聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(2)

2024年01月12日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 続きです。大山誠一氏の講演CDの2枚目では、飛鳥時代の本当の状況について語るに当たって、「歴史学というのはですね、信頼できる資料がないと始まらないんですね」と述べ、信頼できるのは『隋書』だと述べます。

 その『隋書』が信用できる理由として、裴世清がやって来て「倭王と何度も会ってるんですよ」と言うのですが、『隋書』では、裴世清が倭王と会話したという記録はあるものの、何度も会ったとは書かれていません。「何度も会って情報を得ていたと思われます」などと言うべきところを、横で見ていたように「何度も会ってるんですよ」と述べるのです。大山氏お得意の資料捏造です。

 大山氏は、その倭王とは飛鳥の最有力者であった蘇我馬子のことだと説くのですが、馬子の墓誌などは出ていないため、馬子に関する古い資料は『日本書紀』しかありません。つまり、大山氏は、推古が天皇であって聖徳太子が皇太子として活躍したと書く『日本書紀』は信頼できないとしておりながら、『日本書紀』が飛鳥における馬子の権勢について記している部分は信用するのです。

 『日本書紀』は蝦夷と入鹿、とりわけ入鹿のことを皇室をないがしろにする悪逆の者になっていったように描こうとしていますが、推古天皇の叔父である馬子については、「大臣は……武略が有り、弁才も有った。三宝を敬い……」と賞賛し、飛鳥川のほとりの邸宅中に池を作って小さな嶋を中に築いたため、「時の人は、嶋大臣と称した」と述べており、馬子が天皇だったことを嫌って隠そうとしているようには見えないんですけどね。

 また、『隋書』倭国伝では、倭王には妻がいたとし、後宮には女が六七百人いたと書いてあるとして、女性の推古天皇が倭王だったはずはないと述べ、『日本書紀』の記述はあやしいと説きます。

 『隋書』の記述が信頼できるのなら、後宮に女が六七百人いたという記述も事実ということになりますが、大山氏は、「話半分だとしてもたいしたものですね」として、その倭王とは石舞台に葬られた蘇我馬子だと述べます。

 これだと、『隋書』の記述は史実そのものでなく、「話半分」と受け止めなければならない大げさな書き方をしているとことになりますが、大山氏はそれには触れず、蘇我氏がいかに強大であったかを述べていきます。

 しかし、六七百人の半分もの女がいる広い後宮があったなら、その前に置かれた本来の宮(大殿)はそれとバランスがとれる程度には大きかったはずです。しかし、そんな巨大な宮の遺跡は飛鳥や斑鳩では発見されていません。

 唐代の白楽天の「長恨歌」は、各地から美女を献上させた玄宗当時の宮殿を想定し、「後宮の佳麗、三千人」と中国流の表現で詠っていますが、そもそも、古代日本の宮殿に「後宮」なるものが存在したのか。それらしい遺構は発見されていません。

 『隋書』には信頼できる部分と、異国の状況を中国風に受け止めて大げさに書いている部分があることを認めるべきでしょう。実際、そのことは、大山氏が編纂し、この講演録音の3年前に刊行された雑誌の聖徳太子特集に寄稿した榎本淳一氏が注意していたことでした(こちら)。

 大山氏は、文献をそのように慎重に扱うことをせず、自説に合わない部分は後世の捏造だとし、自説に都合の良い箇所だけ無批判に使うのです。

 馬子の権勢を強調する大山氏は、飛鳥寺については「蘇我馬子の氏寺なんです」と述べます。しかし、飛鳥寺が単なる氏寺ではないことは、天武9年(680)に諸寺院の食封を制限した際、飛鳥寺は天皇勅願の寺でないにもかかわらず国の大寺の一つとして尊重されてきたという理由で「官治」扱いにしたと、『日本書紀』が述べている通りです。

 飛鳥寺が建てられた頃は、官司制を整備しようとし始める時期であって、国家の様々な職務のほとんどは特定の氏族が担当していた時代ですので、外来の仏教は多くの渡来氏族を配下に置いていた蘇我氏が担当し、国家のための寺も建てたと見るのが学界の通説です。つまり、飛鳥寺が建てられたのは過渡期なのであって、いわゆる「氏寺」が建立されていくのはもう少し後になってからなのです。
 
 大山氏は、巨大な見瀬丸山古墳は蘇我稻目の墓らしいとし、石舞台の側の島庄に馬子の邸宅があり、甘樫の岡に馬子の子である蝦夷とその子の入鹿が住む邸宅があったと述べ、飛鳥の主人公は蘇我氏だったとして、馬子が大王だったと論じます。

 これは私の好きな作家である坂口安吾が、飛鳥の主人公は蘇我氏であって、蝦夷か入鹿が天皇だったろうと述べた説(こちら)をさらに前に持って来たものですね。

 大山氏は、稻目の墓である見瀬丸山古墳を起点として北に直進する下ツ道が建設され、それと直交する横大路も建設されたとし、蘇我氏の強大さを説くのですが、それ以前に建設され、飛鳥から斑鳩まで斜め一直線に伸びていた太子道には触れません。自説に都合が悪いことには触れないというやり方の一例です。見瀬丸山古墳(現在は五条野丸山古墳という呼び方が定着)については、欽明天皇の墓とする説も有力です。

 そして、飛鳥に墓が集中している蘇我氏と違い、推古天皇やその兄弟である用明天皇、そして聖徳太子の墓は飛鳥にはなく、磯長にかたまっていると指摘し、この地域は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からず、聖徳太子の墓にしても、ある時期に聖徳太子の墓と定められたと説きます。

 これも事実と違います。聖徳太子の墓については平安後期には場所が分からなくなっていたとする史料がありますが、その史料はかなりの誇張ないし潤色があることが判明していますし、この磯長の地を自分と関係深い皇族の墓域としたのは推古天皇であって、夫の敏達天皇も兄弟の用明天皇もこの地に築陵されており、これも妹である推古天皇の指図でしょう。

 用明の子で推古の甥かつ娘婿であった聖徳太子の墓がこの地にあって不思議はないのであって、『日本書紀』も『法王帝説』も墓は「磯長(志奈我)」の地だとしており、10世紀初めの『延喜式』諸陵寮でも、推古天皇の皇太子で聖徳という名の皇子の墓が磯長にあって兆域は東西三町、南北二町とし、墓を守る守戸が三烟、指定されています。

 いずれにしても、磯長は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からない、という状況ではありません。誰が埋葬されているのか分からない墓が多いのは、欽明天皇、天武・持統天皇・文武天皇などの陵が築かれた檜隈の地です。ここには岩屋山古墳、牽牛子塚、高松塚、マルコ山古墳、キトラ古墳、束明神古墳、中尾山古墳など、埋葬者不明の7世紀の古墳が集中しています。

 大山氏は最後に、『日本書紀』はなぜ聖徳太子を創作したか、また、後に法隆寺がどのように別のイメージの聖徳太子を作りだしたかについて述べていくに当たって、大化の改新がいかに大きな変革であったかを強調します。そして、蝦夷・入鹿が渡来人を活用して進めていた改革を、中大兄と中臣(藤原)鎌足がのっとったのだと説くのです。

 そのことを隠すために、中大兄と鎌足の子孫であって『日本書紀』を編纂した藤原不比等と長屋王が、蘇我氏以外の立派な人物、つまり聖徳太子や山背大兄王が改革を進めていたのを蘇我氏が邪魔し、山背大兄を殺したとして、蘇我氏を悪者に仕立てたのだと述べます。
 
 しかし、『日本書紀』では山背大兄が改革を進めていたことは全く記されていません。最後は民のことを思って戦わずして死んだと賞賛されていますが、それ以前の部分では、天皇になりたくて騒いだ未熟な人物として描かれています。

 一方、大臣の蝦夷は、そうした山背大兄ではなく、中大兄の父である田村皇子(舒明天皇)を皇位につけようとし、ひどく苦労したことが詳しく描かれているのです。時期は不明ですが、舒明天皇は蘇我馬子の娘である法堤郎女を妃として古人皇子を設けており、入鹿はこの古人を皇位につかせようとして山背大兄を殺害したとされています。これが、蘇我氏が立派な山背大兄の改革を邪魔したことになるんですか?

 そもそも、不比等が律令制作に関わっていたことは記録にありますが、不比等と長屋王が『日本書紀』編纂に関わったとする史料はありません。「~と考えられる」とか「~の可能性もある」と言うべきところを、氏は横で見ていたように「編纂しました」と述べるのです。

 それに、『<聖徳太子>の誕生』を書いた1999年頃は、大山氏は、不比等と長屋王と道慈が協同し、律令制における理想の天皇像を示すために、不比等が儒教面、長屋王が道教面、道慈が仏教面を担当して儒教・道教・仏教の聖人である<聖徳太子>を作り出し、唐に長く留学していた博学な道慈が『日本書紀』中の太子関連の記事を執筆したと述べていました。

 しかし、こうした主張については、皇太子のままで死んだ人がなぜ理想の天皇像となるのかとか、「憲法十七条」を含め、『日本書紀』の太子関連記述は初歩的な誤りを含む和習だらけであり、唐で16年も学んだ道慈が書いたはずがない、その他いろいろな批判を受けたせいか、2011年のこの講演CDでは、上記のような基軸となる主張はきれいさっぱり消えてしまっています。
 
 大山氏は、最後に、「真実は本当は苦いものかもしれない。私はそれを隠さず明らかにしたわけであります」と自信たっぷりに述べていますが、文献に書いてないことを史実であるかのように語り、自説に都合の悪いことには知らん顔をするのが大山氏のやり方であることは歴然としています。

 こうしたやり口が徐々に知られるようになったうえ、根拠に基づく批判がいろいろなされたため、自分の主張をこっそり訂正しているにもかかわらず、「私の説には反論がない」「私の説は学界に定着した」などと豪語し続けた結果、賛同する論文どころか、言及して批判する論文さえこの10年ほどは出なくなり、学界ではまったく相手にされなくなったということこそが、大山氏が直視すべき「苦い真実」ではないでしょうか。

 なお、平安時代には聖徳太子の墓が分からなくなっていたとする『諸寺縁起集』の記述が信頼できないことは、大山氏のこの講演の前から指摘されていましたし、聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳から持ち出されたと推定される夾紵棺の破片は、当時としてはきわだって豪華で精緻な作りになっていたことが報告されています(こちら)。太子の墓に関する研究状況は、近いうちに紹介します。

【追記】
聖徳太子の墓に関する部分や大山説批判に関する記述を一部改め、末尾で補足説明を加えておきました。

【追記:2024年1月14日】
太子の磯長の墓に関する文献について補足しておきました。

【追記:2024年1月16日】
蘇我氏が中大兄の父であって蘇我馬子の娘を妃とした舒明天皇やその間に生まれた皇子をいかに応援していたかが分かるように、蝦夷と入鹿の行動に関する記述を付け加えました。山背大兄は蘇我氏の血を引いてますが、蘇我氏の女性を妃としておらず、異母妹、つまり父である聖徳太子の娘を妃としており、上宮王家内で婚姻が完結していました。豪族の娘など、他にも妻はいたでしょうが。

【追記:2024年1月25日】
磯長の墓に関する記述を訂正しました。推古陵について、最愛の息子である竹田皇子の墓に合葬するよう命じたと書きましたが、『古事記』ではその墓は大野岡にあり、後に磯長に改装したとあって現代でも異説もあるため、この地の古墳に関する論文を紹介する別記事で説明します。


「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(1)

2024年01月08日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 「<聖徳太子>はいなかった」という大山説が学界でまったく相手にされなくなって10年以上たちますが、面白いものを入手しました。

大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』
(CD2枚組:アートデイズ、2011年)

 こんな講演CDが出ていたとは知りませんでした。聞いてみたら、聖徳太子に関する資料は後代に捏造されたものばかりだが、学問というのは「真実を追求するもの」であるため、「嘘を積み重ねてもですね、学問にはならないのですよ」と言いながら、嘘をいくつも語っていました。

 ある文献を610年頃と見るか、630年頃と見るか、650年頃と見るかというのは意見の違いであって、いろいろな説がありえます。ただ、一人だけ720年頃と主張する人がいたら、かなり強引な説ということになりますが、まったくあり得ないわけではありません。

 しかし、文献に書いてないこと、それも学界の常識と異なることを「この文献は~と述べてます」などと語ったら、それは説の違いではないですし、自分の説の証拠として語っていたなら、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、この講演の冒頭で例によって「本名は厩戸王(うまやどおう)」だと断言しています。『日本書紀』にも『古事記』にも『上宮聖徳法王帝説』にも見えず、戦後に小倉豊文がそう推測したものの論証できなかった名であることは、これまで論文やこのブログで何度も書いてきたことです(こちらや、こちら)。大山氏はどうしてそれが本名だと断定できるのか。

 大山氏は、聖徳太子に関する伝承は、斑鳩に宮と寺を建てたこと以外はすべてあやしいと述べ、「宮殿と言っても、要するにそういう邸宅を作ってですね、そして近くにお寺を作る、まあそういう人物は厩戸以外にもたくさんいたわけであります」と説きますが、これは事実と異なります。

 宮と呼ばれるような邸宅と平行して寺を建てた最初の人物は聖徳太子です。蘇我馬子にしても、島庄の邸宅と飛鳥寺は離れていました。斑鳩寺の造営が始まった後、飛鳥周辺で蘇我氏の一族や蘇我氏に近い渡来系氏族が次々に寺を建てていきますが、自分の邸宅の側に壮大な寺を建てたことが明らかな人物は、太子以後は舒明天皇のみであって、それ以前の時期には知られていません。

 そもそも、宮殿すら掘立柱式であった推古朝において、版築で地固めして礎石の上に太い柱を立て、屋根を重い瓦で葺いた壮麗な寺は、馬子の飛鳥寺→馬子が姪である推古天皇のためにその宮を改めて建てた豊浦寺→馬子の娘婿である聖徳太子の斑鳩寺、の順序で建立されたのであって、寺を建てるというのは、百済から招請した技術者たちによって初めて可能になった大事業でした。

 自分の邸宅の一部を改装して小型の仏像を置いたり、小さな仏堂を建てたりするのとは規模が違うのです。つまり、「たくさんいたわけです」というのは、聖徳太子を勢力の無い人物に見せようとして述べた嘘です。

 次に、「憲法十七条」について大山氏は、「立派な文章であります」と評価し、中国の古典を切り貼りして「それなりに高度な文章となっております」と述べ、当時、そんな文章を書けたはずがないと論じます。

 しかし、この録音がなされた2年前には、「憲法十七条」は和習だらけで、初歩的な間違いが多いことを論証した森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)が刊行され、話題になっていました。

