聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「仏神(仏という神)」は祟るのか? : 北條勝貴「『日本書紀』と祟咎」

2011年07月29日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事では、広隆寺の弥勒菩薩その他の仏像に関する大西修也氏の新書を紹介しましたが、その広隆寺については、北條勝貴「山背嵯峨野の基層信仰と広隆寺仏教の発生--古代的心性における治水と樹木伐採--」(『日本宗教文化史研究』3巻1号、1999年5月)という好論文があります。

 木を切ることによって祟りがあったとする諸記録に注目し、治水工事によって勢力を得、広隆寺を造営した秦氏に関わる嵯峨野の地域信仰について検討した興味深い論考です。芯が曲がった悪材のアカマツをわざわざ用いて作られた宝冠弥勒像と樹木信仰の関係にも触れてます。

 そのように、北條さんは、「祟り」という形で示される、人間の乱開発に対する自然の復讐(と受け止める形で示される人の心?)の検討を行なうなど、「環境と心性」の関わりという最新の学問分野で活躍する一方、中国文献の調査に努め、日本独自とされるものが実は中国思想の影響を受けている場合が多いことを指摘するなど、独自の方法によって成果をあげて来ました。ただ、先端の研究動向に敏感であって正義感が強いためか、時に勇み足も見られます。

 その一例が、先日、氏のブログに掲載された文章です。京都清水寺の国宝・本堂の「清水の舞台」を支える柱のうち、12本にシロアリ被害が発生しているというニュースに対して書かれた「清水寺の対応を注視したい」というタイトルの記事では、そのシロアリについて「虐殺するのか。それとも被害の柱を切り取り他に移すなどの措置を取るのか。駆除したうえで虫供養でも行うのか。まさか、殺生功徳論は唱えないだろうが、もし法要が催されるなら表白文など確認したいところだ」と記されていました。

 私のこのブログの前回の記事では、虫を駆除する側の人たちが建立した久米寺の「虫塚」に触れましたが、虫などの生き物を殺さざるを得ず、供養せずには心が落ち着かない職種の人たち、あるいは、ハエやダニの大量発生に悩まされている今回の震災被災者たちが、この「虐殺するのか」という言葉を読んだらどう思うか。また、これが清水寺でなく、北條さんが管理責任を負っている勤務先大学の学生施設などのことであれば、このような書き方をしたでしょうか。

 むろん、虫や動物の側に立って考えてみることも重要ですが、上記のような書き方自体、欧米の影響を受けて自然保護が強調されるようになった21世紀初頭の日本における「環境と心性」のあり方を示す一例であって、この分野の研究対象となるように思われます。北條さんは、自然保護の立場ではあるものの、アニミズムを安易に礼賛して日本の伝統だと誇るような人たちについては厳しく批判しており、そうした点は私も同感であるだけに、「虐殺」という表現が気になり、こうした勇み足が古代史を見る目にも影響を与え、論文内容に及ばないかと案じられた次第です。
 
 前置きが長くなりましたが、その北條さんが、今回の大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』に寄せたのが、『アリーナ 2008』の論文を増訂した、

北條勝貴「『日本書紀』と祟咎--「仏神の心に祟れり」に至る言説史--」

であり、これは示唆するところの多い考察です。

 『日本書紀』によれば、物部尾輿・中臣鎌子の反対を受けた欽明天皇は蘇我稻目にだけ崇仏を許したものの、尾輿・鎌子は疫病流行を理由に勅許を得、寺を焼き、仏像を難波堀江に流してしまいます。後になって、病気になった蘇我馬子が占わせると、「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」、つまり父の稻目が祭っていたのに祭らなくなっている「仏神」の祟りだと言われたため、馬子は勅許を得て石の仏像を祭ります。そして、馬子は廃仏派の守屋との合戦に勝利し、蘇我系の推古天皇が即位して仏教信仰が強い厩戸皇子が皇太子となった結果、推古天皇の詔のもとで厩戸皇子と馬子を中心として仏教興隆がなされるようになった、というのが『日本書紀』の筋書きです。

 北條論文は、このうち、「仏神(仏という神)」の祟りという点に着目し、中国古代以来の「祟」の事例を検討するとともに、『日本書紀』における祟り神の用例を紹介します。そして、『日本書紀』の崇仏論争記事では、神祇の祟りは明記されず、「代わりに仏罰を暗示する記述がなされている」ことに注意します。森博達『日本書紀』区分論で言えば、祟り神の用例はβ群にのみ見られ、多くは卜辞に連なる中国の史書の筆法を踏まえているのに対し、この「仏神」の祟りだけがα群である敏達紀に見えていて仏教由来であるとして、仏典の知識を持った人物による編纂時の加筆の可能性を指摘するのです。

 そして、仏教関連記述は道慈の筆とする説については、森博達・石井公成などの批判があるとし、「私も、『書紀』の場合記述者個人を明らかにすることは困難と考える」と述べます。ただ、道慈については「何らかの形で関与し、彼の持つ最新の仏教知識が活用された可能性は否定できない」とします(184頁)。唐から持ち帰った最新の仏典の貸与、唐の仏教事情の教示、中国における仏教伝来・廃仏などに関する文献の教示などを想定しているのでしょうか。

 興味深いのは、中国でも仏が祟ったという例は、六朝の仏教説話集である『冥祥記』の佚文に見られるのみだとして、それを紹介している部分です。それによれば、宋代の博打好きの男がしばしば寺の銭を盗んでいたところ、悪病となり、占う者が「祟、仏銭を盗むに由る」といったため、父が「仏とは何の神であって、息子をこのようにしたのか」と怒り、試しに自分も寺に献納されていた豪華な帯を奪って腰帯としたら、百日たたないうちに、その腰のところから同じ悪病となった、とあります。
 
 この話は、唐代の仏教百科事典とも言うべき道世『法苑珠林』に引用されています。その『法苑珠林』が引く説話には、『日本書紀』と同様、廃仏を行った者たちが報いで病気になる話も見えており、こちらも、『日本書紀』の廃仏・崇仏記事と共通する発想と用語が見えるのです。

 このため、北條論文は、敏達紀の記述は、『日本書紀』編纂時に『冥祥記』を参考にして「構築された創作史話」であるとします。仏教導入以後の日本では、災害をもたらす神の祟りは苦しみに基づくものであって、仏教への帰依によって消えるものである以上、仏が祟るというのはやはり例外なのだとするのです。

 そして、この「仏神の祟り」という話は、仏を神としてとらえる初期の心性のあらわれとされることが多いものの、「蕃神」とか「仏神」という言葉自体、中国の仏教文献に見えるものであり、ここに素朴な日本の神祇信仰を見るのは危険であることが注意されています。これは非常に重要な指摘です。

 他にも有意義な指摘がいくつかなされていますが、問題と思われた箇所もあげておきましょう。先に引いた文のうちに見えた「仏罰」という語です。北條さんと吉田一彦さんはいくつかの論文でこの語を使っていますが、この語は経典にも中国の仏教文献にも見えないばかりか、日本でも早い時期の仏教や文学の文献には出てきません。『平家物語』あたりでも「冥罰」などとあるのみです。

 仏教では、自業自得で報いを受けるとか、悪業をなすと仏教信者を守護してくれる善神たちが離れてしまうため病気その他の災難から身を守れなくなって破滅する、とするのが一般的ですし、「仏神の祟り」と「仏罰」はやはり受ける感じが違いますので、避けた方が安全でしょう。

 さらに重要なのは、表現を借りただけか、廃仏や疫病などの史実そのものが無かったのか、という点ですね。『日本書紀』の廃仏騒動をめぐる記事について、これまで以上に中国仏教文献の影響を明らかにしたのは大きな功績ですが、廃仏をめぐる争いや疫病などは実際にはまったく無かったのか、一部は有ったのか、有ったとすればどのようなものであったかについては、別に検討する必要があると思われます。

 美文の漢文で書こうとする以上、典拠を踏まえ、そちらのパターンに合わせて大げさに書くのが通例です。また、物部氏も仏教を信じていて寺を有していたのであって、守屋と馬子の争いは実際には天皇継承をめぐる勢力争いにすぎないとする安井良三氏などの説は、古瓦の研究から見ても成り立たないようですし。

 このように検討すべき課題がいくつも見えてくるのは、様々な研究のタネを含んだ論考なればこそです。北條さんの今後の研究に期待しましょう。

豪壮な来目皇子墓も7世紀初頭の岩屋山式: 陵墓調査室「久米皇子 埴生崗上の墳丘外形調査報告」

2011年07月26日 | 論文・研究書紹介
 厩戸皇子の墓所とされる磯長廟に関する宮内庁書陵部陵墓課陵墓調査室の調査報告については、前に紹介しました。今回取り上げるのは、その磯長廟報告の次に掲載されている、

陵墓調査室「来目皇子 埴生崗上の墳丘外形調査報告」
(『書陵部紀要』第60号、2009年3月)

奥田尚「来目皇子 埴生崗上墓外堤南面にみられた遺構について」(同)

です(続けて紹介しておけば良かったですね)。

 厩戸皇子の弟であって推古10年(602)に新羅征討の大将軍に任じられ、翌年春2月に筑紫で亡くなった来目皇子の墓所として、宮内庁が治定している大阪羽曳野市の埴生崗上墓は、羽曳野丘陵の斜面に位置し、飛鳥と難波を結ぶ竹ノ内街道を見下ろす位置にあります。この付近は、天皇や皇族の陵墓とされるものが多く、「中の太子」と呼ばれ聖徳太子信仰の寺として親しまれてきた野中寺もすぐ側です。

 江戸時代には、近隣の金剛寺住職であった覚峰阿闍梨が荒れて開口していたこの墓に入っており、記録をとどめています。それによれば、石室は美しい切石で出来ており、玄室と羨道の長さはともに15尺とされています。このため、山本彰「来目皇子墓:埴生野塚穴山古墳」(水野正好他『「天皇陵」総覧』、新人物往来社、1994年)では、羨道が短い点は、来目皇子の没年である7世紀初頭頃の古墳石室より後の形式としつつ、この付近には他に候補となりうる大型古墳は無いため、来目皇子墓の可能性が高いとしていました。

 実際、2006年1月に、宮内庁の陵墓指定区域から10mほど南の民有地に対して羽曳野市教育委員会が実施した調査では、西に50mも伸びる人為的な外堤が発見されたため、墓域の周囲を一辺100mほどの外堤が四角く囲んでいたと推測されました。墳丘自体は、用明天皇陵とされる陵よりやや小さいものの、約50m四方もある墳丘の大きさと、その墳丘を方形の濠と外堤がめぐっている点は、馬子の墓とされている石舞台ときわめて似ていることが話題になりました。

 この調査を受けてのことでしょうが、宮内庁陵墓調査室は平成20年2月に調査を行っており、今回の報告となりました。閉じられている石室の内部には入っていません。ただ、明治8年に来目皇子墓と治定されたこの墳丘に対して明治23年になって整備工事が行われた際、職員の調査報告書が作られていたそうで、その『石室略図』が紹介されています。

 現存の『石室略図』は原本でなく、大正12年の謄写本だそうですが、松が生い茂る当時の古墳外側の様子が絵で描かれ、また100分の1の実測図によって内部の構造が示されており、その写真が掲載されています。

