聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

野中寺の弥勒菩薩像銘と「天皇」の語の登場時期:礪波恵昭氏と松田真平氏の論文

2011年01月31日 | 論文・研究書紹介
 「中之太子」と称される野中寺の弥勒菩薩像については、666年と比定される「丙寅年」と記す銘のうちの「中宮天皇」という部分が、「天皇」の語の早い例であるため、この像および銘の成立時期が議論されてきました。ただ、この像が大正時代の擬古作である可能性を示唆した東野治之氏の論文の衝撃は大きく、麻木脩平氏が反論して論争になったものの、2002年以後、この弥勒菩薩像に関する論文は出ていません。

 その野中寺の弥勒菩薩像に関する論文が、昨年11月に2本続けて刊行されました。

礪波恵昭「野中寺菩薩半跏像をめぐって」
(中野玄三編『方法としての仏教文化史--ヒト・モノ・イメージの歴史学--』、勉誠出版、2010年)

松田真平「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」
(『仏教芸術』313号、2010年11月)

です。

 礪波論文は、銘文の内容については「新知見を提示することができない」とし、美術史の立場から様式について詳細に論じたものです。氏は、形態は弥勒というより菩薩半跏思惟像とすべきであるため、これを弥勒像として造像したなら、製作した側は弥勒の図像に関する理解が曖昧であったことになるとしています。

 制作時期については、白鳳期の後期、つまり七世紀末の作例と様式が共通する点が多いことから、その時期の作と見ており、「丙寅年」とする銘文については、天皇のための弥勒像制作という事実を仮託し、造像の際に刻み込んだものと推測します。

 一方、CG技術による文化財の再現・修復を専門とする松田氏の論文は、これまで「丙寅年四月大旧八日癸卯開記」と読まれ、議論となってきた「旧」字は、中国の石碑の字体や中国での用例から見て「洎(いたる)」であるとし、「八日癸卯開にいたりて記す」と読み、仏像が完成した後、5年ほどたってからようやく銘文を刻んだことを示すとしています。

 そして、野中寺近辺の木々の調査に基づき、銘文の「栢寺」の「栢」は、日本でいう「かしわ」ではなく、漢字の原義と韓国の用例が示すように常緑の針葉樹であり、「栢寺」は野中寺のことだと説きます。当然ながら、銘は「丙寅年(666)」の作で良いとする真作説であって、東野説に反対しています。

 松田論文は、中国石碑の字体の検討や野中寺近辺の実地調査などは興味深いものの、論文の書き方にやや難があるほか、「八日癸卯開にいたりて記す」という読みは、「平成23年の1月において、25日に至って記す」と述べるようなものであって、不自然ですね。「旧」が「洎」であって「~に至って記した」としたかったのであれば、「丙寅年四月大洎八日癸卯開」ではなく、漢文風なら「洎丙寅年四月大八日癸卯開記」、和文風な漢字表記なら「丙寅年四月大八日癸卯開洎記」などの形となりそうです。

 中国における「洎」の用例が挙げられていますが、「洎玆以降(玆[これ]より以降)」を「以降、玆に洎(およ)ぶ」と誤読するなど、漢文用例の読み誤りが複数あり、問題の箇所の参考例とはなりえていません。また、銘文のうち、「智識之等」と読まれてきた「之」は繰り返しを示す記号であって、「智識識等」と読むべきだとしていますが、「智識之等」という耳慣れない表現は、「知識等」を四字句にするためのものでしょう。「之等」という表現は、「~のともがら」「~の仲間」という意味で仏教文献で用いられるものです。

 ということで、上記二つの論文は、それぞれ新たな知見・情報を含んでいるものの、天智朝以前に「天皇」の語が用いられていた可能性があるかどうかを知りたいこのブログの立場からすると、課題は未解決のまま、ということになりました。
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記紀は史実とある程度対応している:金子裕之「記紀と古代都城の発掘」他

2011年01月27日 | 論文・研究書紹介
 発掘調査に基づいて古代の信仰世界を明らかにしてきた奈良文化財研究所の金子裕之氏(定年後は奈良女子大学特任教授)が、2008年3月に亡くなられました。前年の12月に奈良女子大の研究会でいつも以上に熱っぽいコメントをされた氏は、後日、その発言を二篇の草稿にまとめて小野田泰直氏に渡し、これが絶筆となった由。「今思えば、ご病気の中、最後の力を振り絞って書かれた論文だと思う」というのが小野田氏の述懐です。その遺稿二篇が、

金子裕之「神武神話と藤原京」(『日本史の方法』7号、2008年5月)
同「記紀と古代都城の発掘--舒明王朝論からみた古事記・日本書紀--」(同)