 それどころか森さんは、この本が出る前から「十七条憲法の倭習」(『同志社大学考古学シリーズⅣ 考古学と技術』、1988年)などで「憲法十七条」の和習を指摘し、『日本書紀』の他の部分の和習と共通する点から見て後代の作としていました。

 大山氏は、森さんのこうした主張を初めは自説の味方として歓迎し、学会の際に森さんのところに挨拶に行ったことすらあるものの、森さんが大山説を妄想だと批判すると、一転して無視したり批判したりするようになったのです。

 これに続くのが、津田左右吉説に関するデタラメ発言です。大山氏は、津田が「憲法十七条」を疑ったことを紹介する際、「編者が聖徳太子の名を借りてですね、奈良時代の役人に訓戒を与える、お前たちもこれを読め」ということで書いたもので、「『日本書紀』は奈良時代の初めの720年に成立したものですから、ちょうどその頃に作られたものである」と津田は論じた、と述べています。

 しかし、津田は、律令や歴史書を企てつつあった頃に政府の誰かが儒臣に命じて作らせたと述べただけであって、これは学界では天武・持統朝頃と受け止められており、大山氏のように、奈良時代になって『日本書紀』編集の最終段階で編者が作ったなどとする人は一人もいません(大山氏が津田説をいろいろ歪曲していることについては、こちら)。

 もっとひどいのは、「天寿国繍帳銘」に関して述べた部分です。大山氏は、橘大郎女が聖徳太子に向かって、「『あなたは死んでどこへ行くの』と聞いたもんですから、『いや、死んでから天寿国に行くんだよ。心配いらないよ』とか言ったらしいですね」と述べ、そこで大郎女は祖母の推古天皇に頼んで繍帳を作ってもらったということになっているが、この時期にはまだ制定されていない「天皇」という称号が銘文に出ているのはおかしいなどと述べ、これも後代の作とします。

 しかし、良く知られているように、「天寿国繍帳銘」では、

わが大王の告げたまいしく、「世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり」と。その法を玩味するに、わが大王は天寿国の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。

と記されているだけです。太子が「世間虚仮、唯仏是真」とおっしゃっていた言葉から考えて、天寿国に生まれたに違いないと橘大郎女が考えた、とあるのみであって、太子が「私は天寿国に生まれる」などと述べたとは書かれていません。

 大山氏は、どうせ後代の偽作なのだからと思ってか、当時の史料をまともに読んでおらず、古代史小説みたいな調子で想像を述べたてるのです。ここまで来ると資料の捏造であって、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、「天寿国繍帳」を作らせたという橘大郎女は、兄弟たちに次々に病死された光明皇后が、聖徳太子にすがり、情念によって作り出した架空の人物だなどと、まさに古代史小説のような説を主張しており、こうしたやり方を研究と称しているのです。

 三経義疏については、敦煌文書の権威であった藤枝晃先生たちのチームが、『勝鬘経』の注釈類を調査していて『勝鬘経義疏』と7割ほど一致する写本を発見したため、藤枝先生は『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の注釈を遣隋使が持ってきたものだと論じました。中身を読んでいる仏教学者たちは反対したのですが、井上光貞先生などを除いては仏教にうとい人が多い古代史学界ではこれが通説となりました。

 藤枝説は誤りであって、『勝鬘経義疏』は「憲法十七条」や 『法華義疏』『維摩経義疏』と同様に変格語法が目立ち、中国人の作ではありえないことは、私が早くから指摘しており、このブログでも何度も説明しています。最近は、韓国の変格漢文ととも異なっており、『源氏物語』のように文が長いため、接続詞が発達していなかった日本の作だと論じるようになりました(こちら)。

 それはともかく、重要なのは、藤枝先生たちは、敦煌文献中の「奈93」という写本が『勝鬘経義疏』と7割ほど一致すると指摘し、その元となった詳しい注釈があったらしいと述べているだけであるのに、大山氏は藤枝説を紹介する際、「三経義疏とそっくりなものが敦煌にいっぱいあるんですね」と話を大げさにし、事実でないことを述べていることです。嘘八百とはこのことですね。

 大山氏の嘘はまだまだ続きます。『日本書紀』では法隆寺系の資料が用いられていないことを紹介した部分では、『日本書紀』では670年に斑鳩寺が全焼したとしているのに対して、法隆寺の側は「火災の記録なんてまったく無いと主張してるんですね」と述べます。

 実際には、四天王寺系の資料を用いた『日本書紀』では斑鳩寺の創建が記されず、670年に全焼したことが書かれており、一方、奈良時代に法隆寺の建物や仏像などについて記録した『法隆寺伽藍并流記資材帳』などでは火災に触れていないというだけのことです。

 法隆寺が「いや、火災には遭っていない」などと主張した文献はありません。そうした主張がなされたのは、明治以後の法隆寺再建・非再建論争でのことであって、法隆寺ではなく、学者たちの議論です。

 CDの1枚目のうち、目立つ部分だけとりあげてもこんな調子です。どう解釈するかということで意見が分かれるというレベルの問題でなく、事実でないことを、自説に都合良く語っているのです。大山説が学界で相手にされなくなったのは当然でしょう。やれやれ。

【追記:2024年1月9日】
三経義疏の和習の説明のところなどを少し追加しました。

【追記:2024年1月15日】
敦煌における『勝鬘経』の注釈について、少しだけ補足しました。


それでも実在したのは厩戸王だ?:宗教と化した大山誠一氏の最近の論説

2021年04月16日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 宗教裁判で地動説を捨てるよう命じられた後、ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話は有名です。現在では、この話は後になってからの弟子の創作らしいとされていますが、ガリレオの主張は科学的観察に基づく正しい説であったため、この話は長く共感を呼んできました。

 一方、科学的成果を認めず、何と言われようと誤った信念を保持し続けた人たちもいます。たとえば、江戸から明治初期にかけては、西洋の近代天文学を受け入れず、仏教的な世界観に基づいて独自の観察をし、我々が住むこの世界の回りを大陽や月が回っているのだと主張し続けた僧たちがいました。

 それによく似ているのが、「厩戸王」は戦後になって仮に想定された名であって古代の文献には見えないこと、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線で結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであった事実が発掘でわかったこと、現在の法隆寺の前身である斑鳩寺は彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったこと、その他の新しい研究成果を認めず、「いや、実在したのはぱっとしない厩戸王であって、聖徳太子はいなかった」と主張し続けているのが、

大山誠一「聖徳太子は実在しなかった」
(『現代の理論』2021年冬号、2021年1月)

です。

 この論述によれば、「『書紀』編纂の目的は、神話により皇室を永久不変の神の子孫とすること、さらに、不都合となった蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ、これを不比等の父中臣鎌足が討ち果たすというストーリーを作り、以後の藤原氏の権力を正当化しようとしたことであった」そうです。

 そのため、斑鳩に宮と寺を立てた程度で国政に関わるような立場になかった厩戸王をモデルにし、藤原不比等が理想的な聖徳太子を造型させたということらしいですが、では、その聖徳太子が自ら作成したとされる「憲法十七条」が、「天皇」という言葉を用いず、仏教尊重を説くばかりで「神」にまったく触れないのはなぜなんでしょう? 

 私が不比等なら、「憲法十七条」では、天皇は天照大神の子孫であって日本統治を命じられている絶対的存在であり、忠誠を尽くすべきことを冒頭で強調させますね。また、「蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ」とありますが、『日本書紀』では太子の義父である蘇我馬子は賞賛されていますよ。そんな事実は隠し、「太子は若かったにもかかわらず、豪族馬子の横暴をおしとどめ」などとすれば良かったんじゃないですか?

 それに、不比等が儒教、長屋王が道教、道慈が仏教面を担当し、実際の執筆は唐で長らく学んだ道慈が任され、三教に通じた聖人としての厩戸皇子の記述を書いたという説は、どこに行ったんでしょう? 『日本書紀』の太子関連の記述は和習だらけなので唐に16年いた道慈が書くはずがないと批判され、道教好きでなく熱烈な仏教信者であったと指摘された長屋王は、今回の文章ではまったく特筆されないんですが、二人は『日本書紀』の最終改作メンバーから外されたんでしょうか。

 「天寿国繍帳」は、文武朝(697年即位)で使われた儀鳳暦を用いていることが「最近……証明された」ので偽作だそうです。しかし、その論文は20年も前に発表された金沢英之氏のものであって、証明されたとは言えないとする反論が出ていますし、私も少し前にそれを補強しました(こちら)。大山氏のまわりでは、聖徳太子虚構説を発表した当時のまま時間がとまっているのか、以後の新しい研究、とりわけ自説に都合が悪い研究は見事に無視されてますね。

 大山氏は、百済弥勒寺から出土した639年の「金製舎利奉安記」の文章と『維摩経義疏』の類似が注目されるようになった結果、三経義疏は「百済製あるいは白村江以後の亡命百済人の関与を指摘する見方が有力となっている」と説くのですが、そうした見方の論文が次々に発表されて定説になりつつあるといった事実は全くありません。そのような見方が有力なのは、大山氏の周辺の数人だけではないでしょうか。あるいは、論文を書かないそうした仲間内の人たちのことを「学界」と呼ぶのか。

 白村江以後なら、645年に帰朝した玄奘の新訳経典が大論争を引き起こし、新しい訳語が急激に広まりつつあった時期ですので、そのような唐代仏教が盛んな頃になって、150年以上前になる6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を種本とする古くさい注釈を書くのは、解釈面でも用語面でも困難です。上記のようなことが言えるのは、大山氏が虚構説発表当時も今も三経義疏を読んでいないためですね。

 大山氏の師であった井上光貞先生は、日本史学者でありながら仏教学にかなり通じていて仏教学者からも評価されており、三経義疏については中国の注釈と比較しながら綿密に読んでいました。その井上先生は、三経義疏は高句麗や百済の僧など太子周辺の学団の作という説であって、白村江以後などという珍説は述べていません(学団の作にしては、三経義疏には「私の考えは少し違う」「私が思うに……」といった記述が多いことなどは、こちら)。

 なお、津田左右吉が「憲法十七条」を疑ったことは事実ですが、大山氏は、津田は「奈良時代のものであると指摘した」などと述べており、相変わらず自説に都合が良いように事実と異なる紹介のし方をしていますね。津田は曖昧な表現をとっていますが、おおむね天武朝あたりを想定しており、奈良時代の成立などと書いたことはありません(こちら)。

 ということで、聖徳太子虚構説は新しい仮説であった段階を過ぎ、どんな事実をつきつけられても変わらない宗教的な信念となった、というのが現状のようです。「それでも、実在したのは厩戸王だ!」か……。

推古紀後半における皇太子記事の謎の空白:井上満郎「渡来人と聖徳太子」

2021年01月22日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一氏は、元旦に掲載されたインタビュー(こちら)では、自説に対する批判は多かったが、学問的な批判で納得できるものは無い、と相変わらず断言していましたね。実際には、説得力のある批判はこれまでに数多く発表されてきました。その一つが、渡来系氏族の研究や京都史の研究で知られる井上満郎氏が書いた次の論文です。

井上満郎「渡来人と聖徳太子-太子「否定」論の一端に触れて-」
(『日文研叢書 共同研究報告』N0.87、2008年12月、こちら

 井上氏は、国民の間には聖徳太子信仰が染みこんでいるという大山氏の主張を認めるものの、聖徳太子の実在を疑って否定する者だけが正常な精神の持ち主であって、そうでないのはすべて「マインドコントロール」のせいだといった言い方は「学問研究の立場を逸脱していると思われる」(450頁)と述べています。

 その井上氏が問題にするのが、『日本書紀』の推古紀における皇太子記事の空白です。『日本書紀』では聖徳太子の様々な呼称を示しており、敏達紀では「東宮聖徳」、用明紀では「厩戸皇子(注で、豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王・法主王)」などの名で呼んでいます。しかし、推古紀では、元年の記事で「聖智」を持つ「厩戸豊聡耳皇子」を「皇太子」としたと述べ、その超人ぶりを絶讃して「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称を紹介したのちは、呼称を律令制における正式名称である「皇太子」に統一してその政治的な活動を強調しているにもかかわらず、ある時期から「皇太子」が登場しなくなるのです。推古紀のこの前後の記事はこうなります。

推古9年:「皇太子」、斑鳩に宮室を建てる
推古11年:「皇太子……皇太子……皇太子、天皇に請うて……」
推古12年:「皇太子」が自ら「憲法十七条」を作る。
推古13年:天皇、「皇太子・大臣及諸王・諸臣」に命じて誓願させ、銅と刺繍の仏像を造らせる(こうした誓願の意義を論じた私の論文は、こちら)。
推古14年:天皇、「皇太子」に『勝鬘経』を講義させる。
推古15年:(天皇)神祇尊重を宣言し、「皇太子・大臣」に百寮を率いて神祇を祀らせる。
……
推古21年:「皇太子」、片岡に遊行して「聖」である飢者に出会う。太子も「聖」と評される。
……
推古28年:「皇太子・嶋大臣」が共に議して天皇記・国記などを録す。
推古29年:「厩戸豊聡耳皇子命」薨ず。「上宮太子」を磯長陵に葬る。高句麗に帰国していた慧慈、「上宮皇太子」が崩じたと聞いて悲しみ、「皇太子」のために法会をもよおし、「聖」である「上宮豊聡耳皇子」の薨去を歎き、「太子」が亡くなった以上、生きていても仕方ない、「上宮太子」に浄土で会いたいと願い、翌年の同日に没したため、世間の人は「上宮太子も慧慈も聖だった」と評す。

 つまり、推古21年に太子の神格化が進んだ片岡山飢人の記事がはさみこまれていることを除けば、推古15年から没年前の推古28年までの間は、「皇太子」がまったく登場しないのです。井上氏は触れていませんが、推古15年の記事は編纂時の挿入を疑う研究者もいる記事です。
 
 井上氏は、この長い空白の期間には、遣隋使派遣、隋の使節の来日、国書紛失事件、再度の遣隋使派遣、蘇我系の堅塩媛を「皇太夫人」と認定しての改葬その他、重大な国家的事業がいくつもあったにもかかわらず、皇太子の政治的活動が記されないのは不思議とします。

 氏は、太子を顕彰する『聖徳太子伝暦』などでは、この空白期間のすべての年に太子のすばらしい事績をかかげ、「神格化」していることに注意します。『日本書紀』における聖徳太子像が「捏造」だとしたら、この期間にも『聖徳太子伝暦』のように太子関連記事を設定したはずだと説くのです。そして、そうなっていないのは、「太子が実質的に政治から退くか、あるいは排除されていたことを物語るものと考えてよいように思われる」と述べ、この部分をしめくくっています。

 これは検討すべき指摘ですね。『聖徳太子伝暦』はどの年についても強引なやり方で賞賛記事をでっちあげて記しているのに対し、『日本書紀』は、井上氏のように思う人が出てきても仕方ない不自然な書き方になっているのです。

