「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子本が刊行されました。
井沢元彦『聖徳太子のひみつ』
(ビジネス社、2021年12月)
です。表紙では、題名の横に「「日本教」をつくった」と記されています。
井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史本を数多く出していることで有名です。今回の本もその一つですが、そもそも副題のような「「日本教」をつくった」という部分が問題です。
「日本教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳という形で『日本人とユダヤ人』を、山本氏が社主をつとめる山本書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日本教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山本七平氏です。
山本氏は、1977年には『「空気」の研究』(文藝春秋)も刊行しており、日本では方針を決定するのはその場の空気であり、責任者が曖昧だと主張し、多大な影響を与えました。
井沢氏のこの本は、「日本教」とは「話し合い教」であって日本は「和」を重んじる国であるとし、それを明言した「憲法十七条」を高く評価しています。日本人の特徴は「和」であり、「太子の生きた飛鳥時代には、すでにそれが日本人の特質になっていた」(79頁)と説くのです。つまり、「日本教」という語を創った山本氏が説く「空気」を「話し合い」に変えたように見えます。
しかし、だったらなぜ、太子の少し前には群臣会議がもめて死者が出る争いが続いていたうえ、太子没後も推古天皇の後継を決める会議で群臣が怒って意見が割れ、争いになって死者が出ているのでしょう? 井沢氏は、『日本書紀』をきちんと読んでいないとしか考えられません。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、和でない状況であったためというのが常識だと思うのですが(こちら)。
「まえがき」では、外国語と比較しないと自国語の特徴は分からないため、ゲーテは「ひとつの外国語を知らざるものは母国語を知らず」と語ったが、「この教訓をもっとも生かしていないのが……日本の歴史学者です」と述べ、日本の歴史学者ほど「世界史を知らない人間はいません」が、「わたしはそれをやっています」と説き、その大先輩が聖徳太子だと述べています(5~6頁)。
日中交渉史・日韓交渉史・東西交渉史を含め、歴史学者たちの専門や学風や主張は様々であるのに、それを無視してひとまとめにして否定するのは、井沢氏が歴史学者たちの著書や論文を幅広く読んでいないためのように見えます。
話し合いが「日本教」だとする自分の図式の元型を作った山本七平氏にもひと言も触れないところを見ると、研究者の最近の研究成果を参照せず、古い説や専門家でない小説家などの推測に基づいて自分の考えだけで書いているのか、それとも、自説に都合の良い部分についてはこっそり利用していながら、否定だけして名をあげない方針なのか。
ちなみに、井沢氏は指導要領改訂騒ぎの際、聖徳太子の本名は「厩戸皇子」ないし「厩戸王」なので、歴史学者が本名の「厩戸王」で呼ぶのは悪いことではないと述べたうえで、歴史学者の批判をしてますね(こちら)。私の本でも論文でもこのブログでも書いているように、「厩戸王」は古代の文献には見えず、戦後になって想定された名なのですが(こちら)。
歴史小説なら、参考文献をいちいちあげなくても良いわけですが、この本で名前があげられているのは、歴史学者というよりSF作家・歴史小説家であって、聖徳太子はノイローゼであったと説いた『聖徳太子の悲劇』の豊田有恒氏と、かの『隠された十字架』の梅原大先生くらいです(梅原説のトンデモさについては、こちらやこちらやこちら)。
あと、「しらぎ(新羅)」という語の由来に関する朴炳植氏の説を紹介してますが、建築業から言語研究に転じた朴炳植氏の説は、言語学の専門家からは素人のトンデモ説とみなされています。井沢氏は、見事なまでにそうした人の説に頼って書いているのですね。
私は、歴史小説や芸能は史実通りでなくてはいけないとは考えておらず、無頼派作家であった坂口安吾が推測を交えて書いた歴史読み物が大好きです。また、自分自身、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』を書いたことが示すように、エンターテインメント好きであって、山岸凉子のBL漫画『日出処の天子』も認めていますし、脳みそ夫が飛鳥中学の女子中学生や飛鳥商事のOLという設定で聖徳太子を演じてみせるコント(こちら)などもお気に入りであって、ライブに出かけたくらいです。
豊田氏については、島根県立大学で日韓シンポジウムを開催した際、同大学の教授だった温和な豊田氏とお会いしてますし、『聖徳太子の悲劇』は真面目な姿勢で書かれた本なので、言いにくいのですが、太子は、父の用明天皇が亡くなった後、母の間人皇后が、夫の用明天皇と他の妃の間にできた子、つまり義理の息子であって太子の異母兄となる田目王と結婚したため、ショックを受けてノイローゼになり、伊予の温泉で長らく湯治して直ったという説は無理ですね。
