聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

四天王寺で「『聖徳太子はいなかった』説の誕生と終焉」と題して講演

2021年11月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 私はこれまで「聖徳太子はいなかった」説を批判し、また日本史学界では通説として受け止められていた藤枝晃の三経義疏中国撰述説を論破してきました。ですから、僧侶でも聖徳太子信奉者でもない単なる研究者ではあるものの、法隆寺や四天王寺から嫌われる存在ではないはずです。

 しかしながら、両寺からの講演などの依頼は長らくありませんでした。「三経義疏は倭習が多く、中国人はこんな下手な漢文は書かない」などと論じたのがいけなかったのか、単に無名だっただけのことなのか。

 奈良では、東大寺のご依頼を受け、東大寺総合文化センターで多くの聴衆を前にして聖徳太子講演をやったこともあるのですが、大仏建立とか華厳教学について話すならともかく、東大寺で聖徳太子について講演するというのは、何とも不思議な感じでしたね。

 ところが、2017年に奈良県庁主催の「聖徳太子シンポジウム 芸能のはじまりとその軌跡」(こちら)で私が人選して基調講演をやった際、法隆寺の大野管長なども来てくださった余波なのか、「法隆寺文化講座」のご依頼を受けました。そのため、2019年の春に、東京国立博物館でのことでしたが、法隆寺の方々を含めた皆さんの前で講演をすることができました(ただ、明らかに聖徳太子が没してかなり後に出来た寺の観光キャンペーンなどでの講演は断ってます)。

 そして今回、四天王寺のご依頼で、「千四百年御聖忌記念 聖徳太子講演会」全7回の第2回目として11月14日に講演することになった次第です。先月、第1回目の講演をされたのは、令和年号で知られる万葉学者の中西進先生でした。聖徳太子についても書いておられますので。

 さて、今回の講演の題は、

  「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉

です。なぜ、そのような説が出てきたか、なぜ消えていったのかを説明したのです。長らくリモート続きであって、200名以上の人を前にして話すのは2年ぶりくらいであったため、こちらも浮き浮きしてしまい、『週間文春』仏教取材班みたいな調子で裏話などしゃべりすぎました。内容はこんなことです。

 まず、明治以後、東大の国史学の黒板勝美・坂本太郎、印度哲学(仏教学)の高楠順次郎・花山信勝、宗教学の姉崎正治、法学の小野清一郎などが聖徳太子信奉の立場で研究を進めたのに対し、早稲田の津田左右吉、そしてその津田の影響を受けた広島文理大学の小倉豊文などは伝説に満ちた太子の事績を疑っており、学統の違いがあります。

 小倉は、飛鳥の都から離れた斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやかざるをえなかった人間聖徳太子を敬慕していました。そのため、『聖徳太子五憲法』のような偽作に基づく太子のイメージが広まることをひどく嫌っており、戦時中と敗戦直後は四天王寺に入りびたって、聖徳太子の雑誌を刊行するなどしていました。

 ただ、戦後になって逆コースが強まるにつれ、太子が再び戦時中のように国家主義に利用されるのを懸念し、太子に関する伝説批判を始め、三経義疏を疑ったのです。聖徳太子のイメージに縛られずに研究しようと努めており、生前の名は「厩戸王」だったかと思われるとしてそれを使おうとしたのも、そのためです。

 ただ、「厩戸王」の名は古代・中世の文献に出てきませんし、太子に関する史実と伝説の区分けは困難であったため、小倉は太子の伝記の草稿を4回も書き直しながら完成させることができず、「厩戸王」という名についても論証できないまま亡くなります(こちら)。

 戦後の教科書では、聖徳太子については、横暴な蘇我氏を押さえて大化の改新・律令制を準備したのだとする戦前・戦時中の国家主義的な史観を穏やかにし、太子の文化面の意義を強調する形で記述されたものの、「承詔必謹」を説いた天皇絶対主義の元祖とされ、太子の御精神でこの戦争を勝ち抜くのだなどとされていた戦時中の状況、それに迎合していた歴史学者たちに対する反発もあって、戦後の古代史学界では、津田・小倉の指摘を重視して太子の事績を疑う傾向が次第に盛んになっていきました。

 それに追い打ちをかけたのが、京都大学出身であって、その人文科学研究所で敦煌班をひきいていた藤枝晃による『勝鬘経義疏』中国撰述説でした。敦煌文書から、『勝鬘経義疏』と7割ほど重なる注釈が発見され、これまで太子独自の解釈とされていたものの多くが、そこに書かれていたのです。

 そこで藤枝は、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の注釈を遣隋使が持ち帰り、太子はそれを読み上げただけだと主張しました。実は、『勝鬘経義疏』には通常の漢文の語法とは異なる倭習があることを無視したのです(こちら)。

 東大の国史でも、坂本の弟子であった井上光貞は、黒板や坂本のような太子信奉派ではなく、太子当時の日本仏教の水準では三経義疏は無理と見ていました。その井上は、藤枝の指摘をきっかけとして三経義疏を検討しなおし、百済から派遣されていた僧たちなどから成る太子の学団が作成し、太子の作とされたという見解にたどりつきました。

