聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

三経義疏の変則語法について論文を執筆中

2010年06月28日 | 三経義疏

 前回の拙論「三経義疏の語法」は、紙数の制限により、ごく簡単な紹介しかできませんでした。そこで、補足の論文を書くことにしました。学部の論集の締め切りは今月30日ですので、授業と卒論指導の合間に、あと2日で完成させないといけません(刊行は12月?)。このため、この1週間はいつもながらの泥縄生活となっています。メモをもとにまとめ始めたところ、驚いたのは、『勝鬘経義疏』の冒頭部分は、これまで考えていた以上に倭習だらけだったことです。

 金戸守氏の論文、「勝鬘経義疏表現の問題点」(『聖徳太子研究』2号、1966年5月)は、題名が示すように「即」などの誤用を指摘したものですが、四天王寺が経営する大学の教員であって、聖徳太子絶讃派の一人であった金戸氏は、『勝鬘経義疏』の序について「六朝四六駢儷体の大文章である」と評し、「玉のような響きのある文字で」云々とほめたたえています。

 そうでしょうかね。「即」の用法を間違うような著者が、完璧な四六駢儷体の文章を書けるはずがないと考えるのが常識ではないでしょうか。思想として意義があることと、文章が古典漢文の規範にのっとって書かれているかどうかは、まったく別な話です。私は三経義疏はかなり特色のある注釈だと考えていますが、「まことに仰ぐべく誦すべき透徹した結晶体のような感じがある」などと言われると、とてもついていけません。

 文法の間違いもありますし、対句の構成も不十分、おまけに口語が混じってます。2度出てくる接続詞的な「所以」がそうです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」などとなっていれば美文と言えるでしょうが、「諸行無常の響きあり。だから、娑羅雙樹の花の色……。だから……」などとなっていたら、どうでしょう。こうした注釈は、講義のためのノートや講義の筆録を整えたものが多いため、経典解釈の部分に口語が混じるのであれば、中国の注釈にもよく見られることですが、序は違います。これは皆な苦心して美文に仕立てるものです。

 『勝鬘経義疏』が中国撰述かどうかについては、藤枝晃先生以来、大論争がなされてきましたが、あれこれ論ずるまでもなく、原文冒頭の数十行を丁寧に読めば結論は簡単に出たはずです。日本史の分野で中国撰述説が主流となったのは、漢文の原文を読まず、意味が通りやすいように工夫された訓読文しか読んでない人がいかに多かったか(あるいは、それすら読んでいなかったか)を示すものですね。原文で読んだとしても、四天王寺の会本などであれば、訓点がついていますので、実際には訓読文を読んでいるのと同じですけど……。


津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち

2010年06月26日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 近代的な聖徳太子研究を推進した初期の立役者が、久米邦武と津田左右吉であることについては、おそらく異論はないでしょう。二人とも非難されて職を辞するに至っていますが、久米の辞職は「神道ハ祭天ノ古俗」論文事件によるものです。信頼できない資料を切り捨てた久米の『上宮太子実録』(1904年)は、太子は黒駒に乗って空を飛んだといった伝承を否定し、確実と思われた資料のみによって、太子を明治期日本の手本となるような、外交に巧みな政治家として位置づけようとするものでした。

 その『上宮太子実録』の再刊を久米に依頼したのは、聖徳太子顕彰の運動をしていた上宮教会であり、本書は『聖徳太子実録』という名で1919年に再刊されました。つまり、久米は文献批判に基づく聖徳太子研究のせいで迫害されたのではないのです。

 一方、津田左右吉を激しく攻撃して告発し、著作の発禁にまで追い込んだ者たちの多くは、強烈な聖徳太子礼讃者でした。私は、聖徳太子に関する津田の個々の説については反対であることが多いものの、津田が創設した研究室で学んだ身であって、その幅広い学識と自らの学説を貫き通した気概を尊敬してきましたので、10年ほど前からこの迫害事件について調べるようになりました。

 そこで驚いたのは、津田の古典研究を非難攻撃したのは、神道系の国家主義者でも、軍国主義と結びついていた法華信仰系の国家主義者でもなく、和歌の革新団体から出発した親鸞讃仰グループであって、親鸞が尊崇していた聖徳太子を絶讃する超国家主義者たちであったことです。

 彼らは、近代の西洋文明を取り入れなければならない日本の状況と、伝統文化を守りたいという願望の間で悩み、理想的な手本を聖徳太子のうちに見いだしていました。つまり、海外文化を自主的に取り入れつつ中国と対等の外交をし、三経義疏では中国の学僧たちの解釈に基づきながら時には堂々と反論して超絶的天才ならでは深遠な解釈を示した、とするのです。海外文化を取り入れつつ、伝統文化を守った(和歌も詠むなど)点では、明治天皇も同じことになりますので、彼らは明治天皇と聖徳太子のイメージを重ねつつ、自己流の聖徳太子研究に励み、また明治天皇御製の和歌をひたすら誦することをもって修行としていました。

 そうした彼らにとって、聖徳太子関連の文献を批判的に検討して太子の事跡を疑うような研究は、日本そのものを否定する試みのように見えたのです。そのグループの指導者であった三井甲之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(一)--原理日本社の三井甲之の思想--」(『駒沢短大仏教論集』8号、2002年10月)、有力な理論家の一人であって「世間虚仮、唯仏是真」という太子の言葉を変えて「国際的世間虚仮、唯日本是真」と主張した木村卯之については、「親鸞を讃仰した超国家主義者たち(二)--木村卯之の道元・親鸞比較論--」(『駒澤短期大学研究紀要』34号、2006年3月)を発表しました。

 また、この二人から大きな影響を受け、津田攻撃の文章を書きまくって「不敬罪」で告発した蓑田胸喜とその仲間については、「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)で簡単に紹介しておきました。

 蓑田が昭和14年に刊行した小冊子、『津田左右吉氏の大逆思想』では、6点をあげて津田説は反国家的なものだと非難していますが、その第5点は「津田氏の日本精神東洋文化抹殺論」、最後の第6点が「津田氏の聖徳太子十七条憲法・三経義疏擬作論」です。蓑田は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述を疑う津田のことを、「悪魔的虚無主義の無比凶逆思想家」などと言って非難しています。彼らにとって、津田の説がどれほど危険な思想と思われたかが分かりますね。

 彼らの活動の結果、検事局が津田を出版法違反で起訴して裁判となり、津田は早稲田大学を自ら辞職するに至っています。上代史に関する津田の著作は発行禁止となりました。

 しかし、津田は、実際には明治人らしいナショナリストであって、天皇を深く敬愛していました。ただ、軍国主義風な天皇観や、東洋は文化的に一体であって日本はその盟主なのだなどといった主張には強く反発しており、『日本書紀』をそのまま信じて狂信的な主張をする者たちについては、彼らこそが日本の伝統を歪曲するもの、日本を滅ぼすものとして、強い危機感を持っていたのです。

 蓑田は、狙いをつけた進歩的な学者たちを次々に攻撃して大学から追いやり、津田についても著作の発禁にまで追い込むことに成功しましたが、やがて仲間の間でも孤立するようになって活動から離れ、敗戦後に自殺しています。蓑田などの登場の背景を論じた書物のうち、入手しやすいものとしては、片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)などがあります。

 こうした聖徳太子絶讃派による戦前の聖徳太子研究については、参考にすべき指摘も少しはあるものの、全体としては思い込みが先行していて学術的論証になっていない場合がほとんどです。また、国文学を学んだ三井甲之や真宗の僧侶であって龍谷大学で教えた井上右近などを除けば、彼らは西洋の学問を本業としていた者が多く、仏教や中国思想については素人であって、当時の東アジアにおける国際状況の考察なども不十分であったため、今日の学問レベルからすれば、ほとんど使えません。同じ戦前からの礼讃派であっても、東大で日本仏教史を教えた花山信勝の研究は、偏見が強くて問題があるものの、文献学的な調査の部分に限って言えばさすがに厳密であって、今日でもほとんどそのまま使えますので、そこは大きな違いです。

 そのような太子研究を含む戦前の国家主義を反省し、史実としての聖徳太子と信仰の対象とされた聖徳太子の違いを区別しようとした代表が、広島文理大学の小倉豊文です。津田が示した方向をさらに進めて詳細な検討を行った小倉の研究は、まさに画期的でした。長年の研究成果をすべて戦災で焼かれ、広島原爆で被爆した身に鞭打ってまとめられた小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は、1971年)は、今日では訂正されるべき記述をかなり含んでいるものの、太子を研究する者すべてが読まねばならない誠実な研究であり、感動の名著です。

 一方、その津田や小倉を受け継いで文献批判を推し進めたと称する大山誠一氏の研究は、『日本書紀』などの記述をすべて信じて太子を超絶的天才と絶讃する戦前の超国家主義者たちの主張を裏返しにしたような面があり、片端から「陰謀」「捏造」だとして否定し、儒仏道と唐の政治情勢に通じていた道慈の述作によるとするばかりで論証が不十分であるのが実状です。つまり、超国家主義的な太子礼讃者たちと太子実在否定論の大山氏とは、評価の基準が違うだけで、論じ方自体はかなり似ているのです。


 近代以来の聖徳太子の意義付けというのは、現代の我々の聖徳太子観に大きな影響を与えているため、このブログでは、太子に関する伝承を疑う立場の研究だけでなく、この津田左右吉迫害事件を中心として、様々な系統の聖徳太子礼讃者たちの言説についても注意を払っていきます。


大山誠一説における「藤原不比等・長屋王・道慈」観の問題点

2010年06月24日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山説では、律令体制の確立に努めた藤原不比等が儒教、高貴な生まれで神秘的な思想に傾倒していた長屋王が道教、長い留学を終えて唐から帰ったばかりの三論宗の学僧、道慈が仏教の面を担当し、この三人で理想的な聖天子としての聖徳太子像を創造したとしています。

 しかし、漢字文化圏諸国において漢字を学ぶ人は、誰でも儒教を学んでいました。また、「道教」と言ってしまうと問題ですが、老荘思想や神仙思想であれば、知識人の多くは教養としてある程度の知識を身につけていました。仏教の場合は日本はそれ以上であって、国家の方針として仏教が受容された後は、中国のように儒教や道教が自立して仏教と対立することがなかったこともあって、非常に熱心に学ばれたようです。天皇の「奉為[おんため]」と自らの父母などの追善を願ってなされる造寺造像や法会は、国家に対する忠誠を示す証拠となっていたことも見逃せません。

 ところが、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教、という役割分担の図式を説く大山氏は、そうしたことに触れません。『日本書紀』の仏教伝来の記事では、『金光明最勝王経』の表現を利用して、仏教の素晴らしい法は儒教の聖人である「周公・孔子」すら知らないと明言されているため、これは最新訳である『最勝王経』をもたらした道慈が書いたのであって、僧侶である道慈は「大変な儒家嫌い」であったとするのです。

 しかし、そうした人物が、「憲法十七条」のように仏教・儒教・法家・老荘などの思想が混在している文献、それも儒教色がかなり濃厚な文献を書くでしょうか。唐代でも、僧侶の上層部は道教とは対立しつつも、儒教に対してはかなり融和的でした。いわば、儒教を仏教の下位に置いて世俗の教えにとどまると位置づけつつも、現実における儒教の役割を認めていたのです。もし道慈がひどい儒教嫌いであって「憲法十七条」を書いたとしたら(私は文体から見てありえないと考えていますが)、「憲法十七条」はもう少し違った風になったのではないでしょうか。

 道慈自身は儒教嫌いであったものの、不比等の意向で儒教的な要素を盛り込まされたのだという反論がなされるかもしれませんが、だったら、「憲法十七条」については早くから法家的な要素が指摘されていること、是非の論議など、『荘子』を思わせる箇所もあることなどは、どう説明するのでしょう。それらの部分も不比等の指示なのでしょうか。大山氏は、「憲法十七条」は儒教が基調だと述べる一方で、仏教によらなければ悪はただせないという箇所などは、儒家嫌いの道慈ならでは文章だなどとするのみであって、これまで研究の蓄積がある法家的な箇所や『荘子』風な箇所については、詳しく検討していません。