温湯碑文は難解なので、様々な解釈が出るのは無理もないのですが、典拠に注意してきちんと読めば、そうした様子はうかがわれません(碑文については、こちらと、こちら)。また豊田氏も、その推測に基づいている井沢氏も、太子に同道したのは高句麗の慧慈だとしてあれこれ論じているものの、訂正される前の原文では「恵忩法師」となっていますので、百済の慧聡とするのが自然ということになります。
なお、豊田氏が「太子の母親が、異母兄と結婚した」(157頁)と普通に書いているところを、井沢氏は「母が太子の異母兄と密通する」(51頁)という、事実と異なるセンセーショナルな言い方をしています。しかし、当時の皇族における近親結婚の多さについては、近年は研究が進んでいて理由があったことが明らかになっており、このブログでも紹介しました(こちら)。
聖徳太子は、母后と斑鳩で一緒に住んでおり、母后が太子の異母兄と結婚して生んだ佐富女王を、自分と最愛の妃との間に生まれた長谷王と結婚させています。母后とは仲良くしていたとしか考えられません(太子を含めた当時の皇族の近親結婚の多さについては、12月に浅草寺で講演しました。講演録が8月に刊行される予定です)。
なお、蘇我馬子が命じて崇峻天皇を暗殺させた東漢直駒は、その後で、馬子の娘である河上娘と通じたという理由で馬子に殺されますが、井沢氏は、豊田氏は河上娘とは聖徳太子の妻であった刀自古郎女だと指摘しているとして「(駒と)不倫関係にあった」という表現で紹介し、「ちなみに、この太子の妻は、東漢直駒が処刑されると、そのあとを追って自殺してしまったといいます」(46頁)と述べています。
しかし、崇峻天皇が暗殺された時、聖徳太子は18歳であり、『法王帝説』によれば、刀自古郎女は太子の子として山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女を生んでいます。すると、刀自古郎女は十代前半か半ばであった太子と結婚し、毎年のように4人も子供を産んでいながら他の男と不倫関係となり、それがばれて自殺するわけですね。不倫関係が続いていたとすると、駒の子もまじっていることになりますか? 刀自古郎女は、河上娘の妹とする説もありますけど。
なお、豊田氏の本では、刀自古郎女については記録がないとしたうえで、駒が殺されて「ほどなく死んだと考えるべきだろう。駒の死を知って、自殺したのか、あるいは、駒と心中したのか、たぶん、そんなところだろう」(148頁)と書いています。「あとを追って自殺してしまったといいます」と書く井沢氏の紹介とはかなり違いますね。ほかにも同様な箇所が見られるため、井沢氏は元になった資料を、「エンターテインメント」のためなのか、こうした調子で書き換える癖があるようです。
井沢氏は、伝説化が進んだ太子伝に基づいて太子自殺説をとり、異常死した人物は「未完成の霊」として復活するとして、大昔に否定された梅原の怨霊説を高く評価します。「未完成の霊」って、何でしょう? 没後すぐに創られた「天寿国繍帳銘」によれば、太子は「天寿国」に往生したとされてますし、後代には怨霊として恐れられるどころか、観音の化身とされ、極楽浄土への導き手とされるようになってますが。
また井沢氏は、太子=御霊説を説く際、聖徳太子一族は根絶やしにされたことをその理由の一つとするのですが、滅ぼされたのは、太子の大勢いる息子・娘たちのうち、山背大兄とその家族だけです。後の伝記になればなるほど、話が大げさになって殺されたという人数がどんどん増えていき、一族が皆殺しになったように説かれるのです。太子没後50年ほどになって再建された法隆寺に金銅の潅頂幡を施入した「片岡御祖命」は、山背大兄の妹である片岡女王だとするのが通説です。
と誇っているということは、博学な井沢氏は仏教にも通じていて、仏教では「和」を説かないと断言できるんですね?
仏法僧の三宝のうち、僧宝たる僧伽(僧団)は「和合」を特質とする、というのがインド以来の伝統解釈であり、釈尊が亡くなって以後の僧伽では、物事は話し合いで決定し、まとまらない場合は投票して決めたんですよ。日本でも、僧兵たちは、他の寺を焼き討ちしようなどという場合を含め、物事は平等な話し合いで決めてますけど。
仏教の思想そのものではないと説くなら良いですが(私もそう思います)、仏教由来ではない、影響も無かったと説くためには、仏教をかなり知っていないと無理でしょう。この本を読むかぎり、インド・中国・韓国の仏教について具体的な説明がなく、かなりの知識があるようにはまったく見えません。
話し合いが重要だったことは確かですが、推古朝前後の合議については研究が進められていますので、それらを参考にすべきでしたね。このブログでも、推古朝前後の合議と新羅の全員一致の豪族会議「和白」との類似に着目した鈴木明子氏の論文を紹介したばかりです(こちら)。
一番の問題は、出版社側の責任とはいえ、冒頭で触れたように、表紙の裏に「極上の歴史エンターテインメント!」とあるものの、実際には明らかな誤りと思いつきが続くばかりで、楽しめないことでしょうか。梅原の『隠された十字架』は、トンデモ本ながら、一般読者の興味をひきつけるおどろおどろしい書きぶりになっていたため、ベストセラーになったのですが。
あるいは書いた当人は、歴史の真実を「解き明かしました」と主張しているものの、出版社側は「極上の歴史エンターテインメント」と称してこの作を宣伝しつつ、「学術的な研究書ではないんですよ。間違いが多いとか指摘されても困ります」と予防線を張っているのか。
