聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

救世観音像は聖徳太子の生前に斑鳩宮の夢堂に安置されて礼拝されていたか:金子啓明「日本古代における秘儀と彫像」

2024年06月30日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺については、実に様々なものが論争となってきました。こんなに論争になるのは、法隆寺には日本最初であって比較する相手がないものが多く、いつ頃のものなのか年代を定めにくい、という点が大きいでしょう。

 そうした論争の一つが、前回の記事で触れた東院伽藍の夢殿の本尊、つまり、日本最初の木彫とされる救世観音像をめぐる論争です。これについて論じた最近の論文が、

金子啓明「日本古代における秘儀と彫像―法隆寺夢殿救世観音像について―」
(『芸術学』第25号、2022年3月)

です。金子氏は仏、東京国立博物館の彫刻室長などを務めた後、慶応大学文学部教授や奈良の興福寺国宝館館長などを歴任した像彫刻史の研究者です。このブログでは、以前、釈迦三尊像に関する論文を紹介しました(こちら)。

 金子氏は、救世観音像は大きな鼻も異様であり、不気味な生々しさをそなえており、眼は前方の礼拝者へのまなざしを持っているという指摘から始めます。

 そして、両手で捧げている摩尼宝珠について意味を説明します(私は以前、初期禅宗史における摩尼宝珠について論文を書いたことを思い出しました。最近は、自分で何を書いたか忘れていることが多い……)。

 救世観音像は、180センチもの長身でありながら脚部は重量感が希薄であって、逆に上に浮かび上がるような印象があり、また下半身の衣が横に広がっているため、前に向かってくるような感じがあるうえ、全身だけでなく台座も頭光も金箔であって光輝いているため、その印象が強められています。金子氏はこうした像を前にして礼拝するのは誰なのかと問いかけます。

 このようにこの像は工夫がこらされているものの、眼の作りはアーモンド形に成形された金堂の釈迦如来像よりも飛鳥寺の釈迦像の眼に近いため、金子氏はこの像の制作時期はその中間頃と推測します。そして、金色を強く意識している点で、小型の金銅仏を参考にしたと思われると説きます。

 となると、聖徳太子の没後すぐに建立された釈迦如来像以前の作ということになりますが、『法隆寺東院縁起』では、この像は太子の在世中に造立された等身の像と記していました。

 また、焼き討ちされた斑鳩宮からは若草伽藍から出た瓦よりひと回り小さい飛鳥時代の瓦が出ていることから、斑鳩宮には仏堂があったことが推定されていますので、金子氏はそこに安置され、太子が個人的に礼拝していたと見ます。

 現在の夢殿の古代の正式な名称は上宮王院ですが、鑑真の弟子である思託が書いた『上宮皇太子菩薩伝』では、太子が禅定のために一日、三日、五日と建物に籠もると、世間の人は禅定を知らないため、「太子、夢堂に入る」と言ったとあるため、8世紀後半にはそうした呼び方がなされており、それ以前から夢に関する何らかの伝承があったことが推察されると説くのです。

 古代には夢見の儀礼があり、崇神天皇紀には、沐浴斎戒して殿のうちに「神床」をしつらえ、そこで疫病の流行を鎮めるよう祈ると、大物主大神が夢に現れて託宣したとあります。金子氏は、太子はこれを救世観音像を前にしておこなったのではないかと説きます。

 さて、どうでしょう。材質の年代調査などをしないと確定はむつかしいでしょうが、仏像を見る場合、誰がどのような目的で造立し、誰によってどのような目的で礼拝されたかを考えることは確かに必要ですね。


法隆寺聖霊会は元々は『法華経』講経が中心で梅原猛が騒いだ蘇莫者など登場しない:高田良法「法隆寺聖霊会成立について」

2024年06月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 梅原猛が、法隆寺は怨霊となった聖徳太子のための鎮魂の寺だとするトンデモ説を発表したのは、法隆寺の聖霊会で、異様な出で立ちで荒ぶるような蘇莫者の舞楽を見、「太子の怨霊だ!」とひらめいたことがきっかけでした(こちら)。ひらめき大先生ですね。

 しかし、法隆寺における聖徳太子の忌日法要である聖霊会は、もともとは『法華経』講経が中心であって、舞楽などはおこなっていませんでした。その聖霊会について論じた最近の論文が、

高田良法「法隆寺聖霊会成立について」
(『奈良美術研究』第23号、2022年3月)

です。

 名前から推察できますが、法隆寺の管長もつとめ、法隆寺の歴史研究で知られた高田良信師のご養子である由。『奈良美術研究』は、奈良をこよなく愛した会津八一が育てた早稲田大学の美術史の研究者たちで構成されている奈良文化研究所の雑誌です。

 私は八一が好きだったので、大学時代は、八一の弟子である書道史の加藤諄先生の授業に出て、八一の思い出を聞きました。私が駒澤大学仏教学部に在職していた時に社会人入学で入ってきて、私の授業に2年間、最前列で無遅刻無欠席で出席していた萩本欽一さんが退学した際は、独自の書風で知られた八一の「游於藝(芸に遊ぶ)」という字が記されたバッグに八一の図録を入れて贈ったりしたことでした。