 次は、長屋王です。長屋王のサロンでは、老荘思想、神仙思想にもとづく漢詩が盛んに詠まれていたことは事実です。しかし、長屋王が仏教と無縁であったわけではありません。『日本霊異紀』では、僧侶を供養する大がかりな法会の際に、比丘にまじって飯を得ようとした沙弥の頭を長屋王が打って血を流したため、護法善神に嫌われ、讒言を受けて自殺させれるに至ったのであり、身分の高さを誇ったこうした行為が自殺に追い込まれた要因だ、とする説話も見えていますが、一方では長屋王は熱心な仏教信者であったとする資料も残されています。長屋王が書写させた多くの経典もその一つですし、鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』によれば、日本への来訪を懇願された鑑真が、「長屋王は仏教を尊び、袈裟を千領作って唐の僧に布施した。その襟には、『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』と刺繍してあった」と述べているのは、有名な話です。しかし、大山氏は長屋王は道教好みであったという点を強調するだけであって、こうした話にまったく触れません。

 その「道教好み」という点も記述の仕方には問題があります。大山説の出発点となった『長屋王木簡と金石文』(1998年)では、道教的な聖徳太子像の代表例とされた『日本書紀』の片岡山飢者説話の部分を説明する際は、2度も「尸解仙する」という言い方をしています(267頁)。しかし、「尸解仙」とは、そうした神秘的な死に方を示した仙人のことなのですから、「~する」というのであれば、「尸解する」というのが普通です。「尸解する」とその人は「尸解仙」とみなされるのです。仏教で似た例を挙げると、「往生する人」が「往生人」ですが、「尸解仙する」というのは、「往生人する」と言うのと同じくらい奇妙な表現です。もし、奈良朝の浄土思想に関する画期的新説と自称する論文を私が読むとしたら、その論文が「往生人する」という表現を2度用いているのを見た段階で、私は著者の素養はその程度のものと判断して読むのをやめるでしょう。

 さらに問題なのは、大山氏が儒教指向であったとする藤原不比等です。不比等の息子たちが長屋王のサロンに参加し、老荘的、神仙的な漢詩を盛んに作っていたことはよく知られていますが、そうした傾向は不比等自身にも認められます。たとえば、最初の勅撰漢詩集である『懐風藻』では、不比等の漢詩を五首収録しています。第2首が「隠逸」に触れているのは、そうした人物ですら現在の聖朝に仕えるだろうというものですので、儒教的立場の作としても、第3首と第4首は神仙の地とされた「吉野に遊ぶ」と題する漢詩であって、両首とも鶴に乗る神仙に触れており、第5首では七夕にあたっての織女の悲しみを詠っています。儒教的な内容とは言えません。

 最も注目すべき第1首目である「元日、應詔 一首」は、こうなっています。

   正朝觀萬國 元日臨兆民 齊政敷玄造 撫機御紫宸
   年華已非故 淑氣亦惟新 鮮雲秀五彩 麗景耀三春
   濟濟周行士 穆穆我朝人 感徳遊天澤 飮和惟聖塵

 天皇の命によって詠んだ作だけに、元日に天皇は万国の民をみそなわし、多くの国民に臨みたまうという句で始め、瑞祥を示す春のめでたい景色を描き、我が朝にはすぐれた人物で満ちているとし、徳の高い天皇のみ恵みのおかげで人々は平和を楽しんでいる、といったお祝いづくしの儒教的な内容ですが、末尾の「飲和」が『荘子』則陽篇に基づくことは早くから指摘されています。つまり、儒教一本槍ではないのです。

 さらに、胡志昴「藤原門流の饗宴詩と自然観」(辰巳正明編『懐風藻--日本的自然観はどのようにして成立したか)』、笠間書院、2008年)によれば、末尾に見える「聖塵」の語も『荘子』に基づくことが指摘されています。すなわち、『荘子』逍遙遊篇では、荘子が、神人というのは、その塵や垢で古の聖帝とされた堯や舜を作ることができるほどのすぐれた存在なのだから、俗世のことなどどうして気にかけようか、と発言しており、『荘子』の代表的な注釈である晋の郭象の注では、聖人とされる堯や舜の政治上の功績は、本当は聖なる神人である堯や舜の真の姿の塵や垢にすぎないのだ、と解釈していることを指摘し、不比等の漢詩に見える「聖塵」はこうした議論を踏まえているとしています。
 
 つまり、不比等のこの詩は、元日の荘重な宮中儀礼に示される儒教的な聖帝のもとでの太平の世を称えることで始まっているものの、『荘子』や六朝時代に流行した玄学的な『荘子』解釈にもとづき、そうした素晴らしい儒教の聖人の治世よりも『荘子』などが説く「無為自然の治」の方が上だと見ているのです。不比等が律令制確立のために努力したことは事実であるものの、教養ある大臣としては、現在の天皇は人為的な努力に努める儒教の聖帝ではなく、その真の姿はさらに優れた無為自然の神人なのであって、この目出度い泰平の治世ですらその「聖なる塵」にすぎないという形で今上天皇をそうした神人になぞらえて讃えているのです。

 つまり、今上天皇を『荘子』の図式の中でとらえているのです。しかも、これは天皇の命によって元日に提示した公式な祝賀の漢詩です。当時は、天皇も臣下たちも、そうした趣味を共有していたということになります。律令による政治だけを最上のものとしていたわけではありません。胡志昴氏の論文は最近のものですが、右の漢詩に老荘的な要素が見えることは、何十年も前から指摘されていました。

 以上のことから、不比等は儒教派、長屋王はもっぱら道教・神仙好み、道慈は儒家嫌いの僧と規定したうえで、彼らが儒仏道の聖人としての聖徳太子像を創造したとする大山氏の説は、自説にとって好ましくない資料を切り捨てたうえで作り上げられた割り切りすぎの図式であることが知られます。大山氏の「聖徳太子非実在説」は、自説にとって不利な資料に真っ向から向き合い、そうした資料たちと格闘する中で生まれてきた学説ではないのです。そのような大山氏が、大山説を根底から崩すことになる森博達さんの批判などを無視し続けているのは、当然のことでしょう。

【2010年8月22日 追記】

大山氏は長屋王の道教志向の面を強調するばかりで、仏教信仰に言及しないと書いた件ですが、氏の最初の関連論文である「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年・10月)、および同論文を収録した『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)では、長屋王は空想的だっとし、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし」という一文だけが仏教信仰に触れています。しかし、長屋王の「多宝仏や弥勒の信仰」に関する氏の議論は誤りですので、別に論じることにします。


玉虫厨子の源流を追って : 上原和『法隆寺を歩く』

2010年06月23日 | 論文・研究書紹介

 玉虫厨子について触れた以上、上原和先生の新刊、『法隆寺を歩く』(岩波新書、2009年12月)にも触れないわけにはいきません。

 85歳の誕生日を前にして、「五十余年にわたる法隆寺研究の集大成とも云うべき本書」(あとがき、213頁)を書き上げた上原先生の熱意には感嘆するばかりですが、末尾の文献一覧を見れば明らかなように、利用されている文献の多くは、70年代、80年代頃までのものが多くなっています。

 ですから、本書は、玉虫厨子に魅せられ、解体調査にも立ち会い、百済や新羅の遺跡、さらには北朝鮮の高句麗の遺跡、敦煌、ソ連、アフガニスタン、インド、パキスタンその他の諸国・諸地域をめぐってその源流を調査した情熱的な美術史家の貴重な体験譚とそれに基づく見解を知る、という点を主にして読むべきでしょう。諸国・諸地域の捨身飼虎説話やその図における虎の子の数が違う原因をつきとめた部分などは、まさに執念のたまものです。

  また、敦煌莫高窟を調査した際、晩唐の第九窟の主室龕内の背面に、『金光明経』の本生譚と『涅槃経』の雪山婆羅門の本生譚、すなわち、捨身飼虎図と施身問偈図が左右に描かれており、まさに玉虫厨子と一致することを発見した時の描写は感動的です。作成年代としては、玉虫厨子の方が古いですが、この敦煌の壁画によって、玉虫厨子の手本となった図が中国にあったことを知ることができるのです。

 最新の発見としては、2004年に発掘されて話題となった斑鳩寺(上原先生は、「鵤寺」の表記を用いてます)の火を浴びた彩色壁画片について、天寿国繍帳の「僧侶たちの下裳を連想させる衣装の縞模様」や「蓮華座をおもわせる蓮弁の先端」に似た図柄があった由(70頁)。

  一方、「おそらく、推古天皇は甥の聖徳太子を偲んでは朝な夕なこの玉虫厨子の前に跪いて合掌していたことと思われます」(78頁)とか、橘夫人厨子は「三千代が美努王と暮らしていた時分に、聖徳太子の奉為の念持仏として寄進したものと、私は推測しています」といった部分などは、ロマン的な推測であって、十分な論証がなされているとは言いにくいものがあります。ただ、そうした場合は、上記のように、「思われます」とか「推測しています」と書いておられます。また、書物についても、これこれについては何年に読んだが、これこれは読んでないとか、これこれの面は分からない、などと正直に書いているのが上原先生らしいところです。

 「法隆寺を歩く」という題名になっているのは、西洋美術研究者であった32歳の時、学生たちと法隆寺を訪れて衝撃を受けて以来、70歳の定年に至るまで、毎年、学生たちを引率して法隆寺や大和の古寺を訪れてきた体験を生かし、美術史のガイドをしてもらいながら実際に法隆寺を歩いて回っているような形で書かれているためです。個性ある本と言えるでしょう。

  なお、上原先生の聖徳太子観については、公開講演「 『憲法十七条』と現代 -聖徳太子の “甲子革政"について-」(『駒澤大学 仏教文学研究』7号、2004年3月)がネットで公開されています。


玉虫厨子絵は未熟な工房体制下での七人の作とする説

2010年06月22日 | 論文・研究書紹介
 先の記事で、法隆寺の玉虫厨子に触れたので、最新の関連論文を紹介しておきます。

長谷川智治「法隆寺・玉虫厨子絵--写真飼虎図を中心に--」
(『仏教大学大学院紀要 文学研究科篇』38号、2010年3月)

 京都造形芸術大学大学院出身の若手研究者の試論であって、美術面の研究です。

 玉虫厨子の捨身飼虎図における芸術・技術両面の質の高さを強調する長谷川氏は、他の面の絵を担当した工人との力量差に注目します。そして、力量の違いが大きく、また漆と油という二種の塗料で描かれておりながら、全体がはなはだしく不協和になっていないのは、技術的に最も優れた工人が手本を描き、それを下の者たちが参考にして制作に当たったためと推測します。

 そこで、氏は絵の大枠の画題として、遠景の山岳、近景の山岳、天部立像、菩薩立像に分け、指導者の工人が描いたこの四種の絵を手本にして、複数の工人たちが残りの部分を仕上げていったとします。ただ、それぞれの部分で作風が異なっているのは、手本の形式のみを真似たためであって、この工人たちは同じ工房の師匠のもとで長い期間にわたって活動していたメンバーではなく、「臨時的集団」であった可能性があると推測します。そのため、この共同制作は実質的には「技術伝播」に近く、まだ発展段階であった初期の工房体制を示すものと見ています。そして、作成にあたって下絵専門の画師は存在せず、工人の数は全部で七人であったというのが、氏の推測です。

 工人の数や個々の面の分担その他の工程については、今後の研究によって修正されていくことでしょうが、玉虫厨子が初期の試行錯誤的な作品であることは、これまでの研究から見ても納得できるだけに、長谷川論文が一歩踏み込んだ分析に取り組んだことは評価できます。玉虫厨子は、聖徳太子信仰の成立時期や法隆寺再建の時期に関わる重要な美術作品であるだけに、物に即したこのような綿密な研究が積み重ねられていくことを期待したいところです。

大山誠一説における仏教理解の問題点

2010年06月20日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏の最新刊、『天孫降臨の夢』(2009年)によれば、氏はインドが好きで、「三回ほどインド各地の安ホテルを転々としながら旅をした」ことがある由。氏は、「そのたびに思うのだが、日本に仏教徒と称する人は大勢いるが、仏教を理解している人はいないのではないか」と書いています(75頁)。 

 私自身は、インド仏教を理解できずにいるうちの一人ですので、何も言えませんが、インドを旅すると、その強烈な宗教風土に衝撃を受け、現在の日本仏教との違いに愕然とさせられることは事実ですね。聖地ベナレスにある大学に留学し、ガンジス河のほとりに下宿して7年間暮らしたある先輩などは、すっかりインドになじんでしまったため、日本に帰国したらカルチャーショックをおこしてしまい、息苦しくなってインドに逃げ帰ったりヨーロッパを回ったりを繰り返し、1年半くらいして、ようやく日本に軟着陸するに至ったほどです。 