 淮南王劉安の作とされる『淮南子』にせよ、昭明太子の撰とされる『文選』にせよ、貴人の周囲の文人たちがそうした編集をしたのであって、中国にはそうした例は多いですからね。問題は、その貴人がどれだけ関与していたかです。まったくのお任せの場合が多いものの、すぐれた学力があって口を出している場合も少なくないのですが、井上はその問題には踏み込みませんでした。

 この井上の学団作成説に反発したのが、井上光貞の学生であって自宅にしばしば呼ばれ、ともに飲んで盛り上がることも多く、一番弟子を自認していた大山誠一氏です。井上先生の学団制作説は、師の坂本への「お愛想」でそうした説を説いたのではないかと、大山氏は「井上先生の思い出など」(『東アジアの古代文化』137号、2009年)で書いており、「先生には不似合いのみじめな研究」と酷評しています。

 大山氏は、大化の改新や長屋王などを中心として古代政治史を研究していましたが、井上の後を継いで東大国史に残ることにはならず、中部大学人文学部日本語日本文化学科の教授となります。当時は中部大学の学内誌にはあまり書かず、外の学術誌にしきりに書いており、聖徳太子虚構説も他の大学の雑誌に発表しています。

 その頃、意気投合した研究仲間が、上智大学大学院で史学を専攻して名古屋市立女子短期大学(後に名古屋市立大学に組み込まれる)に赴任して仏教史研究をしていた吉田一彦氏、そして、筑波大学大学院で道教文化を研究し、豊田短期大学に赴任していた増尾伸一郎氏です。

 つまり、関東の大学を出た優秀な若手研究者たちが、東京・京都・大阪の伝統ある大学・大学院の歴史学科などででなく、名古屋付近の大学の日本語日本文化学科や短大などで教えつつ、学界の研究状況に不満を持って既存のパラダイムをひっくり返そうとしていたのです。

(惜しくも2014年に急逝してしまった増尾さんは、そうした野心家ではありませんでした。彼とは道教学会の仲間として親しくしていましたが、快活であけっぴろげな性格であって、諸国の研究者たちから愛され、信頼されていました。増尾さんも発表する予定だったシンポジウムにやって来ないため、前に大病しているので心配した事務局がご自宅に電話したところ、前日に電車の椅子に座ったまま亡くなっていたと知らされ、私も、また最も親しかった小峯和明さんも、ショックのあまり足が地につかず、ふわふわして自分が何を話しているのか分からないような状態で発表をやったことを思い出します。没後に友人たちが2冊の論文集をまとめており、その『道敎と中國撰述佛典』は名著です)。

 そこで生まれたのが、<聖徳太子>と呼ばれる偉人・聖人は、律令体制における理想的な天皇像を示すため、儒教面は貴族のトップの藤原不比等、道教面は皇族の長屋王、仏教面は長い留学を終えて唐から618年に帰国したばかりの道慈が柱となり、文章自体は博学であった道慈が書いたのだ、とする大山氏の聖徳太子虚構説です。その際、モデルとなったのは、斑鳩に宮と寺を建てる程度の力はあったものの、国政に関わるほどではなかった厩戸王だとされました。聖徳太子は虚構であって、厩戸王が本名だと説いたのです。

 政治は東洋では儒教の担当ですので、儒教(政治史)の大山氏、仏教史の吉田氏、道教文化の増尾氏という組み合わせになりますが、これは、儒教=不比等、道教=長屋王、仏教=道慈、という役割分担と良く似ていますね。つまり、「聖徳太子はいなかった」説は、大山氏が自分たちの状況を古代に読み込んだのだというのが、私の推測です。

 聖徳太子前後の歴史記述を疑う動きは、学界以外でも早くからありました。戦後すぐでは、私の大好きな破天荒作家、坂口安吾が「飛鳥の幻」(1951年)で、乙巳の変前後の記述は異様であり、これは蘇我の蝦夷か入鹿が天皇だったことを隠そうとしたものだろうと論じました。

 ついで梅原猛が『隠された十字架』(1972年)をベストセラーにし、古代史について素人が大胆な説を書いてもよいのだ、専門家は常識にとらわれているから駄目なのだ、という風潮を作りだしました(このブログの、「珍説奇説」コーナーで紹介しました)。また、松本清張は『清張通史4 天皇と豪族』(1978年)で、太子の事績は蘇我馬子の事績が仮託されたものと推定しました。

 安吾の説は明らかな誤認もありますが、鋭い洞察を含んでおり、示唆することの多いものです。清張説も、すぐれた推理作家ならでは考察を含んでいます。梅原本はデタラメであって、説き方も気にいらないのですが、残念ながらトンデモ説の合間にいくつか優れた指摘もなされています。

