聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

四天王寺は移建されたのか:東野治之「初期の四天王寺と『大同縁起』」

2023年12月28日 | 論文・研究書紹介

 先日、新著を紹介した東野治之氏の次の新著が続いて出ています。

東野治之『史料散策』「初期の四天王寺と『大同縁起』」
(雄山閣、2023年12月)

であって、刊行されたばかりです(有難うございます)。

 「散策」という語が示すように、今回の本は本格的な論文以外に、史料にまつわる逸話や若い頃の思い出も収録されており、文献の流転の歴史などが大好きな私にとっては嬉しい本となっていました。

 そもそも、東野氏が館長を務めている杏雨書屋は、医学・薬品に関する古書を収集していた武田薬品の社長の戦前のコレクションが発展したものであって貴重書の宝庫であり、推理小説になりそうな思いがけない経路を経てここにたどり着いた敦煌写本を大量に所蔵していることで知られています。

 本書の第三章に収録されている「杏雨書屋の敦煌写本景教経典」は、その貴重書のうち、キリスト教の一派であるネストリウス派の漢文文献の書誌的な特徴について報告しており、興味深いものです。

 聖徳太子は厩で生まれたということで、長安にまで伝わってきていたキリスト教との関係が強調されたりするのですが(実際には関係ないことは、こちら)、敦煌写本中の景教文献については、馬小屋での誕生という記述がないことも含め、来年、紹介することにします。

 さて、守屋合戦において厩戸皇子が四天王に戦勝を祈願した話は有名であるものの、『日本書紀』の崇峻天皇前紀では、その願のおかげで勝つことができたため、摂津に四天王寺が建立されたと述べるのみです。

 しかし、平安前期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』では、合戦の際に本営が置かれていた難波の玉造の岸の上に勝利が報告されたため、「即ち宮を以て四天王寺と為し、始めて垣基を立つ」と記し、その少し後で「四天王寺、後に荒墓村に遷る」と記してあるのです。

 このため、歴史学では、四天王寺は玉造から現在の地へ移転したとする説が有力となったのですが、東野氏はこれを疑います。『日本書紀』は移建について説いていませんし、『補闕記』でも、「垣基を立つ」とあるのみで、伽藍が造営されたとはしていないからです。

 そもそも、『日本書紀』推古天皇元年の是歳条では、「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあるのみです。守屋との合戦において、太子の本営が合戦の舞台から遠い難波にあったというのは不自然でしょう。

 そこで東野氏は、『補闕記』にしても、太子の軍営があった場所を寺とするために工事がなされたことを言うだけであって、移建したとは説いていないことに注意し、実際には寺地を変更して現在の地に造営されたと推定します。

 ただ、『補闕記』に見える征討の将軍名や職階の書き方は、7世紀の事実をかなり反映していると思われるため、この記事は、遅くても8世紀初めを下らないと見ます。

 なお、四天王寺の発掘結果としては、塔や金堂は、法興寺や若草伽藍の造営が進捗してからであることが明らかになっているとし、伽藍全体の造営は、難波遷都に伴う地域整備などと関係しつつ進められ、完成したのは7世紀後半と推定します。
 
 そして、四天王寺の初期の姿をうかがううえで役立つのは、太子伝の研究書としては最古のものであって、鎌倉初頭に四天王寺関係者によって作成されたと推定される『天王寺秘決』に引用される『大同縁起』であるとします。

 これは延暦22年(803)に、四天王寺の堂塔」・仏像・宝物・不動産などを記録したもので、大同年間(806-810)に提出されたため、『大同縁起』と称されたものと福山敏男が説いている通りです。

 東野氏は、これを多少補正して紹介しています。そのうちの仏像の部分は、

 阿弥陀三尊。
  右、恵光法師、大唐従り請い坐すなり。
 弥勒菩薩一躯。蓮華に坐す。
  右、近江朝廷御宇天皇の御世に請い坐す。
 ……
 大四天王像四口 右、聖徳法王の本願。
 小四天王四口 右、上宮大后の本願。……

と続いています。阿弥陀像をもたらした恵光は、太子が没した翌年の推古31年(623)に留学を終えて唐から帰国しており、この恵光がもたらした阿弥陀像が金堂の本尊であったと説明されることが多いのですが、東野氏は、金堂の造営が太子の生存中に終わっていれば、別の仏像が本尊だった可能性もあるとします。

 右の一覧のうち、「弥勒菩薩」とあるのが現在の本尊である半跏思惟像ですが、東野氏は、これが本尊とされるのは、太子信仰が高まり、観音と同一視する風潮が広まってからであろうと推測します。

 四天王寺は何度も焼けたため、法隆寺のように沢山の史料が残っていないため、初期の状況についてこうした検討を重ねていかないといけないというのが現状なのです。


聖徳太子ゆかりの寺の本尊に多い半跏思惟像の系譜:宮地昭「半跏思惟像を読み解く」     

2023年12月23日 | 論文・研究書紹介

 中宮寺、広隆寺が半跏思惟像を本尊としていることは有名ですし、現存していないものの、四天王寺の金堂も本尊は半跏思惟像だったと推測されています。つまり、聖徳太子と関係深い寺の多くが、半跏思惟像を本尊としているのです。それはなぜなのか。

 この問題を直接解明しようとしたものではありませんが、上記の寺々の本尊にまで至る半跏思惟像のインド以来の系譜を跡づけたのが、

宮地昭「半跏思惟像を読み解く-アジア的視点から見た菩薩信仰の一斷面-」
(『日本仏教綜合研究』第16号、2018年)

です。

 仏像研究の代表者の一人であって、インドやシルクロードなどの現地調査の経験も豊富な宮地氏は、まず、「半跏」の説明から始めます。半跏とは、背もたれのない椅子に腰かけ、一方の足(多くは左足)を踏み下げ、もう一方の足をその膝の上にのせる姿勢であって、詳しくは「半跏踏み下げ」と呼びます。