 インドに接して受ける衝撃は、日本が仏教を受容する時期においても同様であったことでしょう。中国や朝鮮諸国を経て東アジア風に変容していたとはいえ、インド由来の外来文化である仏教を受容するに当たっては、驚きも大きかったでしょうし、様々な反発や誤解や日本風な変容もなされたはずです。では、インド好きの日本古代史研究者である大山氏は、インドとは異なる東アジア諸国の仏教と、それを受容した頃の日本の仏教について、どのように理解しているでしょうか。 

  大山氏の道教関連諸説を批判した拙論では、聖徳太子非実在説の出発点となった研究書、『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)所載の論文について検討しましたが、今回は、研究者でない方々が最も目にしやすい本、すなわち、2005年に角川ソフィア文庫の1冊として出された『聖徳太子と日本人--天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像--』(角川書店)を取り上げ、そこに見られる大山氏の仏教理解について検討してみます。同書が述べているように、「聖徳太子関係記事の大部分は、仏教関係である」(95頁)以上、その当時の中国・朝鮮の仏教や日本の仏教のあり方をわきまえていないと、そうした記事は理解できないからです。

 なお、同書は、2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆したものであって、一般向けにわかりやすく述べた書物ですが、道慈の役割に関しては、上記の研究書とほとんど同じ主張がなされています。

  まず、同書の「仏教関係記事--道慈の構想」の節では、大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事の代表として、馬子と守屋の合戦の際、厩戸皇子が白膠木で四天王の像を作って髪に置き、敵を倒すことができれば四天王のために寺塔を建てようと誓い、戦勝後に四天王寺を建立して守屋の奴(やっこ)の半分と宅を施入した、とする伝承をあげています。そして、「この話の中に、歴史的事実と思われるのは、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたということだけで、聖徳太子に関する部分には、真実は皆無である」(95頁)と断言します。十四歳の少年の行動としては不自然であるうえ、四天王寺は難波吉士氏の氏寺であって、考古学から見てもその建立年代は事件より半世紀ほど後であり、本来の寺名は地名の荒陵寺(あらはかでら)であって、四天王寺という名称は早くても天武朝以後だから、というのがその理由です。

  しかし、そう断言できるでしょうか? 徹底して疑うのであれば、そうした合戦が本当にあったのか、本当に馬子が主導して守屋を滅ぼしたのか、そもそも蘇我馬子は本当に実在したのか、などについても疑うことが可能でしょう。それらが歴史的事実であることを示す同時代の木簡や墓誌や合戦跡などは、これまで報告されていませんので。

 それはともかく、合戦があって馬子が勝ったとする『日本書紀』を信ずることにした場合、『日本書紀』のその箇所には、馬子は「泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子」などの皇子たちや有力な豪族たちとともに軍勢を率いて戦った、と書かれています。これは「歴史的事実」なのでしょうか。ほかの皇子が参戦したのは事実であって、ようやく三番目に名前が出てきた厩戸皇子の部分だけ捏造なのでしょうか。『日本書紀』では、厩戸皇子は「随軍後(軍の後に随へり)」と記されているのみであって、軍陣の先頭に立って勇敢に戦った、などとはまったく書かれていませんが。

  仏教は、当時にあっては最新・最強の技術です。大山氏は、当時における仏教の最大の推進者は蘇我馬子だとしています。それは前からの有力な説の一つであって私も賛成ですが、馬子が熱心な仏教信者であったとすれば、仏教による戦勝祈願をしても不思議はありません。『日本霊異記』などでは、七世紀半ばすぎに百済救援のために派兵されるに当たって、「無事に帰ってこられたら、神たちのために伽藍を建てます」と誓っている例が見られます。

  仏教では、信者を守ってくれる武神の代表と言えば、四天王です。『日本書紀』によれば、守屋軍に敗北しそうになったのを見た厩戸皇子は、「護世四王」、つまり四天王に造寺を誓い、馬子は「諸天王・大神王」に、つまりはそれ以外の神々に造寺を誓って戦勝を祈願したことになっていますが、これは不自然であり、一つの誓願を二つに分けて厩戸皇子と馬子に割り振ったように見えることは、大昔に指摘した通りです(「憲法十七条」が想定している争乱」、『印度学仏教学研究』41巻1号、1992年12月)。

 つまり、まだ少年であった太子が戦場で白膠木を刻んで四天王の像を作り……といった描写は後代の伝承ないし潤色であるにせよ、戦いにあたって馬子が四天王などに戦勝を祈願をした可能性はあるのです。しかも、『日本書紀』やその他の金石文などを見る限りでは、古代日本にあっては、誓願は多くの人がすればするほど効力が強まると信じられていた形跡があります。ということは、馬子主導で誓願がなされ、馬子側の皇子たちや有力豪族たちのうちの仏教信者もそれに従ってそれぞれ造寺や造像などの誓願をした可能性も無いとは言えません。誓願なら、少年でも可能でしょう。

 誓願していないかもしれませんが、誓願した可能性は「皆無である」、と断言するだけの資料を私たちは持っていないのです。また、いつ頃施入されたかは不明であるものの、厩戸皇子が建立した斑鳩寺の後身である法隆寺が物部氏の旧領地を所有していたことは、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』が記する通りです。

 大山氏はその他の著書でも、誓願に着目していませんが、新羅においても、仏教が普及するようになったのは、王女の病気を外国僧が誓願によって治したことがきっかけと伝えられています。古代の東アジア仏教、とりわけ中国周辺諸国の仏教を支えていた大きな柱の一つは、誓願の威力であり、誓願を考慮しないと当時の仏教の姿は見えてきません。信心の強さを重視するようになるのは、もっと後の時代になってからです。

 次に、大山氏は、四天王寺は摂津の渡来系氏族である難波吉士氏の氏寺であり、建立年代もこの事件の半世紀ほど後のこととされているから、上の話はありえないとします。しかし、四天王寺は移築の問題もあって不明な点が多く、その初期の歴史は完全には解明されていません。難波吉士氏の氏寺であるというのは、そうした説もあるという程度に留めるべきでしょう。また、瓦の研究によれば、現在の四天王寺については、創建は最初期の寺々より遅れるのは事実であるものの、飛鳥寺→豊浦寺→法隆寺→四天王寺、という順序で瓦当范や工人が移動しており、この四寺が密接な関係にあったことが明らかになっています。そのような四天王寺を、地方の一豪族の氏寺と見てすますことはできません。

 本来の寺名は荒陵寺であって、四天王寺という名称は天武朝以後だというのも、よく分からない議論です。寺というのは、どこの国でも正式名称と俗称がある場合が多いものです。「新宿住友ビルディング」のことを、「三角ビル」と呼ぶようなものですね。各地に「あじさい寺」と呼ばれる寺がたくさんあるのも同様の例です。「金光明四天王護国之寺」と額に書かれている奈良の東大寺は、「東のおおてら」とも呼ばれていましたが、最新技術をつぎこんだ大変な工事の後で壮大な完成供養がなされる場合、「この寺を、あらはかでらと名づく」などと宣言するはずがありません。そんな不吉な和風の名ではなく、仏教用語に基づく堂々たる漢字の寺名が付けられたはずであり、その寺を普段はその土地の名などの俗称で呼ぶのは不思議でありません。漢字による寺名も、後に何度も変更されるのはよくあることですが。

 大山氏は、この四天王祈願の話が作られたのは、四天王信仰、それも「道慈がもたらした義浄訳『最勝王経』にもとづく信仰」を「普及させるため」であったと推定します。氏は、四天王信仰は、「天武朝頃に新羅から伝わり、……天武・持統朝に尊重されたようである」ものの、「本格的には、道慈が『最勝王経』をもたらしてからである」と断言しています(96頁)。しかし、仏教教理に関する論議が盛んであった梁が滅び、陳が建国されると、陳では前代の反省もあって『金光明経』による護国信仰が盛んになります。また、隋唐期には『金光明経』による放生儀礼も盛んになります。 日本に仏教を伝えた百済は、梁や陳など南朝の仏教を手本としていましたので、『金光明経』もその四天王信仰も早い時期に日本に伝わったはずです。

 実際、再建された法隆寺金堂に似ておりながら形式がより古い玉虫厨子に、『金光明経』の捨身飼虎の説話が描かれていることは有名ですし、七世紀半ば前後に活躍した渡来系氏族の山口大口費が、法隆寺金堂の広目天像を作って光背に刻銘しているうえ、大山氏も認めているように、天武・持統朝には、『金光明経』を宮中や諸国で講説させています。また、唐訳の『金光明最勝王経』については、道慈以前にもたらされていたとする説もあります。

 それにも拘わらず、大山氏は、日本の四天王信仰が「本格的」になるのは、『金光明経』の最新訳である『金光明最勝王経』を道慈がもたらしてからなのであるから、道慈が「馬子と守屋の戦争の描写に手を入れ、聖徳太子を利用して四天王信仰を広めようとしたのであろう」(96頁)と結論づけます。これは、道慈の役割を強調するために、美術資料を含む現存資料を無視した強引な論法です。

  四天王への祈願が描かれる守屋との合戦の記事は、漢文の誤用・奇用が目立つため、中国に16年も滞在して活躍し、美文を好んでいた道慈が手を入れたとは、とうてい考えられないことは、これまでに指摘されている通りです。また、『日本書紀』の仏教伝来の記事などが、最新の『金光明最勝王経』の表現を用いていることは事実ですが、そうした箇所をいくつも指摘された小島憲之先生も、例をあげているのは巻21までであって、巻22の推古紀中の太子関連記述については、引用を示しておられません。道慈が最新の『最勝王経』をもたらして活用したのであれば、どうして、最も重要な箇所を描く際に『最勝王経』の表現を用いないのでしょう。

 『日本書紀』の仏教関係記事に関する大山氏の誤解ないし強引な論法はほかにも多いのですが、その典型は、厩戸皇子が講義したと記される『勝鬘経』について、「三論系の難解な経典である」(99頁)と明言していることでしょう。しかし、三論宗のインドにおける先駆である中観派は、『般若経』や『中論』に基づいて「空」を強調する学派であり、一方、『勝鬘経』は、人々は煩悩に覆われた形で如来の清浄なる智恵を持っているとして、「有」の面を強調する如来蔵思想系統の経典です。『勝鬘経』は中国では南地・北地ともに流行し、地論宗を中心にして多くの注釈が書かれましたが、南北の諸説を統合していろいろな経典の注釈を書いた中国三論宗の大成者、吉蔵の包括的な注釈である『勝鬘宝窟』が登場すると、他の注釈は読まれなくなりました。ただ、三論宗が『勝鬘経』を特別に尊重していたり、三論宗が中心となって『勝鬘経』を伝えていたりしたわけではなく、『勝鬘経』は「三論系」とは言えません。  

 こうしたきわめて初歩的な間違いがなされるのは、道慈は「三論宗と深く関わっている」(100頁)以上、その道慈が太子の講経を捏造するとなれば、三論系の経典を講義したことにするはずだ、と大山氏が思い込んでいたためでしょう。大山氏は、断定的な物言いをする際は、インド仏教史や中国仏教史の概説書などを確認したうえで書くべきでした。なお、推古紀の『勝鬘経』講説の箇所では、「三日説竟之(三日にして説き竟[お]へつ)」となっており、朝鮮俗漢文や日本の漢文でよく用いられる中止・終止の「之」が用いられています。つまり、和習です。中国で16年間も学んだ道慈の筆とは思われません。

 初歩的な誤りと言えば、「三論系の難解な経典」という行のすぐ前の箇所で、「憲法十七条」の「篤く三宝を敬へ」について説明する際、三宝のうちの僧宝の「僧」とは、「本来は僧伽[サンガ]といい、数人の比丘(出家した男の僧)が、戒律を共有しながら一緒に修行する集団のこと」(99頁)だと述べているのもその一つです。僧宝の定義は時代や系統によって異なっており、現前僧伽については律蔵では四人以上の少人数でも僧伽と認めていますが、上のような説明の仕方では、何十人もが住む大きな寺の僧たちや、尼たちの集団は僧伽ではないことになってしまいます。また、同一地域に住んで説戒などに参加しさえしていれば、普段は異なるところで活動していてもよいのですから、「一緒に修行する集団」というのも、誤解を招きやすい表現です。「三宝」は、仏教の基本となる重要概念だけに、自説を述べるうえで都合の良い面だけを本来の意味のように説明するのは困りものです。

