聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(1)「用明天皇」

2023年07月29日 | 論文・研究書紹介

 古代史の研究の場合、文献中心となりがちです。しかし、環境は一変しているとはいえ、現地を歩いてその地の状況を確かめ、その土地に今も残る伝承を尋ねてみることは、やはり大切です。

 私も、1年間の在外研究を認めていただき、京大人文研にいせていただいた際は、聖徳太子ゆかりの地をあれこれ回ったことでした。ただ、私は東京で生まれ育っており、勤務先の駒澤大学では6世紀から8世紀あたりの中国・朝鮮仏教が専門ということで教えていた身ですので、奈良で暮らしていて遺跡に詳しく、考古学にも通じている文献研究者のように文献と現地調査をうまく結びつけることはできません。

 そうした研究の好例が、 

和田萃『古代天皇への旅ー雄略から推古まで』(吉川弘文館、2014年)

です。本書は、堅実な文献研究で知られ、早くから考古学にも通じていた和田氏が、『古事記』『日本書紀』の記述から文飾と思われる部分を除き、実際にその場所を訪れ、地元の人々から話を聞くという形で新聞に連載したものに手をくわえてまとめたものです。

 このブログでは、用明天皇・聖徳太子・崇峻天皇・推古天皇を扱っている「Ⅳ 飛鳥の都へ」を、順を追って紹介してゆきます。今回は、「Ⅳ 飛鳥の都へ」のうち、「9 用明天皇ー雙槻宮の営まれた磐余池の推定地ー」です。

 和田氏は、「大兄皇子」と呼ばれた用明天皇の宮、つまり、『日本書紀』では磐余池辺雙槻宮、『古事記』では池辺宮について検討します。「槻」はケヤキであって、高さ40メートルにも及ぶことがあるニレ科の木です。

 古代において霊木とされることが多かったのは、スギ・タブノキ・オガタマノキなどの常緑の高木であって、ケヤキのような落葉する木が霊木とされるのは珍しいのですが、和田氏は、斉明天皇の時に多武峯に「両槻(フタツキ・ナミツキ)宮」が造営されたことが示すように、幹がY字状に二股に枝分かれしたものが神聖視されたと見ます。

 固いカシの木でY字状になったものは、船材や巨石を運ぶ修羅として利用されており、『日本書紀』の履中3年11月条では、「両枝(ふたまた)船」を磐余市磯池に浮かべたとされており、こうしたことが用明天皇の雙槻宮の名と関わると推測するのです。

 その磐余池については、寺川の左岸で香具山の北東域、つまり、桜井市南西部の大字(おおあざ)橋本、池之内、吉備と、橿原市の東池尻町を含めた一帯と見ます。記紀では、磐余宮としては、磐余稚桜宮、磐余甕栗(みかぐり)宮、磐余玉穂宮などがあり、いずれも植物の名を含むことが注目されると説きます。

 磐余池については、大津皇子が処刑される前に磐余池で涙を流して歌ったという挽歌が有名です。飛鳥から訳語田(おさだ:桜井市戒重の地)に連行されていく途中ですので、そのあたりにあったことになります。

 昭和45年、奈良県立農業大学校を建設する際、桜井市池之内集落の南方の丘陵の古墳群を調査したところ、4世紀後半から5世紀初頭の7基の円墳が検出されました。和田氏は、このあたりを調査し、広大な池の存在を思わせる景観が残っていることに気づいた由。

 磐余池は、戒外川の水をせきとめて造られた池であって、東池尻町の小字「嶋井」は、南北の最大幅が50メートル、東西の長さが250メートルに及ぶ堤であったことが明らかだそうで、版築で築造されていました。

 その堤の南には、「中島~」と呼ばれる小字名が多く、広大な磐余池には、南北400メートル、東西200メートルの「池田山」が広がり、かつては池に浮かぶ中島だったと考えられるとします。

 用明天皇は、この地のかたわらに雙槻宮をいとなんだものの、在位わずか1年11ケ月で亡くなります。和田氏は、この前後の時期には「瘡(かさ)」の病が流行し、敏達天皇も物部守屋も瘡を病んでいるため、用明天皇もこの病気、つまり疱瘡(天然痘)で亡くなったと、和田氏は推測します。

