聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

過去の共生思想運動において国家主義に利用された「憲法十七条」

2024年02月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 アメリカの大富豪であるニコラス・バーグルエンの財団は、美術コレクションや文化財保護その他の多彩な活動をしていますが、そのうちのバーグルエン研究所は、政治・社会面の対立が続く21世紀の状況の改善に役立つような新たな哲学を摸索しており、哲学におけるノーベル賞となるべくバーグルエン哲学・文化賞を創設し、毎年、「人間の自己理解の形成と進歩」に貢献した思想家に授賞しています。

 評論家の柄谷行人がアジア人初の受賞者に選ばれ、2023年4月に表彰されて賞金100万ドルを得たことで話題になりましたね。

 このバーグルエン研究所は、東西交流による思想の発展をめざしているため、中国の大学などに拠点を置いて大がかりなシンポジウムを開催し、論文集を刊行しています。このところ力を入れているテーマが「共生」の問題です。

 その研究活動の一環として、昨年12月に中国の北京大学で「共生」シンポジウムを開催する予定でしたが、いろいろな事情があって延期になり、この3月に日本の東京大学で開催されることになりました。

 中国では北京大学・清華大学・中山大学、韓国では延世大学、日本では東大、ドイツではハンブルグ大学、フランスはパリ大学などが拠点となっているようです。

 今回は私も発表することになったのですが、不思議なことに、私は日本側からの推薦でなく、中国の中山大学の推薦である由。中山大学は講演に行く予定であったものの、コロナ禍で延期になったままですので、妙な形になりました。

 それはともかく、「共生」をテーマとして東西諸国の研究者が発表するわけですが、暫定プログラムを見ると、儒教や道教では「共生」をどのように説いてきたかとか、西洋の自然主義をのりこえる「共生」の思想、といった内容が多いようです。

 私は「仏教における共生」とか「仏教から見た共生」について語ることを期待されているのかもしれませんが、これは一種のブームであり、それを仏教の立場で理論づけて持ち上げるというのは時代のお先棒担ぎとなる恐れがあります。

 そこで、「Understanding the Limits of the Symbiosis(共生の限界をわきまえる)」という題を提出してあり、敢えて「共生」の問題点を指摘する予定です。それなのに初日の第一セッションで最初に語ることになっており、やりにくいところです。

 「共生」は日本では浄土宗の椎尾弁匡(1876-1971)が、労使の対立、大都市と貧しい農村の格差、女権拡張などの問題が目立つようになった1920年代ころ提唱したもので、死後に浄土に共に往生する「共生(ぐうしょう)」ではなく、この世での様々な立場の人や自然との「ともいき」をめざすべきだと説いていました。

 社会対立が激しかった時代に時代に、融和と共存を説いた点は意義があります。ただ、椎尾は真面目で善意に満ちた人物であったものの、その「ともいき」は日本の素晴らしい国体に支えられて可能となると考えていたため、日本のナショナリズムが強まるにつれて、完全な国体讃美の国家主義となっていきました。

 当然ながら、「和」を説く「憲法十七条」が重視されます。ただ、第二条の「篤敬三宝」の「三宝」は、仏宝・法宝・僧宝であって、仏宝は仏、法宝は仏の教え、つまり経典、僧宝は僧伽(サンガ=僧団)ですが、椎尾は、「憲法十七条」が篤く敬えととしている「三宝」とは、具体的な仏像や経典や僧団などではなく、真の「三宝」、根源的な真理としての一体三宝だと主張します。

 そのうえ、椎尾は法然が打ち立てた浄土宗の僧侶としては、西方浄土におられる報身としての阿弥陀如来に帰依すべきところでありながら、仏とは宇宙に遍満して働きかける真理、生命としての如来だとし(大乗仏教の法身の思想と生命主義を合わせた感じですね)、和合した修行者の団体である僧宝とは共存する国民にほかならない、としてこれらの一体、実現を説くのです。

 日本では、どの時代にあっても聖徳太子の「憲法十七条」が利用されるのですが、椎尾の共生運動においても、このことは同様でした。椎尾は、「憲法十七条」がそうした一体三宝を説いていると主張したのです。

 聖徳太子の『勝鬘経義疏』(こちら)は確かに一体三宝を説いていますが、「憲法十七条」は合議で重要な政策を決定する群臣たちやその下の役職担当者クラス、しかも仏教を良く知らない者たちに対する現実的な訓戒であるため、大乗仏教の難解な教理である一体三宝など説くはずはありません。

 共生はむろん重要なことですが、現実には難しい問題です。大事なことは、まず史実と現実をはっきり認識することでしょう。仏教が既に「共生」を説いていたと主張する人は、異なる宗教の共存を含めた「共生」をめざしておりながら、実際には、仏教は「共生」を説かない他の宗教よりすぐれている(=他の宗教は劣った存在だ)」と主張していることになりかねません。

 セイロン(スリランカ)で仏教を復興してイギリス統治から独立しようとして運動したアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)は、カースト制を基本とするヒンドゥー教を批判し、仏教はカースト制を認めない平等な宗教であり、セイロンの本来の民族である我々シンハラ族は、その平等な仏教を説いた釈尊と同じ高貴な一族なのだと主張しました。

 根本的には、多数派であった仏教徒主体のシンハラ族と南インドから移住してきたヒンドゥー教徒主体のタミル族を対立させ、分割統治しようとしたイギリスが悪いのですが、ダルマパーラの運動は、シンハラ族とタミル族の対立を激化させ、激烈な武力衝突をまきおこす一因となってしまいました。

 カースト制による身分差別をしない平等な仏教を奉じる「高貴な一族」という主張は、相手を「卑しい民族」とみなすことであり、自己矛盾です。出家して僧団に入れば、カースト、身分の高下、年齢などはいっさい無視され、僧団に入った順序にもとづいて席次順が決まるインド仏教が、現代の「共生」の思想と一部共通する性格を持っていることは事実ですが、それはあくまでも僧団内部でのことです。

 仏教に基づき、「和」を重視する「憲法十七条」は既に「共生」を説いていた、などと理屈づけて共生を持ち上げる人は、時代が変わって別なものが流行すると、簡単にそちらを礼賛して仏教や「共生」を理屈づけることでしょう。「憲法十七条」の「和」は、争いがちであった有力な氏族やその下で働く役職担当者に対して命じられたものであり、国民全体の目標とせよと説いたわけではありませんし。

 「憲法十七条」から現代に生かせる教訓を引き出すのは良いですが、それぞれの時代に必要とされることが「憲法十七条」に既に書かれているとするのは、強引な読み込みです。

 昭和12年(1937)に椎尾が名古屋でおこなった講演「鑚仰聖徳太子」(名古屋仏教青年連盟出版部)は「序説」に続くのが「国体について」と題する章になっており、「国体の尊厳と宗教」「国体明徴の意味」「承詔必謹」「太子精神の再認識」などの節が並んでおり、「太子精神」とは「国体明徴」だと断言されていました。

 これは当時の政府のプロバガンダそのままですし、そうした戦前のあり方を良しとする現代の国体論者が説いている「憲法十七条」論と同じ発想ですね(こちら)。天の神の詔勅を受けた天孫によって肇国され、万世一系であって世界に誇るべき「国体」という概念が固まったのは、近世末期から明治時代にかけてのことです。

 「憲法十七条」は「天皇」という言葉を用いておらず、「神」には一度も触れません。太子の時代は有力氏族が合議で次の天皇を決めていた時代、それも直系相続がまだ確立されていなかった時代であって、仏教によって国造りをしていこうとしていた時代です。

 国民のことを思う善意によるとはいえ、椎尾は近世・近代のナショナリズムが生んだ国体論を古代の「憲法十七条」中に読み込んだのです。となれば、こうした人は戦後になって時代思潮が変われば、民主主義こそが「共生」だと説くようになることは推測がつくでしょう。まさにこれは、聖徳太子観の変遷過程そのものです。

 現在、総務省は「多文化共生プラン」を推進しています。これはこれで重要な試みですが、「憲法十七条」がその運動の中で利用されるとしたら、我々は警戒した方が良いでしょう。

【追記:2024年3月3日】
プログラムが公開されましたが(こちら)、東大の学内者限定で事前申し込みが必要である由。なお、バーグルエン氏も登場して冒頭で短いスピーチをされるとか。


「憲法十七条」に関する最良の論考は戦時中の村岡典嗣の講義ノート

2024年01月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、「憲法十七条」の本を執筆中のため、いろいろ読み直してますが、最良の注釈は、やはり、村岡典嗣(1884-1946)が戦時中に東北大や東大で講義した際の講義ノートですね。 