 その『石室略記』によれば、玄室の長さは18尺、羨道の長さは25尺と記されています。これが正しければ、太子の墓所とされる磯長廟と同様、7世紀前半のものとされる岩屋山式の石室ということになるものの、奧壁の上段が二石となるらしいなどの特異な点も見られる由。

 今回の調査では、墳丘上の一部の枝を払って調査しており、その結果、一辺が約53から54m、最大高が約10m、テラス面を備えた3段築成の方墳であることが判明しています。凝灰岩の貼石も発見されており、そうした貼石を用いた遺構が存在していた可能性もあるとか。まさに天皇陵に準ずる豪壮なものだったようです。

 羽曳野市教委の調査では、墳の周囲に方形の堤がめぐらされていたと推測されていましたが、実際に造成された堤は南側だけであって、東・西・北の堤と見えたのは、自然の地形を巧みに生かしたもののようです。また、興味深いことに、南側の外堤には方墳と堤の間に貯まった水を排水するため、川原石を用いたトンネル型の排水溝もあった由。

 橿原考古学研究所の奥田氏の報告は、昭和58年に墓の南側で造成工事が行われていた際の簡単な個人的調査に基づくものであり、当時の写真も掲載されています。奥田氏によれば、墓の背後の山から流れてくる水を逃すための同様の排水施設は、玉手山9号墳、マルコ山古墳、キトラ古墳その他に見られるそうです。

 ということで、来目皇子を「河内の埴生山の岡の上に葬る」と記した『日本書紀』の記述は信頼でき、この墓は宮内庁の陵墓治定が正しかった極めて稀な例(正しいのは数パーセント?)、と考古学界では認められています。明治の治定の頃の状況については、北康宏「陵墓治定信憑性の判断基準」(『人文学』181、2007年11月)で読むことができます。

 『日本書紀』のこの部分には、推古天皇は殯のために土師連猪手を周芳(周防)の国の娑婆に派遣したとあり、その猪手の子孫を娑婆連という、と記されているため、葬儀と造墓の技術集団であった土師氏が提出した文書に基づいて書かれているのでしょう。中世の聖徳太子伝の中には、来目皇子が海を渡って戦い、新羅を降伏させて筑紫に凱旋したなどとする話が複数の系統に見られますが、それらは、神々の加護で新羅の大将を倒したとか、「日本国ハ神国」なので負けても仕方ないと新羅王が語ったとするなど、中世ならでは神国思想に基づいて増補されたものであることは、松本真輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(勉誠出版、2007年)が明らかにしています。

 その来目皇子が創建したと伝えられる久米寺は、畝傍山の南、橿原神宮駅の近くに位置しています。久米寺は、久米仙人の伝説で有名であって久米仙人の創建とする伝承もあるほか、久米部の氏寺とする説もあります。久米部であれば軍事関連の氏族であることが着目されますが、古い文献が残っておらず、詳細は不明です。創建時期も明確でなく、出土瓦から見て7世紀後半とする研究者もいます。

 四天王寺は聖徳太子信仰を鼓吹しつつ天台宗との関係を深めていったのに対し、久米寺は、夢告を得た空海がこの寺で『大日経』にめぐりあったという伝承が示すように、真言宗と結びつくに至ってており、中世には多くの書物を蔵する学問寺として知られるようになります。

 近世以後では弘法大師信仰の寺、練り供養の寺として知られていますが、先日、訪れてみたところ、近年は来目皇子の「目」や久米仙人の逸話などから、目の病気や中風その他の病気に功験あらたかということで参拝する人が多いようです。あじさいの寺としても有名ですね。

 それと関係があるのかどうかわかりませんが、なかなか風情のあるこの寺の入り口近くには、奈良県の毒物劇物取扱者協会が駆除された虫を供養するために建立した立派な「虫塚」が建っていました。関係者たちによる法要も毎年、催されているとか。新羅征討の大将軍に任じられた皇子の創建という伝承を有する由緒ある寺が、時代とともに移り変わってきた一例ですね。

9月11日(日)藝林会第五回学術研究大会「聖徳太子をめぐる諸問題」

2011年07月24日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 聖徳太子について総合的に再検証しようという内容の学術大会が開催されます。

藝林会第五回学術研究大会
日時:平成23年9月11日(日)
会場:大阪・夕陽丘予備校(JR天王寺駅北口より徒歩5分)
主題:「聖徳太子をめぐる諸問題」

【四天王寺:集合見学(9:00~10:00)】
参拝案内・寺内説明: 南谷恵敏(四天王寺法務部長・勧学部長)

【大会総会(10:30~11:00)】
進行: 白山芳太郎(皇學館大学教授・本会委員)

【研究発表(11:00~12:00、昼食、13:00~15:00)】
司会: 清水 潔(皇學館大学学長・本会委員)

(1)「国制成立史から見る聖徳太子」(仮題)
      北 康宏(同志社大学文学部准教授)
(2)「対外関係史から見る聖徳太子」(仮題)
      石井正敏(中央大学文学部教授)
(3)「仏教文化史から見る聖徳太子」(仮題)
      武田佐知子(大阪大学大学院文学研究院教授)

【相互討論(15:00~16:30)】
(4)問題提起「聖徳太子研究の問題点」
      石井公成(駒澤大学仏教学部教授)

司会: 所 功(京都産業大学教授・本会代表)

以上です。

 会員以外の来聴も歓迎の由(参加費=資料代500円)。私も会員ではなく、この大会には急に参加することになったため、『藝林』誌や藝林会のサイトに載っていた予告プログラムとは、内容が一部変わっています。発表者の題名が確定するのは、9月になってからのようです。

 「相互討論」では、私が30分ほど現在の聖徳太子研究の問題点について話し、その後で全員による討論に移るそうです。発表者の諸先生や司会の所先生とは、これまでお会いしたことがありませんが、北先生の論文は、このブログでは着目して2度取り上げており、2度目の時などは3回にわたって紹介しています。

 相互討論では、専門も立場も異なる研究者たちが討議することになりますので、さてどうなりますか。

中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(2)

2011年07月22日 | 三経義疏
 これまで見てきたように、曾根論文では以前の自説を改めて誠実な取り組みがなされ、有益な示唆がなされています。ただ、疑問に思われる点も少々有ります。

 そのうち、三経義疏が中国撰でないなら「第一の候補は(日本への渡来僧を含む)百済・高句麗僧であろう」とあるのは、「第一の候補は日本に渡来した百済・高句麗僧であろう」とする方が適切ではないでしょうか。もし百済や高句麗の学僧が自国で書いたのであれば、その書物が百済や高句麗で全く知られずにいるのは不自然だからです。曾根さんは、おそらく渡来僧に重点を置きつつ上のように書いたのでしょうが。

 鎌倉時代に法隆寺で開板された三経義疏のうち、『法華義疏』は現存する御物本に基づく模刻であるほか、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』も、『法華義疏』と共通する古風な異体字などから見て、『法華義疏』御物本にきわめて似た体裁の古写本の模刻であったことは、花山信勝が早くに詳述しているところです。

 つまり、三経義疏は、学風だけでなく、体裁も似ていたことになります。だからこそセットにされたのですね。曾根さん自身も、注12では、性格の異なるものを組み合わせることは考えにくく、特に外国僧と日本僧の注釈を組み合わせることは想定しにくい、と述べている通りです。

 今日まで奇跡的に痛みが少ない状態で伝えられてきた『法華義疏』御物本は、紙が貴重な7世紀前半あたりに、隋の上質の紙を用いて書かれているため、他の二疏も同様であったと推測されます。

 しかし、中国の注釈を参照しつつそうした高級紙を使って『勝鬘経義疏』1巻、『法華義疏』4巻、『維摩経義疏』3巻というそれなりの質と量を有する3部の注釈を書けるのは、かなりのエリートに限られるでしょう。そのようなエリートである百済僧や高句麗僧が自国で人気経典の注釈を3部も書いていたとしたら、そのことがそれぞれの国で全く知られずにいるとは考えにくい。

 しかも、百済が滅亡した時期には、貴族や僧侶を含む多くの百済人が日本に渡ってきていますし、百済の時ほどではないものの、遅れて滅亡した高句麗からも僧を含めたかなり数の人々が日本に渡って来ています。『日本霊異記』に見えるように、高句麗に留学していた際に高句麗滅亡時の戦乱に巻き込まれ、必死で逃れて中国に渡り、長年の苦労の末、ようやく日本に戻ってきた日本僧もいました。

 実際、法隆寺が蔵する甲午年銘(持統8年、694年)の造像記板には、鵤(斑鳩)大寺の徳聡、片岡王寺の令弁、飛鳥寺の弁聡という、百済王の家系である3人の僧が父母の恩のために観音像を造ったと記されています。7世紀末には、再建が進みつつあった法隆寺および太子と関係深い寺々に百済系の僧、それも貴族の血を引く僧たちが確実にいたのです。これは、百済の首都となった扶余の寺院のほとんどが王家や官に関わる寺であったことが示すように、百済仏教が中国南朝を手本とした貴族仏教であったことと関係しているでしょう。

 そうした朝鮮からの渡来僧、朝鮮諸国に留学した日本僧、朝鮮経由で入唐した日本僧たちが仏教の指導役として法隆寺や飛鳥寺を含めた各寺で活躍しているのに、また仏教受容期から奈良朝前半あたりまでは、朝鮮諸国や唐への留学僧の多くが朝鮮渡来系氏族出身であったのに、百済や高句麗の学僧が自国で書いた3部の注釈が上宮王撰とされるでしょうか。

 高句麗や百済の仏教は新羅にも影響を与えており、高句麗や百済の仏教界で話題になった書物であれば、新羅にも情報が伝わるでしょう。新羅は後にはこの二国を併合して半島を統一しますし。

 天平宝字5年(761)の『東院資財帳』では、『法華義疏』は律師行信が捜し求めて奉納したとあるため、8世紀半ばになって行信がこれら3部の注釈を上宮王撰だと言い立てて宣伝したのだとする説もあります。しかし、百済僧か高句麗僧の作、ないしその可能性のある著者不明の注釈を上宮王撰だとして宣伝していることを、日本と長く対立してきて微妙な関係にあった統一新羅に知られたら、非常に恥ずかしいことにならないでしょうか。唐に知られた場合も同様です。

 三経義疏を秘蔵して外に出さないなら、新羅にも唐にも知られずにすむでしょうが、三経義疏は天平19年(742)から天平勝宝8年(756)頃にかけて盛んに書写されていることが記録から知られます。また、その時期ないし少し後の時期には智光(709~)などの学僧たちが注釈書でしばしば引用しています。さらに、宝亀8年(777年。松本信道説による)には、得清らが『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐にもちこんで鑑真ゆかりの寺に献呈し、後に唐僧の明空が『勝鬘経義疏』の注釈を著すにまで至ったことは有名です。

 その頃の唐の有名な寺々には、百済と高句麗を併合した統一新羅から、日本の留学僧とは桁違いの数の僧たちがやって来ていました。「三経義疏は、実は百済か高句麗の作らしい」などいう噂が奈良時代の仏教界でつぶやかれていたとしたら、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』を唐に持っていって南嶽慧思の後身である上宮王の作として誇る、などという怖いことは出来なかったでしょう。

 次に、仏教受容期の日本人に高度な教理が理解できたか、という点については、今でも欧米で広く読まれている英文著作を著したのは、新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙、忽滑谷快天その他、開国して数十年しかたたない明治期の知識人たちであることも考えるべきでしょう。

