聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子の娘による山背大兄一族追善か: 三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討」

2011年03月30日 | 論文・研究書紹介

 前回、聖徳太子の娘である片岡女王の創建になるとされる片岡王寺などに関する東野治之氏の考察をとりあげました(こちら)。そこで、今回は、以前、「天寿国繍帳」の論文を紹介した三田氏の関連論文、

三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討--造立典拠を中心として--」
(『MUSEUM』625号、2010年4月)

を見ておきます。

 法隆寺献納宝物の一つである金銅灌頂幡は、七世紀を代表する金工作品であり、上野の国立博物館内の法隆寺宝物館で、分解された形で展示されています。ただ、5メートルを超える精密な復元品がつるされているため、元来は10メートル以上あったと推定されている壮大華麗な姿をしのぶことができます。

 こうした幡は、臨終に際して周囲の近しい人々によってなされた誓願にもとづき、追善のために制作されたものでしょう。三田氏が四十九尺の「続命神幡」を用いる儀礼を説く『大灌頂経』を背景として想定しているのは、妥当な推定と思われます。この経典は、雑多な要素と中国成立部分を含み、興味深い経典です。

 金銅灌頂幡については、模造品の作成にあたった金工の専門家が「どうした仕事の仕方であるかと驚嘆」したと述懐しているほど高度な透かし彫りの技法で作られているため、再建金堂の発願や落慶など、重要な法会に際して施入された可能性が高いとされています。

 三田氏も、図像の様式から見て「法隆寺金堂の完成時期、七世紀末頃」の作と見ていますが、問題は、いったい誰が施入したのかという点です。金堂の幡について記す『法隆寺資財帳』には、「右、片岡御祖命納賜 不知納時」とあるのみです。施入された時期は分からないというのです。

 この「片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)」について、三田氏は、資料と諸説を検討したうえで、太子と刀自古郎女の間に生まれ、山背大兄の末の妹である片岡女王とする説が妥当と判断します。『資財帳』が施入者の名をあげるのは、天皇・皇后・皇族以外では著名な僧と孝徳天皇の宣命を拝して食封を納めた高官、許世徳陀高しかいないうえ、吉村怜氏が言うように、「法隆寺に何らかの関係を持ち片岡御祖命と呼べばそれとわかるような高貴な人物」は、他にいないからです。

 太子が没したのが622年、山背大兄とその一族が絶滅させられたのは643年、法隆寺が焼けたのが670年、持統天皇が法隆寺に『金光明経』を施入したのが694年ですから、仮に610年生まれで金堂再建が685年とすると、76歳。推古天皇の没年齢75歳にほぼ同じであって、可能な範囲です。また、三田氏も注意しているように、670年の若草伽藍焼失の少し前から金堂造営のための木材準備が始まっていたとする説もあります。

 聖徳太子の家系が後に歴史上から姿を消したことは事実ですが、一族は入鹿によって絶滅させられたのではなく、滅亡したのはあくまでも山背大兄とその一族だということは、しっかり念頭においておくべきでしょう。天武天皇の末年頃になってさえ、太子の娘が生存していて兄一家(あるいは両親も含むかもしれませんが)の追善のために第一級の工芸品を法隆寺に施入していた可能性がある、となれば、当時に対する見方が変わってきますので。


片岡王寺および周辺の尼寺・僧寺と上宮王家:東野治之「片岡王寺と尼寺廃寺」

2011年03月26日 | 論文・研究書紹介
 前回は、東野治之氏の2009年10月刊行の論文を取り上げました。今回は続いて、同氏による同年3月の論文を紹介しておきます。

東野治之「片岡王寺と尼寺廃寺」(『文化財学報』27集、2009年3月)

です。

 奈良県王寺町に遺跡が残る片岡王寺は、七世紀末の存在が確認できる古寺であり、戦前の調査によって、東向きの法隆寺式伽藍配置であったことが知られています。近年、その片岡王寺の南方の香芝市尼寺に、同様に東向きの法隆寺式伽藍配置を持つと寺の遺跡(北廃寺)と、南向きの法隆寺式伽藍配置を持つ寺の遺跡(南廃寺)が存在することが、明らかになりました。