村岡典嗣『日本思想史上の諸問題(日本思想史研究Ⅱ)』「憲法十七条の研究」
(村岡典嗣著作刊行会編、創文社、1957年)

です。理系と違い、文科系、特に古典に関する研究では、最新の論考より、幅広い学識を備えていた戦前の学者の著作の方がすぐれている場合もあるのです。特に、研究者としての訓練を受けていない人の書いた「憲法十七条」論は、東洋の伝統や推古朝当時の状況を無視し、自分の思い込みを反映させただけの粗雑な解釈が目立ちます。

 研究者でなければ駄目というわけではありません。研究者にしても最近の人は、昔の学者が備えていた漢籍・仏典・日本古典の素養が無く、狭い専門だけやっている人が多いのが実状です。

 また、大学院などで専門教育を受けていなくても、すぐれた業績をあげた人はいくらでもいます。私が尊敬する幸田露伴などは、小説で有名となった後、中年時に京都大学に迎えられて国文学の講師となり、和漢の素養に基づ講義によって学生の人気は高かったものの(すぐ退職しており、理由については、京都では魚釣りができないためだと冗談を言ってます)、学歴としては、中学校中退で電信技師の学校を出ただけです。

 東北帝国大学に設置された日本最初の「日本思想史学科」の教授となり、日本思想史学を確立した村岡にしても、同様です。村岡は、早稲田の哲学科を卒業した後、独逸新教神学校に進み、外字新聞の記者となって活動するうちに日本思想史の研究を始め、評価されるようになって広島高等師範の教授となり、さらに東北大に迎えられた、という異色の経歴の持ち主なのです。

 上記の本は、その村岡の没後にその知友や弟子が講義ノートを編集したもので、このうち、「憲法十七条の研究」は、戦争のさなかの昭和18年(1943)における東北帝国大学法文学部日本思想史特殊講義、および東京帝国大学文学部倫理学科における講義ノートです。

 第一節 憲法十七条の本文と研究文献
 第二節 憲法十七条の問題
 第三節 憲法十七条本文の解釈
 第四節 憲法十七条の日本思想史上の意義

の四節から成っています。昭和になると聖徳太子を持ち上げ、「憲法十七条」を明治憲法の先駆ということで「十七条憲法」と呼ぶことが増えていましたが、村岡は『日本書紀』に出る通りの「憲法十七条」という表記を用いています。

 刊行会の編集後記によれば、第四節の「日本思想史上の意義」の部分は、それ以前に書かれたものを挟み込んであり、この部分の成立年代は不明である由。

 戦時中のことですので、国家主義・軍国主義が吹き荒れていた時代ですが、村岡は、「憲法十七条の研究」の冒頭では、「憲法十七条」が「神」に触れていないことについて、平田篤胤が神道をないがしろにするものであって「余りといへば御不埒でござる」と批判したことなどを紹介した後、「日本思想史上の意義」では、「憲法の作者は真に日本国家の為に教化を考へた有識者であつたので、所謂日本主義の宣伝家ではなかつたのである」と言い切ってます。

 「所謂日本主義」については、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)の「総論 日本主義と仏教」でその歴史について概説しておきましたが、愛国を唱えるものの  ~ism の訳語である「主義」の語を用いていることが示すように、実際には西洋の影響を受けた近代的なものなのです。

 村岡は、日本の神々を世界の創造神と位置づけた篤胤の思想は、実は中国で出版された漢文のキリスト教文献の影響を受けていることを指摘した研究者ですので、偏狭な「日本主義」は本当の日本の伝統に基づくものでないことを知っていたのですね。 

 「日本思想史上の意義」は著書の一部、あるいは論文として公開されたものではなかったとはいえ、この当時、こうしたことを言えば、津田左右吉が講師として東大法学部に出向いておこなった講義に右翼学生たちが集まって質問を重ね、授業後も部屋におしかけて長時間論難したような事態がおこりかねませんでした。

 村岡のこの論述は、国家主義を推進していた文部省主導の研究会で、「性急に聖徳太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」と述べた小倉豊文の発言(こちら)とともに、学問の立場を守った言明として高く評価すべきでしょう。 

 他にも驚くのは、冒頭で「憲法十七条」の注釈書について概説する際、篤胤などによる批判を紹介した後、そうした批判に対する弁護として「一種の両部神道の立場からして太子神道ともいふべき」立場から「憲法十七条」を改竄した『先代旧事本紀大成経』にも触れ、その特質について説明していることです。

 「憲法十七条」を考証した文献を列挙する際、このブログでも紹介した徧無為(こちら)の『通蒙憲法』の解釈もあげてあります。

 津田左右吉の後代作説については、『日本書紀』の他の部分は中国文献を抜き書して書き換えたような箇所もあるが、「憲法十七条」はいろいろな文献の言葉を用いて独自の主張をしているため、独自の作品と見るほかないとして反対します。

 そして、「憲法十七条」には儒教の言葉が多いことを認め、また法家の影響があることを認めたうえで、基調は仏教だとします。これは見識ですね。ただし、太子信奉者の僧侶のような礼賛はしません。むろん、法家の影響にも触れています。

 太子研究が進んだ現在にあっても、読んでいて違和感を感じることがないのは、さすがと言うほかありません。バランスがとれている点で出色の出来です。61才で亡くなったのは本当に残念なことでした。


斑鳩宮の瓦の破片をCGで復原し、斑鳩宮の形態も推定:松田真平「斑鳩宮軒丸瓦の正しい花弁数と宮域の方位について」

2024年01月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 斑鳩宮については、発掘報告以外の研究論文は少ないのですが、興味深い検討をおこなった試論が出ています。

松田真平「斑鳩宮軒丸瓦の正しい花弁数と宮域の方位について」
(『聖徳』第240号、2019年5月)

です。

 コンピュータによる文化財復原などを専門とする松田氏の論文については、以前もこのブログでとりあげたことがありましたが、今回は、斑鳩宮の創建時の軒丸瓦の蓮華文が七葉であったという発見に関する報告です。

 破片だけが残っているこの瓦の蓮華文については、これまでは当時多かった六葉と推測されていました。しかし、破片の柄から見てその説に違和感を感じていた松田氏は、残っている花弁の部分をコンピュータ・グラフィックによって瓦の欠けている部分に埋めていくと、七葉でないと合わないことを明らかにしたのです。

 松田氏は、飛鳥時代の瓦文様で七葉という例は少なく、想起されるのは坂田寺の「有稜素弁七葉蓮華紋軒丸瓦」であると述べます。そして、この瓦は、測り方の違いなのか、図録によって数値が多少違うものの、直径14.8cmと記しているデータを採用すると、14.2cmである斑鳩宮の瓦とほぼ同サイズとなるとします。

 松田氏は、両者の制作年代は近い可能性があると述べたうえで、坂田寺付近は太子が幼少・青年期を過ごしたという伝承があることに注目します。

 次に、斑鳩宮の瓦は、坂田寺のものよりやや小さいとはいえ、屋内の厨子に葺くには大きいため、小仏堂の屋根などでなく、普通の仏殿やその門や塀の屋根に葺かれていたと推測します。そこで、正方位でなく西に20度ほど傾いた斑鳩寺と平行して建てられていた斑鳩宮のどのあたりにそうした建物があったかを検討します。

 斑鳩宮の西側は広い空き地であって、その真ん中の道路は、現在では法隆寺西院伽藍から斑鳩宮跡に建てられた東院伽藍の夢殿へ続く道となっていますが、昔はこれが斑鳩宮の正面に向かう道であったと推測します。

 そして、斑鳩宮の東側は、現在と違って大溝によって南北に分けられていたことに注意し、北側の区画の南端で大溝と近い場所にあった正方形の建物跡を、上記の瓦が葺かれていた仏殿と見て、その仏殿とつながった形で北に延びている細長い建物を、仏教関連の作業をするための作業建物と推定します。興味深いことに、その西側には井戸の跡があるのです。

 隣接する斑鳩寺、すなわち若草伽藍は、北から西へ20度ほど傾いた形で、南から門、塔、金堂が並んでおり、仏像を安置した金堂は南面しているため、斑鳩宮も同様に南面していたと考えられてきたものの、松田氏は、斑鳩宮は傾いた形で西面していたと推測します。

 つまり、斑鳩宮から若草伽藍に向かって歩いていき、その東門から伽藍を見ると、左に塔、右に金堂が見えるわけですが、これは、現在の西院伽藍では門から北を見ると左に塔、右に金堂が見えるのと同じ形になる、とするのです。

 松田氏はさらに、斑鳩宮のうち、南半分の現在の夢殿が建てられている地の横に細長い建物の跡があることに注目し、食堂ではないかと推測して、ここにも仏像が安置されていた可能性があるとし、それが現在の法隆寺金堂の本尊となっている釈迦三尊像ではなかったと推測します。