 それはともかく、高田氏は、現在の法隆寺の聖霊会は、東院伽藍の夢殿前から行列が出発し、西院伽藍の大講堂前まで練り歩き、そこで法会を開催することになっているのは、元禄4年(1691)に始まると述べます。しかし、聖霊会は、元々は夢殿を中心とする上宮王院(東院)で太子の忌日法要として行われていたのであって、南都楽所が出仕して舞楽や雅楽を奏するのは後代になっての型式なのです。

 その上宮王院が成立したのは、『法隆寺東院縁起』によれば、天平7年(735)の12月20日に、春宮坊(皇太子を担当する役所、実質的には皇太子)が聖徳太子および現在の天皇のために『法華経』講読の施料を寄進し、翌年の2月22日、つまり太子の忌日に法師の行信が、皇后宮職の長官、安宿部真人らを率い、道慈律師を講師に迎え、多くの僧尼を聴衆として『法華経』講経をおこなったのが起源です。

 この記述については、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が皇太子になる前であるのに春宮坊とあるのはおかしいなどの疑義が出されていましたが、反論も出されており、高田氏は、実質としては、光明皇后が娘の阿倍内親王を表に立て、若い頃からの自分の側近である安宿部真人に指示して取り仕切らせたものと見ます。

 開催された場所については、近藤有宜氏が、資材帳などの記述から見て、天平8年の講会の際の寄進は法隆寺に、翌年の寄進は上宮王院になされていることを指摘しているため、天平は8年は法隆寺で、翌年は造営された上宮王院でもよおされたと高田氏は推測します。

 実際、『東院縁起』によれば、天平19年(743)に摂津の住吉郡と加古郡の墾田が上宮王院に施入されており、『東院資材帳』にもこれに対応する記述があるため、これらは『法華経』講会のための資財として寄進されたことが分かります。

 ただ、この『法華経』講会はやがて廃絶したようで、『東院縁起』によれば、貞観元年(859)に道詮が朝廷に働きかけ、平群郡の水田七町が講会および堂舎の修理のために施入され、講会が復活しています。

 この講会が「聖霊会」と呼ばれるようになった初出は、『法隆寺別当記』によれば、興福寺の僧であって承保2年(1075)から完治8年(1094)に亡くなるまで法隆寺別当を務めた能算の時です。この能算は後冷泉天皇・白河天皇などに祈祷などで奉仕した人物で、その褒賞として法隆寺別当となったようです。

 この能算が聖霊会を2度おこなっており、寺僧たちの反発を買ったようです。次の二代の別当の時はおこなわれておらず、その次の興福寺僧の定真が別当になっていた時期の記述に、「聖霊会料ならびに舞装束六具」が朝廷から下されたとある由。つまり、行信の頃の『法華経』講会とは異なってきたのです。

 その少し後に、経尋が法隆寺とは別組織だった上宮王院を法隆寺の管轄下に置き、また法隆寺西院伽藍に聖霊堂を建立し、聖徳太子信仰・法要の主導権を握るのですが、これについては高田氏が別の論文で扱ってますので、別に紹介します。


天皇は和語の漢字表記であって「スメラミコト」などの「スメ」は大化前代から:馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」

2024年06月22日 | 論文・研究書紹介

 先に「天寿国繍帳」の絵柄について検討した論文を紹介しました。その「天寿国繍帳」で最も問題になるのは、銘文に「天皇」という語が見えることでした。このため、「天寿国繍帳」の成立時期をめぐって論争が続いてきたわけですが、その天皇の語について興味深い考察をしたのが、

馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」
(『日中文化学報』第1号、2020年)

です。

 馬梓豪氏については、前にも論文を紹介しました(こちら)。今回は、日本人研究者が「天皇」という語に注意しすぎていて、他の称号について十分注意していないとし、他の称号について詳しく検討した論文であって、面白い結論を導きだしています。視点が斬新ですね。

 馬氏はまず、天皇号の研究史を概説し、推古朝説から天武天皇時代説へと移り、ついで天智天皇時に既にあったとする説が有力となり、最近では、新たな推古朝説も出てきていると説きます。

 そして、基本となる『養老令』の規定から見てゆきます。ここでは、「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」と規定されています。このうち、陛下・乗輿・車駕は正式な称号ではなく、場合による敬称・美称に近いものです。

 次に、日本の律令の手本となった唐の律令は失われていますが、『唐令拾遺』に見える対応部分は、こうなっています。「皇帝・天子。華夷之を通称す。陛下。咫尺に対揚す。上表之を通称す。至尊。臣下内外之を通称す。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」。まさに、そのままであって、ちょっと違うだけですね。

 一方、『養老令』の官撰の注釈であって9世紀初めに成立した『令義解』では、「天子」の部分について、「謂ふ、神祇に告ぐるには天子と称す。凡そ天子より車駕に至り、皆な書記に用ふる所。風俗に称する所にいたり、別に文字に依らず。たとひ、皇御孫命(すめみまのみこと)及び須明楽美御徳(すめらみこと)の類なり」とあります。訓は古い形です。

 また、9世紀中頃に成立した私撰の注釈である『令集解』でも同じような説明がなされています。つまり、「天子」や「天皇」などは文書に書く際に用いるものであって、口頭の場合は、「スメミマノミコト」とか「スメラミコト」と呼ぶのであって、漢字に依らないとするのであり、これを文書にする場合はいろいろな漢字表記がなされた、ということです。