 疱瘡は、インドで発生して広がったと見られおり、日本では仏教伝来の頃に朝鮮から伝わったと推測されています。こうした状況なら、仏教を敵視する見方が出てきても当然ですね。逆に、だからこそ仏教にすがろうとする人たちも出るのでしょうが。

 亡くなった用明天皇は、大阪府南河内郡太子町にある磯長谷に葬られました。この地は、欽明天皇の子である敏達天皇、推古天皇の陵がある地域であって、聖徳太子の墓とされるのもこの地ですね。


女帝と男帝が交互に即位した状況とモガリの主催者:仁藤敦史「七世紀の王権」

2023年07月24日 | 論文・研究書紹介

 斑鳩宮など皇子宮に関する研究を大幅に進展させた仁藤敦史氏が、推古朝と以後の女帝時代の背景について論じています。

仁藤敦史「七世紀の王権-女帝即位と東アジア情勢-」
(仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』、竹林舎、2019年)

です。

 仁藤氏は、7・8世紀にあっては男帝と女帝がほとんど交互に即位しているため、女帝を単なる「中継ぎ」と見るこれまでの研究が改められているとしたうえで、天皇の共同統治者である「皇后(大后)」が「皇太后(女帝)」となっていったとする通説については、検討し直す必要があると説きます。そして、その際は東アジア諸国との対外関係を考慮する必要があるとします。

 そこでまず仁藤氏が注目するのが、権力者の特権的な葬送儀礼として整備されていったモガリです。モガリの期間は、女性の血縁者が殯宮に籠もるのが通例ですが、推古による敏達のモガリは、5年8ヶ月に及んでいます。

 この間に用明と崇峻の即位があり、用明のモガリの期間と重なっているのです。しかも、この時期に重大事件が次々に起きています。

 まず、敏達のモガリを主催していた元キサキである炊屋姫(後の推古)の「詔」によって、蘇我馬子が穴穂部皇子を誅殺しています。このため仁藤氏は、亡くなった大王のモガリは、多くの場合、そのキサキたちの中で最も有力なキサキが主宰するのであって、その主宰者である元キサキは、大王の空位期に権力的な命令を発することが可能だったと見るのです。

 この時期は、用明のモガリを元キサキであった間人穴穂部が主宰してはずですが、炊屋姫の方が上位であったため、そうしたことが可能となったのであったと考えられるとします。

 このモガリの期間に、次の大王が決定されるのが通例だったようですが、仁藤氏は、この時期のモガリの主宰は、忌み籠もるという役割よりも、権力的・政治的な振舞いが重要であり、これこそが女帝誕生につながる要素であって、そうした主宰による「詔勅」によって次の王位継承者についての合意形成や指名がおこなわれていたことに着目します。

 ともかく、敏達のモガリの時期における用明と崇峻の即位は異様であって、推古の後援による「称制的・共治的なあり方」であったと見るのです。そうでないと、崇峻の殺害を敏達の元キサキが「詔」によって命じており、天皇が殺害されても群臣たちの騒動が起きてないことが説明できませんからね。

 そして、炊屋姫が即位して推古となるに至るわけですが、この時期について、仁藤氏は『法王帝説』が説くように、推古が大王として主体性を持っており、有力な王族の厩戸と大臣の馬子が「共に天下の政を輔け」たという状況であったと見ます。

 ですから、冠位十二階については、厩戸と馬子との共同作業と見ますし、礼の重視などの面で冠位十二階と共通する「憲法十七条」についても、推古朝のものと見ます。

 重要なのは、6世紀以後、王権に対する地方の首長の従属が強まり、伴造・部民制度の拡大が起きたことであり、大王からそれらの者たちの管轄を委譲された有力王子と士大夫による合議制が生まれたと推測します。

 このため、中小伴造の奉仕先であるツカサ(司・官)が、大王宮だけに収斂せず、斑鳩宮や馬子邸など、王族の宮や豪族の邸を拠点として機能するようになったと見るのであって、そうした中で全体にわたる重要な課題について群臣会議が開かれたとするのです。