 東野氏は、片岡王寺は、聖徳太子の娘であって『上宮記』では「片岡王」と記されている片岡女王の寺という理解で良いとし、百済系の大原氏が支えていたと見ます。そして、片岡王寺は敏達天皇系である大原真人氏の氏寺とする説については、百済王系であると称していた大原史氏が、一部の百済王系の氏族と同様、平安初期頃までに敏達天皇系を主張するようになったものと推測します。

 香芝市尼寺の二つの寺の遺跡については、両寺が一対であったことは疑いないとし、南廃寺跡に残る薬師堂の毘沙門天像に、
 
  華厳山般若院
  片岡尼寺  開山
  皇太子勝鬘菩薩ナリ
  (梵字)毘沙門天
       皇太子作

という墨書があることから、南廃寺が片岡尼寺、北廃寺の方が片岡僧寺であるとし、片岡王寺とは別の寺とします。

 その南廃寺については、東野氏は、軒丸瓦が坂田寺の瓦と同笵であり、若草伽藍と同様の手彫りのパルメット唐草文の軒平瓦が南廃寺周辺から一点、出土していること、北廃寺の塔心楚が若草伽藍や橘寺と共通する形式であることに注意します。

 片岡の地は、片岡山飢人伝承や、鵤大寺・片岡王寺・飛鳥寺の僧である三人の百済王氏由来の大原博士氏による造像を伝える694年の「観世音菩薩造像記」(法隆寺蔵)が示すように、上宮王家・蘇我氏と関係が深い場所ですが、遺跡からもそのことが裏付けられたことになりました。

 さらに東野氏は、片岡王寺跡やその瓦を焼いた遺跡からは、長屋王邸と同笵の瓦や、平城京太極殿と同笵の鬼瓦が発見されるなど、奈良時代には朝廷・貴族と親密な関係があったことに注意しており、様々な可能性を示唆しています。

 なお、氏は結論で、「ともあれ史料の少ない中での考察であり、右の私見が絶対であるとは思わないが」(7頁上)と付言しています。これは、史料が限られている古代の状況について研究する際、忘れてはならない心がまえですね。

基本史料の欠落部分: 東野治之「古代における法隆寺金堂の安置仏像」

2011年03月22日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子や法隆寺について論ずるとなれば、関連資料を正確に読むのが第一であることは言うまでもありませんが、厳密を期すためには、その資料そのものの性格についてきちんと検討して把握しておく必要があります。

 そのような作業の典型が、

東野治之「古代における法隆寺金堂の安置仏像」
(『古代文化』61巻2号、2009年9月)

でしょう。東野氏は、多くの分野にわたる幅広い知識に基づき、金石文を含む諸文献や文物について厳密に検討することで知られています。聖徳太子や法隆寺に関しては、近年では、意見を異にする様々な立場の研究者によって最も多く引用される学者かもしれません。それだけに、どの論文から紹介しようか迷っていましたが、とりあえず、法隆寺金堂関連から。

 多くの仏像が安置されている法隆寺では、いつ安置されたのか、どこから運びこまれたのか分からない像が多数あります。金堂の四天王像や百済観音像もそうした例であって、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』や承暦2年(1078)の『金堂日記』などにも見えないことから、金堂への安置は11世紀以降とする説も出されてきました。

 これに対し、東野氏は、『資財帳』冒頭に見える仏像関連の記述においては、仏像の総計記載はなされているものの、菩薩や天部の像については総計は示されていないこと、『資財帳』の他の資材の箇所では「四天王分」とか「観世音菩薩分」などと用途を指定して四天王や観世音菩薩像の存在を示唆する記述が見えることに着目します。そこで、現存の『資財帳』に関する東野氏の結論は、次のようになります。

「25行目と26行目の間に、菩薩ないし天部の像についての総計記載と内訳が脱落していると考えざるをえないであろう」(138頁左)

 承暦2年(1078)の『金堂日記』にも四天王の記載が無いことについては、「金銅仏の目録であった」ためとする福山敏男の旧説を評価し、改めて当時の状況を検討した結果、承暦2年の『金堂日記』は、金銅像の盗難が多かったことを懸念して作成された金銅の仏像の目録であったことを明らかにします。木造の四天王像や菩薩像が記録されていなくても、不思議はないのです。