 ただ、『唐丞相曲江張先生文集』巻11の「勅日本国王書」では聖武天皇のことを「日本国王 主明楽美御徳」と呼んでいますし、『続日本紀』にもこの類の呼び方がかなり見えています。

 そこで、馬氏は、『養老令』の規定は建て前であって、実際には内政や外交の場でも「スメラミコト」を自称・他称として使う傾向があり、「スメミマノミコト」は『延喜式』の祝詞によく見えるため、祭祀にあたって使う傾向があったと推測します。

 馬氏は、唐令では皇帝を天子より先に置いたのに対し、日本では天子号を優先させ、祭祀に用いるとしていることから見て、日本の「天子」号は唐とは異なる概念に基づくものと見ます。つまり、日本の天子号と、唐令には見えない「太上天皇」号は、日本独自のものとするのです。

 そして、『養老令』の「公式令詔書式条」によると、「(一)明神と御宇らす日本の天皇が詔旨らまと云ふ。咸く聞きたまへ。(二)明神と御宇らす天皇が詔……(三)明神と御大八州らす天皇が詔……(四)天皇が詔……」とあり、冒頭に置かれていて「明神御宇日本天皇」こそが最も荘重であり、「天皇」だけの場合は簡単な呼び方ということになります。

 馬氏はさらに様々な例を検討し、「天皇」というのは、日本独自の君主号の呼び方のうちの書記用の一つにすぎなかったと説きます。そして「スメ~」という語の重要性を強調し、上代文献における「皇」の字に関する白藤禮幸氏の研究では、「皇」は「王」の字の増画であって、「天皇」は日本的な漢語であったとしていることを紹介します。

 白藤氏の研究とは、「上代文字研究 各論(一)―「皇」をめぐって―」(万葉七曜会編『論集 上代文学』第一六冊、1988年)であって古いものですが、重要でありながら最近はあまり引用されていないため、このブログでも紹介したいですね。

 馬氏は、「王」の語は単独で用いられることが多いのに対し、「皇」の語は熟語で用いられる例が多く、その半分が「天皇」のような日本的漢語であるとする白藤氏の指摘に注目し、『日本書紀』では「吉備嶋皇祖母命(すめみおやのみこと)」などの用例から見て、「スメ(皇)」を含む語の成立は大化前代までさかのぼりうるとします。

 そして、「スメラミコト」は「天皇」以外の表記が多く見られることからすると、天皇号の本質は「スメラミコト」のように「スメ」をつけた語、それも書記用でない「風俗用語」にあると説きます。「風俗」とは、それぞれの土地の習慣を指す漢語であって、ここでは当時の日本のしゃべり言葉のことです。「天皇」という称号は、そうした言葉の漢字表記の一つにすぎなかったと見るのです。

 馬氏は、さらに「明神」という言葉について検討していきますが、これについては簡単に紹介するにとどめます。馬氏は、天孫神話では、天皇だけでなく他の氏族も天の神の子孫とされていたが、古代の日本では見えない存在であった「神」が、天皇が「アキツカミ」とされることにより、現実にいる神として位置づけられ、別格の存在とされたと説きます。

 つまり、「明神」とされた「天皇」は、氏族制時代の呪術的な観念を受け継ぎながら、飛躍的な神格化を達成したのであり、7世紀後半から8世紀初めにかけて成立した律令は、氏族制頃の観念と唐に学んだ律令制の両面をそなえた「過渡期的な性格があった」と結論づけるのです。

 前に触れた森田悌氏が、「天皇(てんのう)」は呉音で発音されているため、「皇后・皇太子」のように「皇」を「コウ」と漢音で発音する律令以前の成立とした際、スメラミコトを須弥山(スメール)に依るものとしたのは無理そうですが(こちら)、「スメ」の概念を重視し、「すめらみこと」としての「天皇」の語の成立は早いとするのは大事な点ですね。

 「天寿国繍帳」銘同様、律令で定められたはずの「天皇」の語が用いられているという理由で、推古天皇を「大王天皇」と呼ぶ薬師像銘も「法王大王」と記された「湯岡碑文」も後代の作と疑われてきました。しかし、竹内理三「”大王天皇”考」(『日本歴史』第51号、1952年8月)は、薬師像自体は後代の作であるにしても、「大王天皇」などという妙な呼び方をしていることこそが「天皇」の語の成立事情を示すものであるとし、推古朝の呼び方である証拠としていたことが、卓見として思い起こされますね。


カテゴリー名を変更

2024年06月20日 | このブログに関するお知らせ

 このブログでは、聖徳太子はいなかった説やトンデモ説を批判してきました。そうしたデタラメ説のうち、国家主義的な主張が目立つ主張を紹介して批判するために、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」というコーナーを新設したのですが、戦前を思わせる国家主義的な主張を強く打ち出さないものの、あるいは自分では自覚していないものの、中身は似たような議論をしている例が目立つようになってきたため、コーナー名を、

史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

と変更することにしました。

 「国柄」という補足を入れたのは、戦前・戦中に猛威を振るった「国体」の語の言い換えにすぎない「国柄」の語を用いたり、用いていなくても、史実と異なることを古代以来の日本の伝統だと主張し、実質上、そうした議論をしている本や論文を含むようにするためです。