 開皇20年(600)に隋に使者を派遣したのは、「非公式かつ予備的なもの」と考えられているとし、ここで政務の方式を報告して道理に合わないの改めるよう訓誡され、これによって倭国は礼制秩序の構築に励むようになったのでり、小墾田宮への遷宮も、礼に基づく外交儀礼をおこなう場としてのものだったとします。

 その理由の一つは、推古15年(607)に来日した裴世清らの一行の次官に「使副尚書祠部主事遍光高」という人物がおり、礼制や儀礼を担当する「尚書祠部」の役人が派遣されていることです。これは、倭国の儀礼を視察し、不適切であれば教諭することが目的であったと推測するのです。

 以下、氏は、東アジア情勢との関係を考慮しつつ推古朝以後の権力構造と女帝の意義について検討していきますが、紹介はここまでにしておきます。


NHKの「歴史探偵」の聖徳太子特集で石井説を紹介

2023年07月20日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 7月19日(水)に、NHKの歴史バラエティ番組、「歴史探偵」(22:00~22:45)で「聖徳太子 愛されるヒミツ」が放送されました。

 私は亡き恩師の遺命によってテレビ出演はしませんので(ラジオはいくつか出てます)、これまで10を超える各局の聖徳太子番組に依頼されたものの出演はせず、監修したり情報提供したりするだけにとどめてきました(その一例が、BS松竹東急のこちら)。今回も、情報と資料の提供だけです。

 番組は、聖徳太子が愛されてきた理由として、「文明開化の立役者」「世界最古の木造建築」「スーパーヒーロー伝説」をあげ、これらについて説明していきます。

 冒頭で語られていた法隆寺の古谷正覚管長には、執事長時代から法隆寺の朝課で用いる冊子を送っていただいたり、講演に呼んで頂いたりしてしてます。景観について説明していた平田政彦氏の論文については、このブログでも何度か紹介しました(たとえば、こちら)。

 「文明開化の立役者」という面を扱った部分のうち、「近年の研究成果」によればということで、「憲法十七条」の「無忤」や嫉妬禁止の部分の出典(木村整民さん、解説、有難うございます)、『法華義疏』の文章から謙虚でありながらかなり自信も持っているという性格が見てとれるなどと説明していた部分は、私の情報提供に基づく部分であって、これまで論文やらこのブログやらで書いてきたことですね。

 SAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース)については、使い方次第でいろいろな発見ができますので、皆さん、ぜひ試してみてください(こちら)。

 なお、SATについては、インド・中国・日本の文献が電子化されて収録されているとナレーションが流れましたが、日本仏教に大きな影響を与えた韓国の仏教文献も含まれています。

 あと、『法華経』は女性の成仏を説いているという説明は誤りであって、『法華義疏』は女人成仏を説いた提婆品が入っていない古い版の『法華経』に基づいています。この点は、このブログで仏教を知らない九州王朝論者を批判した記事で書いた通りです(こちら)。

 ただ、女性の菩薩であって、将来、仏となる勝鬘夫人が説いた『勝鬘経』の注釈を書いていますので、推古天皇の時代ということもあって、女性重視であったことは事実ですね。

 番組での説明については、もう少し改善してほしい面もありましたが、史実に基づく面と、後世の伝説化を分けるなどしていたうえ、極端な礼賛もなく、歴史バラエティ番組としては無難な造りになっていたという印象です。

 番組中盤以降、かつては「聖徳太子いなかった」の紹介に熱心だった歴史家の河合敦氏が出演していましたが、河合氏は、冒頭で触れたBS松竹東急の番組以来、私の指摘を考慮して「いなかった説」には触れなくなってくれているのが嬉しいところです。

 この「歴史探偵」については、再放送もされますし、しばらくはNHKプラスで見逃し配信を見ることもできます。


時代遅れになった部分を含む聖徳太子虚構説批判:川勝守「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」