です。金子「飛鳥・藤原京と平城京--七・八世紀の都と舒明王朝--」(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集16『都城制研究(1)』、2007年11月)と、内容がかなり重複してます。

 神武論文は、天武天皇は藤原京造営にあたって多くの古墳を破壊しているにもかかわらず、畝傍山周辺の神武天皇陵や初期の天皇たちの陵が残されているのは、壬申の乱の勝利は神武天皇陵に馬と武器を備えて祀ったことが要因とした天武天皇が、その地を陵墓として整備し、自分はその正統を継いでいるのだと主張しようとしたためだとし、「神武神話が『日本書紀』にみえる形になった時期が天武朝の初頭にあることを示唆している」(5頁)と論じています。

 金子氏は、神武天皇の事蹟は事実でないとする立場であり、また現在の神武天皇陵は天武朝時に神武陵とされたものとは異なると見ていたものの、『日本書紀』の神武天皇像は、神武陵に関する上記のような状況を背景にして形成されており、その意味で『日本書紀』の記述は史実と何らかの対応関係にあるとするのです。

 記紀論文も同様に、「記紀の記述と史実の間には何の関係もないとする神野志氏の主張とは逆に、飛鳥や藤原京跡の過去四○年余りにおよぶ発掘調査が、記述と史実がある程度対応することを示している」(8頁)という立場から書かれています。

 中国では、新王朝を樹立した天子は新都を建て、前王朝の歴史を描いた史書を編纂しましたが、新王朝を樹立したとする自負があったであろう天武天皇の場合は、父舒明天皇の百済大宮と百済大寺を域内に取り込んだ壮大な藤原京の造営と、推古天皇で終わる『古事記』の編纂がそれに当たる、というのが金子氏の見解です。

 その藤原京を完成させるなど天武の事業を引き継いだ持統天皇の役割を強調し、舒明天皇に始まる皇統、いわば舒明王朝の正統性を主張したのが、持統天皇で終わる『日本書紀』だと氏は説くのです。

 新王朝の正統性を強調する際は、前の王朝の最後の王の非道さを強調するのが常ですが、『日本書紀』は露骨な王朝交替を認めない立場であるうえ、推古天皇は武烈天皇のように暴虐な帝王としては描かれていませんので、蘇我氏がその悪逆の役割を託されたということになるのでしょうか。

 舒明王朝論の是非はともかく、長年、発掘に携わって業績をあげてきた研究者が、遺稿となることを覚悟して書いた原稿で、「記紀と史実がある程度対応する」と主張していることは見逃せません。個々の記述で描かれている事柄が戦後の懐疑的な歴史学界が考えてきた以上に史実と対応している可能性、あるいは『日本書紀』に描かれている時代の状況そのものではないにせよ、後代の何らかの史実を反映している可能性は、十分考えられるところです。

 『日本書紀』は、むろん、編纂当時の権力者たちに都合良く書かれていますが、『日本書紀』の立場にとって不利な記述もかなり残っているうえ、正史としては不自然な形で異説を数多く記録しています。それらすべてを『日本書紀』編纂段階における机上の創作とするのは無理と思われます。では、「聖」であったことが異様に強調されている厩戸皇子関連の記事は、どの程度、またどのような形で史実と対応しているのか、それとも、対応していない例の一つなのか。

「聖徳太子→鎌倉仏教」という図式:オリオン・クラウタウ「一五年戦争期における日本仏教論とその構造」

2011年01月22日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 現在の日本仏教史研究では、鎌倉新仏教の諸宗だけでなく、同時期の南都仏教も重視されるようになったほか、「鎌倉新仏教」という概念そのものが見直されつつあり、また、近世・近代仏教の研究も盛んになってきています。しかし、顕密体制論が出るまでは、鎌倉新仏教を日本仏教の精華とみなす傾向が強く、最澄・空海を除けば、日本仏教史を受容から鎌倉新仏教形成に至る過程とそれ以後の変容・堕落の過程と見て、それを跡づけるような研究が盛んでした。

 それは、現在の日本の有力宗派の多くが鎌倉新仏教に由来し、またそうした宗派に属する仏教史研究者が多かったためでもありますが、明治期にヨーロッパに留学し、近代的な日本史学の開拓者の一人となった原勝郎が、キリスト教の「新教・旧教」の図式を日本に当てはめ、鎌倉時代に起こった諸宗を宗教改革を試みた新仏教として評価したことの影響が続いてきたためでもあります。そうした鎌倉新仏教重視の傾向について、また別な背景を探ってみたのが、

オリオン・クラウタウ「一五年戦争期における日本仏教論とその構造--花山信勝と家永三郎を題材として--」
(『仏教史学研究』53巻1号、2010年12月)

