聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

公伝以前に持ち込まれていた仏教:寺西貞弘「仏教伝来と渡来人」

2023年09月25日 | 論文・研究書紹介

 日本における仏教興隆の立役者は聖徳太子とされてきました。しかし、『日本書紀』を読めば、蘇我氏が熱心に奉じていて、馬子の活躍が大きいことがわかりますし、渡来人や百済に派遣された人物が仏教をもたらしていたことも隠されていません。この問題を検討したのが、

寺西貞弘「仏教伝来と渡来人」
(『古代史の研究』第20号、2017年7月)

です。『古代史の研究』は、関西大学古代史研究会の雑誌です。

 寺西氏は、天文12年(1543)の鉄砲伝来の話から始めます。ポルトガルの船が種子島に漂着し、鉄砲の存在を知らせたその6年後、イエズス会がザビエルを派遣しますが、寺西氏は、種子島に漂着したポルトガル人はキリスト教徒であって、無事であったことを神に感謝したはずとし、種子島の人々はそれを目撃したはずと説きます。

 仏教伝来も同じであって、欽明朝に公伝されたという記事が事実だとしても、それ以前に仏教は入っていたはずとするのです。

 『日本書紀』の推古32年(624)によれば、寺と僧尼を調査したところ、46寺あって、僧は816人、尼は569人いたとあります。石田茂作の調査によると、飛鳥期の寺の遺構は49箇所となっており、『日本書紀』の記事とほぼ合います。しかも、その46寺は大和・河内・摂津という地域に限られており、造寺技術を独占していて皇室と結びついていた蘇我氏と関係深い氏族の寺ばかりです。

 一方、地方に瓦葺きの寺院が建立されるのは白鳳期であって、持統6年(692)には、全国で545寺に及んでいます。この時期に急速に地方に展開したのです。

 しかし、欽明天皇以前から、朝鮮半島から、ないし朝鮮半島経由で大陸から渡ってきた人たちは多数いました。この場合、種子島の例は当たらないのか。

 寺西氏は、『日本書紀』における欽明朝から推古朝までの渡来人記事に着目し、高句麗・百済・新羅・任那からの渡来人は7000戸を超えるとし、当時の戸籍から見てい1戸あたりの人数は25人程度、単純計算でも17万5000人が渡来したことになるとします。

 当時の日本の総人口は、奈良時代でも451万人程度とされています。そうした状況で、仏教が既に広まっていた朝鮮半島諸国から、しかも多人数が乗れる船を準備できるような人々がこれほど多数やってきた以上、仏教が各地で信仰されていたはずです。

 まして、当時の倭国には吉利支丹禁制を徹底させた江戸幕府のような強大な権力体制はなかったのですから、渡来人の仏教信仰に対して規制なまったくなされなかったと寺西氏は説きます。

 そして、地方に定住した渡来人の中には仏教信仰を持っていた者たちもいたとして、『日本霊異記』などから例をあげます。つまり、瓦葺きの寺が建立されるのは白鳳時代であるにせよ、それ以前から小さな堂などを造って信仰していた可能性があるとするのですね。

 以上は納得できる議論ですが、『日本書紀』の欽明6年9月是月条に、百済王が天皇の功徳のために丈六の仏を造ったという記事に着目し、造立しただけでなく、その仏像が日本に送られてきた可能性を完全に否定することはできないと説くのですが、これはどうでしょうかね。

 実際、『帝王編年紀』では「献」じたとあるとするのですが、これは『帝王編年紀』が誤解した可能性が高いです。それより注目すべきことは、敏達6年に百済王が使を終えて帰国する大別王に「経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工六人」を付し、これを「難波大別王寺」に置いたという記述でしょう。仏教伝来を蘇我氏の功績として語るのは、聖徳太子を元祖とするのと同様、あぶないので。

 なお、「寺」を「テラ」と発音することについては、毎月、仏教お気楽エッセイを連載している「トイビト」のサイトで書いておきました(こちら)。


明治26年に守屋の忠義を讃えて建設された石碑:三上喜孝「山形大学小白川図書館所蔵「物部守屋大連之碑」拓本について」

2023年09月19日 | 論文・研究書紹介

 前々回、物部守屋を検討した論考を紹介しました。守屋は、仏敵とされましたが、それにしても仏教を信仰する者たちが撃ち殺すのはいかがなものかということで、平安以降の太子伝では、守屋は実は仏教信者であって、仏教を広めるためにわざと反対したのだという話になっていきます。