 ただ、僧侶たちが食事をする食堂には、中国でも日本でも聖僧と呼ばれる賓頭盧尊者や文殊などの像が置かれるのが通例であり、釈迦三尊像を置いた食堂などはありません。

 その他の点についても、仏教史からすると考えにくい推定がいくつかなされていますが、松田氏もそれは自覚しているようです。この論考が載った『聖徳』誌は、法隆寺が信者・支援者など向けに出している雑誌ですが、氏は、この論考の末尾で、斑鳩宮軒瓦のすべての実物と拓本を調査することができていないため、この発見と推定を学会誌には投稿しなかったと述べ、「奈良文化財研究所の先生たちと共同で研究を重ねたうえで学会誌に載せたいと述べています。ですから、このブログでも、論文ではなく「情報」のコーナーで紹介した次第です。

 斑鳩宮の瓦と宮全体の構成が、そうした共同研究によって明らかになっていくことを期待します。


ゲント大学開催のEAJS大会での近代における聖徳太子パネル(1)

2023年08月21日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、EAJS(ヨーロッパ日本学協会)の2023年大会のため、金沢みたいなベルギーの古都、ゲントに滞在中です。会場はゲント大学。19日に私が参加したパネルは、以下の通り。

Phil_13 A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history

Convenor: Orion Klautau (Tohoku University)
Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University)

Lokaal 0.3: Sat 19th Aug, 11:00-12:30

Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku
Kosei ISHII (Komazawa University)

Projecting modern ideals on the past: Nichirenist perspectives on Shōtoku Taishi
Yulia Burenina (Osaka University)  *日本からリモート発表

Harmonizing the Prince: Shōtoku Taishi’s constitution between the Taishō and early Shōwa years
Orion Klautau (Tohoku University)

 会場となった教室は、開始10数分前は日本人研究者、それもこのパネルのメンバーの知り合いが5~6人来ているだけだったため、パネルを企画したクラウタウさんは、「これなら日本語でやりましょうか」などと言っていたほどでした。

 ところが、始まる直前になると、諸国の研究者が次々に入って来て満席となり、後ろに立ち見まで並ぶ盛況となったため、ほっとしました。聖徳太子はいろいろな面にからむため、関心を呼ぶのか。

 最初の私の発表は、聖徳太子が編纂したとされる江戸時代の偽史、『先代旧事大成経』の巻70、「憲法本紀」に含まれていて太子作と称している『五憲法』がどのように受容されたか、特に明治初年にいかに歓迎されたかを検討したものです。

 『日本書紀』に載せられている「憲法十七条」は、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説くのみであって、「神」にまったく触れず、儒教の根本である「孝」にも触れていません。

 一方、『五憲法』の五つの憲法のうち、最初の「通蒙憲法」は、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神なり」と変えるなどしており、儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じています。儒教や国学の者たちが仏教を批判し、聖徳太子についても厳しく批判するようになったことに対する対応ですね。

 『大成経』は1681年に幕府によって偽書と判定されて発行が禁止され、出版に関わった人々は罰せられたのですが、出版の中心であった黄檗宗の潮音道海(1631-1698)は将軍の母に帰依されていたため、50日の謹慎の後、地方の寺に隠棲させられただけであって、『五憲法』の注釈を書いてます。

 『大成経』は、江戸時代の人々が飛びつきそうな興味深い記述で満ち満ちているため、禁書となって以後も写本でかなり伝わっており、特に『五憲法』やその注釈は、『大成経』の一部ということは示さずに何度も刊行されています。その『大成経』を引用したり注釈を書いたりした人たちは、実に多様であって、以下の私の発表資料が示す通りです。

 江戸時代の注釈で注目されるのは、かの『葉隠』を口述した山本常朝の師であって、『葉隠』に大きな影響を与えたとされる儒者の石田一鼎(1624-1694)が、『五憲法』を武士が守るべき心構えとしてとらえ、その立場で『聖徳太子五憲法釈義』を著していることです。この本は、一鼎の子孫が入手した写本を、その志を継ぐ人が昭和62年(1987)に自費出版するまで、世間に知られていなかったものです。

 明治になると、国民教育を神道一本でやろうとして失敗した政府は、僧侶の活動も認めるかわりに、明治5年(1972)に「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴」などの三箇条を原則とするよう求めたため、仏教側、特に浄土宗はこれに飛びつき、説教の資料として『五憲法』を盛んに用いました。

 神道一本槍で行こうとして失敗した明治政府は、仏教の僧侶なども国民教導に利用することにしたのですが、その際、「敬神愛国」「天理人道「皇上奉戴」を柱とする三条教則を基準と定めたため、仏教側は対応に困り、聖徳太子が儒教・仏教・神道を尊重するよう命じたとする『五憲法』に頼ったのです。

 以後も「教育勅語」が出ると、また『五憲法』の注釈がいくつも出されますし、昭和天皇が皇太子で摂政を務めていた時に結婚すると、それを祝って皇太子で摂政を務めたとされる聖徳太子作と称する『五憲法』の注釈が刊行されなど、皇室がらみの何かがあると『五憲法』は再注目されており、現代に至るまで信者が絶えません。

 このため、私は発表では、日本仏教史は聖徳太子のイメージの変遷史だが、明治初期の太子のイメージは『大成経』が強調する神道重視の太子だと論じたところ、近代日本宗教の代表的な研究者の一人である林淳さんから、適切で厳しいコメントをいただきました。

 確かに、明治期には『五憲法』などとは異なる近代的な太子のイメージも出てきますし、『五憲法』を積極的に利用しなかった宗派もあります。私の発表は、浄土宗における『五憲法』尊重が衝撃的であったため、それを一般化しすぎでしたね。


NHKの「歴史探偵」の聖徳太子特集で石井説を紹介

2023年07月20日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 7月19日(水)に、NHKの歴史バラエティ番組、「歴史探偵」(22:00~22:45)で「聖徳太子 愛されるヒミツ」が放送されました。

 私は亡き恩師の遺命によってテレビ出演はしませんので(ラジオはいくつか出てます)、これまで10を超える各局の聖徳太子番組に依頼されたものの出演はせず、監修したり情報提供したりするだけにとどめてきました(その一例が、BS松竹東急のこちら)。今回も、情報と資料の提供だけです。

 番組は、聖徳太子が愛されてきた理由として、「文明開化の立役者」「世界最古の木造建築」「スーパーヒーロー伝説」をあげ、これらについて説明していきます。

 冒頭で語られていた法隆寺の古谷正覚管長には、執事長時代から法隆寺の朝課で用いる冊子を送っていただいたり、講演に呼んで頂いたりしてしてます。景観について説明していた平田政彦氏の論文については、このブログでも何度か紹介しました(たとえば、こちら)。

 「文明開化の立役者」という面を扱った部分のうち、「近年の研究成果」によればということで、「憲法十七条」の「無忤」や嫉妬禁止の部分の出典(木村整民さん、解説、有難うございます)、『法華義疏』の文章から謙虚でありながらかなり自信も持っているという性格が見てとれるなどと説明していた部分は、私の情報提供に基づく部分であって、これまで論文やらこのブログやらで書いてきたことですね。

 SAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース)については、使い方次第でいろいろな発見ができますので、皆さん、ぜひ試してみてください(こちら)。

 なお、SATについては、インド・中国・日本の文献が電子化されて収録されているとナレーションが流れましたが、日本仏教に大きな影響を与えた韓国の仏教文献も含まれています。

 あと、『法華経』は女性の成仏を説いているという説明は誤りであって、『法華義疏』は女人成仏を説いた提婆品が入っていない古い版の『法華経』に基づいています。この点は、このブログで仏教を知らない九州王朝論者を批判した記事で書いた通りです(こちら)。

 ただ、女性の菩薩であって、将来、仏となる勝鬘夫人が説いた『勝鬘経』の注釈を書いていますので、推古天皇の時代ということもあって、女性重視であったことは事実ですね。

 番組での説明については、もう少し改善してほしい面もありましたが、史実に基づく面と、後世の伝説化を分けるなどしていたうえ、極端な礼賛もなく、歴史バラエティ番組としては無難な造りになっていたという印象です。

 番組中盤以降、かつては「聖徳太子いなかった」の紹介に熱心だった歴史家の河合敦氏が出演していましたが、河合氏は、冒頭で触れたBS松竹東急の番組以来、私の指摘を考慮して「いなかった説」には触れなくなってくれているのが嬉しいところです。