 このあと、井上氏は蘇我氏の渡来人活用について述べ、聖徳太子と太子に仕えた新羅系渡来氏族である秦河勝の関係を論じた後、有力な天皇候補とされた山背大兄も秦氏と密接な関係があったことに注意します。聖徳太子が「取るに足りない一皇族」であれば、その息子であって天皇の三世である山背大兄が有力な天皇候補者とされて攻撃されるはずがなく、また山背大兄が秦氏の支配する深草や東国の壬生部を勢力圏としていたのは、聖徳太子を継承していた証拠とするのです。壬生(乳)部は王位継承候補者の皇子に生活の基盤として与えられたものですからね。

 確かに、皇太子記事の空白は不自然です。推古元年の記事に「万機を以て悉に委ぬ」とあるように、太子が天皇のなすべきことをすべて代行したのだという建前に立ち、一つ一つの事業に「皇太子が天皇に申し出て~」などとわざわざ書かなかっただけかもしれません。実際、そうした解釈をする研究者もいますが、それにしては、「皇太子が~」という点を強調する推古元年から推古15年までの書き方と、以後の書き方の違いは大きすぎるでしょう。

 少なくとも、この空白時期について『日本書紀』が「皇太子」の役割を強調していないことは確かです。また、推古29年の薨去記事は『日本書紀』では異例なほど詳細なのに、呼称の不統一さが目立ちます。「厩戸」という語は見えるものの、「厩戸豊聡耳皇子命」とあって「うまやとのとよとみみのみこのみこと」という特別な尊称のされ方をしており、この「~命」という尊んだ呼び方は、『日本書紀』以前に作成された『古事記』に「上宮之厩戸豊聡耳命」という尊称で見えているのと同じです。

 薨去記事では「皇太子」とだけ呼んだ箇所は一例見えるものの、他では「上宮皇太子」と称したり、「上宮太子」と言ったり、単に「太子」と呼んだりしており、まったく不統一です。民間では「上宮太子」と呼んでいたのだという解釈もあるかもしれませんが、「上宮太子を磯長陵に葬る」というのは公式記事の扱いですよ。これは、『日本書紀』の太子関連記述は、様々な系統の既存の史料を切り貼りして潤色しているのであって、この没年の部分だけ潤色が不十分であったことを示すように思われます。

 となると、『日本書紀』の最終編纂段階で単なる一王族をモデルとし、律令制における理想的な天皇像を示すために聖人としての<聖徳太子>を捏造したとされる人たちは、推古紀では呼称を「皇太子」に統一して「皇太子」の役割を強調したものの、推古15年まで作業してきて面倒になったのでその作業をやめ、最後の推古29年のところは複数の系統の既存史料をそのまま貼り込み、呼称の統一もきちんとやらなかったのでしょうか。その場合、厩戸皇子を「上宮太子」と呼ぶような系統(おそらく寺院系)の史料は、『日本書紀』成立以前から、「太子」を聖人扱いしていたことになりますが……。

【付記:2021年1月23日】
 上では、推古紀前半が「皇太子」という点をいかに強調していたかに触れましたが、このことについては、遠山美都男『聖徳太子の謎』(宝島社、2013年)が、『日本書紀』では「聖徳太子は律令国家の皇太子の理想像」(40頁)として描いているのであって、大山氏が言うように律令制における理想的な天皇像を示すためではないとしている通りです。大山氏が自説に対する学問的な反論はないとしつつ、こうした指摘を受けて微妙に説を変化させていることを、元旦の新聞インタビューを扱った記事に付記しておきました(こちら)。

大山誠一氏の「学問的反論無し」主張は「私は漢文が読めません」宣言に等しい

2021年01月02日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 元旦の毎日新聞に「聖徳太子1400年遠忌 虚構? 実在? 論争巻き起こすミステリアスな人物像に迫る」ということで、「おらんの? 聖徳太子!」と題する奈良版の記事が掲載されました。冒頭で大山誠一氏と私のインタビューが掲げられているのですが、電子版はいずれも有料記事であって、最初の部分だけが示されています。

大山氏のインタビューは「こちら」、私のインタビューは「こちら」です。

 大山氏によれば、ノーベル賞を受賞した学者たちは常識や教科書を疑うことから始めており、自分もそうして追求した結果、太子虚構説にたどり着いたそうです。そして、これまで書いてきたことをまとめた後、「非実在論の発表以降、多くの批判もありましたが、学問的に納得できる反論はありません。改めて、聖徳太子は架空の人物であると断言します」と述べてしめくくっています。

 先の記事で、梅原猛は、事実の間違いを指摘されても、「自分の説に対する本質的な反論になっていない」と言い張って推し通すという手法を発明したのであって、この手法の後継者が大山氏だと書いたのですが(こちら)、それを実証してくれています。まさに、「忍法、<学問的反論は無いに全集中の呼吸>」です。これまでは「学問的な反論はまったくない」でしたが、「学問的に納得できる反論はありません」に微妙に変わってますね。

 多くの反論のうち、「憲法十七条」を含めた『日本書紀』の聖徳太子関連の記述は、漢文の初歩的な誤りが目立つため、唐に16年もいた道慈が書くはずがない、という指摘は決定的ではないでしょうか。森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)では、185頁から196頁にまでわたって「憲法十七条」の語法の誤りを羅列しています。

 そのうち、第二条で「不貴是法」と書くべきところを「非貴是法」とし、第十五条で「必不同」とすべきところを「必非同」と書くなど、「不」と「非」を混同して用いているというのは、ガーシュインの名作である黒人ミュージカルの『ポーギーとベス』では、ポーギーが "Bess,you are my woman" と歌いかけるべきところを African American Vernacular Englishの語法で、 "You is my woman" と歌っているのと同じような誤りです。

 古代の韓国や日本の文献では、こうした混用や「有」と「在」の混用などがよく見られますが、大山氏が儒教・仏教・道教に通じていて博識であったと賞賛している道慈は、長安の西明寺、すなわち最先端の国際的な学問寺に16年も留学し、儀礼的な催しとはいえ、『仁王経』の講経をする100人の僧の一人に選ばれた学僧ですよ。その学僧が、「これペンにあらず」といった程度の文語文が書けず、重要な「憲法十七条」で「これペンにおらず」に近い語法の文を書いたりするでしょうか。入唐して12年滞在した円仁も、当初は日記である『入唐求法巡礼行記』の漢文に和習が目立ったものの、次第に誤りが少なくなっていったことが知られています。

 語法に限っても、こうした例は他にたくさんあるのです。大山氏が「学問的な反論はない」と宣伝し続けるのは氏の自由ですが、それは、「私は漢文を文章として読むことができないため、英語で言えば are と is を混同するのに近いほど語法がおかしいから道慈の作文ではありえないと言われても、反論になっているとは思えません。are も is も「である」ということであって意味は同じですよね。今後も単語だけ拾ってあれこれ想像していきます」と世間に向かって宣言するに等しいことなのです。

 いずれにせよ、自説の誤りを認め、道慈自身が書いたのではなく、道慈は唐の仏教の最新状況に関する情報や資料を提供した可能性が高い、などと主張を改めておれば、こんな恥ずかしいことにはならなかったでしょう。これまでの研究のように、『日本書紀』の太子関連の記述について個々の部分の信頼性を論じるのではなく、『日本書紀』全体は厩戸皇子をどのような人物として描こうとしたのかという点に着目したのは、遠山美都男氏が指摘したように大山説の有意義な点なのですが、今回のような空しい言明は、そうした意義をそこなうものでしかありません。

 なお、森博達さんは、「憲法十七条」の倭習はβ群の倭習と共通しており、推古朝の金石文の文章より新しいように見えるため、「憲法十七条」は文武朝以後と考えるとしています。これは、私が森さんの本に衝撃を受けて変格漢文の研究を始め、三経義疏は倭習だらけであることを発見して論文で詳しく説く前のことですので、改めて検討する必要がありますね。

【付記】
「不」と「非」の混同は、新羅や古代日本の文献にはしばしば見られるものであるため、英語の例を変えました。
【付記2:1月9日】
漢文の誤用の例を少し変え、円仁の日記名したほか、文章を少し訂正しました。
【付記3:1月23日】
大山氏は、インタビューでは「律令国家として歩み始めた当時の日本が仏教、儒教、道教に深い理解を示す象徴的な存在を必要としたからだ、と私は見ます」と述べていますが、かつての説では、そのような理想的な天皇像を示すために<聖徳太子>を創造したと説いていました。これに対しては、「即位していない太子をそうした存在とするのは不自然だ。むしろ理想の皇太子像を示すためではないか」という批判がなされました。大山氏によれば、これは「学問的な反論」ではないはずですが、いつの間には「理想的な天皇像」が「象徴的な存在」に変わってますね。こうした点はほかにも見受けられます。これも「忍法:学問的反論はない」の一例でしょう。学説は変わっていくものですが、これまでの自説を大きく変えた場合は、そのことに触れるべきですし、まして大山氏は「学問的な反論はない」と断言しているため、真摯な対応が求められるでしょう。

大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(3)

2011年06月28日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 さて、大山氏が今回、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)と説くようになったのは、「道慈が718年に帰国してから<聖徳太子>創作を始めたとすると、720年の『日本書紀』完成まで時間がなさすぎる」という批判に応えるため、というのが理由の一つのようです。

 その少し後の頁では、<聖徳太子>を創作した場合の『日本書紀』編纂について、「もちろん、関連する人物にも目配りをする必要があるから、複雑な編纂作業だったはずで、それには多くの人材が参加したことであろう」(68頁)と書かれているのは、その証拠であって、それまでの『日本書紀』最終編纂時創作説がいかに現実離れしていたかを示すものですが、「学問的」な批判を受けて説を変えたとは書いてないですね。

 あるいは、大山説では、『聖徳太子の真実』(2003年)所載の「『日本書紀』の構想」論文あたりから、蘇我馬子こそが大王だったのであって『日本書紀』はそれを隠蔽しているのだと主張するようになったため、その場合は系譜の調整など編纂作業がさらに複雑となって時間がかかったはずだから、という事情もあるのかもしれません。

 それはともかく、上の安万侶ブレーン説によると、『古事記』作成、とりわけ「上宮之厩戸豊聡耳命」の部分の作成を主導したのは長屋王ということになります。実際、大山氏は、厩戸王は即位していないにもかかわらず、『古事記』末尾には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあって天皇なみに「命」の敬称を付けて呼ばれているのは、「この人物を、偉大な文化人として構想すべきという長屋王側の問題提起だったのではないか」(66頁)と書いています。

 ところが、その少し前の頁では、「現在の記紀の神話は、天皇を利用しやすくするために不比等が主導して作ったものだったと言ってよい」(59頁)と書かれています。これだと、『日本書紀』だけでなく、『古事記』も不比等が主導したことになりますね。『古事記』は長屋王が安万侶に書かせたという話は、どうなるんでしょう?

 さらに、もう少し後の頁では、『日本書紀』の編纂が進む途上で、不比等は『古事記』を長屋王につきつけられ、それを考慮せざるを得ず、「そういう中で、上宮之厩戸豊聡耳命の人物像としての肉付けが進行したのではないだろうか。中心は、やはり、不比等と長屋王であったと思う」(68頁)とあります。不比等は、長屋王が安万侶に書かせた『古事記』完成版を長屋王につきつけられ、以後、長屋王と協力して『日本書紀』編纂に努めたのか、草稿をつきつけられて長屋王で協力して『古事記』を作り『日本書紀』も編纂したのか、あるいは59頁にあるように『古事記』と『日本書紀』の両方を「不比等が主導して作った」のか、一体どれなんでしょう? 

 大山氏の意図がそのいずれであるにせよ、長屋王と不比等が『古事記』作成に深く関わったことを示す具体的な史料はありませんが、それは『日本書紀』最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が<聖徳太子>を創作したとするこれまでの大山説の場合も同じです。つまり、今回は批判を考慮して説を多少変えたものの、具体的な文献に基づかずに想像だけで書くやり方は、一貫しているのです。

 そうした想像の結果、大山説は、今回の論文では、道慈の帰国以前に不比等と長屋王が中心となって<聖徳太子>像やその系譜などをある程度準備していたからこそ、道慈は短期間でそれを完成することが可能だったのだ、という主張に変わりました。<聖徳太子>は『日本書紀』最終編纂段階で一気に創作された、という批判の多かった部分は改めたものの、長屋王と不比等が創作したという点は何とかして守ろうとしたのですね。

 しかし、今回のように、長屋王と不比等が<聖徳太子>の源像を早くから準備していたなどと書くと、大山『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)で、

「道慈は、『日本書紀』編纂の最終段階で、その実質的責任者に抜擢されたのである。……もちろん、聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう。ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(124頁)

と言われるほど高く評価されていた道慈が、「自分の功績を軽視された」と名誉毀損で訴えるのではないかと心配になってしまいます。研究の進展によって説が変わるのは当然ですが、大幅に変えた際は、そのことを明記するのが研究者の義務ではないでしょうか。

 ともかく、これまでの大山説では、理想の聖人としての<聖徳太子>については、儒教面を不比等、道教面を長屋王、仏教面を道慈が担当したとし、長屋王がいかに空想的で現実感覚がなく、道教に心を寄せていたかを強調していました。ところが、今度の論文では、その長屋王がきわめて政治色の強い国家神話を説く『古事記』を太安万侶に作らせ、厩戸皇子の神格化も少しさせておいたという話になっています。

 ただ、資料に見えないことについてはこのように想像がいろいろ述べられるものの、長屋王邸跡から出土した木簡によれば、長屋王は写経所や造寺造塔のための工房を所有しており、また長屋王は「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という句を縁に刺繍した袈裟千枚を唐の僧侶たちに送ったと鑑真が語って評価したことが『唐大和上東征伝』に見えるなど、確実な資料にあって長屋王の人物像について考えるうえで重要な事柄については、大山氏は長屋王邸木簡の専門家でありながら著書・論文で触れたことがありません。

 上記のように、『古事記』については不比等が主導したとも、長屋王が主導したとも書かれていたわけですが、いずれにせよ、不比等が本当に『日本書紀』の神話作りを主導したとしたら、大山説によれば儒教担当の不比等の意向によって書かれたとされる『日本書紀』の「憲法十七条」は、なぜ神話によって天皇を権威付けようとしないのでしょう?この点は、以前、このブログで書いた通りです。
 
 大山氏は今回の論文の結論では、天皇を「宝器」として頂くのが「天皇制」というシステムであり、その「宝器」たる天皇を輝かせるためには、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分で、儒仏道の中国思想により磨き上げねばならなかった。それが<聖徳太子>だったのである」(69頁)と書いてしめくくっています。

 そうなると、不比等は、天皇制を確立するために、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分」と知りつつその作成に心血を注ぎ、模範的な「天皇」像を示そうとして、天皇でなく厩戸皇子という理想的な「皇太子」を創造し、総仕上げとして、その皇太子が自ら作ったということにして、「憲法十七条」を道慈に指示して書かせたというわけですね。「憲法十七条」は神話にまったく触れないばかりか、「天皇」という語も出てこないんですが……。それに、「憲法十七条」に見えることが早くから知られている法家的な要素については、なぜ触れないのでしょう?

