、送るのはやめました)、私は吉田さんとは学問的な交流が続いています。

 ところが、このブログで取り上げるのを忘れていましたが、その吉田さんが、古代日本仏教を概説した最近の論文では、この問題から撤退していました。

吉田一彦「第一章 文明としての仏教受容」
(大久保良峻編『日本仏教の展開』、春秋社、二〇一八年)

です。

 吉田さんは、この章の第一節の「六、七世紀の仏教」では、「全体の概観ー六、七、八、九世紀の日本の仏教」「仏教の初伝説話」「飛鳥寺の成立」「中央の寺院の諸相」「地方豪族の寺院」「現存最古の写経」に分けて論じていますが、「聖徳太子」も「厩戸王」も出てきません。むろん、斑鳩寺も四天王寺も同様です。

 蘇我馬子が百済からの贈与を受けて寺院を造営した、とあるのみです。これだと、馬子は受け身だったように見えますが、最近の研究では、新羅と対立し、軍事支援を求めて日本に仏教を何度も送ろうとしていた百済が、仏教を広めようとする馬子からの要請を受けて技術者を派遣したとする見方が増えているように思います。
 
 それはともかく、聖徳太子も厩戸王もまったく登場しないものの、吉田さんが大山氏とともに博学さを強調し、理想的な聖人としての<聖徳太子>像を記述したとその役割を強調してきた道慈については、第二節の「八世紀の仏教」のところに「中国仏教の本格的受容ー道慈の活動」という項目が立てられていました。

 そこでは、道慈が唐の仏教を本格的に導入したことが紹介されていますが、末尾では、『日本書紀』の仏教伝来記事の作成に関わったのは道慈だとする説があり(井上薫氏ですね)、自分はそれを「継承、発展させて仏教伝来記事およびそれに続く一連の関連記事は道慈によって作成された蓋然性が高いと論じた」(22頁)と記されていました。

 つまり、「それに続く一連の関連記事」という曖昧な書き方になっており、道慈が聖人としての厩戸皇子の記事を書いたという主張は表に出なくなっています。厩戸皇子関連の記事を書いたかどうかはともかく、仏教伝来記事は道慈が書いたのだという点だけは守りたいという姿勢、あるいは、現在どう考えているかはともかく、過去にそうした主張をしたことは事実だと認める姿勢ですね。

 厩戸皇子関連の記事を含め、『日本書紀』の仏教記事は和習だらけであって、唐に16年も留学した道慈が書くはずがないとする批判や、だから道慈作文説は撤回するのか部分的に維持し続けるのかなどには触れず、道慈関与については、「蓋然性が高いと論じた」という過去形で終わっています。

 もし、これまで支持してきた大山説と自らの道慈作文説に確信があるなら、道慈が『日本書紀』で描いた理想的な<聖徳太子>像によって、以後の日本仏教は大きな影響を受けたと書くべきでしょうね。

 「定説となってきた聖徳太子に重点を置く古代史パラダイムをひっくり返してやる!」という意気込みが強すぎて、道慈問題では勇み足をしたものの、文献研究ができる吉田さんは、形勢不利と見て軸足を東アジアの神仏融合研究に移し、そちらですぐれた成果をあげているため(こちら)、過去の虚構説の主張は撤回したと明言しないまま封印したように見えます。

 しかし、このブログの先の記事に書いたように、奈良末から平安初期にかけては、太子の慧思後身説が天台宗の進展と重なってきわめて重要な役割を果たしています(こちら)。

 以後も聖徳太子信仰は鎌倉時代には熱烈な聖徳太子信仰が広まっており、これを無視して鎌倉仏教を語ることはできませんし、以後の仏教についても、伝記・美術・儀礼その他の面で聖徳太子信仰が与えた影響の大きさは、はかりしれません。『日本書紀』編集の最終段階で創作され、奈良時代に神格化が進んだという立ち場からの記述であれ、聖徳太子に触れないと、8世紀と以後の日本仏教の説明が難しくなるはずです。

 一方、長屋王については、今回の吉田論文には「貴族の仏教ー長屋王家木簡の世界」という項目があり、邸内に僧・尼・沙弥などがいたうえ、仏像と聖僧像がまつられていて食事の供養がなされていたり、大量の写経をしたことなどが説かれています。

 論文では聖僧像については説明されていませんでしたが、聖僧像は僧侶達が食事する食堂(じきどう)に祀られる像であって、この像があるということは、かなりの数の僧侶が住んでいたことを示します。ところが、大山氏の虚構説では、聖徳太子を三教の聖人とするに当たって、道教好きの長屋王が道教の部分を担当したということになっていました。

 虚構説が発表された時点でも、長屋王の熱烈な仏教信仰は既に学界で知られていましたが、大山氏は長屋王邸の木簡の研究で本を書いているほどの専門家でありながら、その長屋王の仏教信仰には触れず、道教好きという点だけを強調していたわけです。それが、今回の吉田さんの論文では、道教には触れられず、いかに仏教に熱心だったかだけが説かれています。

 というわけで、考古学・美術史その他の最近の研究成果を無視し、宗教でもあるかのように虚構説を説き続けている大山氏(こちら)をのぞけば、『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が勢力のない「厩戸王」をモデルにして三教の理想的な聖人としての<聖徳太子>を創作したとする大山流の聖徳太子虚構説は、これで実質的に終わったと言って良いでしょう。

 むろん、『日本書紀』の厩戸皇子が異様に神格化されて描かれていることは確かであって、それらの記述をそのまま史実と認めることはできません。厩戸皇子が実際にどの程度の活動をしたかについては、現在も諸説がありますので、これからも批判的な検討が続いていくでしょう。今後はむしろ、『日本書紀』や様々な伝承を鵜呑みにし、戦前・戦中のようにやたらと聖徳太子を持ち上げて政治的に利用しようとする動きを警戒すべきであるように思われます。