 この「歴史探偵」については、再放送もされますし、しばらくはNHKプラスで見逃し配信を見ることもできます。


ベルギーのゲント大学開催のEAJS大会で近代の聖徳太子パネル

2023年06月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 昨年3月、近代の聖徳太子像に関するシンポジウムが開催され、私はコメンテーターを担当したことは、このブログでも紹介しました。発表者が全員、海外出身の研究者という面白いシンポジウムでした(こちら)。

 そのシンポジウムを主催した東北大学のオリオン・クラウタウさんが組織したパネルが、この8月にベルギーの古都、ゲント(ヘント)大学で開催されるEAJS、すなわち、ヨーロッパ日本学協会の2023年大会において開かれることになりました。

 

 一昨日、そのプログラムが確定して発表されました。ベルギー開催ですし、参加には事前の有料登録が必要ですので、「お近くにおいでの際はどうぞ」とは言えないのですが、興味深い内容となることでしょう。パネル名と内容は、以下の通りです(こちら)。

Phil_13:
A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history   
Convenor: Orion Klautau (Tohoku University)

Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University) 

Kosei ISHII (Komazawa University):
Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku  

Yulia Burenina (Osaka University):
Projecting modern ideals on the past: Nichirenist perspectives on Shōtoku Taishi

Orion Klautau (Tohoku University):
Harmonizing the Prince: Shōtoku Taishi’s constitution between the Taishō and early Shōwa years  

以上です。

 発表者のうち、クラウタウさんは近代日本仏教研究のリーダーの一人、ブレニナさんは近代日蓮宗研究の代表的な研究者の一人、林 淳さんは近世から近代の日本宗教史の第一人者です。

 私は、このブログで何回か触れた聖徳太子作とされる偽の『五憲法』が、近世から近代にかけていかに歓迎され、利用されたかについて、特に明治初期に「三条教則」が出された際の対応を中心にして話す予定です。

 なにしろ、「憲法十七条」 は「神」という言葉を一度も使っておらず、「忠」も「孝」も説いていないため、江戸時代の国学者や儒学者からは評判が悪かったのです。

 そこで、「憲法十七条」の「篤敬三宝」を改変して「篤敬三法」とし、「三法」とは「儒・仏・神なり」と断言する偽憲法がでっちあげられたのですね。

 五憲法では、通常の「憲法十七条」をそのように改変した「通蒙憲法」のほか、為政者向けの「政家憲法」、神職向けの「神職憲法」、儒者向けの「儒士憲法」、僧尼向けの「釈氏憲法」が作られ、中国の儒教・仏教・道教の三教一致説にならった儒教・仏教・神道の三教一致が説かれていました。

 このため、明治期に神道重視の政策がとられると、大人気となったのです(こちら)。その影響は今日まで続いており、かの「お客様は神様です」の三波春夫が解説本を出しているほどです(こちら)。

 問題は、この『五憲法』を含む偽文書群たる『先代旧事本紀大成経』72巻は、吉田神道を受け継ぎ(こちら)、「憲法十七条」の根本は日本の神の教えであって、その日本の神の教えがインドで仏教となり、中国で儒教となったのだ、世界最古の文明は日本なのだと説いていたことです。

 某田中英道氏の妄想と同じ図式ですね(こちら)。田中氏に限らず、自国の文化が世界最古・最良と誇る人たち、あるいは、近代文明のきっかけを作ったのは自分の国だなどと誇る人たちは、いろいろな国にいますが、パターンは見事に同じですね。

 ただ、この『五憲法』は偽作として発禁になったものの、江戸期の時代思潮と合う部分があったため、忍澂や面山といった著名な学僧のほか、安藤昌益や山崎闇斎なども利用しています。自分の説に都合が良いと、どうしても文献批判が甘くなるのですね。 

 『五憲法』については、江戸から明治の版本は、1点を除けばすべて入手できましたので、文献的な発表ができるでしょう。これだけ版本を集めることができたということは、いかにたくさん印刷されて出回っていたか、ということですね。


浪曲・講談・落語調まじりで「講演」ならぬ「口演」:石井公成「『日本書紀』の守屋合戦こそが絵解きの前段階?」

2023年05月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、龍谷大学の龍谷ミュージアムで親鸞聖人の生誕600年、立教開宗550年記念として「真宗と聖徳太子」展が開催されており、貴重な聖徳太子絵伝や太子像、親鸞の聖徳太子信仰に関わる文献などが展示されています。

 その一環として4月30日にすぐ横の龍谷大学で「聖徳太子絵解きフォーラム:太子絵伝と絵解きの継承」が開催されました。

このように、絵解きの実演がなされました。私も最後に講演したのですが、ポスターを見たら、「特別口演」となってますね(^^;

 まあ、芸能続きの催しですので、私も、

旅~ゆけば~ぁ~、飛鳥の道に血のけむりぃ~と、二代目広沢虎造なら歌ったことでございましょう。推古天皇の前後の時代は、天皇の跡目をめぐり、血で血を洗う争いが繰り返されておりました。かかる争いは、いにしえよりとりどりにこそありしかども、守屋との合戦において、四天王像を刻んで髪に置き、誓願を立てて守屋の軍勢を打ち破りたまへる廐戸の皇子の御ありさま、伝へ承るこそ、心も言葉も及ばれね。頃は崇峻天皇二年秋七月、パパーン!(張り扇を響かせる)」

といった形で始め、漢文の引用のところはこの調子で語り、語りものには笑いがつきものということで、最後は、

毎度皆様お馴染みの、あの聖徳太子に異名が多いが、生まれついての馬嫌い、乗るのはいやだと泣いたので、付けたあだ名が「馬やだ王」とて、ほんとの名前(なまい)は豊聡耳……

と初代相模太郎の「灰神楽三太郎」風で笑わせるなどしてお話した次第です。

 合戦で劣勢になったため、これは誓願でないと難しかろうというので、まだ少年だった廐戸皇子が四天王像を手早く刻んで誓願すると、守屋の軍勢に打ち勝つことができた、というのが話の筋なのですが、その部分については、厩戸皇子に「するってえと何かい。このままじゃ負けるってことかい。ここはひとつ誓願を立てにゃあなるめえ」など江戸弁で語らせたりしながら(これは落語調ですね)解説しました。

 ただ、戦いがおさまった後、太子は四天王寺を建て、馬子は法興寺を建てました、ということで終わって良さそうなものですが、『日本書紀』ではまだ話が続いています。

 つまり、守屋の部下であった捕鳥部万の奮戦が軍談調で描かれ、万が戦死すると、その愛犬が死体を守ったため、朝廷は万の一族に命じて万と犬を葬らせた、という話になっているのです。『日本書紀』ではさらに、戦死した桜井田部連膽渟についても、同様に忠義な犬の話を載せています。

 これは四天王寺建立由来譚とは関係がなく、厩戸皇子の超人ぶりを強調する『日本書紀』編者の姿勢とはまったく異なっていますので、守屋合戦以後、四天王寺に所属させられた彼らの一族が語り伝えた話が、四天王寺における聖徳太子伝のひとコマとして盛り込まれたものですね。語られた物語ですので、『日本書紀』の記述については、浪曲・講談・落語調をまじえて「語りもの」として再現し、「『日本書紀』守屋合戦の段、これにて読み切りといたします。パーン!」と張り扇で叩いてしめくった次第です。お粗末!

 まあ、私はものまね芸の歴史の本(こちら)を出している芸能史研究者でもあって、むしろそっちの方が得意なので。


龍谷ミュージアムで「真宗と聖徳太子」展:4月1日から展示と様々な催し

2023年03月30日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 聖徳太子信仰が篤かった親鸞聖人の誕生850年、立教800周年を記念し、真宗本願寺派の大学である龍谷大学の龍谷ミュージアムで4月1日から展示と様々な催しが開催されます。

 企画の中心を務めているのは、昨年、早稲田で開催されたシンポジウム「聖徳太子一四〇〇年遠忌記念 聖徳太子の実像と伝承」(こちら)でも話していた阿部泰郎さんです。

 このシンポジウムでの石井公成、阿部泰郎、吉原浩人の3人の発表が掲載された早大文化構想学部多元文化論系の雑誌『多元文化』第12号が、先日刊行されましたので、来週から紹介していきます。

 聖徳太子絵伝の絵解き実演や講演会その他、様々な催しがおこなわれる予定です。その一部は以下の通り。事前申し込みが必要なものもあるので、ミュージアムのHPで確認してください(こちら)。

 私は、4月30日に行われる「聖徳太子絵解きフォーラム」で講演する予定です。このフォーラムでは、四天王寺、瑞泉寺、三河すーぱー絵解き座が絵解きを実演し、私は絵解きの歴史などについて話す予定ですが、実演づくしの催しなので、私自身、浪曲・講談調をまじえて話そうかと考えているところです。何せ私は、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』(吉川弘文館、2017年)という、アジア諸国のものまね芸の歴史に関する世界初の本を書いたくらいの芸能好きなので。