です。

 クラウタウさんは、近世から近代の日本仏教について、新たな視点によるすぐれた研究を精力的に発表している若手研究者であって、この論文も仏教史学の常識を見直す試みの一つです。

 クラウタウさんは、昭和12年に文部省が刊行した『国体の本義』が日本仏教の本質を聖徳太子に求めると同時に、その顕現を鎌倉仏教に見出していることに注意し、こうした国体的な仏教論を展開させた代表者として、東京帝大印度哲学科の花山信勝に着目します。

 熱烈な聖徳太子讃仰者であった花山については、このブログでも何度か触れましたが、クラウタウさんは、花山が日本仏教の特質を「一乗平等の精神」に立った「真俗一貫」の姿勢に見出し、日本の「国体」を仏教解釈中に具現化した聖徳太子の精神を受け継ぎ、展開させた存在として親鸞を評価したと指摘します。花山は、平安仏教および鎌倉以降の仏教については、ごく簡単にしか取り上げようとしないのです。

 花山のような国体論者ではなく、京都学派の哲学の影響なども受けて日本文化における「否定の論理」を重視した家永三郎も、「世間」を「虚仮」なるものとして否定した聖徳太子から親鸞へという道筋重視という点では同様であった、とクラウタウさんは指摘します。花山は「聖徳太子→親鸞」という流れを日本独自の国体的仏教の系譜として誇るの対し、家永は西洋哲学を含めた普遍的な思想を志向し、そうした普遍性が日本では「聖徳太子→親鸞」という系譜に見出されるとするのであって、その流れを日本仏教の優越性として強調する点は同じだとするのです。

 戦後になると、「皇室」や「国体」という言説は表舞台から退くものの、鎌倉仏教こそが日本仏教の精華だとする図式は継承され、鎌倉新仏教を「民衆的」という側面から評価する傾向が盛んとなります。家永の研究成果は、戦後はそうした面からあとづけられて広く受容されるようになり、そのような日本仏教観は、日本のみならず外国の研究者にまで影響を与えるに至ったと、クラウタウさんは論じています。

 なお、クラウタウさんは、権威の源泉とされていた「聖徳太子」が戦後になると「『国体論』とともに放棄され」(58頁)、キーワードが「民衆」に置き換えられた、という方向で書いていますが、これは少々説明不足です。「放棄され」たのは「承詔必謹」を強調して国体を示したとされる聖徳太子像であって、戦後は聖徳太子は「和」と民主主義の元祖に変容し、重視され続けたことにも触れてほしかったですね。

 戦時中の皇道仏教を批判する立場で研究を進め、戦後の日本仏教史学界に大きな影響を与えた二葉憲香が、蘇我馬子の仏教は呪術的で土俗宗教色が強いのに対し、聖徳太子の仏教は現世否定の普遍的信仰だったとする図式を打ち出し、行基や私度僧などを反律令的な民衆仏教と評価して太子をそうした系統の仏教と結びつけようとしたのは、その一例でしょう。二葉憲香が、真宗系である龍谷大学の学長となったのは、当然かもしれません。

軍事施設でもあった寺々: 甲斐弓子『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』

2011年01月17日 | 論文・研究書紹介
 前の記事では、20年近く前の拙論で、上代の寺院について「城砦ともなりうる伽藍」と書いたことに触れましたが、この点を解明してくれたのが、昨年刊行された、

甲斐弓子『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』
(雄山閣、2010年)

です。

 第Ⅱ部「軍事的要素を備えた古代寺院」第一章「掘立柱柵を備えた寺々」では、甲斐氏はまず、『日本書紀』が寺を城として記した箇所に着目します。すなわち、蘇我入鹿を討ち取った中大兄が「即ち法興寺に入りて、城として備う」とある皇極四年の箇所です。

 飛鳥寺は完成時には、外郭が高さ5メートルほどの築地(大垣)で囲まれていたようですが、中大兄が走り込んだ頃は、まだ創建時以来の掘立柱柵で囲まれていたと推定されており、発掘結果によれば、その柱間の間隔は平均2.65メートル、柱径は40センチにも及んでいた由。
 
 同様の掘立柱柵の跡は、若草伽藍の西辺と北辺でも若草伽藍や斑鳩宮と同じ方位に基づく柵の遺構が発見されており、こちらは柱の直径は20~25センチと推定されています。また、山田寺の第一期では、柱間は約2.4メートル、柱径は約30センチと大きめであって、300本近い柱を必要としたとされます。

 飛鳥寺の柵を初め、回廊の外にあるこうした施設は単なる外郭施設とは思われない、と甲斐氏は述べています。「仏敵から寺を護るという意識もあろうが、その状況はまさに防御施設そのものといえよう」(136頁)というのが氏の判断です。