 特定の姿勢での瞑想が盛んなインドでは、仏像や神像は、坐像の場合は何らかの姿勢で瞑想する姿をとることが多く、両足を組み合わせた結跏趺坐の型が多いものの、半跏趺坐のものもあり、南インドに多く見られます。

 「思惟」の語は動詞の √cint ないしその名詞形である cintā の訳語として用いられますが、原義は「考える、思いをめぐらす、熟考する」「心配する、不安に思う、憂う」という二つのニュアンスを持っています。

 その「半跏」と「思惟」を組み合わせた物思いにふける像は、仏教美術が盛んであったインド西北のガンダーラで成立し、西域、中国、韓国、日本へと広まっていきます。ところが、インド内部では、半跏思惟像はガンダーラの仏教美術の影響を受けたマトゥラーに数例あるのみで、インドの中央部やスリランカや東南アジアにはほとんど見られません。この点について、宮地氏は北地に伝わっていった大乗仏教の菩薩信仰と関係があるとします。

 ガンダーラの半跏思惟像は、釈尊になる前の悉達太子が原型のようです。太子がある日、農村に来て樹の下で休んでいて瞑想したとする伝承では、農夫が畑をたがやす鍬で虫が死んだり、虫が鳥に食べられたり、その鳥を人間が捕まえたりする様子を見て、生き物が殺し合い、食べ合うこの世界の苦しい状況を痛ましく思ったとされています。それがガンダーラでは半跏して右手の指を傾けた額に宛てて考える姿でもっってレリーフで表現されており、漢訳の仏伝では「思惟す」と表現されているのです。

 このタイプが北伝仏教では歓迎され、中国でも北魏の時代には半跏思惟像が多数作られました。ただ、中国では、太子が城を出て、馭者や愛馬と別れて苦行の林に入る場面と混淆される例もあり、それが日本にも及ぶ由。つまり、半跏思惟する釈尊の横に馬が描かれたりするのです。

 ギリシャ彫刻の影響もあって大いに発達したガンダーラの仏教彫刻のうち、半跏思惟像には、ターバン型の冠飾をつけ、手に何も持たないタイプも少数ながらあるものの、大半は左足を踏み下げ、右手を顔に当て、左手に蓮華を持った観音菩薩像です。つまり、生き物の苦しみを思う悉達太子の姿が、生き物たちの危機を救う観音菩薩と結びつけられたのですね。

 時代が進み、密教が盛んになってくると、観音は様々な形に造形されるようになり、それを承けた日本では、半跏思惟型の観音菩薩は如意輪観音として受容されました。中宮寺でも本尊は如意輪観音とされてきましたね。

 観音菩薩以外で悉達太子と結びついた菩薩は、遠い将来に仏となって人々を救うとされる弥勒菩薩です。未来仏としての弥勒菩薩信仰が確立したのもガンダーラでのことと推測されています。ガンダーラは、単に仏教美術が盛んだった土地というだけでなく、大乗仏教の新しい動向を生みだした拠点の一つだったのです。

 弥勒菩薩信仰には、死後、兜率天に生まれてそこで弥勒菩薩にお会いするという上生信仰と、遠い将来、弥勒菩薩が兜率天からこの地上に下りて来て仏となり、人々を救うという下生信仰があります。半跏思惟像は、こうした弥勒菩薩信仰とも結び着いて北伝仏教とともに広がっていきます。

 北魏後期から北斉になると釈迦仏、観音菩薩、弥勒菩薩といった名が記される仏像以外に、「思惟像」「白玉思惟像」「思惟玉像」などといった仏像名が見られるようになります。宮地氏は、これはそうした名の菩薩として信仰されたことを示すとし、瞑想のやり方を説いた禅観経典の中に「思惟」の語がしばしば登場することに着目します。つまり、信者たちを死後、快楽に満ちた兜率天に導いてくれる菩薩として信仰されたと推測するのです。

 半跏思惟像は弥勒信仰が盛んであった朝鮮三国できわめて流行します。ソウルの中央博物館には、広隆寺の半跏思惟像そっくりの国宝指定の半跏思惟像があることが有名ですが、他にも金銅製や石造の半跏思惟像が多数存在します。6世紀後半から7世紀中頃のものが多いのですが、統一新羅の時代になると、ほとんど見られなくなるのが不思議なところです。

 日本では、当然ながら上記の時期の半跏思惟像が多数伝来しており、日本での制作も始まります。広隆寺の半跏思惟像は赤松で作られ、中宮寺は樟木で作られています。その制作地は諸説ありますが、宮地氏は広隆寺の像は推古30年に新羅から献納されたとする説を有力とします。面白いのは、現在は黒い姿になっていますが、当初は金色に輝いていたらしいことです。

 広隆寺は、後代の伝承では太子創建の寺とされ、それ以前の伝承では、太子が太子所蔵の仏像を祀る者を求めたところ、秦河勝が申し出て建立した寺とされていますが、大きな冠を付けた弥勒の半跏思惟像で知られる野中寺も太子建立という伝承があることです。この像については、激しい論争がありましたが、宮地氏は美術史では666年に作成されたと見ており、遺跡から見て寺は7世紀中頃の作と推測されると述べます。

 広隆寺の半跏思惟像とならんで名高い中宮寺の半跏思惟像は、現在は黒漆塗りとなっていますが、当初は肉身部は肌色、衣文は朱・緑青・群青などの鮮やかな着色がなされていたと推測されています。生々しいですね。制作時期については、7世紀中頃から第3四半期頃と宮地氏は見ます。

 この他、現存はしていませんが、四天王寺金銅の本尊も、『別尊雑記』によれば、名は救世観世音菩薩で、右手は指を軽く曲げた思惟の姿であったとあるため、半跏思惟像と見られると宮地氏は説きます。宮地氏は、四天王寺は若草伽藍とほぼ同時期に創建されたと述べますが、少し後ですね。

