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【重要】「篤敬三宝」や「承詔必謹」より「和」が先に来る理由を「仏教タイムス」紙に掲載

2022年02月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先週の記事では、「憲法十七条」第一条の「和」の背景となる典拠について説明した小文、「 「憲法十七条」の「和」の典拠を発見(上)」が、「仏教タイムス」紙の1月27日版に掲載されたことを報告しました(こちら)。

 その1週間後となる昨日、何より重要なはずの「篤敬三宝」が第二条、倭国の基本方針としたいはずの「承詔必謹」が第三条に配され、第一条で「和」が強調されている理由を説明した(下)が、同紙の2月3日版に掲載されました。

 第一条の「上和下睦」の典拠は『千字文』ですが、『千字文』のこの句は、『孝経』冒頭の、古代の聖王は最高の「要道」によって天下を教化したため、「民は用(もっ)て和睦し、上下、怨むなし」となったという箇所に基づいています。『孝経』によれば、その最高の「要道」とは、書名が示すように「孝」であって、それを補足するのが「楽」です。

 ところが、「憲法十七条」は上下関係を律する「礼」を強調しておりながら、「礼楽」という言葉が示しているように儒教では「礼」と密接に結びついている「楽」については全く触れなかったのと同様に、儒教の根本である「孝」にもひと言も触れません。孝を強調し、のめりこむほどの音楽好きであった孔子が「憲法十七条」を読んだら、「これは儒教ではない!」と怒るでしょう。

 「聖徳太子はいなかった説」によれば、『日本書紀』は律令制における理想的な天皇像を示すため、儒教・仏教・道教の聖人である<聖徳太子>をでっちあげたそうですが、どこが儒教の聖人なんでしょう? このことは、『日本書紀』の太子関連記事では、太子が親孝行であったことは記されていないなど別の観点から論じたことがあります(こちら)。

 「憲法十七条」は「和」をもたらす「楽」を仏法僧の三宝への帰依で、つまり仏教で代用しようとしたのです。僧宝という場合、「僧」は個々の僧侶でなく、僧伽(僧団)全体であって、僧伽の特質は「和合」だというのがインド以来の伝統です。

 また、「以和為貴」に続く「忤(さか)う無きを宗と為せ(無忤為宗)」とあるうち、「無忤」は、大昔に論文で指摘したように、三経義疏が手本とした中国南朝の僧尼が重視した徳目ですし(南朝仏教の影響の強さは、こちら)。

 第三条は、君主は天であり臣下は地なのだから、君主の言うことにさからう者は破滅するぞと警告しています。しかし、それほど重要な君主の絶対性を説く「承詔必謹」が第三条、治国の根本となるはずの仏教尊重を説いた「篤敬三宝」が第二条に来ており、「和」が冒頭の第一条に置かれて強調されるのはなぜなのか。

 これについては、仏教導入は群臣間でもめて武力が発動され、天皇後継も群臣会議が決めていたため、もめて戦いとなったことが示すように、群臣の協議が何よりも重要であって、そこでの「和」が期待されたため、というのが私の推測です。

 街に「駐車禁止」や「スピード落とせ」などの看板がたくさん出ているのは、守らない人が多いからですね。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、「和」でない状況だったためでしょう。

 このことは30年近く前の論文で指摘しておきましたが(こちら)、「和」を冒頭に置く「憲法十七条」について、「日本は、古来から和を尊ぶ民族だったことを示す」などと言う人がいるのは不思議です。

 いずれにしても、このブログで再々述べているように、天皇の称号と特質を確定した律令を制定し、神話によって天皇を権威づけた天武朝以後になって、「天皇」も「神」も出てこない「憲法十七条」が作られるはずはないですね。後代の作とした津田左右吉が、制作時期は律令などを企画していた頃としたのは、完成後なら無理と考えたためでしょう。
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