 その不比等について、大山論文では、天武10年(681)に律令と歴史書の編纂が始まったと述べた箇所において、「権力の核は持統と不比等だった」(51頁)と述べており、不比等の役割を強調しています。しかし、不比等はこの時はまだ若く、律令作成や国史編纂をリードする政治力があったことを示す資料はありません。

 それにもかかわわらず、<聖徳太子>が若い頃から超人的な活躍をしたとする記事を『日本書紀』の創作として否定する大山氏は、その<聖徳太子>を作り出した政治的天才とみなす不比等については、「二○代の若輩に過ぎなかった」のに常識を越えた活躍をしていたとするのです。しかも、推定ではなく、「権力の核は持統と不比等だった」と断定しています。

 なぜそう断定できるのか? 「日本書紀の謎」よりもっと「謎」ですね。現存文献からは考えられないことを、そこまで断定して強調するのであれば、いっそエクスクラメーションマークをたくさん付けて、

「天武天皇の詔によって律令と歴史書の編纂を開始した際、『権力の核』は編纂を命じた天武天皇ではなく、持統皇后と、まだ23歳で官位も低く、天武天皇が史書作成を命じた12人のメンバーのうちに名前が見えない不比等だった!!!!!」

などと書いてほしかったところです。学界が大山説を相手にしないのは当然です。

 こうした例が示しているように、史料の扱いが厳密でなく、都合の良いところだけ恣意的に用いて想像を重ねていながら断定的に述べるのが大山氏の学風です。ですから、そうした問題点を指摘した論文であれば、「聖徳太子」と書かれた墓誌や「上宮太子」の活躍を示す木簡などが出ようが出まいが関係なく、それは大山説に対する「学問的反論」として成立し、大山説は否定されるのです。実際、そうして否定されてきたからこそ、冒頭で書いたような学界の評価となっている次第です。

 『日本書紀』は全体として聖徳太子をどのような人物として描こうとしていたか、という点に注意を向けさせ、議論を呼び起こしたのは、確かに大山氏の功績でしょう。ただ、大山氏は、自分の様々な批判が実は自分自身にも当てはまることを十分自覚しておらず、また、自分がどのような点で批判されているのかが、よく分かっておられないように見えます。

 あるいは、すべて承知したうえで、敢えてあのような資料無視の新説提示や断定的な物言いを続けておられるのでしょうか。また、『日本書紀』には「聖徳太子」という語は見えないこと、「厩戸王」は現存文献には出て来ず、本名かどうか不明であることについて、今後もまったく触れないまま、<聖徳太子>と「厩戸王」について語り続けていくのでしょうか。

 大山説については、問題提起としての役割は大きかったですし、行動力を発揮して多くの研究者を集め、共同研究を進めて学界に賛否の議論をまきおこし、聖徳太子研究を盛んにした功績は認めてよいでしょう。私自身、大山説のでたらめさに呆れ、反論するために聖徳太子研究に本格的に復帰していろいろ調べるうちに、いくつもの発見をすることができました。大山説のおかげです。

 しかし、大山説はマスコミを通じて広まっており、専門家でない人たちがこの想像説を学界の通説と信じてしまうことが懸念されます。そのため、私はこのブログを始めたのですが、今回の『日本書紀の謎と聖徳太子』で大山説がさらに想像頼りになっているのを見るにつけ、次の言葉をお贈りせずにはおれません。「聖徳太子非実在説」論争を、明治・大正・昭和の法隆寺論争のように学問的で実り豊かなものにするためには、この心構えが必要であろうと思われますので。

●「過ちて改めざる、是を過ちといふ」
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大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(2)

2011年06月28日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 序論における大山氏の諸論文紹介には、前稿で書いた点以外にも問題がいくつかあるのですが、そうした問題点は、大山氏が今回の本でもまた「私見に対する学問的反論は皆無である」(7頁)と力説していることと無関係ではないように思われます。

 前著の『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)でも、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」(4頁)とあり、「聖徳太子非実在論」に加え、「学問的反論非実在論」が説かれていました。本当にそうでしょうか。

 学界の動向をよく示すのは歴史講座ものや通史のシリーズなどでしょう。2000年刊行の講談社「日本の歴史」シリーズの第3巻、熊谷公男『大王から天皇へ』では、聖徳太子は『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が創造したとする大山氏の新説を紹介し、批判が述べられていましたが、この5~6年のうちに出たそうした書物の古代の章で、大山説について言及したものは無いように思われます。

 ごく最近の例をあげると、昨年11月刊行の岩波書店「天皇の歴史シリーズ」第1巻、大津透『神話から歴史へ』の推古朝の部分では、大山説にはまったく触れていません。また、岩波新書の古代史シリーズの第3巻として今年の4月に刊行された、吉川真司『飛鳥の都』の参考文献表では、大山誠一『古代国家と大化改新』(吉川弘文館、1988年)があげられている一方、大山氏の聖徳太子関連の本は一冊も載っていないのです。少し前に出た、吉川弘文館「戦争の日本史」シリーズの第1巻、森公章『東アジアの動乱と倭国』(2006年)でも、山川出版社「新体系日本史」シリーズの第1巻、『国家史』(2006年)でも、推古朝を扱っているにもかかわらず、参考文献にあげられている大山氏の著作は、『日本古代の外交と地方行政』(1999年)のみです。

 つまり、大山氏の古代史研究で評価されているのはその頃までなのであって、これが「聖徳太子非実在論」に対する現在の学界の評価と言って良いでしょう。学説の当否や意義と学界の評価は別ものであることは言うまでもありませんが、少なくとも、大山氏の断言とは違い、大山説が学界に定着して通説となっているという事実はありません。大山氏にとって学問的な反論が皆無に見える主な理由は、学界であまり問題にされないためであり、また直木孝次(*)・上田正昭(*)・佐伯有清(*)・山尾幸久(*)・田中嗣人(*)・森博達(*)・本間満(*)・森田悌・遠山美都男・平林章仁・曾根正人・石井公成その他の研究者によって大山説全体あるいは一部に対する批判がなされたにもかかわらず、大山氏がそうした批判を「学問的」とみなさないためです。

 大山説が発表されてしばらくの間は、上記の人々のうち*印の方々を含む賛否の論を集めた梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002年)が刊行されたり、テレビや新聞や週刊誌で取り上げられたりしましましたので、「発表して数年の間は学界内外で話題になったが、学界では次第に問題にされなくなっていった。最近では、かつて賛同していた人も、大山説に距離を置こうとする例が増えており、変わった話題が欲しいテレビ・新聞・週刊誌などがたまにとりあげる程度」というあたりが妥当なところではないでしょうか。

 推古朝に関する研究書や論文では、かつてのように「推古朝は摂政であった聖徳太子の時代」などとすることは無くなり、また「聖徳太子」という呼称は確かに減っています。しかし、古代史学界は、大山説が登場する前から厩戸皇子の事績とされるものを疑う方向に動いていたうえ、律令以前については「天皇」を「大王」、「日本」を「倭国」と書くなど、できるだけ古い表記を用いようとする傾向が強まっていました。

 だからこそ、死後になってから「聖徳太子」と称され、神格化が進んでいった人物を否定する大山説が登場した際は注目を集め、反対する研究者も多く出た一方、賛同する人、説の一部を評価して認める人、反対ながらその意気や良しとして今後の研究の進展に期待する人など、いろいろだったものの、論証の強引さが知られるようになるにつれて、次第に顧みられなくなっていった、というのが実情でしょう。

 そもそも、『日本書紀』の聖徳太子関連記述はすべて事実なのか、それとも聖徳太子は実在せず『日本書紀』がすべて創りだしたのか、という二者択一で考えること自体、おかしいのではないでしょうか。いや、そのように極度に理想化された人物が<聖徳太子>なのであって、そうでければ<聖徳太子>ではないと大山氏は見るようですが、7世紀後半に法隆寺が再建され、同時期に斑鳩で太子ゆかりと称される寺々の造営が盛んになるのは、太子敬慕の風潮の高まりを示すとする説などについては、どう考えるのでしょう。

 その段階では聖人としての理想化が十分でなく、<聖徳太子>とまでは呼べないなら、<やや聖徳太子>、<かなり聖徳太子>、<ほとんど聖徳太子>とか? そうした段階的な神格化の形成過程を跡づけていくのが歴史研究だと思うのですが、大山氏は、そのような段階的形成を考慮せず、不比等らの策謀による創作、中国の事情を知っている道慈がまとめあげた創作という点をひたすら強調し、『日本書紀』以後に行信と光明皇后によって<聖徳太子>神話化が完成されたとするのみなのです。実際には、行信や光明皇后関連の資料にも「聖徳太子」という語は見えず、「上宮聖徳法王」とか「聖徳尊霊」などとあるだけなのですが。

 大山氏は、大山説への批判は聖徳太子信仰という迷信にしがみつきたい人たちが感情的に反発しているだけだ、といった言い方をよくしており、今回の論文でも「理屈ではなく、ともかく反対だ。一○○○年を超える聖徳太子信仰の夢を覚まさないでくれということなのであろうか」(26頁)と述べています。

 しかし、大山説に反発する老齢の太子信奉者などは多いにせよ、実際に論文や著書中で大山説を批判している研究者たちについて言えば、聖徳太子を昔風に礼賛している人は少数です。多くの研究者は、程度の違いはあるにせよ、『日本書紀』その他の文献が厩戸皇子を理想化して描いていることを認め、また『日本書紀』以前から太子信仰とおぼしき風潮が見られることに注目したうえで、大山説における「史料の恣意的な用い方」「論証の不備」「美術史等の成果を無視した常識外れの断定」などの点を問題にしているのです。

 実際、今回の大山氏の序論では、「その当時の日本は、まだ未開であった。……『日本書紀』の中で聖徳太子が登場したのはこのような時代であった」(6頁)とありますが、一般読者向けの本でありながら、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が登場しないことがまたしても説明されておらず、『日本書紀』という基本史料を無視した主張になっています。

 というより、大山氏は、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が見えないことを、著書や論文の中で明記したことがこれまで全く無いのです。今回の論文では、8頁になると「 <聖徳太子>像成立」 という言葉が登場するため、読者は、『日本書紀』が創作した理想的な人物のことを大山氏は <聖徳太子> と表記するのだな、と理解できますが、それでも、そうした表記だけでは、『日本書紀』や750年頃までの史料には「聖徳太子」という呼称が見られないことを読者は知ることはできないままです。

 なぜ説明しないのでしょう? 「聖徳太子」という呼称そのものは8世紀半ばの『懐風藻』序が初見であるものの、『日本書紀』には厩戸皇子を神格化した記事が多く、「聖徳」の語と「太子」の語も見えているため、聖人としての<聖徳太子>は実質的には『日本書紀』において誕生したと見ることができる、と書けばよいだけのことではないでしょうか?

 また大山氏は、今回の論文では、「『書紀』によれば用明、推古、その夫の敏達、さらには厩戸王(聖徳太子)やその弟の来目王など、みな西の方、山を越えた河内に運ばれて葬られている」(32頁)と書いています。しかし、これまで私が何度も指摘してきたように、「厩戸王」という呼称は、小倉豊文が戦後になって本名として推定したものの論証できずに終わったものを、田村圓澄『聖徳太子』(1964年)が検証抜きで用いて世間に広まったものです。つまり、どの文献にも見えない呼び名なのですが、大山氏は今回の論文でもそのことを説明しておらず、『日本書紀』が「厩戸王」と記していて、それが本名であるように受け取れる書き方を続けています。

 なぜ説明しないのでしょう? この本(論文)では、後世の尊称である「聖徳太子」や「皇」の字が疑われる「厩戸皇子」といった呼び方を用いず、信仰の対象としての「聖徳太子」と史実としての「聖徳太子」を区別しようとした小倉豊文に従い、文献には見えないものの、小倉が本名と推定した「厩戸王」という名によって呼ぶことにする、と書けばよいだけの話です。どうしてそうしないのか。

 大山氏は、1996年3月に刊行された最初の関連論文「『聖徳太子』研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号)が刊行された際、抜刷を先輩や知人に送ったところを、その聖徳太子論を大変喜ばれた京都の上山春平先生が大山氏の研究室に電話をかけてこられ、「これからは厩戸王を肯定するものを書かなければいけないね」と言われたと、思い出を記しています(大山「聖徳太子關係史料の再検討(一)」、『聖徳太子の実像と幻像』352頁)。

 実に的確な助言と感心させられますが、大山氏はそれから15年たった今日に至るまで、その助言に応えていません。「厩戸王」が実際に本名なのかどうか、文献や発掘資料などを用いて検討することを怠ってきたか、検討しておりながらその成果を発表せずにきたか、のいずれかです。

 このように資料を尊重せず、助言や批判に耳をかたむけない大山氏が書くのですから当然ですが、本書の論文「記紀の編纂と<聖徳太子>」では、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)などと、例によって大山氏にとって状況証拠と思われたものだけに基づく想像が述べられています。

 これは、712年に献上された『古事記』末尾には、「上宮之厩戸豊聡耳命」という「相当の『神格化』がほどこされている」敬称が見えており、『日本書紀』が説く聖徳太子説話が既にかなり準備されているとする、鎌田東二「聖徳太子の現像とその信仰」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』79頁)などの指摘に応えるためでしょう。鎌田論文は、大山説の問題提起の意義を認めたうえでの指摘であり、建設的な提言でしたが、これまで大山氏はこれに応えずにきました。

 それがようやく考慮されるようになり、大山氏は、『古事記』のその記述は、実は不比等・長屋王・道慈という<聖徳太子>創作トリオのうちの一人である長屋王が書かせたのだろう、と説くようになったのです。これは、今回初めて登場した説明です。ただし、鎌田論文を考慮したなどとは書かれていません。

 1996年の最初の大山論文では、『古事記』のこの「上宮之厩戸豊聡耳命」という部分については、「まだ『聖徳』でも『太子』でもないのである」(16頁下)と述べるのみで神格化は不十分とし、一方、「『書紀』の描く聖徳太子像」(5頁下)といった言い方を何度もしていました。聖人としての聖徳太子が誕生したのは、あくまでも『日本書紀』においてのことなのだと強調していたのです。