ちなみに、安吾の歴史物は、今日の研究成果から見ると正しくない部分も散見されますが、文体が生き生きとしていて素晴らしいうえ、するどい洞察があちこちに見えており、まさに「極上の歴史エンターテインメント」です。
【付記】
朝方、公開した記事に多少の訂正と補足を加えました。
なお、井沢氏は、推古天皇は「腹を痛めた息子」である竹田皇子の天皇後継のライバルとなるため、太子を初めは排除しようとしたものの、竹田皇子が死んでしまうと、「ほかに子どもはいません」ので身内で最も優秀な甥の太子を登用したと述べています(124頁)。しかし、実際には、太子の叔母であり義理の母である推古天皇には尾張皇子という末の息子がおり、その娘である橘大郎女を、後に太子と結婚させていることを、氏は忘れているのではないでしょうか。こうした間違いは他にもたくさんあります。
たとえば、井沢氏は、歴代天皇で「徳」という字を含む諡号は「不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ」という常識があったとし、「聖徳太子」という号もその一例だとして怨霊説につなげるのですが、聖君とされる仁徳天皇については説明に困っています。そこで、仁徳天皇の頃は「徳を持つ」という意味でこの字を使っていたが、「聖徳太子以降、日本人は……むしろ怨霊鎮魂に使ったのではないでしょうか」と珍説を唱えています(202頁)。仁徳天皇の時代には漢字諡号はなく、数人を除くほとんどの天皇の漢字諡号は、奈良時代半ばすぎに文人の淡海三船がつけたとされていることを忘れているのではないでしょうか。また、現存文献で見る限り、聖徳太子という呼称を最初に使ったのは、その三船のようであり、三船は、太子を南岳慧思の生まれ変わりとして礼賛する文脈で聖徳太子と呼んでいることにも注意してもらいたいところです(こちら)。
【付記:2022年2月1日】
文章を少し訂正しました。論旨に変化はありません。
本文で、井沢氏は仏教をよく知らないと書きました。それどころか三経義疏をきちんと読んでおらず、三経義疏について意見を述べることができるほど諸論文も読んでいないことは、「当時最新の仏教書であった中国・南北朝時代の書物にも見劣りしないクオリティを持っています」(60頁)と書いていることからも知られます。「当時最新」というなら、同時代の隋の仏教文献でしょう。『法華義疏』が「本義」、つまり種本としたのは、中国で最も仏教信仰が篤く、経典の講義や注釈で知られる梁の武帝の時代の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』であり、『勝鬘経義疏』の「本義」はおそらく三大法師の荘厳寺僧旻(-510-)の注釈であって、隋の仏教者からは古くさい不十分な解釈とされて批判されていたものです。「当時の倭国にとって最新だった、という意味だ」と弁解されるかもしれませんが、太子の仏教の師となった慧聡や慧慈の母国である百済や高句麗では、その頃には既に梁の仏教より新しい三論教学や唯識教学などが伝わり始めていました。三経義疏が「本義」として梁武帝時代の代表的な注釈を選んだのは、それなりの理由があると考えるべきでしょう。
「クオリティを持っていると言われています」なら、まだ良いですが、井沢氏は実際に中国の南北朝の注釈類を読んで三経義疏と比較したかのように、「持っています」と書いていますね。しかし、太子は仏教を興隆した立役者です。その太子について論じるには仏教について触れざるを得ないはずですし、原文で読むのは無理としても、せめて訓読版でも良いですから三経義疏を読んでいれば、この部分は「憲法十七条」と共通しているなどと指摘することができたでしょう。実際、そうした指摘をしている論文は玉石混交ながらいくつも出ていますが、そのような指摘もまったくなされていません。つまり、仏教を良く知らず、関連論文も読まず、それどころか肝心な三経義疏すら読まないまま、太子の「和」は仏教由来でないと論じているわけです。
本書で名前があげられているのは、豊田有恒・梅原猛・朴炳植氏などくらいと書きましたが、「憲法十七条」の訳については、中村元先生の訳(『日本の名著 聖徳太子』)を使っていました。井沢氏は、「憲法十七条」の「和」は仏教に基づくとして、インドのアショカ王やチベットのソンツェンガンポ王などの法令と比較して国際的な広い視点で論じている中村先生の説には触れていないのですから、そんな取り上げる価値もない説を出している中村先生の訳など使わず、自分で適切な訳を示せば良いと思うのですが。
井沢氏は「憲法十七条」の「和」は日本独自の宗教である「話し合い教」に基づくとしているものの、「和」は漢語であって、その出典は中国の古典です。井沢氏は、具体的な仏教文献だけでなく、そうした中国の古典にも触れていません。世界史に通じていると自認し、外国と比較しないと自国のことは分からないと説く博学な井沢氏のことなのですから、「憲法十七条」の「和」は、典拠となった中国の複数の古典の用例とどこが違うのか、わかりやすく説明していたら、説得力が増したと思うのですが、なぜやらないのか。言行不一致なのか、できないのか。
【追記:2022年2月2日】