 甲斐氏は、他にも多くの寺々の発掘結果を検討しており、矢を防ぐために稲藁を高く積み上げた「稲城」を築いて戦った物部守屋との合戦以後に、次々に造営されていった当時の寺院の多くは、軍事的に重要な地点にあり、「防御的機能を備えてい」たことを強調しています。

 甲斐氏は、難波から飛鳥への経路に位置する若草伽藍にしても、阿部山田道沿いで飛鳥への入り口に位置する蘇我倉山田石川麻呂の山田寺にしても、重要な路に接していることに注意します。そして、その他の掘立柱柵が発見されている寺々についても、蘇我氏と密接な関係にあった阿倍氏の阿倍寺が横大路の東端に造営されていたように、海外からの使節を迎え入れる道でもあった重要道路近くに位置している場合が多いとします。これは、二時期にわたる掘立柱柵の遺構が発見されている難波の四天王寺の場合も同様です。

 こうして見ると、仏教受容期において、寺院を造営する技術者たちを蘇我本宗家から派遣してもらえたのは、どのような氏族であって、どのような役割を期待されていたか、明らかですね。最初期の飛鳥寺・豊浦寺に続いて建立された若草伽藍は、その代表例のはずです。

上代日本の誓願に関する昔の拙論を公開しました

2011年01月13日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の内容を批判した際、上代日本の誓願に関する拙論をこのブログで公開すると書きましたが、その論文「上代日本仏教における誓願について--造寺造像伝承再考--」(『印度学仏教学研究』40巻2号、1992年3月)のPDFを、先日、作者の論文コーナーにアップしたのに、紹介するのを忘れてました(ここです)。

 大昔の論文で申し訳ありません。ただ、仏教学の方では、法蔵菩薩(阿弥陀仏)の本願などに関する論文は多いものの、拙論以後もこうした論文は出ていないようなので、多少は役に立つことと思います。初期中国仏教の誓願に関する論文は、

「初期中国仏教における現世的誓願信仰の流行と衰退」
(『日本仏教学会年報』第60号、1995年5月)

ですが、こちらはPDFはありません。

 今回アップした拙論では、『日本書紀』に見える守屋合戦の際の聖徳太子と馬子の誓願については、一つの誓願を無理に二つに分けて太子と馬子に割り振った形跡があると論じています。

 なお、この拙論で触れた野中寺の弥勒菩薩銘については、真偽や成立年代について論争がなされており、前回の記事でとりあげた「天皇号」の問題ともからみますが、最近、論文が2本出ていますので、近くご紹介します。また、拙論のうち、「城砦ともなりうる伽藍」という点については、初期の寺を軍事施設と見る本が最近出ましたので、こちらも近く紹介します。

聖徳太子に関する古代史学本流派の見解:大津透『神話から歴史へ』

2011年01月12日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子論争中の重要なテーマの一つが、天皇号です。「天皇」の語の用例の早い例は、法隆寺金堂の薬師如来像銘と天寿国繍帳銘ですし、釈迦三尊像銘にも「法皇」とあるため、これらの真偽や成立年代は、天皇制の成立、あるいは「天皇」という語がいつから使われ始めたかという問題と密接に関わっています。

 その古代の天皇制の解明に取り組んできた大津透氏の新著が11月に出ました。

大津透『(天皇の歴史 01巻)神話から歴史へ』(講談社、2010年)

です。

 大津氏は、『古代の天皇制』『日本の古代史を学ぶ』などの著書を刊行しておりながら、これまでは、「自らに禁じているのか」と思われるほど、聖徳太子に触れずにきています。むろん、聖徳太子虚構説を取り上げて論ずることなど、全くありません。

 今回は自分が編者の一人となっている一般向けシリーズの第一巻ということもあってか、聖徳太子についても簡単に触れていますが、「近年は古代史の中でも古い時代(大化前代という)の研究は盛んではなく、戦後の歴史学をささえた大先輩たちの研究を参照することになった」(「はじめに」3頁)とあるように、大津氏独自の主張を打ち出すことはなく、戦後の諸研究を紹介するにとどまっています。

 では、坂本太郎・井上光貞などの伝統を継ぐ東大日本史学専修の教授、それも古代の天皇制を専門とする大津氏は、現時点では聖徳太子についてはどのような説を妥当だと考えているのか。

 まず、厩戸皇子については、「皇太子」という名称は後のものであるにせよ、厩戸皇子のために「壬生部」という財政基盤が定められたことから見て、「太子」とか「ひつぎのみこ」と称される一定の実態があったように思われる、としています。そして、『日本書紀』の記事通り、馬子大臣と太子と呼びうる地位にあった厩戸皇子とが、共同で政治を行ったと考えられるとしています。