 彼らが有名な英文著作を書いたのは、海外渡航後ですが、横浜で育った岡倉天心などは、幼い頃からアメリカ人宣教師に英語を学び、帝国大学ではフェノロサに習い、フェノロサの奈良古寺調査に当たっては助手となって通訳を勤めています。

 飛鳥は渡来系氏族が活躍した地であり、飛鳥仏教は、日本風な色づけも少々なされているものの、基本的には朝鮮仏教です。斑鳩寺を建てた厩戸皇子は、百済と結びついていた仏教推進者である蘇我氏系のエリートですので、天心のような環境で育ったと考えるべきでしょう。庶民や地方の中小氏族の子弟と同一視することはできません。

 厩戸皇子以外の日本人が関与したとしても、育ちは厩戸皇子と同じようなものでしょう。それに、三経義疏は、種本を要略した部分以外で自説を強調している箇所は、どの疏も変格漢文が目立ちます。百済・高句麗僧であれ日本人であれ、中国に長いこと留学していた人なら、あのような漢文にはならないはずですす。

 というより、朝鮮渡来僧が書いたのか、日本人が書いたのか、という二者択一はそもそも成り立たないのですね。ここで振り返るべきなのは、古代において帝王や聖人の作などという場合、自分ですべてやったという意味ではないように、「上宮王撰」の場合も太子の保護のもとで朝鮮系外国僧(たち)が書いたという意味だ、それが平安朝以後の太子信仰の中で太子一人の作とされるようになったのだ、講経にしても外国僧による講経を太子が主催したという程度なら「むしろ大いにありうる」、と説く井上光貞説でしょう。

 検討すべきなのは、その外国僧は一人だったか複数だったか、その僧(たち)の出身国や学系はどれなのか、厩戸皇子ないし他の日本人の関与があったのか、あったとしたらどの程度のものか、コメントを少し付した程度か、種本の講義と抄出をしてもらいながら質疑を重ねつつ書かせた(書いた)りしたのか、といった問題ですね。

中国撰述説支持の撤回と以後の摸索: 曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」(1)

2011年07月19日 | 三経義疏
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の個別論文紹介の第四弾は、曾根正人さんの三経義疏論文です。

 『アリーナ 2008』に掲載された曾根さんの「廐戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」については、以前、このブログで紹介しました。すなわち、『法華義疏』の内容や、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈の学系などについて、曾根論文が重要な指摘をしていることについては評価するものの、曾根論文が大前提としている藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説は誤りであり、曾根論文での考察結果は、藤枝説に従わなくてもそのまま生かせるはずだ、と論じたのです。

 今回の曾根論文はその論文の増訂版ですが、この間に私の藤枝説批判の論文が2篇刊行され(そのうち、短い方はPDFで読めます)、また639年に書かれた百済王室の「舎利奉安記」の文言との類似から百済仏教と三経義疏の関係の深さを強調した瀬間正之さんの論文(増訂されて『日本書紀の謎と聖徳太子』に収録)が刊行されたことなどを考慮したためでしょうが、今回の論文では曾根さんは藤枝説に従わなくなりました。

 これまでは藤枝説支持で論文を書いて来たことは明記されていませんが、「中国以外の成立とする有力説も見えている」(267頁)として注で石井の2本の論文を引き、自説の重要な根拠の一つとしていた中国撰述説が崩れたことを率直に認め、そのうえで様々な問題に誠実に取り組まれたことは高く評価されるべきでしょう。

 さて、曾根論文では、『勝鬘経義疏』中国撰述説が絶対のものでなくなったことを認めたのですが、だからといって三経義疏をただちに厩戸皇子撰述とすることはできないとし、その立場から様々な問題を提示しています。まず、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』と『維摩経義疏』は性格が異なることが早くから指摘されている以上、『勝鬘経義疏』が中国撰述でないということになっても、他の2疏については検討がまだ十分でないこと、『勝鬘経義疏』は中国撰述説でないとしても、朝鮮撰述か日本撰述かなどはまだ明らかにされていないことが指摘されます。

 また、仏教受容期であって留学もしていない厩戸皇子にこれだけのものが書くことが可能だったのか、三経義疏が日本製ならば、以後、日本僧の著作が残っておらず、奈良後期まで空白になってしまうのはなぜか、厩戸皇子の師とされる高句麗の慧慈は三論宗であったと伝えられており、三論教学は江南の成実学が強い三経義疏とは学風が異なる以上、三経義疏は厩戸の著作でないとすべきなのか、従来の伝承説が示すような慧慈の学系を考え直すべきなのか、といった種々の疑問が提示され、そのいくつかについて実際に検討がなされています。

 つまり、明確な結論を出すには至らないものの、三経義疏中国撰述を前提としてきた自説とぶつかる状況に正面から向き合い、いろいろ摸索する中で、様々な問題点がこれまで以上に明確になって浮かびあがってきたという状況でしょうか。

 そうした摸索の中で、曾根さんは、「日本人撰述・厩戸皇子撰述の新たな可能性が出てくることはあり得る」と認めつつ、「日本人や厩戸皇子以外の撰述ではない」という結論を導くのは、極めて難しい」と述べます(280頁)。そして、三経義疏が中国成立でなく、仏教を受容して間もない日本人の作でもない可能性が高いとなれば、第一の候補は百済・高麗僧であり、「飛鳥仏教との親密度からすれば、百済僧の可能性がもっとも高いと考えられる」とまとめています。これは大きな変化ですね。

 曾根論文は、その結論において、三経義疏そのものの研究や百済での発掘成果に関する研究の進展によっては、『三経義疏』の背景にある「朝鮮仏教像」そのものが修正されていくことも考えられるとし、次のように結んでいます。

「『三経義疏』をめぐる問題は、いまや厩戸皇子や飛鳥仏教を超えて東アジア仏教の問題なのである。」(280頁)

 こうした言葉は、従来の日本史研究者の発想からは出てこないものであり、三経義疏研究が新たな段階に入ったことを示すものです。

 なお、これまでの私の論文では『勝鬘経義疏』の変則語法を中心に論じていることは確かですが、その関連で『法華義疏』と『維摩経義疏』の漢文の変則さについても触れており、こちらも中国撰述でありえないことを示してあります。『法華義疏』と『維摩経義疏』の変則語法に関する詳しい検討は、この秋に論文原稿を提出して来年刊行される予定です。ただ、語法や思想の特色を指摘する程度で、それ以上には踏み込めないでしょう。慎重に論じようとすると、けっこう手間がかかりますので。

森博達「井上亘『日本書紀の謎は解けたか』批判」(2)……森氏自身による反論コメント

2011年07月17日 | 論文・研究書紹介
 「四 『α群中国人表記説』」でも、事実誤認の妄想によって私見を批判している。「α群中国人表記説」の最大の音韻的根拠は、清濁異例の現象にある。α群には、日本語の濁音音節を表すのに清音字を使用した例が、七字種・延べ十一例もある。「水」を「瀰(ミツ)」、「枝」を「曳(エ)」など、日本人なら清濁を間違えるはずがない。

 書紀の古写本について声点(アクセント符号)を調べたところ、予想通り、これらの異例音節はすべて高平調のアクセントをもっていた。高平調の音節は発端高度が高く、喉頭の緊張が持続するので、声帯の振動が妨げられ、濁音要素が減殺される。その結果、高平調の濁音音節を中国人が清音と聞き誤ったのだろう。森(一九九一)で指摘したとおりである。井上氏はこれを次のように批判している。

  「彼は間違えた箇所がみな上声であることを発見して喜んでいるが、ならば、上声の濁音だと必ず間違えるのかと尋ねたい。そういう分析をしてほしいと思うが、恐らくそれは意味がないだろう。なぜなら、先ず第一に、濁音と清音を間違えるのは現代中国人の話であって、唐代の中国語には濁音の声母があったのだから、唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない。つまりこの論拠そのものが時代錯誤である。」(九三頁)
 
 私は「上声の濁音だと必ず間違える」などと言っていない。また、「唐代の中国語に濁音の声母があった」というのは初歩的な誤りである。「名論文」と讃える平山(一九六七)のどこを読んでいるのか。もちろん森(一九九一)の「隋唐字音概説」や『日本書紀の謎を解く』でも説明している。後者なら「呉音と漢音」の項でこう述べている。

  「一方の漢音は唐代北方音の声母の二大音声変化現象を反映しています。音声変化の第一は「無声音化」といい全濁音の有声要素が弱化しました。漢音は「貧・ヒン」「弟・テイ」「強・キョウ」「尚・ショウ」のように清音になります。」(六十頁)

 井上氏は唐代北方音の「全濁音無声音化」という初歩的知識を欠いているだけでなく、虚偽を捏造して私を批判しているのだ。井上氏の評論文は私への罵詈雑言で満ちているが、この第四節の末尾でも、私を「門外漢の早とちり」「アマチュアの水準」と嘲っている(九四頁)。箴言に曰く、「文は人なり」。学問にはプロもアマもない。ただし学者にはプロとアマがいる。


 「五 『書紀文章論』」でも事実誤認が甚だしい。最後の項では、嘘をついて私見を批判している。「α群中国人述作説」の証拠は音韻のみならず文章にも見られる。巻一四「雄略即位前紀」に、安康天皇が皇后に「吾妹」と呼びかける文章がある。そこに、「称妻為妹、蓋古之俗乎。〈妻を称ひて妹とするは、蓋し古の俗か。〉」という分注がある。

 男が妻を「吾妹」と呼ぶのは上代でも一般的な慣習だが、それを不思議に思って、「昔の習俗か」と注釈を加えている。α群の述作者は日本人の常識を知らなかったのだ。

 この私見に対して井上氏は次のように批判する。
 
  「次にこの注を付けた「吾妹」の用例を調べてみると、神代紀上第五段一書第六(イザナミに対するイザナキの呼びかけ)、神武即位前紀戊午年十二月丙申条(長髄彦が妹の三炊屋媛に冠した語)、安康元年二月紀(大草香皇子が妹の幡梭皇女を指して言った語)とこの雄略即位前紀の四例であるが、雄略紀以外はみな実の妹を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこういう注記があっても何もおかしくはない。 」(九九~一〇〇頁)

 これは嘘だ。最初の神代紀上第五段一書第六は次のとおり(本書第五章第三節参照)。

  「時伊奘冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。伊奘諾尊乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則当産日将千五百頭。【伊奘諾尊乃ち報へて曰く、愛しき吾が妹、如此言りたまはば、吾は日に千五百頭を産まむ】」

「吾夫君」に対して「吾妹」が呼応している。夫婦である。井上氏が明らかな嘘をついてまで私を中傷する目的は何なのか。


 「六 『書紀編修論』」も事実誤認と的外れな皮肉が満載である。私は「憲法十七条」から十七例の倭習を摘出して、「文体的にも文法的にも立派な文章」という吉川幸次郎説を批判している。井上氏は「『倭習十七条』」の項で、「憲法には古典の教養だけでなく卓絶した思索の深みがあり、(中略)これを書いた人物は突出した天才であって」と述べ、最後に、「そういう点を全く顧慮せず、得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と、皮肉で締めくくる。私は「憲法」の文章を検討して、事実を発見し事実を提示したのだ。