ゲーテの言葉の部分を追加するなど、少し変更しました。エンターテインメントとして「楽しめない」というのは、聖徳太子のことを研究しており、またアジア諸国の古典文学や芸能にも関心があって論文を書き、エンターテインメントが好きで「日本笑い史年表」(『早稲田学報』1244号、2020年12月)をまとめたり、「笑い」と「お笑い」の違いについてその歴史を書いたりしている(こちら)私個人の感想です。古代史を知らず、史実と異なる「母が太子の異母兄と密通する」といった井沢氏流の表現を好む読者は、「目からウロコだった。おもしろい」と思うかもしれませんので。
なお、「憲法十七条」には2箇所、不自然な箇所があります。これまでは典拠の解明が不十分であって、私自身を含め、その部分を説明できていませんでした。井沢氏もその不自然さに気づいておらず、指摘していませんが、在家の仏教信者向けの大乗戒経の漢訳と「楽(がく)」に関する中国の文献が典拠だと発見できたおかげで、謎が解けました(第一条は、こちら。第二条は、前回の記事である こちら)。
このように、古代の漢文を読む際は典拠を確認することが大事なのです。井沢氏は第一条の「上和下睦」を「上下の区別なく」と受け止め、「人は皆な平等だ」と述べているとしています(71頁)が、これは誤読です。典拠となった『千字文』では「上和下睦、夫唱婦随」であって平等主義ではないですし、中村元訳もそんな風になっていません。「憲法十七条」は「礼」を強調しており、身分の上下のあり方を守るよう説きつつ、そのうえで「なごやかに話し合え」と命じているだけです。「憲法十七条」は、凡人であって嫉妬しがちな群臣たちと、国の方針を示しうる「賢聖」とを区別していることは、第十四条が説いている通りです(ちなみに、第十四条の嫉妬禁止は、大乗戒経の『優婆塞戒経』に基づきます)。井沢氏は、典拠の意義を理解していませんし、他にも誤解が目につきますが、きりがないので、ここらでやめておきます。
【追記:2022年2月6日】
ここらでやめるはずでしたが、上記の記事を読み直していて気になる箇所がありました。井沢氏は「日本を代表する仏教学者である故中村元氏の訳文を見てみましょう。(『日本の名著 聖徳太子』中央公論社)」(68頁)と記しており、珍しく書名や出版社を記していましたが、この本を引っ張り出してみたところ、中村先生は「責任編集」であって冒頭に「聖徳太子と奈良仏教」と題する概説を書いており、「憲法十七条」の現代語訳は「中村元・瀧藤尊教訳」となってました。瀧藤氏は、中村先生の東大印哲の後輩で後に四天王寺管長となった人です。「中村・瀧藤訳」としない井沢氏の書き方は、事実を歪め、「日本を代表する」有名な仏教学者の権威を利用したものですね。この第一条の口語訳は「諧於~」の部分が訳されていないので、いずれ記事でとりあげましょう。
【追記:2022年2月8日】
本文では、豊田氏の『聖徳太子の悲劇』では「結婚」と記しているところを、井沢氏が「太子の異母兄との密通」といったセンセーショナルな書き方をしていると記したのですが、聖徳太子だけを扱っている同書ではなく、古代史ミステリーを12並べ、その6で聖徳太子をとりあげている豊田氏の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(PHP研究所、1994年)には、「太子の実母と異母兄の密通」(106頁)と記してありました。井沢氏は『聖徳太子のひみつ』では、豊田氏の説に基づくと何度か書いているものの書名をあげていませんが、実際には多くの箇所で豊田氏の推測と文をそのまま使っていることが分かりました。『逆説の日本史』の聖徳太子やその近辺の記述も同様ですね。一般読者はだまされて、「井沢先生の独創であって、目からウロコ」と感心するのでしょうが。
【追記:2022年2月12日】
「未完成の霊」については、『逆説の古代史2』の聖徳太子の部分を読んだら、変死者の「未完成の霊」について論じた民俗学の谷川健一氏の文章を引いてました。これですね。しかし、民俗学の説、それも折口信夫系の説をそのまま古代に適用するには注意が必要ですので、その部分の本文を少し補足しました。
【追記:2022年2月20日】
あまりにもひどいので、元となった『逆説の日本史2』を読んでみたら、こちらもすさまじい間違いの連続でしたので、3回に分けて、この「珍説・奇説コーナー」で批判しておきました(こちら)。
【追記:2022年2月22日】
井沢氏が中村元先生の権威を利用して『日本の名著 聖徳太子』の「憲法十七条」の現代語訳を中村元訳としていた件ですが、中村先生は仏教にも通じていたインド哲学者です。大学者ではあるものの、中国思想の専門家ではありません。「憲法十七条」は仏教文献を利用した箇所は少なく、中国の文献に基づいている部分が圧倒的に多いのですから、正確な理解をめざすなら、中国古典の専門家の解釈を参照すべきでしょう。たとえば、和漢比較文学の第一人者であった小島憲之先生は、『日本の名著』の「憲法十七条」の現代語訳が全面否定の表現である第十条の「我必非聖」の「必非」を「かならずしも」と訳していることを「誤訳」と断定しており(小島『万葉以前』「第1章 太子聖徳の文藻」(岩波書店、1986年、47頁)、このことは研究者の間ではかなり知られています。この部分の解釈は、「憲法十七条」全体のイメージ、また聖徳太子のイメージに関わる重要な問題です。ちなみに、井沢氏が日本の歴史学者の三大欠陥とするものの一つは、「権威主義」でした。
井沢元彦『聖徳太子のひみつ』