 いずれにしても、広隆寺、野中寺、中宮寺、四天王寺と、聖徳太子と関係が深い寺で半跏思惟像が大事にされていることが注目されますね。宮地氏は、聖徳太子を追慕する者たちによってこれらの像が制作されたと推測し、その支えての中心は女性だったろうと見ます。

 そして、この半跏思惟像は、将来、仏となる存在という面と、生き物の苦しみを憐れみ、救おうと考えて決意する菩薩という二つの面を持っていると推測します。それがそのまま太子信仰と重ねられていたわけです。

 なお、有名すぎるためでしょうが、宮地氏は触れていませんが、上野の国立博物館に併設されている法隆寺宝物館では、金銅の小型の半跏思惟像がどさっと陳列されていて壮観です。なぜこんなに多くの像が法隆寺に伝えられてきたのか。

 寺の本堂などでなく、小さな仏堂に安置されたり、邸内の部屋に安置され持仏として拝まれていたのでしょうが、6世紀末から7世紀頃の韓国・日本の仏教信仰、それも日本では聖徳太子信仰と重なっていた可能性のある仏教信仰を示すものとして貴重ですね。 


豪族間のバランスをとった推古、守屋合戦の前から造寺の準備をしていた馬子:河内春人「倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」(2)

2023年12月19日 | 論文・研究書紹介

 前回の河内春人氏の論文の続きです。

 推古を推古大王と呼ぶ河内氏は、推古大王は単なる中継ぎでは決してないとし、敏達のキサキとしての10年以上の実績によって形成された政治的地位に基づくとします。

 ただ、仏教については、馬子と厩戸が主軸であって、推古はそれに同調したものの仏教を熱心に信仰していたかどうかは明らかでないとします。これは、晩年に起きた事件、つまり、僧が祖父を斧で殴打したことに怒り、仏教界全体を罪に問おうとしたため、百済僧の観勒のとりなしによって中止し、僧正・僧都を置いて僧尼たちを監督させたということが大きいようです。

 それはありえますが、個人の信仰と仏教界の紊乱の取り締まりとは、別に考えた方が良いでしょう。熱心に信仰していればこそ、寺や僧尼が急激に増え、仏教本来でないあり方が目にあまるため是正する、とういことも考えられるので。

 隋の煬帝は皇太子ではなかったため、仏教熱心であった父の文帝や母に気にいられるため、仏教を盛んに保護したものの、皇太子であった兄を蹴落として自分が皇太子となり、さらに皇帝になると、仏教の保護を進めると同時に取り締まりもやってますね。

 河内氏は、推古は仏教を推進した蘇我氏系だったが、仏教推進に懐疑的だった豪族たちについても配慮していたとします。葛城の土地を蘇我の産土として与えるよう頼んだ馬子の求めを断ったのも、豪族全体のことを考慮してのことと見ます。

 その蘇我氏については、渡来系氏族の活用が言われてきましたが、渡来系氏族と関係を持っていたのは、大伴氏や吉備氏なども同様であって、蘇我氏が稻目の時に力を有力となったのは、財政を担当し、文筆能力のある渡来系氏族を活用したのが大きいとします。

 また、蘇我氏が百済と関係深かったのは事実ですが、稻目は小墾田の家に仏像を安置し、また軽の曲殿には高句麗との戦いで得た高句麗人の女性二人を妻として住まわせたとされているため、高句麗に対する理解もあったと見ます。そして、曽我の地から小墾田、向原、軽にいたる交通の要衝を押さえていたことに注目します。

 そして、娘たちを欽明天皇のキサキとして多くの子女を生ませ、その扶養のための名代・子代がもうけられることによって、外戚としてだけでなく、経済力も高めていったとします。当時の上層の子女は、母の家で育ってましたからね。

 その稻目を受け継いだ馬子については、河内氏は豪族などを自分の側に組織い、有利な状況を作り出す力に注目します。これは、『日本書紀』が馬子は武才さけでなく弁才も備えていたと記されていることと対応します。

 先の葛城の地の授与願いにしても、阿曇氏・阿部氏を通じて申し出ており、ここでも他の豪族を巻き込む馬子の手法が見られるとするのです。

 このように、河内氏は聖徳太子周辺の人物について論じていますが、穏当な議論が多い印象です。

 


父の用明天皇・子の山背大兄と違い、聖徳太子が大兄と呼ばれなかった理由:河内春人「倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」(1)

2023年12月15日 | 論文・研究書紹介

 集英社は創業95周年ということで、姜尚中氏を総監修として『アジア人物史』全12巻(ほか索引1巻)という意欲的な企画に取り組みました。その第2巻は今年の2月に刊行されています。その中に、

河内春人「第9章 倭国の文明開化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」
(李成市他編『アジア人物史2 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア [2~7世紀]』、集英社、2023年)

が掲載されており、聖徳太子に関する最新の学問状況を示していたのですが、どういうわけか、紹介していませんでした。

 この第2巻では、このブログでとりあげた人としては、河上麻由子さんが「隋の文帝」、仁藤敦史氏が「古代天皇制の成立」と題して天智天皇と天武天皇について執筆しています。

 私もこの人物史シリーズの第3巻に新羅の元暁について書き、8月に刊行されました。私が早稲田の東洋哲学専修の助手をしていた際、東洋史の助手をしていた助手仲間の李成市さんが編集委員ですので、その推薦でしょう。李成市さんとは、その編集打ち合わせの際、久しぶりに会いました。

 打ち合わせでは、姜尚中さんを世に出した編集長の落合勝人さんが方針を説明してくれました。主要な人物について30~40頁ほど論じ、周辺の重要人物数人について概説し、さらに関連する10人ほどについて簡単に説明する、という形であって、そのまとまりをクラスターと称するという点を強調されていましが、まさかその編集途中でコロナ禍となり、クラスターという言葉が別な意味で話題になるとは編集側も考えていなかったでしょう。