 この節の最後の項「森説の読み替え」では、次のように述べている。

  「『書紀』が杜撰な史書であることは文献学者ならば誰でも知っている。本来、区分論のような緻密な検証に堪えうるような書には見えない。にも関わらず、森が検出したようにこれだけはっきりした違いが出るのは、むしろ新しい編集の痕跡と見るべきであり、しかもその編集作業は非常に短時間に行われた可能性が大きい。私は森の仕事をこのように読み替える。」(一一〇頁)
 
 井上氏は他者が検出した事実に印象批評を加えているだけだ。井上氏の師匠筋に当たる坂本太郎はこう言った。「記紀で研究する前に、記紀を研究せねばならぬ」。そして自分自身それを実践した。井上氏は自ら汗を流さず、「門外漢」の私が発見した数々の事実を、或いは無視し、或いは曲解し、嘘をついてまで私を誹謗中傷する。坂本の言うように、書紀の文献批判こそ日本古代史を専攻する「文献史学者」の本来の仕事ではないのか。
 

 「おわりに」では、まず拙著の「書紀研究論」に触れて、「自らの書紀区分論を基準にして先学をこきおろしてゆくところ」など、「読むに堪えない」という。これも印象批評だ。私は事実に即して書紀研究史を記したまでである。

 最後に井上氏は、二〇〇九年に杭州のシンポジウムで私の報告を聴き、「自説に対する揺るぎない自信と文献史学者に対する明確な敵意を感じ取った」と言う。続けて自らの勇気を誇り、見得を切っている。
  
  「私が森説批判を依頼されたことについて、何人かの人から「やめた方がいい」と忠告を受けた。どうも日本国内では森説を批判しにくいらしい。ならば国内にいない私がやるしかあるまいと決意を新たにした。以後、読者は森説と本稿を比べて、どちらがより正しいかを判断していただきたいと思う。」(一一二頁)

 「文献史学者」の代表として、憎い敵の首級を挙げるべく、単騎勇ましく出陣したような口吻である。しかし井上氏は実証研究という本物の槍をもたない。妄想の刀を振り回し、出撃直後に落馬してしまった。

 ここに「妄想史学者」の命脈は尽きた。学問は非情だ。

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森博達「井上亘『日本書紀の謎は解けたか』批判」(1)……森氏自身による反論コメント

2011年07月17日 | 論文・研究書紹介
 現在、このブログでは、新刊の大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』を取り上げ、個々の論文の内容を紹介する連載をやっています。これまで大山誠一論文・加藤謙吉論文・八重樫直比古論文について論じてきており、八重樫さんからはコメント欄にコメントを寄せて頂きました。

 それに続いて、森博達さんが、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)を激しく批判した井上亘氏の論文「『日本書紀』の謎は解けたか」に対する批判をコメント欄に投稿してくださったのですが、長文すぎてコメント欄の字数制限ではじかれてしまったため、以下のように、本文の記事として2回に分けて掲載させていただきます。
(ブログ作者:石井公成)

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  井上亘「日本書紀の謎は解けたか」批判

                             森 博達

 貴ブログ、いつも楽しみに拝読しています。先日は大山氏編『日本書紀の謎と聖徳太子』の発刊をお教え下さり、有難うございます。早速購入したところ、三日後に「著者」からの献本が届きました。どなたにお礼を言っていいのやら、この場を拝借してお礼申し上げます。いろいろな意味で興味深く閲読しました。

 折しも先日お話した拙著『日本書紀成立論』(仮題)が7月15日に脱稿しました。そこで急遽、大山編著所収の論文数篇にも言及できました。書紀α群β群の論と関連して興味深かったのは北條論文。祟神の記事は「仏神」の例を除いてβ群に偏在するとの指摘。八重樫論文も『六度集経』の新知見が得られて有益でした。『六度集経』の利用箇所は上宮家滅亡記事の原資料にあったと八重樫氏はお考えのようですね。私はこの部分は後人の加筆だと考え、拙著原稿で詳述しました。

 最も興味深かったのは、やはり井上論文の私説批判です。これには上記『日本書紀成立論』の注として長文の反論を書き、貴ブログのコメント欄に拙著原稿の該当部分を投稿しました。14日のことですが、届いていないとの由を伺い、再度投稿する次第です。長くて恐縮ですが、以下のとおりです。

森博達『日本書紀成立論』(仮題、2011年9月出版予定)第4章第1節【注】

 ごく最近、大山氏編『日本書紀の謎と聖徳太子』が発売されたので(二〇一一年六月十五日刊)、一読した。そこでも大山氏は「私見に対する学問的反論は皆無である」と述べている(七頁)。もちろん「聖徳太子=道慈創作説」についての私の批判に一切答えていない。その代わりに、拙著(一九九九)『日本書紀の謎を解く』に対する井上亘氏の批評「『日本書紀』の謎は解けたか」を掲載した。そして井上論文を紹介して、次のように私を批判している。

  「今回の井上氏の論考は、『書紀』の謎を解いたと自称する森説のほとんど全論点を否定したものとなっており、結果として森氏の理解が皮相にして粗雑だったということにならざるを得ないものである。」(十二頁)

 本書第一章や第二章第二節で述べたように、大山氏はかつて私の「憲法偽作説」を紹介し、「研究の緻密さに感嘆した」と述べている(二〇〇〇年「聖徳太子関係史料の再検討」『東アジアの古代文化』一〇四号)。また「聖徳太子関係史料の再検討(その二)」(二〇〇一年『東アジアの古代文化』一〇六号)では、私の書紀区分論を採用している。ところが私が大山氏の「聖徳太子=道慈創作説」を「妄想」として批判したところ、途端に口を拭ってしまった。今度ようやく口を開くや、井上論文のお蔭で、森の研究に対する印象が、「緻密」から「皮相にして粗雑」に変わったという。懐手で走狗を放つ。姑息な遣り口だ。だが、いずれにせよ拙著への批判は熱烈歓迎である。

 井上氏の評論は、「森博達『日本書紀の謎を解く』について、その学説を解説し、その限界を指摘するもの」という。四十五頁。大山氏の掲載論文と並ぶ長篇であり、「はじめに」・本文五節・「おわりに」からなる。全篇、基礎知識の欠如を晒し、事実誤認に満ちている。誤りは枚挙に遑がない。ここでは各節から代表的な誤りを指摘しておこう。


 「はじめに」では、拙著が「文献史学に対する挑戦」だと憤る。井上氏は「音韻学と文献史学の双方の知識」を備えているそうである。そこで大山氏の依頼を受けて二〇〇九年十二月に報告を行ったという。今回の評論はそれを増補したもの。

「一 中国音韻学」では、最初の項目「小学」の冒頭で早速馬脚を露している。

  「古来、中国では多くの辞書が作られた。漢字を構成する形・音・義の三つの要素に対応して、字形から字書が、字音から韻書が、字義から類書がそれぞれ作られた。」(七三頁、太字下線は森、以下同)

 字義によって分類配列された書は、類書ではなく義書といい、『爾雅』や『釈名』などがある。『藝文類聚』や『太平御覧』などの類書は、「多くの書物の中の事項や語句を内容ごとに分類して編集した書物」(『漢辞海』一五四五頁)である。音韻学に分け入る前に「小学」で自爆している。


 「二 中古音の概要」も初歩的な誤りばかり。第一に、「韻目とは同じ韻母と四声をもつ文字のグループ」(七七頁)だというが、これは誤り。前頁では、「韻母はさらに介音・主母音・韻尾の三つに分かれる」と説明している。「東」韻を例に挙げているが、その韻目には一等韻の「東」字もあり、三等韻の「中」字も含まれている。両者は介音の有無の違いであり、井上流では「同じ韻母」とはならない。

 第二に、「三等の韻母はi介音をもち、四等の主母音はeである」(七九頁)、「上述のように三等韻にはi介音が付く」(八十頁)というが、これは中古音の初歩的知識を欠いた説明である。三等と三等韻、四等と四等韻の区別が分かっていない。

 井上氏は七八頁の図2に『韻鏡』の第一転を掲載している。その「屋」韻(東韻の入声相配韻)の歯音の一等~四等欄にそれぞれ「速・縮・叔・粛」が納められている。このうち「速(ソク)」は一等韻で、「縮・叔・粛(シュク)」は三等韻である。このように三等韻は歯音声母の下で『韻鏡』の二・三・四等に跨ることがあるのだ。

 また「三等韻にはi介音が付く」というのも誤りである。中古音では三等韻の拗介音は二種類ある。それを発見したのは、井上氏が「天才的な音韻学者」(八二頁)と呼ぶ有坂秀世の「カールグレン氏の拗音説を評す」(一九三七~一九三九年)である。ちなみに、井上氏が「中古音を概説した名論文」(八三頁)と讃える平山久雄「中古漢語の音韻」(一九六七)によれば、その推定音価は口蓋的なiと非口蓋的なIである。三等韻は中古音を理解するうえで核心的な知識である。もちろん拙著『古代の音韻と日本書紀の成立』(一九九一)の外篇第一章「隋唐字音概説」でも易しく説明している。井上氏は無知なだけでなく、中身を見ずにレッテルを貼っている。


 「三 『書紀音韻論』」では、まず上掲の拙著(一九九一)について、「この方法は大変科学的であって、上代日本語の音価についてこれほど明確に論じた研究はほかにないのではないか」(八二頁)と褒めている。評論文の末尾近くでも、「彼の上代日本語の音価推定は未曽有の業績と言うべきである」(一〇九頁)と、同様の賛辞を呈している。(これも中身を見ないレッテル貼りだ。)しかし一方では、私の「書紀α群原音依拠説」を批判し、平山久雄「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」(一九八二)・「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」(一九八三)を支持している。α群原音依拠説が成立しなければ、私の上代日本語の音価推定は成立しない。井上氏の議論は自家撞着に陥っている。

 拙著(一九九一、一四六~一四八頁)でも述べたように、平山(一九八二)は私が提示したα・β各群の音韻的特徴について、「音声とは無関係の、いわば表記者の文字嗜好の相違という意味で、偶然の現象」と解釈した。また「α群にも『倭音説』が該当する」と言いながら、その根拠を何一つ提示しなかった。私は「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証する」(一九八二)で平山氏の批判に逐一回答し、α群原音依拠説の妥当性を一層明らかにした。

 私の反論に対し、平山(一九八三)は「偶然説」を繰り返し、「α群倭音依拠説」の論拠を何も提示せず、新たに「原音―倭音説」を提案した。「α群歌謡の表記者が原音に拠ると同時にその倭音をも考慮した」(十七頁)というものである。私はα・β両群の仮名表記の本質的な相違は、「漢字原音による最終的かつ統一的な点検」が加えられているか否かにあることを、創説の時から説き続けてきた(森一九七七「『日本書紀』における万葉仮名の一特質」、十七~十九頁)。平山(一九八三)の「原音―倭音説」は、α群の仮名が漢字原音に拠る吟味を経たものであることを承認しているのである。

 井上氏は、「私はこの論争について専門的な立場から論評する資格もないし、国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」(八五頁)と逃げを打っている。音韻学の知識を備えているから、大山氏の依頼に応えて森説批判の報告をしたという主旨を、「はじめに」で述べていたではないか。そもそも学問に「資格」など必要ない。