 ただ、大山氏は、その時点では、『日本書紀』には「聖徳太子」という語そのものは登場しないこと、また行信や光明皇后関連文献にも「聖徳太子」の語は見えないことに気づかないまま、あるいは、つい忘れたまま書いているように見えます。大山氏は、そのような状態で、1996年の最初の論文を書き、ついで、その論文を収録した研究書、『長屋王家木簡と金石文』(1998年)を出版した後、次々と著書を出していっており、その中には『<聖徳太子>の誕生』(1999年)や『聖徳太子と日本人』(2001年)などのような一般向けの本も含まれていました。

 その結果、大山氏は、聖徳太子研究者、それも存在したのは「厩戸王」であって<聖徳太子>は実在せず、<聖徳太子>は『日本書紀』によって創作された架空人物にすぎないとする衝撃的な説の提唱者として有名になってしまったため、『日本書紀』に「聖徳太子」という語は見えず、また「厩戸王」という呼称には文献の裏付けがないことなどについては、誰に何と言われようと、触れないようにしてきたのではないか、というのが私の考えです。

 ただ、これはあくまでも推定にすぎません。私は、この問題を調べて『大山説の謎と聖徳太子』といった本を書く予定はありませんので、推測が間違っているなら、訂正してくださるよう大山氏にお願いしたいところです。

 なお、「厩戸王」という呼称の成立背景を明らかにしたのは、小倉豊文を高く評価していろいろ調べていた私がおそらく最初だと思います(詳細は、来年5月刊行の『近代仏教』19号掲載予定)。田村圓澄先生の本や大山説に追従し、検証しないまま「厩戸王」の語を用いるようになった史学者たちは反省してもらいたいですね。

【付記:2011年6月29日】
大山説の批判者や大山説に触れない書物などについて、少し追加しました。

大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(1)

2011年06月25日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)の冒頭をかざる序論の最初の2頁では、百済から来た僧侶や寺工たちが飛鳥寺の建立を始めた意義を強調し、仏教は「中国から朝鮮へは、思想としての伝来であったと言ってよい」が、日本の場合は「技術移転の問題だった」と述べています。

 私は、拙論「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)において、仏教公伝を原子力発電の技術供与にたとえたこともありますので、大山氏の言いたいことは分かりますが、上の発言はやや極端すぎますね。百済でも、遺跡から見る限りでは最も壮麗な建設物は王宮でなく寺院であり、現存の法隆寺より古い山田寺の回廊の調査報告が示すように、日本に技術者を送った百済が中国江南の新しい技術を熱心に取り入れていたことが知られています。

 つまり、日本やチベットほどではないにせよ、朝鮮においても仏教導入は種種の技術導入と結びついていたのです。特に、日本と同様に文化後進国であった新羅では、技術移植は切実な問題でした。古代を考える場合、現在の国境にとらわれるべきではありません。中国と言っても、仏教と儒教を取り入れた北方の遊牧民国家などは、日本や新羅と似た面を有しています。つまり、

中国1:漢族国家(たち)
中国2:非漢族国家(漢語化)・非漢族国家(漢語化せず)・交州(越南)
周辺1:高句麗・百済
周辺2:新羅・日本

といったような分類(たとえばですよ)の方が適切な場合もあるのです。

 さて、大山氏の序論では、本書に収録された諸氏の論文の趣旨と意義を説明していますが、気になる点がいくつかあります。たとえば、井上論文は、森博達『日本書紀の謎を解く』に対してつっかかるような口調で論難していますが、序論は、その井上論文の趣旨を説明するにあたり、次のように述べています。

「今回の井上氏の論考は、『書紀』の謎と解いたと自称する森説のほとんど全論点を否定したものとなっており、結果として森氏の理解が皮相にして粗雑だったということにならざるを得ないものである。しかし、そうであればこそ、われわれは、安易に「謎は解けた」などと言うことはなく、”『書紀』の謎”の大きさと深さを確かめながら、一歩一歩前進せねばならないのである」(12頁)

 しかし、大山説を「妄想」として厳しく批判した森博達「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号[2001年]。後に、梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』大和書房[2002年]に収録)を目にするまでは、大山氏は森説を高く評価し、推古紀などは山田史御方が書いたβ群であるとする森説に基づいたうえで、「憲法の撰述者に関しては、私は御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と述べていました(『東アジアと古代文化』106号。後に『聖徳太子の実像と幻像』344頁)。

 すなわち、これによれば、大山氏自身、森説が「皮相にして粗雑」であることに気づかず、「安易」に森説を採用していたことになりますが、大山氏にそういう自覚はあるのでしょうか。また、「謎は解けた」などと安易に言ってはいけないそうですが、大山氏自身は、<聖徳太子>が実在しないことは自分の説で決定ずみなので、以後は「新たな課題」に取り組みたいなどと書いたりしてこなかったでしょうか。

(*井上論文では、森説のうち上代日本語の音価推定については「未曽有の業績」(109頁)として賞賛し、区分論を発展させた功績も認める一方、誰が執筆したかその他の点については誤りだらけとして激烈にこきおろしています。しかし、大山氏の序論では、井上氏が評価している点をきちんと紹介しておらず、フェアでない書き方になっています。井上氏の主張については、井上論文を個別に取り上げる際、検討します)
 
 また、『日本書紀』の聖徳太子関連記事は倭習だらけだから唐に長年留学した道慈の筆のはずがないとする森博達さんの主張は、α群中国人作者説などに対する井上氏の批判とは無関係であって、今も大山説を根底から突き崩す強力な批判であり続けています。大山・吉田説では、唐に16年留学した道慈は儒仏道関する卓絶した学識を有していて文章に巧みだったことを再三強調していますが、そうした秀才が『日本書紀』の守屋合戦や片岡山飢人説話や太子没後の慧慈に関する記事のような倭習だらけの拙い漢文を書くか、ということです。

 儒仏道に通じていて文章に巧みな僧といえば、空海が第一でしょう。空海の入唐期間は短かったものの、その華麗な文章と『日本書紀』の太子関連記事を読み比べてみれば、空海より文才はかなり劣るにしても入唐経験の長い道慈が、ああした倭習だらけの文章を書くはずがないことが分かるはずです。

 あと、細かな点について言えば、瀬間論文の趣旨を説明したところで、百済の弥勒寺址から出土した舎利法安記について、「梁の法雲や隋の智、吉蔵らの影響を指摘し」(17頁)とあるのは問題です。瀬間さんは、法雲の影響は指摘しているものの、智と吉蔵については、江南仏教を受け継いだ百済の「舎利法安記」と共通する言い回しが見られ、吉蔵とその師の著作、智の師の著作などが参照された可能性があることを示唆しているだけです。智の影響があるとまでは明言していません。ここら辺は微妙なところであって、639年段階の百済で天台の影響が強かったとなると、これは朝鮮仏教史そのものの問題、その朝鮮仏教を移植して始まった日本仏教そのものの問題となり、三経義疏の著者についての議論に関わります。

 なお、私が強調してきた三経義疏における変則語法と江南・百済仏教の影響という点については、瀬間論文も曾根論文も重視しているところですが、瀬間論文が検討している新発見の百済の金石文の文句と三経義疏の類似について、大山氏の序論では「すでに石井公成氏の先駆的な研究もあり、『書紀』や<聖徳太子>関連の文献が、百済仏教の大きな影響をうけて成立したことが明確になってきたと言えそうである」(18頁)と書かれています。私の主張を大山氏に認めてもらったのは初めてですね。

 3年前の『アリーナ 2008』の大山論文では、三経義疏については、藤枝晃が「中国北朝の成立と考証し……中国製であることを鮮やかに証明した」(152頁)と断じていたうえ、三経義疏は「輸入品」であって行信が太子作だと宣伝した僞作にすぎない以上、そんな三経義疏については詳しく論ずるまでもないといった扱いでした。

 ところが今回は、瀬間論文や曾根論文によって「謎のかたまりのような『三経義疏』にも具体的な手がかりが得られつつあるのかもしれない」(18~19頁)と書かれており、三経義疏は「謎だらけ」ということになっています。いやあ、この変化は大きいですね。

 今後は、これまで鉄案としてきた藤枝先生の三経義疏中国撰述説から、百済撰述説に移るのでしょうか。もう一歩進んで、百済・高句麗からの渡来僧たちの作成といった方向に移ったなら、それはまさに、大山氏の師であった井上光貞先生の説となりますね。井上先生は、太子の主宰のもとでと付け加えていましたが。

 ともかく、井上先生は、三経義疏を光宅寺法雲や敦煌出土の『勝鬘経』注釈など中国の注釈と比較しながら綿密に読んでおり、御物本の複製も手元に置いて見たうえで論文を書いていましたので、私はその研究を高く評価しています。

聖徳太子と後に呼ばれる人物以外はいなかった?: 原田実『トンデモ日本史の真相』

2010年12月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

【12月5日にアップした際、宋成徳氏の論文内容について、記憶頼りで「その民話は、『竹取物語』をモデルにし云々」と書きましたが、読み直したらもっと複雑であったため書き直し、ついでに他の部分も多少修正したものを再アップします。申し訳ありません】

 聖徳太子に関しては、早い時期から様々な伝承が生まれており、現代でも「トルコ系の遊牧民族の王が渡来して聖徳太子となった」といった類のトンデモ説が次々に生み出されています。

 ついこの間も、その遊牧民族の王は正確な地球儀に基づいて日本まで至ったのであって、王が用いた地球儀が今でも法隆寺に存在するという某氏の珍説を紹介したうえで、独自の新説として、法隆寺の五重塔は実は送電塔がモデルになっているなどと、時代錯誤のトンデモ説を大真面目に並べ立てた文章が、某国立大学の紀要に論文として掲載されたほどです。師茂樹さんの読書ブログ「もろ式:読書日記」(こちら)が取り上げ(その論文はPDFで公開されており、法隆寺の構造図と送電塔の写真が並んでいるところも載ってます……)、私も冗談コメントをつけておいたところ、関連するトンデモ説を擁護する人が反論してきたので驚きました。

 そのようなトンデモ説の一つとして、大山誠一氏の聖徳太子虚構説を、バッサリ切った本が出ています。

原田実『トンデモ日本史の真相:と学会的偽史学講義』
(文芸社、2007年、1500円)

です。

 トンデモ本を探し出してそのトンデモぶりを楽しむ「と学会」の会員である原田氏は、同書では、日本史に関する様々な珍説奇説を紹介すると同時に、それがいかにデタラメかを資料に基づいて示しており、楽しく読める一般向けの本になっています。問題の地球儀については、江戸時代半ばに西洋伝来の知識に基づいて作られたものであることを論証し、江戸期に法隆寺に奉納されたものと推測しています。

 その怪しげな古代地球儀説とセットにして、原田氏がトンデモ説として紹介しているのが、大山誠一氏の聖徳太子虚構説です。原田氏は、聖徳太子なる理想的人物は実在せず、史実として確実なのは、蘇我氏系の有力な王族であって、宮殿と氏寺を持っていた厩戸王という人物がいたということだけだとする大山説を紹介した後、大山氏の次の文章を引用しています。

「読者の皆さんは、たったこれだけかと驚くかもしれないが、実のところ、7世紀初頭頃の人物について、これだけ確認できるだけでも稀有なことなのである。生年や居所でさえ確認できる人物はほとんどいないのである。」(大山『<聖徳太子>の誕生』)

 これに対して、原田氏は次のように評しています。

「この記述から見る限り、7世紀初頭の状況は「聖徳太子はいなかった」というより、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」といった方が適切に思えてくる。」(164頁下段)

 至言ですね。短い言葉による大山説批判としては、これが一番でしょう。

 大山氏は、史実として分かっているのは上記の事柄だけとしていますが、「厩戸王」という呼称は現存史料には見えず、小倉豊文が戦後になって推測・提唱したものであることは、このブログの小倉豊文コーナーその他で詳しく書いておきました。
 
 「聖徳太子」や「厩戸皇子」は、確かに七世紀初め頃の表記ではないでしょうが、『日本書紀』だけに限っても、厩戸皇子、東宮聖徳、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、厩戸豊聡耳皇子、上宮厩戸豊聡耳太子、皇太子、厩戸豊聡耳命、上宮太子、上宮豊聡耳皇子、太子などの名で呼ばれています。さらに異なる呼び方をしている法隆寺系資料や伊予湯岡碑文は別に扱うとしても、確実に『日本書紀』以前のものとしては、『古事記』が上宮之厩戸豊聡耳命という非常に尊重した呼び方をしています。名前に関して、これだけ資料が残っている人物は上代にはいません。

 しかも、『日本書紀』の用明天皇元年正月条では、「豊耳聡」と「豊聡耳」という名を並んであげているのですから、『日本書紀』編纂以前に既に伝説化されていた様々な記録や言い伝え、それも複数の系統のものがあったと考える方が自然でしょう。むろん、すべてを史実と見ることはできませんし、『日本書紀』編纂者が創り出した呼称も混じっているでしょうが、当時としては異様な情報量の多さではないでしょうか。

 一方、蘇我蝦夷や入鹿は、『日本書紀』では悪役として描かれているのですから、後に称徳天皇が自分の意にそわない報告をした和気清麻呂に激怒して左遷させ、別部穢麻呂と改名させたように、『日本書紀』の編集者は、「えみし」と発音される名を「蝦夷(蕃族)」というおとしめた表記に変え、いかに悪逆な行為をしたかを誇張して描いている可能性があります。そうなると、大山流に言えば、「実在したのは、馬子の子として権勢をふるった某であって、蘇我蝦夷はいなかった」ということになるはずです。

 原田氏が、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」と言う方が適切ではないか、と評するのはもっともですね。『日本書紀』の最終編纂段階において、不比等と長屋王と道慈の三人で理想的な人物像をでっちあげたのなら、呼称はもっとすっきり統一され、登場する場所によって呼び方に偏りがある現在のような状態にはならなかったでしょう。

 原田氏は、大王家の一員が早い時期に仏教支持の立場を鮮明にし、氏寺まで建てるというのは、それなりの信念と実力がなければできない行為である以上、斑鳩寺を建立したというのは、「たったこれだけ」と片付けられる話ではない、と論じます。

 また、原田氏は、大山氏が聖徳太子と同様の架空人物としている頓知小僧の一休さんにしても、様々な逸話自体は後世になって作られたとはいえ、それは「一休の禅風から想像されたもので、実在の彼と無関係というわけではない」(164頁上段)としています。これに付け加えておくと、一休は反骨の禅僧であって、わざと話題になるような奇矯な振るまいをしていたことで有名な人物であり、実際の逸話だけでなく、一休の言動を大げさに語り伝えた話が、彼が生きていたうちから広まっていたうえ、他の人の逸話が一休の話として広まるようなこともあったようです。
 