  次に、続く「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の節で説かれる日本の弥勒信仰に関する大山氏の見解も、きわめて特異なものです。日本に仏教を伝えた百済では、七世紀初め頃に国王の寺として壮大な弥勒寺が建立されています。となれば、日本にも、かなり早い時期に弥勒信仰が入ったと考えるのが自然でしょう。実際、『日本書紀』では敏達天皇十三年(584)条には、百済から来た鹿深臣が弥勒の石像を有していたという記事が見えます。また、日本に現存する奈良以前の仏像には、朝鮮渡来のものも日本作成ものも含め、弥勒像が少なくありません。教理と結びついた信仰にしても、盛んになるのは玄奘系の法相宗を学んだ留学僧たちが帰国してから、つまり、天智朝以後あたりからとするのが通説です。ところが、大山氏は、弥勒信仰の場合も「本格的な信仰は道慈によって広まったのである」(101頁)と述べています。しかし、道慈の帰国は718年であって、弥勒寺の建立から100年以上後のことです。

 つまり、大山氏は、最新の中国仏教を競って取り入れていた朝鮮諸国の仏教を無視し、また「~の本格的な導入は、道慈による」という言い方を用いることにより、奈良以前の日本仏教の様々な事柄を、実質としては道慈以後の現象だとみなそうとするのです。そうなると、道慈は日本仏教史における超重要人物、ということになります。

 大山氏は、『日本書紀』の聖徳太子像を作り上げる際の道慈の役割を強調しますが、それが事実なら、道慈は、718年12月に帰国してから720年5月に『日本書紀』が天皇に奉呈されるまでの間に、実に多くの仕事をしたことになります。帰国時の様々な報告事業や、書の名手たちが30巻を慎重に清書する時間なども考慮したら、実質は1年ほどでしょうか。 

 道慈は、その短い期間に『日本書紀』30巻の草稿を読み、儒教志向の不比等と道教好きの長屋王の意向を反映・調整しつつ(「和」せしめつつ?)聖徳太子関係の記述を書いて太子を儒教・仏教・道教の聖人に仕立て、仏教公伝や守屋との合戦などの仏教関係の記事もほとんどを書き、さらに大山氏によれば「「天壌無窮の神敕」といった神話に関わる記事も、彼の手になっている」(117頁)というのですから、『日本書紀』全体の編集方針を大幅に改めたことになります。聖徳太子を思わせるほど超人的です。

 いわば、大山氏は、超人的な聖徳太子の実在を否定し、儒仏道の三教に通じていたという道慈の超人的な活躍で置き換えたのです。大山説にあっては、説明に困るような事態が出てくると、いつも「実は道慈が……」という形で説明がなされて解決されます。

 そこまで道慈が自由に捏造しえたのであれば、『日本書紀』の聖徳太子像には、僧侶である道慈の仏教観が反映していて当然でしょう。しかし、道慈については、『般若経』類を重んじる三論宗の学問に通じ、唐では『仁王般若経』を講義する一人に選ばれ、帰国後は『大般若経』を尊重していたうえ、その著作である『愚志』では戒律の遵守を強調しているにもかかわらず、『日本書紀』に描かれている聖徳太子は、『般若経』とも戒律ともまったく無縁なのです。なぜなのでしょう?

  私が道慈であれば、「太子はいつも高句麗の慧慈と『大品般若経』について語りあっており、夢の中で正しい解釈を得て、慧慈に教えた」とか、「太子は、幼い頃から五戒十善を固く守り、父である用明天皇が重病となった時は、病気平癒を願って不眠不休で『大品般若経』を書写した」とか、「新羅との緊張が高まった際、太子が宮中で護国経典である『仁王般若経』を講義したところ、新羅の王宮の上に雲に乗った多数の兵士が現れたため、新羅王は驚いて仏像を送ってきた」などと書きまくりたいところです。

  納得しがたいことは他にも沢山あります。「薨日をめぐる謎--玄奘三蔵と聖徳太子」の項では、『日本書紀』が厩戸皇子の亡くなった日を二月五日としている理由について、大山氏は、道慈が尊敬していた唐の道宣が書いた『続高僧伝』では、強い弥勒信仰を持っていた玄奘が二月五日に亡くなっているため、とします。玄奘は「中国仏教史上最大の人物であり」、「まさしく、仏教界の聖人であった」(102~3頁)のだから、聖人である聖徳太子にふさわしいということで、二月五日が選ばれたというのです。

 しかし、玄奘は「中国仏教史上最大の人物」でしょうか? 中国や台湾の僧尼に尋ねたら、最大の人物は、おそらく、南宗禅の確立者であって今日の中国仏教の基を築いた(とされる)六祖恵能だと答えるのではないでしょうか。恵能の説法は『六祖壇経』となっていて経典に準ずる扱いをされていることが示すように、恵能は仏扱いです。教理の雄大さという点では、天台大師も有力な候補でしょう。また、浄土信者の間では、念佛結社である白蓮社を組織した東晋の慧遠を最も崇敬する人が昔から少なくありません。

 それに対して、玄奘はあくまでも三蔵法師であって、偉大な翻訳僧・学僧です。当時から現在に至るまで非常に尊敬されてきましたが、生き仏とか肉身菩薩などとして崇拝されたわけではありません。中国仏教研究者としては、「中国仏教史上最大の人物」とか「まさしく、仏教界の聖人」といった言い方には、違和感を覚えます。聖徳太子の薨日になぞらえるなら、釈尊の亡くなった日とか、観音の化身とされた高僧などの亡くなった日の方がふさわしいでしょう。実際、仏教熱心な中国の皇帝は、如来になぞらえられたり、菩薩天子と称されたりしたのであって、聖徳太子にしても、後には観音(の化身)として信仰されています。玄奘三蔵は有名ではありますが、聖人とされる皇帝などと重ね合わされるようなタイプではありません。

  さらに、玄奘が亡くなったのは、白村江の戦いの翌年(664年)だったのだから、道慈が718年に帰国するまで「彼の死が日本に伝わらなかったのであろう」(103頁)とするに至っては、ただただ驚きです。道慈の帰国以前にも、704年に栗田真人らの遣唐使が帰国しています。また、『日本書紀』編纂時期に漢学者として活躍した山田史三方(御方)にしても、若い頃に僧侶として新羅に留学していますし、他にも高句麗留学の僧が唐を経て帰っていたり、百済や高句麗の僧侶が本国滅亡後に日本に渡ってきた例もかなりあります。

 この当時、長安で翻訳された経典は、最も短い場合はふた月ほどで新羅に届いています。逆に、新羅の元暁の著作などは中国でも読まれており、敦煌の写本中からさえ見つかっています。7世紀半ばから8世紀半ばにかけて、中国と朝鮮の仏教の交流は非常に盛んであり、軍事的に対立していた時期でさえ、仏教の相互影響は続いていました。その朝鮮諸国から仏教を導入した日本は、遣隋使・遣唐使を送るようになった後も、朝鮮諸国からも猛烈な勢いで仏教を吸収し続けており、行き来した船の数は、遣隋使・遣唐使よりはるかに多数に及びます。それなのに、664年の玄奘の死は、718年に道慈が帰国するまでの54年もの間、日本にまったく伝わらなかったのでしょうか。

  この辺でやめておきますが、唐代仏教の新しい情報はすべて道慈がもたらしたように書きがちな大山氏の仏教認識には、問題が非常に多いのです。大山氏は、『日本書紀』の仏教関係記事を理解するのに必要な仏教の知識が十分でないうえ、道慈述作説を主張しようとしてきわめて偏った記述を行なっている、というのが実際のところです。

【追記 2011年2月12日】 大山氏が四天王寺という名称は早くても天武朝以後とするのは、天武天皇八年夏四月乙卯の条に「この日、諸寺の名を定む」とあるのを、地名に基づく寺名を仏教風な名前に変えさせたものと解釈する福山敏男説に基づくのでしょう。福山説は仮説であって、證明されているわけではありません。また、誰かが亡くなった後に邸宅を改めたような寺と、堂々たる伽藍とは区別すべきでしょう。

伊予温湯碑文が描く温泉は間欠泉か

2010年06月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 伊予温湯碑文の難解箇所のうち、今回は拙論で触れた「随華台而開合」の句について補足しておきます。伊予温湯というのは道後温泉ではないとか、聖徳太子は伊予には来ていないとか、いや伊予には法隆寺の莊園があったとか、様々な説があるわけですが、今回はそうした問題は扱いません。まず、碑文そのものを、じっくり読んでみることが目的ですので。

 拙論では、「碑文の『隨華台而開合』は、噴き上げては閉じる間欠泉(24)を意識した表現であろうから、池から蓮の茎が伸びて上で華が拡がり、それぞれの華から往生人が生まれつつある『天寿国繍帳』中の蓮華化生の図を考えると分かりやすいだろう。」と書きました。そして、注24の註記では、上代文献を読む会編『風土記逸文注釈』(翰林書房、2001年)が、「開合」は「華台」の開合を意味するが、比喩上では泉源の様を意味するとし、「或いは伊予の湯が間欠泉であったことを意味するものか」(534頁)と述べていることに触れ、妥当な解釈と評価しました。

 「随華台而開合」というのは難解箇所の一つであって、小島憲之先生も苦労されたところです。「何異于寿国」という句に続いている以上、温泉の様子と重なる寿国の様子について述べているはずであるため、小島先生は、「失はれた伊予道後湯岡碑文私見」(『愛媛国文研究』15号、1965年12月)では、「天寿国の華の如きうてなに沿って、天の池の水が或は開くが如く或は合ふが如く湧き出るの意となるであろう。『開合』は煙霧や水などの形容に用ゐられることが多い」としています。つまり、「華台」を、天寿国にある華麗な楼台と解するのです。

 右の『風土記逸文注釈』において、湯岡碑文を含む「伊社迩波之岡」部分を担当された廣岡義隆氏は、「この所説の通りであろう」としたうえで、「この『開合』は直接的には『華の台[うてな]』の『開合』を意味するが、比喩上は泉源の様を意味していよう。或いは伊予の湯が間欠泉であったことを意味するものか」と述べています。

 伊予の湯は間欠泉であったかとする解釈には賛成です。ただ、廣岡氏は、「この所説の通りであろう」として小島説に賛同しているものの、実は小島説とは一致していません。小島説では、楼台に沿って天の池の水が開いたり閉じたりするような形で湧き出ると解しているのに対し、廣岡氏は、直接的には「華台」と称されている楼台自体が開合する様子を描いていると解しているからです。

 しかし、楼台自体が「開合」するとはどういうことなのか。藤岡氏の訳のうち、「花弁の開合に合わせるように泉源は開合し」とある箇所もよく分かりません。ここで注目されるのは、藤岡訳では、「随」の語の解釈が曖昧なことでしょう。「花弁の開合に合わせるように」とあるうちの「合わせるように」が「随」の訳なのかもしれませんが、花弁が開く時にそれに合わせて泉が湧き出て、しぼむ頃に泉源が閉じるというのも不自然です。ということは、碑文の「随」は、「~に随って」という用法とは考えにくいということになります。

 その点、小島説では「楼台に沿って」となっていて、「随」は「沿って」として明確に訳されていますが、「天寿国のうるわしい楼台に沿って温湯は激しく動き、湧き上がりつつ重なりまた散る」とする小島説も落ち着きません。経典における浄土の記述にあっては、泉から流れ出る宝石のような清流といった記述はよく見られるものの、「激しく動き……」といった様子の表現は見たことがありません。だからこそ、藤岡説では、伊予温湯は間欠泉だったか、と推測したわけです。ただ、これだと天の池の描写としてはふさわしくなさそうです。

 「開合」という点から言えば、『観無量寿経』に見える記述、すなわち、自分が蓮華の中に結跏趺坐したと観じ、蓮華が「合」したと観じ、蓮華が「開」いたと観じると、極楽浄土に生まれているのを見る、とする箇所を踏まえるとした福永先生の解釈が正しいと思われます(こうした点はさすがです)。これを浄土の図として描くと、池から蓮の茎が伸び、華がふくらんで開くと、往生人がその中に入っていて、浄土に生まれてくるわけです。そう考えてみると、「随」は何かに従うの意味ではなく、漢訳経典にしばしば見られる「~ごとに」の意の用法と考えるのが自然ということになりそうです。「随」は介詞にはなりきっておらず、動詞の意味合いがまだ残っているでしょうが。

 つまり、華台の上に一人の往生人が載っている蓮華がこちらで開くと、あちらではまた華台に載った別な往生人を包み込んだ蓮華が開く、という感じでそれぞれの蓮華が開いたり閉じたりするという情景です。「何ぞ寿国と異ならむ」と言われる温泉に関して、これと似た光景を捜すとなれば、噴き上げては静まり、そしてまた噴き上げては静まる間欠泉しか考えられません。その点、天寿国繍帳に見られる往生人は、上にいくほど拡がっている蓮花に載っている点で、噴き広がる間欠泉と似た面があります。「何ぞ異ならむ」とは、この点をも含むのではないでしょうか。まあ、これも試論にとどまります。