 また、国語学者の見解が知りたければ、『国語学』(国語学会誌)の学界展望や拙著の書評を見ればよい。『国語学』一八八集に林史典氏による「書評:森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』」(一九九七年)が掲載されている。平山氏の「偶然説」「α群倭音説」「α群原音―倭音説」を支持して私見を批判した国語学者は皆無である。

 『国語学』二一四号(二〇〇三年)は「異文化接触と日本語」という特集を組んだ。その際に編集部が私に執筆を要請してきた。そこで、「日本書紀成立論小結―併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず―」を著した。拙論が巻頭論文で、その次が高山倫明「字音声調と日本語のアクセント」である。高山氏は本書の第一章・第二章でも紹介したように、私のα群原音依拠説を踏まえて、原音声調による区分論を樹立している。国語学界ではα群原音依拠説が定説となっているのだ。


広隆寺前身の古さと太子関連寺院の瓦つながり: 渡里恒信「蜂岡寺・葛野秦寺と北野廃寺」他

2011年07月15日 | 論文・研究書紹介
 寄り道ついでに、また、聖徳太子と四天王寺・広隆寺との関係の有無について別の視点から眺めるため、きっかけとして取り上げてみたいのが、

渡里恒信「蜂岡寺・葛野秦寺と北野廃寺--広隆寺の創立と移転をめぐって--」
(『政治経済史学』502号、2008年8月)

です。

 渡里氏は、広隆寺創建に関する諸説を概観し、出土瓦の古さから見て、北野廃寺が広隆寺の前身であった蜂岡寺であって、『日本書紀』が記するように推古11年(603)頃の創建とみなしてよいとします。ただ、前回の記事でも触れた北野廃寺=秦河勝の邸宅を改造した仏堂程度=平安京収用説については、移転という結果から見た憶測にすぎないと思われる、と批判します。

 というのは、現在の広隆寺(太秦)では七世紀前半の伽藍の跡は見つかっていないからです。一方、『天暦御記』が記す伝承のように、秦河勝の邸宅が後の大内裏の場所にあったとすると、北野廃寺はそのすぐ西北であり、丘陵を背景として居館と寺が並ぶのは、斑鳩宮と斑鳩寺が示すように、飛鳥時代によく見られたものです。その北野廃寺こそが、公的な性格が強かった伽藍なのであり、新羅からの仏像を受け入れたのもここではないか、と渡里氏は見るのです。

 これに対して、現在の広隆寺は、出土瓦から見て、蜂岡寺につぐ葛野秦氏の氏寺として、推古朝後半に建立されたと思われるとします。ただし、聖徳太子の為の創建とするのは、聖徳太子信仰による潤色であろうから、後になって太子の没年を創建の年とした可能性も捨てきれないと説きます。

 平安京が造営された以後は、蜂岡寺(北野廃寺)が資料に登場しなくなるのは確かですが、その場所に野寺(常住寺)と称される寺院があり、桓武天皇の勅願寺である近江の梵釈寺と並ぶ形で朝廷関連の記録にしばしば出てくることが知られています。旧勢力の仏教に縛られるのを嫌った桓武天皇は、平安京内には奈良の大寺を移築させず、内裏から離れた位置に東寺・西寺を設置したのみでしたが、内裏に近いところに寺がないと天皇・朝廷の仏事に不便であるため、平安京造営に大きな役割を果たした秦氏の北野廃寺を常住寺に改めてそのための寺としたのではないか、というのが渡里氏の推測です。

 そこで、蜂岡寺は秦寺に寺藉を移し、これが現在の広隆寺となったと見るのですね。このように、渡里氏は、『日本書紀』が説く通りの時期頃に秦氏によって蜂岡寺と秦寺が造営されたことを認めるものの、聖徳太子との関わりは「かならずしも明確ではない」と述べるにとどめています。これはこれで、ひとつの見識でしょう。
 
 さて、ここからは、私が古代寺院の瓦に関する諸論文を読んでいるうちに結びついてきた事柄、重要と考えるようになった事柄です。

 これから書く論文で触れる予定なので簡単に記すだけにしますが、まず、広隆寺の創建瓦である軒丸瓦は、弁端点珠の素弁蓮華文であって、同じ文様が四天王寺の創建瓦にも見られるほか、備中の秦廃寺でも出ているため、秦氏は四天王寺にも何らかの形で関与していた可能性があることが、網伸也「摂津の古墳と寺院」(『季刊考古学』第60号、1997年8月)などによって指摘されています。

 その四天王寺に瓦を供給したことが分かっている複数の窯のうち、早い時期の代表は、秦氏が勢力を持っていた山背の地と河内との間に位置している楠葉平野山瓦窯です。飛鳥寺で使われた瓦当笵が豊浦寺の瓦作成に当たって改良され、それが若草伽藍用に使われた後、その瓦当笵が工人と一緒に移動したとされるのはここですが、この土地はもともとは肩野物部氏の土地であって須恵器を焼いていたところであることが知られています。つまり、守屋合戦の後、この地は上宮王家か蘇我氏か双方のものとなり、寺院のための瓦窯となって四天王寺に瓦を供給したらしいのですね。

 四天王寺に瓦を供給した別の場所の一つは、高丘窯など播磨にある複数の窯です。ここも以前は物部領だったようですが、まだ中学生であった頃に、その近辺の地から鴟尾の破片を多数発見し、成人後に考古学者となった春成秀爾氏は、1983年の「明石発見の鴟尾新資料」(古代を考える会編『古文化論叢』)という早い時期の論文において、その鴟尾は四天王寺のものに最も近く、また播磨には広大な四天王寺領があったことを指摘していました。

 その播磨には、『勝鬘経』を講経したところ推古天皇から与えられた、という伝承を有する法隆寺領の斑鳩荘があることは有名です。その地には、聖徳太子信仰で知られる斑鳩寺が残っており、今日でも太子に関わる儀礼・行事をおこなっているほか、下大田廃寺のように法隆寺式軒瓦が出土しているところもあります。また、太子信仰で知られる鶴林寺もその東方の加古川にあります。つまり、ここでも播磨の地と四天王寺や法隆寺(若草伽藍)との結び付きが見られます。

 さて、平野山瓦窯で焼かれた瓦は、四天王寺だけでなく、奥山久米寺(奥山廃寺)にも供給されていました。奥山久米寺は、飛鳥寺の北800メートルの所にあり、豊浦寺の北東、山田寺の北西にあたっています。つまり、豊浦宮や小治田宮を取り囲む飛鳥の要衝の地に位置しているのです。四天王寺式伽藍形式であって、山田寺より大きい金堂を有していたこの奥山久米寺からは、飛鳥寺や豊浦寺で用いられていた瓦が出ており、また、少し後には上で触れた播磨の高丘窯からも瓦が供給されていました。

 つまり、小治田寺という別名も持ち、小治田宮近くにあった奥山久米寺は、飛鳥寺や豊浦寺を造営した蘇我本宗家と関係が深く、蘇我氏か上宮王家かその双方の支援を受けていた四天王寺を支えた勢力とも関係があったと推測されるのです。その奥山久米寺の金堂跡から出る角端点珠形式の瓦は、大和では中宮寺・法輪寺・平隆寺ほかいくつかの寺から出土していますが、中宮寺・法輪寺・平隆寺となれば、言うまでもなく、いずれも厩戸皇子と関係の深い寺です。

 奥山久米寺は造営が一時期中断され、再開されて建立された塔には山田寺式軒瓦が葺かれています。蘇我系の小治田臣の氏寺とする説もありますが、上記のことから見て、小笠原好彦氏は、「同笵軒瓦からみた奥山久米寺の造営氏族」(『日本考古学』第7号、1999年5月)や「飛鳥の古代寺院と大和宇智郡の瓦窯」(『滋賀大学教育学部紀要:人文科学・社会科学』52冊、2002年)において、奥山久米寺は、蘇我馬子の弟と言われ、厩戸皇子に親しく仕え、山背大兄王を強く支援して蘇我蝦夷に滅ぼされた境部臣摩理勢の氏寺であったと推測しています。
 
 なお、四天王寺には若草伽藍で用いられ、すりへった瓦当笵で作られた瓦が用いられているだけでしたが、四天王寺のすぐ北東のところにある難波の堂ヶ芝廃寺からは、法隆寺式の瓦のセットが出土しており、同笵の瓦まで出ています。

 以上のことから何が見えてくるか。それは、守屋合戦に勝利して各地の広大な物部氏の領地を分け合った蘇我馬子・境部臣摩理勢・厩戸皇子の関係の深さ、その三者と渡来系氏族である秦河勝の関係の深さ、そして上宮王家と難波・播磨の関係の深さですね。
 
 厩戸皇子は推古元年に立太子したとして極度に聖人化し、蝦夷・入鹿を悪役として描く『日本書紀』の記述や、以後の聖徳太子伝が強調するような劇的な逸話は後になっての創作であるにせよ、瓦のつながりを見る限り、『日本書紀』の仏教関連の記述は、現代の懐疑的な文献史学が考えてきた以上に史実を反映している部分があるように思われます。

 少なくとも、厩戸皇子と四天王寺・広隆寺との関係、秦河勝との関係は否定しがたいのではないでしょうか。考古学では瓦の編年にあたって『日本書紀』の記述を利用しているため、循環論になる恐れもあるのですが、それだけでは説明できない密接なつながりが見られることも事実です。

【追記: 2011年7月16日】
 ひとつ、書き忘れてました。奥山久米寺(奥山廃寺)からは、鞍作氏の寺である坂田寺の軒丸瓦と類似する瓦が出てますが、坂田寺の瓦については、大脇潔「渡来系氏族寺院の軒瓦と基壇」(『季刊考古学』第60号、1997年8月)によれば、飛鳥寺の花組が粗雑化した弟子筋の作とされ、また飛鳥寺星組→豊浦寺→若草伽藍と伝わった系統のうち若草伽藍の最新の文様の影響を受けている可能性が指摘されているほか、若草伽藍の本尊を作ったとされる鞍作止利との関係が注意されています。ここら辺のつながりは複雑ですね。

火災から救出された法隆寺釈迦三尊像: 大西修也『国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?』

2011年07月12日 | 論文・研究書紹介
 加藤論文では、四天王寺だけでなく広隆寺も創建は厩戸王子と無関係という説でした。そこで、ちょっと寄り道して、その広隆寺の弥勒像について論じるとともに、法隆寺金堂の釈迦三尊像は火災から救出されたと説く新刊書を紹介しましょう。

大西修也『国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?』
(静山社文庫、2011年5月、850円)

です。文庫本とはいえ、日韓両国で学んで両国の古代仏像の比較研究を大幅に進展させ、法隆寺研究でも業績をあげた大西修也氏(九州大学名誉教授)の書き下ろし作だけに、最新の研究成果を盛り込んだ内容豊かな本となってます。九大の先輩教授であった田村圓澄氏の影響が時々見られるのは気になりますが……。

 題名に見える広隆寺の弥勒菩薩以外にも、様々な日本の仏像が扱われているうえ、関連する韓国・中国の仏像についても説明されているため、古代日韓仏像入門、あるいは、古代日韓仏像比較研究史物語といった感じでしょうか。堅い概説調ではなく、それらの仏像や研究史に関する興味深い秘話もたくさん盛り込まれてます。それでこの値段はお買い得。