 百済観音像についても、法隆寺の古代中世の記録に見えないものの、様式は金銅の仏像や灌頂幡と類似しているため、これも『資財帳』の脱落部分に記されていたものと氏は推測します。

 この他、氏は、金堂西の間の宣字座の上に、鎌倉時代制作の阿弥陀像が安置される前は、どのような仏像が置かれていたかについて検討していますが、『資財帳』のような基本文献でさえこうした問題を含んでいるということは、常に心にとどめておかないといけないですね。

隋の文帝の皇子たちが関わった仏教: 藤井政彦「隋文帝の諸皇子と仏教」

2011年03月18日 | 論文・研究書紹介
 紹介する論文の範囲を少し広げようということで、今回は中国篇としました。

 倭国の使節団が隋に至ったのは大業三年(607)で煬帝の時ですが、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞」いての留学僧派遣となれば、「菩薩天子」とは、廃仏を行った北周に代わって隋を建国し、仏教復興に努めた文帝(在位:581~604年)が想定されていたと考えるのが自然です。

 煬帝が604年に即位したことを知ったうえで、そう呼んだ可能性もありますが、その場合には、偉大な菩薩天子であった父皇帝を継いで仏教興隆に努める菩薩天子、というイメージでしょう。唐代になると、煬帝は悪逆であったと宣伝されるものの、煬帝は実際にはすぐれた詩人であって、天台大師を尊重するなど、仏教にも力を入れていました。野心家であって、晩年は失政が多いですが。

 そこで、取り上げたいのが、その煬帝を含め、文帝とこれまた熱心な仏教信者であった独孤皇后の間に生まれた五人の皇子たちが、どのように仏教と関わったかを検討した、

藤井政彦「隋文帝の諸皇子と仏教」
(『大谷大学大学院研究紀要』23号、2006年12月)

です。百済は、模範としてきた南朝が隋によって統一されてしまった以上、隋を模範とせざるを得ず、その百済の外交ルートに依拠する倭国も、隋の仏教を手本とせざるを得ないからです。

 さて、文帝は、軍隊によって征服した地には多くの寺を建てて地方統治に役立てましたが、各地に派遣されてその地を統治した文帝の皇子たちのうち、四男である蜀王の秀については、文帝は「骨{魚更} (硬骨で君主に苦言を呈する)」で知られた元巌を補佐役につけています。蜀王秀は、元巌を尊重してその提言に従ったため、元巌は法令を厳正明確にしてその地法を見事に統治し、人々にたたえられた由。

 「骨{魚更}」というのは、奈良時代の漢詩集『懐風藻』が、道慈の漢詩を収録する際に、道慈の性格を評した述べた言葉ですね。大山誠一氏や吉田一彦氏の聖徳太子虚構説によれば、道慈は権力志向の世俗的な面を持った僧であって、不比等や長屋王と共謀して聖徳太子関連記事を捏造したとされていますが……。

 太子勇については、文帝は名声に無関心な高僧、普安を招いて太子の「門師」にしています。「門師」は「家僧」とも呼ばれており、寺ではなく、豪族の家に寄宿して仏教指導を行う僧のことです。普安の場合は、都の東宮に招いて指導を受けたのでしょう。そのためか、勇は佛像や写経の作成を行い、名僧たちを都に集めて供養していますが、豪奢な生活は止まなかったようです。

 次男であって江南を治めていた晋王の広(煬帝)については、早くから即位の野心を抱いており、乱脈であった長男の太子勇にとって代わるため、江南で仏教興隆に励み、皇帝・皇后に評価されるよう努めていたことは有名ですね。

 三男の泰王俊は、僧侶になりたいと願うほどの奉仏家であり、多くの僧侶と関係を持っていました。四男の蜀王秀、五男の漢王諒も、それぞれ地方で仏教興隆に励み、名僧たちと交渉を持っており、秀は当時を代表する学僧、曇遷に加え、慈蔵も門師としています。

 大事なことは、門師・家僧については、「軍事、学問、教育などあらゆる面で顧問の役割を果たし」たことであり、また、そうした名僧を門師とするのは、対外的には「自己の権威を誇示・宣伝する」行為であったことです(369頁)。