 詳細はまだミュージアムのHPにはあがっていませんが、4月になったら公開されるでしょう。


聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか

2022年11月23日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、

宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」
(真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月)

でした。PDFで読めます(こちら)。

 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東本願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。

 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。

 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思います」とし、767年に称徳天皇が諸寺を巡行し、聖徳太子の寺におもむいた際に、同行した淡海三船の漢詩があり、南岳慧思の転生説が詠まれていると述べていました。

 「上限」というのは、この時期から広がり始め、以後、盛んに使われるようになり、「聖徳太子信仰」と呼ぶべきものが盛んになった、という意味でしょう。ただ、「聖徳太子」という呼び方がそれ以前に成立していて、それが751年の紀年がある『懐風藻』の序に見えているのだ、という成立史の立場から言うと、751年はむしろ「下限」ということになります。

 この講演録は、2020年1月の講演を編集したものが11月に刊行されたものですので、無理もないのですが、この年の8月には、まさに大谷派の雑誌である『教化研究』が刊行されており、そこで私が「聖徳太子」の名の由来を論じています。「聖徳太子といかに向き合うか」という題名ですので、お説教風な内容と思われ、あまり読まれてないのかもしれません。

 その講演では、『懐風藻』を編纂したのは淡海三船と推測されているため、「聖徳太子」という呼称を作ったのは淡海三船だろうとしました。そして、天台教学を重んじていた鑑真とともに来日した弟子の思託が、太子は天台大師の師である南岳慧思禅師の生まれ代わりだと説いており、三船はその思託と親しくしていたため、『懐風藻』以後は、この呼称を慧思後身説と結びつけて用いていたことを指摘しました。

 つまり、「聖徳太子」という呼称は、慧思後身説と一緒に広まったのです。この件については、このブログでも紹介しました(こちら)。もっとも、『日本書紀』段階でも「聖徳」と「太子」の語を用いているため、これを組み合わせれば「聖徳太子」という語はできるのですが。

 三船は、歴代天皇の漢字諡号を定めたとされる文人です。ですから、「聖徳太子というのは、没後の名なのだから用いない」というなら、用明天皇とか推古天皇といった名も没後の諡号、それも奈良時代半ばすぎに定められたものなのに、聖徳太子という名はなぜいけないのか、という話になります。もっとも、天皇は漢字諡号を用いるものの、皇太子については生前の名で呼ぶという史学の習慣はあるわけですが。

 問題は「厩戸王」です。この名については、広島大学の小倉豊文が、聖徳太子のイメージに縛られずに客観的に研究するために戦後に想定した名であって、古代中世の文献には出てこないということは、このブログを含め、あちこちで書いてきました。

 現在、高校の教科書の多くは、「厩戸王(聖徳太子)」などとしています。それは、実在したのは「厩戸王」だと大山誠一氏が主張した影響も多少はあるでしょうが、太子について客観的に検討しようとする古代史学者たち(大山説に明確に反対している研究者たちもいます)が、小倉と同様に、「厩戸皇子」の「皇子」は律令制の呼称であって、それ以前は大王の子については「王」と呼んでいただろうと見ているためです。
 
 律令制以前に大王の子を漢文では「王」と記していたとする推定は、おそらく正しいのですが、問題は、「厩戸」と「王」の結びつきです。九州大学教授であった古代史・仏教史の研究者であった田村圓澄が、広く読まれた中公新書の『聖徳太子』(1964年)において、小倉が生前のものと想定した呼称を説明無しで用い、信仰上の人物は「聖徳太子」、歴史上の人物は「厩戸王」と使い分け、これが定着したことは、これまであちこちで書いてきました。

 しかし、「厩戸王」については問題があるのです。「厩戸王」というのは、用明天皇と間人皇后の間に生まれた子が、馬を怖がり、乗馬の練習をするたびに「馬やだよ~」と泣いていやがったため、「馬やだ王」と呼ばれたのが由来だとする、あやしいネット記事も出ています(こちら)。

 まあ、その記事は、石井なんとかさんという人が冗談で書いたのですが、この時は、このブログの「珍説奇説」コーナーでとりあげた、妄想好きな梅原猛大先生や井沢元彦大先生の霊が降りて来ていて、イタコ状態で書いたものを4月1日に公開したような記憶があるそうです。

 それはともかく、「厩戸王」という呼称を想定して用いようとした小倉豊文については、私は高く評価しており、このブログで特別コーナーを作ってあるうえ、私の聖徳太子本も「(太子を)凡人として過小評価することも……非凡人として過大評価することも」慎まねばならない、という小倉の言葉を巻頭に掲げているほどです。しかし、「厩戸王」という語については賛成できません。

 聖徳太子について触れた確実な文献で最も古いのは『古事記』であって、「上宮之厩戸豊聡耳命」と呼んで尊重しています。「上宮」というのは、太子が住んでいた場所であり、三経義疏の撰号も「上宮王」となってますね。

 これが少なくとも晩年の正式な名であった可能性は高いです。アメリカ大統領の見解を「ホワイトハウスは~」という形で述べたり、落語の桂文楽を「黒門町は~」と呼ぶようなもので、尊重されている人、親しまれている人を住んでいる場所の名で呼ぶことは諸国でよく見られるものです。

 「豊聡耳」については、『日本書紀』も一名としてあげていますし、「天寿国繍帳銘」も、「等已刀彌彌乃彌己等(とよとみみのみこと)」と呼んでおり、『古事記』とも合うため、これが本名であった可能性が高いでしょう。

 ただ、近代以前では、同じ人でも名前は一つではありません。幼い頃の名、成人してからの名、壮年になっての名が変わったりするだけでなく、相手に応じて自称を変えたり、また相手からの名の呼び方が変わったりします。特に漢字表記は、最澄と論争した会津の「徳一」が「得一」と記されたり、空海の「海」も「毎」の下に「水」を書く形もあったりで、様ざまです。

 大王の子の名は、漢字を用いるようになってからは、男女とも「王(みこ)」が良く用いられたようですが、そうした呼び方の場合、養育した氏族の名や彼らの本拠であった地名が付けられるのが通例です。

 推古天皇が『日本書紀』で「額田部皇女」とされているのは、「皇女」は律令以後の表記にせよ、斑鳩の南西にあたる額田の地を本拠とした額田部氏が養育を担当したからですね。この地には、額田部氏の氏寺と考えられている額田寺もありました。

 ところが、「厩戸」については、そうした氏族も地名も知られていません。ということは、厩戸で誕生したという伝承に基づいて呼ばれていた可能性もあるということでしょう。

 ジャズのトランペットの名手であるハリー・エディスンは、甘い音色が有名であって、渾名を付ける名人であったレスター・ヤングが、ハリー・"スウィーツ"・エディスンと呼んだため、「スウィーツ」が愛称となり、親しい人はこの名で呼んでいました。こうした通称の例は、生前にせよ没後にせよ、古今東西たくさんあります。

 『日本書紀』が異名としてあげる「法大王(のりのおおきみ)」や「法主王(のりのぬしのおおきみ)」(いずれも講経が巧みな王子の意)、釈迦三尊像銘に見える「法皇(のりのおおきみ)」(こちらは、講経の巧みな[准]大王)などは、そうした例でしょう。

 「厩戸」はそのような名の一つ、それも、早い時期の法隆寺では用いられていなかった名なのではないか。

 『古事記』の「上宮之厩戸豊聡耳命」や『日本書紀』の「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、住所である「上宮」と、妃の橘大郎女も称している「豊聡耳のみこと」は、聖徳太子の生前の名の一つであるのは確実ですが、「厩戸」は果たしてそう言えるのか。

 そうなると、残る問題はどの氏族が養育を担当したかです。「豊聡耳のみこ」「豊聡耳のみこと」が、斑鳩近辺を本拠地とし、法隆寺再建にも関わったらしい膳部氏とか山部氏などが担当し、膳部王とか山部王などと呼ばれていたなら分かるんですけどね。それとも、厩戸というのは、いずれかの氏族の別の名だったのか。

 いずれにせよ、文献であれ碑銘などであれ、確実な資料が出てこない限り、「厩戸王」という呼称は避ける方が無難でしょう。

【付記:2022年11月25日】
「厩戸」という呼び名は、厩戸誕生伝承に基づいて後に生じた可能性があると書きましたが、それを言うなら「豊聡耳」にしても、耳の良さ、記憶力の良さで回りが驚くようになってからの名であって、生まれた時に付けられた名ではない可能性が高いということになりますね。とにかく、聖徳太子の名は、その別名の多さも含め、いろいろな意味で特別です。