 ところが、江戸時代になって儒教による仏教批判が強まり、物部氏の子孫である荻生徂徠が守屋を弁護して聖徳太子を激しく論難した結果、守屋は日本の神道を守ろうとした忠臣であったという評価も生まれてくるのが面白いところです。

 そうした評価が、ナショナリズムが盛んな明治期に高まったようで、守屋を賞賛する石碑まで建立されたことが報告されています。

三上喜孝「山形大学小白川図書館所蔵「物部守屋大連之碑」拓本について」
(『山形大学歴史・人文学論集』第14号、2013年)

です。三上喜孝氏と言えば、某九州王朝論者が自分の論文モドキの中で引用し、めちゃくちゃな出典表記をしていたことを思い出しますね(こちら)。

 それはともかく、三上氏は、山形市の千歳山公園に屹立する巨大な「物部守屋大連之碑」(明治26年)の拓本が山形大学小白川図書館で発見されたことから話を始めます。拓本は3紙を貼り継いだもので、縦254.5cm、横187cmという大きさです。きわめて均等に拓出されているため、三上氏は、石碑を建てる前に横にした状態で拓本をとった可能性があると述べます。

 碑文は、守屋を「物部弓削守屋公」と呼んで仏教を排斥した事績を述べ、群臣たちが守屋を陥れようとしたとし、「豊聡耳、馬と共にすみ攻て公を殺しにき。今この大御代に逢て、名分の学開きゆくままに、公の忠憤慨世世に明らかになりもてゆくにつれ」て山形の同志が顕彰するために大碑石を立て、「公の正義を千載に伝へて、邪道に迷い大義を誤る事なからむことを世に示す」と述べています。

 碑の上部にある篆書の「物部守屋大連之碑」という額を書したのは、陸軍大将議定管大勲位有栖川熾仁親王」であり、碑文を撰述して書いたのは、「枢密院副議長従二位勲一等伯爵東久世通禧」です。二人とも、幕末に尊皇攘夷派として活動し、長州藩と関係が深かった人物です。

 三上氏は、その拓本の裏に、この碑に関する宮内省の通達と山形県知事の通達の写しが添付されており、明治26年に碑文を作成し、29年に拓本の天皇に献上することを願い出、宮内大臣の許可を得て「御前に供」したことが分かるとします。

 三上氏は石碑裏面に濃くされた発起人たちについて簡単に説明していますが、そのうちの遠藤司は、平田篤胤の子である鉄胤に学び、印刷業に従事した人である由。

 三上氏は、この調査報告の後で、この石碑に関わる『大連物部守屋公献詠歌集』という本を入手したところ、石碑作成や拓本制作の過程が詳細に記されていたため、続篇を「山形市千歳山所在「物部守屋大連之碑」に関する一史料」と題して『山形大学歴史・地理・人類学論集』第22号(2021年)に載せています。

 全3冊であって、編集は発起人の一人である医師の佐藤恭順、印刷者は遠藤時助、印刷は遠藤活版所だそうです。遠藤時助は遠藤司の子でしょうか。

 この歌集に見える記事により、石碑を建立する前に、寝かせた段階で拓本をとり、宮内省、神宮司庁、帝国博物館、帝国大学、三十二連隊その他に献呈されていたことが分かる由。三十二連隊は、日清戦争後の軍備拡張計画の一環として山形に設置されたものであるそうです。

 いや、面白いですね。聖徳太子のイメージは時代によって変わりますが、守屋も仏敵とされたり、「いや、仏法を広めるために敢えて反対して死んだのであって、『法華経』の信者だった」とされたり、神道を守って外国のよこしまな仏教導入に反対し、天皇のために尽くした忠臣とされたりしたんですね。

 我々も、客観的に調査しているつもりで、実際には時代の風潮に流されているわけなので、注意が必要です。


講義録「近代の聖徳太子信仰と国家主義」刊行

2023年09月14日 | 聖徳太子信仰の歴史

 昨秋、真宗大谷派の九州教学研究所でおこなった講義が刊行されました。

石井公成「近代の聖徳太子信仰と国家主義」
(『衆會』第28号、2023年6月)

 10月19日と20日の2日にわたって講義した内容に手を入れたものですので、95頁もあります。奥付は6月30日刊行となっていますが、雑誌が届いたのは 本日です。

 この講義では、まず、日本における仏教と神、仏教と国家主義の関係について概説しました。そのうえで、「憲法十七条」が「神」にも儒教の「孝」にも触れておらず、仏教のみ重視していることへの非難に対する弁解として、聖徳太子は儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じて『五憲法』を作ったとされたことを紹介しました。

