聖徳太子研究の最前線

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1400年遠忌の各種シンポジウム中で最も充実していた「近代の聖徳太子」シンポジウム

2022年03月06日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 少し前に紹介しておいた「近代の聖徳太子」シンポジウム(こちら)が開催されました。司会は、近代における親鸞像の研究で知られ、前の記事で触れた石井公成監修(と総論)、近藤俊太郎・名和達宣編の論文集、『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)にも寄稿してくれていた大澤絢子さんですので、おなじみのメンバーばかりです。

 ちなみにこの本は、550頁もあって7000円を超える価格でありながら、発売してひと月たたないうちに、瞬間風速ながら、AMAZONの日本思想分野で2回、売り上げ1位になり、1年ほどで再版が出ました。

 さて、聖徳太子1400年遠忌のため、この1年、各地で聖徳太子シンポジウムがいくつも開催されてきました。しかし、ポスターや発表資料などを見ると、参加者には古代史や考古学関係の研究者ではあるものの、太子に関する研究をしたことがなさそうな人もかなりいたうえ、新しい研究成果を示してくれた人は少数でしたね。発表者全員がこれまで知られていない多くの情報と有益な知見を示したという点では、私の知る限りでは、このシンポジウムが最も充実していたように思われます。

 国会図書館の近代ライブラリ(現在は、デジタルライブラリ。こちら)が充実し、明治・大正の書物がかなりネット上で読めるようになったこともあって、近代日本仏教の研究については、この10数年で、学問的訓練を受けた海外の研究者の活躍が目立ってきており、そうした研究者たちがリードしている分野も増えています。

 近代における聖徳太子の研究が、そうした分野の一つになろうとは、私がこの面を調べ始めた頃には想像もしていませんでした。発表者全員が私の諸論文を引いてくれていましたが、今後も参照してもらえるように、この太子ブログでは、最先端の情報を伝えるようにしていきます。

 古文・漢文の読解力がきわだっているデフランスさんの「太子の使者:欧文の文献における聖徳太子」は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語で書かれた太子関連の文献を検討したものです。

 まず明治期の欧米における太子への関心と研究は、日本への仏教伝来と日本美術史の線に沿っていたとします。そして意外なことに、藤島了穏を初めとする日本人によって欧文で書かれたものもかなりあることに注意します。

 次の段階では、日本での研究成果を反映し、太子の政治業績・外交政策なども注意されるようになったほか、近代日本における太子顕彰運動についても海外で紹介されるようになった由。

 太子顕彰の立役者である黒板勝美や姉崎正治などによって欧文での紹介もなされましたが、コレージュ・ド・フランスでフランス語講演をしたり英語での本や論文を発表するなどして盛んに活動していた姉崎と違い、黒板は反英感情が強かったせいか、英語論文は「憲法十七条」について論じた論文1本に止まるそうです。

 それらを集大成したのがプロシャ福音教会の宣教師としてドイツ領の青島に渡った後、日本でドイツ語やギリシャ語を教えたドイツ人のヘルマン・ボーネル(1884-1963)です。ボーネルは関連史料を独訳したのち、1940年に1000頁を越える Shôtoku Taishi というドイツ語の本を出します。太子を神格化した伝記の代表である『聖徳太子伝暦』を重視して太子信仰のあり方を検討しているのが特徴である由。

 そして、戦後になると、イタリアの日本研究者、アドルフォ・タンブレロが従来の太子研究における史料批判の不足を指摘したことが示すように、伝説を見直す研究がなされるようになり、視覚的な文化としての面からの関心に基づく研究も進められたことを紹介します。

 美術史研究と実像を追求する研究の後、2000年代になると実像追求を放棄し、それぞれの時代の「宗教的想像力」による太子像を尊重してその解明に努めるようになったと論じます。

 興味深いのは、聖徳太子を専門として博士論文を書く研究者たちが登場するようになったことであり、日本学科ではなく、宗教学科や美術学科に属する研究者が多い由。欧米の数多い著書や論文があげられており、驚かされました。