(ビジネス社、2021年12月)
です。表紙では、題名の横に「「日本教」をつくった」と記されています。
井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史本を数多く出していることで有名です。今回の本もその一つですが、そもそも副題のような「「日本教」をつくった」という部分が問題です。
「日本教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳という形で『日本人とユダヤ人』を、山本氏が社主をつとめる山本書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日本教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山本七平氏です。
山本氏は、1977年には『「空気」の研究』(文藝春秋)も刊行しており、日本では方針を決定するのはその場の空気であり、責任者が曖昧だと主張し、多大な影響を与えました。
井沢氏のこの本は、「日本教」とは「話し合い教」であって日本は「和」を重んじる国であるとし、それを明言した「憲法十七条」を高く評価しています。日本人の特徴は「和」であり、「太子の生きた飛鳥時代には、すでにそれが日本人の特質になっていた」(79頁)と説くのです。つまり、「日本教」という語を創った山本氏が説く「空気」を「話し合い」に変えたように見えます。
しかし、だったらなぜ、太子の少し前には群臣会議がもめて死者が出る争いが続いていたうえ、太子没後も推古天皇の後継を決める会議で群臣が怒って意見が割れ、争いになって死者が出ているのでしょう? 井沢氏は、『日本書紀』をきちんと読んでいないとしか考えられません。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、和でない状況であったためというのが常識だと思うのですが(こちら)。
「まえがき」では、外国語と比較しないと自国語の特徴は分からないため、ゲーテは「ひとつの外国語を知らざるものは母国語を知らず」と語ったが、「この教訓をもっとも生かしていないのが……日本の歴史学者です」と述べ、日本の歴史学者ほど「世界史を知らない人間はいません」が、「わたしはそれをやっています」と説き、その大先輩が聖徳太子だと述べています(5~6頁)。
日中交渉史・日韓交渉史・東西交渉史を含め、歴史学者たちの専門や学風や主張は様々であるのに、それを無視してひとまとめにして否定するのは、井沢氏が歴史学者たちの著書や論文を幅広く読んでいないためのように見えます。
話し合いが「日本教」だとする自分の図式の元型を作った山本七平氏にもひと言も触れないところを見ると、研究者の最近の研究成果を参照せず、古い説や専門家でない小説家などの推測に基づいて自分の考えだけで書いているのか、それとも、自説に都合の良い部分についてはこっそり利用していながら、否定だけして名をあげない方針なのか。
ちなみに、井沢氏は指導要領改訂騒ぎの際、聖徳太子の本名は「厩戸皇子」ないし「厩戸王」なので、歴史学者が本名の「厩戸王」で呼ぶのは悪いことではないと述べたうえで、歴史学者の批判をしてますね(こちら)。私の本でも論文でもこのブログでも書いているように、「厩戸王」は古代の文献には見えず、戦後になって想定された名なのですが(こちら)。
歴史小説なら、参考文献をいちいちあげなくても良いわけですが、この本で名前があげられているのは、歴史学者というよりSF作家・歴史小説家であって、聖徳太子はノイローゼであったと説いた『聖徳太子の悲劇』の豊田有恒氏と、かの『隠された十字架』の梅原大先生くらいです(梅原説のトンデモさについては、こちらやこちらやこちら)。
あと、「しらぎ(新羅)」という語の由来に関する朴炳植氏の説を紹介してますが、建築業から言語研究に転じた朴炳植氏の説は、言語学の専門家からは素人のトンデモ説とみなされています。井沢氏は、見事なまでにそうした人の説に頼って書いているのですね。
私は、歴史小説や芸能は史実通りでなくてはいけないとは考えておらず、無頼派作家であった坂口安吾が推測を交えて書いた歴史読み物が大好きです。また、自分自身、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』を書いたことが示すように、エンターテインメント好きであって、山岸凉子のBL漫画『日出処の天子』も認めていますし、脳みそ夫が飛鳥中学の女子中学生や飛鳥商事のOLという設定で聖徳太子を演じてみせるコント(こちら)などもお気に入りであって、ライブに出かけたくらいです。
豊田氏については、島根県立大学で日韓シンポジウムを開催した際、同大学の教授だった温和な豊田氏とお会いしてますし、『聖徳太子の悲劇』は真面目な姿勢で書かれた本なので、言いにくいのですが、太子は、父の用明天皇が亡くなった後、母の間人皇后が、夫の用明天皇と他の妃の間にできた子、つまり義理の息子であって太子の異母兄となる田目王と結婚したため、ショックを受けてノイローゼになり、伊予の温泉で長らく湯治して直ったという説は無理ですね。