 大山氏の説は、厩戸皇子の実在そのものを否定したり、厩戸皇子以外に聖徳太子のモデルを求めたりした従来の聖徳太子非実在論者に比べれば「穏当」だが、「そのため、かえって、この説の方法論的な矛盾をより露骨に示すようになった」(166頁上段)というのが、原田氏の結論です。

 なお、原田氏は、聖徳太子に関する記述には信用しがたいものが多いことは、戦後の歴史学界で繰り返し論じられてきたことにすぎず、大山氏が「聖徳太子は架空の人物」とまで言うのは、「学問上の議論というよりむしろレトリックの問題だろう」と評しています。これと同じ趣旨のことは、『聖徳太子の実像と幻像』でも何人かの研究者が指摘していましたね。

 確かに、大山氏の書くものには、そうしたレトリックが目立ちます。氏は、厩戸王という人物が斑鳩に宮と寺を建てたことを史実として認めるものの、

 「王族の居所を宮というのは『日本書紀』の筆法であり、氏寺の建立も『日本書紀』によると、推古天皇の時代には「寺四十六所」ということであるから、都の飛鳥から遠く離れていることもあり、たぐいまれな存在とまでは評価できない」(『<聖徳太子>と日本人』、角川ソフィア文庫、18頁)

と述べ、その意義をできるだけ小さくしようとします。つまり、宮といってもたいしたことはなく、寺にしても推古朝にあったとされる46寺中の一つにすぎない寺を都から遠く離れた地に建てた王族でしかないように描くのです。

 しかし、斑鳩は都と難波を結ぶ交通の要衝でしたし、発掘の結果、斑鳩宮はかなり広大なものであったことが分かっています。その斑鳩宮と隣接して建立された斑鳩寺、すなわち現在は若草伽藍跡となっている寺は、蘇我氏の飛鳥寺・豊浦寺に続き、その技術を用いて建てられた最初期の寺の一つ、それも壁画で飾られた堂々たる最新建築でした。四天王寺については不明な点が多いものの、厩戸皇子の没年頃には、斑鳩寺の塔の瓦を作るのに用いられた瓦当范そのものが難波の四天王寺創建時の瓦を作成するのに使われ始めています。大山氏の上記の表現は、まさにレトリックに満ちたものであり、フェアではないのです。

 なお、原田氏のこの楽しい本では、「かぐや姫」とそっくりな話である「斑竹姑娘」が中国四川省北西部のチベット族の民話として出版されていることから、「斑竹姑娘」は『竹取物語』の別伝、ないし原型だとする説についても紹介しています。氏は、以後、中日共同の現地調査がなされたにもかかわらず、そのような話が現地の民話として伝わっていたことは確認されていないことを重視します。つまり、その民話が収録された本が出版されたのは戦後のことであり、この時期には日本に留学した知識人がまだ多数いた以上、民話の採集者とされる田海燕が『竹取物語』を知っていたとしても不思議はないとするのです。

 原田氏は触れていませんが、実はこの問題については、日本留学中の中国人研究者によって原田氏の推測通りであったことが論証されています。

宋成徳「「竹公主」から「斑竹姑娘」へ」
(『京都大学国文学論叢』12号、2004年9月)

です。

 この論文によれば、日本に留学して早稲田で学び、復旦大学で西洋文学と日本文学を講義した謝六逸(1898-1945)が、『竹取物語』の梗概を載せた『日本文学史』を1929年に著します。謝の文学研究仲間であった鄭振鐸は、中国最初の児童文学雑誌を刊行して『竹取物語』を多少潤色した「竹公主」を掲載し、後に「竹公主」を含め、諸国の童話を訳したり潤色したりした本を出版します。そして、田海燕がチベット族の民話を採集して整理したものと称する「斑竹姑娘」は、『竹取物語』でなく、この「竹公主」に基づいて書かれていた、とのことです。

【追記 2010年12月7日】
なお、原田氏の解説のうち、三経義疏に関する記述は間違いだらけです。「『維摩経疏』は6世紀前半の中国における注釈書のほぼ丸写しである。また、『法華経疏』『勝鬘経疏』についてもそれぞれ、6世紀前半の中国での注釈書で、内容の7割までが一致するものが見つかっている」(162頁上段)とありますが、そもそも書名表記が不適切ですし、『維摩経義疏』については、種本の存在は推測されているものの見つかっていません。また、中国の注釈と内容が7割ほど一致するのは『勝鬘経義疏』だけであって、『法華義疏』の場合は「本義」と称している法雲の『法華義記』に基づいて書かれているものの、7割が一致とまでは言えません。大山氏の『<聖徳太子>の誕生』などは、藤枝説に頼って三経義疏は中国撰述と述べる際、また別な誤りを記していますが、上記のようなことは書いてません。


長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について(続)

2010年09月22日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山氏の「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」の有力な証拠とされたのが、長谷寺「銅板法華説相図」です。
(銅板・銅版の表記がありますので、引用文ではそれぞれの論文の著者の表記に従います)

 大山氏は、この銅板の銘文は、道明が八十人ばかりを率いて飛鳥清御原大宮治天下天皇のために敬造したと末尾で明言しているものの、実際には、元正天皇のために千仏多宝塔を表現した銅板を作成し、飛鳥清御原大宮治天下天皇、すなわち天武天皇のために「長谷寺の地に特定の建造物として造仏造塔を行う」と述べているのであって、真の発願主体は長屋王であり、銘文は唐から帰国した道慈が書き、養老6年(722)に作成されたとします。「欠失部分を大胆に推測し」、長屋王の名は、銅板右下の欠けた部分にあった可能性があるとしたのです。

 大山氏は、大山氏が銅板を白鳳様式としながら平城遷都以後の722年の作とするのはおかしいと批判した美術史の片岡直樹氏に反論する一方、喜田貞吉、福山敏男、逵日出典氏などの研究を評価しており、すべてに賛成するわけではないものの、長谷寺の創建問題については喜田氏と逵氏によって問題はほぼ解明されているとして自説の有力な根拠としていました。

 特に逵氏については、片岡氏への反論論文では「美術の様式によって絶対年代を推定するというのは文献史家の採らない態度であり、逵氏の如くこれを一顧だにしないのが、むしろ常識的」なのだ(『長屋王家木簡と金石文』「長谷寺銅版法華説相図銘の年代をめぐる諸問題」114頁)と述べて評価していました。大山氏は、同論文の結論でも、「逵氏がこれらを一顧だにしなかった」のは常識的な判断だと書いており(157頁)、「一顧だにしない」という言い方が好きなようです。

 その逵氏は、一昨年に刊行された「元長谷寺の所在について--永井義憲氏説の妥当性について--」(『日本宗教文化史研究』12巻2号、2008年11月)において、逵氏が資料を提供した永井義憲氏が精査を重ね、「銅板は現在の長谷寺創建以前に作成され、観音堂背後の山の裏側の白河に安置されていたものが、後に今の長谷寺に運びこまれた」と論じた論文を紹介して妥当な説と評価したうえで、現地調査に基づく補足を加えましたが、その際、銅板について、

 様式上の考察として片岡直樹氏「長谷寺銅板法華説相図考」(『佛教芸術』第二百八号、平成五年五月)、同氏「長谷寺銅板法華説相図再考--大山誠一氏に答えて--」(『佛教芸術』第二百二十五号、平成八年三月)が詳しく優れている。(33頁)

と述べています。美術史の様式に基づく年代論など「一顧だにし」ないはずの逵氏が、よりによって、美術史家である片岡氏が大山説を批判した二篇の論文を「様式上の考察」例として紹介し、高く評価したのです。

 逵氏はまた、銘文に「釈天真像、降{玄玄}豊山、鷲峯宝塔、涌此心泉」とあるうちの「豊山」を、大山氏が長谷寺のある山ないし長谷寺そのものと見て、「この銘文は、仏教的聖地としての長谷寺がすでに存在していることを前提としているのである」と説いたのは「後の『豊山』の概念からくる速断」(29頁)であって誤りだとしています。 

 さらに、昨年刊行された達氏の講演、「長谷寺創建問題とその後」(『日本宗教文化研究史研究』13巻2号、2009年11号)では、逵氏は美術史家たちの研究について、次のように述べています。

 片岡氏らは美術史の立場から、銅板は(長谷寺)創建と関係がないと早くから言っておられた(16)。これは実に羨ましいかぎりでした。しかしそうならば、銅板は最初から長谷寺にあったのか、そうでなければどこにあったのか、という問題が残り続けたのでありました。(10頁)

 つまり、片岡氏など美術史の人は銅板の様式を重視し、それによって年代を論じており、銅板の作成と長谷寺創建とは別の問題だとしていたので羨ましかったが、長谷寺の歴史を研究している自分としては、銅板が早い時期に長谷寺とは無関係に作られていたなら、銅板を所蔵している現在の長谷寺との関係を明確にしなければならず、それができないままとなっていた、というのです。そして、氏はこう続けます。

 銅版が白河にあったことが明確になった今、銅版は独自の立場で存分に研究を進められるとよい。私も福山氏が「律師長朗申牒」を云々されたことに刺激されて、天平六年(七三四)・天平十八年(七四六)・天平宝字二年(七五六)の三回のうちいずれかという銅板作成の時期を設定しましたが、これは完全に放棄いたします。(10頁)

 すなわち、永井氏の新説によって状況が変わってしまったため、銅板の作成年代を美術史家たちの諸説より大幅に後の時代のものとしたかつての自説は「完全に放棄」すると宣言したのです。そして、注の16では、先ほどの片岡氏による二篇の大山説批判論文のほかに、同氏の「長谷寺銅版法華説相図の創作背景」(『佛教芸術』二一五号、平成六年七月)加えた三篇を引いています。

 一方、大山説の肝心な部分については全く触れられていません。つまり、長谷寺研究の第一人者である逵氏は、大山説のうち、長谷寺の銅板法華説相図の真の発願者は長屋王であって銘を書いたのは道慈だとする主張については、全くとりあげることがないのです。この大山説が正しければ、長谷寺の性格を考えるうえで重要な新説となりますので、長谷寺の研究者としては無視できないはずですが、逵氏は評価どころか批判すらしていません。まさに一顧だにしていないのです。

 ちなみに、先に触れた銘文の「釈天真像」の句のうち、「釈天」について、大山氏は帝釈天と梵天のことだと解釈していますが、そうした場合は、「梵釈」あるいは「釈梵」と称するのが通例です。帝釈天とまぎらわしい「釈天」という語で、帝釈天と梵天とを示した例など見たことがありません。大山氏は、こうした誤りに基づいて銘文を解釈しているのです。この手の誤りは数が多いため、別にまとめて書きます。

 いずれにせよ、大山氏が著書で105頁にもわたって熱心に論じた主張、つまり、長谷寺の「銅板法華説相図」の銘は、長谷寺が存在していることを前提としているのだから、銅板は長谷寺創建に着手した後の成立であり、実際の発願者は長屋王であって銘文を書いたのは718年に唐から帰国して道教にも通じていた道慈だという説は、成り立たないことが明らかになりました。

 『日本書紀』の聖徳太子関連記述に関する「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」は着実な証拠がありませんでしたが、その「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」を裏付けるはずの長谷寺「銅板法華説相図」に関する大山氏の解釈も、状況はまったく同様だったのです。


長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について

2010年09月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏の聖徳太子虚構説にあっては、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教(かつ儒・道にも通じる)、という役割分担が強調されるのみで、長屋王の熱心な仏教信仰については説明されず、他の研究者による関連論文などもまったく紹介されないことは、先に書いた通りです

 例外は、虚構説に関する最初期の論文「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年10月)と最初の関連著書『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)の以下の箇所だけですが、それも、

 長屋王は、もともと空想的な人物であった。多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし、道教思想にも傾斜していたことは…… (論文:56頁下、著書:266頁)

と述べられているように、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」とあるのみです。しかし、「長屋王は、もともと空想的な人物であった」というのは、大山氏の推測です。長屋王の十代や二十代初期の漢詩・文章・和歌などに既にそうした傾向が見られるというなら分かりますが、そうしたものは全く残されていません。

 大山氏は、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」のが「もともと空想的」であった証拠だというのですが、多宝仏や弥勒の信仰を受け容れると「空想的」であるなら、阿弥陀仏を信仰し続けている人は「現実的」ということになるのでしょうか。

 そもそも、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」というのも、史料に明確に見えている事柄ではありません。多宝仏塔が描かれ、銘文で多宝仏と弥勒に言及している長谷寺の「銅板法華説相図」は、道教的な言葉が多く、道教思想を根底にしている長屋王願経の願文と似た性格を持っているため、銘文の作者は長屋王願経の願文の場合と同様に唐で学んだ道慈だろうから、この「銅板法華説相図」が作成された戊年とは、道慈帰国以後の養老六年(722)であって、発願の真の主体は長屋王だったのだ、とする大山「長谷寺銅板法華説相図銘の年代と思想」(笹山晴生先生還暦記念会編『日本律令制論集』上巻、吉川弘文館、1993年。後に大山『長屋王家木簡と金石文』収録)に基づいたものです。

 しかし、養老6年なら、長屋王は30代後半です。これを材料にして「もともと空想的」であったなどとは言えません。しかも、「銅板法華説相図」銘が道慈の作だというのは大山氏の推測であり、長屋王がこの「銅板法華説相図」に関係しているとするのも大山氏だけであって、学界では全く支持されていません。

 大山氏の銘文解釈がいかに多くの誤りを含んでいるかについては、いずれ書きますが、そもそも、この「銅板法華説相図」の銘文では、末尾で「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために「道明」が八十人ほどを率いて敬造したと明記されているのですから、名も出てこない長屋王の関与を想定すること自体、無理な話なのです。「空想的」なのは長屋王ではなく、道教的な文句を見ると、すべて長屋王と道慈の共謀だと考えてしまう大山氏の方ではないでしょうか。

 その「銅板法華説相図」の成立年代については、美術史の方面では早くから諸説がありますが、大山氏の主張以後、最も詳細に論じた長谷川誠「長谷寺銅板法華説相図の荘厳意匠について(上)」(『駒沢女子大学研究紀要』8号、2001年12月)、「同(下)」(同、9号、2002年12月)が想定する造立時期は、天武十五年(686)です。

 また、諸説を踏まえた最新の論文である、田中健一「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」(『美術史』168号、2010年3月)では、成立は「現段階では和銅三年(七一○)説を有力としたい」(520頁下)とされています。

 大山氏の「銅板法華説相図」に関する説が初めて発表された際、厳しく批判して論争になり、最近になってまた次々に関連論文を発表するようになった片岡直樹氏にしても、昨年発表した「長谷寺銅板の”豊山”について」(『奈良美術研究』8号、2009年3月)では、以前と同じ文武二年(698)説です。

