「中之太子」と称される野中寺の弥勒菩薩像については、666年と比定される「丙寅年」と記す銘のうちの「中宮天皇」という部分が、「天皇」の語の早い例であるため、この像および銘の成立時期が議論されてきました。ただ、この像が大正時代の擬古作である可能性を示唆した東野治之氏の論文の衝撃は大きく、麻木脩平氏が反論して論争になったものの、2002年以後、この弥勒菩薩像に関する論文は出ていません。
その野中寺の弥勒菩薩像に関する論文が、昨年11月に2本続けて刊行されました。
礪波恵昭「野中寺菩薩半跏像をめぐって」
(中野玄三編『方法としての仏教文化史--ヒト・モノ・イメージの歴史学--』、勉誠出版、2010年)
松田真平「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」
(『仏教芸術』313号、2010年11月)
です。
礪波論文は、銘文の内容については「新知見を提示することができない」とし、美術史の立場から様式について詳細に論じたものです。氏は、形態は弥勒というより菩薩半跏思惟像とすべきであるため、これを弥勒像として造像したなら、製作した側は弥勒の図像に関する理解が曖昧であったことになるとしています。
制作時期については、白鳳期の後期、つまり七世紀末の作例と様式が共通する点が多いことから、その時期の作と見ており、「丙寅年」とする銘文については、天皇のための弥勒像制作という事実を仮託し、造像の際に刻み込んだものと推測します。
一方、CG技術による文化財の再現・修復を専門とする松田氏の論文は、これまで「丙寅年四月大旧八日癸卯開記」と読まれ、議論となってきた「旧」字は、中国の石碑の字体や中国での用例から見て「洎(いたる)」であるとし、「八日癸卯開にいたりて記す」と読み、仏像が完成した後、5年ほどたってからようやく銘文を刻んだことを示すとしています。
そして、野中寺近辺の木々の調査に基づき、銘文の「栢寺」の「栢」は、日本でいう「かしわ」ではなく、漢字の原義と韓国の用例が示すように常緑の針葉樹であり、「栢寺」は野中寺のことだと説きます。当然ながら、銘は「丙寅年(666)」の作で良いとする真作説であって、東野説に反対しています。
松田論文は、中国石碑の字体の検討や野中寺近辺の実地調査などは興味深いものの、論文の書き方にやや難があるほか、「八日癸卯開にいたりて記す」という読みは、「平成23年の1月において、25日に至って記す」と述べるようなものであって、不自然ですね。「旧」が「洎」であって「~に至って記した」としたかったのであれば、「丙寅年四月大洎八日癸卯開」ではなく、漢文風なら「洎丙寅年四月大八日癸卯開記」、和文風な漢字表記なら「丙寅年四月大八日癸卯開洎記」などの形となりそうです。
中国における「洎」の用例が挙げられていますが、「洎玆以降(玆[これ]より以降)」を「以降、玆に洎(およ)ぶ」と誤読するなど、漢文用例の読み誤りが複数あり、問題の箇所の参考例とはなりえていません。また、銘文のうち、「智識之等」と読まれてきた「之」は繰り返しを示す記号であって、「智識識等」と読むべきだとしていますが、「智識之等」という耳慣れない表現は、「知識等」を四字句にするためのものでしょう。「之等」という表現は、「~のともがら」「~の仲間」という意味で仏教文献で用いられるものです。
ということで、上記二つの論文は、それぞれ新たな知見・情報を含んでいるものの、天智朝以前に「天皇」の語が用いられていた可能性があるかどうかを知りたいこのブログの立場からすると、課題は未解決のまま、ということになりました。
その野中寺の弥勒菩薩像に関する論文が、昨年11月に2本続けて刊行されました。
礪波恵昭「野中寺菩薩半跏像をめぐって」
(中野玄三編『方法としての仏教文化史--ヒト・モノ・イメージの歴史学--』、勉誠出版、2010年)
松田真平「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」
(『仏教芸術』313号、2010年11月)
です。
礪波論文は、銘文の内容については「新知見を提示することができない」とし、美術史の立場から様式について詳細に論じたものです。氏は、形態は弥勒というより菩薩半跏思惟像とすべきであるため、これを弥勒像として造像したなら、製作した側は弥勒の図像に関する理解が曖昧であったことになるとしています。
制作時期については、白鳳期の後期、つまり七世紀末の作例と様式が共通する点が多いことから、その時期の作と見ており、「丙寅年」とする銘文については、天皇のための弥勒像制作という事実を仮託し、造像の際に刻み込んだものと推測します。
一方、CG技術による文化財の再現・修復を専門とする松田氏の論文は、これまで「丙寅年四月大旧八日癸卯開記」と読まれ、議論となってきた「旧」字は、中国の石碑の字体や中国での用例から見て「洎(いたる)」であるとし、「八日癸卯開にいたりて記す」と読み、仏像が完成した後、5年ほどたってからようやく銘文を刻んだことを示すとしています。
そして、野中寺近辺の木々の調査に基づき、銘文の「栢寺」の「栢」は、日本でいう「かしわ」ではなく、漢字の原義と韓国の用例が示すように常緑の針葉樹であり、「栢寺」は野中寺のことだと説きます。当然ながら、銘は「丙寅年(666)」の作で良いとする真作説であって、東野説に反対しています。
松田論文は、中国石碑の字体の検討や野中寺近辺の実地調査などは興味深いものの、論文の書き方にやや難があるほか、「八日癸卯開にいたりて記す」という読みは、「平成23年の1月において、25日に至って記す」と述べるようなものであって、不自然ですね。「旧」が「洎」であって「~に至って記した」としたかったのであれば、「丙寅年四月大洎八日癸卯開」ではなく、漢文風なら「洎丙寅年四月大八日癸卯開記」、和文風な漢字表記なら「丙寅年四月大八日癸卯開洎記」などの形となりそうです。
中国における「洎」の用例が挙げられていますが、「洎玆以降(玆[これ]より以降)」を「以降、玆に洎(およ)ぶ」と誤読するなど、漢文用例の読み誤りが複数あり、問題の箇所の参考例とはなりえていません。また、銘文のうち、「智識之等」と読まれてきた「之」は繰り返しを示す記号であって、「智識識等」と読むべきだとしていますが、「智識之等」という耳慣れない表現は、「知識等」を四字句にするためのものでしょう。「之等」という表現は、「~のともがら」「~の仲間」という意味で仏教文献で用いられるものです。
ということで、上記二つの論文は、それぞれ新たな知見・情報を含んでいるものの、天智朝以前に「天皇」の語が用いられていた可能性があるかどうかを知りたいこのブログの立場からすると、課題は未解決のまま、ということになりました。