【追記:2022年12月5日】
誤解を避けるため、文章の一部を訂正してわかりやすくしました。論旨は変わっていません。


国立能楽堂の11月パンフレットに「聖徳太子と芸能」を寄稿

2022年11月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 国立能楽堂では、聖徳太子1400年遠忌に寄せてということで、11月には太子関連の芸能を上演する予定であることは、このブログで紹介しておきました(こちら)。

 その11月のパンフレットに以下のようなエッセイを書きました。11月1日付けで刊行されており、今月、能楽堂に能・狂言などを見に行かれたら、700円で販売されています。

石井公成「聖徳太子と芸能」
(『国立能楽堂』第467号、2022年11月、36-39頁。こちら)

です。

 24日は、真宗大谷派井波別院瑞泉寺住職の竹部俊惠師による「聖徳太子絵伝絵解き」と、新作能「夢殿」、30日は狂言(和泉流)の「太子手鉾」、世阿弥自筆本による復曲能「弱法師」です。

 それぞれの演目については、別の方が簡単な解説を書いておられます。私は、9月初めにパリの翻訳シンポジウムに出かけていた際、夜、ホテルに戻ったら能楽堂からエッセイの依頼メールが来ていたため、急いで書いたのですが、編集担当の方は、私を聖徳太子研究者と思って依頼されたようです。

 実は私は仏教学は苦手であって、文学や音楽・芸能好きであり、以前は、この太子ブログと平行して、匿名で音楽ブログと芸能ブログをやってました。絵解き・能・狂言については拙著の『<ものまね>の歴史』や、村田みおさんとの共著『教えを信じ、教えを笑う』の「第二章 酒・芸能・遊びと仏教の関係」でその誕生の歴史を簡単に紹介しています。

 今回のエッセイでは、それぞれの演目の解説とかぶらないよう配慮しながら、聖徳太子と芸能の関係について語り、太子伝の絵解き、夢殿、「弱法師」、「太子手鉾」のすべてにさりげなく触れておきました。

 詳しくは、上記の拙著に書いてありますが、絵解きはインド由来であって、インドでは今でも旅芸人がやってます。棒で指して説明するのもインド・西域由来の伝統です。インドは横幅の広い布でやってますが、日本では紙芝居となりました。聖徳太子伝の絵解きは、恐らく日本の絵解きの最初です。

 他にも、聖徳太子が始めたとか、聖徳太子に関するものが最初といった芸能伝承は多いのですが、「聖徳太子と芸能」では次のように書きました。

(一)聖徳太子が実際に関わった芸能、(二)太子を題材とした芸能、(三)太子を始祖とする後代の芸能起源伝承、という三つは、区別する必要があるのです。

 仏教を導入するということは、建築・美術・芸能・製紙・医学その他の最新技術を受容することですので、仏教を盛んにした聖徳太子が様々なもののの開祖とされるのは不思議でないのですが、中世になって作られた伝承も多いのです。

 「夢殿」は国語学者で歌人でもあった土岐善麿が作った新作能です。土岐は太子信仰の篤い真宗寺院に生まれたのです。法隆寺には古い伎楽面が多く伝えられており、仏教芸能も盛んだったのですが、聖徳太子信仰と太子関連の芸能については、平安時代以来、宣伝上手な四天王寺が中心となっています。

 そうした中で夢殿が再び注目されるようになったのは、明治からですね。これについては、救世観音像を世に出したフェノロサと、その通訳をつとめた岡倉天心の役割が大きいようです。なお、夢殿は、法隆寺の行信が光明皇后に働きかけ、焼けた斑鳩宮の跡に造営したものの、もともとは法隆寺とは別の寺でした。

 新作能「夢殿」が作られたのは、太子は芸能の祖とされていながら、不思議なことに能で太子を主人公とした「守屋」「太子」「上宮太子」などはすべて廃曲となっているからです。

 「弱法師(よろぼし)」は、別れ別れになっていた父と息子が、四天王寺で巡り会うという話です。今回は、世阿弥自筆本に基づいたということなので楽しみです。

 狂言では僅かに「太子手鉾」だけが太子を扱った作品として残っていますが、ここでは太子は登場せず、「守屋(もりや)は法(のり)の敵なりけり」という和歌、つまり、仏敵の物部守屋と説法の邪魔となる「漏り屋(もりや:雨漏りのする家)」を掛詞にしたおふざけ歌が中心となっています。

 この和歌は、瞻西上人が説法していると雨が漏れてきたため、説法が終わると袖をぱっと払って詠んだと伝えられるものです。瞻西上人は、南北朝頃の『秋夜長物語』では、比叡山の文武両道の僧だった頃、道中で出逢った藤若という少年に恋してしまい、ひと夜をともにすることができたものの、その少年が川に身投げして死んでしまったため、発心して修行に励んだとされています。

 この『秋夜長物語』については、以前、天台宗の叡山学院でおこなった講義が活字になってます(こちら)。学院長の堀澤祖門先生が直前になって比叡山に会議で出かけられたため、よーしということで、「ここ坂本は少年愛の本場です。それを文学作品としているのは、さすが天台宗」と誉めたのですが、数年後に某国際学会で堀澤先生にお会いしたら、「先生の講演は大変話題になりました」と言われ、恐縮しました。

 現代では、山岸涼子『日出処の天子』が太子伝をボーイズラブの話として描いていますが、言葉遊びを発達させたのは仏教ですので(石井説!)、聖徳太子、芸能、言葉遊び、少年愛は、こうしてつながっているのだ、というのが私のエッセイの結論です。もっとも、伝承の世界では、少年愛の元祖は太子でなく、空海ということになってますが。


若草伽藍の金堂壁画の焼け残り破片を見てきました:斑鳩文化財センター秋季特別展

2022年11月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 急ぎの仕事が一段落したため、斑鳩文化財センターに行って焼け残りの壁画の破片を見てきました。

令和4年度秋季特別展「若草伽藍の壁画展-古代寺院の荘厳-」(10月22日~11月27日)

です。

 東野治之先生がセンター長を務めているこのセンターは、日頃はすぐ近くの藤ノ木古墳の遺物の展示が中心なのですが、法隆寺金堂の壁画の修復が終わったということもあって、この展示期間中は、若草伽藍の壁画の破片を中心として、7世紀から8世紀にかけての複数の寺院壁画の破片を展示しています。

 そうした地味な展示のため、豪華な工芸品で知られる藤ノ木古墳の遺物を見に来た人は失望することが多いようで、入り口で係の方が入館料をもらう前に、「現在はこのような展示になっていますが、それで良いですか」と声をかけてました。

 私は、もちろん入館しましたが、観光客らしき4人くらいの団体の人たちは、「じゃあ、法隆寺に行きます」と言って入らずに去っていきました。

 展示の図録はないですかと尋ねたところ、斑鳩町教育委員会?の山根惇史さんが「500円です。マニア向けの内容ですが」と心配してくれたので、「一応、プロなので」とお答えして購入しました。その山根さんも執筆している斑鳩町教育委員会:斑鳩文化財センター編の図録が、こちら。

 展示では、若草伽藍の焼け残りの壁画片と壁土と瓦、西院伽藍の旧壁画の模写、山田寺の壁画片と種々の塼仏と瓦を初めとして、これまで発見されている7世紀から8世紀までの各地の寺院跡の壁画片・塼仏・瓦などが並んでいました。こうした遺品は、その土地への古代仏教の浸透具合を示すものです。

若草伽藍(壁画片・壁土・瓦):奈良県斑鳩町
法隆寺西院伽藍(金堂旧式壁画模写):同
山田寺跡(壁画片・塼仏・瓦など):奈良県桜井市
安倍寺跡(壁画片・瓦):同
橘寺(塼仏・瓦):奈良県明日香村
川原寺跡(塼仏・瓦):同
川原寺裏山遺跡(塼仏・緑釉波文塼):同
小山廃寺[紀寺跡](塼仏・瓦):橿原市・明日香村
石光寺(塼仏・瓦):奈良県葛城市
二光廃寺(塼仏・瓦):同
日置前廃寺(壁画片・壁土・瓦):滋賀県高島市
山崎廃寺(壁画片・塑像片・塼仏・瓦):京都府大山崎町

 これだけ壁画片や塼仏が並ぶのを見たのは初めてです。成16年(2004)に若草伽藍迹の西方を発掘調査した際、焼けた壁画片を含め,焼けた壁土や瓦などが出てニュースになりましたが、この展示では、若草伽藍の壁画片については、このブログでも論文を紹介したことのある斑鳩町教育委員会の平田政彦氏が解説を書いていました。