 太子が編纂したという触れ込みで17世紀後半に登場した偽史、『大成経』のうちの「憲法本紀」という形で偽作され、『大成経』に先駆けて個別に出版されたのです。偽作者やその信奉者たちが、いかに太子作と称する『五憲法』を重視していたかが分かりますね。

 その後、『大成経』も前半の正部が出版されましたが、幕府によって偽作と判定されて禁書とされ、出版に関わった者たちは処罰されました。しかし、『大成経』、とりわけ『五憲法』の人気は根強く、写本で伝えられて広く読まれました。

 『葉隠』を口述した山本常朝の儒教の師であった石田一鼎なども、武士のあり方とからめて『五憲法』の注釈を書いているほどです。その他、実に様々な系統の人たちが『大成経』や『五憲法』を信奉したり、利用したりしていました。

 その『五憲法』が、神道による国造りをめざした明治初期に浄土宗などで大歓迎されたのです。政府は、何よりもまず「敬神愛国」などを教えるよう僧侶たちに命じたため、その参考書として『五憲法』の注釈などが用いられたのですね。

 以後、ナショナリズムが高まるにつれ、また仏教批判が起きるたびに、仏教界は聖徳太子を持ち出し、太子を偉大な国家主義の先駆、「承詔必謹」を説いた国体論者として位置づけるようになっていきます。

 真宗の研究所の公開講座での講義ですので、井上右近・金子大栄・暁烏敏など真宗の僧が、いかに聖徳太子を国家主義と結びつけて戦争をあおったかについて語ったうえ、そのような僧や研究者たちが、戦後、いかに豹変したかについても簡単に触れています。

 この方面を専門に研究している人たちがほとんどである学会の部会での発表ではないため、研究者にとっては常識であるような事柄の説明、また私の悪い癖である雑談が多く、まとまりがありませんが、これまで知られていないことの指摘もそこそこ多いはずです。

 ただ、昨年10月の講義であって、この時点では『大成経』についても『五憲法』についても理解が不十分であったため、その面では不適切な記述、説明付則の点が目立ちます。

 私は以後、『五憲法』と『大成経』にのめり込んで猛烈に調べるようになりました。8月19日にベルギーのゲント大学で開催されたEAJS(ヨーロッパ日本学協会)大会の近代聖徳太子パネルで『五憲法』の受容について発表したほか、8月27日に東洋大学で開催された『大成経』の研究集会では東アジアにおける『大成経』そのものの位置づけについて発表するに至りしたので、今後はそれらも活字にしていくことになるでしょう。

 とにかく痛感することは、日本では何かあると聖徳太子が引っ張り出されるということです。

 講義録は、researchmap の私のサイトに PDFを置きました(こちら)。長くて申し訳ありませんが、これをざっと通読すると、江戸から戦後までの聖徳太子信仰と国家主義の関係のおおよその流れが分かるはずです。


物部守屋はマヘツキミ層から孤立していた?:篠川賢『物部氏の研究』

2023年09月10日 | 論文・研究書紹介

 蘇我氏が勃興する以前、最も強大であった豪族、物部氏については研究が進んできており、その代表例の一つが、

篠川賢『物部氏の研究【第二版】』
(吉川弘文館、2009年)

です。この研究書は広範な時代を扱ってますが、ここでは「第三章 物部氏の盛衰」のうち、「第二節 物部氏の衰退」を紹介します。

 まず、「1 物部守屋と蘇我馬子」では、敏達紀に見られる記事から検討を始めます。敏達元年四月是月条では、「物部弓削守屋大連」を元の通りに大連に任じたとあります。

 その前の欽明朝では、当初の大連は物部尾輿でしたが、尾輿の名は崇仏論争の後、見えなくなります。このため、それ以後のどこかの時点で、守屋が大連を受け継いだことになります。尾輿と守屋については、後の文献では父子としますが、篠川氏は確定はできないと述べ、物部氏の長がこの家系に固定されていたと見ることもできないと説きます。

 これは妥当な見解ですね。天皇にしても、この時代は同じ世代の候補者たちがほぼ年代順に即位していくのが通例だったのですから、大連も氏内で同様のやり方で引き継いでいた可能性もあります。それだけに、蘇我氏が稻目→馬子→蝦夷→入鹿 と長子相続が続いたのが異例であったと言えるのであって、私は馬子の弟と言われる境部摩理勢が山背大兄を支持して蝦夷に殺されたのは、蘇我氏の氏の長をめぐる対立もあったものと見ています。

