前回は推古紀を初めとする『日本書紀』の記事を見直す試みの紹介でしたので、今回はその推古朝時の倭国の外交を伝える『隋書』に関する論文をとりあげます。
榎本淳一『唐王朝と古代日本』所載の「北京大学図書館李氏旧蔵『唐会要』の倭国・日本国条について」論文で、『唐会要』倭国・日本国条が版本によっていかに異なっていて誤字も多いかを検討し、通行本は欠落もあるうえ『旧唐書』その他によって補修した形跡があって信頼しがたいことを明らかにした榎本氏が、『隋書』の倭国関連記事を検討したのが、
榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」
(『アリーナ 2008』、2008年3月)
です。
氏は、唐の貞観10年(636)に完成した『隋書』は史書としての評価が高いことを認めつつも、「まず、『隋書』はあくまでも唐朝の立場で書かれた史書である」ことに注意すべきだという所から始めます。煬帝の功績を認めず、ひたすら悪逆非道の君主として描いているのがその典型です。
次に氏が注意するのは、隋末の混乱で宮廷の史料が散佚し、特に「大業年間については編纂史料に不足・不備が生じたらしく、『隋書』の大業年間の記事には遺漏や過誤が存すると思われる」ことです。
開皇年間(581-600)については、皇帝の言動の記録であって正史の基本史料となる「起居注」のうち、開皇年間の記録である『開皇起居注』が唐代には存在していたことが知られていますが、唐代に隋時の書物一覧を編纂した『隋書』「経籍志」に録されていないことなどから見て、大業年間(605-618)における皇帝の言動を記した『大業起居注』は、唐初には既に失われていたようで、利用できなかったものと推測します。
隋から唐初にかけて活躍した杜宝の『大業雑記』序が、「貞観修史(=貞観3年に史館を創設して始まった各種の修史事業)は、未だ実録を尽くさ」ないため、この書物を著して欠漏を補ったと述べており、また、『資治通鑑』では大業年間の考異において様々な文献が引用され、『隋書』と対校されているのは、「『隋書』の大業年間の記事が万全かつ信頼できるものと思われていなかったことを示している」というのが、氏の判断です。
『北史』倭国伝、『太平御覧』倭条、『文献通考』倭条については、『隋書』を直接・間接になぞったものであるため、字句の校訂には利用できるものの、オリジナルな史料としての価値はないとします。
次に『太平寰宇記』倭国条については、基本的には『通典』倭条の引き写しであり、その『通典』倭条は、末尾の風俗を除いては『隋書』倭国伝を取捨選択したものと見ます。要約に際して、「日出処天子」国書で有名な大業年間の遣隋使記事を、誤って開皇二十年に繋げ、この年に提出されたように記してしまったものと推測するのです。そして、『通典』のうち、衣服などに関する倭国の風俗の記事は、『旧唐書』倭国条の編纂材料となった「国史」や「実録」などに拠ったものと見ます。
「国史」や「実録」とは、池田温『東アジアの文化交流』「中国の史書と『続日本紀』」や福井重雅「『旧唐書』--その祖本の研究序説--」(早稲田大学文学部東洋史研究室編『中国正史の基礎的研究』)などで説明されているように、天子も自由に見れなかった起居注に替わり、天子に奏上されて閲覧に供されるようになったのが皇帝ごとの「実録」であり、それらの「実録」に基づいて紀伝体で編纂されたのが「国史」であって、唐代には『国史』とか『唐書』と呼ばれる書物が数種類作られたものの、現在はすべて失われています。隋代には実録の編纂はされていないと榎本氏は説きます。
『隋書』倭国伝では、「日出処天子」国書は大業3年(607)とされていますが、同じ『隋書』の煬帝紀と『冊府元亀』外臣・朝貢三では、大業4年に倭国が使者を派遣したと記しており、『資治通鑑』はそれに基づいて「日出処天子」国書の記事を大業4年のところに置いたと見られるというのが、榎本氏の推測です。なお、『冊府元亀』は多くの実録類を使用していることが知られています。
以上のことから分かるように、倭国遣使については、二系統の異なる史料が『隋書』煬帝紀と倭国伝に見えていて年代の相違が生じているのは、やはり隋朝の宮廷史料喪失が原因だろうとします。
その『隋書』倭国伝は、
A 倭国の位置と前代までの交渉記事
B 開皇20年の遣隋使と文帝の交渉記事
C 倭国の国制・社会・風俗・物産記事
D 大業3年の遣隋使と煬帝の交渉記事
E 斐世清の倭国派遣記事
という五類の記事で出来ていますが、それぞれ性格が異なっており、依拠した史料が異なっていたと見られるとして、氏は次のように説きます。
Aは、『後漢書』以下の列代史中の倭人や倭国の記事を要約したもの。
Bは、『開皇起居注』に依拠したと見て良い。
Cは、倭国使から聞き取った内容に基づいているだろうが、開皇時と大業時の情報が混在している可能性があり、開皇年間の情報は隋代の「国史」である未完の王劭『隋書』に拠ったものだろう。大業年間の情報は、王劭『隋書』が大業のその年代まで書いてあれば、『大業起居注』に基づいていたであろう王劭『隋書』を利用し、出来ていなければ鴻臚寺の記録などを利用しただろう。