 「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」コーナーでとりあげた論文は、今回新設したコーナーに入るべきものでですが、このコーナーは残しておきます。

 誤解されないように書いておきますが、私は日本の文学・芸能に関する論文を多数書いていることが示すように、日本の文化は大好きですし、自然な形で保たれてきた本当の伝統は尊重しています。ただ、史実を無視した形で「日本の伝統」なるものを声高に語り、誇る傾向は、自分では善意のつもりでも、危険な働きをする可能性がありますので、このコーナーで警告することにした次第です。


天寿国繍帳の神仙思想的な月像に見える古代韓国の影響:徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島」

2024年06月18日 | 論文・研究書紹介

 後代の作とする説もある「天寿国繍帳」の銘文は、亀の甲羅の柄に4文字づつ刺繍していっており、全部で400字となっています。前半は太子の妃である橘大郎女が、太子と自分はともに欽明天皇と蘇我稻目の娘の血を引いていることを誇る系譜です。

 ですから、残りの200字のうちに、太子の母と太子自身が亡くなったこと、橘大郎女の悲嘆ぶり、太子が往生したところが見たいという橘大郎女の願い、橘大郎女の祖母である推古天皇が気の毒に思って宮女たちに命じてこの繍帳を刺繍させたことを盛り込まねばならないため、1字でも無駄にしたくないはずです。

 しかし、銘文の末尾では、「画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)」となっており、作成した工人たちの名がずらずらと記されています。しかも、釈迦三尊像銘に一人だけ記された鞍作止利のような有名な人物はいません。

 聖徳太子が我々の寺にこれこれの土地を寄進したとか、太子が私の先祖を〇〇の役職に任命した、といったような文書なら、紙一枚書いて古く見せかければ良いだけです。実際、後代にそうした文書がたくさん偽作されていますが、手間暇掛けてこんな字数の無駄をした銘文を刺繍した豪華な偽物を作るはずがないと考えるのが普通でしょう。

 しかも、絵柄は漫画のようであって稚拙です。これに対して、繍仏などに見られる奈良時代の刺繍は、きわめて精緻であって見事な美術工芸品となっています。かの大山誠一氏は、兄弟たちが次々に疫病で倒れたため、太子に救いを求めようとした光明皇后が、橘大郎女という若い女性の姿を借りて自分の思いを託し、この繍帳を作らせたなどと、古代小説のような妄想をしていました。

 私が光明皇后なら、「私が作らせたなら、こんな稚拙な絵柄の刺繍はさせない!」と怒って名誉毀損で訴えたいところです。太子への思慕が強すぎると、その思いを銘文に盛り込んだりせず、工人たちの名前をずらずら並べて字数を使ってしまいたくなるんでしょうかね。

 それなのに後代作説がかなり盛んでした。古い要素があることも確かなので、東野治之氏などは、原型が推古朝にあったことを認めたうえで、現在の銘文には新しい表現と考えられる部分があるため、天武天皇の頃に文言を訂正して模作したと推定しています。これは真作説と偽作説の中間説ですね。

 その「天寿国繍帳」について、神仙思想的な絵柄の面から、中国→韓国→日本という流れを追った最新の論文が、

徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島―渡来系工人と日月像を中心に―」
(『奈良學研究』第26号、2024年2月)

です。徐氏は帝塚山大学大学院の博士課程に在学中であって、この論文は修士論文に基づく由。

 「天寿国繍帳」は現在は断片しか残っておらず、その銘文を記録した文献がいくつかあるだけですが、工人たちの名前は同じです。東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利・椋部秦久麻ですので、秦氏、東漢氏、高麗氏、漢氏であって、すべて渡来系なのです。徐氏は最後の「令者」、つまり監督者については、繍帳の断片のうち、亀の甲羅部分がのこっている箇所に「利 令 者 椋」とあって、記録通りであることに注意します。

 徐氏は、蘇我氏は百済・伽耶の出身であるため、父母とも蘇我氏の血を引く太子は百済・伽耶系とする門脇禎二説を引きますが、蘇我氏の出自については明確な証拠がなく、諸説乱立の状況である以上、これで決まりといった引用の仕方は避けるべきですね。あと、蘇我氏は東漢氏を合併したと述べていますが、配下に置いたと記すべきでしょう。

 徐氏は、制作者として名があげられているのは、すべて渡来系である点を改めて強調したうえで、高句麗の影響もあると指摘した吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」(『文化財学報』31号、2013年)をあげます。この論文については、このブログで以前紹介したことがあります(こちら)。

 さらに、大橋一章・谷口雅一『隠された聖徳太子―復元・幻の天寿国』(日本放送協会、2002年)のうち、谷口氏が、百済の故地にある韓国の国立扶余博物館館長の徐五善氏に「天寿国繍帳」を見せたところ、鐘堂の部分が百済山水山景文塼に描かれた建物に似ていること、繍帳の鳳凰の図が扶余陵山里寺院跡出土の百済金銅大香炉の頂上の鳳凰と似ていること、また、百済武寧王陵から出土した王妃の枕に描かれた鳳凰と似ていると指摘されたことを紹介します。