 「憲法十七条」については、聖徳太子に仮託された可能性はあるにしても、推古朝のものと見てよいとし、儒教を中心とする国家の法として考えるべきだとします。

 天皇号については、天武朝とか天智朝とする見解が有力だったものの、近年ではやはり推古朝には成立していたとする説も出されており、「筆者もそれでよいと考えている」由。

 天寿国繍帳銘については、その系譜は欽明天皇と蘇我稲目から発するものであり、銘文中で「天皇」と呼ばれているのが推古とその始祖の欽明だけであることは、天皇号成立の端緒の時期だったためとする義江明子氏の説を紹介しています。

 以上です。結論としては、意外なほど伝統説に近い形になってますね。新しい説は出されていないうえ、太子ばかりか、馬子の役割も明確に示されていません。前後の時期と対比して「推古朝」の段階ではこれこれの仕組みとなっていたであろう、という時代と制度を主体とした論じ方です。

 大津氏の立場が出た部分は、豊浦宮を尼寺である豊浦寺としたことは、「推古は、神祇祭祀だけでなく、釈迦仏を祭祀する学問尼も統括していた」ことになるとして、宗教管理者としての推古の役割を重視した箇所などでしょうか。

 大津氏が、人物に重点を置かないのは、唐の律令との詳細な比較を通して、日本の律令制や財政のあり方などを中心に研究してきているためでしょう。『日本書紀』に描かれた人物像は後代の潤色が加えられており、信用しがたい例が多いのは事実ですが、評価するにせよ疑うにせよ、聖徳太子や馬子について、もう少し踏み込んだ検討をしてほしかったですね。

 東アジア諸国においては、仏教は外交上でも重要な役割を果たしており(この方面では、私は若手研究者である河上麻由子氏の研究を評価しています)、私自身は、国家のうちに仏教が取り込まれた中国・高句麗・百済と違い、周辺国である新羅と日本では、国家は仏教受容と連動して形成されていったのだ、という立場であって、そうした趣旨の論文も昔、書いたことがあります(「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(シリーズ・東アジア仏教5 高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)。仏教を無視して古代の中国周辺国家や天皇制を論ずることはできないはずです。

 仏教学者も敬服せざるを得ないほど仏教に通じ、三経義疏についても優れた論文を書いた井上光貞を継ぐ立場にあるのですから、聖徳太子についてはともかく、仏教関連の事柄について、大津氏独自の見解を示してくれることを期待したいところです。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(4):出典の誤記の系譜

2011年01月07日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 田中氏が、法隆寺非再建説を主張するにあたって、自説の最も重要な拠り所である関野貞論文の初出誌に当たっておらず、出典の名を誤記し、内容を自説に都合よく改めていたことは、以前の記事で紹介した通りです。

 田中氏は、大正九年の現・法隆寺の調査では火災の痕跡がなく、「再建論者の根拠を失わせるものであった」と述べたのち、次のように書いています。

「関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、氏はすでに法隆寺の南東にある普門院の、その南にある塔の心楚が露出している若草伽藍跡に着目した。そしてこの若草伽藍が聖徳太子のために発願された『釈迦三尊』像を本尊として建立されたもので、これが六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた。現在の法隆寺である西院伽藍は、用明天皇のためにつくられた『薬師如来』像を本尊として推古天皇の時代に創建されたもの、という(『アルス大建築講座』)。」(31頁)

 そして、後の箇所ではこの関野説を「示唆的」と評価して非再建説を述べています。田中氏は、上記の箇所の少し前の部分で、

「この論争史を書いた藤井恵介氏は、この関野氏の判定した古建築の建立年代が現在の定説とほとんど一致し、その正確さに驚嘆せざるをえない、とさえ語っている(『法隆寺・建築』保育社)」(28-29頁)

と述べ、建築史の研究者である藤井恵介氏の評言を引いて関野説が優れていることを強調していますが、そこで名を挙げている藤井氏の本のうち、焼失関連の部分は実際にはこうなっています。

「関野貞も旧説を大幅に補強するものとして法隆寺二寺説を考えるようになった。これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、巨大な塔の心楚が地表に露出していた若草伽藍に着目した。つまり、現在の西院伽藍は用明天皇のために発願された薬師如来を本尊として推古時代に創建されたもの、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする」(22頁)。

 一読すれば明らかなように、田中氏による関野説の説明は、火災の年が違うことを除けば、藤井氏のこの論争史紹介と表現がかなり一致しています。前の記事では、田中氏は藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)中の関野説の紹介に基づいて書いたのだろうと推測しましたが、その3年後に同じ藤井氏によって書かれたこの文章では、前論文とほぼ同文ながら、「塔心楚」を「塔の心楚」、「現西院伽藍」を「現在の西院伽藍」とするなど、前論文の語句を固くない言い方に改めており、そちらの方が田中氏の文章と一致しています。