Dも、『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。
Eは、斐世清の報告に基づくだろうが、王劭『隋書』に既に組み込まれていてそれを利用したか、保存されていた報告書などによったかは不明である。斐世清の生存年代からすれば、貞観年間の修史の段階で直接取材した可能性もある。王劭『隋書』に倭国伝が立てられており、大業5年くらいまでの記録が残っていた場合は、現存の『隋書』はそれをほとんど転載した可能性もあり、その場合はDの材料は『大業起居注』が有力となる。
以上のことから、A・B・Dは「比較的客観性が高い」が、C・Eの部分は報告する倭国側も聞き取る隋の側も当事者の「主観・個性が反映しやすい」ものであり、とりわけEについては「慎重な史料批判が必要と思われる」というのが、氏の結論です。
本紀と列伝で外国交渉関連の年代が違うことは、他の正史でも見られることですので、一概には言えませんが、隋末の戦乱で宮廷史料の欠落が生じたのは事実でしょう。
また、氏が「客観性が高い」というのは、倭国の状況を客観的に伝えているというよりは、自国の立場を強調する倭国の言動を、中国側がそれぞれ時代の王朝の立場で記録・編集したものが、以後、あまり改変されないで伝えられている、といった表現にした方が適切かもしれませんね。
なお、通行の『隋書』や『北史』では「倭国」ではなく、「俀国」となっていることは有名ですが、武英殿版『北史』では「俀」と「倭」を混用しており『隋書』や『北史』が「俀王」「俀国」と記している箇所を、『通典』では「倭王」「倭国」に作るなど、複数文献で同様の例が見られることが知られています。
倭国関連以外でも、文公の子である「俀(後の宣公)」について『史記』が記した箇所について、六朝期の注釈である『史記集解』は「俀」を「倭」に作るテキストがあることに触れているほか、唐代の『史記索隠』では、「倭」は「俀」とも書き、音は同じと明記しているため、この両字はそれらの時期には同字として通用していたと見てよいことは、坂元義種「『隋書』倭国伝を徹底して検証する」(『歴史読本』1996年12月号)他が指摘している通りです。
ついでですので、次回は『新唐書』日本伝に関する論文を紹介しましょう。
【付記:2022年5月11日】
この記事を書いた頃は、Unicode表示ができない環境の人もいたため、「俀」の字については {イ妥} という合成表記で示していましたが、「俀」に改めました。
榎本淳一『唐王朝と古代日本』所載の「北京大学図書館李氏旧蔵『唐会要』の倭国・日本国条について」論文で、『唐会要』倭国・日本国条が版本によっていかに異なっていて誤字も多いかを検討し、通行本は欠落もあるうえ『旧唐書』その他によって補修した形跡があって信頼しがたいことを明らかにした榎本氏が、『隋書』の倭国関連記事を検討したのが、
榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」
(『アリーナ 2008』、2008年3月)
です。
氏は、唐の貞観10年(636)に完成した『隋書』は史書としての評価が高いことを認めつつも、「まず、『隋書』はあくまでも唐朝の立場で書かれた史書である」ことに注意すべきだという所から始めます。煬帝の功績を認めず、ひたすら悪逆非道の君主として描いているのがその典型です。
次に氏が注意するのは、隋末の混乱で宮廷の史料が散佚し、特に「大業年間については編纂史料に不足・不備が生じたらしく、『隋書』の大業年間の記事には遺漏や過誤が存すると思われる」ことです。
開皇年間(581-600)については、皇帝の言動の記録であって正史の基本史料となる「起居注」のうち、開皇年間の記録である『開皇起居注』が唐代には存在していたことが知られていますが、唐代に隋時の書物一覧を編纂した『隋書』「経籍志」に録されていないことなどから見て、大業年間(605-618)における皇帝の言動を記した『大業起居注』は、唐初には既に失われていたようで、利用できなかったものと推測します。
隋から唐初にかけて活躍した杜宝の『大業雑記』序が、「貞観修史(=貞観3年に史館を創設して始まった各種の修史事業)は、未だ実録を尽くさ」ないため、この書物を著して欠漏を補ったと述べており、また、『資治通鑑』では大業年間の考異において様々な文献が引用され、『隋書』と対校されているのは、「『隋書』の大業年間の記事が万全かつ信頼できるものと思われていなかったことを示している」というのが、氏の判断です。
『北史』倭国伝、『太平御覧』倭条、『文献通考』倭条については、『隋書』を直接・間接になぞったものであるため、字句の校訂には利用できるものの、オリジナルな史料としての価値はないとします。