 さて、河内氏は、厩戸王子をこの章の柱とし、重要人物として、推古大王・蘇我稻目・蘇我馬子・止利仏師とその一族をとりあげ、そのほか、東アジアの亡命者、府官たち、五経博士、日羅、崇峻大王、小野妹子、秦河勝、観勒、慧慈について概説しています。河内氏はもともと東アジアの交流史に取り組んでいたうえ、このシリーズの性格もあって、東アジア、特に朝鮮半島との関係に注意していることが分かりますね。

 河内氏は、まず廐戸皇子の名前から検討を始めます。別名の多さから見て、当時の人々の間に定着していた人物であって、意図的に制作したフィクションではなく、『日本書紀』が「馬官」で生まれたと記していて役所を「~官」とするのは7世紀前半のこととします。

 河内氏は、この論文ではこの時代については「皇」の語は用いないとして、厩戸皇子のことを「厩戸王子」と呼んでいます。史料に見えない呼び方なので、感心できませんね。

 それはともかく、厩戸王子が「法大王」「大王」などと呼ばれていることについては、「天寿国繍帳銘」で推古の子が「尾治大王」と呼ばれ、『法王帝説』で山背大兄が「尻大王」と呼ばれていることが示すように、「大王」は王族の身近な人が敬意をもって呼ぶ際のものであって、制度で決められた地位ではないが、厩戸王子がそうした有力な王族であったことは疑いないと述べます。

 そして、生まれについて検討していきますが、河内氏は、『日本書紀』では父の用明天皇が即位前に「大兄皇子」と呼ばれており、また厩戸王子の子である山背が大兄と呼ばれていることに着目します。そして、大兄は即位が保証されていたわけではないが、そうなるだろうという認識を与えるものであり、厩戸がそう呼ばれていないのは、その政権参加が「大兄にとどまらない政治的位置づけであることを周囲に印象づけた」と論じます。

 これは重要な指摘ですね。大兄は長子がなることが多いことも原因かもしれませんし、大兄となるには若すぎたことも一因の可能性があるうえ、あるいは推古の即位が急であって厩戸を大兄と認定する時間的余裕がなかったことも考えられますが、『日本書紀』は廐戸皇子を神格化していますし、中大兄の意義を強調しているのですから、その先駆けとなるよう、守屋合戦かその少し後あたりで「厩戸大兄は……」などと書くこともできたでしょう。

 そうしていないのはなぜかということは、考えてみても良い問題です。守屋合戦のあたりは、古い史料を切り貼りしてそのまま貼り込んだ可能性があることは、守屋打倒に乗り出した馬子側についた皇子たちについて述べる際、「泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子」とあって厩戸は3番目でしかなく、しかも「軍の後ろに随う」とあることからも察せられますね。後の太子伝と違って特別扱いして活躍を強調しないのは、誓願の部分を除けば、実状に近そうです。

 河内氏は、厩戸王子がこの時期の渡来系の知識人たちと関わりを持っていたことに注意し、遣唐使や新羅関連の活動などを見ると、「学術ブレーンとしての学僧集団と渡来系氏族、厩戸一族という三つの集団によって支えられていた」考えられるとします。

 この部分で私の論文を参照してくれているのは有難いのですが、「憲法十七条」の「無忤為宗」は「仏典(『成実論』)が典故」と説いているのは誤りです。これは『成実論』を教理の柱としていた系統の中国南朝の僧尼たちが尊重した徳目であって、『成実論』そのものには「無忤」の語は出てきません。

 また、「憲法十七条」では仏教の影響は全体に見え隠れしているものの、明確に仏教に関わる規定は第二条のみとしていますが、そうでなく、他のところでも『優婆塞戒経』を用いていることは私が指摘ずみです。

 ただ、その講演録は最近になって刊行されているため(こちら)、コロナ前から編集が始まっていたこのシリーズの河内論文では間に合わなかったか。他にも仏教の表現を用いている点については、来年刊行予定の「憲法十七条」の本で詳しく書くことにします。

 なお、河内氏は、『日本書紀』では厩戸が仏教と儒教の両方を学んだとされているのに対して、『法王帝説』では仏教面を強調するばかりで、儒教との関わりについては言及しないと述べていますが、これは儒教の師匠などに触れないということでしょう。

 『法王帝説』では、上宮王は仏教に精通しただけでなく、「三玄五経の旨を知り」とありますので、『老子』『荘子』『易経』という奥深い三玄の書を学び、また「五経」の趣旨を把握したことになり、「五経」は儒教です。

 『日本書紀』では厩戸王子の死について大げさな形で詳しく述べていますが、河内氏は、『日本書紀』が示す没年と『法王帝説』ほか法隆寺側の資料が示す没年のズレに着目します。

 そして、国文学の神田秀夫が、日本の正史には中国と違って列伝が付されていないことについて、「個人を単位として……評価するやうな歴史意識がまだなかつた」と述べているとし、厩戸王子は例外であることに注意します。

 厩戸を核として形成された学問集団やその影響を受けた周囲は、厩戸の死を「個人」の死と受け止めて記録したのであり、「天寿国繍帳銘」の「世間虚仮、唯仏是真」というつぶやきは、社会と個人のずれの自覚、「前近代的な個の発見」とみなすのです。

 この記述を見ると、中国と違って歴史書が書かれなかった古代のインドにおいて、伝承化されつつも、その誕生や死について具体的な記録が残るのは、ゴータマ・シッダッタ、すなわち釈尊だけであることを想起させますね。釈尊については、18世紀頃のヨーロッパでは神話上の人物と見られていましたし、仏伝が伝えるような強大な王国の太子ではなく、インド主流のアーリア民族ではないヒマラヤの麓の小国だったシャカ族の国の王か最高貴族の子ですが。

 河内氏は、厩戸王子が隋との国交に熱心であったことを強調します。当時派遣された医恵日は、隋が亡び、厩戸も亡くなってほどない623年に帰国すると、唐に残っている留学生たちを呼び戻すべきであり、唐は「法式備わり定まれる珍の国なり。常に達(かよ)うべし」と提言したものの、実現しませんでした。