 藤井氏のこの論文は、上記のような状況を検討したものです。つまり、仏教興隆と名僧の招集は、地方統治のため、特に戦争によって得た支配地の統治に必要であったうえ、皇帝即位をめざす皇子たちにとっては、重要な宣伝活動でもあり、またそうした中で、泰王俊のように、仏教に打ち込み、出家したいと願いでるほどの信者も出てきた、ということです。こうした状況は、隋を手本とした倭国の場合も、ある程度は同じであったでしょう。

仏法興隆と爵位制定と盂蘭盆会はセット: 中林隆之『日本古代国家の仏教編成』

2011年03月14日 | 論文・研究書紹介
 このところ、史学系の論文の紹介が少なかったので、以下の本をあげておきます。

中林隆之『日本古代国家の仏教編成』第一章「古代国家の形成と仏教導入」
(塙書房、2007年)

 この第一章の特長は、盂蘭盆会を重視していることでしょう。「皇太子及び大臣に詔して、三宝を興隆せしむ。是の時、諸の臣・連等、各の君親の恩の為に、競いて仏舎を造る。即ち是を寺と謂う」という推古2年の記事については、一般的すぎるので信頼できないとする批判がありますが、中林氏は抽象的ではないとします。

 氏が着目するのは「君親の恩」という部分です。推古十四年(606)四月壬辰(8日)条に、「銅と繍の丈六の仏像、並びに造りおわる。……即日、設斎す。是に会集せる人衆、あげて数うべからず。是年より初めて寺ごとに、四月八日・七月十五日に設斎す」とありますが、四月八日は仏誕会、七月十五日は盂蘭盆会の日です。盂蘭盆会となれば、近親や代々の親の追善・報恩を行うことになります。

 古代日本では、臣連などは先祖が天皇に奉仕したこととする伝統によって職分を確保する以上、その「君臣の恩」を確認する機会として、最もふさわしいのは盂蘭盆会です。すなわち、先祖供養がそのまま忠誠を示す儀礼と重なるのです。

 ですから、蘇我氏および蘇我氏と血縁関係がある王族が独占していた寺を、技術提供することによって(これも恩を与える一つ)他の氏族にも作らせて仏教に励ませるというのは、雄略朝頃以来の王権に対する従属関係を、「仏教的な報恩儀礼として表現した」ものだというのが、氏のとらえ方です。

 氏は、『上宮聖徳法王帝説』のうち、現代の研究では第四部と称される部分の記事に注目します。「少治田の天皇の御世、乙丑年(605=推古13年)五月、聖徳王、島大臣と共に謀りて仏法を建立し、更に三宝を興す。即ち五行に准じて爵位を定む。七月、十七余の法を立つ」という箇所です。

 『日本書紀』と年代が違っているため、別系統の資料ということになりますが、中林氏はここで仏法興隆と爵位の制定が一体となっていることを重視します。後に大化三年の冠位十三階で、冠・服を着用すべき時の一つとして「四月七月斎」があげられているのは、推古朝以来の伝統によるというのが氏の推測です。

 こうした中林氏の主張によれば、初期の仏教を氏族仏教とする田村円澄氏の図式が誤っていることは明らかですね。

 なお、『法王帝説』については、沖森卓也・矢嶋泉・佐藤信『上宮聖徳法王帝説―注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)が出ており、有益ですが、仏教関係の用語の注釈については間違いや不適切な説明が多く、家永三郎の研究より遙かに後退しているのは残念です。

論理分析プログラムによる法隆寺再建非再建論争の検討: 柴田裕介・山口和紀氏の論文

2011年03月10日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 三経義疏の著者問題については、私は漢字文献情報処理研究会の仲間たちと開発した NGSM という複数文献比較分析プログラムを用いて、この問題に取り組んでいる最中です。

 ところが、そうしたタイプのプログラムではなく、論争における議論の展開の仕方を分析表示するプログラムを開発し、法隆寺再建非再建論争に適用した理系の論文が刊行されました。

柴田裕介・山口和紀「議論分析フレームワークSPURIの歴史学への適用
--法隆寺再建非再建論争を題材として--
(『情報処理学会研究報告. 人文科学とコンピュータ研究会報告』2010-CH-88(4), 2010年10月)