 谷口氏自身、王妃の枕に描かれた変化生(へんげしょう:奇跡として空中などにポンと生まれること)に似ていることを指摘しています。

 以上が前置きであって、徐氏はこれまで注目されていない月像に注意します。月像というのは月の絵であって、繍帳では、丸の中の中央に首の長い壺が描かれ、左に大きなウサギ、右に枝と花が描かれています。

 この月像については、1949年の青木茂作『天寿国曼荼羅の研究』(鵤故郷舎出版部)が既に中国の画像石や高句麗の古墳壁画などと比較して詳しく論じてています。

 月像があれば日像もあったはずですが、現在残っている繍帳の断片には見当たりません。ただ、玉虫厨子では須弥山図のうちに日像が描かれています。この日像・月像に関する最近の研究としては、西川明彦「日像・月像の変遷」(『正倉院年報』第16王、1994年)があります。

 徐氏はこれらの研究を承け、月像の検討を始めます。まず、中国では『楚辞』「天問」に「菟、腹に在り」という句が見えます。前漢の馬王堆漢墓1号墓から発見された帛画にはウサギとヒキガエルが月の象徴として描かれていました

 西川論文は、漢代の月像の遺品については中国中央の陝西省甘泉宮で出土しているほか、北地の中国吉林省集安、そしてそれに隣接する朝鮮の平壌に集中することに注意します。この時期は、漢が朝鮮北西部に楽浪郡を置いて北部を支配していた時期です。

 中国江蘇省では、左側に不老不死の薬をキネで搗くウサギ、右側に月桂樹を描いた5世紀後半の画像磚がでており、6世紀後半の高句麗内里1号墳壁画には、丸のうちに左側に月桂樹、根元には薬瓶の下部のようなもの、右側には動物の足のようなものが見ますす。山東省にまで広がっていたのです。

 さらに時代が下ると、不死の薬の入れ物を示す瓶や月桂樹などが描かれるようになり、唐代の鏡には中央に月桂樹、左側に飛天、右側にキネをつくウサギが描かれている例も見えるようになります。

 「天寿国繍帳」はそうした形ではないので、唐代以前の古いタイプですね。しかも、中国の伝説によれば月に生えている巨木である月桂樹のはずでありながら、ひょろっと長く伸びた1本の草花のように見えるのは、唐代の鏡などの文様を見ておらず、理解できていない証拠です。「天寿国繍帳」を後代になって作ったなら、唐の様式が反映していそうなものですが。

 このように、月像図は中国→韓半島→日本へと伝わるうちに変容し、「天寿国繍帳」の月像となったのです。月でウサギが餅を搗いているということになったのは、もっと後になってからのことです。


鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条は「十七条憲法」の三倍ではない:佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」

2024年06月13日 | 聖徳太子信仰の歴史

 貞永元年(1232)に出された鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」の17を3倍にしたものだ、というのは良く聞く話です。しかし、確実な証拠はありません。そこで、この説について検証してみたのが、

佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」
(『古文書研究』第95号、2023年6月)

です。

 佐藤氏は、戦前から既にそうした説がなされていたものの、「御成敗式目」成立当初にはそうしたことを述べた記録はないとし、これを言い出したのは16世紀の「御成敗式目」の注釈書、清原宣賢の『式目抄』だと指摘します。なお、佐藤氏は「十七条憲法」という言葉を使っていますので、以下、その言い方に従います。

 『式目抄』では、「十七条憲法」の十七条に天・地・ 人の三つをかけて三倍にしたのが五十一であって、これは清原家の口伝だと述べていました。しかし、佐藤氏は、『式目抄』は式目作成者の六名を六地蔵・六観音とし、式目に付された起請文に署名した13人を「十三仏」を表すとするなど、神仏に引きつけて数字を解釈する傾向が目立つとします。

 ただ、「御成敗式目」を「十七条憲法」と結びつけて解釈することは、16世紀には広がっていたそうです。そこで古い例を探すと、永仁4年(1296)に成立したとされる斎藤唯尚の注釈、『関東御式目』では、北條泰時は大賢人であるため、五十一という数字には由来があるに違いないが不明だと書いていました。

 戦後になって佐藤進一が1965年に二段階成立説を唱えると、3倍説には批判もなされるようになりました。佐藤氏は、これらの議論は、複数の条項をまとめたり削除したりすることによって五十一という数に合わせたという見方、つまり、五十一という数字に意味があるとする前提に立つものとします。

 そして、中世の武家の式目の場合、追加されていくことは珍しくないのであって、五十一という数を重視するのは十七の三倍説に縛られたものではないかと述べます。

 ただ、「五十一箇条」と呼ばれたのはなぜかと問題提起し、当時は「一、……の事」といった形の箇条書きの文書を、「〇箇条」と呼ぶのは一般的であったと指摘します。そして、「御成敗式目」は幕府の中で条目が追加されていったものの、世間に流れ、武家の「式目」として知られたのは五十一箇条のものであったことに注意します。

 そうした中で、治世者としての北條泰時の評価が高まった結果、五十一という数字には深い意味があるはずとされるようになったのであって、その動きは13世紀末には既に始まっていたと見ます。