 ブレニナさんの「近代の日蓮仏教における聖徳太子像の種々相」では、日蓮が太子を『法華経』を伝持した先駆者としつつ、その実義は伝えなかったとし、『法華経』教学は最澄を最初としたことで話を始めます。

 1921年は、太子1300年遠忌、最澄1100年遠忌、日蓮降誕700年のトリプル記念年であったため、この前後は太子や太子と宗祖に関する様々な講演がなされたものの、戦後になると、太子と日蓮の関係はあまり注目されなくなるとします。そうだったか。

 なお、太子の墓とされる叡福寺はかつては真言宗の寺であって、戦後は単立の太子宗となりましたが、この太子御廟に日蓮が参詣し、太子が示現したとする伝説が近世に生まれるものの、その聖跡を記念する塔や石碑は近代になってから整備されたと指摘します。

 日蓮関連の聖跡は、日蓮が生まれた千葉を初めとする関東に多いが、この叡福寺の聖跡によって関西に日蓮信者が参詣できる聖地が誕生したと説きます。この場合、太子は日蓮の偉大さを示すための引き立て役のような形だが、こうした顕彰は、日蓮信者にとっても叡福寺にとっても望ましいものだったとするのです。

 そして、近代になって日蓮主義を広めて国体論を盛んにした田中智学は、大阪に布教所として立正閣を建設した際、勾欄に法隆寺の五重塔の様式を用いたのであって、これが後に富士山を望む三保松原に移築されて最勝閣となります。智学は太子を「武人にして強固なる外交家、巧妙なる美術工芸家」として評価し、次第に「天照大神、神武天皇、聖徳太子、日蓮、明治天皇」を国聖と説くようになっていった由。

 ただ、三経義疏については、日蓮信者であった姉崎正治の解釈によっている点が多い由。その姉崎は、日蓮とともに聖徳太子に対する尊崇が篤く、後にはそれは太子信仰とも言うべきものになったとします。

 その他、多くの指摘がなされていますが、1300年遠忌は、イベント、メディアの活用により、近代の太子像を形成するうえで大きな役割を果たしたとしています。知らないことばかりでした。

 最後のクラウタウさんの「<憲法作者>としての聖徳太子の近代」では、近代以後のすさまじく多数の「憲法十七条」関連の資料が提示され、圧巻でした。

 まず、戦後の太子のイメージを漫画・ドラマ・教科書などによって概観し、「憲法十七条」以来、日本は民主主義だったと国会で発言した稻田朋美議員の迷演説とそれに対する反応、右翼思想家や仏教学者の「憲法十七条」解釈なども紹介します。

 そして、明治憲法によって「憲法十七条」が評価しなおされたとする通念を検討し、実際には、1889年以降に刊行された数多い「憲法十七条」解釈テキストでは、太子への言及は稀であり、むしろ明治憲法との違いを指摘する例が多く、「憲法十七条」を中心として太子をとらえようとする傾向はあまり展開していないと説きます。意外ですね。

 そして、近代法学形成の立役者の一人であった有賀長雄が、「憲法十七条」は法律とは言えないとしたのを初め、この種の言説を多数紹介し、仏教者がこれに反発して新しい太子像を築いていったとします。つまり、古代にあっては法律と道徳は区別できないとする主張など「であって、また中には「憲法十七条」を支えているのはあくまでも宗教だと説いた近角常観もいた由。

 法律としてはともかく道徳面は今でも役立つといった議論もあり、「憲法十七条」は大正時代になって、新たな思想動向の中で「訓戒」として再発見されたとします。しかも、明治憲法より、「万機、公論に決すべし」で始まる「五箇条の御誓文」や教育勅語や戊申詔書との関係が強調されたとし道徳の基盤として評価され、私の論文にも触れつつ、明治天皇の死をきっかけとしてその傾向が強まったと結論づけます。
 
 以上は、3人の発表の概要の一部にとどまります。これまで知られていなかった事実の報告を多く含み、太子に関する通説について考え直させる内容であって、きわめて有益でした。ただ、長くなりましたので、私のコメントと発表者の応答については、次回の記事で紹介します。
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