 それによると、壁土の中心部となる木舞に塗りつける「荒土」の上に、壁を平らに整えるための約1.5センチの「仕上げ(中塗り)土」、さらに、壁画が描かれる「白土」が塗られている由。若草伽藍では、「白土」が1~3mmほどあり、後になって造営された他の寺の壁画より「壁面の仕上げ」が「しっかり行われていた」そうです。

 『日本書紀』によれば、飛鳥寺を造営するにあたって崇峻元年(588)に百済から派遣された工人たちの中に白加という名の「画工」がおり、また推古12年(604)には「黄書画師」と「山背画師」という絵描き集団が編成されているうえ、韓国の弥勒寺跡や比蘇山寺跡からは壁画片が出ているため、こうした渡来系の技術者の指導で作成されたと平田氏は推定します。

 若草伽藍よりやや遅れ、7世紀半ばに創建された山田寺では、壁画の破片が僅かに出ているほか、仏像を陰刻した原型に粘土を埋めて型抜きして焼いて作成した塼仏がいろいろ出ており、こうした塼仏を壁面に数多く張って堂内を荘厳していたと見られています。

 さらに、670年に若草伽藍が焼失した後に再建された現在の法隆寺西院伽藍の金堂は、インド調の色彩の強い唐代の仏画の影響を受けた美術的傑作の壁画で飾られていました。日本最初の本格寺院建築である飛鳥寺、それに続く豊浦寺では、壁画の破片は見つかっていません。

 ですから、壁画無しの飛鳥寺・豊浦寺、壁画で飾られた厩戸皇子の若草伽藍、塼仏を飾った山田寺、最先端の唐の仏画を描いた再建法隆寺、という順序で堂内の荘厳が発展していったのです。つまり、壁画は厩戸皇子の若草伽藍が最初であり、若草伽藍は最新の豪華な荘厳を備えた寺なのであって、『日本書紀』は斑鳩寺については焼失記事しかありませんが、崇峻朝から推古朝にかけての寺院関連の記述は、かなり史実を伝えていた、ということになります。

 聖徳太子をできるだけちっぽけな存在として描こうとした大山誠一氏は、推古朝の末年には寺が46あったという『日本書紀』の記述に基づき、「厩戸王」は都から遠く離れた地に、当時は46もあった寺の一つを建てたにすぎないと称しており、若草伽藍のことを田舎の小さな仏堂のように扱ってましたね。

 その若草伽藍とほぼ同規模の大きさで再建された法隆寺を見たことがなく、また、自説を発表した後は、自説がゆるがないように、若草伽藍の壁画片の発見や飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の遺構の調査(こちら)など、考古学の成果については目をつぶり続けていたのか……。

 なお、若草伽藍の焼け残りの壁画片は、1cmから5cmくらいの小さな破片ばかりであって、仏像を描いた部分の一部と思われるものは無い由。川原寺跡の場合、その裏山遺跡から三尊塼仏の破片が1600点出土していることから見て、若草伽藍の壁画片のうち、仏像を描いた部分の破片は、平成16年に発見されて今回展示されている壁画片などは別の箇所に丁重に埋められたのではないか、今後、発見される可能性があると、平田氏は展示の解説で書いていました。

 上記の奈良・滋賀・京都の寺跡以外で、早い時期の壁画片が発見されているのは、色が残っている壁画片が発見されてニュースにもなった島根県米子市の上淀廃寺(こちら)、そして東日本最古の本格寺院跡である群馬県前橋市の山王廃寺跡です。仏教建築や美術に関する最新技術を独占していた大和王権との関係の強いところ、ということになるのでしょう。

 私は展示を見終えて出る際、「上淀廃寺で、色彩が僅かに残っている壁画の破片を見た時のことを思い出しました」と入り口にいた山根さんに語り、ちょっとだけ話しました。

 展示期間は22日までです。意義のある展示ですので、関西在住の方には、コロナ感染が猛烈に増える前に見ておかれるようお勧めします。


国立能楽堂で11月24日と30日に聖徳太子関連の絵解き説法と能と狂言

2022年09月30日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 国立能楽堂では、聖徳太子1400年遠忌ということで、11月24日に北陸の古刹、井波別院瑞泉寺で継承されてきた聖徳太子御絵伝の絵解き説法と新作能の「夢殿」、30日には狂言「太子手鉾」と能「弱法師」が演じられます。

 内容の簡単な解説と予約法については、24日分はこちら、30日分はこちら、です。

 私はこの上演の冊子に随筆を頼まれていますが、演目の解説は別の方の執筆です。面白いのは、これらの元となった中世の太子伝は、掛詞を、つまりは言葉遊びをかなり含んでいることですね。

【付記:2022年11月27日】
このエッセイは、11月3日刊行の冊子『国立能楽堂』に掲載されました(こちら)。

 


唐本御影を元に描かれた人物は秦河勝?:伊藤純「四天王寺本[秦川勝像]をめぐって」

2022年09月07日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「唐本御影」、つまり、聖徳太子と二王子を描いたとされる有名な肖像画については、中国の作品だとか、髭の部分は後になって描き足したものだといった説を含め、諸説がありますが、13世紀後半頃にこの絵の模本として描かれたのが、薬師寺に伝わる聖徳太子像です。

 その薬師寺本を手本として描かれた肖像画が四天王寺に所蔵されています。ただ、四天王寺のこの絵については、実は良く分からない点がいくつもあるのです。この問題の絵について検討した最新の論文が、

伊藤純「四天王寺本[秦川勝像]をめぐって」
(『日本文化史研究』53号、2022年3月)

です。

 聖徳太子の画像に興味を持ってきた伊藤氏は、2020年4月に四天王寺宝物館で開催された名宝展で、「聖徳太子摂政像〔伝秦川勝像〕」に初めて対面して衝撃を受けたそうです。

 というのは、その絵の上部に説明が記されており、それによれば、この絵の文字の部分は「世尊寺行成(=藤原行成、972-1028)」だが、絵の作者は不明であって「秦川勝像」であり、奈良の井上平五郎が蔵していたものを、四天王寺中之院が模写し、安永七年(1778)6月に四天王寺に奉納した、とされていたたからです。

 つまり、唐本御影の太子とそっくりの像であるのに、秦川勝の像と記されていたのです。以下では、この像については「川勝像」と記し、また文献に「川勝」とある場合はそのまま記し、歴史上の人物として述べる場合は、通常の表記である「河勝」を用いることにします。模本でありながら髭がなく、1人だけで描かれています。

 また、佐藤氏は、秦河勝は『日本書紀』ではそれほど活躍しておらず、白膠木を刻んで四天王を作ったのは厩戸皇子、物部守屋を討ったのは迹見首赤梼とされているのに対し、時代がたつにつれて河勝の活躍が目立つ記述が増えるとします。

 つまり、917年の『聖徳太子伝暦』だと、川勝が太子に命じられて白膠木を取って四天王像を刻んだとし、また物部守屋の首を切ったとしています。さらに1122年の『上宮聖徳太子伝補闕記』だと、川勝が軍をひきいて太子を守ったとし、川勝が白膠木を切って四天王像を刻んだとし、守屋の頭を斬ると述べています。

 さらに、芸能の面でも、世阿弥の『風姿花伝』では、太子が河勝に命じて申楽(能)をおこなわせたとし、守屋との戦いでも河勝の「神通方便」によって守屋が「失せ」たとされています。つまり、時代が下るにつれて、河勝の活躍が強調されるようになっているのです。

 さて、薬師寺本を所蔵していたのは奈良の井上平五郎であって、この人物は、茶の湯の通人として有名な豪商、松屋家と親密な間柄でした。この松屋家は、能の金春家と親しくしていました。伝承では、能の元祖は秦河勝です。

 薬師寺本の作成の由来は不明ですが、以上のことを踏まえ、伊藤氏は次のように推測します。

 太子伝において河勝の地位が高まり、申楽でも始祖とされる河勝が尊重される中で、その河勝の肖像画を描くにあたって、河勝と一体視されていた聖徳太子の肖像画が手本とされ、薬師寺本が作成されたのであり、申楽の金春家と親密であった松屋家と関わりが深かった井上平五郎がその川勝像を入手し、それを手本に四天王寺で模本が作成されて聖徳太子摂政像として保存された。

 さあ、どうでしょう。この推測の是非はともかく、資料というのは、どのような経緯で伝えられてきたかも重要であることが良くわかりますね。


寺院の建設は山林破壊でもあった:松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探る」

2022年09月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 この前、番外編のような形で岩倉具視と法隆寺の貝葉の件をとりあげました。そこで、今回は番外編の続きで四天王寺と山林の樹木伐採の話です。論じているのは、