 広隆寺については、林南壽(イム・ナンス)氏の『廣隆寺史の研究』に基づいて述べています。つまり、蜂岡寺は、推古11年(603)に聖徳太子から賜った仏像(泣き弥勒)を納めるために、秦河勝が邸宅を改造して仏堂に造りかえた程度のものにすぎず、太子のため造営され推古31年(623)に新羅からもたらされた仏像(宝冠弥勒)を納めた秦氏の葛野秦寺は別の寺であり、蜂岡寺の地は平安京遷都の際に収公されたため、秦寺、つまり現在の広隆寺に移転する形で合併したと見るのです。太子との関係については、伝承どおり認めてます。

 古代日本では例が無いアカマツで造られている宝冠弥勒像は、現在は木目が浮き出ており、か細い指を頬に触れそうにしている繊細優美な姿によって人気を呼んでいます。しかし、明治37年(1904)に修理されてそのような姿になる前は、かなり傷んでいたものの、全体に黒漆を塗ったうえ、金箔を貼り付けてあり、荘厳具も身につけていたようです。

 しかも、生漆に木粉や糊を混ぜて練り上げた木屎漆(こくそうるし)を全身に数ミリの厚さで貼り付けて肉付けしてあったため、現在よりふっくらしており、指先は頬に付いていたらしいとか。古代に関する現在の常識は、意外と最近になって形成された場合が多いですが、これはその怖い一例ですね。

 ここまでは知られていたことですが、大西氏は、中国や韓国で新出している半跏思惟像などとも比較したうえで、韓国の半跏思惟像は「この世に下生し弥勒如来となることが約束された太子像=弥勒菩薩なのである」と述べます。そして、朝鮮三国の半跏像は、身につけているものや荘厳方法の違いによって作られた国を判定できるとし、宝冠弥勒と瓜二つとして名高い韓国の国宝83号の半跏思惟像については、新羅作の可能性が高いため、『日本書紀』の新羅仏像伝来説を裏付けることとなったとしています。一方、止利派の彫刻については、半跏像も含め、百済彫刻と密接な関係があるとし、百済彫刻に基づきつつ正面観主体のあり方を積極的に推し進めたのが止利仏師であったことを強調します。

 興味深い指摘はまだまだたくさんあるのですが、ここで止利派の代表作の一つである法隆寺金堂の釈迦三尊像に移ります。この釈迦三尊像については、若草伽藍が火災に遭っていながら、400キロ以上ある金銅像を無傷で運び出せたはずがないとする説と、いや慌てて運び出したからこそ光背の上端部が折れ曲がるような事故が起きたのだとする美術史の町田光一氏などの説があります。大西氏は後者の説を採り、1989年に行われた本尊の移動調査時の情報を考慮して、次のような状況を想定します(以下、正確な引用でなく、要略です)。

 五重塔が落雷によって燃え始めたため、僧侶たちはすぐ隣の金堂に駆けつけた。脇侍菩薩は、1本の楔(くさび)を抜けば外すことができ、蓮華の支柱は木製の台座と一緒に運び出せることが分かった。180キロある本尊と230キロ近い光背については、固定している2本の楔を抜いたうえで、本尊の背中のほぞに差し込まれ、また切り込みを入れて台座の上座の天板に埋め込まれていた光背を外すため、数人で台座に上って光背を持ち上げながらやや後ろに倒す形にして抜き取ろうとした。やっと抜けた際、その勢いで重い光背が後ろ向きに落下し、先端が内側に折れ曲がった。光背の先端の宝塔や光背周囲に取り付けられた天人たちなども飛び散ったが、光背と本尊は何とか運び出すことが出来た……。

 以上です。光背の先端は折れ曲がり、埋銅(うめがね)、すなわち、鋳造時の欠陥を銅版で埋めた部分がはじけ飛ぶほどの力を受けていました。また光背の外縁部には、空中で音楽を演奏する天人などを透かし彫りにした金具を取り付けていたと推定される26個の小さい孔が残っており、当初の光背は現在より一回り大きくて豪華なものであったことが知られています。

 釈迦三尊像については、斑鳩の他の寺や若草伽藍の他の建物に安置されていた可能性、また光背上部の損傷は別の搬入時の事故であった可能性も残されていますが、もし若草伽藍の金堂に置かれていたとしても、火災にあたって運び出すのは可能であったことが明らかになったのは大きいですね。

 なお、大西氏は、胸元に宝珠形の持物を持つ東院伽藍の救世観音像については、阿弥陀信仰が盛んになって観音が阿弥陀浄土への導き役とされるようになる前の初期観音菩薩とし、百済の金銅菩薩立像を手本にして、日本に豊富な霊木であるクスノキで作られたものと見ます。

 そして、舎利に通じる宝珠を胸元に奉持する菩薩像は、中国江南を中心として盛んになっていった兜率天往生を願う弥勒信仰とその証しとなる舎利供養の風潮を背景としているため、救世観音像は「聖徳太子の兜率往生を願ってつくられた初期の観音菩薩、すなわち舎利供養菩薩だったことになる」と説いています。

 これはきわめて重要な指摘です。そう言えば、玉虫厨子も図の中心は舎利供養でしたね。私は、前に書いたように、天寿国の基本の性格は兜率天であって、そこに『大方便仏報恩経』他に見える、亡き母のために釈尊が赴いて説法したとするトウリ天のイメージなどが重ねられているものと見ています。

古訳経典によって神格化された山背大兄王:八重樫直比古「上宮王家滅亡の物語と『六度集経』」

2011年07月08日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』の個別論文のうち、加藤論文に続いて紹介するのは、古代日本思想のいくつかの問題に取り組み、地道にコツコツと突き詰めてきた八重樫直比古さんの論文です。これは、『アリーナ 2008』論文の増補版です。

 現在、岡山の大学で教えている八重樫さんは、東北で育ち、東北大大学院を出たこともあって、今回の震災に際して古代思想の研究者として何かできないかと考え、『日本三代実録』巻16の清和天皇貞観11年(869)5月26日条、すなわち、陸奥国の大地震・大津波の記事の訳注を作って知人に配られました。「原野道路、すべて滄溟(うなばら)と為る。船に乗るに遑[いとま]あらず、山に登るに及び難し。溺死する者千許[ばか]り」とある悲惨な描写です。私も多数コピーして、あちこちで配布させてもらいました。

 この記事の現代語訳が何年も前から東北地方で広く読まれていたら、被害が少しは減っていたのではないか、と今思っても遅いのですが、この訳注は、研究者は社会にどう働きかけていくべきかという点も含め、今後、いろいろな面で役立つことでしょう。いかにも八重樫さんらしい、震災への対し方と思われたことでした。

 さて、その八重樫さんの論文は、聖徳太子が『日本書紀』において神格化されている以上、「伝説化、神格化は、太子のみならずその子の山背大兄王にも及んでいる」はずであって、「『書紀』における太子の伝説化や神格化をめぐる問題を考える場合には、その子を含める必要がある」というところから出発します。

 そこで注目したのが、山背大兄王が妻子とともに自害する話です。入鹿が向けた軍勢に追われ、山に逃れた山背大兄は、自分は「十年、不役百姓(十年間、民衆を使役すまい)」と思っており、戦えば必ず勝つと分かっているが、我が一身のために万民を煩わせ、傷つけることは出来ないと述べ、我が身を入鹿に与えようと言って、寺に戻って自害します。なぜ「十年」なのかに関する説明はありません。

 八重樫さんは、これに近い話と表現が、中国の初期の訳経の一つである康僧会訳『六度集経』に複数見えることを指摘します。『六度集経』は、釈迦の前生譚を「六度」、すなわち布施など六波羅蜜のそれぞれの徳目に割り振り、釈迦の前身がいかに立派な行為に努めたかを興味深い話で語ったものです。

 『六度集経』には隣国が軍勢を向けて来た際、王が、もし戦ったら民衆の命を害することになるため、「私一人の命のために、民衆の命を損なおうとしている」群臣に従わず、国を隣国の王に委ねようと言って太子とともに山野に身を隠したとか、海神が交易船を海上で動かなくし、生けにえを捧げるよう要求した際、貧しい男が「自分一人のために、多くの命を失ってはならない」と考えて船から降りた、などの話がいくつも見られます。

 また、一回目の包囲の時は、山背大兄の奴の三成が果敢に戦い、敵軍を指揮していた将を射殺したため、「一人当千とは、三成のことを言うのであろうか」と人々が語り合ったとされていますが、『六度集経』には、「一人当千」や似た「力当千人」などの表現も見えているのです。

 八重樫さんは、『六度集経』を上宮王家滅亡物語の典拠と断定することは控えるが、こうした釈尊の本生譚が下敷きになっている可能性はきわめて高いとします。ただ、7世紀の玄奘三蔵による直訳調の訳を新訳、5世紀の鳩摩羅什の流麗な訳などを旧訳と呼ぶのに対し、それ以前の時代の生硬で読みづらい訳を古訳と称しますが、3世紀に活躍した康僧会の訳である『六度集経』は、まさに古訳の典型の一つです。

 720年に完成した『書紀』の仏教公伝の部分が、703年に長安で訳されたばかりである『金光明最勝王経』の表現を用いていることは有名ですが、『書紀』編纂の最終断簡において、最新訳の表現を用いて潤色した人やその周辺が、よりによって古訳の本生譚などを使うか、というのが八重樫さんの疑問です。

 つまり、『書紀』の編纂に当たっては、古訳を用いた物語を含む様々な資料が前から集められていたのであって、この上宮王家滅亡物語については「『書紀』編纂の最終段階において、編纂や執筆に当たった者が作ったという推定は、おそらく成り立たないであろう」と推定するのです。

 山背大兄の物語は、多くの人々を救うために自分の命を投げ出す最高の布施の物語ですが、これによって「蘇我氏を悪玉、山背大兄は善玉と決めつける記事が出来上がった」のであって、そうした蘇我氏が討滅されるのは当然という状況に仕立てるというのが『書紀』編者の構想だったのではないかと、八重樫さんは述べます。

 その際、もとの資料には「十年」に関する説明が説かれていたのに、編者がその部分を不要と見て削除していながら「十年」という表現を残してしまった結果、「十年」の意味が不明となったのではないか、というのです。これは、興味深い推測ですね。

 『書紀』では、いろいろな仏典の表現が用いられていることは有名ですが、このように、まだまだ知られていない仏典利用の例がたくさんあります。私自身、守屋合戦その他の箇所で、いくつも見つけており、いずれ書く予定です。

 なお、八重樫論文の末尾では、山背大兄を討つため自ら出陣しようとする入鹿に対して、古人大兄皇子が「鼠は、穴に伏せて生き、穴を失いて死す」という格言らしきものを引いていさめたという部分について、似た表現が古訳中に見えるとし、氏の前稿に触れています。その論文も拝読していますが、そちらはやや無理に思われました。ただ、そうした試行錯誤を積み重ねていくことは、『書紀』の編纂の実状を明らかにするうえで重要でしょう。

【追記:2011年7月12日】
一つ書き落としてました。八重樫論文では、『日本書紀』は古訳経典を用いて作られた先行の物語を資料としていたと指摘するだけでなく、「仏教公伝の記事の場合とは異なって、事件の山場については新訳経典などによる潤色が施されなかった」点を問題にしています。