2023年07月16日 | 論文・研究書紹介

 20年以上前に大山誠一氏が唱えた「聖徳太子はいなかった」説については、一時期はマスコミがしばしば取り上げていたものの、この10年ほどは学界ではまったく相手にされておらず、賛成反対どころか、言及する論文すらなくなっていて完全に終わっていることは、このブログで紹介してきた通りです(たとえば、こちら)。

 ところが、学界のそうした状況を知らず、ネットではいまだに「聖徳太子は実はいなかったという説が、最近の学界では有力となってきました」などと書く素人がいるうえ、不勉強なマスコミにも、この古くさい図式をとりあげ、今更ながら特集のような形で報じているところがあります。あるいは、ネタが無くて困り、時代遅れの説であることを承知のうえで、敢えてやっているのか。

 逆に、「聖徳太子はいなかった」説に対して盛んにおこなわれた批判の多くは、今でも通用します。むろん、中には、現在では内容の一部が古くなって時代遅れとなったものもないではありません。その一例が、

川勝守「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」
(『奥田聖應先生頌寿記念 インド学仏教学論集』、佼成出版社、2014年)

です。東洋史の研究者として九州大学で長年教え、定年後は大正大学に移った川勝氏は、明清時代が専門ですが、東アジアを幅広い視点で研究しており、『聖徳太子と東アジア世界』(吉川弘文館、2002年)はすぐれた考察を含む有益な本です。

 その本の2年後に書かれたこの「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」が掲載された『奥田聖應先生頌寿記念 インド学仏教学論集』には、私は「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」を寄稿しています(こちら)。

 さて、川勝氏のこの論文によれば、執筆当時は、「厩戸王」の表記は『古事記』などに見えるという説明をよく見かけたそうですが、川勝氏は、『古事記』の写本については鎌倉・室町以前の古いものはなく、また現存する写本には「厩戸王」の語は見えないと注意します。

 そして、『元興寺縁起』の仏教伝来記事では、歳次戊午(538年)に百済王が「太子像并びに灌仏の器一具」を伝えたとあるが、中国における灌仏儀礼は、4世紀半ばに、後趙の「天王」であった石勒の死没した太子のために仏図澄がおこなったのが最初であり、それを記した文献は6世紀前半の『高僧伝』となるとします。

 さらに、仏図澄と石勒の関係を記した『晋書』の成立は7世紀半ばであって、日本伝来が確認できるのは7世紀後半以後であるため、仏教伝来時の日本や百済に灌仏儀礼が知られていたとは考えにくいのに対し、『日本書紀』欽明13年条の「釈迦仏の金剛像一躯、幡蓋若干、経論巻を献る」という記述は信頼できるとします。

 『元興寺縁起』の信頼性はともかく、灌仏儀礼が日本への仏教公伝時の百済ではまだ知られていなかったとするのは、どうでしょうかね。灌仏儀礼は、インドだけでなく、スリランカや西域では早くから行われていたのですから、海外からの渡来僧が多く、仏教が盛んだった中国南朝で知られていなかったはずがなく、その南朝仏教を手本としていた百済で知られていなかったとは考えにくいです。

 ただ、この件にからめて、川勝氏が「聖徳太子」の「太子」という呼称を疑う説を批判し、皇太子制度はまだなくても、後趙の「天王」の子が「太子」と呼ばれていた以上、そうした呼称が高句麗などを通じて推古朝時に知られていて不思議はないとする指摘は納得できます。「聖徳太子」はともかく、「上宮太子」は生前でもありえたでしょう。

 川勝氏は、こうした北朝の「天王」号は、日本の「天皇号」とも関わる問題であり、日本の「天皇」号は道教に由来するとする説が有力だが、皇帝が長寿を願って道教にすがった中国においてすら、道教思想が皇帝制度に影響を及ぼしたた痕跡はないとします。

 次に、聖徳太子の厩戸誕生説話については、ガンダーラ彫刻に似ている面があるが、こうした状況が知られたのは玄奘とその弟子の慈恩の教学が日本で知られるようになってからである可能性もあるとします。

 しかし、厩戸誕生伝承の基本構造が東アジアで広く読まれた仏伝に基づいていることは、拙著『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』(吉川弘文館、2016年)で指摘しました。このように、f川勝氏の主張には、妥当な部分と、私などの研究によって古くなった部分があるのです。