 以後は、これらに刺激された素人たちのトンデモ説ばやりとなります。超能力を持った少年であって男性を愛する若き太子を主人公として描いた山岸凉子『日出処の天子』(1980-84年)は、娯楽作として楽しめる漫画なので、これはこれで良いですが、太子は実は馬子の子である善徳であって、中大兄に殺されたとする高野勉『聖徳太子暗殺論』(1985年)や、関 裕二『聖徳太子は蘇我入鹿だった』(1991年)などは、今日に続く非専門家によるトンデモ太子本ですね。

 扱いに困るのが、九州王朝説の古田武彦の『古代は沈黙せず』(1988年)などであって、少々の学術的な指摘と多大なトンデモ空想が混じっています。その影響を受けた素人の歴史ファンたちが書くものの多くは、トンデモ説のオンパレードですが(たとえば、こちら)。

 以後も、聖徳太子は天武天皇が創作したとする石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(1992年)や、太子は北方民族の首領だとする小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (1993年。エイプリルフール記事でからかっておきました。こちら)など、あやしい本が続きました。

 そこへ、東大の国史出身で博士の学位を得ている大山氏の衝撃的な「いなかった」説が登場したため、当初は太子の事績を疑う傾向が強かった学界で注目を集め、またマスコミも飛びついて一般社会で話題となったのです。河合敦氏が最新の有力な学説としてテレビで紹介したり、一般向けの多数の本で紹介し続けたことも一因となったかもしれません(こちら)。

 しかし、虚構説はあまりにも強引であって、様々な反論がなされており、このブログで紹介してきたように、飛鳥・斑鳩の寺院の瓦の研究や、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の発掘など、考古学の成果は、太子が蘇我馬子・推古天皇につぐ存在であったことを示していました。

 また、「私の説に対する学術的な反論はない」と断言し続ける大山氏の姿勢が反発を呼び、次第に扱われなくなり、、学界で大山説を積極的に承認する論文は、この10年以上出なくなっているのが現状です。

 そのうえ、太子の手本は中国南朝の仏教であって、太子主要な事績とされてきたものはほぼ認めて良いことを私が発見し、7月に学会発表したことについては、このブログで、「【重要】「憲法十七条」の基調となる経典を発見、「憲法十七条」も三経義疏も遣隋使も聖徳太子の作成・主導で確定」と題する、足びきの山鳥の尾のしだり尾の長々しい題名の記事で紹介しました(こちら)。

 その発表は、予定より大幅に遅れましたが、12月の初旬に刊行されることになりましたので、刊行されたら報告します。なお、私は太子の事績を疑った津田左右吉のひ孫弟子、津田の弟子で『維摩経義疏』を後人の作とした福井康順の孫弟子ですが、ひねくれていて無暗に疑った津田を尊敬し、津田説そのものを疑ったため、某先生からは「石井君は津田先生を批判しているらしい」などと犯罪人のように言われていました。

 つまり、太子信奉の伝統がある東大国史出身ながらその伝統に反発した大山氏と、太子の事績を疑ってきた早稲田東洋哲学研究室の大先輩の説を疑った私は、実は似た面があるのです。

 聖徳太子に関しては、史実とは異なる後代の伝承が多いため、今後も文献学・美術史・考古学その他の面から批判的に検討していく必要がありますが、上に述べたことから推測されるように、「聖徳太子はいなかった」説は消えるでしょうし、「厩戸王」という呼称も教科書から消えるでしょう。

 講演の冒頭で述べたのですが、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)に書いたように、仏教史は釈尊のイメージの変遷史であり、日本仏教は聖徳太子のイメージの変遷史という面を持っています。

 生前の呼び名は複数あったでしょうが、奈良時代に確立された「聖徳太子」という名が1200年以上にわたって用いられ、日本文化に多大な影響を与えた以上、「聖徳太子」という名と、「聖徳太子」と呼ばれた人物について教えないわけにはいきません。どう評価するかは、また別な問題です。

【付記】
公開後、大山氏と私とが立場が似た面があることなどを書き加えました。
【付記:2021年11月20日】
大山説出現の背景として、「大化改新非実在説」についても述べておくべきでした。
【付記:2021年11月23日】
もう一つ、古田武彦については、『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』 (朝日新聞社、1971年)もあげておくべきでした。梅原猛、古田武彦、大山誠一の諸氏は、「私の説には反論がない」と言い張る点も共通しています。
【付記:2022年11月19日】
九州王朝説論者たちの中でも、古田武彦を受け継ぐ「古田史学の会」の幹部たちは、基礎学力がないため、さらにトンデモ度を増しており、学界の研究成果を無視した妄想説を垂れ流しています(こちらや、こちら)。この人たちは、私がこのブログの「珍説奇説コーナー」で批判した多くの初歩的な間違いについてはダンマリを決め込み、反論できると思いこんだ箇所についてのみデタラメな反論をしていますね。

【付記:2023年1月26日】この講演の短縮版が刊行されましたので、PDF情報を含めてブログで紹介しました(こちら)。

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