 当時、唐が強大になると高句麗は619年、百済と新羅も621年に遣使しているのに対し、倭国が遣唐使を派遣したのは舒明2年(630)のことであり、対応が遅れています。最初の遣唐使に選ばれたのは、最後の遣隋使であった犬上御田鋤と恵日でした。河内氏は、先の恵日の提言を、中国文明を受容しようとする厩戸の遺志を実現せねばならないという悲痛な叫びととらえます。

 推古や馬子に関する河内氏の見解については、続篇で紹介します。


舒明天皇の巨大な百済大寺は隋の建築技術を用いた斑鳩寺を継承したか:青木敬「舒明朝の考古学的特質」

2023年12月10日 | 論文・研究書紹介

 前々回は、語法・文体に注意せず、個々の語だけに着目してあれこれ推測して失敗するという例でした。聖徳太子関連の研究でもう一つ注意すべきは、考古学や美術史などの研究成果です。

 「聖徳太子はいなかった」説も九州王朝説も、また「珍説奇説」コーナーで紹介したその他のトンデモ説も、文献だけ見てあれこれ空想してこじつけるからおかしなことになるのであって、「モノ」の研究を無視するからこそ勝手なことが言えるのですね。

 「いなかった」派は、考古学や美術史は『日本書紀』などの記述を基準にして編年しているから信用できないと批判していました。昔はそうした研究も一部にはありましたが、この20年ほどで調査研究が大幅に進み、編年の信頼度は飛躍的に高まりました。

 それを無視して文献解釈だけで大発見をしようとするのは無理な話です。もっとも、「いなかった」派も、たまたま目についた考古学の成果で自説に都合が良さそうなものだけは、強引に自説に引きつけて使っていましたが、このうしたやり口は、「いなかった」派だけでなく、他のトンデモ説にもよく見られます。

 さて、山背大兄と争い、非蘇我系の田村皇子が即位して舒明天皇となったわけですが、舒明は意外にも聖徳太子の事業を受け継ぐ面があったことは、以前紹介しました(こちらや、こちらや、こちら)。

 そうした面を考古学の成果から論じたのが、

青木敬「舒明朝の考古学的特質」
(『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 青木氏は、『万葉集』が舒明天皇の歌で始まっているのは、そこから新しい時代が始まっており、それ以前は「上古」と見ていたことを示すとし、実際、事績から見てもそうであり、歴代遷宮が舒明の飛鳥岡本宮以後行われなくなったこと、天皇として初の官寺である百済大寺を建立したこと、そして王墓として八角墳が作られたことに注意します。

 舒明11年(639)に造営の詔を発した百済大寺は、天香具山の北東に位置する吉備池廃寺であることが確定しています。この遺跡の調査では、金堂が東、塔が西に配された法隆寺式であったうえ、塔の基壇が32メートルほどもあり、その巨大さで人々を驚かせました。

 基壇の上部には、南北6.7メートル、東西5.4メートル以上の巨大な心礎の抜き取り穴があったのです。こうした巨大な塔を建てたのは、北魏の洛陽にてられた永寧寺の九重塔、百済の弥勒寺木塔(639年)、新羅の皇龍寺の九重塔(645年)などに対抗するためであるとするのが通説です。

 しかも、基壇上部に抜き取り穴があることは、それ以前の地中に心礎を添える方式でなく、基壇上面に心礎を配置する地上式心礎であったことを示します。こうした方式は、本薬師寺東塔や文武朝の大官大寺など7世紀末頃に多く見られますが、古い例は斑鳩の若草伽藍のみであって、建築様式が似ているのです。

 若草伽藍と吉備池廃寺(百済大寺)は、7世紀末の寺々よりきわだって古いため、青木氏は、7世紀末になって増える地上式心礎は、若草伽藍や吉備池廃寺とは別系統の技術と見ます。

 その吉備池廃寺の塔の基壇と掘込地業の版築土は、ほぼ一種類の土で版築されており、しかも、それは舒明天皇が山に登って国見の歌を詠んだ天香具山の土でした。この土に極似した土は、7世紀末の大官大寺金堂や藤原宮大極殿南門に見られますが、いずれも天皇関連の施設です。

 そもそも、一種類の土だけで版築する例は希少であり、唯一の例外はまたしても、若草伽藍の塔の掘込地業である由。一方、飛鳥寺塔、奥山廃寺塔、山田寺塔など、6世紀末から7世紀半ばにかけて飛鳥周辺に次々に立てられた塔の場合は、数種類の異なる性状の土砂を用いており、これは中国南朝とそれを受け継いだ百済の寺に見られます。

 これに対し、一種類の土だけで版築するのは、北朝から北朝系の隋・唐の寺に見られ、代表は長安の青竜寺です。このため、青木氏は、若草伽藍や吉備池廃寺の塔は、遣隋使・遣唐使によってもたらされた技術によると見ます。

 聖徳太子の斑鳩宮移住は推古13年(605)であって、それより少し遅れるとみられる若草伽藍造営では、金堂がまず建てられており、塔の瓦は620年頃の作成と見られているため、それ以前に塔の掘込地業が完成していたことが推測されます。遣隋使は607年、608年、610年に派遣され、607年と608年の遣隋使は留学僧を派遣していますので、その際、北地の技術がもたらされたと青木氏は見るのです。

 百済大寺は、聖徳太子が田村皇子に譲ったという熊凝精舎に基づくという話は、現在では後代の伝承と考えられていますが、青木氏は、吉備池廃寺は、若草伽藍の瓦を受け継いでもいるため、関連があったと考えざるを得ないとし、熊凝精舎の移建の話も単なる伝承として片付けることはできないとします。この点についても、最近は歴史学の方面でも認める研究者が増えてますね。