温湯碑文は難解なので、様々な解釈が出るのは無理もないのですが、典拠に注意してきちんと読めば、そうした様子はうかがわれません(碑文については、こちらと、こちら)。また豊田氏も、その推測に基づいている井沢氏も、太子に同道したのは高句麗の慧慈だとしてあれこれ論じているものの、訂正される前の原文では「恵忩法師」となっていますので、百済の慧聡とするのが自然ということになります。
なお、豊田氏が「太子の母親が、異母兄と結婚した」(157頁)と普通に書いているところを、井沢氏は「母が太子の異母兄と密通する」(51頁)という、事実と異なるセンセーショナルな言い方をしています。しかし、当時の皇族における近親結婚の多さについては、近年は研究が進んでいて理由があったことが明らかになっており、このブログでも紹介しました(こちら)。
聖徳太子は、母后と斑鳩で一緒に住んでおり、母后が太子の異母兄と結婚して生んだ佐富女王を、自分と最愛の妃との間に生まれた長谷王と結婚させています。母后とは仲良くしていたとしか考えられません(太子を含めた当時の皇族の近親結婚の多さについては、12月に浅草寺で講演しました。講演録が8月に刊行される予定です)。
なお、蘇我馬子が命じて崇峻天皇を暗殺させた東漢直駒は、その後で、馬子の娘である河上娘と通じたという理由で馬子に殺されますが、井沢氏は、豊田氏は河上娘とは聖徳太子の妻であった刀自古郎女だと指摘しているとして「(駒と)不倫関係にあった」という表現で紹介し、「ちなみに、この太子の妻は、東漢直駒が処刑されると、そのあとを追って自殺してしまったといいます」(46頁)と述べています。
しかし、崇峻天皇が暗殺された時、聖徳太子は18歳であり、『法王帝説』によれば、刀自古郎女は太子の子として山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女を生んでいます。すると、刀自古郎女は十代前半か半ばであった太子と結婚し、毎年のように4人も子供を産んでいながら他の男と不倫関係となり、それがばれて自殺するわけですね。不倫関係が続いていたとすると、駒の子もまじっていることになりますか? 刀自古郎女は、河上娘の妹とする説もありますけど。
なお、豊田氏の本では、刀自古郎女については記録がないとしたうえで、駒が殺されて「ほどなく死んだと考えるべきだろう。駒の死を知って、自殺したのか、あるいは、駒と心中したのか、たぶん、そんなところだろう」(148頁)と書いています。「あとを追って自殺してしまったといいます」と書く井沢氏の紹介とはかなり違いますね。ほかにも同様な箇所が見られるため、井沢氏は元になった資料を、「エンターテインメント」のためなのか、こうした調子で書き換える癖があるようです。
井沢氏は、伝説化が進んだ太子伝に基づいて太子自殺説をとり、異常死した人物は「未完成の霊」として復活するとして、大昔に否定された梅原の怨霊説を高く評価します。「未完成の霊」って、何でしょう? 没後すぐに創られた「天寿国繍帳銘」によれば、太子は「天寿国」に往生したとされてますし、後代には怨霊として恐れられるどころか、観音の化身とされ、極楽浄土への導き手とされるようになってますが。
また井沢氏は、太子=御霊説を説く際、聖徳太子一族は根絶やしにされたことをその理由の一つとするのですが、滅ぼされたのは、太子の大勢いる息子・娘たちのうち、山背大兄とその家族だけです。後の伝記になればなるほど、話が大げさになって殺されたという人数がどんどん増えていき、一族が皆殺しになったように説かれるのです。太子没後50年ほどになって再建された法隆寺に金銅の潅頂幡を施入した「片岡御祖命」は、山背大兄の妹である片岡女王だとするのが通説です。
太子の十七条憲法で説かれている「和」の精神にしても、これはは「仏教」由来でなく、「日本教」とも言うべき日本独特の伝統的でユニークな考え方であるということを私は解き明かしました。(176頁)
と誇っているということは、博学な井沢氏は仏教にも通じていて、仏教では「和」を説かないと断言できるんですね?
仏法僧の三宝のうち、僧宝たる僧伽(僧団)は「和合」を特質とする、というのがインド以来の伝統解釈であり、釈尊が亡くなって以後の僧伽では、物事は話し合いで決定し、まとまらない場合は投票して決めたんですよ。日本でも、僧兵たちは、他の寺を焼き討ちしようなどという場合を含め、物事は平等な話し合いで決めてますけど。
仏教の思想そのものではないと説くなら良いですが(私もそう思います)、仏教由来ではない、影響も無かったと説くためには、仏教をかなり知っていないと無理でしょう。この本を読むかぎり、インド・中国・韓国の仏教について具体的な説明がなく、かなりの知識があるようにはまったく見えません。
話し合いが重要だったことは確かですが、推古朝前後の合議については研究が進められていますので、それらを参考にすべきでしたね。このブログでも、推古朝前後の合議と新羅の全員一致の豪族会議「和白」との類似に着目した鈴木明子氏の論文を紹介したばかりです(こちら)。
一番の問題は、出版社側の責任とはいえ、冒頭で触れたように、表紙の裏に「極上の歴史エンターテインメント!」とあるものの、実際には明らかな誤りと思いつきが続くばかりで、楽しめないことでしょうか。梅原の『隠された十字架』は、トンデモ本ながら、一般読者の興味をひきつけるおどろおどろしい書きぶりになっていたため、ベストセラーになったのですが。
あるいは書いた当人は、歴史の真実を「解き明かしました」と主張しているものの、出版社側は「極上の歴史エンターテインメント」と称してこの作を宣伝しつつ、「学術的な研究書ではないんですよ。間違いが多いとか指摘されても困ります」と予防線を張っているのか。