 したがって、田中氏が基づいたのは、藤井氏の1984年の論文でなく、それを少し改めた1987年刊行の著書の方であったことが明らかになりました。田中氏は、この書物の名を前の所で記しているため、これに基づいて関野説を紹介すること自体は、問題ありません。

 重要なのは、田中氏は藤井氏のこの著書を横に置きながら、あるいはこれを読んだ際のメモに基づいて原稿を書いておりながら、670年のことである「天智九年の火災で焼失」と藤井氏が明記している箇所を、643年に入鹿軍が山背大兄王を攻撃して斑鳩宮を焼いた際に若草伽藍も焼失した、という形に改めていることです。

 つまり、田中氏は、関野説から示唆を受けたという形で、聖徳太子が父用明天皇のために建立した西院伽藍の本尊はその際に破壊されたため、太子没後に建立された若草伽藍が670年に焼けた際に救出された釈迦三尊像を西院伽藍の本尊としたのであり、西院伽藍は太子の創建当時のままであって再建されていないのだ、とする自説を述べるのですが、藤井氏の関野説紹介だけでなく、関野の原論文も「天智天皇九年に焼失せし法隆寺は此伽藍にして其後再興されず」(86頁)と明記しています。入鹿軍による斑鳩宮襲撃の際に若草伽藍も焼けた、などとは述べていません。そうなると、その斑鳩宮襲撃の際に西院伽藍の本尊が破壊されたため、後に若草伽藍から持ち出した釈迦三尊像で置き換えた、とする田中説は成り立ちにくくなります。

 なお、気になるのは、田中氏や藤井氏以外の法隆寺関連論文でも、『アルス建築大講座』とすべきところを『アルス大建築講座』と誤記しているものを見かけることでした。そこで、その誤記がどこまでさかのぼれるか調べたところ、面白いことが分かりました。

 以下、再建非再建論争史を扱った論文を中心にして、どのように表記しているか、新しい順に並べてみます。<>の中が原文の引用で、*の部分は私のコメントです。

島田敏男「法隆寺再建・非再建論争と若草伽藍」(『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告(奈良文化財研究所学報第76冊)』、2007年3月):
<関野 貞 1927 『アルス大建築講座』(足立康 1941 『法隆寺再建非再建論争史』所収、龍吟社)>
 *これは正直な書き方ですね。これで問題ありません。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所、2004年):
<関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、……という(『アルス大建築講座』)。>

岡本東三「法隆寺論争」(明治大学考古学博物館『市民の考古学Ⅰ 論争と考古学』、名著出版、1994年):
<関野貞「日本建築史」(『アルス大建築講座』、昭和二年ごろ。のち『日本の建築と芸術』上巻所収、昭和一五年六月)>
 *市民向けの講演であるため、ワンマン男爵であったらしい北畠治房が、現在は国宝になっている釈迦三尊像の頭をステッキでぽーんと叩き、「よく聞け、これが飛鳥の音色だ」と叫んだというひどい話や、初期の再建非再建論争が水掛論で終わったことについて、「火事の話には”水掛け”はつきもの」という野次馬的評論もなされたとか、面白い逸話満載の論争史紹介です。刊行年については、「二年ごろ」とあって分からなかったことが示されており、岡本氏の個性が感じられます。

町田甲一『増訂新版 法隆寺』「第7章 再建非再建論争」(時事通信社、1987年):
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
 *上代美術史の大家であった町田氏の法隆寺論集大成。後述します。

藤井恵介『日本の古寺美術2 法隆寺Ⅱ[建築]』「法隆寺の創建」(保育社、1987年):
<関野貞も……これは昭和二年い刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、……天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする>
 *上で触れました。

藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年):
<関野貞も……これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、……天智九年の火災で焼失したとする>
 *上の藤井論争史紹介部分の元になったもので、ほぼ同じ文章。論争史紹介としては、良くまとまっています。

町田甲一『法隆寺』「第四章 再建非再建論争」(角川書店、1972年):
<関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年>
 *後述します。

町田甲一「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月):
<昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」>
 *上と同じ内容ながら、形が違うのは、横書き論文であるためか。

足立康編『法隆寺再建非再建論争史』(龍吟社、1941年):
<博士は昭和二年発行のアルス大建築講座中に於てこれを公表され>
<法隆寺主要堂塔の建立年代  昭和二年 アルス大建築講座
 編者云ふ。本稿は関野博士がアルス大建築講座へ執筆されたる……第三項「主要堂塔の建立年代」の全文である。尚標題には便宜上法隆寺を冠した。>
 *論争を紹介し、重要な論文については原文を掲載したもの。関野説については、前年に刊行された下の論文集のうち「日本建築史」から法隆寺の主要堂塔に関する部分を抜粋。