 いずれにしても、16年に及ぶ留学を終えて718年に帰国した道慈の関与する余地はありません。したがって、「銅板法華説相図」によって長屋王は「もともと空想的」だったなどとは言えないことになります。

 それにしても、『長屋王家木簡と金石文』では、第二部「長屋王の信仰と金石文」と第三部「聖徳太子像の成立と律令国家」が全体の分量の8割強を占めておりながら、そこで説かれる長屋王の信仰に関する説のほとんどが「空想」であって着実な証拠がないのは驚きです。


光明皇后捏造説の前提となる「聖徳尊霊」の解釈の誤り(2)

2010年08月24日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山氏の長屋王道教傾倒説の根拠、また光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説の背景の一つは、『神亀経』と称される長屋王の願文に対する新川登亀男さんの解釈でしたが、その解釈を誤りとする最近の研究については、先に紹介した通りです。

  このたび、その願文の注釈が「上代文献を読む会」によってなされましたので、紹介しておきます。



上代文献を読む会「上代写経識語注釈(その二) 大般若経巻二百六十七」
(『続日本紀研究』第386号、2010年6月)



です。

 有意義な試みであり、情報豊かで勉強になりましたが、仏教用語の説明には、仏教辞典の説明をそのまま紹介したもの、それもズレた用法を示したものなども見られます。また、願文の定型句である「無願不~(願として~ざる無し=願えば実現しない誓願はない)」の句を「願をおこすことなく~」などと正反対の意味にとっているなど、訓読も間違いがいくつか目につきました。

 新川さんが道教との関連で理解しようとしていた「百霊」の語の解釈についても、上の注釈では大山氏の説明が紹介され、そちらに引きずられた面もあるのか明確でない書き方になってます。ただ、この「上代文献を読む会」のメンバーである「稲城正己氏による批判」が紹介されており、その論文はいろいろな面で有益なものです。

稲城正己「8~9世紀の経典書写と転輪聖王観」
((財)元興寺文化財研究所・元興寺文化財研究所民俗文化保存会編『元興寺文化財研究所創立40周年記念論文集』、クバプロ、2007年)



です。

  稲城氏は、「百霊」に関する国内の関連表現の用例をいろいろ紹介した後、「百霊」の語は仏教の護法神などの意に解釈すべきであるとし、


長屋王願経には道教的な言葉が散りばめられているにしても、長屋王が構築しようとした世界は、けっして道教的な世界ではない。長屋王願経から見えてくるのは、大宝律令制定直後、儒教に基づく礼的秩序の構築に邁進していた長屋王は、その一方で、当時の中華帝国でさかんであった仏教をも組み込んだ秩序の構築を目指していたということである。(121頁)

と述べています。これによれば、不比等は儒教、長屋王は道教、道慈は仏教、といった役割分担を説く大山説は、割り切りすぎであり、特に長屋王道教傾倒説は根拠が弱い、ということになります。その点は、私も賛成です。

 当時は、儒教は基本教養、仏教は誰もが頼る国教のような存在、神仙思想や老荘思想は早くから流行っていたうえ、道教的な表現も時代の流行として主に仏教文献に取り込まれた形で中国から伝わってきて歓迎されていたのであって、人によってそれぞれ程度は違っているものの、いずれにも関わっていたと見るのが自然でしょう。

  ただ、この稲城論文では、「上代文献を読む会」の注釈と同様、「無願不~」を「願を立てていない」という方向で解釈したり、「百霊」の用例の一つとして観音の変幻自在な変身を意味すると説くなど、仏教関連用語の解釈の誤りが目立つのが惜しまれます。

「上代文献を読む会」の注釈は、この稲城論文に基づいた点が多いようですね。

 なお、「無願不~」の語法に関連するものとして、『日本書紀』の守屋合戦の場面に見える「非願難成(願に非ずは成し難けむ)」という厩戸御子の言葉があるので、触れておきます。これについて、森博達さんの「聖徳太子聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程--日本書紀劄記・その一--」(『東アジアの古代文化』122号、2005年2月)では、「非願不成(願に非ずば成らず)」という対応が正格であり、「「非~難~」は倭習と疑われる」(68頁下)と書いておられます。

 しかし、『無畏三蔵禅要』「梵漢殊隔、非訳難通(梵語と漢語は全く異なっているため、訳を用いなければ通じさせることは難しい)」(大正18・946a)とか、『新訳華厳経七処九会頌釈章』「非通難知(神通によらなければ知るのは困難だ)」(大正36・711b)のような中国仏教文献の用例もありますので、倭習というよりは、仏教漢文の語法と見るべきなのでしょう。

大山氏の著作に対する史料批判(1):小倉豊文に対する冷遇

2010年08月21日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 『日本書紀』の記述について研究するには、厳密な史料批判が必要であることは、津田左右吉を初めとする近代の歴史学者たちが強調してきたことであり、大山氏自身もその必要性について、しばしば説いています。そこで、その大山氏の著作そのものに対して史料批判を試みてみたところ、いろいろなことが分かってきました。

 「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(2)」で見たように、大山氏は、「憲法十七条」を偽作とした津田の主張に関しては、出典を詳しく記しておらず、津田の主張のうち自説に近い箇所、それもおそらくは孫引きで目にした箇所にだけ着目し、それを自説に都合良く解釈したうえで聖徳太子架空人物説の裏付けとしていました。

 出典を正しく記載せず、先学の説をきちんと紹介しない点は、実は、津田に続いて聖徳太子の様々な事蹟を疑った小倉豊文の説に対しても同様でした。つまり、大山氏は、早くから批判的な聖徳太子研究を進めていた津田左右吉と小倉豊文、すなわち、聖徳太子架空人物説論者たる大山氏が最も尊重すべき二人の先学に関して、そうした扱いをしていたのです。

 たとえば、大山「聖徳太子関係史料の再検討(二)」(梅原・黒岩・上田他『実像と幻像』、大和書房、2002年)の冒頭では、自著の『<聖徳太子>の誕生』に触れたのち、聖徳太子非実在説について、

 先の拙著の「あとがき」でも述べておいたように、これは私の説ではなく、久米邦武より始まる近代史学の展開の中で、津田左右吉・福山敏男・小倉豊文・藤枝晃を始めとする研究者たちが築いてきた成果を、ただまとめて結論を明確に示しただけだからである。(376-7頁)

と述べていますが、これは事実と異なります。

 『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)の「あとがき」で名をあげてその説が簡単に紹介されている近代の学者は、久米邦武、津田左右吉、福山敏男、藤枝晃のみです。小倉豊文は、まったく言及されていません。この本に限らず、聖徳太子の生前の名は「厩戸王」であったろうと最初に推測した小倉は、聖徳太子は架空の存在であって実在したのは「廏戸王」だと断言する大山氏の著作にあっては、初めから冷遇されていました。

 聖徳太子架空人物説の出発点となった大山氏の最初の論文、「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)の冒頭では、「最近において、田村圓澄氏は、廏戸王という実在の人物と、信仰の対象となった聖徳太子を区別し、次のような理解を示された(2)」(4頁)として田村氏の説を評価して紹介しており、末尾の註(2)では、出典として、田村円澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)をあげています。そして、上の文の少し後で、

 小倉豊文氏の先駆的業績を始め(3)、これまでも廏戸王と聖徳太子を区別してこなかったわけではないが、これほど明確に論じられたことはなかったのではなかろうか。(5頁)

と述べます。「先駆的業績」と称しているものの、実際には小倉の提唱した「厩戸王」という称呼を論証なしで用いた田村説の方を高く評価しているのです。そして、天武朝に「日本の釈迦」としての聖徳太子という信仰が成立したとする田村説に批判を加えた後、次のように説いています。

 小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくないが、実は天武朝に聖徳太子信仰が成立したという証拠は皆無なのである。(5頁)

 小倉説批判です。同論文において、小倉説に言及しているのは、これがすべてです。同論文を一部修正して収録した大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)でも、これらの部分は同じです。「小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくない」と評していますが、註(5)で参照されている小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、1963年)では、聖徳太子が執政したという『日本書紀』の記事について、

 天武天皇の朝は周知のごとく日本書紀の編纂がはじまった時であります。また後述するように聖徳太子信仰の盛んになり始めた頃であります。とすると、日本書紀の編者たちが、現実に草壁皇子が皇太子として万記を摂せよとの詔を受けたのを見ており……(30~31頁)

と説いているものの、これはあくまでも太子執政の記述に関する考察であり、聖徳太子信仰の発生時期については、

 実証的には明らかに致し難く、前述の憶説が当たらずとするも、天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から聖徳太子信仰が興ったことは、ほぼ疑いないでありましょう。(60頁)

と述べているだけです。天武朝が「画期」などとは言っていません。また、大山氏は「漠然と……」という表現を用いることによって小倉説を批判していますが、聖徳太子信仰の解明に研究者人生をかけ、膨大な資料を収集してきた小倉が、聖徳太子信仰が生まれた時期について「天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から」と述べるのみでそれ以上特定していないのは、「実証的には明らかに致し難」いからです。道慈が帰国した718年から『日本書紀』が完成した720年までの間に「聖徳太子」が誕生した、などと述べれば明確かもしれませんが、直接資料が無いまま推測に推測を重ねてそうした結論を打ち出すのは、「実証的」な研究態度からほど遠いものです。

 これ以後、現在に至るまで、大山氏の著書・論文においては、小倉の個々の説が詳しく紹介されて評価されたり批判されたりした箇所は、全くありません。しかも、小倉説に言及したこの論文では、小倉の説の出典表記に誤りが見られます。その注は、次のようになっています。

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』吉川弘文館、一九九四年。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』綜芸舎、一九六三年。
 (4) 大山「『野中寺弥勒像』の年代について」(『弘前大学国史研究』第九五号、一九九三年)
 (5) 小倉豊文、註(2)前掲書。

以上です。これが、同論文を修正して収録した『長屋王家木簡と金石文』の註になると、

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、一九六三年)。
 (4) 拙稿「『野中寺弥勒像』の年代について」本書所収)
 (5) 小倉註(2)前掲書。

となっています。家永論文の出典を、再刊時のものから初出時の書名と刊行年に直したほか(これはいろいろな意味で恥ずかしい間違いの訂正です)、論文の註(5)では「小倉豊文、註(2)前掲書」とあったものを、『長屋王家木簡と金石文』では「小倉註(2)前掲書」と修正していますが、論文の註(5)では、(3)とすべき箇所を(2)と誤記しているうえ、表記を修正した『長屋王家木簡と金石文』でもその誤記はそのままになっています。

 つまり、小倉説については具体的に紹介して評価することはなく、触れる場合は名をあげるだけだったり、まれに触れても小倉の主張を歪めたうえで批判するだけだったり、言及していないのに言及したと述べたり、小倉の本を引用する際に註番号を間違えたりしているのです。

 さらに重要なのは、最初の大山論文においては、「廏戸王であるが、歴史的事実として確認できるのは、次の三点であろう」と述べ、第二として「その実名が「ウマヤド(廏戸)であること」を挙げ、生年の干支である「午(うま)」に基づく可能性が高いとしている(6頁)ことです。

 しかし、『聖徳太子と聖徳太子信仰』において「歴史的真実としての聖徳太子と、伝説的信仰上の聖徳太子とは、出来る限り明確に峻別しなければなりません」(1963年版、16頁)と説いた小倉は、「私は「厩戸王」というのが生前の呼称ではなかったかと思いますが」(同、22頁)と述べるにとどめています。「廏戸王」というのは資料には全く見えず、小倉が推定した呼び方であるのに、いつ「実名」として確定し、「歴史的事実」になったんでしょう。

(大山氏は、「ウマヤド」と表記しますが、「ウマヤト」と澄むのが通説であり、また「うま」というのは生年の干支によるという点は、佐伯有清「聖徳太子の実名「厩戸」について」[前掲『聖徳太子の実像と幻像』所収]で批判されています)

 論文で註番号を誤記し、本に収録した際も直っていないのは、単純ミスでしょうが、前に指摘したように、大山氏が津田の主張を紹介する際も、内容を歪めて紹介していたうえ、孫引きくさかったり、出典の表記がなされていなかったり、表記してあっても不十分だったり、論文の註の不備が本になってもそのまま引き継がれていたりしていたことと、妙に似ていますね。そうした人が、『日本書紀』や他の古代文献について厳密な史料批判を行えるのでしょうか。

 大山「聖徳太子関係史料の再検討(一)」(前掲、『聖徳太子の実像と幻像』)では、聖徳太子に関する資料が信頼できないことが広く知られていることについて、

 それは、津田左右吉、福山敏男、小倉豊文、藤枝晃をはじめとする研究者たちの、時には国家権力を敵に回してまで信念を貫いた研究の蓄積そのものといってよいと思う。(343頁)

と述べて評価しているものの、その津田と小倉の説の扱いは、上に述べたような杜撰なものでした。国家主義体制のもとでの聖徳太子礼讃の風潮に流されず、『日本書紀』の史料批判に努めた津田と小倉という尊敬すべき先学の著作を、大山氏がどれほどしっかり読んだのか、本当に敬意をもって著作にあたっているのか、疑わしく思われます。

 特に小倉の場合は、他の人たちと違って説の具体的な内容が紹介されないのですから、小倉がどのような主張をしたのか、大山説とどれほど一致しているのか、読者はまったく分りません。

 小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』は、一般向けの概説であって細かい論証はされていませんが、本書は膨大な資料と原稿を空襲で焼かれてしまい、被爆もして病気がちとなった小倉が、広島大学退官の記念として、「頭脳労働や執筆を禁じられている現状に於て、口述筆記や旧稿抄録の代筆に手を入れて、寝たり起きたりしながら牛歩遅々としてまとめたもの」(初版「はしがき」)であることを考慮すべきでしょう。

 小倉がいろいろな雑誌に発表してきた個別の論文には、立ち入った議論をしたものもあります。どうして、それらを紹介しないのか。しかも、不比等・長屋王・道慈創造説を除けば、太子の多くの事蹟を疑い、行信の役割を重視した点などで、大山説は小倉説と一致している場合が多いのですから、なおさらのことです。
 
 なお、大山氏とともに太子虚構説・道慈述作説を推進してきた吉田一彦さんの「近代歴史学と聖徳太子研究」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、平凡社、2003年)は、わかりやすい研究史になっていて有益であり、小倉についても簡単な説明がなされています。ただ、小倉の著書を紹介するにあたり、

 『聖徳太子と聖徳太子信仰』(私家版、一九六三年、のち『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』<綜芸舎、一九七二年>として再刊)