ちなみに、安吾の歴史物は、今日の研究成果から見ると正しくない部分も散見されますが、文体が生き生きとしていて素晴らしいうえ、するどい洞察があちこちに見えており、まさに「極上の歴史エンターテインメント」です。
【付記】
朝方、公開した記事に多少の訂正と補足を加えました。
なお、井沢氏は、推古天皇は「腹を痛めた息子」である竹田皇子の天皇後継のライバルとなるため、太子を初めは排除しようとしたものの、竹田皇子が死んでしまうと、「ほかに子どもはいません」ので身内で最も優秀な甥の太子を登用したと述べています(124頁)。しかし、実際には、太子の叔母であり義理の母である推古天皇には尾張皇子という末の息子がおり、その娘である橘大郎女を、後に太子と結婚させていることを、氏は忘れているのではないでしょうか。こうした間違いは他にもたくさんあります。
たとえば、井沢氏は、歴代天皇で「徳」という字を含む諡号は「不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ」という常識があったとし、「聖徳太子」という号もその一例だとして怨霊説につなげるのですが、聖君とされる仁徳天皇については説明に困っています。そこで、仁徳天皇の頃は「徳を持つ」という意味でこの字を使っていたが、「聖徳太子以降、日本人は……むしろ怨霊鎮魂に使ったのではないでしょうか」と珍説を唱えています(202頁)。仁徳天皇の時代には漢字諡号はなく、数人を除くほとんどの天皇の漢字諡号は、奈良時代半ばすぎに文人の淡海三船がつけたとされていることを忘れているのではないでしょうか。また、現存文献で見る限り、聖徳太子という呼称を最初に使ったのは、その三船のようであり、三船は、太子を南岳慧思の生まれ変わりとして礼賛する文脈で聖徳太子と呼んでいることにも注意してもらいたいところです(こちら)。
【付記:2022年2月1日】
文章を少し訂正しました。論旨に変化はありません。
本文で、井沢氏は仏教をよく知らないと書きました。それどころか三経義疏をきちんと読んでおらず、三経義疏について意見を述べることができるほど諸論文も読んでいないことは、「当時最新の仏教書であった中国・南北朝時代の書物にも見劣りしないクオリティを持っています」(60頁)と書いていることからも知られます。「当時最新」というなら、同時代の隋の仏教文献でしょう。『法華義疏』が「本義」、つまり種本としたのは、中国で最も仏教信仰が篤く、経典の講義や注釈で知られる梁の武帝の時代の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』であり、『勝鬘経義疏』の「本義」はおそらく三大法師の荘厳寺僧旻(-510-)の注釈であって、隋の仏教者からは古くさい不十分な解釈とされて批判されていたものです。「当時の倭国にとって最新だった、という意味だ」と弁解されるかもしれませんが、太子の仏教の師となった慧聡や慧慈の母国である百済や高句麗では、その頃には既に梁の仏教より新しい三論教学や唯識教学などが伝わり始めていました。三経義疏が「本義」として梁武帝時代の代表的な注釈を選んだのは、それなりの理由があると考えるべきでしょう。
「クオリティを持っていると言われています」なら、まだ良いですが、井沢氏は実際に中国の南北朝の注釈類を読んで三経義疏と比較したかのように、「持っています」と書いていますね。しかし、太子は仏教を興隆した立役者です。その太子について論じるには仏教について触れざるを得ないはずですし、原文で読むのは無理としても、せめて訓読版でも良いですから三経義疏を読んでいれば、この部分は「憲法十七条」と共通しているなどと指摘することができたでしょう。実際、そうした指摘をしている論文は玉石混交ながらいくつも出ていますが、そのような指摘もまったくなされていません。つまり、仏教を良く知らず、関連論文も読まず、それどころか肝心な三経義疏すら読まないまま、太子の「和」は仏教由来でないと論じているわけです。
本書で名前があげられているのは、豊田有恒・梅原猛・朴炳植氏などくらいと書きましたが、「憲法十七条」の訳については、中村元先生の訳(『日本の名著 聖徳太子』)を使っていました。井沢氏は、「憲法十七条」の「和」は仏教に基づくとして、インドのアショカ王やチベットのソンツェンガンポ王などの法令と比較して国際的な広い視点で論じている中村先生の説には触れていないのですから、そんな取り上げる価値もない説を出している中村先生の訳など使わず、自分で適切な訳を示せば良いと思うのですが。
井沢氏は「憲法十七条」の「和」は日本独自の宗教である「話し合い教」に基づくとしているものの、「和」は漢語であって、その出典は中国の古典です。井沢氏は、具体的な仏教文献だけでなく、そうした中国の古典にも触れていません。世界史に通じていると自認し、外国と比較しないと自国のことは分からないと説く博学な井沢氏のことなのですから、「憲法十七条」の「和」は、典拠となった中国の複数の古典の用例とどこが違うのか、わかりやすく説明していたら、説得力が増したと思うのですが、なぜやらないのか。言行不一致なのか、できないのか。
【追記:2022年2月2日】