 さて、f川勝氏は、「憲法十七条」に「国司」という語があるから太子以後の作とする津田説を否定し、内容から見て推古朝のもので良いとします。そして、聖徳太子については、「仏教的徳治主義による東アジア世界的政治行政を見事に遂行した大兄(皇太子)」だったとするのですが、法家の影響もきわめて強いことは、後に山下洋平氏が指摘したところです(こちら)。

 また、聖徳太子が「大兄」的な立場であったことは確かですが、「大兄」として活動していたなら、『日本書紀』や『法王帝説』が「厩戸大兄皇子」などと呼んだ箇所がありそうなものですが、そうした記述は見えません。少なくとも、『日本書紀』が材料とした早い時期の聖徳太子伝は、超人的な面を強調していたものの、「大兄」という呼称を盛んに用いてはいなかったと考えられます。

 「天寿国繍帳」の「天寿国」については、三井文庫所蔵の敦煌写本の末尾に「西方天寿国」とあるため、極楽浄土を意味するとし、太子は極楽浄土を願っていたと述べていますが、この敦煌文書は偽作であることが赤尾栄慶氏などの調査で判明しています。

 このように、以後の研究の進展によって時代遅れになった部分も多いのですが、そのまま通用する部分ももちろん複数あります。この時期の日本の王を「大王」と呼ぶことについては、宮崎市定説に基づき、「大王」は「王」の美称であって正式な称号ではないとした点もその一つであり、これに関する最新の説については、このブログでも紹介した通りです(こちら)。


外交のための推古朝の道路整備:積山洋「難波京と難波大道・大津道」

2023年07月11日 | 論文・研究書紹介

 推古朝の遣隋使については様々な説が出ていますが、大道の整備という点からこの前後の道路整備について検討しているのが、

積山洋「難波京と難波大道・大津道」
(『都城制研究』12号、2018年2月)

です。

「難波と大和を結ぶ交通網は畿内でもっとも重要な官道であった」という言葉で論文を始めた積山氏は、『隋書』東夷伝倭国条によれば、大業4年(推古16年:608)に倭国を訪れた隋使の裴世清に対し、「倭王」が「我は夷人にして海隅に僻在し、礼儀を聞かず。……今、故に道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と述べたとされていることに注目します。

 むろん、中国側の帰朝報告ですので、中国風な潤色があるであろうことを認めたうえで、倭王の言葉でも触れられていることが示すように、外交においては幹線道路は重要な意味を持つことを強調するのです。そして、史料に見える「大津道」とは、通説がいうような長尾街道ではなく、都から難波大津に至る斜行道路ではないかと推測し、以下、それを論証してゆきます。

 まず、難波京に関する諸説を紹介し、近年の発掘成果をまとめます。詳細は略しますが、積山氏は孝徳朝の前期難波京は、正方形ではなく、隋唐の長安のように横長の里坊で構成されていたのに似るとし、盛り土による整地だけで終わっている箇所もあり、実際には未完であったとします。

 難波京の中軸を走る南進道路、つまり、近年になって難波大道と名づけられた道路については、一部が発掘されており、路幅は約18メートルだったと推測されています。この難波大道については、推古21年(613)11月条に「難波より京に至る大道を置く」とあることなどから見て前期難波京以前からあったとする説、前期難波京と同時に建設されたとする説、それ以後に建設されたとする説があります。

 積山氏は、大道沿いの阿倍寺廃寺や田辺廃寺が7世紀後半以後に整備・拡大されていることから見て、孝徳朝に建設が始まった可能性はあるものの、整備されて実質的な機能を持つに至ったのは天武朝からと見ます。

 問題は、この難波大道につながる「大津道」です。史料の初出は、『日本書紀』天武元年(672)に「大津・丹比の両道」とあるのが最初であって、岸俊男は大津神社の位置から見て、これを長尾街道にあてました。

 しかし、大津神社は長尾街道から800メートルも離れているとする指摘もあり、積山氏はその反論に賛同します。そして「大津」とは、この近辺で最も規模が大きかった難波津を指すと見ます。