 興味深いのは、吉備池廃寺の版築の仕方が、東国のいくつもの古墳に見られることです。青木氏は、舒明天皇が「東の民」を動員して百済大寺を立て、「西の民」を動員して百済大宮を造営したことに着目し、そこで動員された東の豪族の技術者たちが、東国に帰って古墳の造営に当たったと見ます。

 さて、舒明天皇の押坂陵と考えられているのが段ノ塚古墳ですが、この古墳は正八角形であって、正面には隅角を配しており、側面を正面とする以後の八角墳とは異なります。つまり、この八角墳は前の方形壇まで含めると、一見、前方後円墳のように見えるのであって、まさに過渡期のものなのです。

 柿本人麻呂が帝徳を称えた長歌では、「やすみしし 我が大君 神ながら」と詠っていることで有名ですが、「やすみしし」は「天下の八角を治めた」ということであって、八角墳はこうした概念と関連しますが、青木氏は、八角墳には仏教の死生観の影響もあると推測します。

 つまり、この時期から後の墓では、死者の世界につながる長い羨道が次第に消えていくのであって、それは舒明12年(640)に前の年に帰朝した恵隠が内裏で『無量寿経』を講説し、以後は阿弥陀信仰を思わせる東向きの金堂が造営されるようになっていくことに示されていると、青木氏は見ます。

 問題は、7世紀中頃に方形壇に八角形の墳丘が築造されるのは、段ノ塚古墳、叡福寺北古墳、御廟野古墳、岩屋山古墳であることです。叡福寺北古墳は、孝徳天皇の陵とする説もありますが、伝承では聖徳太子の墓ですね。

 面白いことに、東国には、上が円で下が方形の古墳が東日本に見られることです。青木氏は、東日本の豪族のうち、大王家と関わりの深いメンバーが、八角墳にすることはできないため、同じ形式で円墳としたものと見ます。

 このように、聖徳太子と舒明天皇のつながりが、考古学の成果からも裏付けられることは興味深いですね。

 『日本書紀』は編纂時に潤色や大幅な創作が加えられていることはよく知られており、蘇我氏本宗家を悪者にして中大兄や中臣鎌足の役割を強調したり、律令制の呼称に呼び変えたり、外交関連で日本を優位に描いているような箇所が多いことは確かですが、これまでこのブログで何度も書いてきたように、個々の記述が意外と史実を反映している場合もかなりあるのです。

 むろん、史実をそのまま反映した記述であっても、『日本書紀』全体のイデオロギーのもとで配置されていて本来の記述おは別な印象を与えようとしている場合ありますから、そうした点に注意しなくてはなりません。大事なのはそれらを見分けていくことですね。

 『日本書紀』の最終段階での編集方針によって書き換えられたり加筆されたりした部分もむろん多いものの、『日本書紀』は大急ぎで編集されたため、最終編纂時の基本方針が徹底されず、切り貼りして利用された元の史料がそのまま残っている部分も少なくないのです。


着実な文献研究の典型:東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』

2023年12月06日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺と聖徳太子に関する着実な研究書が11月29日に刊行されました。

東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』
(岩波書店、2023年)

です(ご寄贈、有難うございます)。

 内容は以下の通り。訂補されているそうですが、元となった論文をこのブログで紹介しているものは、(こちら)で示してあります。この他にも、他の記事で東野氏のこれらの研究に触れている場合が少なくありません。

 目次
 はしがき
 第Ⅰ部 法隆寺の創建・復興とその時代
  第一章 飛鳥時代の法隆寺-創建から焼失、再建まで(こちら
  第二章 法隆寺資材帳をどう読むか
  第三章 金堂壁画-外国文化の受容と画師たち
  第四章 白鳳文化と亡命百済人
  第五章 古代天皇の諡号をめぐって
 第Ⅱ部 聖徳太子信仰の展開
  第一章 奈良時代の法隆寺と太子信仰
  第二章 磯長墓-太子はどこに葬られたのか
  第三章 「南無仏舎利」伝承の成立
  第四章 東院舎利殿の障子絵の主題をめぐって
  第五章 『天王寺秘決』を読む-四天王寺と法隆寺
  第六章 『太子伝古今目録抄』からみた撰者顕真の人物像
  第七章 幕末の法隆寺とその紙幣
  第八章 聖徳太子の人物像と千三百年御忌(こちら
 第Ⅲ部 法隆寺研究の周辺
  第一章 壁画撮影の先駆者・田中松太郎
  第二章 正木直彦が法隆寺に贈った百済の石燈籠
  第三章 古代寺院の僧房と僧侶の持戒生活
  第四章 片岡王寺と百済系氏族(こちら
 図版出典一覧
 索引

以上です。

 特徴は、文献を、それもできるだけ現存最古のテキストを実際に目にして精査し、慎重な判断をする点ですね。たとえば、第Ⅱ部第六章の「『太子伝古今目録抄』からみた撰者顕真の人物像」では、法隆寺顕真の『太子伝古今目録抄』の自筆本について詳細な検討を加えているのがその一例です。

 顕真は、自分の祖先は百済から渡ってきて聖徳太子に仕えた調子丸だと主張し、その伝承をでっちあげた信用できない人物という見方が一般的でしたが、自筆本を調査した東野氏は、顕真が漢字が書けず、あとで埋めようとして横にふりがなだけ記してある箇所、自分が書いた部分にも訓点を付している点などから見て、顕真は漢文の力が弱く、知識も十分でなかったとします。

 そして、ある文書に見える「調子」という人物に関する記述を扱った箇所では、これは自分の先祖の「調子丸」のことだと書いて活躍を強調すれば良いのに、顕真は資料をあげるだけで同一人物かどうかの判断は控えていることなどを例にあげ、顕真は「学識豊かではないが、きわめて実直に、孜々として太子伝研究に打ち込んだ人物」と結論づけます。