 そして、式目注釈をなした是円が起草メンバーとなった1336年の『建武式目』は、聖徳太子の「十七條憲法」を意識して十七箇条から成っていました。また、元の「十七条憲法」についても、文永9年(1272)に法隆寺で「談義評定」を経て注釈が造られ、弘安8年(1285)には版木で印刷されるなど、注目を集めていました。

 つまり、「十七条憲法」評価と五十一条の「御成敗式目」評価の高まりは平行していたのです。その背景には、多数の条目の法があるのは世が乱れている証拠であり、十七条とか五十一条ですんだ時代は統治が素晴らしかったのだ、という認識が鎌倉後期の知識人にあったと、佐藤氏は述べます。

 「御成敗式目」の起草者の一人とされる玄恵は、「十七条憲法」の注釈の作成者とみなされていますが、その注釈には、五十一条はもとより、十七という数字に関する説明がないことに佐藤氏は注意します。玄恵の注釈に対する注釈、『聖徳太子御憲法玄恵註抄』になると、『式目抄』の説が組み込まれるようになるのです。

 以上のことから、「御成敗式目」制定時点では、「十七条憲法」の十七条を三倍にして五十一箇条にするという意識はなかったと、佐藤氏は結論づけます。まあ、そうでしょう。ですから、古典を研究する際は、その本文の研究だけでなく、研究史の研究が必要なのです。

 なお、玄恵は「憲法十七条」だけでなく、『太平記』の作者とされるほど、いろいろな文献の作者とされた大学者でした。玄恵については、中世文学会のシンポジウムに招かれた際、その特質と伝承について発表し、論文にもしてあります(こちら)。


法隆寺再建説でも非再建説でもない自説を92歳で補強:鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」

2024年06月08日 | 論文・研究書紹介
 近代日本の美術史・建築史を発展させたのは、100年以上続いた法隆寺の再建・非再建に関する大論争でした。この論争は、昭和14年(1939)12月に始められた法隆寺西院伽藍の南東部の発掘調査により、聖徳太子が創建した法隆寺=斑鳩寺(若草伽藍)は焼失したこと、それとほぼ同規模である現在の法隆寺西院伽藍は後代の造営であることが確定しました。
 
 ところが、論争はまだ続いています。というのは、西院伽藍が当初の法隆寺ではないことは確定したものの、天智天皇9年(670)に全焼した後に現在の地で建て直したにしては、金堂の様式や本尊である釈迦三尊の様式が古すぎたからです。
 
 むろん、再建に当たっては、建物にしてもそこに安置する仏像にしても、以前の様式を受け継ごうとするでしょうが、それにしても、670年以後、8世紀初め頃までに造営された他の寺院の建物や仏像と比べて古式な点が目立つのです。非再建説が提唱されたのもそのためでした。
 
 そのため、釈迦三尊像については、火事から救出されたとする説(たとえば、こちら)があるほか、現在の金堂の本尊としては小さすぎるため、他の太子関連の寺、ないし、斑鳩宮内にあった仏堂に安置されていた仏像を再建法隆寺の本尊としたのだとする説(たとえば、こちら)などが出されました。
 
 また、金堂についても、九州王朝の寺を解体して斑鳩まで運んできて建てたなどというトンデモ説はさておき、大和の他の地域から移築したとする説も出されました(こちら)。
 
 このように諸説が乱立する中で、東大の建築科出身の建築史研究者であって、奈良文化財研究所に発足時から勤務して長年、奈良の古寺の修理に携わり、最後にはその所長も務めた鈴木嘉吉氏は、昭和61年(1986)に新説として「法隆寺新再建論」を発表しました。
 
 つまり、金堂は若草伽藍の焼失前に、聖徳太子を偲ぶ堂として造営され始めていたのであって、釈迦三尊像は斑鳩宮内の仏堂に安置されていたと主張したのです。
 
 以後、法隆寺については修理にともなって研究がさらに進み、年輪調査による木材の伐採年調査の成果なども出て議論が再び活発になりました。そうした中で、鈴木氏が最後に発表したのが、

鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」
(『仏教芸術』第8号、2022年3月)

であって、鈴木氏はこの年の12月に93歳で亡くなっています。論文が出たのが3月となると、提出はその半年ほど前でしょう。つまり、この論文は生涯をかけた研究の結論となる遺作なのです。

 この論文では、法隆寺再建非再建論争をざっと振り返り、昭和の大修理では、金堂の礎石は他から転用されたものが混じっていること、また修理工事の責任者であった竹島卓一は、まず金堂だけを独立して建て、後になって五重塔などを加えて伽藍を整備することになった結果、全体の地盤を現在の状態まで掘り下げたと指摘したことに注意します。

 そして、自分はこれらの問題を説明できる説として、昭和61年(1986)に「法隆寺新再建論」を発表したと述べます。その論文は、現在の西院伽藍の金堂は、内陣が四方吹き放しの開放的な造りであり、扉が外開きであるのも異例であるうえ、釈迦三尊像などが建物の中心より前寄りに安置されていることなどから見て、金堂は、最初は若草伽藍の西北の小高い場所、つまり現在の場所に建てられた聖徳太子を偲ぶ廟堂だったと説いた、と紹介します。釈迦三尊像は、隣接する斑鳩寺の宮のうちにあったと推定されている仏堂に置かれていたと推測したのです。