です。柴田氏はリコー所属、山口氏は東大・広域システム科学系の教授です。

 SPURIというのは、論争における個々の論点を

 強化(S):論の根拠を補強する
 並立(P):論と同じ結論を導く別の根拠を提示する
 無効化(U):論の根拠を否定する
 対立(R):論とは逆の結論を導く根拠を提示する
 反復(I):論の全部または一部を繰り返す

の5種に分類し、論争参加者間の論点の関係をチャート表示するプログラムです。今回の論文では、明治39年までの論争、すなわち、黒川真頼・小杉榲邨という古い学者たちの再建論と、塚田武馬の非再建論、そして平子鐸嶺・関野貞という新進学者の非再建説、それに対する喜田貞吉の批判、平子・関野による喜田説への反論、という8本の論文をとりあげ、論争の流れを SPURI によって分析し、グラフ化しています。

 それによると、「喜田の発言は相手への攻撃に終始している」とか、「喜田はあらゆる論点に反論を試みている」とか、「『法隆寺伽藍縁起流記資財帳』の和銅再建記事は検討不十分な論点である」といったことが一目瞭然で分かる由。法隆寺問題には素人であった喜田の初期論文におけるそうした傾向はよく知られていますが、最後の件は気がつきませんでしたね。これは、当時の論争は「再建」の有無ではなく、「被災」の有無を中心にして論じられたことによるとのことです。
 
 この研究は、再建非再建それ自体を決定しようとするものではなく、あくまでも論争史における論理の展開を分析したものですが、SPURIを用いれば、「検討不十分な論点」や参加者たちの「反論のやり方」を知ることができるため、「議論を反省したり、議論の内容を活用することが容易になると考えられる」というのが、著者たちの主張です。

 なお、明治39年段階と言えば、非再建派である平子・関野たちの主張の方が有力だったように思われるのですが、SPURIによれば、この論争の論理が行き着く結論は、次のようになったとか。いわく、

「法隆寺西院伽藍は天智天皇9年(670)以降に再建されたものである」

斑鳩宮選定は風水説に基づくか: 岩本次郎「『いかるが』と古代史」

2011年03月06日 | 論文・研究書紹介
 斑鳩や播磨国鵤庄における方形地割の存在の解明など、聖徳太子関連の地の地理的研究を先導してきた岩本次郎氏が、帝塚山大学を定年で退職するにあたって行なった最終講義が、

岩本次郎「『いかるが』と古代史--「いかるが」に関する基礎的省察--」
(『奈良学研究』第9号、2007年1月)

です。

 最終講義という性格上、これまでの研究のまとめが中心ですが、なぜ斑鳩の地が選ばれたかについて、交通の要衝という面以外に、重要な見方が示唆されています。それは、風水説です。斑鳩の地は、山が北にせまり、東は富雄川、西は竜田川に限られ、南に大和川が流れています。これは、風水説に適合した地であり、「もう少し究明しないといけない」と氏は説いています。

 確かに、山あいに位置する飛鳥や、大和三山に囲まれた地を中心としているものの北に山並みが連ならない藤原京とは大きな違いですが、次の都を意識しての選択だとすると、どうして以後、平安京まで風水説に基づく地が選ばれなかったのか、という問題も出てきますね。

 推古天皇から賜った水田百町が元になっているとされる播磨国揖保郡鵤庄については、嘉暦四年(1329)・至徳三年(1368)の絵図では、361町を占めていることを示します。そして、奈良時代にはこの地は斑鳩とは呼ばれておらず、長暦三年(1039)の文書に「鵤荘」とあるのが史料上の初出であり、この鵤庄は、秀吉の播磨平定までは、法隆寺の領地・領民となっていたことに注意します。

 また、北野廃寺の9世紀の溝から「鵤室」と書かれた墨書土器が発見されていますが、広隆寺旧境内の東北に位置する北野廃寺は、聖徳太子から仏像を受けて秦河勝が造ったと伝えられる蜂岡寺にほかならず、その寺地が狭くなって移ったのが広隆寺だとするのが、岩本氏の見解です。

