聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子に関する基礎的な事柄の再検討:渡里恒信「上宮と厩戸--古市晃氏の新説への疑問と私見--」

2013年05月04日 | 論文・研究書紹介
 更新をさぼっている間に、何人もの研究者から聖徳太子に関わる御著書やご論文を頂きました。それらの紹介を含め、そろそろ太子研究に復帰しないといけないため、手初めに渡里恒信氏の最新の論文を紹介しておきます。

 聖徳太子は虚構であって実在したのは「厩戸王」だという説が誤りであることは、ここで何度も触れてきました。「厩戸王」というのは、真摯な研究者であった小倉豊文が、「聖徳太子」という言葉が持つ伝統に縛られずに考察するため、仮に提唱した名にほかなりません。生前の名であった可能性があるものとして選んだものの、実証できずに終わった名であり、どの資料にもまったく出て来ない呼び名なのです。

 その「厩戸」について、このブログでも研究を紹介した古市晃氏が新説を出されています。その説に疑問を呈したのが、

渡里恒信「上宮と厩戸--古市晃氏の新説への疑問と私見--」
(『古代史の研究』第18号、2013年3月)

です。

 古市氏は、「聖徳太子の名号と王宮--上宮・豊聡耳・厩戸--」(『日本歴史』768号、2012年)において、太子の「生前に用いられた可能性が高い」呼び名として、「上宮・豊聡耳・廐戸」の三種をあげています。ただ、「上宮」の語に対する説明を含む『日本書紀』の立太子記事は、「宮号の由来を説いた一種の起源伝承とみることも可能」とし、実録とは見がたいとします。

 これに対して、渡里氏は、一度に十人の話を聞いたなどというのは後世の付会であるにせよ、「且」以下は具体的な人名が見えることなどから、実録的と見ることができるとし、諸資料における「上宮」の用例を検討していきます。

 そして、「上宮」は太子の居所であるだけでなく、太子自身の名号(尊号)となり、後には斑鳩宮も「上宮」と呼ばれ、その子供たちが「上宮王等」と呼ばれたと見ます。太子の最初の居所としては、上之宮遺跡(桜井市上之宮)と考えることができるとし、父、用明天皇の宮があったとされる磐余と磐余池について、地名や地理的な状況から検討します。

 その結果、重要な道が交差していて軍事・交通の要所である桜井市仁王堂あたりを磐余の中心と見、そのすぐ南にある「西池田・東池田・南池田」という地名が残るあたりを、磐余池の有力候補とします。

 次に、古市氏は、「厩戸」については太子が設置した王宮の名に基づくとし、それを厩坂宮と見たうえで、「ウマヤト」の「ト」と「サカ」は同義として通用することを指摘しています。これに対して、渡里氏は、「ト」と「サカ」の語義の違いを強調し、「厩戸」は「厩」そのものを表記していたと考えられるとします。

 そして、斑鳩近辺は馬の飼育の盛んな土地であったことに注目し、馬や外交と関係深い平群郡額田氏こそが、太子を養育した氏族ではなかったかと推測します。額田部皇女である推古天皇が太子を重用したのも、推古自身が額田部氏に養育されたことと関係があると見るのです。

 渡里氏は、この推測を補強する証拠として、早川万年氏の研究も参考にし、太子に与えられた壬生部の郷と額田部の郷が隣接している場合があることに注目します。額田部氏の所領が、やがて推古天皇(皇后)の私部に編成変えされたように、太子の壬生部に変えられていった可能性を指摘するのです。

 そうした立場の結果、当然ながら、「大安寺縁起」には問題があるとしつつも、額田氏の寺である額安寺と若草伽藍から出土した瓦の共通性から見ても、額安寺と太子の関係は認めてよいとします。
 
 以上のように、渡里氏は、後世の付会を認めつつも、太子関連の記述については実録に基づく部分があると見て、当時の史実を明らかにしようと試みています。

 私も、斑鳩の地の周辺はに牧場が多かったこと、太子には馬に関連する伝承の多いこと、太子の娘に馬屋古女王(馬屋女王)がいたとされていることから考えて、太子が馬の飼育に関する氏族と関係が深かったことは事実であり、それに様々な伝承が付会されていった結果、『日本書紀』の記述が出来上がったものと考えています。このことは、以前も少し述べました(→こちら)。

 というより、こうした付会は、生前からなされ始めていても不思議ではないと考えているのです。古代の文献を読めば、地名その他は由来伝承抜きにはありえないものであり、また伝承は時代とともに書き換えられていくことが知られます。伝承風だから事実でないと見るのは、現代人の見方にすぎません。

 太子について考えるには、古代の人々の発想法を明らかにしつつ、資料を丁寧に見てゆかねばならないでしょう。