 そして、皇極紀3年(644)「豊浦大臣の大津の宅倉」とあって、蘇我氏が有していた宅倉が難波にあったことが示されているため、大津道とは、難波津を起点ないし終点とする道路と見るべきだと説きます。

 積山氏は、直線道路と考える必要はないとし、大和川の自然堤防をたどる斜向道路であったろうと推測します。そして、先の推古21年に見える「大道」とは、四天王寺の南辺から斜向して大和に向かう道であったと推測するのです。

                 (同論文、23頁)

 難波には、初期の港である第一次難波津と孝徳朝に建設された難波京の間に、古墳時代としては図抜けた規模の倉庫群である法円坂倉庫群があります。方位は南北を軸とする正方位であって、その年代は5世紀後半と考えられています。

 ここが物資集散のセンターであり、難波津から運ばれた物資は、ここから水路だけでなく、陸路でも運ばれたものと積山氏は見ます。その陸路が大津道の起源であって、難波津の中心部が西の方に移動すると、以後の難波宮下層の建物群は、棟の方位が大きく西に傾くようになります。方位が西に傾くのは、斑鳩宮や若草伽藍や太子道と同じですね。

 先に見たように、607年の遣隋使をともなって来朝した隋使に備え、倭国は道を整備して待っていました。大道を置いたとする推古21年(613)は、犬上御田鍬らを第5次の遣隋使として派遣する前年にあたります。実際には、御田鍬らは百済使だけをともなって帰朝したのですが、積山氏は、大道を置いたのは、御田鍬らの帰朝時に隋使が来訪することを期待してのものだったと推測します。

 実際、孝徳紀白雉4年(653)6月条でも、「百済・新羅、使を遣そて調を貢り献物す。処々の大道を修治す」と記されています。難波と大和をつなぐ幹線道路は、外交上の重要な道路だったのです。積山氏は、難波津の起源も、倭国が劉宋に遣使したことと関係しており、法円坂倉庫群の建設もこの時期であったとし、幹線道路は「外交と連動していたのである」と結論づけています。

 となると、これまでブログで紹介してきたように、海上から見える位置に四天王寺が建設され(こちら)、その横の道を外国使節が通っていくことを考えると、四天王寺についても法隆寺にして、建立の意義を考え直す必要がありますね。とにかく、当時の仏教は、外交や政治と密接に結びついていたのです。


上宮聖徳皇子が伊予温湯に10月に訪れた理由:熊倉浩靖「湯治の原像」

2023年07月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子関連の文献は疑われることが多く、伊予の湯岡の碑文もその一つです。この碑文には言及しないものの、湯岡碑文について考える際、参考になる論文が刊行されています。

熊倉浩靖「湯治の原像-温湯宮(ゆのみや)行幸-」
(『高崎商科大学紀要』37号、2022年12月)

です。温泉文化を研究し、この文化をユネスコの無形文化遺産に登録する運動を進めている熊倉氏は、湯治という面に注目して調べていた際、『出雲風土記』の記述から見て、温泉文化は王族・貴族だけでなく、国民一般のものであることに気づいた由。

 この論文では、まず『日本書紀』の湯治関連の記述から検討していきます。温泉を示す「ゆ」の語について、『日本書紀』も『風土記』も「温湯」の字を宛てており、『続日本紀』以後では「温泉」が宛てられるようになるものの、訓は「ゆ」であって変わらないとします。

  そして、中国の故事では「飲泉」の薬効が強調されることが多いのに対して、日本では「浴びる」とされていると説きます。続いて、一般的な漢和辞典には「温泉」は載っていても「温湯」の語は収録されていないため、日本独自の表記かと述べていますが、これは誤りであって、中国でも『魏書』その他にかなり例があります。

 さて、熊倉氏は、『日本書紀』の七世紀の温湯の記事で重要なのは、「温湯宮(ゆのみや)」が建てられ、王家や貴族たちが、冬至の前後に2~3ケ月ほど滞在していたことだと説きます。