【追記:2011年7月16日】
 八重樫さんは、「我が身一人のために多くの人を苦しませてはならない」という理由で抵抗せず殺される、という図式に着目したのですが、これについては、境部臣摩理勢にも当てはまりますね。舒明即位前紀では、山背大兄王が摩理勢に対して「汝一人に因りて、天下乱るべし」と語ると、摩理勢は戦うことはせず、蝦夷の軍勢が来るのを門口で坐って待ち、絞殺されたとありますので。
 もう一つ書いておきます。「十年の間、民衆を使役すまいと思っている」というのは、裏返せば、自分の代であれ父の代であれ、上宮王家が寺院の建立や道路建設や荘園開発などで相当な開発事業をしたことが背景にあるのではないでしょうか。皇極天皇元年是歳条に、蝦夷と入鹿の寿陵建設のために上宮の乳部の民を悉[ことごと]く集めて使役したことに上宮大娘姫王が怒ったというのは、上宮王家が事業に使うべき労力をとられたということもあるんでしょう。「悉く」というのは文飾でしょうけど。
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四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(2)

2011年07月05日 | 論文・研究書紹介
 四天王寺創建は厩戸とは関係が全くないと言うためには、四天王寺は厩戸の創建でもなく、厩戸の為の創建でもないとする証拠、そして、新羅王が送った仏像・仏具がその少し前に亡くなった厩戸の追善のためでないとする証拠が必要と思われます。

 四天王寺の創建が通説より後である点がその第一の根拠ということなのでしょうが、加藤論文が依拠した佐藤説は通説にはなっておらず、このブログで紹介した井内潔氏の論文「瓦から見た法隆寺や四天王寺の創建年代」も、佐藤説は判断材料不足と見ており、620年前後に造営が開始されたいう推定案を提示しています。

 また、加藤氏は大山流の聖徳太子非実在論者ではなく、「推古十五年の前後の約一◯年間は、厩戸王子が王族を代表して蘇我馬子と共同執政を行っていた」と見る立場なのですから、百済に負けじとして仏教外交を展開しようとしていた新羅王が、次の大王となる可能性が高かった仏教熱心な厩戸王子の死を悼むのは、不自然とは思われません。

 そもそも、四天王寺は、造寺造像技術を独占していた蘇我氏の飛鳥寺・豊浦寺の瓦を受け継いだ厩戸の若草伽藍で使っていた瓦当笵そのものを用いて建立され始めたことは、考古学が解明した事実であって異説はありません。

 この状況で、厩戸との関係を否定するとすれば、考えられる事態は、加藤論文では引かれていませんが、西田孝司「四天王寺の創健者をめぐる問題」(横田健一先生古稀記念『文化史論叢』上、1987年)が早くに述べていた蘇我氏創建説しかないでしょう。実際、加藤氏が重視した佐藤論文でも「四天王寺の造営に蘇我本宗家が介在した可能性」(22頁)が指摘されています。

 もし、蘇我氏との関係で難波吉士氏が創建したとする説が成り立つなら、瓦当笵の問題も、若草伽藍の方に回してやっていたものを一段落したところで蘇我氏が四天王寺造営に振り向けたのであって、蘇我本宗家が滅んだ後になってから、四天王寺側が厩戸との関係を強調し始めたのだ、と見ることも可能でしょう。

 四天王寺は物部氏の領地を寺領として有していたのですから、守屋合戦に勝利した蘇我本宗家と無関係でないことは間違いありません。ただ、厩戸も馬子側であって、法隆寺も物部氏の旧領地を有していたのですから、こちらも四天王寺と無関係とは言えません。

 また、加藤氏が厩戸と馬子の「共同執政」説をとられる以上、まさに厩戸と馬子が共同で対外交渉担当の難波吉士氏に命じて対外交渉の地である難波に寺院を創建させて維持を担当させ、技術や寺領その他の面で支援したと見ることも出来るでしょう。つまり、『日本書紀』の守屋合戦記事で説かれたような劇的な誓願物語は後代に作成されたにせよ、対外関係を考慮した「準官寺的寺院」という性格は、創建当初からのものであったと見ることも可能なのです。

 これらは推測ですが、そのような背景を考えないと、難波吉士氏という一氏族が斑鳩寺に続く早い時期に、斑鳩寺の瓦当笵を用いて寺院を建立するという状況が考えにくくなります。四天王寺が四天王信仰による護国の寺として性格を変えていったのは、ご指摘のように事実でしょうが、四天王寺側が権威付けをはかるために「我が寺は推古/舒明天皇の奉為の四天王の護国寺である」といった主張をした記録はありません。

 また、新羅王の仏像仏具贈呈について言えば、『日本書紀』推古29年2月の厩戸皇子の死の記事に続く推古31年(岩崎本では30年)の記述では、秋7月に新羅王が送ってきた仏像を広隆寺に、種々の仏具を四天王寺に納めたと記している以上、その段階で両寺とも、特に四天王寺は金堂くらいは出来ていたように見えてしまいます。

 あるいは金堂などは工事中であったため、その完成まで仏像や仏具はどこか別の建物に安置してあったということになるのか。その場合であっても、木材の伐採・乾燥や整地作業などを考えると、さらにその数年前に造寺の発願がなされ、造営の準備が始まっていたことになるでしょう。となれば、それは厩戸の生前の時期ということになってしまいます。瓦を焼くのは、金堂造営がある程度進んでからでしょうが、窯の作成にはやはりそれなりの準備期間が必要でしょう。

 ここで、思い出していただきたいのが、前回の倉本論文紹介の記事で触れたように、造寺造像のための誓願は、亡くなった人の追善のためばかりとは限らず、その時代の皇帝の為、あるいは皇帝とそれに続く権力者たちの為という点をまず掲げるパターンが多いということです。倉本論文は、「無量寿」や「阿弥陀」という名が記されるものを検討していましたが、釈迦像その他も含めれば造像銘はさらに多様であって、「皇帝・皇太子・有力な臣下……の為」や「東宮皇太子の為」といった造像銘も北朝期には見られます。年代に関して議論のあるものとはいえ、戊子年(推古36年?)に「嗽加大臣の為」に造られたとする銘が刻まれているこぶりの釈迦三尊像(法隆寺蔵)は、そうした伝統が日本にも伝わっていたことを示す良い例ですね。

 加藤論文では引用されていませんが、三舟隆之「四天王寺の創立とその後」(『続日本紀研究』334号、2001年10月)では、上宮王家が創建したと考えるとしたうえで、「四天王信仰の目的は王権の護持にある」とし、四天王寺の発願理由もそこにあると説いています。つまり、守屋合戦時の厩戸の劇的な誓願に基づく建立という伝承や、厩戸の追善のためとする田村説以外でも、瓦当笵でつながっていた上宮王家と四天王寺の関係を想定することは不可能ではないのです。

 また、拙論でも書いておいたように、上代の誓願は臨終儀礼のような形でなされることも多く、臨終時に、助からないと知りつつ近しい者たちが延命ないし蘇生を願い、無理なら浄土往生をと願って造寺や造像の誓願を立てることがあります。そうした場合は、奇跡的に蘇生するのでない限り、有力者の奉為を願ってなされた造寺造像が完成するのは、死後かなりたってからとなり、完成法要は追善のための法要ということになってしまいます。それに、「何年、(~の為に)~寺を造る」という記述は、発願の時か、造営開始の儀式の年か、最初に金堂くらい出来た時か、伽藍の主要な建物が出来た時なのか、という問題もありますね。

 以上見てきたように、加藤氏の今回の論文のうち、四天王寺は難波吉士の氏寺であって厩戸の追善のために創建されたとする田村説を否定した点、また四天王寺は対外交渉を担当する渡来系氏族であって官人的体質が濃かった難波吉士氏が中心となって創建し維持した準官寺的寺院という点を指摘し、難波吉士氏や同祖の阿倍倉梯麻呂と四天王寺の関係を明らかにした点は、氏族研究を進展させてきた加藤氏ならではの功績であり、高く評価できます。

 ただ、厩戸との関係の否定という点は論証が弱いように思われますので、今後は、四天王寺は難波吉士氏が中心となって建立し官寺的な性格を強めていった寺院であったとしても、それは推古天皇や厩戸や馬子大臣の奉為(おんため)を願っての造寺、また馬子大臣か厩戸のいずれか、あるいはその両方の意向と支援を受けて創建されたとしても矛盾はない、といった観点も考慮して研究を進めていく必要があるのではないでしょうか。

【追記:2011年7月7日】
今回の記事では、加藤氏が四天王寺同様、厩戸とは本来関係が無かったと見る広隆寺については触れませんでしたが、こちらも移築をめぐる論争があるほか、前身とされる北野廃寺には豊浦寺の瓦と同笵の瓦が用いられているなど状況が似ており、厩戸との関係をまったく否定するのは難しいと思われます。後代の劇的な伝承を疑うのは当然としても、関係そのものを否定するには、それなりの根拠が必要でしょう。

四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(1)

2011年07月05日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の諸論文のうち、このブログで最初に取り上げるのは、古代の氏族などに関する研究書を多く著しておられ、幅広い史料調査に基づく堅実な学風で知られる加藤氏の論考、

加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」

です。

 加藤氏は1989年の論文では、14歳であった聖徳太子の誓願に基づくとする『日本書紀』の守屋合戦記事は、四天王寺側が「我が寺は飛鳥寺と同等、ないしそれ以上の由緒を持つのだ」と主張するために、蘇我氏と物部氏の政治抗争による武力衝突であった守屋合戦に宗教的意義を付したもの、と論じていました。今回は、その論文以後の考古学的研究の進展の紹介から始めています。

 以前は、四天王寺の創建瓦と若草伽藍の創建瓦は同時期のものとされていましたが、若草伽藍の創建瓦は、実際には飛鳥寺の瓦を作るために用いられた瓦当笵(作成用の木型)が、その造営が一段落した頃に豊浦寺に移され、さらに若草伽藍の工房にもたらされたものでした。ついで、その若草伽藍の工房で二次的な軒丸瓦の瓦当笵が作成され、それが繰り返し用いられて笵崩れが生じた段階で、大阪府枚方の楠葉・平野山窯に運ばれ、そこで四天王寺の瓦を焼いたことが明らかになったのです。

 つまり、四天王寺は若草伽藍(斑鳩寺)より創建が遅かったのですが、加藤氏は、その創建時期に関して考古学では二つの対立する説があることを紹介します。まず、佐藤隆「四天王寺の創建年代」(『大阪の歴史と文化財』3号、1999年7月)は、楠葉・平野山窯では時代がやや遅れる須恵器が四天王寺創建瓦とともに出土していることから見て、四天王寺金堂は7世紀第II四半世紀の造営としています。仮に630年あたりに建立を開始したとすれば、舒明天皇の代に造営が始まったことになります。

 一方、網伸也「古代寺院の創建と瓦陶兼業窯」(『あまのともしび』2000年)は、楠葉・平野山窯は若草伽藍の瓦当笵を用いて四天王寺の瓦を焼くことを主な目的として開かれ、その仕事が一段落してから須恵器も並行して焼くようになったのであろうから、四天王寺金堂は7世紀第I四半世紀に造営を始めたと見て良いとしています。
 