松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探るー中世聖徳太子伝『聖法輪蔵』別伝の四天王寺建立説話に見る樹木伐採と木材調達ー」
(早稲田大学国文学会『国文学研究』第196集、2022年4月)

です。松本さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(勉誠出版、2007年)は、太子伝における物部合戦での太子の活躍ぶりの歴史的変化を探るものであって、勇ましく戦う太子や、争いを避けようとする太子など、様々な描かれ方をしていることに注目した、興味深い探求の試みでした。太子伝研究の名著ですね。

 松本さんは、数年前まで韓国の大学で教えていましたが、現在は長崎外国語大学の教員となっており、日本の古代史研究をするうえで必須である古代韓国の状況の研究にも通じているのが強みです。今回は環境問題を意識してか、太子の絵伝に見える山の樹木に着目しており、これまた面白い視点です。

 さて、この論文では、法隆寺宮大工の西岡棟梁が、日本には樹齢が長くて質の良いヒノキがなくなったたため、建設のためには台湾まで買いに行かなくてはならないと歎いたことから話を始めています。現在の日本の山は樹林で覆われていて綠になっていますが、明治大正時代の写真を見るとそうでないと言います。つまり、はげ山が多かったのであって、戦後になって植林した結果、それまでとは異なる樹木が過剰に育ったのです。

(松本さんは触れてませんが、花粉症はその弊害の一つですね)

 この論文によると、森林伐採は縄文時代から始まっており、弥生時代になると須恵器の焼成のために山林が荒廃する例が出てくる由。さらに飛鳥時代になると、大和あたりでは建築用材の欠乏が見られるようになったそうです。

 都の建設、寺院の建設、大人数の生活のための木材利用が進んだためでしょう。度重なる遷都がそれに拍車をかけたうえ、奈良時代には東大寺大仏殿建築のために大がかりな伐採がなされ、その後の再建がかなり困難になっています。

 こうした状況は、聖徳太子関連の記録にも反映しており、『日本書紀』で山背大兄に味方した境部摩理勢の子の毛津は、畝傍山に逃げ込んだものの、木立がまばらであって隠れることができなかったと記されています。現在の木うっそうと茂る姿とは異なっていたのですね。

 そこで山林の荒廃が進んだ例として松本さんがとりあげるのが、中世の太子伝の代表の一つである『聖法輪蔵』に組み込まれた別伝「四天王寺建立事」です。

 この前半部では、「彼ノ四天王寺ノ材木ヲハ、山城国ヨリ淀川ヲ下シテ、摂津国難波ノ浦ニ付テ、太子十六歳ノ十月ニ悉ク建立シ給ヘリ」としているだけですが、別伝では、そこは「昔深山ニテ大木枝ヲ並へて」いたため、太子が多くの人夫を派遣し、20数カ所の仮家を造ったところ、人夫たちが我先にと争って材木を切ったとしています。

 松本さんは、「昔~」とあるため、この部分が書かれた時は、大木が失われていたことを示すと説きます。

 そして、平安時代の絵巻などを見ると、そこに描かれた山は鬱蒼とした樹林に覆われていないものが多いそうです。むろん、描き方の問題もあるでしょうが、それにしても樹林の描き方が貧弱なものが目立つ由。実際、当時の文献には、焼き畑をすると寺の堂塔に近いので危険だといった記録や、山の材木を炭や薪のために切り尽くして荒れたといった記述が見られるのです。

 そのため、『聖徳太子内因曼荼羅』では、「太子自ラ斧ヲ取テ切倒シテ、天王寺ノ塔ノ心ノ柱ラ」などを数々取ったとしていたものが、近江蒲生郡の西明寺の1237年の文書では、近隣の住民が寺領の山林を伐採しているとし、「上宮王、殊に禁制の事」ありと説き、太子が禁じているため「霊木を伐採すべから」ずと関白に訴えるに至っています。

 絵巻から社会事情を読み取ることは、黒田日出男氏その他によって次々に研究が進められてきており、太子の絵伝についても何人もの研究者が取り組んでいますが、今回の松本さんの論文は、視点を変えると、意外なことが浮かびあがってくるという一例ですね。 


岩倉具視がイギリスに送った法隆寺の貝葉『般若心経』の写真:齊藤紅葉「岩倉具視と「文化外交」」

2022年08月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 私は芸能マニアであって、最近いろいろ話題の蛙亭もオズワルドも好きなため、蛙亭のイワクラがオズワルドの伊藤たちと故郷の宮崎県を旅して「よかとこ」を伝える UMK宮崎テレビの番組、「蛙亭イワクラ使節団ー伊藤と肥満とサイダーとー」は毎回見ています。

 このタイトルの元となった岩倉使節団の岩倉具視(1825-1883)は、実は法隆寺と関係がありました。それについて紹介したのが、

齊藤紅葉「岩倉具視と「文化外交」ー大蔵経、法隆寺の貝多羅葉写しのイギリスへの送付を通してー」(『人文学報』119号、2022年)

です。

 齊藤氏は、木戸孝允を中心として幕末から明治初期の政治・社会を研究しており、仏教史学の研究者ではないため、仏教関連に関する記述には時々おかしな表現が目につきますが、この論文は当時の仏教学における国際的な交流という面で興味深いものです。

 岩倉が1883年7月20日に亡くなると、5日後にイギリスの「タイムス」紙に訃報が掲載されました。それを目にしてその日のうちに短い追悼文を書き、「タイムス」紙に寄せたのは、当時のイギリスのインド学仏教学を代表する大物学者、マックス・ミュラーでした。この追悼文は、7月30日の「タイムス」紙に載せられています。

 ミュラーは、岩倉大臣は、その年の3月に、法隆寺が保存してきた神聖な古代の椰子の葉に書かれた現存最古の梵文資料の写真を撮ることに成功したことを知らせる手紙を送ってくれており、後に写真が届いたため出版する予定だと述べ、大臣は、日本の寺院に蔵されている他の貴重な資料に関する情報を集めるために全力を尽くすと書いてくれていた、と記しています。亡くなって追悼される政治家は多いでしょうが、このように国際的な学問貢献を讃えられる人は稀でしょう。

 その世界最古の梵文資料というのは、むろん、貝多羅葉(ターラ樹の葉)に悉曇文字で書かれた『般若心経』のことです(こちら)。これについては以後、研究が進んでおり、またインド北部や西域で樺の木の皮に書かれたさらに古い梵文経典が多数発見されていますが、日本のこうした資料がインド学者であったミュラーの関心を仏教に向けるきっかけの一つとなったことは事実です。

 岩倉は使節団を率いて欧米を回った際、漢文の仏教資料を集めていたインド省の図書館に対して、漢文の大蔵経を送ると約束しました。そして、1875年に、明代の大蔵経に基づいて鉄眼が17世紀末に木版印刷した黄檗版大蔵経を実際に送っています。

 ただ、これを活用できるようにしたのは、オックスフォード大のミュラーのもとに留学した真宗東本願寺派の南條文雄でした。南條はサンスクリットを学ぶと同時に、この大蔵経の整理と解説に取り組み、英語でその目録を刊行し、その価値を西洋の学問世界に知らせたのです。

 さて、岩倉は、法隆寺所蔵の悉曇で書かれた『般若心経』と『仏頂尊勝陀羅尼』の写しを1880年にミュラーに送り、1883年には写真も送りました。この貝葉は、法隆寺が所蔵していたものですが、廃仏毀釈の中で困窮するに至り、本堂も雨漏りがするような状況だった法隆寺が宝物を皇室に献上し、1万円の御下賜金をもらってそれで修理などをした際の宝物に含まれていました。

 それに着目したのは、英国公使の通訳を務め、日本学の研究者となりつつあったアーネスト・サトウであって、サトウは岩倉に面会し、これを含めた貴重な梵文資料をミュラーに送るとする約束をとりつけたのです。

 岩倉は公家であって、長らく右大臣を務め、皇室との関わりも深かったため、皇室のものとなったこの貴重な秘宝の写しや写真をミュラーに送ることができたのですが、これには、岩倉が日本の文化を重視していたことも背景になっています。欧米を視察した岩倉は、西洋の技術だけを導入したのでは弊害も多いことを知り、日本の伝統文化の意義を見直し、保持しようとしていました。

 古社寺の宝物を展示することがおこなわれるようになり、1882年に浅草寺でおこなわれた展示を明治天皇が視察した際は、宮内卿の徳大寺実則は、岩倉に事後承諾となってしまったことを詫びる手紙を出しています。つまり、そうした行幸などは、岩倉が宮内省以上の力を持って取り仕切っていたのです。