 まず、舒明天皇(在位 629-647)は、3年秋9月に津の国の有馬温湯に出かけ、12月に戻っています。当時の冬至は11月中気であって、滞在期間のほぼ真ん中にあたります。

 舒明天皇は10年冬10月にも有馬温湯の「温湯宮」に出向いており、翌年春正月に戻ってから新嘗をおこなっています。

 11年には、冬11月に新羅の使節に対応した後、12月に伊予温湯宮に出向き、翌年の夏4月に戻って廐坂宮に入っています。これは、冬至をすぎてますが、新羅の使節と応対しなければならなかったためと熊倉氏は見ます。

 続く孝徳天皇(在位 645-654年)も、即位3年の冬10月に左右大臣・群卿大夫・従臣たちと有馬温泉に出向き、12月に戻っています。

 さらに斉明天皇(在位 655-661年)は、即位4年冬10月に紀温湯に出向き、翌年春正月に戻っています。

 しかも、『万葉集』では、「紀温湯に幸しし時、額田王の作る歌」「中皇命、紀温湯に往しし時の御歌」が収録されているのです。他にも、『万葉集』には温湯を詠んだ歌が見えています。

 このように、飛鳥時代には多くの天皇が、冬至をはさむ時期にふた月ほども温泉に出かけており、その地に宮を設けているのです。熊倉氏は、天武天皇の崩御後の斎会で天武天皇のことを「吾大王、高照らす日之皇子」と称していることに注目します。

 天皇であるのに「皇子」とし、「日(太陽)」の子としているのです。そして、『万葉集』でも天皇について類似の表現が見られることに注意し、かの倭国の国書で「日出処の天子」と称していたことに注意します。つまり、日本の王には、「天(太陽)の子」であるという自覚があったとするのです。これは、中国北方の遊牧民族などと似ていますね。

 となれば、その「日」の威力が最も衰える冬至の時期は、「日」の力、「日の子」の力を回復せねばならない時期ということになります。つまり、冬至は、「日の皇子」の力、「日」の力を回復させるためのものだったと見るのです。

 ここからは、私の補足になります。疑われることの多い湯岡碑文については、このブログでも、これまでは正確に読解されておらず、現地で巨大な椿のトンネルを見たうえでの作であることを指摘してきました(こちらや、こちら)。

 伊予温湯碑文の冒頭では「法興六年十月」にこの地を訪れた、と記されていますが、この熊倉論文によって「十月」と記された背景が分かりました。また、舒明天皇が聖徳太子の事績をかなり意識して行動していたことを指摘した鈴木明子さんの論文は、このブログでも紹介してあります(こちら)。

 冬至の時期における天皇の温湯滞在の習慣が無くなった後の時代になって、「湯岡碑文」のような文章を作成することがあるでしょうか。

 鎌倉時代あたりに湯岡近辺の寺が寺領争いをし、「聖徳太子がこの地に寺を建てることを誓願し、田畑を施入されたのだ。だから我が寺の土地だ」といった主張をするために都合の良い内容を盛り込んだ偽文書を作ったりするなら分かりますが。

 また、太子を極楽浄土の導き手とする信仰が高まった時期に偽作されたとしたら、その面をもっと強調しそうなものですし。


聖徳太子の弟たちが征新羅将軍とされたとする記述の背景:新蔵正道「「任那復興」と推古朝の対朝鮮外交」

2023年07月01日 | 論文・研究書紹介

 戦後は聖徳太子は平和主義者とされるようになりましたが、『日本書紀』推古10年(601)春2月条によれば、厩戸皇子の弟である久目皇子が新羅を撃つ将軍に任命され、「諸神部及国造伴造等并軍衆二万五千人を授け」たと記されています。

 そして、久目皇子が病気になると、翌年夏4月に、久目皇子の兄である当麻皇子を「制新羅将軍」としています。これまた、播磨に至ったところで、皇子の妻が「赤石(明石)」で没したため、皇子は引き返したとされます。

 何ともいい加減な話です。それまでは、朝鮮派兵については、大伴氏や物部氏のような軍事担当氏族が担当しており、皇子が将軍とされたのはこれが初めてですので、これが事実なら、推古天皇、廐戸皇子、蘇我馬子の三頭体制であったとされる当時の状況の中で、廐戸皇子の強い意志が働いて実行され、失敗したものということになりそうです。