ゲーテの言葉の部分を追加するなど、少し変更しました。エンターテインメントとして「楽しめない」というのは、聖徳太子のことを研究しており、またアジア諸国の古典文学や芸能にも関心があって論文を書き、エンターテインメントが好きで「日本笑い史年表」(『早稲田学報』1244号、2020年12月)をまとめたり、「笑い」と「お笑い」の違いについてその歴史を書いたりしている(こちら)私個人の感想です。古代史を知らず、史実と異なる「母が太子の異母兄と密通する」といった井沢氏流の表現を好む読者は、「目からウロコだった。おもしろい」と思うかもしれませんので。
なお、「憲法十七条」には2箇所、不自然な箇所があります。これまでは典拠の解明が不十分であって、私自身を含め、その部分を説明できていませんでした。井沢氏もその不自然さに気づいておらず、指摘していませんが、在家の仏教信者向けの大乗戒経の漢訳と「楽(がく)」に関する中国の文献が典拠だと発見できたおかげで、謎が解けました(第一条は、こちら。第二条は、前回の記事である こちら)。
このように、古代の漢文を読む際は典拠を確認することが大事なのです。井沢氏は第一条の「上和下睦」を「上下の区別なく」と受け止め、「人は皆な平等だ」と述べているとしています(71頁)が、これは誤読です。典拠となった『千字文』では「上和下睦、夫唱婦随」であって平等主義ではないですし、中村元訳もそんな風になっていません。「憲法十七条」は「礼」を強調しており、身分の上下のあり方を守るよう説きつつ、そのうえで「なごやかに話し合え」と命じているだけです。「憲法十七条」は、凡人であって嫉妬しがちな群臣たちと、国の方針を示しうる「賢聖」とを区別していることは、第十四条が説いている通りです(ちなみに、第十四条の嫉妬禁止は、大乗戒経の『優婆塞戒経』に基づきます)。井沢氏は、典拠の意義を理解していませんし、他にも誤解が目につきますが、きりがないので、ここらでやめておきます。
【追記:2022年2月6日】
ここらでやめるはずでしたが、上記の記事を読み直していて気になる箇所がありました。井沢氏は「日本を代表する仏教学者である故中村元氏の訳文を見てみましょう。(『日本の名著 聖徳太子』中央公論社)」(68頁)と記しており、珍しく書名や出版社を記していましたが、この本を引っ張り出してみたところ、中村先生は「責任編集」であって冒頭に「聖徳太子と奈良仏教」と題する概説を書いており、「憲法十七条」の現代語訳は「中村元・瀧藤尊教訳」となってました。瀧藤氏は、中村先生の東大印哲の後輩で後に四天王寺管長となった人です。「中村・瀧藤訳」としない井沢氏の書き方は、事実を歪め、「日本を代表する」有名な仏教学者の権威を利用したものですね。この第一条の口語訳は「諧於~」の部分が訳されていないので、いずれ記事でとりあげましょう。
【追記:2022年2月8日】
本文では、豊田氏の『聖徳太子の悲劇』では「結婚」と記しているところを、井沢氏が「太子の異母兄との密通」といったセンセーショナルな書き方をしていると記したのですが、聖徳太子だけを扱っている同書ではなく、古代史ミステリーを12並べ、その6で聖徳太子をとりあげている豊田氏の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(PHP研究所、1994年)には、「太子の実母と異母兄の密通」(106頁)と記してありました。井沢氏は『聖徳太子のひみつ』では、豊田氏の説に基づくと何度か書いているものの書名をあげていませんが、実際には多くの箇所で豊田氏の推測と文をそのまま使っていることが分かりました。『逆説の日本史』の聖徳太子やその近辺の記述も同様ですね。一般読者はだまされて、「井沢先生の独創であって、目からウロコ」と感心するのでしょうが。
【追記:2022年2月12日】
「未完成の霊」については、『逆説の古代史2』の聖徳太子の部分を読んだら、変死者の「未完成の霊」について論じた民俗学の谷川健一氏の文章を引いてました。これですね。しかし、民俗学の説、それも折口信夫系の説をそのまま古代に適用するには注意が必要ですので、その部分の本文を少し補足しました。
【追記:2022年2月20日】
あまりにもひどいので、元となった『逆説の日本史2』を読んでみたら、こちらもすさまじい間違いの連続でしたので、3回に分けて、この「珍説・奇説コーナー」で批判しておきました(こちら)。
【追記:2022年2月22日】
井沢氏が中村元先生の権威を利用して『日本の名著 聖徳太子』の「憲法十七条」の現代語訳を中村元訳としていた件ですが、中村先生は仏教にも通じていたインド哲学者です。大学者ではあるものの、中国思想の専門家ではありません。「憲法十七条」は仏教文献を利用した箇所は少なく、中国の文献に基づいている部分が圧倒的に多いのですから、正確な理解をめざすなら、中国古典の専門家の解釈を参照すべきでしょう。たとえば、和漢比較文学の第一人者であった小島憲之先生は、『日本の名著』の「憲法十七条」の現代語訳が全面否定の表現である第十条の「我必非聖」の「必非」を「かならずしも」と訳していることを「誤訳」と断定しており(小島『万葉以前』「第1章 太子聖徳の文藻」(岩波書店、1986年、47頁)、このことは研究者の間ではかなり知られています。この部分の解釈は、「憲法十七条」全体のイメージ、また聖徳太子のイメージに関わる重要な問題です。ちなみに、井沢氏が日本の歴史学者の三大欠陥とするものの一つは、「権威主義」でした。