 四天王寺は最初は玉造に建立され、後に現在の地に移ったとする伝承を平安期の成立として否定し、四天王寺創建の時期を下げて考える加藤氏は、佐藤説に従うべきだとしますが、その際、注目するのが、『書紀』推古31年(623)の記事です。難波を中心とし、朝鮮との対外交渉を行うために組織され、難波に対外用施設を複数有していた難波吉士氏に属する吉士磐金と吉士倉下が、新羅使をともなってこの年の7月に帰国した際、新羅使が献上した仏像は秦寺に、舎利・金塔・灌頂幡は四天王寺に納められ、その同じ船で大唐学問僧の恵光なども新羅経由で帰国したとある有名な記事ですね。

 『大同縁起』と呼ばれる四天王寺資財帳の逸文では、四天王寺の金堂には、その恵光が唐よりもたらした阿弥陀三尊が安置されていたと記されています。福山敏男は、創建時の四天王寺はその仏を本尊としていたと推測しており、加藤氏はそれに賛同します。さらに、加藤氏は、四天王寺は聖徳太子が建立した寺でなく、厩戸の追善のために建てられた難波吉士氏の寺だったとする田村圓澄説を紹介し、そのように「考えることも可能である」と評価します(加藤氏自身は田村説や大山説の「厩戸王」でなく、「厩戸王子」という呼称を用いていますので、ここではそれに従います)。

 ただ、加藤氏はその後で、新羅と厩戸王子との関係を強調して四天王寺は新羅系の難波吉士氏の氏寺だとする田村説を訂正し、難波吉士氏は新羅でなく加耶系の渡来人であることを指摘します。さらに氏は、『広隆寺縁起』によれば、推古30年に「聖徳太子の奉為」に秦河勝が建立したとされる広隆寺(秦寺)も、四天王寺と同じ頃に同じような経緯で創建されたとされているものの、そうした両寺に仏像や仏具が納められたのは、日本との関係改善を狙う新羅王が政治的な意図で贈呈したものが「厩戸王子の追善」という名目で納入されたにすぎず、「両寺の創建は、本質的には厩戸王子と関わりがないと解すべきである」と説いています。

 加藤氏は、四天王寺が位置する難波の郡領の地位を難波吉士系が独占していたこと、四天王寺で飛鳥瓦が多量に出土したのは塔・金堂の周辺と中門であって、回廊や講堂の建造は7世紀後半とされていることから、四天王寺は難波吉士氏の寺であって、「大化前代から渉外用の施設とタイアップする形で、宗教施設として准官寺的な寺院」であったものが、乙巳の変によって寺の性格が変わったと見ます。

 孝徳天皇の4年(648)に大臣であった阿倍倉梯麻呂が四天王像などを安置して大がかりな法会を催しているうえ、斉明天皇の崩後にさらに四天王像が安置され、伽藍が整備されている点から見て、対外関係が厳しかった7世紀半ばあたりから四天王信仰が高まり、難波吉士氏の寺でも「四天王寺」という名称と性格が形成されたのであって、大化期以降は「官寺的要素の強い寺院と位置づけることができる」と説くのです。

 そして、新羅との関係が変わって難波吉士氏の活動が不要になるにつれ、同祖とされて難波吉士氏と関係のあった阿倍倉梯麻呂が四天王寺の外護役となっていったのであって、阿倍氏自体の氏寺も四天王寺の近辺にあったことなどを明らかにしていきます。

 このように、四天王寺の初期の姿とそれを支えた勢力がこれまで以上に明らかにされており、すぐれた研究として評価できます。ただ、四天王寺は「本質的には厩戸王子と関わりがない」とする点については、やや論証が弱いのではないでしょうか。

天寿国の背景と「君親の恩の為」の造寺: 倉本尚徳「北朝・隋代の無量寿・阿弥陀像銘」

2011年07月01日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』のうちの個々の論文については、現在、必要があって四天王寺関連の資料や論文を読み直していることもあって、加藤謙吉氏の「四天王寺と難波吉士」を最初に取り上げようと思ったのですが、その前に、ぜひ共通理解としておきたい論文があります。

倉本尚徳「北朝・隋代の無量寿・阿弥陀像銘--特に『観無量寿経』との関係について--」
(『仏教史学研究』第52巻第2号、2010年3月)

です。

 倉本さんは、北朝期から隋唐にかけての石刻資料や敦煌文献などを精査し、当時の仏教信仰の実態を明らかにする論文を次々に発表している若手研究者です。

 西方往生を願う中国の造像銘に関しては、北朝期の龍門石窟などではその浄土の仏の尊名を「無量寿」と記している例が多く、唐代には「阿弥陀」と記されるものが主流となるという塚本善隆先生の戦前の論文が有名です。以後も佐藤智水氏や久野美樹氏その他の研究者によって研究が進められてきましたが、このところ、中国では新出資料が続々と公開されるようになってきました。

 そこで、それらを出来る限り収集し、分析した力作がこの論文です。ただ、曇鸞の活動した地域の特徴とか、北斉以後は『観無量寿経』の影響で、脇侍の二菩薩も造ったことを明記する例が増えるなど、興味深い指摘をたくさんされている倉本さんには申し訳ないのですが、ここでは聖徳太子研究に関わる部分だけを、勝手な形で抜き出して紹介させてもらいます。

 倉本論文は、無量寿像銘は北魏では河南、とりわけ龍門に集中しているものの、北斉・北周期になると各地に見られるようになって特に山東に多く、北斉後半から隋にかけては阿弥陀像銘が河北を中心として急増し、各地で主流となる一方、無量寿像銘は急速に減少して、山東益都(青州)の雲門山に集中するようになると説きます。

 南北朝の早い時期にあっては、浄土に生まれたいとする信仰は、弥勒の兜率天その他、仏教の種々の天への生天思想や道教の昇仙思想などと混淆していて、「亡者生天」などの定型句がしばしば用いられ、また『法華経』信仰による「託生西方妙楽国土」などの定型句もよく用いられていたことが知られています。

 阿弥陀像銘が増える北斉から隋の時代には、阿弥陀仏の浄土に往生したいとする信仰が次第に明確になっていきますが、紀年を有する北斉・隋の阿弥陀造像銘中では、「極楽」の語が見えるのは555年の銘の「往生西方極楽世界」1例しかなく、以後も中国では「極楽」の語は特別に重視されることはありません。倉本さんは、この時期には、浄土に生まれたいという願いは様々な文句で表現されているのであって、それこそが新たな浄土信仰が生成していく様子を示すものとします。

 ただ、北朝・隋代の紀年を有する阿弥陀造像銘では、それまでの造像銘と違って「生天」を願う表現が見られなくなることに、倉本さんは注意します。つまり、阿弥陀浄土信仰が確立していくこの時期は、往生に関しては様々な表現が用いられていてまだ定型句が固まっていないものの、阿弥陀浄土への往生を「生天」という語で表現することはなくなった、ということです。これは重要ですね。

 この指摘をこのブログでやっている聖徳太子研究にあてはめると、「天寿国」に「生」じたであろう我が大王の姿を見たいとする「天寿国繍帳銘」は、繍帳の図柄は阿弥陀浄土に通じる点がいくつかあるものの、阿弥陀浄土への往生とは異なるもの、あるいは、阿弥陀浄土の信仰や絵柄の表現が固まる前の混淆した信仰を背景としたものということになりそうです。『日本書紀』では、舒明天皇12年(640)に恵隠法師に『無量寿経』を講じさせたという記事が見えますが、これは早くから指摘されているように、孝徳天皇の白雉3年(652)の同趣旨の記事の重出の可能性が高いと見るべきでしょう。

 また、阿弥陀三尊をおさめた橘夫人念持仏厨子や、法華寺の阿弥陀浄土院などが示すように、橘三千代とその娘である光明皇后の強い阿弥陀浄土信仰は有名であって、その頃には阿弥陀浄土への信仰と極楽の表現、そして兜率信仰と兜率天の図の表現は中国の流行を受けてほぼ確立しています。したがって、思想内容と図柄だけについて言えば、何の浄土とも天とも決めがたいまま論争が続いている「天寿国繍帳」とその銘の成立の下限は、おのずと定まることになります。

 また、倉本論文の精細な銘文一覧表を眺めていてまず目につくのは、無量寿仏像や阿弥陀仏像を造像する供養の功徳によって往生を願うものでありながら、「為皇帝陛下」などと記する銘文の圧倒的な多さです。これは、言うまでもなく、亡くなった先帝の追善などではなく、造像の功徳によって現在の皇帝の「おん為」を願うものです。

 皇帝も没後は往生されますように、ということも願意として含まれるかもしれませんが、明確に示されることはありません。主な目的は、あくまでも現在の皇帝の長寿と繁栄です。「為国主・父母・過去現在眷属」とか、「上為皇帝・晋国公・群官・師僧・并……為七世父母、下及法界衆生」など、いろいろなパターンがあるものの、現在の皇帝の為という点をまず強調することは、どの場合でも同じです。

 むろん、「亡父亡母」の為に無量寿を造像したとか、阿弥陀像の造像の功徳により「七世父母」が往生することを願う、などと記すだけのものも多いのですが、多少大がかりな造像の場合は、「皇帝陛下のおん為」という点を先にかかげ、その後で自分の亡き家族が往生するよう願う例がほとんどです。

 北魏の女性が施主となった銘に、「為父母兄弟姉妹、造無量寿仏」とあって皇帝などに触れない例も見えるものの、この場合、すべての家族が死んでいるとは思えません。亡くなっている家族は浄土へ、そして生きている家族については生前は長寿・安穏、没後は善処に生まれますように、という願いでしょう。

 すなわち、「誰々の為」の造像というと、亡くなった人のための追善供養と思われがちなのですが、それは葬式仏教が定着した現代の日本の常識にすぎません。

 私は、「上代日本仏教における誓願について--造寺造像伝承再考--」>(『印度學佛教學研究』40巻2号、1992年3月)という昔の論文で、受容期の日本の仏教は「奉為(おんため)」の仏教であり、氏族が「君親の恩の為」にそれぞれ寺を競い造ったというのは、「君」のパワーを増大させて庇護してもらうという面が強く、そうした造寺は天皇や蘇我氏への忠誠を示すものだと指摘しました。

 蘇我系の推古天皇を擁立し、造寺造像の技術者を独占していた蘇我氏が、自分たちが重視する氏族だけ優先して技術者を回していたのですから、それぞれの氏族が現体制への忠誠を示すために寺を「競ひ造る」のは当然なのです。当初の上宮王家はそうした氏族の一つという面を持っています。

 そして、その拙論では詳しく論じてませんが、仏教受容期の日本にあっては、勢力のある氏族が自分たちの父祖の為を願って寺を建立する場合、その父祖とは、某天皇に仕えてその功績によって現在の自分の職分を保証してくれている父祖、ということになります。しかも、推古32年には、各寺に造寺の由来を提出させるなどしており、そうした管理は天武朝にはさらに強まるのですから、最初期の日本仏教、つまり、都の周辺で蘇我氏および蘇我氏と関係の深い氏族が次々に建立していった寺においては、国家と無縁の先祖供養などありえません。また、各氏族は「某天皇のために先祖の誰々がこの寺を造った」などとする縁起を(作成ないし書き換えて)提出したはずです。

 「先祖供養の氏族仏教から、国家仏教へ」という田村圓澄流の図式や、「蘇我氏=先祖供養による現世利益の呪術的仏教 ←→ 聖徳太子=世間虚仮を自覚した普遍宗教」といった二葉憲香流の図式は、当時の仏教の実態と合いません。
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