 なお、「弓削」とあるのは、弓削(後の河内国若江郡弓削郷)に住んでいたためと見るのが通説ですが、篠川氏は、弓削部の管掌者(伴造)であったためである可能性もあるとします。

 次に、同十四年八月己亥条では、敏達天皇が没した後の「誄」の仕方をめぐって馬子と守屋が嘲笑しあったとする有名な記事を載せています。敏達紀では、この時の衝突によって「微に怨恨を生ず」とありますが、篠川氏は、これは「崇仏論争」によって既に対立していたとする記事と矛盾すると指摘します。つまり、別々に作成された記事を『日本書紀』編者が調整せずに利用したため、こうした結果となったと説くのです。

 このため、敏達紀における守屋の記事で読み取れるのは、大連であったことだけ、ということになります。ただ、敏達紀には物部贄子連という人物が見えており、これとともに列記されている人物たちは「大夫(マヘツキミ)」と見られるため、贄子も大夫であったと想像され、物部氏は一族から二人の大夫を出していたのであって、その強大さが知られるとします。後に蘇我氏も氏から二人、大夫を出しますね。

 その強大な物部氏が、守屋が殺されて衰退するのですが、敏達の後を継いで即位しようとした穴穂部皇子が守屋をつかわして三輪逆を殺させたところ、推古と馬子が穴穂部を恨むようになったとあるため、馬子と推古は同じ立場で用明の即位を支持していたと見られる、と篠川氏は説きます。言い換えれば、穴穂部と守屋が結託して用明の即位を否定しようとしたことも事実と見られるとするのです。

 そして、守屋合戦となるのですが、守屋の阿部の家から馬子のもとにつかわされた者たちは、いずれも大夫の下の伴造の者たちであったことに注意します。これは、有力な大夫を味方として交渉に派遣することができなかったと見ることもできますので、篠川氏は、当時は守屋は大夫層から孤立していたと推測するのです。

 また、この事件の際、大伴毗籮夫は守屋に対する強硬姿勢をとったと推定されるため、守屋合戦は、物部氏と大伴氏の対立という面もあったと説きます。

 守屋合戦の記事については、参加者たちの名前は事実に基づく可能性が高いとしつつ、厩戸皇子の活躍をあまりにも強調しているため、その記述をそのまま事実と見ることはできないとし、守屋が有していた奴と宅(の半分)を四天王寺に施入したという記述にも疑問を呈します。

 これはどうでしょうかね。斑鳩の西のあたりは守屋の勢力範囲であったのですから、まだ少年だった厩戸の意志はともかく、戦いに勝った馬子が自らその遺産を引き継ぎ、自分の妹の孫であって有力な天皇候補者であった厩戸皇子にもある程度分配したと考えるのは不自然ではないと思われます。厩戸と馬子の二人で戦いに勝ち、守屋の財産ほ二人で半分づつ分けた、といった書き方には潤色があると思われますが。

 いずれにせよ、守屋は討たれるのですが、篠川氏は、物部氏が滅亡したわけでなく、このことを「物部本宗家の滅亡」ととらえることも不適切と説きます。この当時の氏の構造から見て、「本宗家」といったものが確立されていたかどうか不明であるためです。

 また、守屋合戦当時、馬子側には大伴連・佐伯連・土師連などがついていたため、物部氏に代表される連姓氏族と臣姓氏族の対立を想定することはできないとします。

 蘇我氏を進歩派、物部氏を保守派とする見解についても、物部氏は早くから百済外交に携わっていたうえ、居住地の河内は渡来系氏族が多く、そうした氏族と関わりがあった以上、物部氏を保守派と見ることはできないとします。 物部氏も寺を建てていたから仏教反対ではなかったという昔の謬説(こちら)には触れていませんね。

 そして、「推測にすぎないが」とことわったうえで、その物部氏がかついだ穴穂部皇子が馬子に殺されたのは、敏達と推古の間に生まれた有力な大王候補、竹田皇子が死去したという事情があったためであって、竹田の死去により、崇峻は「中継ぎ」の大王ではなく、新たな王統の担い手になりうる状況が生まれたためかもしれないとします。

 そして、新たに大王候補となった厩戸が推古のもとで皇太子になったとする一連に記事については、「皇太子」といった語が示すような潤色はあったものの、おおむね事実と認定します。

 そして、守屋以後も隋使と応対した物部依網連抱の存在が示すように、物部氏は、推古朝にあっては大夫として国政に参加していたものの、次の舒明朝からは大夫の地位につくことはなかったようで、衰退していったらしいと説きます。