 なお、『伊予国風土記』では「高麗恵総僧」となっているのを、通説のように、簡単に高麗の「慧慈」の誤りとしてしまうのはためらわれます。碑文そのものは、「恵{公/心}法師」と言っているだけであって、高麗僧とは言ってませんので、それを尊重すべきでしょう。「高麗恵総僧」というのは、百済の恵総を高麗の慧慈と取り違えた可能性もあるわけですし。『伊予風土記』の地の文と、そこで引用されている碑文とで人名表記が違うのは、『伊予風土記』の編者が前から伝わっていた碑文を尊重してその古い表記のまま引用し、地の文では一般的な表記法を用いて説明した証拠とも考えられます。

 高句麗や百済と言えば、『伊予風土記』では、多くの天皇たちがこの温泉に訪れたことを記す際、「降坐五度(くだりまししこといつたびなり)」という強烈な和風文体の中で、「降」という語を用いているのが注目されます。これは、高句麗・百済・新羅の仏教関連伝承を集成した高麗の『三国異事』が、貴人の来臨について述べる際によく用いている語法であり、中国から高僧がやってくる場合にも「降」の語を用いています。天から降臨される神のように、という扱いですね。小島先生は、碑文の文章は稚拙であることに触れた際、「和習的な匂い-或いは高麗的な匂い-を文章に漂わせている」(「続・聖徳太子団の文学--湯岡碑文記・憲法十七條を中心に--」、『學燈』95巻5号、1998年5月)と述べておられますが、それは『伊予風土記』の地の文章にも言えることです。ただ、百済の影響の可能性もあるわけですから、「高麗的」と限定する必要はないと思われます。

伊予温湯碑が描く景観を椿のトンネルの写真から想像する

2010年06月12日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 伊予温湯碑については、分からないことだらけです。ともかく、典拠に注意してできるだけ正確に読むことから始めましょう。

 まず、碑文では、温泉のほとりの樹木について、「椿樹相{广<陰}而穹{穴/隆}、実想五百之張蓋(椿樹、相い{广<陰}[おほ]ひて穹{穴/隆}し、実に五百の張れる蓋[きぬがさ]を想[おも]ふ)」と述べます(本文は{广<欽}に作るが同筆の傍書によって{广<陰}に改める通説に従う)。向かい合う椿の樹々の枝葉が両側からひさしのように互いに張り出してアーチを形作っており、その様子は、五百の日傘が拡がっている様を思わせると言うのです。

 上山春平先生は、ここで言う「椿」とは、八千歳を春とし、八千歳を秋とするという『荘子』に見える長寿の霊木である「大椿」を意識したものであると述べています。「寿命の長いめでたい木が繁っている、そこで鳥が鳴いていると言ったぐあいに、觀念的に文章をつづったにちがいない」というのが上山先生の推測です。むろん、後世の人が机上ででっちあげた偽の文章だという説です(福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代日本の天皇制』、徳間書院、1978年)。

 そして、上山先生は、そのように高くなる「椿」は、植物学者の同定によればツバキと違って巨木になる「チャンチン(香椿)」であって日本にはないとし、湯岡碑文の記述は「『荘子』の「椿」に引っかけられた道教風の表現と言えるのではないかな」と述べています。  

 この推測が誤りであることは、拙論で指摘しておきましたが、その際は紙数の制限により詳しく論ずることが出来なかったため、今回はネット上の写真を利用させてもらいながら説明します。

  まず、チャンチンは中国では20数メートルもの高さになる例すらあるものの、枝が密生してアーチをなすという説明は見られません。そのうえ、チャンチンの花は白色ですし、葉は春には美しいピンクとなります。一方、湯岡碑文では、「丹花巻葉(而)映照、玉菓弥葩以垂井(丹花、葉を巻きて映照し、玉果、葩[はなひら]に弥[み]ちて井に垂る)」と詠っています(この訓は私の解釈によるものです)。真っ赤な花が葉に包まれて照り輝き、宝石のような実が花びら一杯に大きくなって温泉の水の上に垂れている、というのです。チャンチンとは違います。

 上の描写と一致するのは、藪椿です。藪椿は、大島の椿のトンネルや足摺岬のトンネルで有名なように、温暖な南の海辺近くの地では、巨木になって上の方で密生した枝葉がからまりあい、何十メートルと続くトンネルを作ることがあるのです。

 上原和先生は、伊豆の海辺で、高さ十数メートルもある野生の藪椿がからまりあってアーチをなしているのを見た経験から、古代の伊予には、そうした巨大な藪椿があったのだろうと推測されています(「聖徳太子「伊予湯岡碑文」の解釋をめぐって--故小島憲之博士の御説に答える--」(『學燈』96巻12号、1999年11月)。実際には、花と実は同時ではありませんが、碑文のような「椿樹」の描写は、そうした藪椿のトンネルを実際に見た人か、見た人から話を聞いた人が書いたと考えるのが自然でしょう。

  藪椿は、赤い花を守るように上と下から色濃いの葉がはさんでいます。これを「霜よけ葉」と言うそうですが、「丹花、葉を巻きて」とは、まさにそうした様子を描写したものであって、想像上の植物に関する記述ではありません。『源氏物語』に出てくることで知られ、文献に見えるものとしては日本最古の和菓子と言われる「椿餅」の写真を見てください。赤い道明寺を上下2枚のつやつやしたの葉でくるんでいます。つまり、碑文が言う「椿」は、早くから日本で親しまれてきた植物なのです。また、藪椿の実は、椿と同様、宝石のように輝く黒い実が花びらのような果皮を破るに至るほど大きくなります

  問題は、その藪椿の巨木が作るアーチが、「五百の蓋(日傘)」を思わせると言われていることです。これは従来の注釈ではきちんと説明されていませんが、真流真一氏が『維摩経』冒頭の記述に基づくことを指摘しています(「伊予湯岡碑文と聖太子の佛教(Ⅰ)」(『熊本大學教育學部紀要』26号、1977年9月)。すなわち、五百人の長者の息子たちが釈尊のところにやってきて、それぞれ宝石で出来た日傘を供養すると、釈尊は神通力によってそれらを合成して一つの日傘、それも全宇宙を覆うほど巨大な一つの日傘にし、その中に全世界が映し出され、十方諸仏が法を演説するのが見えた、とある箇所です。

 碑文の序は、「我が法王大王」がこの温泉までやって来て神秘的な効力に感嘆した、と述べています。これまでは、「法王大王」といった言い方は、まだ若い太子にはふさわしくないとする意見もありました。しかし、真流氏は触れていないものの、『維摩経』の上記の箇所のすぐ後の部分では、五百人のうちの筆頭である宝積が、偈によって釈尊をたたえ、こうした奇跡を起こした「法王の法力」の素晴らしさ、「法王の説法」の素晴らしさを賛歎したうえで、「老病死」を救う「大医王」、「大聖法王」である釈尊に帰依すべきことを説いています。

  そうした『維摩経』を考慮すれば、碑文に「椿樹、相ひ{广<陰}[おほ]ひて穹{穴/隆}し、実に五百の張蓋を想はしむ」とあるのは、高いところでアーチをなしている藪椿の様子は、宇宙を覆う巨大な一つの日傘となった『維摩経』の五百の日傘を思わせる、と述べていることが知られます。そして、碑の序の部分が太子のことを「我が法王大王」と呼んでいるのは、そうした椿がアーチをなして上空を覆っている様子を『維摩経』の奇跡に見立てたためであることが知られます。こうした奇跡のような椿のトンネルとなっているのは、「我が法王のおおきみ」の徳によるものなのだ、と称えているのです。しかも、藤原鎌足が病気になった際、新羅の尼が『維摩経』を講じたのが維摩会の起源であることが有名なように、『維摩経』は病気を現じてみせた維摩詰がテーマですので、その点も、病を治するこの神秘的な温泉と一致するところです。

 こうした碑の場合、序と碑文そのものの作者は同じ人物であるのが通例であることは、東野治之氏も指摘している通りです(「七世紀以前の金石文」、『列島の古代史 ひと・もの・こと 6』、岩波書店、2006年)。この序と碑文本体を書いたのは、仏教に通じた人、おそらくは僧侶でしょう。また、親しみをこめたこの「我が法王大王」という言い方は、「我が百済王后」がこの舎利を奉安したと述べている百済の舎利奉安記と同じ用法だと、瀬間正之さんが指摘していることは、以前の記事で触れた通りです。その舎利奉安記に、現存仏教文献中では上宮王撰と伝える『維摩経義疏』のみに見える表現と良く似た表現が見えていたことは、きわめて興味深い事柄です。

 碑文には難解とされ、誤写が疑われる部分が数カ所あり、そのうちの一つが「経過其下、可(以)優遊。豈悟洪灌霄庭」の「洪灌霄庭」です。これについては、道教と結びつける解釈もありますが、「洪灌」は多くの水があふれ流れること、「霄庭」は大空を指す美辞なのですから、椿のトンネルを考えれば容易に解釈できます。すなわち、このように密生した椿であるので、その下のトンネルをくつろぎつつ歩み楽しむことができるのだ、大空に大雨が降ろうとどうして「悟らんや(気がつくだろうか)」、いや、全く気がつかないだろう、というのです。誤写と見て字を改める必要はなく、今のテキストのままで解釈が可能です。

 少しづつ湯岡碑文が読めてきましたね。逆に言うと、これまではこうした内容が読めていない状態で、碑文の性格について、いろいろ議論してきたわけです。とはいえ、このように読めるようになってきたのは、これまでの研究者の苦労のおかげです。

 中でも日本における漢文学受容の研究で画期的な業績あげた小島憲之先生などは、その長い学者人生において、論文や著書の中で4度もこの湯岡碑文の釈読を試みて来られました。最晩年の論考、「聖徳太子団の文学--湯岡碑文記・憲法十七條を中心に--」(『學燈』95巻5号、1998年5月)では、これまで「その都度、真面目に書いたつもりではあったが、「碑文記」は余りにもむつかしく、未だ決定的な結びにまでは至らぬ私という正身[そうじみ]、我と我が身の「学」のない悲哀[あわれ]さである」と述べ、「反省は付きもの、しかしもはや今回で終わりにしよう」と述べて、第5回目の釈読を試みられました。

 84歳の時です。小島先生は原稿を執筆してまもなく急逝され、これが絶筆となりました。碑文が「余りにもむつかし」いというのは、テキストが悪く、碑文自体も倭習が目立つ拙劣な文体で書かれており、従来の注釈では、復原した本文も、句読の切り方も、また語句の解釈もすべて様々であるためです。広く読まれている新編日本古典文学全集『風土記』(小学館、1997年)にしても、その釈読は不適切な箇所が目立ちます。

 湯岡碑文については、上記以外にも、テキストそのものや従来の解釈を訂正しなければならない箇所がいくつもあります。大山誠一『聖徳太子と日本人』第七章のように、「碑文の釈読などは他書にまかすとして」という一言で片付けて偽作論議を始め、「有職故実や古典研究が盛んになった鎌倉時代に、誰かが捏造した文章と考えるのが無難というものではなかろうか」などと結論づけたりすることはせず、次回も、小島先生を手本として一字一句検討していきます。


「道教と古代日本文化」ブームの聖徳太子論の誤り: 間違いを放置して良いか

2010年06月10日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、2010年5月)は、「いわゆる」という語が示しているように、「道教的だと称している人たちもいるが、実際には違う」ということを明らかにしようと試みたものです。昨年の日本道教学会の学術大会で発表した内容に少々訂正を加えました。趣旨は変わっていません。

  発表では、「徳」の下に「仁・礼・信・義・智」の形で五常を配する冠位十二階の特異な順序は、六朝時代に成立した道教経典、『太霄琅書』に基づくとする福永光司先生の論文、「聖徳太子の冠位十二階--徳と仁・礼・信・義・智の序列について--」(福永『道教と日本文化』、人文書院、1982年)を取り上げて批判しました。『太霄琅書』から自説に都合の良い箇所だけを切り貼りしており、しかも、原文のうち三箇所も省略しておりながら、「……」や(中略)などによってそれを示していないことを指摘したのです。「卒論なら落第です」とまで言ってしまいました。発表終了後、質問はまったくありませんでした。