次に『太平寰宇記』倭国条については、基本的には『通典』倭条の引き写しであり、その『通典』倭条は、末尾の風俗を除いては『隋書』倭国伝を取捨選択したものと見ます。要約に際して、「日出処天子」国書で有名な大業年間の遣隋使記事を、誤って開皇二十年に繋げ、この年に提出されたように記してしまったものと推測するのです。そして、『通典』のうち、衣服などに関する倭国の風俗の記事は、『旧唐書』倭国条の編纂材料となった「国史」や「実録」などに拠ったものと見ます。
「国史」や「実録」とは、池田温『東アジアの文化交流』「中国の史書と『続日本紀』」や福井重雅「『旧唐書』--その祖本の研究序説--」(早稲田大学文学部東洋史研究室編『中国正史の基礎的研究』)などで説明されているように、天子も自由に見れなかった起居注に替わり、天子に奏上されて閲覧に供されるようになったのが皇帝ごとの「実録」であり、それらの「実録」に基づいて紀伝体で編纂されたのが「国史」であって、唐代には『国史』とか『唐書』と呼ばれる書物が数種類作られたものの、現在はすべて失われています。隋代には実録の編纂はされていないと榎本氏は説きます。
『隋書』倭国伝では、「日出処天子」国書は大業3年(607)とされていますが、同じ『隋書』の煬帝紀と『冊府元亀』外臣・朝貢三では、大業4年に倭国が使者を派遣したと記しており、『資治通鑑』はそれに基づいて「日出処天子」国書の記事を大業4年のところに置いたと見られるというのが、榎本氏の推測です。なお、『冊府元亀』は多くの実録類を使用していることが知られています。
以上のことから分かるように、倭国遣使については、二系統の異なる史料が『隋書』煬帝紀と倭国伝に見えていて年代の相違が生じているのは、やはり隋朝の宮廷史料喪失が原因だろうとします。
その『隋書』倭国伝は、
A 倭国の位置と前代までの交渉記事
B 開皇20年の遣隋使と文帝の交渉記事
C 倭国の国制・社会・風俗・物産記事
D 大業3年の遣隋使と煬帝の交渉記事
E 斐世清の倭国派遣記事
という五類の記事で出来ていますが、それぞれ性格が異なっており、依拠した史料が異なっていたと見られるとして、氏は次のように説きます。
Aは、『後漢書』以下の列代史中の倭人や倭国の記事を要約したもの。
Bは、『開皇起居注』に依拠したと見て良い。
Cは、倭国使から聞き取った内容に基づいているだろうが、開皇時と大業時の情報が混在している可能性があり、開皇年間の情報は隋代の「国史」である未完の王劭『隋書』に拠ったものだろう。大業年間の情報は、王劭『隋書』が大業のその年代まで書いてあれば、『大業起居注』に基づいていたであろう王劭『隋書』を利用し、出来ていなければ鴻臚寺の記録などを利用しただろう。
Dも、『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。
Eは、斐世清の報告に基づくだろうが、王劭『隋書』に既に組み込まれていてそれを利用したか、保存されていた報告書などによったかは不明である。斐世清の生存年代からすれば、貞観年間の修史の段階で直接取材した可能性もある。王劭『隋書』に倭国伝が立てられており、大業5年くらいまでの記録が残っていた場合は、現存の『隋書』はそれをほとんど転載した可能性もあり、その場合はDの材料は『大業起居注』が有力となる。
以上のことから、A・B・Dは「比較的客観性が高い」が、C・Eの部分は報告する倭国側も聞き取る隋の側も当事者の「主観・個性が反映しやすい」ものであり、とりわけEについては「慎重な史料批判が必要と思われる」というのが、氏の結論です。
本紀と列伝で外国交渉関連の年代が違うことは、他の正史でも見られることですので、一概には言えませんが、隋末の戦乱で宮廷史料の欠落が生じたのは事実でしょう。
また、氏が「客観性が高い」というのは、倭国の状況を客観的に伝えているというよりは、自国の立場を強調する倭国の言動を、中国側がそれぞれ時代の王朝の立場で記録・編集したものが、以後、あまり改変されないで伝えられている、といった表現にした方が適切かもしれませんね。
なお、通行の『隋書』や『北史』では「倭国」ではなく、「俀国」となっていることは有名ですが、武英殿版『北史』では「俀」と「倭」を混用しており『隋書』や『北史』が「俀王」「俀国」と記している箇所を、『通典』では「倭王」「倭国」に作るなど、複数文献で同様の例が見られることが知られています。
倭国関連以外でも、文公の子である「俀(後の宣公)」について『史記』が記した箇所について、六朝期の注釈である『史記集解』は「俀」を「倭」に作るテキストがあることに触れているほか、唐代の『史記索隠』では、「倭」は「俀」とも書き、音は同じと明記しているため、この両字はそれらの時期には同字として通用していたと見てよいことは、坂元義種「『隋書』倭国伝を徹底して検証する」(『歴史読本』1996年12月号)他が指摘している通りです。
ついでですので、次回は『新唐書』日本伝に関する論文を紹介しましょう。
【付記:2022年5月11日】
この記事を書いた頃は、Unicode表示ができない環境の人もいたため、「俀」の字については {イ妥} という合成表記で示していましたが、「俀」に改めました。