 篠川氏は、以後の物部氏の動向についても紹介していますが、ここまでにしておきます。ともかく、物部氏は守屋合戦のやや前あたりまでは最も有力な氏族であったことは事実ですので、後代になってその物部氏が伝えてきたと称して様ざまな伝承が言い立てられるようになるのは、無理もないと言えるでしょう。


「憲法十七条」の「和」は中国風に潤色された仏典の影響か:引田弘道「憲法十七条の和について」

2023年09月04日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」については、一般向けの解説本を出す予定ながら、あれこれ手を出していてなかなか取り組めずにいます。その一つが、『大成経』に含まれる5部から成る偽の「憲法十七条」です。

 この偽憲法の特色を明らかにするためもあって、「憲法十七条」に関するこれまでの研究も見直しているのですが、興味深い提言をしているのに日本史系統ではまったく注目されていないのが、

引田弘道「憲法十七条の和について」
(前田慧學編『渡邊文麿博士追悼記念論集 原始仏教と大乘仏教』(下)、永田文昌堂、1993年)

です。

 引田さんは、インドの仏教とヒンドゥー教などの研究者ですが、前田惠學先生と聖徳太子を調査した時期があり、前田惠學・引田弘道『人間聖徳太子』(講談社、1993年)は、多忙であった前田先生が序で書いているように、ほとんど引田さんの執筆によります。その本でも触れられていますが、同時期に論文として詳しく書いたのが上記の論文です。

 引田さんは、まず「憲法十七条」第1条の「和」に関する解釈を古い注釈から検討したうえで、「和の精神に基く合議が国の繁栄に不可欠であるとする記述」を、仏陀舎・竺仏念訳『長阿含経』のうちの『遊行経』に見いだします。

 『遊行経』は、梵文では『マハー・パリニルヴァーナ・スートラ』、つまり、仏性を説く大乘の『涅槃経』でない、伝統仏教の『涅槃経』です。古い形を伝えるパーリ語版は、『マハー・パリニッバーナ・スッタ』ですね。

 その漢訳はいくつかありますが、そのうちの『遊行経』は、跋祇国が栄えている理由として説かれた「七不退法」の最初の2条は、以下の通りです。

 一曰、教相集会、講論正義、則長幼和順、法不可壊。 

 二曰、上下和同、敬順無違(以下、同文)

つまり、そうした状況であれば、「年長者も若い人も和順するので、当然ながら破壊することはできない」というのですが、確かに「憲法十七条」の第一条と似ています。ただ、引田さんは、「長幼和順」の部分は、梵文テキストにもパーリ語テキストにも見えないと指摘します。「二曰」の「上下和同」の部分も同様です。

 私も昨年9月、パリで開催された翻訳シンポジウムでやった発表では、漢訳経典がいかに梵文を改変しているかを指摘しました(このシンポジウムは、年内にガルニエ書店からフランス語版で刊行されます)。漢訳では、「年長者を敬う」といった文を、「孝であって父母に仕え」などと変えてしまうのです。

 中国風に潤色された『遊行経』の「七不退法」が「憲法十七条」第一条に似ていることは確かですが、問題は、『遊行経』が聖徳太子の頃に読まれていたかどうかです。

 そこで、引田さんは『日本書紀』に見られる経典を列挙しますが、『勝鬘経』『法華経』『無量寿経』『大雲経』その他、大乗経典ばかりであって、阿含経典を含め、中国で小乘とされた経典は見当たりません。

 聖徳太子没後30年後、孝徳天皇の白雉2年(651)、味経宮に「二千一百餘の僧尼を請じ、一切経を読ましむ」とありますが、「二千一百」という数字は、隋の彦琮の『衆経目録』が収録した「二千百九部」とほぼ一致するため、当時の大蔵経を一人に一部ずつ読ませたとする説があります。

 『衆経目録』には、『超阿含経』が含まれているため、この説が正しければ、孝徳天皇の時には、『遊行経』が日本に渡ってきていたことになりますが、はたしてそうか。

 実は、私も「七不退法」との類似には気づいていましたが、『遊行経』は大乗の『涅槃経』と違い、中国でもあまり引用されていないうえ、三経義疏でもこの部分を引用していないため、直接の影響はなさそうだと考えてきました。

 ですから、『遊行経』の影響とする引田説には賛成できないのですが、この論文が、漢訳経典がインドの仏典の単なる翻訳ではなく、かなり中国風に潤色されていることを明確に示したことは重要ですね。SATやCBETAで簡単に検索できるようになったため、検索結果を利用する論文が増えたのですが、「仏教では」とか「経典では」と簡単に言うのは危険なのです。