 博学であって文を書くことが巧みで、元の資料を自在に書き直す力のある人物であれば、さまざまな資料から関連しそうな記述を切り貼りし、自分にとって都合の良くなるようどんどん改変してゆけるはずなのに、そうしていないというのです、こうしたことは、自筆本にじっくり取り組んでこそ分かることですね。

 東野氏はこのような厳密な文献調査にょって「誰々が捏造したのだ」とか「〇〇と△△の対立の中で偽作されたに違いない」といった陰謀史観風な説を打破していってます。伝承をそのまま受け入れず、文献から読み取れる部分だけを認める一方で、疑われていた伝承が実際には史実をある程度反映している場合もあることに注意するのです。

 たとえば、四天王寺は宣伝上手で偽作文書をたくさん作ったことで知られてていますが、その代表であって太子の手印が押してある『四天王寺御手印縁起』では、太子の頃から敬田院・悲田院・施薬院・療病院という四箇院があったとしています、これについては太子の頃の実状ではなく、8世紀後半頃の四天王寺の状況を反映させたものと見られてきましたが、東野氏はこれを見直します。

 つまり、光明皇后の家政機関である皇后宮職に天平2年(730)に施薬院・悲田院が設置され、それ以前に光明皇后の出身元である藤原氏の興福寺に養老7年に(723)に施薬院・悲田院が置かれていることに注意し、太子信仰が篤かったことで有名な光明皇后が太子の事績とされていたことにならおうとしたものと推測します。

 また、大安寺は該当する田は持っていなかったようですが、『大安寺伽藍縁起流記資材帳』には「悲田分錦」と「悲田分銭」とあるため、そうした事業のための予算を持っていたことが分かります。しかも、大安寺の前身は舒明天皇の百済大寺であって、この寺は太子の熊凝精舎を受け継いだという伝承を持っていますし、瓦も若草伽藍と共通のものが出ています。

 このため、東野氏は、四天王寺の四箇院は8世紀末頃とする通説を疑い、光明皇后の事業も大安寺の社会事業も、起源は太子の時代にあった可能性があるとします。私も、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』とが重視している『優婆塞戒経』は、在家の菩薩が国王となったら社会事業をすべきだと説いていたことを指摘したことがあります。

 こういうやり方で、東野氏は文献を検討していくのですが、東野氏は近代における太子信仰にも注意しており、私もこの元となった論文を読むまでは知らなかったのが、法隆寺が幕末に出していた銀札です。

 江戸時代には大名が藩札を出していましたが、第七章の「幕末の法隆寺とその紙幣」では、聖徳太子の肖像が紙幣に載るよりずっと前の幕末に、法隆寺がおそらく地震で壊れた建物の修理のため、独自の銀札を出しており、その関係史料が残っていることを明らかにしています。その銀札の写真も掲載されてますが、意外ですね。

 このように、東野氏は、綿密な文献研究によって法隆寺と聖徳太子に関して多くのことを明らかにしています。読者は初めて知ることの多さに驚くでしょう。ただ、「憲法十七条」や三教義疏など、太子が書いたとされるものに関する論文がないことが気になるかもしれません。

 確かに、第二部第一章では、『法華義疏』の形態については実物を見たうえでの観察されており、素朴な形のまま大事に保存されていて、題名部分だけ切り取ったように見えるのは、表紙に別な紙を貼り付けて補強した際、下の題名が見えるように補強した紙に窓をあけていることなど、貴重な報告がなされていますが、中身については詳しい説明はありません。

 『三経義疏』と「憲法十七条」の共通面については私がこれまで書いてきましたし、「憲法十七条」については来年、本を出す予定ですので、こうした著作の思想の問題については私などの担当分ということなのでしょう。

 また、ある若手研究者が「憲法十七条」と三教義疏の語法の共通点を発見して学会で報告しており、来年、論文として出ることになっていますので、それが刊行されたら、「憲法十七条」や『三経義疏』の太子撰を疑ってきた日本史学の研究者たちも考えを改めるでしょう。

【追記】
東野氏は前著の東野『大和古寺の研究』(塙書房、2011年)中の「ほんとうの聖徳太子」において、『法華義疏』の実物の書誌的な特色について詳細に検討しており、有益です。本書には「『勝鬘経義疏』の「文」と「語」」と題する論文も収録されており、そこでは『勝鬘経義疏』に良く似ている敦煌本の注釈では「語」となってる部分が『勝鬘経義疏』では「文」となっている箇所が複数あることを指摘し、敦煌の注釈書が話し言葉である「語」を用いている箇所を、『勝鬘経義疏』の作者が文語である「文」に改めているのは、作者が中国語がしゃべれず、漢文を書き言葉としてしか使えない人だったことを示すと述べています。この主張が「ほんとうの聖徳太子」にも盛り込まれていますが、実際には「文意」という表現は隋頃の仏典注釈にはたくさん出てきますので、『勝鬘経義疏』が参考にした注釈が「文意」という表現を用いていたため、それをそのまま使ったことも考えられます。また、『勝鬘経義疏』自身、一箇所ですが「語意」の語を使っている箇所もありますね。また東野氏は、『法華義疏』は訂正具合から見て作者自身の草稿としていますが、全体は側近による書写と見られることは、このブログでも紹介しました(こちら)。


『大成経』に関する最新の諸論文を含む特集:岸本覚・曽根原理編『書物の時代の宗教』

2023年12月02日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 このコーナーでは聖徳太子作とされる偽の『五憲法』とそれを含む偽作の『先代旧事本紀大成経』に関する学問的な研究、そして『五憲法』や『大成経』を利用した強引な国家主義・道徳主義の押しつけやトンデモ説をともに紹介していきます。

 8月27日に東洋大学で『大成経』研究集会が開催され、私を含む内外の研究者が発表し、討議をおこないました。江戸時代の偽作である『先代旧事本紀大成経』について、こうした研究会が開かれたのは、これが初めでしょう。