と書いている(35頁)のは、適切ではありません。

 確かに、同書は定年退官記念として綜芸舎で印刷して私家版として知友に配布されたものの、学術出版社であるその綜芸舎を創設すると同時に古代研究者としても活躍していて小倉を評価していた藪田嘉一郎の勧めにより、印刷したもののうちの一部は綜芸舎(当時の社主は、嘉一郎の息子の夏雄)から発売しています。

 国会図書館や複数の大学図書館にもその市販版が収蔵されており、また、つい最近まで古本市場でも購入できたのですから、出典として一つだけあげるのであれば、「私家版」とせずに「綜芸舎」とすべきでしょう(大山氏は、この点は正しく表記しています)。吉田さんは、同書の最初の版の「はしがき」と増訂版の「はしがき」を、比較しながらしっかり読むべきでした。


光明皇后捏造説の前提となる「聖徳尊霊」の解釈の誤り

2010年08月11日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一氏は、複数の著作の中で、疫病が流行していた天平七年(735)の十二月に、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が「聖徳尊霊及今見天朝」のために『法華経』講読の法会を催したという伝承に着目し、実際には聖徳太子を自らの守護神としようとした光明皇后の意向によるものと説いています。
 
 『法隆寺東院縁起』、つまり、斑鳩宮跡の荒廃ぶりを歎いた行信の奏上によって、阿倍内親王が斑鳩宮跡に建てさせたとされる法隆寺東院の縁起では、法会の翌年、「令旨」によって行信が皇后宮職の安宿倍真人らを率い、道慈ほか三百余人もの僧尼を請じて二月二十二日に『法華経』講読の大がかりな法会を行ったとあります。聖霊会の起源ですね。

 大山氏は、記事は阿倍内親王を中心に書いてあるものの、実際にはこれらの催しは母親である光明皇后の意向であったとし、「聖徳尊霊」の「霊」には「神」の意味もあるため、「尊霊」というのは光明皇后が「聖徳太子を神として扱」い、加護を祈ったことを示すとし、「聖徳太子の背後にいるのは、父不比等だったに違いない」(『長屋王木簡と金石文』、280頁)と述べています。

 長屋王の意向によって道教色を帯びていた『日本書紀』の聖徳太子像はこれによって変貌し、光明皇后は行信とともに『天寿国繍帳』その他の聖徳太子関連文物を捏造し始めたというのですから、この「尊霊」の解釈はきわめて重要です。

 この解釈が、長屋王願経の跋に見える「登仙二尊神霊」、特に「神霊」という語を特別視した新川登亀男さんの論文に基づくことは言うまでもないでしょう。新川さんは、これは道教に基づく表現であり、「二尊」、つまり長屋王の亡くなった父母、高市皇子とその妃の「神霊」こそが道教的な霊の秩序の頂点に立って「百霊」を率いるのであり、天皇ですらそれらに守られる存在なのであって、長屋王は生前は長寿と繁栄を保ち、死後は登仙してそうした父母の「神霊」が統括する世界に赴こうとしていた、とされていました。

 大山氏は、この「登仙二尊神霊」に関する新川説を「聖徳尊霊」に応用し、仏教的な守護神としたわけです。新川説では父の高市皇子、大山説では父の不比等の役割が重視されています。この前提となる新川論文が間違っていたことは、前に論文で指摘した通りですが、新川説の誤りに関して、最近、私と同じ見方が出されていることに気づきましたので紹介します。

東京女子大学古代史研究会編『聖武天皇宸翰『雑集』「釈霊実集」研究』
(汲古書店、2010年1月)

です。聖武天皇が自ら謹直な書体で書き写した中国の仏教関連の詩文のうち、越州法華寺の霊実の文章に対する注釈であり、きわめて有意義な研究です。ただ、僧侶の文章に関する共同研究でありながら、史学や文学の研究者中心であって仏教研究者が誰も参加していないことが残念に思われます。

 このうち、ある人が父の「亡霊」のために設けた斎会用に霊実が頼まれて書いた「為人父忌設斎文」の注釈を担当した稲川やよい氏は、長屋王願経跋にも触れています。稲川氏は、跋文のうち、道教的であるとされてきた「百霊影衛」などの句については、敦煌文献中の「為宰相病患開道場文」(P2974)に「百霊影衛」とあるように、敦煌文献に数例見えるほか、『釈霊実集』でも「為人妻祥設斎文」に「万霊符衛」、「大善寺造像文」に「天龍鬼之影衛」とあるなど、似たような言い回しが見られることを指摘します。そして、いずれも仏教文献中で用いられていることから、唐代仏教では道教・儒教の用語を混在したうえで仏教的な文脈で用いていたと論じています(406頁)。

 すなわち、長屋王の「道教思想への接近」説を否定し、長屋王願経の表現は、「そのころ最新の唐代仏教文学を瞬時に反映している」(407頁)ものと見るべきだ、とするのです。妥当な見解でしょう。

 長屋王と仏教の関係について言えば、長屋王家木簡の中には、長屋王が写経所や造寺造塔のための工房を所有していたことを示すものがあることが知られています。奈良国立文化財研究所編『長屋王家・二条大路木簡を読む』(吉川弘文館、2001年)所載の、金子裕之「長屋王の造寺活動」や堀池春峰「大般若経信仰とその展開」などの論文がそうした木簡に論究していますが、大山氏は、長屋王家木簡の専門家でありながら、不比等は儒教志向、長屋王は道教好み、道慈は儒教・道教にも通じた僧侶で仏教担当という役割分担を強調するのみで、こうした論文を引いて長屋王の仏教信仰について論じたことは全くありません。

 なお、光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説については、東大寺で開催される東大寺現代仏教講演会(10月30日午後)で、その問題点について詳しく話す予定です。

【8月12日 追記】
史料の名を『法隆寺東院縁起』に改めました。



津田左右吉説の歪曲(2)

2010年07月27日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏が複数の著作で津田左右吉『日本古典の研究 下』の「憲法十七条」偽作説を紹介しておりながら、同書のうち、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)とある部分、つまり、「憲法十七条」が『日本書紀』編者の作であることを否定した重要な箇所に触れないことは、前稿で指摘した通りです。

 その理由は分かりませんが、大山氏の著作では、津田説の出典の示し方に気になる点があるため、指摘しておきます。

 まず、太子虚構説が初めてまとまって示された、大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)では、「天皇」の語が道教由来であるとする津田説について、「津田左右吉氏の研究により(12)」(10頁)と記され、末尾の注記では、次のように出典が示されています。

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』に収録)。
(12)  津田左右吉「天皇考」。
(13) 上田正昭「和風諡號と神代史」(『赤松俊秀教授退官記念 国史論集』、一九七二年。のち『古代の道教と朝鮮文化』に収録)。福永光司「天皇と紫宮と真人」(『思想』一九七七年七月号、のち『道教思想史研究』に収録)。両氏の天皇関係論文は他にも多いが、ここでは代表的なもののみをあげた。

 一見して明らかなように、前後の注記は詳しいのに、(12)の津田の「天皇考」については、掲載された雑誌や書籍の名も刊行年も記されていません。おそらく、(13)で記されている論考から孫引きし、出典を入れ忘れたのでしょう。

 大山氏のこの論文を少し改めて収録した、大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)になると、この部分の注は、

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』[塙書房、一九七七年]に収録)。
(12) 津田左右吉「天皇考」(『津田左右吉全集』第三巻)。

となっています。東野氏の本については、出版社名と刊行年が加えられ、さらに詳しくなっているのに対し、津田の論文は全集の巻数が示されているだけです。同書の注では、和辻哲郎についても、

(59) 和辻哲郎「聖徳太子の憲法における人倫的理想」(『日本倫理思想史』上、『和辻哲郎全集』第十二巻)。

となっているため、全集の場合は出版社も刊行年も入れないのでしょう。ただ、和辻の場合は、初出の『日本倫理思想史』上が示されているのに対し、津田「天皇考」については、ここでも初出が示されていません。しかし、全集を見れば、初出は示されています。

 肝心の「憲法十七条」に関する津田説の出典についても、分からない点があります。「「聖徳太子」研究の再検討(上)」論文では、この注の前後は、

(221) 藤枝晃「勝鬘経義疏」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

となっています。ここでも、津田の著作は出版社も刊行年も記されていません。このうち、(221)とあるのは、単純ミスであって、『長屋王家木簡と金石文』では、

(22)  藤枝晃「勝鬘経義疏」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

とあるように訂正され、書名や刊行年も1991年に復刊された際のものから、1975年の初出時のタイトル・刊行年に訂正されています。荒木敏夫を「敏男」としている誤記は、そのままですが、これは単純な見落としでしょう。

 しかし、

(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。

もそのままであるのはなぜなのか。単行書の扱いなら、出版社名と刊行年が必要でしょうし((26)の青木氏の場合も出版社は明記されていませんが、『岩波講座……』となっているため、分かるようになっています)、全集版に基づいたのであれば全集の巻数を示すのがこの本の例であるらしいのに、なぜそうなっていないのか。

 大山氏の同論文には、

(32) 久米邦武「聖徳太子実録」一九○五年、(『久米邦武歴史著作集』第一巻所収)。

という妙な例も見えます。『長屋王家木簡と金石文』では、

(32)  久米邦武「聖徳太子実録」(『久米邦武歴史著作集』第一巻、一九○五年)。

と訂正されていますが、久米の『聖徳太子実録』は、丙午出版社から1919年に刊行されたものであり、1905年に初めて刊行された際は、『上宮太子実録』という名でした。前者を収録した『久米邦武歴史著作集』第1巻は、吉川弘文館から1988年に刊行されたものです。吉川弘文館版を実際に見ていれば、こうした表記にはならなかったのではないかと思われます。

 このように、大山氏の出典の記載には不備が目立ち、「天皇考」その他、孫引きですませて原文を見ていないのではないかと疑われる場合もあります。『日本書紀』の編者が「憲法十七条」を作った可能性を否定した津田『日本古典の研究 下』の主張について、大山氏が触れないのは、上記のような傾向と関係があるのでしょうか。

 可能な状況はいくつか考えられます。

1. 全集版で読んだが、『日本書紀』編者の「憲法十七条」作成を否定した箇所は印象に残らなかったためメモせず、初出などについてもメモしていなかった。最初の論文はメモに基づいて書き、以後はそれを踏襲している。

2. 津田の「憲法十七条」偽作説については、他の研究者の論文に基づいて記したが、その論文では、津田が『日本書紀』編者の作成を否定した箇所に触れていなかった。出典の記載はその論文に従った。以後はそれを踏襲している。

3.全集版で読み、論旨を理解したが、触れないことにし、出典も詳しく記さなかった。

4.全集版で読んだが、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」という文章を理解できなかった。出典もきちんと記さなかった。
 (a) 「上記の如く」とは、3行前の「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」という部分のことだと正しく理解したものの、『養老律令』や『日本書紀』の編纂時期を指すと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。
 (b) 「上記の如く」とは、この文章の「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐる」という部分を指すものと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。

 あるいは別な状況かもしれませんが、いずれにしても、大山氏は、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、『日本古典の研究』下に基づくとしておりながら、「太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため」という部分と、『日本書紀』編者の作成を否定した箇所とに触れず、津田自身が『日本書紀』編者作成説を述べたかのように説いて自説の裏付けとするのみであるうえ、他の研究者の論文や研究書の出典を示すのと同じ形で出典を示すことをしておらず、それも最初期の論文からつい最近の著書に至るまでそうであるのが実状です。

【2010年7月28日 追記】

津田は論文を刊行した後も、訂正を加え続けていたことで有名であり、論考によっては、雑誌掲載時、単行本収録時、全集掲載版で大きく違っている場合もあります。ですから、同じ題名、似た題名の論考であっても、厳密な検討をする場合は、どの版についての議論なのかを示す必要があり、他の著者以上に出典表記に気をつけないといけません。

 なお、最新の『天孫降臨の夢』(日本放送出版協会、2009年)の末尾に付された「参考文献」では、編集者の要望で形式を統一したのか、

津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店、一九五○年(のち『津田左右吉全集 第二巻』岩波書店、一九八六年の所収)

と記されています。これによれば、「『日本古典の研究』下」ではなく、単行本の『日本古典の研究 下』に基づいていることになりますが、そうであれば、最初の論文や『長屋王家木簡と金石文』では単行本扱いとして、出版社や刊行年を入れるべきでした。

 もう一つ妙なのは、最近刊行された『アリーナ』第5号(2008年3月所載の大山「<聖徳太子>誕生の時代背景」の記述です。ここでは、

 津田は、中国の古典を多く引く憲法十七条が、奈良時代にできた『書紀』や『続日本紀』(以下、『続記』と記す)の文章と似ていると指摘したが、そのことは最近の国語学の研究からも証明されており、その結果、聖徳太子の時代のものではなく、『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したものとされた。(151頁)

と述べられていますが、津田の説はどこまでなのか不明であり、出典も示されていません。また、「最近の国語学の研究」というのが具体的に誰のどの論文を指すのかも不明です。「創作したものとされた」とありますが、誰によって「された」んでしょう。津田がそう言ったのか、国語学者の誰かがそう言ったのか、別の分野の研究者によってそう判断されたのか。国語学で言えるのは、「用法から見て、この時期以後だろう」などという程度であって、「『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したもの」といった踏み込んだことまでは言えないはずですし、そのような指摘をした国語学者の論文は見たことがありません。

【2010年8月22日 追記】

大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)所載の吉田一彦「近代歴史学と聖徳太子研究」では、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、「憲法十七条は太子の作ではなく、律令の制定や国史の編纂をおこなっていた時代(七世紀末から八世紀初め)に作成されたものであろうとしたのである」(28頁)と述べています。つまり、大山氏は、研究仲間である吉田さんのこの研究史概説を読んだ後になっても、津田は『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らが作成したと述べているのだ、と主張し続けているのです。


【追記:2011年7月23日】  上に記したように、大山『天孫降臨の夢』の参考文献欄によれば、大山氏が用いたのは単行本の津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店(1950年)だそうですが、津田はその版であれば136頁のところで、「憲法は多分天武朝ころの製作であらうが」と明言しています。他の箇所では、天武・持統朝と受け取れるような書き方もしていますが、いずれにしても、『日本書紀』の完成近くになって編者が創作したものとされたなどとは、津田はまったく述べていません。  もう一つ気になるのは、「最近の国語学の研究」とは、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』のことを名を示さずにあげたものではないか、ということです。森さんが大山説を妄想だとして強く批判したため、大山氏は以後は森説には触れなくなりましたが、それ以前の『東アジアの古代文化』104号の大山論文では、漢語・漢文の誤用・奇用から見た森さんの憲法偽作説を紹介して、「研究の緻密さに感嘆した」と述べていました。国語学では、瀬間正之さんが推古朝遺文を後代のものとしていますが、瀬間さんは「憲法十七条」については触れていません。