 このように、大和平群郡と、播磨国揖保郡と、山背国北野という三つの「いかるが」があり、いずれも「聖徳太子と縁がある」ことが重視されています。

 なお、岩本氏は、「いかるが」については、鳥の「いかる」の「か(棲みか)」とする説を提唱しつつも、「いかんが」と発音できる漢字で書かれた「評」木簡に注目し、「駿河(しゅんが)」が「するが」、「播磨(はんま)」が「はりま」となったように、「いかんが」が「いかるが」に変化した可能性をも示唆します。注では、「いかるが」は「伊干我」「伊看我」と表記される古代朝鮮系の語だと考える新川登亀男さんの説を「傾聴すべき説である」と評価しており、検討は後日に期すと述べています。

 結論としては、斑鳩については、上宮王家が地割をともなう都市計画を行って宮殿や寺院を造ったこと、播磨や山城に関連する荘園や施設があったことが確認されています。いろいろ分かってきた一方で、都を意図しての選択なのかどうか、「いかるが」の地名の由来など、かえって謎が増えている面もあるのが現状、というところでしょうか。

 関連する概説としては、清水昭博「斑鳩からみた飛鳥--飛鳥時代前半期の斑鳩--」(吉村武彦・山路直充・青木理人編『都城 古代日本のシンボリズム』、青木書店、2007年)という論文も出ており、最近の研究状況がまとめられています。
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時流に流される法隆寺・聖徳太子論: 井上章一『法隆寺への精神史』

2011年03月02日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先日紹介した戦時中の聖徳太子解釈に関するクラウタウ氏の論文松岡秀明氏の論文を読むと、客観的なはずの学術研究が、実際にはいかにその時代の社会状況に影響されているかを痛感させられますね。聖徳太子については、現在、珍説奇説を含め、実に様々な説が主張されていますが、それらも現代日本の社会状況を何らかの形で反映していることは、言うまでもありません。

 そこで、今回は反省のために、

井上章一『法隆寺への精神史』(弘文堂、1994年。2500円)

をとりあげておきます。かなり前の出版であって有名な本ですが、国際日本文化センター助教授(当時)である才人学者の井上氏が、サービス精神を発揮しつつ書いていますので、楽しめますし、教訓にもなります。この本を読むと、聖徳太子や法隆寺に関するトンデモ説は、明治時代からいろいろあったことがよく分かります……。

 さて、京都大学工学部建築学科出身である井上氏は、丸柱のなかほどを少しふくらませるギリシャ古典建築の様式、エンタシスが法隆寺の柱にも見られることから検討を始めます。

 法隆寺の柱のエンタシスを指摘した最初の人物とされるのは、日本建築史の開拓者として知られる東京帝大造家学科の伊東忠太です。しかし、井上氏は、伊東の先輩であって建築史から鉄骨の構造計算の世界に転じた石井敬吉の指摘の方が先であり、エンタシスの強調は、古代ギリシャ文化を模範とする西欧の風潮が日本に持ち込まれたためであることを明らかにします。

 現在ではシルクロードの終着点として評価される正倉院の御物にしても、明治時代に初めて学術的な調査を行った際、江戸時代生まれの国学系の学者たちは、「本邦固有」の美術品とみなしてその素晴らしさに感激した由。つまり、上代日本の技術の高さを強調し、我が皇国で作成されたからこそ価値があるとする立場です。正倉院にはギリシャ、ベルシャ、インド、中央アジア、中国などの工芸が集約されていることに驚き、正倉院はアジアの工芸品の博物館だとしたのは、フェノロサその他の欧米学者たちだったのです。

 それらの欧米学者たちは、当然ながら西洋文化中心主義ですので、アレクサンダー大王がインドまで遠征してギリシャ文明をアジアに広めたというストーリーを好んでおり、そうした図式を日本にまで当てはめたのです。井上氏は、伊東忠太の『法隆寺建築論』がアレクサンダー大王の遠征の話から始まっていることに注意しています。

 法隆寺を古代ギリシャ芸術の影響を伝えるもの、古代ギリシャ芸術に匹敵するものという点を強調する人は、和辻哲郎や会津八一を初めとして、以後も絶えません。ただし、ギリシャの影響が伝わった確実な証拠はこれまで報告されていませんし、経由地とされるインドや中国や朝鮮の影響をどの程度認めるかは、時代や人によってかなり違っています。