関野博士記念事業会(編纂代表 伊藤忠太)編『日本の建築と芸術』上巻(岩波書店、1940年)凡例:
<「日本建築史」は、著者がアルス大建築講座と工業大辞書とに執筆された論稿を編輯して、一貫せる日本建築史を組織したものである。……昭和十五年五月  編纂委員識>
 *後述します。

以上です。

 なんと、正しく表記しているものは、一つもありませんでした。しかも、関野貞没後まもなく、伊東忠太を初めとする仲間や門弟の研究者たちによって編集され、岩波書店から出版された関野の論文集『日本の建築と芸術』上巻(1940年)の「凡例」が、既に「アルス大建築講座」と誤記していたうえ、講座の第何巻かや刊行年月を記していなかったのです。

 これが誤記の出発点のようですが、ヒドイですね。この本しか見ていないと、孫引きでなく問題の論文のうちの法隆寺の部分をきちんと読んだ人でも、初出資料の名や刊行年代をきちんと書けないことになります。

 田中氏の誤記もそのせいであって、関野の「日本建築史」論文全体、ないし足立編集の再建論争本でその法隆寺関連の部分だけを読んだうえで、著書で関野説を紹介する際、諸説を要領よくまとめた藤井氏の1987年の文章に頼って書いた可能性があります。

 田中氏が「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し」(31頁)と述べている部分は、関野の原論文が「……銅造釋迦像を本尊とせし者にして山背大兄が入鹿の亂に男女廿餘人と縊死せられし斑鳩寺の塔は即ち此若草塔であらう」(86頁)と書いているのに基づいているのでしょう。関野論文は文語調ですので、「山背大兄が入鹿の乱に」としていても不思議はありませんが、田中氏の著書では「六四三年の蘇我入鹿の乱」と書かれているため、「蘇我入鹿の乱」という歴史用語があるかのような不適切な表現になっています。

 ただ、田中氏が関野論文の表現を用いているとなると、藤井氏の著書だけ読んで書いた際、再建非再建に関する諸説が並んで紹介されているため、つい勘違いして関野説を自説に都合良く記してしまった、というのではなく、関野の原論文を『日本の建築と芸術』か足立の再建論争史本で読んでおりながら、内容を自説に都合良く改めて書いている、ということになります。あるいは、「蘇我入鹿の乱」という表現も他の論争史紹介論文に基づいていたのか。今のところ、その表現を用いた論争紹介論文は目にしていませんが。

 なお、上記の一覧のうち、関野説の出典表記が最も詳しいのは、町田氏の増補版(1987年)の、
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
です。

 町田氏は、増補版を出すに当たって、「講座と記すだけではまずい」と思ったのか、メモなどを確認し直したようですね。ただ、「アルス大建築講座」という誤記はそのままですし、「七九号」という表記では、「第七号・第九号」なのか「第七十九号」なのか曖昧であるうえ、そもそも、「七九号」というのは誤りで、「七十九頁以下」となるはずです。《法隆寺堂塔》の部分の出典を詳細に記すなら、

『アルス建築大講座』第十巻(アルス、昭和二年六月)七十九頁~八十六頁。

となります。『聖徳太子虚構説を排す』「あとがき」では、「できるかぎり出典をあげたが、いちいち註をつける性格の本ではないので、遺漏がないともかぎらない」(205頁)とある通りであって、一般向けである同書の場合は、上のように詳しく書く必要はありませんが、この講座は昭和二年には複数の巻が出ていますので、第何巻であるかは表記してほしいところです。しかし、これまで巻数を表記した論争史紹介論文は一つもありませんでした。

 このような事態になったのは、一時期は隆盛を誇っていたアルス社が、こうした講座物を、入会者に対して刊行順に配布するという形で販売しており、大学図書館などでは申し込むところが少なかったことが原因と思われます。この『建築大講座』自体は特に希少なものではなく、セットや個別の巻が今でもあちこちの古書店で売られていますが、Webcat で調べたところ、大学図書館で所蔵しているのは「九大理系」だけであって、合本になっているそうです。

 国会図書館はさすがに所蔵していますが、帝国図書館時代に、各巻に連載されていた同一著者の論文を切り貼りして著者ごとにまとめて合本にしてあり、どの部分がどの巻に載っていて何年何月に刊行されたか、分からなくなっています(以前はマイクロフィルムで見れましたが、現在は館内でのみ電子資料として端末で閲覧可能)。これでは、研究者たちも所載の巻や刊行年代を確認しがたかったことでしょう。九大の合本はどのような形態なのか知りません。