 言葉がきつすぎたなと反省していたところ、大会終了後の懇親会では、関東・関西の研究者たちが次々に話しかけて来て、「よく発表してくれた。福永先生のあの論文や、ブームの頃のいろんな人の論文は、私も前から無理な議論が多いと思っていた」とか、「どんどん書いてほしい」などと言うので驚きました。「そう思っていたなら、自分で書いてくださいよ」と答えたところ、「まあ、いろいろあって書きにくいので、関係のない仏教学のあなたが書いてくれると有り難い」とのことでした。発表の前半を占めていた大山誠一説批判については、「その通りでしょ」ということで、あっけない反応ばかりであったのも意外でした。 

 中でも私がショックを受けたのは、福永先生の『太霄琅書』の引用の仕方がフェアでないことは、私の新発見と思って発表したところ、「実は自分も気がついていた」と言った関西の研究者が2人いたことです。ということは、他にも道蔵で原文に当たって省略に気づいていた人や、噂によって知っていた人などが何人もいるのでしょう。

 1981年に雑誌に発表され、翌年、『道教と日本文化』に収録されたその論文は、刊行されてからほぼ30年たちます。その間、ある程度の数の道教研究者たちが、冠位十二階に関する福永先生の引用の仕方は不適切であり、福永説は成り立たないということを知っておりながら、遠慮して論文などで指摘してこなかったため、日本史学などのかなりの数の研究者がこの説を道教学の権威による指摘として引用してきたのです。

 (大山氏は、福永先生の道教理解の影響を大きく受けておりながら、冠位十二階に関する福永説には触れていません。太子関連の道教関連記述は、道教にも通じていた道慈が書いたとしていたうえ、冠位十二階は中国の史書にも記されているため、実在しない聖徳太子ではなく、蘇我馬子の制定だとしているせいでしょうか)

  「道教と古代日本文化」ブームは、日本独自と思われていたことを、儒教・仏教以外の中国の様々な宗教・思想・技術などの影響という観点から見直そうとした点では、意義のあるものでした。当時のそうした論文の中には、現在でも通用する重要な指摘をした諸論文も含まれています。古代日本では神仙思想が盛んでしたし、道教が中国仏教に取り入れられ、時には偽経にまでなったものが、日本や朝鮮では仏教として受容されて大きな影響を与えた例が多いこと、医学書などは道教と関係の深い書物が次々に輸入されていることなどは事実ですので、今後もそうした面の研究が進められるべきです。

 ただ、「あれも道教、これも道教」という粗雑な議論が多かったのも事実です。福永先生は、道教を含む中国の宗教・思想研究において大きな功績をあげ、多くの研究者を育てた大物ですが、新たな分野を開拓した人に良くありがちなように、自分が研究している対象が、つまりは道教がいかに広範で重要なものか、いかに中国と日本に多大な影響を与えたかを強調しすぎる傾向がありました。その功罪はきちんと明らかにすべきでしょう。

  私の大山誠一説批判については、「問題が多いことは、研究者の世界では知られているのだから、わざわざ論じなくても良いのではないか」といった声があることは承知しています。しかし、明らかに誤っている説がマスコミでしばしば最近の学界の定説のようにとりあげられ、一般の人に影響を与えている以上、放置していれば、福永先生の冠位十二階説の場合と同様、あるいはそれ以上の弊害が生ずるのではないかと案じられました。そこで、聖徳太子については、『日本書紀』では「聖」として描かれており、史実としては信頼できない記述も多いことは事実であるものの、まだまだ研究を重ねる必要があり、大山氏の架空説のような形で断定的なことを言える段階ではないことを、このブログを通じて指摘していくことにした次第です。

 なお、「道教と古代日本文化」ブームの問題点ということで、上田正昭先生と上山春平先生についても、聖徳太子関連記述と道教の結びつきに関する説を批判させて頂きましたが、聖徳太子については東アジアの観点から検討すべきだ、とする上田先生の姿勢には共感しています。個々の説についても上田説に賛成する点が少なくありません。ただ、最近の上田先生の聖徳太子論は、かつてより史料批判がやや甘くなっているようにも感じられます。


大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り

2010年06月09日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号がやっと届きました。奥付は例年並みに「平成二十二年五月五日 印刷」で「五月十日 発行」となっていますが、実際に届いたのは一昨日(6月7日)、抜刷とPDF入りのCD-ROMが届いたのは昨日です。

  もっとも、私の勤務先の学部の論集などは、かつては奥付にある発行月日より半年遅れで配布などということもしばしばだったとか。私自身にしても、SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)の何十人もの仲間たちで苦労して作り上げた大正大蔵経の電子データを初めてインターネット公開した際は、技術担当の師茂樹さんと、連日、睡眠不足気味で作業したものの、約束していた年度内公開より10時間ほど遅れてしまったため、当時のホームページには「3月31日34時公開」などと表示したものでした。あれは誤入力ではなかったんです。最近でさえこれですから、まして古代の聖徳太子関連文献となったら……。

 それはともかく、道教と言えば、1980年代に大流行した「道教と古代日本文化」ブーム、なつかしいですね。あの頃は、「あれも道教、これも道教」という論文が氾濫したため、日の当たらない場所で地道に道教研究をやってきた日本道教学会の老先生たちは、顔をしかめていました。ブームのもとで盛んにそうした論文を書いていた一人が道教学会に入会を希望してきた際は、「あんなデタラメなことばかり書く奴など、絶対に認めん!」と大反対する長老理事もおり、大変だったことを思い出します(当時、学会の事務局は私が助手をしていた研究室にあったため、私は道教学会の雑用係をやっていました)。

 学会理事長をしておられた楠山春樹先生は、「そういう困った人だからこそ、学会に入ってもらって勉強してもらう必要があるんじゃないですか」と、いかにも楠山先生らしい『老子』風な調整術によって長老理事を説得し、なんとか入会を認めさせたことでした。

 つまり、「道教と古代日本文化」ブームのもとで活躍した人たちの多くは、長らく道教を研究してきた専門家や中国思想の研究者ではなく、他分野の研究者だったのです。福永光司先生は例外であってすぐれた中国学者であり、道教学会の会員でしたが、研究生活の後半期になってから道教研究に打ち込むようになり、いわゆる「教団道教」だけでなく、道教に取り込まれる中国の宗教的な思想や神秘的な方術であれば「広い意味での道教」と見なす独特な、言い換えればかなり強引な道教論を展開していたこともあってか、福永先生は道教学会とは距離を置いていました。ブームに急に参戦するようになった人の多くは、そうした福永先生の著書や論文を教科書として道教の勉強を始め、福永流の「道教」の影響を日本史の中に探し始めた、というのが実情でしょう。

(私は、某大学での福永先生の集中講義を拝聴し、打ち上げの会にも出させていただいたのですが、道教文献に関する恐るべき博識と魅力有る講義ぶりが印象的でした。優れた弟子が輩出したのは当然です。福永先生の功績の一つは、多くの優秀な道教研究者を育てたことでしょう。ただ、福永先生から中国学の訓練を受けたお弟子さんたちからは、「道教と古代日本文化」ブームの方向を本業とする人は出ておらず、いずれも着実な中国道教研究者になっているのが面白いところです)

 その「道教と古代日本文化」ブームは、行き過ぎが反省された結果、10数年ほどで沈静化しました。最近では、神仙思想、老荘思想、(教団)道教、中国の神秘的な種々の思想や技術、民間信仰、中国仏教に取り込まれた神仙思想や道教の要素、などの違いと重なりに注意しつつ、文献や文物に即して実証的に道教の影響を検討する研究者が増えています。むろん、ブーム当時にあっても、そのような地道な研究をしていた研究者は、少ないながらも存在していました。

  一方、そうしたブームが終わる頃になってから「あれも道教、これも道教」という形の道教影響説を主張し始め、現在でも同じ論調を守っているのが、「聖徳太子は実在しない」とする大山誠一氏です。大山氏は、『日本書紀』に見られる聖人としての聖徳太子像は、律令制のもとで中国の聖天子に匹敵するような模範的な天皇像を示すため、儒教的な政治をめざした藤原不比等と、道教好きの長屋王と、唐から帰国したばかりの学僧である道慈の三人によって『日本書紀』編纂の最終段階で創られたものであり、儒仏道の三教に通じていた道慈が任されて聖徳太子関連の記述を執筆したとしていることは有名です。

  この主張のうち、道教に関する議論は現在ではさらに大雑把になっており、昨年11月に刊行された氏の『天孫降臨の夢--藤原不比等のプロジェクト--』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、長屋王は讖緯思想に傾倒していたとしたうえで、「讖緯思想は、広く道教思想あるいは神仙思想と考えてよいであろう」(57頁)と述べています。しかし、讖緯説は広い意味で道教だという言い方は福永流であって問題であるうえ、讖緯思想は広い意味では神仙思想と考えてよいなどというのは、中国思想史の常識をわきまえない、まったくの珍説です。

 というより、そもそも長屋王が道教に傾倒していたことを示す資料はなく、不比等と長屋王と道慈の三人が『日本書紀』編纂に関わって最終構想を固めたことを示す資料もなく、道慈が実際に太子関連記述を書いたという資料もないのです。

  このうち、長屋王が道教に傾倒していたというのは、「道教と古代日本文化」ブームの典型の一つである新川登亀男さんの長屋王論、「奈良時代の道教と仏教--長屋王の世界観--」(速水侑編『論集日本佛教史 第二巻  奈良時代』、雄山閣、1986年)を有力な根拠としたものです。

 不比等亡き後、権勢を誇っていた長屋王は、藤原氏の策謀によって妻子たちもろとも滅亡に追い込まれますが、反国家的な「左道」を奉じているという口実で長屋王が断罪されたのは、神亀五年五月十五日の長屋王の発願に基づいて書写された『大般若経』の跋文が道教的な世界観を示しており、長屋王の父母である高市皇子とその妃を頂点とする神霊の秩序こそが皇統を護るとして天皇より上に位置づけ、長屋王自身もその秩序に加わることを願っていたためであった、というのが新川さんの推測です。

  新川さんは後になると、道教の定義を曖昧にしたまま安易に道教の影響を説くやり方の問題点を指摘するようになりましたが、長屋王と道教の関係については、ブームが終わっている1999年に刊行された著書、『道教をめぐる攻防--日本の君主、道士の法を崇めず』(大修館書店)でも、右の論文とほぼ同じ主張をしています。

  しかし、長屋王のこの願文が道教的世界観に基づく特異な霊的秩序を説くとするのは、多くの読み間違いに基づく強引な解釈であって成り立たないことは、一昨日届いた『東方宗教』115号掲載の拙論、「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で指摘した通りです(「関連論文コーナー」にもリンクを貼っておきます)。新川さんは様々な分野で活躍しており、最近出された『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)も有意義な著作ですが、「道教と古代日本文化」ブームのもとで書いた道教関連の諸論文は、いずれも問題があり、とりわけこの長屋王論文は間違いの多いものです。

  大山氏は、新川さんのこの誤った長屋王観を受け入れたうえで、その願文を書いたのは、長屋王に接近していた道慈だとしています。しかし、国家を傾ける「左道」だと攻撃されて長屋王が自殺に追い込まれるような道教的願文を道慈が書いたとしたら、神亀六年2月の長屋王事件の後、天平と改元した同年8月に藤原光明子の立后が実現し、10月にその道慈が律師に任命されて仏教界の指導者となったことを、どう説明するのでしょう。

 道慈については「藤原寺」、すなわち興福寺に身を置いていた時期があり、少なくとも帰国後は興福寺にいて藤原氏寄りの立場をとり続けていたとするのが、森下和貴子氏の「藤原寺考--律師道慈をめぐって--」(『美術史研究』第26冊、1987年)ですが、大山氏は、多くの研究者に引用されているこの森下論文に言及したことがありません。

  もう一つ決定的に重要なのは、倭習の問題です。『日本書紀』の聖徳太子関連記述には倭習が多く、唐に16年も留学した道慈の文章ではありえないことは、森博達さんが早くに指摘していました。中国語の音韻学の専門家であって倭習にも注意を向け、区分論によって『日本書紀』研究を画期的に進展させた森さんは、「日本書紀の研究方法と今後の課題」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』、大和書房、2002年)において、大山説は「根拠のない憶説」ばかりであり、「空想」「妄想」にすぎないとして厳しく批判されたのです。

  道慈述作説は、大山説の要めとなる重要なものであって、これが崩れると大山氏の聖徳太子虚構説全体が崩壊してしまいますが、大山氏は森さんの批判には一切答えていません。また、森さん以外にも、大山説に対する説得力ある批判は数多くなされています。たとえば、聖徳太子は『日本書紀』では理想の天皇像ではなく、理想の皇太子像として描かれているのではないかという、遠山美都男氏と本間満氏の反論もその一つです。確かに、理想的な天皇像を示すために聖徳太子という素晴らしい「皇太子」を造形したというのは、あまりにも不自然でしょう。  