 鈴木氏は、これらは状況証拠に基づく議論だったが、平成15~16年におこなった年輪年代調査によって、西院伽藍の造営年代が分かったことにより、上記の推定が「ほぼ確実になった」と述べます。

 というのは、金堂の初重(一階部分)の天井板は、内陣・外陣部分は主に667年・668年に伐採されたものでした。つまり、670年に若草伽藍が焼ける前に準備されていたのであって、火事の時には初重は既に完成していたと見るのです。

 現在の金堂初重の内陣上方で井桁型になっている天井桁の両端には、上の部分を支える柱を据える柱盤が組みめぐらされていますが、そこには別のほぞ穴が残っており、現在の上重の切妻屋根部分をその上に載せると、玉虫厨子のような一重錣葺の屋根が作れると竹島が指摘していると述べ、鈴木氏はそれに賛成します。

 つまり、金堂は初めは単層の廟堂として建てられたのであって、670年段階ではまだ瓦を葺くには至っていなかったと見るのです。寺では、どの場合でも瓦は最後に葺かれ、それまでは木の板で覆われます。

 記録によれば、火災の後、しばらく寺地が定まらず、一部の僧侶や役人が他の寺に移ったとされていますが、鈴木氏は、これを、元の若草伽藍の地に建て直そうとした派と、初重まで造られていた現在の地の廟堂を中心として伽藍を整備しようとした派の対立を示すものと見ます。

 結局、この廟堂を中心にして再整備することに決まり、廟堂の周囲を堀り下げて伽藍の地を造成した結果、廟堂の基壇はそれまでの倍の高さの二重基壇となり、それまで一重だった廟堂の上に、当時の寺院の型式に合わせて二重目を載せて伽藍の中心となる金堂とした、と鈴木氏は推測します。

 そして、若草伽藍では中門、金堂、五重塔は南北に並んでいたものの、再建法隆寺では、最初の勅願寺となった舒明天皇の百済大寺にならい、塔は金堂の西に並べることにし、当時は地上に心礎を据えるのが普通になっていたものの、飛鳥寺や若草伽藍と同様に、地中深くに心礎を据える古い型式で塔を造営したと見ます。

 塔の二重目の西北隅肘木の年輪年代は673年であって、伐採は塔の建立年代に近いと考えられるため、670年代の後半には塔の建立も始まったものの、大化4年(648)以来与えられていた食封300戸が天武8年(679)に停止されたたため、塔の工事は中断されたと見ます。塔の心柱に風触の跡が見られるのはそのためとするのです。

 この工事が再開されたのは、持統7年(693)に法隆寺を含めた諸自院で行わせた仁王会であったと鈴木氏は推測します。『法隆寺伽藍并流記資材帳』ではこの時、持統天皇から紫の(天)盖、経台、帳などが施入されたとしており、これまではこの記事によって、少なくとも金堂はこの時期には再建されていた、と見られていました。

 鈴木氏は、平成16年の天蓋修理の際、中の間と西の間の仏像の上の重厚な金属製の箱形天蓋をつるす金具は当初のものと判定されたものの、東の間に安置された薬師如来像の頭の上に現在は使われていない吊金具、それも軽量のもの用の金具を後から付けてあることが発見されたことに注目します。

 というのは、『資材帳』で持統天皇が施入した天蓋は「紫」と記されているのは、当時流行していた軽い布製の天蓋であったことを示すのであり、それが薬師像の上に設置されたのは、薬師像の光背銘が朝廷から認められたことを示す、と鈴木氏は説きます。

 そして、これをきっかけにして伽藍整備が進み、聖徳太子を敬慕する近隣の者たちの助成もなされたと推定します。中門は大斗の年輪から700年頃から着工されたようです。

 鈴木氏は、薬師像銘については有名であるためか、内容に触れていませんが、この銘は病状が重くなった「池辺大宮治天下天皇(用明天皇)」が、「大王天皇」と「太子」に造寺造像を命じたものの、亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王」が遺命にしたがって建立した、と述べており、「天皇」の語が見えるため後代の偽作とされてきたものです。

 しかし、竹内理三は、「大王天皇」などと呼んでいるのは律令以前の表現である証拠としていました。今回の鈴木氏の遺作論文により、そのことが立証されることになりましたね。

 むろん、薬師像は釈迦三尊像より後の時期の作ですし、像よりさらに遅れるであろう光背銘の内容は事実ではありませんが、法隆寺を復興させようとした者たちがこれまで推測されていた7世紀後半よりも早い時期、少なくとも律令が制定される前に作成した可能性が高いということになるのです。

 鈴木氏は、ここでは紹介しませんが、法隆寺の次に、白鳳建築ないしそれに近いものとして伊勢神宮と薬師寺東西塔について検討しています。92歳だったのですから、その学問的な努力に頭が下がります。

 なお、鈴木氏については、氏に鍛えられた建築史学者の藤井恵介が、『仏教芸術』第10号(2023年3月)に「鈴木嘉吉先生を偲ぶ」という追悼文を寄せています。


逆臣の守屋が地蔵菩薩や熊野権現へと変化:伊藤純「聖徳太子と物部守屋」

2024年06月03日 | 聖徳太子信仰の歴史

  『日本書紀』の守屋合戦記事では、厩戸皇子が四天王に誓願したからこそ勝利したように描かれていますが、それ以外の部分では、名前も他の皇子たちの後に記され、少年の身であって軍勢の最後につき従っていたと書かれています。