 以上、「自説の根幹に関わる重要な文献については、必ず初出誌に当たって確かめる」という学問の基本ルールを守らないと、出典名の誤記が受け継がれ、孫引きが分かったり、原文の趣旨を改変していることが明らかになる場合もある、という恐い話でした……。

【追記 2011年2月12日】
村田治郎『法隆寺の研究史』(昭和24年)では、「アルス大建築講座」となっており、(86頁)、「合本してしまった今日では全く不明で、ただ昭和二年ころだつたとしか言えないのは残念である」とありました。岡本東三氏の記述の元はこれでしたね。ただ、増補原稿に基づいて没後に刊行された『村田治郎著作集二 法隆寺の研究史』(中央公論美術出版、昭和62年)では、正しく『アルス建築大講座』となってました(73頁)。

単なる追善ではない釈迦三尊の造像: 長岡龍作「仏像を通して見る古代日本の仏教」

2011年01月02日 | 論文・研究書紹介
 この間、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』における釈迦三尊像銘の説明は適切でないと書いたので、その銘文の読み方について問題提起をしている論文を紹介しておきましょう。

 既に『日本の仏像--飛鳥・白鳳・天平の祈りと美--』(中公新書、2009年)を著している長岡氏の最新論文です。

長岡龍作「仏像を通して見る古代日本の仏教」
(末木文美士編『新アジア仏教史13 日本Ⅲ 民衆仏教の定着』、佼成出版社、2010年11月)

 長岡氏は、仏像はこれまで美術史の研究対象とされ、造形面を中心に論じられてきた結果、信仰上の意味の検討が不十分であったとし、この論文では古代日本の仏像について「信仰との関わり」という観点から再検討しています。

 そのうち、法隆寺金堂釈迦三尊像については、伝承を認めて光背銘を真作としたうえで、この仏像を作った「知識」たち、すなわち、誓願をともにした信仰仲間たちの願望に着目します。つまり、単に上宮法皇の延寿や往生を願ったものと見るだけなく、その「知識」たちが造像という功徳を通じて自分たちの現世安穏と未来世での成菩提を願った、という点を重視するのです。

 そして、造像者たちが彼岸をめざすために随うのは「三主」だとされている以上、釈迦像に上宮法皇のイメージが重ねられ、その釈迦のいる浄土に造像者たちが至り、「三主に出会って」悟りを成就するという行が想定されていると説き、三主は三尊に象徴され、「仏像は行の実践のためにあること」を強調します。これは大事な点です。造れば終わりというものではなく、追善のためだけのものでもないのです。

 法隆寺の釈迦三尊像造立当時の仏教理解は不十分でしょうが、これは逆に言うと、外国の文化がそのまま入っていて十分日本化されていない面もある、ということになりますね。この像銘には、権威づけのための天皇も登場しませんし、後代の偽作文献に見られるような「某天皇ないし聖徳太子がこれこれの土地をこの寺に施入した」といった利害に関わる記述も見られません。銘文末尾に見える造像者たちの菩提への願望は、長岡氏が説くように、文字通りに受け取ってよさそうに思われます。

 なお、同論文では、四天王寺とは四天王を本尊とする寺ということではなく、四天王のために建てられた寺だという点に注意をうながしています。これは重要な指摘ですが、「四天王の救済のために寺を造る」という表現は適切ではありません。この件については、拙論「六朝期の道教・仏教における焼香儀礼」(『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』29号、1996年5月)で指摘しておきました。『金光明経』を僧に講義させると、その際の焼香の煙が天にまで昇り、『金光明経』を尊重する国王を守護する四天王が喜び、講義される正法を聴聞して活力を増すと、経典に書かれており、梵文テキストもそうなっています。

 つまり、四天王を喜ばせ、活力を増して国王と国土を守ってもらうためには、仏教を弘め、『金光明経』講義の法会を催すのが一番なのであって、そうした四天王のために寺を造営するのです。上の拙論は、大学院生のための講演であって焼香と誓願の関係を説いており、実際には聖徳太子研究の一環なのですが、題名が題名なため、聖徳太子や法隆寺を研究する人たちに知られていないのは無理もない……。

 釈迦三尊像銘については、北康宏氏その他の諸氏の解釈もいずれ紹介する予定です。

【追記 2011年1月20日】
『金光明経』講経の際の香煙が四天王の活力を増すように書きましたが、その香煙に気づいた四天王たちが喜び、正法(=『金光明経』)を聴聞して活力を増すとすべきでしたので、その箇所を改めました。

石舞台から読めた「馬子」の文字: 上野利三「石舞台と鬼の雪隠・俎は、蘇我馬子墓とその石槨・基底石」

2011年01月02日 | 論文・研究書紹介
 石舞台は蘇我馬子の墓とする論文の紹介記事を朝方にアップしましたが、現在、掲載を一時保留しています。