 江戸中期に山王一実神道や修験道系の思想と『大成経』の影響を受け、独自の説を形成した天台僧、乗因について論じた『徳川時代の異端的宗教 : 戸隠山別当乗因の挑戦と挫折』(岩田書院、 2018年)を著すなど、『大成経』関連の研究を進め、この研究集会を組織した東北大の曽根原理さんの共編で刊行されたのが、

岸本覚・曽根原理編『書物の時代の宗教ー日本近世における神と仏の変遷』【アジア遊学 287】
(勉誠出版、2023年)

であって、この本の「Ⅱ 『大成経』と秘伝の世界」と題する章に関連する論文3本とコラム1本が掲載されています。この「『大成経』と秘伝の世界」の内容は、

佐藤俊晃「禅僧たちの『大成経』受容」

M.M.E.バウンステルス「『大成経』の灌伝書・秘伝書の構造とその背景-潮音道海から、依田貞鎮(徧無為)・平繁仲を経て、東嶺円慈への灌伝受容の過程に-」

湯浅佳子「増穂残口と『先代旧事本紀大成経』」

W.J.ボート「コラム:『大成経』研究の勧め」

であって、いずれも『大成経』研究の実績がある人ばかり。佐藤さんは、黄檗宗・曹洞宗・臨済宗の禅僧たちによる『大成経』受容の研究者。この論文では、近世を代表する禅僧たちが『大成経』を信奉し、聖徳太子が片岡で飢えて倒れていた人とあったがそれは実は菩提達磨だったとする中世の伝承を再評価し、禅宗と神道を結びつけたことについて解説しています。

 バウンステルスさんは、ヨーロッパにおける日本研究の拠点の一つであるオランダのライデン大学日本学部の講師であって、近世の神道・儒教・仏教の論争が専門。この論文では、『大成経』を理解するには師から灌頂を受けて秘伝を聞く必要があるとされていたため、それを記した秘密文献の残存状況を報告したものです。

 湯浅さんは、江戸の文学や思想の研究者。『大成経』についてもすぐれた論文も書いており、この論文では、日蓮宗の談義僧から独自の神道説教家となり、従来の権威ある説を批判して大胆な神道説を唱えた増穂残口が、吉田神道の影響のもとで『大成経』を利用して神道解説の通俗書を著し、禁書とされていた『大成経』の説を民間に普及させたことを論じています。

 ボートさんはライデン大学日本学部の名誉教授であって、近世思想史の研究者です。ボートさんが書いているコラムについては、後で紹介します。

 ライデン大学のお二人が日本に来られることになったので、この研究集会が開催されたのです。ですから、これらを読めば、現在における『大成経』研究の状況がある程度、分かります。

 海外の研究者が2人も書いているのが興味を引くでしょうが、実は、河野省三『旧事大成経に関する研究』(芸苑社、1952年)以後、『大成経』に関して1冊、本を書いているのは、留学して東大大学院で宗教学を学んだこともあるアメリカのブラウン大学にいるアヴェリイ・モローさんが2014年に刊行した、

 
この本だけなんです(超古代史扱い風な邦訳あり)。こういうことは時々起こります。モローさんに関しては、8月にベルギーのゲント大学で開催されたEAJS(ヨーロッパ日本学教会)大会での「近代の聖徳太子」パネルで私が『五憲法』の受容の発表をした際(こちら)、挨拶されて初めて話しました。
 
 上記の「『大成経』と秘伝の世界」の論文はいずれも有益ですが、最後に、『大成経』そのものの研究の勧めを説いたボートさんのコラムを紹介しておきます。というのは、『大成経』の受容については、これまである程度研究が進められているものの、『大成経』そのものの研究は遅れているからです。
 
 ボートさんはまず、六国史など日本の正史は、中国の史書と違って列伝がないのが普通であるのに、『大成経』72巻は、中国の正史の紀伝体を思わせる形式になっているのが珍しいと指摘します。
 
 さて、9世紀頃の成立であって『大成経』が受け継いでいる『先代旧事紀』では、宇宙の起源の話から始まっているのに対し、『大成経』の「神代本紀」では、いきなり無生始天神である「天祖天譲日天先霧地譲月地先霧皇尊」の説明で始まります。
 
 ボートさんは、『大成経』が神以前に「元気」が存在したとする説を批判しているのは、宋代儒学の世界観を否定するものであると指摘します。宋学では神を死んだ人の気として説明しますが、『大成経』では、神は生きており、個性をもって活動する存在であることが強調されるのです。
 
 ボートさんは、『大成経』が1670年から79年の間に何度か印刷され、話題になったことについて簡単に説明したのち、『大成経』についてはいろいろな観点からの研究が可能であり、また必要であることを論じます。
 
 つまり、近世思想史の一面としての儒仏神に関する論争の例として、あるいは、古代・中世の史書や神道書以来の思想展開の例として、また、『大成経』以後の文学や思想に対する影響の歴史についても検討する必要があるとするのです。
 
 作者については諸説をあげつつ、いずれも推測に留まるとします。そして、江戸時代には、誰が書いたということより、どのテキストが公となったかが問題にされたとし、独自の神道家であって『大成経』を尊崇した徧無為が、最初に木活字で刊行された鷦鷯本、そして高野(山)本、長野本を区別したことについて述べ、いずれも不明な点が多いとします。
 
 そして、このように、『大成経』は謎が多いからこそ、多くの人が研究に参加するよう希望してしめくくっています。研究の視点として、あと一つ加えるなら、聖徳太子信仰の展開の一例ということですね。
 
 私は来秋刊行予定の某学会の論文集に、宋代に流行した儒仏道の三教一致説が日本でいかにして『大成経』が説いている儒仏神の三教一致説になったかについて論文を書くことになりました。あるいは、聖徳太子関連の別な論文集に、もう一本、『五憲法』関連で論文を書くかもしれません。
 
 いずれにしても、『大成経』『五憲法』研究を進めていきます。また同時に、これらを真作として持ち上げる困った人たちを批判してゆくことにします。