 理想的な天皇像というなら、森田悌氏が「最近の聖徳太子研究--大山・吉村両氏の近著によせて--」(『弘前大学國史研究』112号、2002年3月)で指摘しているように、仁政を行なった「聖帝」として『日本書紀』が絶讃している仁徳天皇こそ最もふさわしいはずです。実際、仁徳天皇は、後世の天皇たちによって模範として仰がれてきました。仏教との関わりが必要であれば、天智天皇・天武天皇の父であって、初の勅願寺院である百済大寺を建立した舒明天皇あたりを、若い頃から儒教や仏教に通じ、仏教流布の最大功績者であった聖天子として描くことも可能だったでしょう。

 上記の『聖徳太子の実像と幻像』には、大山説に賛同する人、大山説の一部を認めて一部には反対する人の他に、強い調子で批判した田中嗣人氏や上田正昭氏の議論なども掲載されています。また、森田氏も、大山氏の議論のうちのいくつかの部分を評価しつつ、聖徳太子架空説全体については「誠に奇妙な所見」と批判し、ジャーナリズムの一部が架空説を当然視している風潮を訂正することを目的の一つとして『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、2005年)を発表しています。これ以外にも、複数の分野の研究者たちによって批判がなされています。

  それにもかかわらず、先に触れた大山氏の『天孫降臨の夢』では、序にあたる「はじめに」において、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」と述べ、「あとがき」でも、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」と断言しています。大山氏は以前から同様の発言をしていますが、これは「聖徳太子非実在説」にならって「学問的反論非実在説」と呼びたいほど驚きの説です。また、反論しない第一線の研究者たちの中には、「大山説については取りあげるまでもない」と突き放している人も少なくありません。

  確かに、大山説には、想像に基づく部分が多いうえ、美術史の研究成果は一切考慮しないと公言するなど、強引な議論が目立つことは事実です。とはいえ、複数の著作において太子虚構説を批判してきた遠山氏の次のような評言も忘れることはできません。

  「『日本書紀』編纂者が種々の原史料にもとづきながら、聖徳太子を通じて一定の歴史像を描き、それを同時代や後世に向かって発信しようとしたことを明らかにした点は正当に評価されねばならない。大山氏の『聖徳太子非実在説』の学説としての意義はこの点にあると考える。『聖徳太子非実在説』は、その本質において『日本書紀』論だったのである。」(遠山美都男「「聖徳太子非実在説」とは何か」、『歴史読本』52巻14号、2007年12月)。

 つまり、「理想の天皇像」説のように認めがたい主張も多いものの、従来の研究のように、『日本書紀』の聖徳太子関連記述のうち、どの部分が史実でどの部分が伝説か、といった方向で研究するのではなく、『日本書紀』全体は聖徳太子をどのような人物として造形しようとしていたのか、それはどのような理由によるのか、といった視点から検討を試みた点に意義がある、とするのです。確かに、その点は遠山氏の指摘される通り有意義な試みですし、他にも「『書紀』は権威付けには主に高句麗を利用する傾向がある」と述べた箇所など、いくつかの点については、私も重要な指摘と認めています。

  大山説のうちのそうした点が着目されず、無視される場合が多いのは、「何しろ、学問的反論は皆無なのである」といった断言が示すように、自説を打ち出すばかりで批判に誠実に対応しないことも一因になっているように思われます。聖徳太子は『日本書紀』編纂の最終段階で創造されたのであり、実在したのは厩戸王という王族にすぎない、というを主張を十年以上展開しておりながら、その肝心の『日本書紀』では「聖徳太子」という表現は用いていないばかりか、大山説では太子関連資料を大量に捏造したとされる光明皇后や行信すら「聖徳太子」という呼称を用いておらず、「厩戸王」という呼称にいたっては現存文献にまったく見られないことなどについて、きちんと説明してこなかったことも、感心できない点です。「厩戸王」という呼び方は、聖徳太子伝承を疑った太子研究の古典である小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸社、1963年。増訂版は1972年。感動の名著です)が、「厩戸王」というのが生前の呼称でないか、としているのが初出ではないでしょうか。 それが教科書にまで載るようになったのは不思議な話です。

 大山氏は、聖徳太子の事跡を疑った先学として津田左右吉の名をしきりに挙げるものの、「憲法十七条」は天武朝ころの製作と見る津田説を正しく紹介せず、『日本書紀』完成時期の編纂者が「憲法十七条」を作ったと津田が述べているかのような書き方をするのも問題です。また、論証のし方は全面的に異なっているにせよ、「聖徳太子はいなかった」という主張や馬子が大王だったという推論自体は、「聖徳太子は実在しない」と説く大山説が登場する以前からなされており、本も出ているにもかかわらず、そうした人たちはアカデミズムに属さず、学界では取り上げられないタイプの民間史家や小説家などであるためか、大山氏がまったく言及していない点も気になります。こうした問題点は他にも沢山あります。大山説が無視されがちであるのは、それ相応の理由があるのです。

  あるいは、「根拠をあげた反論」は皆無だと大山氏が言うのは、聖徳太子の「実在」を示す木簡のような具体的な証拠を示さなければ「学問的反論」とはみなさない、ということなのかもしれません。しかし、 『日本書紀』が厩戸皇子を神格化し、聖人であることを異様なまでに強調して描いているのは確かですが、聖徳太子は実在せず、その事績とされるものは実は蘇我馬子の事績だったと主張する大山氏にしても、そうした様々な推測をする際の主な情報源は、氏自身が捏造だらけだとする『日本書紀』です。石舞台古墳を発掘し直し、馬子の活動を詳しく誌した墓誌銘を発見したわけではありません。

 つまり、自分でもやっていないことを、大山説を批判する研究者たちに要求しているのであって、論証の不備を指摘する批判を謙虚に受け止めて自説を訂正しつつより正しい方向をめざす、という学問態度をとっていないのです。ただ、森さんの批判以後、大山氏を中心とする『日本書紀』研究のグループの人たちは、「聖徳太子関連の記述の多くは、道慈自身が書いたのではなく、道慈はプロデューサー的な役割を果たしたのだろう」という方向に変化したと聞きました。

 大山氏も、最新の『天孫降臨の夢』では、かつてのように太子関連の記述はすべて道慈が書いたと明言していません。「儒教関係は藤原不比等、道教関係は長屋王、そして太子関係記事の大部分を占める仏教関係と中国的聖天子としての表現は道慈と考えてよいであろう」と述べ、「ほかにもさまざまな人が参加したかもしれないが、重要なのは、『日本書紀』の記述の方向性を示しうるリーダーの存在である」(57頁)として、そのリーダーは不比等・長屋王・道慈の三人であることは明らかだとしています。曖昧な形でプロデューサー説の方向にシフトしつつあるのでしょうか。

  しかし、今回の拙論では、森さんが挙げた用例以外の倭習の例を多数示し、道慈作として伝えられている文章との違いを指摘しました。特に、大山氏が道教的な箇所中で最も重要とし、儒教派の不比等と道教派の長屋王の立場の相違を道慈が巧みに調整して書いたとする片岡山飢人説話については、いかに倭習が多いかを詳しく示しておきました。誰が書いたにせよ、太子関連記述に漢文の初歩的な誤用や奇用がこれほど沢山残されているとなると、16年間も中国で学んだリーダーさんは、いったい何をしていたんでしょう? 「記述の方向性を示し」ただけで、担当者たちが倭習だらけの漢文で書いた本文を実際に読んでチェックすることはなかった、ということなのでしょうか。

  また、このブログの続編記事で紹介するように、今回の拙論では、大山説の有力な根拠となった新川論文ばかりでなく、「道教と古代日本文化」ブームのきっかけとなった福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代の天皇制』(徳間書店、1978年)、福永光司『道教と日本文化』(人文書院、1982年)などに見える聖徳太子と道教を結びつける解釈についても、ほとんどすべて間違いであること、特に福永先生の主張は問題であることを明らかにしておきました。他に大山氏の架空説の有力な根拠の一つは、『勝鬘経義疏』に関する藤枝晃先生の中国撰述説でしたが、これが誤りであることは、当ブログの「三経義疏中国撰述説は終わり」「三経義疏中国撰述説は終わり(続)」で既に報告した通りです。

  つまり、大山誠一氏の「聖徳太子架空説」は、前提からして間違っていたのです。

 なお、私は大山説を認めないといっても、実証的な立場から大山説の論証の不備を指摘しているだけのことです。『日本書紀』の記述をそのまま信じて聖徳太子を礼讃し、大山氏の非実在説を論難する人たちとは立場が異なります。

 津田左右吉博士を攻撃した国家主義的な聖徳太子礼讃者たちの思想的系譜については、公開講演「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第40号、2007年5月)で明らかにしておきました。私は聖徳太子に関する津田博士の個々の説には反対であることが多いものの、津田博士が開設された研究室で学んだ身であって、学風の一部は継いでいるつもりです。


【追記 2010年11月5日】
大山氏が津田左右吉説を歪めていることについては、「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(続)」で詳しく述べましたが、問題山積であり、特に続篇の記事については、書いているうちに大山氏の論文作成法の粗雑さが良く分かりました。また、津田左右吉説に対する国家主義者たちの攻撃についても、当時の文部省の姿勢を含めて、詳しく書いておきました。


瓦から見た法隆寺や四天王寺の創建年代

2010年06月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連となるとどの学問分野でも論争があり、定説となっているものは少ないのですが、そうした中で、主張の違いがあまり大きくない分野の一つが瓦の研究でしょうか。ただ、私はこの方面は不案内なため、ここでは最近の論文(研究ノート)の一つを紹介するにとどめます。

井内潔「屋瓦からみた草創期寺院の創建年代小考--豊浦寺、法隆寺若草伽藍、四天王寺の場合--」
(『古代文化』第61巻1号、2009年6月)

です。

 我が国最初の本格的な寺である飛鳥寺では、創建時の瓦に「花組」「星組」と称される2つのタイプがあり、それらが変化して畿内の寺に広まっていったことは有名ですが、井内氏は、崇峻天皇元年(588)に百済から4名が派遣されて来たと『日本書紀』に記される瓦工たちには「2系統の瓦工が含まれていたに違いない」とし、「花組」の軒丸瓦と百済の故地で発見された瓦との比較により、この瓦工たちが携えてきたのは百済でも最新の意匠であったと推測します。

 その飛鳥寺は蘇我氏が最初に建立した僧寺であり、豊浦寺は蘇我氏が続いて建立した尼寺であるため、当然のこととはいえ、瓦は連続しています。飛鳥寺が既にかなり出来あがっていた600年頃に追加して建てられた東西金堂のための瓦を作るのに用いられたものと同じ「星組」系の瓦当范による瓦が、605年頃に豊浦寺金堂で用いられ、それを改范して豊浦寺で使われた瓦当范が、後に工人とともに移されたようで、610年前後に法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)金堂の瓦用に使われます。そして、それを新たな形に改め、610年代半ばに若草伽藍の塔の瓦を作るのに用いられた瓦当范は、完了後に四天王寺に移されたようで、620年頃に四天王寺中の最古の瓦を作るのにそのまま用いられており、しかも范の摩滅が目立つ状態にまでなっていた由。

 井上論文は、上に記した年代については、「一つの建物の建立期間をおよそ3~4年とみる先行研究に依拠しながら」瓦の変遷によって寺の創建年代を推測したものであり、確実ではないと断っています。年代については、今後の研究の進展によって多少動くことはあるでしょうが、瓦の影響関係は明らかであり、厩戸皇子の斑鳩寺が蘇我氏の支援によって出来たことは確実です。

 つまり、瓦の変遷から見る限り、「聖徳太子は蘇我氏の勢力から逃れるために斑鳩に移った」といった説は成り立たず、飛鳥寺・豊浦寺・法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)・四天王寺という四寺は密接な関係にあったことが、改めて確認されたことになります。


 

本日の発見:「憲法十七条」と『孝経』の関係がらみ

2010年06月05日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号が届くのを待っております。  昨年の道教学会大会で発表した「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(中心は大山誠一説批判です)が載っているため、刊行されたらここで内容を紹介し、論文のPDFファイルも公開しようと思っているのですが、なかなか来ませんね。雑誌が届いても、抜刷やPDFファイル入りのCD-ROMが送られてくるのは、さらに1週間とか10日とか後になるかもしれません。