 こうした傾向に加え、欧米でのアジア人差別から逃れるためもあって、日本人は他のアジアの諸民族とは人種が違うのだ、日本人は西方文明を伝えているのだといった主張もなされるようになります。日本人匈奴起源説を唱えていた田口卯吉が、明治37年頃から日本人はアーリア人であって黄色人種ではないと論じだしたのもその一例です。田口は史学会でもこの説を発表しており、『史学雑誌』の巻頭に載せられたその講演は、「少々の誤謬に対しては手厳しき攻撃を加へられぬ様に願ひます(拍手大喝采)」という言葉で締めくくられていた由。近代史学の確立者の一人がこうした雑な学会講演をし、「拍手大喝采」されたのです。

 その田口の友人である久米邦武が明治38年に刊行した『上宮太子実録』で述べた説、すなわち、厩戸皇子の誕生説話はキリスト誕生に関する聖書の記述の影響を受けた可能性があるとする説も、そうした流れのうちにあったというのが、井上氏の推測です。

 久米については、論文で「神道は祭天の古俗」と書き、それを田口が宣伝したために攻撃されて東京帝大を辞職するに至ったことで有名ですが、井上氏は、岩倉使節団の一員として欧米を視察した久米は、カトリックの宣教師の口述に基づく『耶蘇基督真蹟考』という本まで刊行していることに注意し、「祭天の古俗」論は「和漢でいふ神と天とを西洋のゴッドと同一にせんと欲し」たための議論であって失敗であったと、久米自身が後に回顧していることを指摘します。

 つまり、欧米のキリスト教国の隆盛ぶりを見聞した経験を持ち、不平等条約の撤廃を強く願っていた久米は、近代的な学問方法による文献批判を進める一方、欧米から野蛮とみなされていた日本の宗教も、実際にはキリスト教と似た面があり、聖徳太子説話も聖書の話と共通するものであって、日本には早くからキリスト教が入っていたのだ、日本は欧米と同じ文明国なのだと主張したかったのです。

 法隆寺の再建・非再建や伽藍配置に関する議論も、時代の動向と無縁でありません。門や塔や金堂が縦一列に並び、左右対照な四天王寺の伽藍配置が中国由来のものであるのに対し、法隆寺は左に塔、右に金堂が並ぶことによってシンメトリーを崩しています。このため、昭和になってナショナリズムが高まり、中国や朝鮮の影響を認めたくなくなってくると、足立康のように、法隆寺の伽藍配置は中国式に基づく「百済様(くだらよう)」ではなく、聖徳太子が日本風な美意識に基づいてご考案された「太子様(たいしよう)」なのだ、といった主張をする建築史家も出てきました。

 そうなると当然、法隆寺は再建されたものではない、という結論になります。むろん、井上氏も指摘しているように、これにはすぐ反対説も出されましたし、現在の伽藍配置は太子の構想によるとするのは、四天王寺式である若草伽藍の発掘調査によって消えてしまう無理な議論です。

 井上氏の本では、他にもナショナリズムや西洋コンプレックスや聖徳太子信仰その他に流されて強引な主張をした事例がいろいろ紹介されています。現代では、法隆寺非再建論を唱える田中英道氏などがこうした典型ですね。古代ギリシャ美術と対比したがる点、キリスト教の影響を見たがる点など、見事に戦前のパターン通りです。また、聖徳太子は日本に渡ってきた遊牧民族の首領だったといった類の珍説を説く人たちは、上記のような日本人西方渡来説の変形ですね。戦前から盛んになってきた騎馬民族への憧れも背景にあるでしょうし。

 一方、戦時中のナショナリズムやそれを復興させようとする動きに反対する人たちは、国家主義的な法隆寺論や聖徳太子礼讃を否定するような法隆寺観や聖徳太子観を提示しようとしがちです。戦後の古代日本史学はそうした傾向がかなり有力でしたが、聖徳太子など架空の存在にすぎず、実在したのは凡庸な厩戸王にすぎないとする聖徳太子虚構説も、そのような例の一つでしょう。

 いずれにせよ、法隆寺や聖徳太子を論ずる人は、井上氏のこの本を読み、自分はどのような社会状況を背景とし、どのような法隆寺・聖徳太子であったら嬉しいと心の奥で願ってその証拠集めをしているのか、時々我が身を省みた方がよさそうです。

 私ですか? 私は、あくまでも学問的・客観的に研究しているため、時流に流されるなんてことは全くありません!(と言う人ほど危ないとか……)