 6世紀半ばから推古朝の末までの朝鮮関連記事については、矛盾した内容、朝鮮や中国の資料の記述と一致しない内容が多く、『日本書紀』編者の造作の多さが推定されています。この問題を検討したのが、

新蔵正道「「任那復興」と推古朝の対朝鮮外交」
(『日本書紀研究』第33冊、2020年3月)

です。

 新蔵氏は、全くの造作であれば、もっと矛盾のない記事にすることができたはずであるため、任那問題や新羅問題に関する「実在した資料を可能な限り活かす方針で新たな造作を加えたため」、様々な矛盾が生まれたのだろうと推測します。これは、厩戸皇子に関する記述にも言えることですね。『日本書紀』編纂の最後の段階でゼロから造作したのであれば、呼称が箇所によってあれほどバラバラになることはなかったでしょう。

 さて、問題の推古10年と11年の記事の前の推古9年(601)3月条には、大伴連嚙を高麗に派遣し、坂本臣糠手を百済に派遣し、「急ぎて任那を救え」という推古天皇の詔を伝えさせたとしています(大伴連嚙も坂本臣糠手も、守屋合戦の際に馬子側で戦った者たちです)。

 これは、倭が主導して高句麗・百済の三国による新羅包囲網を形成しようとしたような書き方ですが、当時、隋が高句麗遠征を行った際、百済は隋軍の先導を申し出ており、高句麗は隋に謝罪して受けいれられると同時に、百済を攻撃しているため、三国協力体制などは考えにくいところです。

 この点については諸説あるものの、新蔵氏は、隋が成立すると高句麗も百済もすぐに、また新羅も遅れて朝貢して三国が隋の冊封体制に入るという状況の中で、倭国は601年に遣隋使と遣高麗使・遣百済氏を派遣することによって、新羅の孤立化をはかり、新羅外交を有利に展開し、「任那の復興」、実質的には「任那の調」貢納を実現しようとしたものと推測します。

 そのうえで、602年に新羅遠征軍が編成されたものの、ある程度の期間、北九州に大軍を置いて新羅に威圧を加えるのが目的であったため、理由にならないような理由で軍勢派遣がおこなわれなかったと見ます。

 610年には、新羅使が任那使を伴って来朝しますが、これは倭国の政策が効果をあげたのではなく、新羅の窮状が背景にあったものと見ます。以後、616年、621年、623年と新羅使が来朝していますが、623年のものは厩戸皇子の弔問の使いとすると、新羅使と任那問題の関連は弱まっていることになると説きます。

 倭国が任那に固執したのは、鉄の確保が重要な要素でしたが、新蔵氏は、任那が滅亡した後の6世紀後半になると、倭国内でも量は不十分であるにせよ、考古学が示すように倭国内で製鉄が始まっており、倭国と任那の関係に変化が生じていたとします。

 新蔵氏は、さらに、朝鮮半島の軍事面で大伴氏とともに活躍した物部氏本宗家が滅亡したうえ、物部氏とのつながりで6世紀に壱岐島で外交にあたっていた伊吉史氏が、物部氏の滅亡の後で本貫である河内に戻ったことが指摘されていることに注意します。それもあって、6世紀以後は、倭国の朝鮮半島への軍事介入は消極化したとするのです。

 任那関連では、時に強硬意見が出ることはあっても、6世紀以後は積極的な軍事行動に出ることが躊躇されたのは、任那問題が倭国が思うようには進まなかったことに加え、倭国内でも関連する要因が複数あったのだ、と新蔵氏は締めくくっています。

 そうなると、新蔵氏は触れていませんが、厩戸皇子の弟2人が新羅遠征将軍に任命されたのは、新羅威圧のためであって、実際に戦うことは想定していなかったということになりそうです。

 ただ、厩戸皇子の弟たちが続いて新羅遠征将軍に任命されたのは事実のようですので、戦後の常識のような形で厩戸皇子を平和主義者と断定するわけにはいかないようです。