 それが実状でしょう。ところが、後代の太子伝になると、厩戸皇子自身が先陣をきって勇ましく戦ったように描かれるようになります。中には太子自身が守屋を討ち取ったとする太子伝も登場しますが、そこで問題になるのは、仏教を広めた太子が「殺生」をするのはいかがなものか、という問題です。

 この問題を解決するため、守屋が仏教導入に反対したのは、仏教を広めるためにわざとやったのであって、守屋は『法華経』の言葉を唱えながら亡くなった、と説く太子伝も造られました。

 そうした筋を、煩悩の元である無明と、真理のあり方である「法性(ほっしょう)」の戦いとして展開した『無明法性合戦物語(合戦状)』なども中世には書かれています。

 これは、前にこのブログで書いたように(こちら)、四天王寺周辺には守屋側の人間であって四天王寺に属させられた者たちがかなりいたことも関係しているかもしれません。そうした人たちは、守屋を弁護したいでしょう。

 それとは作成グループが異なるかもしれませんが、とにかく守屋を弁護しようとした試みの一つを扱ったのが、

伊藤純「聖徳太子と物部守屋―逆臣守屋から地蔵菩薩守屋へ」
(『日本文化研究』第55号、2024年3月)

です。伊藤氏については、これまでも聖徳太子の有名な肖像画、「唐本御影」は、近世には秘蔵されていなかったことを明らかにした論文などを紹介したことがあります(こちら)。

 伊藤氏はまず、『日本書紀』では跡見首赤梼が樹に登って矢を射ていた守屋を射おとして守屋とその子などを「誅」したとあって、罪ある者を殺す「誅」の語を用いていることが示すように、守屋を逆臣として描いていることに注意します。

 ところが、平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』になると、太子が誓って矢を放つと守屋の胸にあたり、守屋が樹から落ちたところを、「川勝」がその頭を斬った、となっています。

 ところが、『聖徳太子伝暦』になると、太子は「守屋は生まれ代わるたびに仏教を破壊する族であった」が述べたとしつつ、仏法を興す時もつき従っており、「影と響きの如し」とします。

 それが、嘉禄3年(1227)頃の四天王寺系『太子伝古今目録抄』となると、「権者は仮に悪人を示し、衆生を化す」とあって、守屋はわざと悪人の姿を示して仏法を興隆させたとされており、四天王の一体を毎日供養するのは、「守屋の菩提の為なり」と述べており、仏法流布の仲間扱いとなってます。

 以上は四天王寺系の文献でしたが、延応元年(1239)頃の法隆寺系の『古今目録抄』でも、「太子守屋共に大権菩薩。仏法を弘めんと為し、此の如く示現す」と説くにいたっているとします(「弘めんが為に」ですね)。

 なお、守屋のイメージがこのように変化したことは、先行研究、特に松本眞輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(新典社、2007年)でまとめてろんじられています。

 さて、以後も太子と守屋のイメージは代わっていきますが、応安5年(1372)の『顕真得業口決抄』では、馬子が与えた太刀で川勝が守屋の首を切ったとし、「或る説に云う」として、「守屋は地蔵の化身」と述べ、仏教が無い世界に仏教を弘めるためにその身を現わしたとしています。

 この頃から、守屋と太子の合戦は法性と無明の仮の戦だとする文保本『聖徳太子伝記』の言説が広まっていきます。

 太子信仰は地方へも広まっていきますが、応永34年(1427)頃の『善光寺縁起』では、四天王寺の北東の柱を彫って守屋の首を納め、今に至るまで「守屋柱」と名づけていると説きます。これは四天王寺の話のはずでsが、善光寺本堂には現在も「守屋柱」と呼ばれる柱がある由。

 このように、守屋は菩薩扱いされることもあったものの、寛政10年(1798)の『摂津名所図会』では、四天王寺の太子堂の後ろい守屋祠があるが、三啓客が憎んで石をなげて壊すため、寺の僧が「熊野権現」と表記した由。祭ってるのは、守屋と弓削子連、中臣勝海という排仏トリオだそうで、現在でも中心伽藍の東の境内地に「守屋祠」があると伊藤氏は述べます。上記の善光寺の守屋柱やこの四天王寺の守屋祠などは、写真が示されているのが良い点です。

 なお、伊藤氏のこの論文では、注がなく、末尾に「参考文献」として先行研究をあげおり、松本さんの論文と本も記されていますが、これではどこまでが知られていることで、どこが伊藤氏の新しい指摘か分かりません。一般向けの本の書き方ですね。近世に関してはこれまでにない報告がいくつもなされているものの、論文としては感心できません。

 「おわりに」では、『広文庫』が引く篤胤の『出定笑語』によれば、赤穂の越の浦に大酒の杜と称する守屋の祠があるとしており、通常では秦河勝を祭神としている大避(大酒)神社に守屋が結びつけられていることが報告されています。こうした近世の状況を報告している点が、この論文の意義ですね。