  しかし、待ってばかりもおれないため、最新も最新、先ほど発見したばかりのことをご報告しておきます。ただ、マイナーな文献が対象なので、関連する「憲法十七条」の方を本日の題名としておきました。

  第一回目の5月24日の記事では、百済の弥勒寺跡から発見された「金製舎利奉安記」の文句が上宮王撰とされる『維摩経義疏』と一致することを紹介しました。「百済王后」の発願によるその奉安記では、舎利について説くにあたり、釈尊は「生を王宮に託し、滅を雙樹に示(託生王宮、示滅雙樹)」して舎利を残した、と述べています。「託生王宮」という言い回しは、中国仏教文献に多少見えており、その句の直後で沙羅双樹のもとでの涅槃に触れている文献も僅かながらあるのですが、「生を王宮に託し、~を~樹に示す」いう形になっている文献は大正大蔵経にはありません。ところが、本日、そうした文献を発見しました。

  敦煌出土の地論宗文献、Φ180です(大英博物館主導の「国際敦煌プロジェクト」サイトで画像を見ることができます。便利になりましたね)。この文献は、仏教教理用語辞典の類であって、教科書として広く用いられた綱要書の一つです。Φ180では、三宝について説明するにあたり、「託生王宮,現成道樹(生を王宮に託し、成[道]を道樹に現わす)」と述べています。「道樹」とは、菩提樹のことです。

  この文献は、北地の地論宗の文献なのですが、「経」という語を説明するに際して、次のように述べています。 「経者常也 。雖復先賢後聖、代謝不同、而君子風化、始終常定、故名為常。」 つまり、賢者も聖人も次々に生まれては死んで代わっていくとはいえ、君子の教化というものは常に一定していて変わらないため、だから「経」のことを「常」という意味に解釈するのだ、というわけです。5月30日の三経義疏の記事でとりあげた三経義疏の冒頭部分と似ており、特に『維摩経義疏』の、 

 「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、先聖後賢不能改其是非。故称常。」 に近いですね。これが、南北朝から隋あたりの一般的な解釈です。  ここで大事なのは、 三経義疏では「時移易俗」という倭習の形で書かれた部分は、直接には中国仏教文献中の「経」の説明に基づくものの、その更に元は、『孝経』であることです。『孝経』広要道章では、「移風易俗、莫善于楽。安上治民、莫善於礼。礼者敬而已矣。(風を移し俗を易[か]へるには、楽[ガク]より善きはなし。上を安んじ民を治むるは、礼より善きはなし。礼は敬のみ)」と述べています。すなわち、風俗を変えるには音楽ほど善いものはなく、上流階級と庶民を安定して治めるには「礼」ほど善いものはない、その「礼」とは「敬」にほかならない、というのです。

  『孝経』では、さらに、父を敬えば子供たちが悦び、兄を敬えば弟たちが喜び、君を敬えば臣下すべてが喜ぶ。一人を敬えば千万人が悦ぶのだから、これこそが政治の「要道」だと説いています。「礼」とは上下の区分を定めるものであり、「楽[がく]」とは上下の対立を「和」するもの、というのが、儒教の常識です。ここまで読めば気づいたかもしれませんが、これはまさに「憲法十七条」冒頭の議論にほかなりません。「憲法十七条」はなぜ上下の「和」や「君父」に従うべきことで始まるのか、なぜ「三宝を信ぜよ」ではなく、「三宝を敬え」となっているのか。なぜ、これらの条に続いて「礼」が強調されるのか。それはもちろん、「憲法十七条」の前半部が『孝経』の図式に基づいて書かれているからです。

  このことについては、2007年に発表した論文中で指摘しておきました。この論文については、いづれ取り上げて説明しますが、聖徳太子に関する基本資料中の基本資料である「憲法十七条」ですら、典拠などの調査がまだ不十分であって、きちんと読めていないのが実状なのです。そうした状況で断定的な結論を下すのがいかに危険であるかは、言うまでもないでしょう。


「和習」の問題

2010年06月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
「和習」の問題

 三経義疏にしても『日本書紀』の聖徳太子関連記述にしても、和習(倭習、和臭)の問題が関わってきます。和習というのは厄介な問題であり、日本風な間違った表現だと思ったら、中国でもある時代には使われていたとか、俗語であったとか、仏教漢文の用法であったなど、様々なケースがありますので、判定が難しいことは確かです。

 しかし、中国の古典や、それぞれの時代において標準となっていた漢文には出てこない語法や語彙が、日本・朝鮮・ベトナムの文献に見えていることも事実です。「判定基準が曖昧なのだから、和習によって三経義疏や『日本書紀』について何かを判断するのは無理だ」などと言うのは、「私は語法や語彙に注意して読んでいません」と宣言するに等しいため、避けた方が賢明でしょう。和習は全能の切り札ではないものの、きわめて有力な判断基準であることは間違いありません。

 また、『隋書』であれ何であれ、日本に関する情報を中国人が書きとどめる場合、どうしても中国流の書き方になりがちです。この場合、文章自体は標準的な漢文で書かれていても、その情報元となった文献はどのような日本風な書き方で書かれていたか、それをどのように改めたかを推測する必要がありますので、その意味でも和習の研究が必要となります。

 こうした点について考えるうえで有益なのが、

郭穎「『東瀛詩選』における兪樾[={木越}]の修改--「和習」について--」
(『中国学研究論集』20号、2008年4月)

です。

 清代末期のすぐれた学者であった兪樾[={木越}](1821-1907)は、岸田吟香の依頼によって送られてきた江戸時代の漢詩を編纂し、『東瀛詩選』を編集したことは有名ですが(私の大好きな亀田鵬斎の漢詩を評価してくれているので嬉しい……)、郭穎氏によれば、その際、かなり語句を改めているとのことです。郭穎氏は『東瀛詩選』のそうした修改に関する一連の論文を書くうちに、日本漢詩の特徴、和習と呼ばれるものの実態が明らかになってきた結果、「単なる語法上の問題ではなく、日本の独特な風習、感覚や美意識の産物」の場合も多いと考えるようになった、ということで、上記の論文を発表されるに至った由。

 たとえば、日本の漢詩が「茶」の「煙」という表現をお茶の湯気の意で用いているのに対し、中国では「茶煙」は茶を煮る時の煙りを指すとか、中国では「東西」の語が普通であるのに、日本では「西東(にしひがし、にしひんがし)」も用いるとか、中国では「何々しよう」と誘いかける「勧」と、何かを進上する意の「進」を区別しているのに、両方とも「すすめる」と訓む日本ではそれを混同していることがある、などという場合は、『東瀛詩選』が日本の漢詩の表現を直すのは自然です。

 ところが、そうしたものとは異なる修改があります。たとえば、日本では『古今集』の序が示すように、蛙は歌を唱うものとされていたため、江戸前期のある儒者は、「グワァックグワァック」と鳴く春の「蛙」は実は『論語』の決まり文句である「子曰わく、子曰わく」を「唱」っているのだから騒がしいととがめないでほしい、という冗談めいた漢詩を詠んでいます。これに対して、中国では「蛙」はうるさい「声」で鳴く生き物と見るのが普通であるため、『東瀛詩選』は、「蛙の鳴き声が遠いため、幸いに騒がしくなくてすんでいる」という意の句にしており、状況そのものを改めてしまっているそうです。その他、漢詩中の語が日本の地名であると分からず(あるいは中国風な地名と異なるため?)、文字を改めて漢文として意味が通るようにしてしまった箇所もあるとか。

 そういえば、大学院の入試の漢文に「大自在天」の語が出てきたものの、仏教経典に見える神、マヘーシュヴァラのことだと分からず、「大いに自ら天に在り」と訓み下してしまったと笑っていた古代中国思想専門の先輩がいたっけ……。漢文自体はよく読める人でしたが、分野が違うとそうしたことが起こりがちです。

 それはともかく、三経義疏であれ、『日本書紀』であれ、漢文で書かれているものについては、平安時代あたりからの訓読の伝統を考慮しつつも、まず漢文として語法と語彙に注意しつつ読むべきですね。和習たっぷりの湯岡碑文などは、まだきちんとした校訂本文が作られておらず、明らかに誤った句読や訓が用いられているのですから、そんな状況で内容や製作年代について断定するのは危険でしょう。

法隆寺釈迦三尊像光背銘の書者は止利仏師だという説

2010年06月01日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の釈迦三尊像については、釈迦像、脇侍、光背、銘文のすべてについて論争があるという、すさまじい状況が続いています。逆に言えば、法隆寺の文物は美術史学にとって、また日本史学や仏教学にとってどれほど重要か、ということです。

 論争疲れなのか、最近は専論が減っていましたが、久しぶりに発表されたのが、

魚住和晃「法隆寺釈迦三尊像光背銘にかかる一考察--その内容の歴史的妥当性を中心として--」
(『書法漢学學研究』第6号、2010年1月)

です。筆跡鑑定で名高い神戸大の魚住和晃氏は、同じ金堂の薬師如来像銘については和風な表現から見て大化以後とする一方で、釈迦三尊像銘については、

 (1)行間より字間の方が広く空いており、横方向の文字の連なりを感じさせるのは、隷書の書法、ないし、隷書から楷書に移る過渡期の書法に通ずる。
(2)起筆が尖りりがちで左につきだしており、隋唐期に完成された三過折筆の書法と異なる。
(3)転折部は角ばらずに丸く書かれ、「李柏文書」や「法隆寺釈迦如来脇侍像造像銘」や「野中寺弥勒菩薩半跏像造像銘」に通じる。
 
などの理由により、薬師如来像銘の書法より古いとし、しかも比類のない逸品であることは、特別な作であることを示すものだと説いています。

 次に、その素晴らしい書を書いた人物については、銘文末尾に「使司馬鞍首止利仏師造(司馬鞍首止利をして造らしむ)」と記される仏像作製者、司馬鞍作部止利その人だと推定します。『興福寺官務牒疏』では祖父の司馬達等は「百済人」とされていることが示すように、百済から渡来したとしても、銘文では単に「鞍首」とせず、「司馬」という姓が強調され、「仏師の長」であることが強調されているのは、中国南朝の名族、司馬氏の子孫なればこそであり、だから南朝の書法を伝えているのだ、この銘文は、止利自身による製作記という性格を持っている、とするのです。

 「仏師」の語については、田中嗣人『日本古代仏師の研究』(同、1983年)を初めとして、成立を遅く見る研究者も多く、様々な議論がなされていますので、その点の説明が必要ですね。ただ、田中氏も止利は「単なる工人身分ではなく、技術系官人の身分にあった」ことを強調していますので(田中「法隆寺と止利仏師」、『華頂博物館学研究』 1号、 1994年12月)、止利は当時にあっては教養人であったと見てよいでしょうが、祖父である司馬達等は継体天皇十六年(五二二)に日本に渡って来たという伝承が正しければ、三世となる止利が中国南朝末期の最新の書法にどれほど通じていたかが気になります。

 魚住氏の論文で重要なことは、この銘文は「造像の発願者が明瞭でなく、詔があったわけでもない」うえ、朝鮮でも日本でも古代には書丹者の名を記す習慣がなかったにもかかわらず、この銘文の場合は「使司馬鞍首止利仏師」と固有名詞が明記されていることを重視した点でしょう。つまり、「仏師」の語が見えるから後代の作だとか、間人皇后や太子の薨日は何々の暦だと何日になる、といった議論が盛んであった中で、銘文末尾において「司馬鞍首止利仏師」という自負を感じさせる長々しい呼び方がなされているのはなぜか、という点に注意を向けた点が評価されます。これは確かに考えなければならない問題です。

 なお、同論文では、『日本書紀』欽明天皇六年秋九月に「是月、百済造丈六仏像、製願文曰、蓋聞丈六仏、功徳甚大。今敬造、以此功徳、願天皇獲勝善之徳、大皇所用彌移居国、倶蒙福祐。……」とある部分について、「百済の聖明王は日本に仏教を伝教するために、丈六の大仏を造り遣わした」としていますが、そうは読めません。この願文が本物か、『日本書紀』編者のまったくの作文か、何らかの資料に基づいて潤色したものかはともかく、右の文章が述べているのは、百済王が日本の「天皇」とその支配する「みやけ」の繁栄を祈願して丈六仏を造った、というだけのことです。送ってきたとは書いていません。造像したことを日本に知らせて来る際、その図やミニチュアなどは送ってくる可能性はあり、そうした場合は、南朝の流行を反映した最新の書体で書いてくる可能性はありますが。ただ、そうだとしたら、そのような書体は日本の他の銘文や木簡などに影響を与えているでしょうが、釈迦三尊像銘文は隔絶している印象を受けます。
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